2021年11月21日「あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする」 磯部理一郎 牧師

 

2021.11. 21 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第27主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教25

説教

2021.11. 21 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第27主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教25

説教「あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする」

聖書 ネヘミヤ記9章26~31節

ヨハネによる福音書8章31~38節

 

 

聖書

8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り真理はあなたたちを自由にする。」8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる

8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れないからである。8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 

 

説教

はじめに. あなたは本当に自由なのか?

「あなたは、本当に、自由なのか?」 この問いが、本日の説教の主題となります。今日は、「自由になる」とはどういうことなのか、皆さんとご一緒に聖書から学び直す、とてもよい機会になりそうです。イエスさまは、ユダヤ人を初め私たち人間に、「あなたは、本当に自由なのか?」と問います。私たちからの、自分中心の考えや欲求から考える「人間による自由」と、イエスさまが私たちのために教えようとなさる「神による自由」とは、肉の自由と霊の自由という風にも言えるかも知れませんが、それらは本質的に余りにもかけ離れているように思われます。本日の聖書箇所によれば、主イエスの見ておられる自由の世界と、当時のユダヤ人たちが考えていた自由とは、随分、その意味は違っていたようです。ユダヤ人たちの自由はとても誇り高い自由であったようです。とても皮肉なことに、そのユダヤの自由が、イエスさまの眼にはとても惨めで悲しい現実に映っていたようです。私たちの場合でも、自分で求め考える自由と、神さまがお考えになっておられる自由との間に、大きな隔たりがあるかも知れません。無邪気に自由だ!と喜ぶ他人を見て、何と哀れな人々なのだろうと感じることもあります。

ユダヤの人たちは、皆共通する意識として、民族としての強い誇りと尊厳を持っていた、と思われます。特に、聖書の中の発言にもありますように、8章33節によれば、<8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」>と、いかにも確信と誇りに満ちた発言です。ユダヤの人々は「アブラハムの子孫」という気高く誇り高い自負で満たされており、誰もアブラハムの血筋を誰も絶対に消し去ることはできないのだから、この尊厳は誰も傷つけることも出来ないしまた奪い取ることできない。それゆえユダヤの自由と独立は不変であり、何人といえどもこの自由を侵すことはできない、という絶対的な確信に満ちた発言のように聞こえます。それなのに、なぜあなたは、今さら異邦人の奴隷のように「自由になる」などと私たちに言うのか、と言って、ユダヤ人たちは憤慨しています。もうすでに、選びと民族の血筋においては誰も及ばないのだ、ということでありましょう。

「自由」とは、『広辞苑』(第六版)によれば「心のままであること。思う通り。」とあり、さらに哲学的に言えば「一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。」と書かれていました。無限無条件の自由は想定できないので、ある一定の条件のもとで自由は語りうる、ということでしょうか。例えば、信じる自由、表現する自由、行動する自由ということになります。ユダヤ人たちの共通する大前提は「アブラハムの子孫」です。その意味は、神に選ばれた神の選民であり、神の民です。神の前で完全に認められ選ばれた民であるという点では、何の制約も制限もなく完全に認められた自由がある、ということでしょうか。つまり、自分たちはアブラハムの血筋であるから、その限りにおいて、何をするにしても、神の御前においては何一つの障害も制約もなく、完全に選ばれた民であり祝福されている、ということになります。したがって神に選ばれて祝福されるという点で、誰からも制約を受けず、拘束を受けることは一切ないのだ、という理解です。創世記12章に記されておりますように、「祝福の基」としてアブラハムを祝福しその子孫の繁栄を約束された契約に堅く立っての確信でありましょう。

これに対して、主イエスは、32節以下で「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り真理はあなたたちを自由にする。」と教えられました。ユダヤ人たちは旧約聖書の律法契約に基づいてアブラハムの子孫であることを前提にして、自由を確信したいましたが、それに対して、主イエスは新たに「わたしの言葉にとどまる」こと、そして「わたしの弟子である」ことを前提にした、新しい自由について、告げたのです。イエスさまの教える自由で、とても意味深い所は、唯一つ「真理を知る」ということです。「真理を知る」ことで、人は初めて自由になることができる、と断言しています。「真理」から離れた者には決して自由は与えられない、ということになります。では、その「真理を知る」には、と問えば、「わたしの言葉にとどまる」ことであり、「わたしの弟子である」ことが求められる、と説いたのです。

