2021. 12.12 小金井西ノ台教会 待降節第3主日
ヨハネによる福音書講解説教28
説教 「すべての人を照らす光」
聖書 マラキ書3章1~5節
ヨハネによる福音書1章6~13節
聖書
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
説教
はじめに. 心のうちに、御子をお迎えする祈りと信仰の決断を!
本日の聖書のみことばは、大きく二つに分けて、読んでまいります。一つは、1章6節~9節までの「洗礼者ヨハネ」について紹介する記事です。もう一つは、神の「言」(ことば、ロゴス)であるイエス・キリストを信じて受け入れることの出来ない人々と信じて受け入れた人々の「信仰」についての言及です。ヨハネによる福音書の決定的な特徴は、主イエスにおける「自己啓示」を証言しながら、同時にまた御子の自己啓示と並行して、それを聞いた人々が信じて受け入れるかどうか、という「信仰」の決断を常に問題にする点にあります。勿論、聖書はすべての箇所で例外なく「信仰」について語っていますので、信仰を問題しているゆえにヨハネ福音書は特別である、と言えないのですが、ヨハネの特徴は、みことばを聴く人々に信仰的決断を迫りつつ、信仰の決断において終末時の「最後の審判」が現在にまで引き寄せられ、今まさに決断した信仰により、光と闇、命と死、赦しと裁きという未来の最後の審判が、未来への時間的猶予を与えられず、否応なく、言わば神の最終的審判となって働いてしまうのです。ヨハネの福音告知の特色は、まさに主イエスにおいて「神の自己啓示」告知がなされ同時に聴く人々に「信仰を迫る」福音告知にあると言えます。「福音の語り方」というよりも、どちらかと言えば、「信仰を迫る」福音の語り方と表現した方が相応しいかも知れません。主のみことばが、私たちの信仰的決断の有無を迫り、信仰の有無が最後の審判を齎すのです。なぜなら、どんな大きな神の恵みや愛であっても、それを信じて受け入れる限りにおいて、福音のみことばはその人のうちに深く働き、神の真実な愛と御心は力強く発揮され、人格の中枢に宿り根源から信じる者を造り変えてくれるからです。反対に、信じて受け入れることが出来なければ、神の真実な力がどれほど力強く現存し働いているとしても、拒絶の中で神と人との関係性は排除されてしまい、その実りは成熟することなく、失われてしまうことになります。アドベント(待降節)の4本の蝋燭の火は、まさにキリストを迎えるための光であり、私たち人類が、魂のすべてを尽くして、わたしたち人格の中枢に、御子をお迎えすることが出来るように、と祈りを照らす光でもあります。この世界を救う真の救い主として、主イエス・キリストを迎え入れられるように、私たちは心と信仰における相応しい備えとあり方を整えてまいりたいと願っております。
1.「光」について証しする洗礼者ヨハネの派遣
さて、神は、神の御子を世にお遣わしになる前に、人々の信仰の「備え」ために、洗礼者ヨハネを世に遣わしました。福音書は1章6節以下で「1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と告げます。本日はこのテキストを、「待降節」という教会の礼拝というコンテキストの中で、読むことになります。ここで言われている「光」(to. fw/j)とは、旧約聖書のヘブライ語では「オール」、新約聖書のギリシャ語では「フォース」となりますが、「悲しみに対する慰めの喜び、敵意に対する和解の祝福、死に対する永遠の命」を意味する言葉として使われます。このヨハネによる福音書やパウロの手紙では「救い主であるキリスト」を直接指しています。洗礼者ヨハネはキリストの到来を告げ知らす「預言者」、またはメシア到来を証言する「証言者」として遣わされた、ということになります。洗礼者ヨハネは「メシア到来」を神の福音として告げ知らせるのですが、その結果、中心となる課題は、メシアの到来を告げられた「民の応答」にあります。メシア到来という神の福音に対して、神の民は正しくかつ相応しく応えるのでなければなりません。その相応しい民の応答として、自己中心から神中心に心の方向転換をして悔い改め、信仰に固く立って生活を御子に向けて整え直し、メシアを「わが主、わが神、わが王」として迎え入れる準備をすることにあります。「すべての人が彼によって信じるようになるためである」とありますように、洗礼者ヨハネの宣教は、民が自分たちの心を支配する「王」として、自分や自分の欲求を据えるのではなくて、ただ御子イエス・キリストお独りを「わが主、わが神、わが王とする」ということを意味します。
