説教題:「呼び集めてくださるイエスさま」

旧約聖書:出エジプト記 19章1~6 節
新約聖書:マルコによる福音書 3章13~19節
説教題:「呼び集めてくださるイエスさま」
讃美歌(説教後):讃美歌 1-517番
(説教者:青戸宏史牧師)

イエスさまは、父なる神さまのもとから派遣された方であります。派遣・誕生されることによって。神さまの方から「神は我々と共におられる」という事が実現したのです。そのイエスさまがメシア・救い主として語られた最初の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1・14)と言う宣言、言葉でした。

私たちにとって、今の時は「・・今や、恵の時、今こそ、救いの日。」(コリント二6・2)と言われます。私たちは「救いの到来・実現」の中を歩いて、生活しているのであります。

今朝は、最初の主イエスの弟子・最初の教会と言ってもいいでありましょう。そこに起きた「主の招き」、その使命について、私たちもその招き、使命の中にあることを覚えつつ御言葉に聞きたいと思います。

わたしもそうでありますが、皆さんの中にも経験されたことがあるでしょう。多くの人の中にいながら、誰からも声をかけられることなく、一人ぼっち、孤独の中に置かれて寂しさを味わったことがないでしょう。そんな時、誰かが近づき声をかけ、尚、名前を呼ばれ、話しかけられる時の喜びを思い出される事がないでしょか。

イエスさまというお方は、私たちを友として、たえず御自分の方から尋ね求め下さる方であります。

13節.「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。」とあります。

主イエスは「これと思う人々を呼び寄せられた」のであります。ここには選び、主は御自身の自由に基づいて選ばれるかたでありますます。その選びには特別な「御意志」があるのです。「呼び寄せられた」と言う言葉の意味は「欲した」と言うことであります。主イエスの方から「欲して」選び、御自身の下に、側に招かれたのです。今礼拝している私たちも主に招かれた一人ひとりであります。しかもその「招き」、主の下に呼び寄せられたという出来事は、特別の関係を意味する出来事であります。ギリシャ語には「不定過去(アオリスト)時制」というのがあります。「呼び寄せられた:欲して」がその時制が用いられているのです。主イエスによって起きた出来事は、一回限りの永遠の出来事を示しているのです。一度限りの決してし忘れられない「神との契約」、関係を表しているのです。人間の側では、忘れてしまっても、その関係は真実な神様にとっては、永遠の出来事なのです。

14節で「12人を任命した」と訳されていますが、「任命」と言う言葉は、もともとは「作る」と言う意味の言葉です。翻訳している聖書の中には「メイク」と言う言葉をあてはめています。主イエスは「12人を作った」と、直訳するとそのようになりますが、決して12人人間を造り出したと言うことではありません。しかし、まるでそのように「新しい存在」として、12人をお造りになった。そこには、神の創造の働き、活動は活発になされたことが示されています。「任命する」と言う場合、目的なしに、任命することはありません。必ず、特別な使命と、任命された者が、その使命に相応しい、「新しい存在」になることを期待し、目的とするのです。

新しい、主キリストを中心とする「新しい契約に基づく共同体(教会)」の創造と言えるのではないでしょうか。

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると・・」あります。山は聖書では特別な場所で、「聖なる場所」、「祈りの場所」、「神の御心を聞き、示される」場所であります。出エジブト記19章に、モーセも山の上で神と相対して「新しい使命」を受け止めています。6節「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」とあります。主イエスは「新しい共同体」として、12人を選ばれたのですが、その12と言う数を、モーセに語られた「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」の言葉を背景にして考えますと、モーセが率いていた民、神の民、イスラエル、ユダヤの人々は、12部族から自分たちは成り立っていると考えていました。実際に歴史を見ますと、そういう組織を持っていました。

(祖先アブラハムに始まり、イサク、ヤコブ・3代目のヤコブに子どもが12人いて、この12人の子どもを基礎にして、12部族が生まれてきたのであります。)

主イエスは、父なる神の御心によって、示された約束を実現される方であります。預言の成就者、完成者であられ、「古い契約」を完成され「新しい契約」に生きる群れ・共同体を御造りになるのです。それが、主イエスを入れて13人です。しかし、この小さい13人と言う群れから、大きな神のみ業が始まったのです。神の創造の世界、歴史の中に「新しい救いのみわざ」が始まったのです。「新しい神の民」の誕生、形成が始まったのであります。

主の招き、呼び掛けによって人数は記されていませんが、12人だけと言うのではなく、1~3章までの、主イエスの御働きを見る時、かなりの人たちが、主イエスの呼び掛けの声を聞き、御側に集まったに違いありません。(そこでの人々の思いを創造してきてください)

主イエスは、創造の世界、歴史の中に神の国を実現するのに、主イエス御ひとりで働こうとされるのではなく、御自分の助け、目的の達成を求めて、群れを、新しい群れを御造りになったのであります。そこに何人いたのか分かりませんが、所謂私たちが、選別するような仕方ではなく、13節で「これと思う人々」とありますが、もとの言葉の意味は、「何の理由もない」、と言う意味の言葉です。ただ主がこの人を、と「お考えになった」と言う、それだけの理由であります。主がお望みなって12人を選び「使徒」と名づけられたのであります。「使徒」とは「派遣された者」と言う意味であります。主イエスから・神から、神の使いとして派遣される者たちということであります。「その名の中」に、その目的が示されています。使徒は、主イエスのお使いをするのです。

主イエスのお使いをするのに、どうしても身につけなければならないことがありました。

第一が「彼らを自分のそばに置くため」

第二が「派遣して宣教させる」

第三が「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」

第一は、「主イエスのそばに置いて頂く」ことであります。 主イエスと共に生活することによって、主イエスを一層知るのです。私たちにとって、すべてのキリスト者にとって最も大事なことは、主イエスがそばにいてくださるということであります。呼び集めてくだることによって、主イエスに結ばれて、委ねて歩むことも出来るのです。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・・」(マタイ11章28節参照)

人生に行き詰まった時、主イエスがそばにいてくださるということは大きな、支え、力、励まし・・・新しく歩み始めることが出きる者となるのです。

第二は「派遣して宣教させる」と、言うことであります。

主イエスの側において頂き、使徒として「御言葉を宣べ伝える」ために出て行くのです。

第三が「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」

わたしが力を持って悪霊を追い出すのではなく、主イエスが生きて働いておられることを証しするのです。

12人の使徒に名前をお付けになりました。その中には、よく知っている有名な人、無名なリストだけの人、あだ名をつけられた人、性格で呼ばれた人・・・、そして、あのイスカリオテのユダについて、「このユダがイエスを裏切ったのである。」と、記しています。

「イス」・・は「イーシュ」で・・へブル語の意味は「男」と言うことで、日本的に言えば「匕首(あいくち)を持っている男」と言うことであります。

「裏切った」とは「引き渡した」と言うことです。しかも、主イエスの受難をと関係する言葉であります。

ユダは、使徒として選ばれ、使徒としての使命に生きたのですが、結果として「永遠の選び」が、最悪の事実を招いたのであります。

神の招き、その招きに応えて、常に主の下、側にいることを求められるのです。

(今回初めて、説教を載せてみました。これからも努力いたします。宜しく。)