イエスさまが仰せになられた「真理はあなたたちを自由にする」(h` avlh,qeia evleuqerw,sei u`ma/j)とは、未来形で書かれています。自由になるには、ある決定的な前提条件が今ここに突き付けられます。そしてその決定的な条件が「わたしの言葉にとどまる」ことであり、それによって「わたしの弟子になる」ということであります。つまり、今主イエスのみことばを認め受け入れなければ、真理を知ることができず、真理をしらなければ、未来の自由はない、と言うのであります。非常にはっきりした教えです。そこで真理とは何か、ということになります。

 

1.「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」

「真理」とは何でしょうか。つまりイエスさまのみことばに示された「真理」とは何か、イエスさまの「弟子である」ことの真理とは何か、ということです。みことばの中には何が隠されており、弟子であることに中に、何が起こっているのでしょうか。ヨハネによる福音書には、世界史の全てを決定づけるような、ある決定的な問答が登場します。それは、神の子である主イエスと、世界史を支配するローマ皇帝の代理人であるピラトとの問答です。ローマ総督ピラトは十字架刑を宣告する場面で、主イエスを尋問します。この場面は、果たして真の裁き主はどちらなのか、究極の裁き主の姿とはどのようなお姿なのか、その本質を読者の心に深く問う場面です。ヨハネによる福音書18章37節以下で、こうピラトは主イエスにこう尋問します。「18:37 そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしがだとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆わたしの声を聞く。』18:38 ピラトは言った。『真理とは何か。』」というとても意味深長な対話です。

言わば、ピラトはローマ帝国の総督という立場で、この世の力を代表する権力者であり、言わば世俗の王のだ璃人として、最後は主イエス・キリストを裁いて、十字架刑を宣告する審判者として登場しています。したがってピラトの言う「王」とは、あくまでも世界史上のローマ帝国皇帝であります。反対に、主イエスは神の御子であり、神の国を担う「救い主メシア」であり、最後は人類の罪を一身に背負い、神の裁きのもとに自己犠牲のいけにえとして贖罪の死を遂げ、人類の贖い主として自ら十字架にかかり死んでく救い主としての王であります。言わば、「真理とは何か」という問答のもとに、この世の権力者側に立つ「王」の真理と神の国を齎すメシアとしての「王」の真理とが激しくぶつかり合っています。真理とは、一方は暴力的な世俗権力による真理なのか、もう一方では十字架における神の愛と憐れみによる、救いという真理なのか、両者が一つの真理の中で相互に激突し合う場面です。確かにこの世では、力づくの権力や暴力で、いくらでもねじ伏せて、真理を造り出すことも可能かも知れません。一般に、歴史は権力者の記述による、と言われるように、歴史や史実はそうした性格を帯びていることは否めない事実でありましょう。そしてそれがこの世では全てを審判する「真理」と見なされるのでありましょう。しかし神の国では、人々を愛するがゆえに犠牲となることで、「真理」が明らかになります。そのような意味で、聖書の真理を、キリスト教の真理を正しく理解して、受け入れる、ということはとても難しいことであります。イエスさまのみことばにとどまり、イエスさまの弟子として生涯を本当の意味で終える、ということは、決して尋常なことではないように思います。そういう意味で、本当の意味で「クリスチャン」(キリストに属する者たち)がこの世で増えるということも難しいことでありましょう。難しいことではありますが、真理は確かに与えられており、真理に生きることも不可能なことではありません。正しい意味で、真理を知る者として生涯を尽くして生きる、ということも決して不可能なことではないはずです。

 

2.「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」

ただし、そのためには、ある決定的な「自覚」と「認識」が求められます。戻りまして8章34節で主イエスはこう説きます。「8:34 イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。』」と、主イエスはさらに踏み込んで語り、真理に至る道筋をお示しになります。真理を知り真理に至るために、二つのことが明らかにされています。一つは「罪の奴隷である」という自覚です。そしてもう一つは、罪の奴隷から解放されるためには「子」が必要である、即ち「わたしの弟子である」という信仰であります。

