2020.10.25 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第22主日礼拝
信仰告白 『ハイデルベルク信仰問答』問答93~95
十戒について(1)
問93 (司式者)
「これらの戒めは、どのように分割されるのか。」
答え (会衆)
「二つの石の板に。
一つは、四つの戒めにおいて、
神に対して、どのような在り方で、私たちは自らを保つべきか。
もう一つは、六つの戒めにおいて、
自分の隣人に対して、どのような義務が私たちにはあるのか(ということに分けられます)。」
問94 (司式者)
「第一戒において、主は何を求めておられるのか。」
答え (会衆)
「(主が求めておられることとは)
わたしは、自分自身の魂が永遠の救いと祝福を失う危機に瀕しており、
それゆえ、あらゆる偶像崇拝、魔術呪術、迷信祈祷、諸聖人やその他の被造物の祈願のすべてを避けて、
逃れるべきであり、
唯一真(まこと)なる神を正しく知り、ただ神にのみ依り頼み、
あらゆる謙遜と忍耐のうちに、良きことはすべてただ神より待ち望み、
全身全霊を尽くして神を愛し、畏れ敬うのでなければならない、ということ、
そしてまた、わたしは、どんな些細なことにおいても、神のみ心に背く行いをしないうちに、
それに先立って、被造物はすべて(神に)委ねて明け渡す、ということです。」
問95 (司式者)
「偶像崇拝とは何か。」
答え (会衆)
「神のみことばにおいてご自分を啓示された、唯一真の神に代わり、または神の隣りに並べて、
何であれ、神以外のものを造って所有し、それに信頼をおくことです。」
10.25 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第21主日礼拝
ハイデルベルク信仰問答講解説教37(問答93~95)
説教「十戒、恵みの掟に新しく生きる」
聖書 イザヤ書42章1~9節
マタイによる福音書4章1~11節
先週の説教では、問答の88~92について学び、問答88の「人間の真実(まこと)の悔い改めと回心は、いくつのことにおいて現れるか。」という問いで、悔い改めと回心から、いったいどんなことが起こるのか、その具体的な結果を確認しました。「古き人の死滅」そして「新しき人の復活」という形で現れる、というのが、その答えでした。確実に、キリストの愛と恵みを通して、罪を知り、罪と闘うことができるようになる。つまりキリストの十字架と復活の恵みを知ることで、罪の問題を解決できるようになったのです。もう一つは、確実に、キリストの十字架と復活の恵みを通して、新しく造り変えられており、新しい生活に生きている、ということであります。問答は「キリストと生き写しの姿に造り変えられる」と宣言告白しています。この「新しき人の復活」は、その大きな現れは、先ず「信仰」において、現れます。信仰とは、聖霊による恵みの賜物ですが、福音のみ言葉によって救いの真理が光照らされて、神の救いの事実をより正しくより深く認識できるようになります。救いのみわざがより明るく光照らされると、それによって、より深く見つめれば見つめるほど、救いの道筋がきちんと分かるようになります。神が何を求め、何を喜ばれるのか、少しずつ考えられるようになります。つまり信仰がはっきりしてくると、神さまのみ心に集中して自分の心を神に向けて正確に向け直すようになるのです。
このように信仰の内容がはっきりしてくると、二つのことがよく見えて分かるようになります。その一つは「罪」の真相です。自分の罪の実態がより正確にはっきりと見えるようになります。ですから、信仰を持つと、罪の意識はいよいよ深まり鮮明になります。自分を「罪人」としてより深くそしてより厳しく、見つめる心ができるのです。その結果、これまで以上に、いよいよ自分の罪に苦しむことになります。神のお求めになるみ心が分かるようになると、これまで考えることもなかった自分の本当の罪の本質が見え始めて来るからです。恐ろしいほど、罪の深さと深刻さが見えて来ます。最早、問題解決など在りえないほど深い罪の現実と向き合うことになります。そこには、何一つ、人間の可能性や希望の光は見えず、無限の絶望を知るようになります。こうして人間中心主義は敗北し絶望に至るのです。そこで初めて、人間を超越する神へと心が向けられるのです。そこに、神の御子キリストの十字架と復活のお姿が示され、そのお姿は鮮やかに自分に向かって現れて来るのです。
