「礼拝説教」カテゴリーアーカイブ

説教題:「全能の神さま」(家族礼拝)

旧約聖書:創世記 1章1~5節
新約聖書:ヨハネ福音書 1章1~5節
説教題:「全能の神さま」 (家族礼拝)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-6番
(説教者:武田英夫牧師)

「全能の神」というときの全能とは何でもできるということです。「どんなことでもできる神さまに、何でも祈りなさい」と言われますが、しかし早まってはなりません。

私たちの祈ることは何でもそのままに叶えられるということではありません。何故なら人は自分勝手な願い求めをすることが多いからです。ですから、私たちは祈るとき「み心ならば」と神に願うように教えられています。でも私たちが祈る時、神さまが私たちの祈り求めに耳を傾け聞いていてくださることは確かなことです。

では、神の全能はどこに現わされるのでしょうか。その第一は創世記に記されていた全世界の創造でした。どのような物もそれを造った人が居るように、光も太陽や月も地球も動植物もそして人も、神さまが、イエスとして生まれられる前のキリストと共にお造りになられました。私たち自身も親だけではなく神様の御心によって造られた者であることを忘れてはなりません。

神の全能の第二は主イエスによる愛の業に現わされています。神に背いてばかりいる人間の罪を赦してくださるために主イエスさまは十字架にかかって下さったのです。主イエスは人間の最も低いところにまで降りて来られたのです。

説教題:「主イエスの十字架のみを誇る」(ガラテヤ書 連続講解 第17回)

旧約聖書:エレミヤ書 4章1~2節
新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 6章11~18節
説教題:「主イエスの十字架のみを誇る」(ガラテヤ書 連続講解 第17回)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-297番
(説教者:武田英夫牧師)

今日の御言葉は「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と告げます。わたしたちにはこの世の中にあって、誇りたいものが多くあります。自分が達成した成果を、そのために大変苦労し、努力したことと共に、他の人たちに認めてもらいたいのが、ごく一般的な私たちです。

しかし、そのような、あの事この事にもまして、主イエスの十字架ははるかに素晴らしいのです。従って、私たちが誇りたいこの世の中のあれこれは「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」と述べて、あらゆることが誇りではなくなると言います。これと同じ趣旨はフィリピの信徒への手紙3章8節にも「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています」と述べられています。

パウロが6章11節に、このガラテヤの信徒への手紙を終えるに当たって「この通り、私は今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」と述べているのは、このガラテヤ書6章10節までのことの総まとめとしての強調なのです。ガラテヤの信徒への手紙での中心課題は「割礼」でしたが、パウロが「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです」と述べているように、聖霊に導かれて洗礼を受けた人は、新しく信仰者としての命を与えられ、聖霊に導かれた人生を歩む者とされているのです。感謝しましょう。

説教題:「皆、キリストを着ている」(ガラテヤ書 連続講解 第9回)

旧約聖書:詩編 93章1~5節
新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 3章23~29節
説教題:「皆、キリストを着ている」(ガラテヤ書 連続講解 第9回)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-438番
(説教者:武田英夫牧師)

本日のテキストの中、27節に「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ている」とあります。

「キリストを着る」とは、自分の罪を自覚し、とても神さまの前には出られないと思っているような人にも、主イエスキリストという衣服を着せていただき、それで着飾って神の前に出られるようになるということです。

このことに相応しい主イエスの譬え話がマタイ22:9~14にあります。ある王が王子のための婚宴を催したが、欠席者ばかりであったので、王は、僕に誰でもよいから連れて来なさいと命じました。そこで多くの人が招かれましたが、一人だけ礼服を着ないで来ていた人を王は怒って、その無礼者は外に放り出せと言ったというお話です。

これは皆が同じように祝宴に招かれているのに、一人だけはその祝宴に相応しくない姿であったということです。私たちも、自らは神さまの前には相応しくない者であるのに、キリストという礼服を着せられた者として、神の前に出てゆくことが許されているのです。キリストを着るということは、主イエス・キリストによる福音を受け入れたことであり、それまでは律法が私たちをキリストに導く養育係になってくれたのです。

養育係は幼い子供を危険等から守るための付き添いの役割です。主キリストが来てくださった時までは立派に養育係としての役割を果たしてくれた律法は、今や新しく現れたキリストの福音に取って代わられたことになるのです。

説教題:「義とされて生きる」(ガラテヤ書連続講解 第6回)

旧約聖書:民数記 6章22~27節
新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 2章15~21節
説教題:「義とされて生きる」(ガラテヤ書連続講解 第6回)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-296番
(説教者:武田英夫牧師)

既にこれまで何度も見てきました「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」との言葉が繰り返されています。義とは神の前での正しさです。単にこの世の法に触れなければよいというのでなく、清い神の前に立つことができるかどうかという罪が問われるのです。

律法の完全な遵守は人間の努力だけでは決して達成できません。その人間のための救い主である主イエス・キリストを信じる信仰のみによって、神は罪を赦して下さり、救いを与えて下さるのです。

そのように信仰によって義とされるということは、私たちの命について見ますと、主キリストが私たちの罪を御自分の身に引き受けて死んで下さったということは、私たち自身も古い自分に死んだということなのです。

だから、私たちは「生きているのは、もはや私ではない、キリストが私の内に生きておられる」と告白できるのです。これは、パウロだけが言える言葉ではなく、全ての信仰者に等しい告白なのです。もし私たちが神の恵みによってではなく、自分の力によって義とされるとしたら、2章21節の言葉のように「それこそキリストの死は無意味なものになってしまいます」と言えます。

主イエスの十字架に、心からの感謝をささげて参りましょう。