先ず「罪」の自覚について申しますと、ユダヤ社会には「罪人」と呼ばれ、ユダヤ人共同体から切り捨てられ排除され軽蔑され憎悪されていた人々と、教師や学者として権威と権力をもってユダヤ人共同体を支配する人々との、二重に分断された群れがありました。どちらに生まれつくか、その生まれによって、全ては運命づけられます。政治の社会でも政治家の子が政治を支配しているようです。宗教の世界でも宗教家の子が宗教を支配しているのでしょうか。お金持ちも相続という形で相変わらずお金持ちです。ところが、そうしたどんな生まれであろうと、その生まれを越えて、あなたがたは人間の普遍的な本質として「罪の奴隷」ではないですか、と主イエスは鋭く指摘したのです。政治家であろうと、宗教家であろうと、お金持ちであろうと、そんなものは、神の前では何の意味もなさないのです。ただ人は皆「罪の奴隷である」のです。罪人であれ、律法学者であれ、祭司であれ、死の審判の前でそして神の審判の前では、何の役にも立たないのです。死と滅びが、あなたがたを縛りあげ虜にして、死の処刑を宣告するのであって、そこに自由などはなく、致命的な罪と死と滅びに隷属する奴隷であるにすぎないではないか、とはっきりと宣告したのです。したがって誰にも同じように神の御子による罪の赦しが必要であり、神の御子による贖罪の恵みに与り、罪の奴隷から解放されるのでなければ、未来に自由はない、というありのままの現実を告知したのです。貧乏の子がお金持ちになれば自由になれるというのは、この世の話であり、権力を掴んで強くなれば自由だというのは、暴力的な力づくの話であります。罪の奴隷であることから救われるには、どうしてもキリストによる贖罪と新しい神の義が必要であり、それはまさに、主イエスの愛により主の犠牲に基づく神の恵みであります。そこで初めて人は、罪の支配による死と滅びから解放され、永遠の命に憩う自由が与えられるのです。問題は、先ず、根本から「神」に背き離反する所で「自我」を得ようとする堕落を自覚することにあり、そしてそのため、根源的に他者を愛することが出来ない破れと罪を知ることであり、神の御前での審判から誰一人として逃れることはできないことを認識すべきであります。

真理とは、ただ一つ。パウロは、フィリピの教会の人々に手紙を書いて、こう教えています。「2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。」と述べて、教会の皆さんに勧告しています。なぜならそれは、「それはキリスト・イエスにもみられるものです。2:6 キリストは、神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」と続けて述べ、キリストの十字架おける愛と謙遜の真理を明らかにしています。

 

3.「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

「真理」とは「愛」と「謙遜」から生まれる賜物であります。「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」と、パウロの言葉に尽きるのではないでしょうか。無限に愛し憐れむがゆえに、徹底的にへりくだって謙遜を尽くす、しかもそれは徹底した神への従順であり人々を憐れむ愛の証明となって露わに現れます。それこそが「真理」ではないでしょうか。神の御子であるイエス・キリストは、愛と謙遜を徹底して、父なる神に従順を尽くされ、人々の救いのために、愛を尽くされました。先ほど、ローマ総督ピラトの尋問において、ピラトは「真理とは何か」という独言のような問答の言葉を持って法廷尋問を終え、主イエスに十字架刑を宣告したのですが、まさに神の真理は、この愛と謙遜を尽くし切る所に、世界史の一切を一身に引き受けて十字架に向かう所に現わされたのです。確かに、私たちが完全に愛と謙遜を実践するには、限界があり不可能なことですが、パウロの教えるように「慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」心がける、ということは出来るはずです。それによって、僅かながらも確実に私たちは自由になることが出来るはずです。十字架に示された御子のお姿から「真の真理」を知り、主の愛と謙遜から深く学び、本当の自由に生きる道を知ることになるのであります。

 