もう一つは、信仰が与えられたことで、信仰と魂が神に向けられ、神のもとに導く神のみわざがより鮮明に見えてきます。自分の中で働く神の愛と恵みが、はっきりして来るのです。信仰は、一方で罪を正しく認識させると共に、今度は、神を正しく認識できるように、神の真理を照らす光として働くのです。本当に神はおられる、キリストの十字架に唯一真の神が啓示されている、というように、神の存在や神の愛と力が見えて来て、よく分かるようになります。神の存在と愛が認められるようになると、人間における絶望から、神による希望へと、甦るのです。真実は、人間における絶望を一方で受け入れつつ、今度は、神の愛と恵みに包まれて、新しい希望の世界の中に生かされている、と気づくのです。これが信仰の力です。極論すれば、神は、自分を初め、万物と世界を愛し救うために、全てを担い全てをお支えくださっている。だから、自分の思うようにではなく、すべて神にお委ねしよう、それこそが希望であり、平安であり、間違いない、と思えるようになります。自分よりも神が、本当の意味での自分を知り、導き、世界を造ってくださることが本当によく分かるのです。すると、神に感謝する、神を賛美する、神に祈る、神を拝むことに、どれほど大きな意味があるか、分かるようになります。自分中心から、神の恵みとその働きを中心に生きるようになります。そこで初めて、本当の礼拝に生きる意味や、教会の一員であることの意味もはっきりしてくるのです。物やお金も皆、神の愛と恵みのためにあり、献金や献身の意味も、或いは教会での働きの意味も正しく理解できるようになります。
さらに、神は愛と恵みにより、自分を新しく生まれ変わらせ、造り変えてくださっていることが分かって来ますと、当然ながら、その神のみ心にお応えするように、心底、生きたいと考えます。現実の生活は、弱い人間としての自分のわざであるよりも、むしろ常に神に導かれており、神の愛と恵みの中を歩んでいる、神によってこそ本当の生を生きることができる、と実感するのです。そうした愛と恵みの中で生きる喜びと誇りと希望が生まれ、神の御心にしたがって生きようと思うようになります。その神の御心を最も鮮明に映し出したものが、神の律法であり「十戒」です。神の愛と恵みにより救われている感謝に溢れて、神の御心を映す律法にしたが
本日の主題は「偶像崇拝」です。問93は「これらの戒めは、どのように分割されるのか。」と問い、「二つの石の板に。一つは、四つの戒めにおいて、神に対して、どのような在り方で、私たちは自らを保つべきか。もう一つは、六つの戒めにおいて、自分の隣人に対して、どのような義務が私たちにはあるのか(ということに分けられます)。」と答えています。「十戒」は、本来「愛」の教えであるはずです。一つは、神に対する愛の教えであり、もう一つは、人間に対する愛の教えであります。問答94は「第一戒において、主は何を求めておられるのか。」と問い、「わたしは、自分自身の魂が永遠の救いと祝福を失う危機に瀕しており、それゆえ、あらゆる偶像崇拝、魔術呪術、迷信祈祷、諸聖人やその他の被造物の祈願のすべてから、避けて逃れるべきであり、唯一真(まこと)なる神を正しく知り、ただ神にのみ依り頼み、あらゆる謙遜と忍耐のうちに、良きことはすべてただ神より待ち望み、全身全霊を尽くして神を愛し、畏れ敬うのでなければならない、ということ、そしてわたしは、どんな些細なことにおいても、神のみ心に背く行いをする前に、それに先立って、すべての被造物を(神に)委ね明け渡す、ということです。」と告白します。問答95は「偶像崇拝とは何か。」と問い、「神のみことばにおいてご自分を啓示された、唯一真の神に代わり、または神の隣りに並べて、何であれ、神以外のものを造って所有し、それに信頼をおくことです。」と答え、神以外のものを、或いは神と並んで他のものを拝むことは、偶像崇拝となる、と教えています。