先週『リビングバイブル』をご紹介しましたが、それによれば、「光」は「言」であり、「言」と「キリスト」と言い換えて訳していました。洗礼者ヨハネは「キリスト」の到来を預言し告げ知らせますが、「1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と記されていました。洗礼者ヨハネは「光」そのものではなく、あくまでも永遠の命の光であるキリストの到来を告げ知らせる「預言者」であります。聖書は「キリスト」を「光」に喩えて語っていますが、「その光」は、9節で「世に来てすべての人を照らす」とあります。キリストは「光」として、しかも永遠の「命」の光として、世の人々の暗闇を照らすのです。「光」であり神の「言」である「キリスト」は、世の人々を死と滅びという宿命的な暗闇から新しい永遠の命の光のうちに招き入れ、死と滅びの裁きから愛と恵みの救いに導いて、人々の暗闇を明るく照らす救いの光です。人類は皆、アダム以来、神のみことばに従わずに、自我欲求を餌に悪魔の誘惑により捕らわれてしまい、神に背いて神から離反してしまい、神からの命と真理の光を失い、ついに死と滅びの闇夜の中に堕落してしまいました。その堕落の闇の中に捕らえられた人々とその世界を、神の永遠の命と真理の光のもとに、救い出してくださるお方、それが神の「言」であり「光」である「イエス・キリスト」であります。神は御子を世にお遣わしになり、御子は聖霊の働きにより処女マリアの胎内に宿り、堕落の罪により腐敗し切った人間本性を、その根元からご自身のお身体として自ら引き受けられ、人の子として世に生まれイエスと名付けられ、成長するに及んで、罪に支配された人間本性をいよいよ背負い担われ、十字架と復活に向かわれるのです。そしてつついに十字架における贖罪の死と犠牲によって、罪に腐敗した死の身体である人間本性を滅ぼして、復活という神の永遠の命をもって新しい人間性に新生させるのです。それゆえイエスはキリストであり救い主であり、永遠の命の光であり、救いの啓示そのものなのです。この命の光、真理の光であるキリストにおいて、私たちは暗闇から解放されて自由となることができるす。洗礼者ヨハネの使命は、この神のメシアとはヨセフとマリアの子イエスであるとする宣教を通して、世の人々がイエスを主として正しく相応しく信仰をもって迎え入れるように信仰の準備させることでした。洗礼者ヨハネの宣教に対する民の信仰的応答の形が「悔い改めのバプテスマ」を受けることでありました。マルコによる福音書は、この洗礼者ヨハネについて、1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。1:6 ハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」と記して、洗礼者ヨハネは、人々が罪を告白して悔い改めて、御心にかなって相応しくそして正しくイエス・キリストを主として迎え入れるべく宣べ伝えた、と証言されています。
2.「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
クリスマスを迎えるに至る前に、「待降節」をもって、4本の蝋燭の光を灯して、主イエスをお迎えするにふさわしい「備え」となすのは、なぜなのでしょうか。「待降節」が教会に設けられた意味について、繰り返し触れて来ましたが、その理由は明らかで、ヨハネによる福音書の記す通りです。「1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」と証言します。民は「言を認めない」「言を受け入れない」と断言するように、神の「言」を頑なに徹底して拒絶し排除する人間の心の実態を告げ、世の人々の心を神の背きに支配された暗闇であって光はない、と言い切っています。神の「言」は、即ちキリストは厳然とこの世に到来して現存し、神殿でも民衆の前でも、みことばを語り続けます。しかも主イエスは常に人々の傍らに寄り添い寝食を共にしておられるのに、人々は頑なにこの神の「言」の存在を認めなかったのです。「暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)のです。「神」を失った人類に、神は御子を世に遣わして、神ご自身の存在と愛と救いのご計画を告げ知らせる「自己啓示」そのものとして、イエス・キリスト世に遣わしたのですが、人々はいよいよ拒絶し抹殺した、と証言します。したがって世は神を認めず、神がお遣わしになられた御子であり言である「光」までも、排除したのです。それはまさに神もなき、真理もなき、愛も命もない不信仰の「暗闇」であります。
3.「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」