4.「だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」

しかし、ユダヤの人々はアブラハムの血筋を盾に、力づくで自己の正当性を顕示し貫き、ついには自己絶対化に至ります。「8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れないからである。8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」と主イエスは仰せになり、ユダヤの人々は、頑なに血筋を誇り、その高ぶりゆえの暴力的な激情のもとに、自分たちを絶対化しようとする誤った心を咎めます。ヨハネの書き方からその意味を厳密に申しますと、ここでは二つの態度が対立的に対照され語られます。「あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れない」というユダヤ人たちの心を支配し決定づける要因として、「父のもとで見たこと(tw/| patri. lalw)」に基づくのではなくて、「父から聞いたこと(tou/ patro.j poiei/te)」に基づいているからだとして、其々に定冠詞が付けられて、対立する重大要因として対照的に明記されています。言い換えますと、「父のもとで見たこと」とは、直接には「父」である神の真理であり、「神」として父と子が共に共有する真理を指しており、「父から聞いたこと」とは、本当の意味で「父」から聞いたことという意味ではなくて、「律法」を通してユダヤに伝承された律法の言葉や文字を指すのではないかと思います。つまり前者は「律法」に言い表された「真理そのもの」ですが、後者は「律法」として受け継がれた文字や文書であって、その内容は真理からは遠く離れており、自分たちに都合のよいように利用してきた律法主義的材料に過ぎない、というそんな意味に解釈できそうです。なぜなら、ユダヤ人たちは、特にその権力者たちは、律法主義により、自分たちがユダヤを支配するために律法を利用しており、抜き難い偽善と虚偽によって、「律法」の告げる真理を覆い隠し、捻じ曲げて来たからです。律法の預言が本当に実現して本当のメシアが到来すると、一番困るのはこの人たちでありました。本心からメシアを迎え入れることを決して心から望んではいなかったのです。支配者は、常に「自分」でなければならないのであって、「神」のご支配を迎えることは望まなかったのです。その典型はヘロデ大王でした。ヘロデ大王は、メシアの誕生を聞くと、その同年齢の全ての幼児を一気に虐殺してしまいました。そのヘロデは、何と言うことか、ユダヤを支配するために、一方でローマ皇帝に媚びへつらい王の座を手に入れますが、他方ではエルサレム神殿を修復してユダヤ人の尊敬を集めていたのです。私利私欲に支配されて罪の奴隷となった者が、神の御子である本当の王に、世界を明け渡すことなど出来るはずがありません。これと同じようなことは、私たちひとりひとりの生活や心の中でも、常に起こっているのではないでしょうか。自分の都合のよいように、言い訳や解釈をして、決して「神」のもとに「自分の世界」を明け渡そうとはしないで、掠め取ろうするのです。あれやこれや口実をつけては、「神のもの」を「自分のもの」にして、奪い取ってゆくのであります。こうしてついには神を抹殺してしまうのです。こうした罪は、教会の中でもまた教会のさまざまな付属施設でも、常に起こっていることではないでしょうか。そう考えますと、やはり世の終わりは避けられないのかも知れません。「罪の奴隷である」そのままでは、真理の光に照らされた世界を望むことは本当に難しいことであります。キリストによる十字架の贖罪なくしては、決して私たちは真理に対して自由になることはできないようです。

聖書 ネヘミヤ記9章26~31節

ヨハネによる福音書8章31~38節

 

 

聖書

8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り真理はあなたたちを自由にする。」8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる

8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れないからである。8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 

 

説教

はじめに. あなたは本当に自由なのか?

「あなたは、本当に、自由なのか?」 この問いが、本日の説教の主題となります。今日は、「自由になる」とはどういうことなのか、皆さんとご一緒に聖書から学び直す、とてもよい機会になりそうです。イエスさまは、ユダヤ人を初め私たち人間に、「あなたは、本当に自由なのか?」と問います。私たちからの、自分中心の考えや欲求から考える「人間による自由」と、イエスさまが私たちのために教えようとなさる「神による自由」とは、肉の自由と霊の自由という風にも言えるかも知れませんが、それらは本質的に余りにもかけ離れているように思われます。本日の聖書箇所によれば、主イエスの見ておられる自由の世界と、当時のユダヤ人たちが考えていた自由とは、随分、その意味は違っていたようです。ユダヤ人たちの自由はとても誇り高い自由であったようです。とても皮肉なことに、そのユダヤの自由が、イエスさまの眼にはとても惨めで悲しい現実に映っていたようです。私たちの場合でも、自分で求め考える自由と、神さまがお考えになっておられる自由との間に、大きな隔たりがあるかも知れません。無邪気に自由だ!と喜ぶ他人を見て、何と哀れな人々なのだろうと感じることもあります。

ユダヤの人たちは、皆共通する意識として、民族としての強い誇りと尊厳を持っていた、と思われます。特に、聖書の中の発言にもありますように、8章33節によれば、<8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」>と、いかにも確信と誇りに満ちた発言です。ユダヤの人々は「アブラハムの子孫」という気高く誇り高い自負で満たされており、誰もアブラハムの血筋を誰も絶対に消し去ることはできないのだから、この尊厳は誰も傷つけることも出来ないしまた奪い取ることできない。それゆえユダヤの自由と独立は不変であり、何人といえどもこの自由を侵すことはできない、という絶対的な確信に満ちた発言のように聞こえます。それなのに、なぜあなたは、今さら異邦人の奴隷のように「自由になる」などと私たちに言うのか、と言って、ユダヤ人たちは憤慨しています。もうすでに、選びと民族の血筋においては誰も及ばないのだ、ということでありましょう。