問題の所在は、その本質は非常に深刻です。なぜなら、それは、私たち人間が神の被造物でありながら、神の存在を認めることができない、という根源的な倒錯と矛盾にあります。これこそが人類の「罪」の本質です。果たして、神の愛と恵みよって造られたものが、神を否定し拒絶した所が、まさに神なき所で、幸いと平安のうちに生きることができるでしょうか。神なしには生きれない者が、神なしに生きようとする、決定的な錯誤と矛盾を抱えて、人類は世界を彷徨い続けています。一方で、神なしには生きれないのに、他方では、神なしに生きようとする、そうした錯誤と矛盾を映し出すようにして現れる宗教現象が、「偶像崇拝」であります。存在するものは全て、神によって創造された被造物ですから、全ては神のものであり、礼拝の主は神です。しかし、神なしに生きようとする人間は、全ては自分のものであると錯覚して、自分のものとして独占支配しようとします。そのために、自分のために自分の都合のいいように、神を捏造し始めるです。もっと長生きしたい、お金が欲しい、出世したい、と欲求すると、自分の手で、それを実現させる神々をいくつもでっちあげるのです。人間であれ、狐であり、蛇であれ、石までも、何であろうと、欲求を満たすためには、ありとあらゆる神々を造り出しては、拝み、祈り求めるのです。神なしには生きれない人間が神なしに生きようとする、錯誤し屈折した魂の現れです。こうした錯誤し屈折した人間の魂について、ハイデルベルク信仰問答94は「わたしは、自分自身の魂が永遠の救いと祝福を失う危機に瀕しており」と表白します。神の祝福なしに生きれない人間の本性を深く嘆き悔いる告白です。わたしの魂は、神の祝福から転落し堕落して、神に背く神から遠く離れてしまい、もはや戻ることはできず、神の永遠の救いと祝福を失ってしまった嘆きであり悔いであります。神の創造以来の恵みを失った危機的な人間本性について、問答は、真っ先に「喪失のただ中で」(bei Verlierung)と表白しています。一層深刻なのは、それでもなお人間は、今もなお神なしに生きようとするのです。その錯誤と屈折が、今度はとてもグロテスクに歪んだ形で「偶像崇拝」の形で現れます。
問答95で「偶像崇拝とは何か。」と問い、「神のみことばにおいてご自分を啓示された、唯一真の神に代わり、または神の隣りに並べて、何であれ、神以外のものを造って所有し、それに信頼をおくことです。」と答えます。真の神は、人格的で生きた全能者ですから、ご自身のご意志において、しかも同じ人格である人間に対しては、みことばをもってご自身を啓示されます。本来の人間と人間は皆、心と言葉をもって、交流するように、神も、みことばをもって、人間の霊と魂に訴えるのです。そのように神はみ言葉においてご自身を啓示されたる神であります。その神の啓示の記録が聖書であり、神の律法であります。しかし人間は神を否定して背き続けますので、その神の啓示のみ言葉を聞かず、自分の欲望の声に心を向け、その欲望に従って欲望を満たす形で偶像を造り、そこに信頼をおくのです。「唯一真の神に代わり、または神の隣りに並べて、何であれ、神以外のものを造って所有し、それに信頼をおく」と言っています。神から離反した所で、神なき世界で、「自分」が神に代わり、世界を支配し所有したいと欲求するのです。現実は神ではないので、それは不可能なのですが、それでも、そのために本当の神に成り代わって、自分の言うことを聞く偶像の神を造り出すのです。このように偶像崇拝の根源には、神を正しく認められなくなり本性的に神に背く、という人間の本質的な神喪失におる崩壊現象があります。そこで、問答94は「わたしは、自分自身の魂が永遠の救いと祝福を失う危機に瀕しており、それゆえ、あらゆる偶像崇拝、魔術呪術、迷信祈祷、諸聖人やその他の被造物の祈願のすべてを避け、逃れなければならない」と告白しています。
