2021年1月24日「盗んではならない」 磯部理一郎 牧師

2021.1.24 小金井西ノ台教会 公現後第3主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答110~111

十戒について(7)

 

 

問110 (司式者)

「第八戒(『盗んではならない』)において、神は何を禁じるのか。」

答え  (会衆)

「神は、ただ司法当局が処罰する盗みや強盗だけを禁じるのではありません。

そればかりか、力づくにより、

或いは、不正な目方・枡・物差・物品・貨幣・利息を正当に見せかけることにより、

すなわち神によって禁じられる何らかの方法により、

隣人の財産をわがものとしようとする、あらゆる悪巧みや悪事のすべてを、神は盗みと呼びます。

加えて、あらゆる貪欲と神の賜物を無駄に浪費することもまた(神は盗みと呼び禁じます)。」

 

 

問111 (司式者)

「ではこの戒めにおいて、神は何をあなたに命じるのか。」

答え  (会衆)

「わたしが、可能な限りそしてしたいと願う限り、

隣人の利益のために、役立つようにますます励み、

隣人に対して、自分が人にして欲しいように自ら振る舞い、

困窮の中で惨めな思いをする人々を助けたいと願って、誠実に働くことです。」

 

 

2021.1.24 小金井西ノ台教会 公現後第3主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教51(問答110~111)

説教「盗んではならない」

聖書 申命記5章17~21節

テモテへの手紙一6章3~10節

 

前回の第七戒「姦淫してはならない」に続いて、本日の説教は、第八戒「盗んではならない」という戒めの解き明かしとなります。第七戒の「姦淫してはならない」という禁止命令は、所謂「結婚制度を守る」ために、規定された律法ではなくて、「神の呪い」を回避するために、神の御前で人格の尊厳を尽くして、其々が決断した結果として、自分自身からの神さまへの応答として、「姦淫はしてはならない」という戒めを持つに至る、という戒めであります。律法を規定する基本原理は、ここでは「神の呪い」を避ける選択として、自分の人格としての決断が求められます。その本意は「神の祝福」に生きる、という選択的決断によるものであります。神さまの御心を知り、自分自身の人格的尊厳を精一杯尽くして、神さまの御心にかなう選択をする、そうしてそこで出会う神の祝福に生かされる、そして自分にとっても自由で真実な生き方を始めるのであります。

本日の第八戒「盗んではならない」という禁止命令も、同じ原理のもとにあります。即ち「神の祝福」に生きようとする選択的決断から生じた、また神さまに対する真摯な応答を前提にして、自らの人格の尊厳を尽くした自由と喜びにおいて、まさに神への感謝と喜びをもって、受け入れてゆく戒めであります。私たちは、自らの自由を尽くして、まず神の御心に心を向けます。そして謙遜に、神の御心に心の耳を向けると、神のみことばは鋭い剣となって、聞こえてきます。みことばの向こうには、神さまがおられ、神さまもそのご人格を尽くして私たちの前に現存しておられます。そこは「聖」であり、「義」であり、「超越」であり、そして何よりも「愛と憐れみ」に満ち溢れています。時に、みことばは「神の呪い」のように響き、自分の罪を徹底して断罪告発する「裁きの声」のように聞こえます。そうした「神の呪い」の前に立ち尽くし、神が厳かに現臨する御前で、すなわち神が語るみことばの前で、自らの人格的尊厳を尽くして、みことばを聴き分けるのです。そうして次第に神のご人格に触れ、ついには神の尊厳と愛に触れ、本当の神の恐れ(畏れ)を知り、神の呪いを避けて、神の祝福に生きようとする決断に至るのです。こうして「神の祝福」にお応えする道を選択する信仰生活の始まりとなります。聖書のみことばを読み、また聞くということは、そういうことでありましょう。

 