「自由」とは、『広辞苑』(第六版)によれば「心のままであること。思う通り。」とあり、さらに哲学的に言えば「一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。」と書かれていました。無限無条件の自由は想定できないので、ある一定の条件のもとで自由は語りうる、ということでしょうか。例えば、信じる自由、表現する自由、行動する自由ということになります。ユダヤ人たちの共通する大前提は「アブラハムの子孫」です。その意味は、神に選ばれた神の選民であり、神の民です。神の前で完全に認められ選ばれた民であるという点では、何の制約も制限もなく完全に認められた自由がある、ということでしょうか。つまり、自分たちはアブラハムの血筋であるから、その限りにおいて、何をするにしても、神の御前においては何一つの障害も制約もなく、完全に選ばれた民であり祝福されている、ということになります。したがって神に選ばれて祝福されるという点で、誰からも制約を受けず、拘束を受けることは一切ないのだ、という理解です。創世記12章に記されておりますように、「祝福の基」としてアブラハムを祝福しその子孫の繁栄を約束された契約に堅く立っての確信でありましょう。

これに対して、主イエスは、32節以下で「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り真理はあなたたちを自由にする。」と教えられました。ユダヤ人たちは旧約聖書の律法契約に基づいてアブラハムの子孫であることを前提にして、自由を確信したいましたが、それに対して、主イエスは新たに「わたしの言葉にとどまる」こと、そして「わたしの弟子である」ことを前提にした、新しい自由について、告げたのです。イエスさまの教える自由で、とても意味深い所は、唯一つ「真理を知る」ということです。「真理を知る」ことで、人は初めて自由になることができる、と断言しています。「真理」から離れた者には決して自由は与えられない、ということになります。では、その「真理を知る」には、と問えば、「わたしの言葉にとどまる」ことであり、「わたしの弟子である」ことが求められる、と説いたのです。

イエスさまが仰せになられた「真理はあなたたちを自由にする」(h` avlh,qeia evleuqerw,sei u`ma/j)とは、未来形で書かれています。自由になるには、ある決定的な前提条件が今ここに突き付けられます。そしてその決定的な条件が「わたしの言葉にとどまる」ことであり、それによって「わたしの弟子になる」ということであります。つまり、今主イエスのみことばを認め受け入れなければ、真理を知ることができず、真理をしらなければ、未来の自由はない、と言うのであります。非常にはっきりした教えです。そこで真理とは何か、ということになります。

 

1.「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」

「真理」とは何でしょうか。つまりイエスさまのみことばに示された「真理」とは何か、イエスさまの「弟子である」ことの真理とは何か、ということです。みことばの中には何が隠されており、弟子であることに中に、何が起こっているのでしょうか。ヨハネによる福音書には、世界史の全てを決定づけるような、ある決定的な問答が登場します。それは、神の子である主イエスと、世界史を支配するローマ皇帝の代理人であるピラトとの問答です。ローマ総督ピラトは十字架刑を宣告する場面で、主イエスを尋問します。この場面は、果たして真の裁き主はどちらなのか、究極の裁き主の姿とはどのようなお姿なのか、その本質を読者の心に深く問う場面です。ヨハネによる福音書18章37節以下で、こうピラトは主イエスにこう尋問します。「18:37 そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしがだとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆わたしの声を聞く。』18:38 ピラトは言った。『真理とは何か。』」というとても意味深長な対話です。