しかしそれでもヨハネは、9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」と証言します。「人を照らす」とは、どういうことなのでしょうか。先ほど、人を救うことであり、神であり命であり真理である光を失った暗闇に、神が自ら世を救う光となって到来し、世を死と滅びから命へと導き出すのです。人間は、本来、神の言に従ってエデンの楽園で永遠の命に生きることを喜びとしていたはずです。しかし自我欲求を餌に悪魔に誘惑され、恰も自分が神のようになれるかのように自己絶対してしまい、悪魔の誘惑に敗北し、神に背き神から離反し罪の支配に堕落してしまい、その結果、死と滅びの宿命を背負いました。それが「暗闇」の実態です。「光」は、人々を暗闇から解放して、人間の新しい永遠の命を与えて輝かせるのです。ここで問題となるのは、どうすれば、人を照らすことができるか、本当の意味で人を救うことが実現できるのか、ということです。
そのためには、どうしても、きちんと人間とは何か、ということを知る必要があります。自分の本当の姿を知る必要があるのです。そこで、ヨハネによる福音書1章3節によれば「1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と記しています。このみことばの決定的な急所は「万物が言によって成った」という所です。しかも「言の内に命があった」という所です。「命」の源は「言」の内にある、と言っていますから、「命」を得るには、キリストの内に入れられること、言によって命が与えられ、言のうちに言と共に生き、言に養われる必要があります。みことばを「聴く」ということは実はそういうことなのですが、その神の言であるキリストの命の光によって、万物は存在するように照らされて創造され、生きとし生けるものすべての生命の息吹は皆、キリストの光に照らされて、生きるものとなることができるのです。光あるうちに光の中を歩め(「 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」エフェソ5:8)と勧められるように、神の言であるキリストのうちに生まれて生き養われるのです。キリストの内から無限に溢れ出る永遠の命に照らされ与る、そこに、人類ひとりひとりの、また生きとし生けるもの、存在と命の「本性・本質」があるのです。これが神の創造です。神の息吹を吹き入れられ生きる者となる、ということは、そういう神の言の命と計らいによる創造であります。しかし人類は、この神の言であり命であり真理の光であるキリストを、アダム以来、悪魔に自我欲求を餌に誘惑され敗北し、神の「言」を失い、死と滅びの中に破綻したのです。そのため、人類は皆、命の光と真理を輝かせる光を失い、最終的に死と滅びと絶望の暗闇のうちに転落したのです。ここにもう一つの深刻の人間の根本問題があります。問題は、どうすれば、人はこの闇から救われるのか。解決は明白で、私たちが、神の言であり永遠の命と真理の光を、自分の魂と身体の内に、日々の現実において取り戻す外に、救いはありません。いったいだれが、どのようにして、この死と滅び、悪の支配と破れから、人間を解放してくれるのでしょうか。キリストの外にないのです。キリスト抜きにしてこの地上に救いはあり得ないのです。キリストという光なくして、暗闇を明るく照らすことはできないのです。
理想としては、自然に人間社会や科学技術が進歩すれば、その知恵と技術によって、人類は皆解放される、と願い所ですが、果たしてそれは可能なのでしょうか。いくら科学技術が進歩しても、或いはどれほどの人類進化を期待したとしても、悪の支配は、人類の自我欲求を餌にする悪魔の誘惑は、益々、より一層深刻かつ悲惨な争いと滅びに導くことは予測できることです。それは、あの原爆投下の悲惨からも、分かることではないでしょうか。近代現代という時代の中で、近代国家による植民地の争奪戦争も、二度に渡る原爆投下も、ヒトラーによるアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)も全て、実はキリスト教国によるものであり、世界大戦その自体がキリスト教国同士の巨大な殺戮そのものであったことは、余りにも胸が痛む、世界史的事実であります。人口がどれほど増えても、僅か7%以下の人々が世界の富を独占しており、世界の人々の豊かな祝福には至らず、貧困と悲惨そして格差はますます広がるばかりで、人類の苦悩は深まるばかりです。進歩と言われる恩恵はほんの僅かな人々が独占して奪い去るのです。いよいよ世界を根源から永遠に照らす光が求められているのではないでしょうか。10節で「1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」とありますように、神を認めて「わが主、わが神」と仰ぐのではなくて、反対に自分が神に代わって世界を支配しようとする、或いは自分の王国の王として自己を絶対化しようとする、そうした支配欲や自我欲求による驕りと偽善の中で、神の律法さえも、そしてキリスト教も含めてあらゆる宗教の名のもとに、自分の欲のために利用してしまうのです。確かに、宗教団体として教会制度が形式的に外見上の宗教として形成され整えられることは評価すべきことですが、それだからこそそこで却って本当に大切なことは、人間ひとりひとりの心の中枢において、確かに神の言がわが主・わが神・わが王として宿り、そして真実で堅固なる信仰が形成されることです。