一見、律法は神の強い要求事項だと考えがちですが、本来は、罪より倒錯して行き詰まった人間を深く思いやる神の配慮ある導きのみことばなのです。律法とは、人間を深く愛し慈しむ神の配慮の教えであります。元々神は、愛と恵みに溢れた「創造の秩序」のもとに、愛と義が隅々に至るまで貫かれた創造の秩序のもとに、万物を創造なさいました。人間は、その神による創造の恵み豊かな秩序を捨てて、神に背き、神になしに、自分が神となって生きようとしたのです。それは今も同じです。「創造の秩序」、すなわち神は愛により永遠普遍に万物の命と存在を担い続けるのですが、その神の愛と存在を否定した所では、当然ながら、いのちと存在の永遠性は担保されません。まさに死と滅びの転落の一途を辿るばかりです。そのような救いなき魂は、ただただ、幻想たる偶像に縋り、彷徨うばかりです。だからこそ偶像を捨てて、唯一真の神に立ち帰るほかに、道はないのです。それが、人間本来の生き方であり、在り方であります。問答94は「唯一真(まこと)なる神を正しく知り、ただ神にのみ依り頼み、あらゆる謙遜と忍耐のうちに、良きことはすべてただ神より待ち望み、全身全霊を尽くして神を愛し、畏れ敬うのでなければならない」と、はっきりと目覚めて生きるほかに人の道はないことを知るべきであると教えます。
問答94に少々気になる言及があります。それは「諸聖人」に対する崇敬や祈願を、偶像崇拝と断定している点です。つまりこの問答は、単に「異教」世界だけを問題にしているのではない、自分たちのキリスト教そのものにも、教会の中にも偶像崇拝が現実ある、と脚下照顧しています。私たち教会の中にも「偶像崇拝」となる、すなわち「唯一真の神に代わり、または神の隣りに並べて、何であれ、神以外のものを造って所有し、それに信頼をおく」ことが、実際にあるではないか、というのです。神を否定してはいないのですが、ある意味では信じてはいるのですが、その「神の隣に並べて」もう一つの別の意味ある神を、或いは神々を造って保持しており、そこに信頼を置くことは、全くないと言えるのでしょうか。聖人崇敬を行うカトリックだけを非難して終われないことではないかと思います。
神には神のための、被造物には被造物ための、相応しい「場」があります。そのあるべき場、其々の存在の関係と区別を明確に知り弁えることは、信仰や教会生活を正しくする、重要な決め手になります。カトリック教会では「崇拝」adoratioと「崇敬」veneratioとを本質的に異なる概念として使い分けているようです。神は「拝む」という場があり、聖人は「敬う」という其々異なる場があって、そうした異なる秩序において人々の心は言い表さされる、というわけです。ハイデルベルク信仰問答は、そうしたローマ教会の秩序とはきっぱりと決別しています。しかし別の意味で、場合によってはもっと深刻な形で、私たちプロテスタント教会の中でも、神のみを神とする厳格な「秩序づけ」を意識する必要があるように思われます。信仰から神に集中する意識が薄れ、人間やこの世との関係が曖昧になり、その境目が混濁してしまう中で、いつの間にか、神よりも人間の方が、神よりもこの世の方が、そして神よりも自分の欲望の方が、優先され大事になってしまうことはないでしょうか。気が付いてみると、特定の座にある人が、神の名や教会を利用して、自分の欲求を実現しようとしているのではないか。教会紛争の中枢にはそうした本質が往々にして見え隠れします。どこまで正確かつ厳密に、神のみを神とする秩序が信仰心の中に確立されいるか、丁寧に検証すべきでありましょう。