言わば、ピラトはローマ帝国の総督という立場で、この世の力を代表する権力者であり、言わば世俗の王のだ璃人として、最後は主イエス・キリストを裁いて、十字架刑を宣告する審判者として登場しています。したがってピラトの言う「王」とは、あくまでも世界史上のローマ帝国皇帝であります。反対に、主イエスは神の御子であり、神の国を担う「救い主メシア」であり、最後は人類の罪を一身に背負い、神の裁きのもとに自己犠牲のいけにえとして贖罪の死を遂げ、人類の贖い主として自ら十字架にかかり死んでく救い主としての王であります。言わば、「真理とは何か」という問答のもとに、この世の権力者側に立つ「王」の真理と神の国を齎すメシアとしての「王」の真理とが激しくぶつかり合っています。真理とは、一方は暴力的な世俗権力による真理なのか、もう一方では十字架における神の愛と憐れみによる、救いという真理なのか、両者が一つの真理の中で相互に激突し合う場面です。確かにこの世では、力づくの権力や暴力で、いくらでもねじ伏せて、真理を造り出すことも可能かも知れません。一般に、歴史は権力者の記述による、と言われるように、歴史や史実はそうした性格を帯びていることは否めない事実でありましょう。そしてそれがこの世では全てを審判する「真理」と見なされるのでありましょう。しかし神の国では、人々を愛するがゆえに犠牲となることで、「真理」が明らかになります。そのような意味で、聖書の真理を、キリスト教の真理を正しく理解して、受け入れる、ということはとても難しいことであります。イエスさまのみことばにとどまり、イエスさまの弟子として生涯を本当の意味で終える、ということは、決して尋常なことではないように思います。そういう意味で、本当の意味で「クリスチャン」(キリストに属する者たち)がこの世で増えるということも難しいことでありましょう。難しいことではありますが、真理は確かに与えられており、真理に生きることも不可能なことではありません。正しい意味で、真理を知る者として生涯を尽くして生きる、ということも決して不可能なことではないはずです。

 

2.「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」

ただし、そのためには、ある決定的な「自覚」と「認識」が求められます。戻りまして8章34節で主イエスはこう説きます。「8:34 イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。』」と、主イエスはさらに踏み込んで語り、真理に至る道筋をお示しになります。真理を知り真理に至るために、二つのことが明らかにされています。一つは「罪の奴隷である」という自覚です。そしてもう一つは、罪の奴隷から解放されるためには「子」が必要である、即ち「わたしの弟子である」という信仰であります。

先ず「罪」の自覚について申しますと、ユダヤ社会には「罪人」と呼ばれ、ユダヤ人共同体から切り捨てられ排除され軽蔑され憎悪されていた人々と、教師や学者として権威と権力をもってユダヤ人共同体を支配する人々との、二重に分断された群れがありました。どちらに生まれつくか、その生まれによって、全ては運命づけられます。政治の社会でも政治家の子が政治を支配しているようです。宗教の世界でも宗教家の子が宗教を支配しているのでしょうか。お金持ちも相続という形で相変わらずお金持ちです。ところが、そうしたどんな生まれであろうと、その生まれを越えて、あなたがたは人間の普遍的な本質として「罪の奴隷」ではないですか、と主イエスは鋭く指摘したのです。政治家であろうと、宗教家であろうと、お金持ちであろうと、そんなものは、神の前では何の意味もなさないのです。ただ人は皆「罪の奴隷である」のです。罪人であれ、律法学者であれ、祭司であれ、死の審判の前でそして神の審判の前では、何の役にも立たないのです。死と滅びが、あなたがたを縛りあげ虜にして、死の処刑を宣告するのであって、そこに自由などはなく、致命的な罪と死と滅びに隷属する奴隷であるにすぎないではないか、とはっきりと宣告したのです。したがって誰にも同じように神の御子による罪の赦しが必要であり、神の御子による贖罪の恵みに与り、罪の奴隷から解放されるのでなければ、未来に自由はない、というありのままの現実を告知したのです。貧乏の子がお金持ちになれば自由になれるというのは、この世の話であり、権力を掴んで強くなれば自由だというのは、暴力的な力づくの話であります。罪の奴隷であることから救われるには、どうしてもキリストによる贖罪と新しい神の義が必要であり、それはまさに、主イエスの愛により主の犠牲に基づく神の恵みであります。そこで初めて人は、罪の支配による死と滅びから解放され、永遠の命に憩う自由が与えられるのです。問題は、先ず、根本から「神」に背き離反する所で「自我」を得ようとする堕落を自覚することにあり、そしてそのため、根源的に他者を愛することが出来ない破れと罪を知ることであり、神の御前での審判から誰一人として逃れることはできないことを認識すべきであります。

真理とは、ただ一つ。パウロは、フィリピの教会の人々に手紙を書いて、こう教えています。「2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。」と述べて、教会の皆さんに勧告しています。なぜならそれは、「それはキリスト・イエスにもみられるものです。2:6 キリストは、神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」と続けて述べ、キリストの十字架おける愛と謙遜の真理を明らかにしています。

 