悪魔は常に自我欲求を餌にして魂を誘惑しており、神の言から我々を離反させて、宗教や信仰さえも偽善に変質させ腐敗させてしまうからです。近代現代における人間解放の中心は、自我欲求の解放であり自我の実現にあります。健全な自我欲求の解放には、神の言であり永遠の命と真理の光であるイエス・キリストを正しく受け入れ、罪に支配された人間性に死に永遠の命と愛によって生まれ変わり、キリストの身体として養われる神の祝福の祝福が必要なのです。死の病におかされた自我とその欲求は、どんな宗教やいかなる信仰であっても、偽善と虚偽に腐敗させてしまうのです。ヨハネは、徹底的に神の「言」ご自身がこの世に現れて、みことばを語り、私たちの間に宿り、日々共に暮らす中で、真実な信仰を私たちの人格の中枢に形成されることを求めて迫るのは、ユダヤの律法主義から、既にそうした実態を体験し学んでいたからではないでしょうか。だからこそ、人々の魂の奥深くを貫いて照らす真実で誠実な「信仰」を強く求めたのではないでしょうか。そうでなければ、最早、救いはこの世にはなく、それはまさに最後の審判である裁きが今ここに迫っていることになるのだ、と考えたはずであります。
4.「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」
先週、リビングバイブルの訳から、もう一つ、重要な訳を紹介いたしました。それは1章5節の「暗闇は光を理解しなかった」と新共同訳は訳しましたが、リビングバイブルは「1:5 そのいのちは、暗やみの中でさんぜんと輝き、どんな暗やみも、この光を消すことはできません。」という訳でした。以前の口語訳聖書では「暗闇は勝たなかった」と訳していました。こうした訳し方の違いは、元の字「カタランバノー」(katalamba,nw kate,laben)の意味の取り方にあります。その主たる意味は多様で、しっかりと掴んで捕えて自分のものにする、襲いかかって征服する、理解して悟る、という意味です。その中から、新共同訳は「理解して悟る」という意味を取り、口語訳やリビングバイブルは「襲いかかって征服する」という意味の方を選んだようです。しかも時制ではアオリスト形という過去形で真理や事実を言い表す文法が用いられていることで、不変の真理として、この命の光を征服するはことはあり得ない、という現在形で訳したと考えられます。文法はどうであれ、その意味は、命の光は永遠に燦然と輝き続けており、しかもどんな暗闇でもその命の光を絶対に消すことはできないのです。人間がどれほど愚かな戦争を続け、どれほど巨大な軍事力で押す潰そうとしても、真の命の光を消すことは絶対にできないのです。そういう神がおられるのです。それどころか、この命の光は燦然と永遠に向かって輝き続けるのであります。そういう永遠の命の光であるキリストと共に、わたしたちはこの世を生きているのであり、そういうキリストをこの身体のうちに私たちは宿したのであります。ヨハネはこの命の光を宿す信仰についてさらに語ります。「1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」と語り、「神によって生まれた」と堂々と表明しています。これは明らかに、神の永遠の命と真理の光は燦然と輝き続け、決して消し去ることはできない、という光の勝利と共に、この光を信じて受け入れた者も、同じように決して消し去られることはない、という二重の意味での勝利宣言ではないでしょうか。私たちは信仰を通して、神によって生まれ、永遠の命の光のもとに生きることができる、と言うのであります。まさに信仰によって現在に引き寄せられた終末的勝利の確信であります。言い換えれば、明らかに「この世」という枠組みを超えて、「永遠の命」の中に包まれて生きることの出来る新しい世界の到来を告げる福音であります。言わば、私たちは信仰を通して「この世」を越えて「永遠の命の国」即ち神の国に生きるのです。その不思議な超越を、信仰によって実現する、信仰を通して与えられる、というわけです。「1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と、神の言葉である聖書がそう証しし、私たちのためにそう表明し約束しているのです。永遠の命の光であるキリストを信じて受け入れるという信仰を通して、永遠の命は今ここに現在化して、今ここに、このわたしの命の光となるのであります。永遠の命の光であり神の言が自ら、神の愛と恵みとして、私たちに其々の信仰を通して無償で永遠の命を与えるのです。信仰に生きるということは、まさにこの世に行きながら、この世の破れを背負いながら、この世に死んでも、それでもなお神の恵みにより無償で与えられる永遠の命に復活して、平安と愛と喜びのついに生き続けることが出来る、ということではないでしょうか。