被造物の其々が存在する全体の秩序の中で、それぞれに相応しい場がある、と申しました。これは家族と神との関係においても同じです。或いは自分自身と神との関係においても同じことが言えるのではないでしょうか。自分の子供だから、自分の妻や夫だから、自分が全てを担う、場合によっては判断する、ということになるのでしょうか。確かに自分のできる場で責任を背負いつつも、しかし他方では、神を絶対のお方として信頼して、すべてを神にお委ねするのです。親兄弟であろうと、本質から言えば「神のもの」として、神のもとに明け渡すのであります。まことの神を正しく信じ礼拝するということとは、すべてを造り主である神のもとにお委ねして、神に明け渡すことではないかと思います。そこには「自分のもの」として少しも残しておかない、ということです。聖書の物語で、とても恐ろしくなるほど、厳格かつ厳密な事例として、アブラハムのイサク奉献の物語を想い起します。神は、突如アブラハムに「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22章2節)と命じます。子孫繁栄という大きな希望の中で、全てを神に委ね神に明け渡すのか、それとも実子イサクに未来を託すのか、アブラハムは深く苦悩した末、神への信頼を選びます。イサクを譲り渡せば、夢や希望はおろか、これまでの長い旅を重ねて来た人生も全ては失われ、何一つ彼にが残らないのです。アブラハムは、深刻にも、この神の命令と向き合い、苦悩の中で、イサクを屠って神に献げようとします。すると御使いが現れて「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22章12節)と告げられます。アブラハムは、わが子イサクを神と並べて置くことはせずに、そしてイサクに信頼を向けることを断念して、全てを神のみに委ね神にイサクを含めて人生のすべてを明け渡したのです。イサクを献げるアブラハムには、神への信頼を除いて、ほかに何も残ってはいなかったのです。
改めて問答94で「そしてわたしは、どんな些細なことにおいて、神のみ心に背く行いをしないうちに、それに先立って、すべての被造物を(神に)委ねて明け渡す」という宣言告白に、ご注目いただきたいのです。ここは翻訳の際にとても迷った部分の一つです。それは「すべて被造物を(神に)委ねて明け渡す」という部分です。ドイツ語原典ではübergebenという字が用いられており。辞書によれば「正当な受け取り人に手渡す、しかるべき人や筋に委託委任する、譲渡する、委ねる、明け渡す」という意味です。英語版ではrenounce(捨てる、放棄する、縁を切って否認するの意)が充てられています。この用語から、神と、わたしと、わたし以外の人々や被造物との関係が示唆されます。被造物全体の中での関係と秩序であります。其々の根本的にあるべき場であり、その在り方の秩序です。つまり「神の創造の秩序」の中で、「神」と「わたし」と「被造物全体」との関係で言えば、本来の相応しい形で「神にわたしは全被造物をお委ねする」ことになります。人間が欲望のために、被造物を都合よく独占的に所有して支配し、時にはそれを偶像として神々に代えて、手で造り所有し、偶像として利用し支配します。そうした偶像崇拝により、被造物世界全体が、人間の倒錯した支配によって歪められ、傷つけられていることになります。したがって被造物全体は、人間の欲望支配に服するのではなくて、本来は、造り主である神と神の秩序のもとにお返しするべきであります。大切な点は、被造物を、本来神さまが働かれる場に正しく相応しくお返して戻すということではないでしょうか。そうした意味でハイデルベルク信仰問答は「すべての被造物のを(神に)委ねて明け渡します」と告白したのではないかと思います。偶像崇拝は、人間による支配欲から生まれるものです。しかもそこでは、神なしに、自分の欲望を満たすために、被造物を偶像化しているのです。そのように倒錯した人間の欲望と罪の中で、被造物は著しく疎外され、本来の場を失い、呻き苦しんでいるのであります。そうした偶像崇拝の現実を完全放棄する共に、本来あるべき創造の秩序の中に、創造主なる神のもとに被造物をお返し、お委ねするのであります。自己支配のもとに、環境を著しく傷つけ、病んだ状態に引きずり込んだ人間は、本来の神礼拝においてこそ、神のもとに被造物を解放するのであります。環境問題もこうした「偶像崇拝」の構造との関わりから、改めて見直し検証し直すこともまた意味があるのではないでしょうか。