3.「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

「真理」とは「愛」と「謙遜」から生まれる賜物であります。「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」と、パウロの言葉に尽きるのではないでしょうか。無限に愛し憐れむがゆえに、徹底的にへりくだって謙遜を尽くす、しかもそれは徹底した神への従順であり人々を憐れむ愛の証明となって露わに現れます。それこそが「真理」ではないでしょうか。神の御子であるイエス・キリストは、愛と謙遜を徹底して、父なる神に従順を尽くされ、人々の救いのために、愛を尽くされました。先ほど、ローマ総督ピラトの尋問において、ピラトは「真理とは何か」という独言のような問答の言葉を持って法廷尋問を終え、主イエスに十字架刑を宣告したのですが、まさに神の真理は、この愛と謙遜を尽くし切る所に、世界史の一切を一身に引き受けて十字架に向かう所に現わされたのです。確かに、私たちが完全に愛と謙遜を実践するには、限界があり不可能なことですが、パウロの教えるように「慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」心がける、ということは出来るはずです。それによって、僅かながらも確実に私たちは自由になることが出来るはずです。十字架に示された御子のお姿から「真の真理」を知り、主の愛と謙遜から深く学び、本当の自由に生きる道を知ることになるのであります。

 

4.「だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」

しかし、ユダヤの人々はアブラハムの血筋を盾に、力づくで自己の正当性を顕示し貫き、ついには自己絶対化に至ります。「8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れないからである。8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」と主イエスは仰せになり、ユダヤの人々は、頑なに血筋を誇り、その高ぶりゆえの暴力的な激情のもとに、自分たちを絶対化しようとする誤った心を咎めます。ヨハネの書き方からその意味を厳密に申しますと、ここでは二つの態度が対立的に対照され語られます。「あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れない」というユダヤ人たちの心を支配し決定づける要因として、「父のもとで見たこと(tw/| patri. lalw)」に基づくのではなくて、「父から聞いたこと(tou/ patro.j poiei/te)」に基づいているからだとして、其々に定冠詞が付けられて、対立する重大要因として対照的に明記されています。言い換えますと、「父のもとで見たこと」とは、直接には「父」である神の真理であり、「神」として父と子が共に共有する真理を指しており、「父から聞いたこと」とは、本当の意味で「父」から聞いたことという意味ではなくて、「律法」を通してユダヤに伝承された律法の言葉や文字を指すのではないかと思います。つまり前者は「律法」に言い表された「真理そのもの」ですが、後者は「律法」として受け継がれた文字や文書であって、その内容は真理からは遠く離れており、自分たちに都合のよいように利用してきた律法主義的材料に過ぎない、というそんな意味に解釈できそうです。なぜなら、ユダヤ人たちは、特にその権力者たちは、律法主義により、自分たちがユダヤを支配するために律法を利用しており、抜き難い偽善と虚偽によって、「律法」の告げる真理を覆い隠し、捻じ曲げて来たからです。律法の預言が本当に実現して本当のメシアが到来すると、一番困るのはこの人たちでありました。本心からメシアを迎え入れることを決して心から望んではいなかったのです。支配者は、常に「自分」でなければならないのであって、「神」のご支配を迎えることは望まなかったのです。その典型はヘロデ大王でした。ヘロデ大王は、メシアの誕生を聞くと、その同年齢の全ての幼児を一気に虐殺してしまいました。そのヘロデは、何と言うことか、ユダヤを支配するために、一方でローマ皇帝に媚びへつらい王の座を手に入れますが、他方ではエルサレム神殿を修復してユダヤ人の尊敬を集めていたのです。私利私欲に支配されて罪の奴隷となった者が、神の御子である本当の王に、世界を明け渡すことなど出来るはずがありません。これと同じようなことは、私たちひとりひとりの生活や心の中でも、常に起こっているのではないでしょうか。自分の都合のよいように、言い訳や解釈をして、決して「神」のもとに「自分の世界」を明け渡そうとはしないで、掠め取ろうするのです。あれやこれや口実をつけては、「神のもの」を「自分のもの」にして、奪い取ってゆくのであります。こうしてついには神を抹殺してしまうのです。こうした罪は、教会の中でもまた教会のさまざまな付属施設でも、常に起こっていることではないでしょうか。そう考えますと、やはり世の終わりは避けられないのかも知れません。「罪の奴隷である」そのままでは、真理の光に照らされた世界を望むことは本当に難しいことであります。キリストによる十字架の贖罪なくしては、決して私たちは真理に対して自由になることはできないようです。