本日の第八戒について、ハイデルベルク信仰問答110では、こう告白宣言します。「第八戒(『盗んではならない』)において、神は何を禁じるのか。」と問いまして、「神は、ただ司法当局が処罰する盗みや強盗を禁じるのではありませんそればかりか力づくにより、或いは、不正な目方・枡・物差・物品・貨幣・利息を正当に見せかけることにより神によって禁じられる方法により、隣人の財産をわがものとしようとする、あらゆる悪巧みや悪事のすべてを、神は盗みと見なします。加えて、あらゆる貪欲と神の賜物を無駄に浪費することもまた(神は盗みと見なし禁じています)。」と告白します。最初の答え方に注目しますと、「神は、ただ司法当局が処罰する盗みや強盗を禁じるのではありません。」と言い切っています。しかも最後の所では「神は盗みと見なします」と盗みの最終判断は神の裁定による、と言っています。つまり第七戒「姦淫してならない」と同じように、第八戒「盗んではならない」とは、ただ単に「司法当局が処罰する盗みや強盗を禁じるのではない」と、国家や社会による司法がこの戒めを規定する基本原理ではない、と明確に断言し公言しています。すなわちこの世の人間の側には決定権は一切ない、ということになります。「司法当局」と意訳しましたが、元々の字は「上に立つ支配機関、政府、役所、当局」(Obrigkeit)を意味する字です。つまり問答は、単に、国家社会の規定する「盗み」だけをここで問題にしようとしているのではないのです。それ以上の、それを超える、もっと本質的で根源的な「盗み」を、神は問題にしているのだ、と言うわけです。

似たような誤解が「罪」という概念にもあります。同じように司法当局によって処罰される、所謂「犯罪」を、一般的には「罪」と言いますが、キリスト教では、つまり神が問題にしようとするのは「犯罪」以上の罪、それ以上の、もっと根深て根源的にある、人間の本質や本性において決定的な意味をもつ「罪」を問題にします。いわば犯罪を幾重にも引き起こす「原罪」であります。英語ではThe Original Sinと呼びます。盗みも、犯罪としての盗み以上に、もっとその奥に根源的な盗みがあって、人間の本質を支配する「原罪」を根元にあって、「盗み」を犯させるのです。神さまはその盗みを告発し断罪し、かつ激しく呪うのですが、問題はその奥に潜む罪こそ、神が呪う本体であります。いわば「姦淫してはならない」とは、姦淫を引き起こす姦淫の根っこ、姦淫の「心」を神は問題して呪うのです。同じように「盗んではならない」も、盗みを引き起こす盗みの根っこ、盗みの「心」を神は問題にし、呪うのです。

 

問答110の答えで、意味深い点は「力づくにより」とありますように、身分や地位など、あらゆる世の社会的「力」を背景にして、掠め取ること、極端に言えば、違法に強奪することよりも、所謂「合法的」に盗むこともありうるのであって、その合法的な盗みも含めて、重大な「盗み」として、神は見ておられるのです。それはただ単に金銀だけではなく、それに纏わりつく権力や利害、場合によって人事や人脈による地位獲得も含まれるでありましょう。独占欲や支配欲など、さまざまな人間の欲望から生じる盗みが、神によって断罪告発され、そしてついには呪われているのです。私たちの地上の教会社会の中でさえも、例外なく、いくらでも起こっている「盗み」があるのではないか、と予想させます。教会の私物化はその典型であります。まさにありとあらゆる「力」や「見せかけ」によって、何もかもを掠め取ってしまう「盗み」であります。恰も「合法」的に、恰も「民主」的な制度や選挙の見せかけの名のもとに、掠め取り、盗むのであります。『国盗り物語』という名の小説がありますが、まさに国さえも盗みとる強盗であります。政治や経済、場合によっては、教育や福祉などの領域において、そして何よりも宗教という領域においてこそ、甚だしい「盗み」が横行しているのではないだろうかと、とても不安で恐ろしくなってしまいます。まさに世の中とは、大きな盗み合いの中に、生まれては消え、盗みの連続現象は続いているようにも見えてきます。

 

ここで、基本的な問いが生じます。世界はいったい誰のものなのか、という問いです。「私有」とか「私有財産」は、憲法や国法によって保障されます。しかし究極において、果たして世界は「わたしのもの」なのでしょうか。前回ご紹介しましたように、熊野義孝先生はこう論じておられます。「近代主義の特徴は既に周知のごとく、一言にして主観化の原理に立脚したものと考えることができる」と述べて、近代精神とは「自我哲学」による支配である、として総括なさっておらます。繰り返しのご紹介をご容赦いただきますが、こうも言われます。「個性の創造的な自由を仮定しつつ究極には世界を自我の延長となす哲学である。そこではあらゆる非我乃至物象はことごとく自我の自由な人格性の展開のための手段と見なされ、自我の自律(Bei-sich-selbst-sein)ということが究極の原理であり、それ故に自我の豊饒は同時に人類致富の所以である。」(『熊野義孝全集』9、「教会と文化」338頁)と、近代精神を総括されています。しかしさらに深刻なのは、教会の現実です。同じ論文で「教会の現実性を見失ってこれを主観化し空想化する謬想に対してわれわれは警戒せねばならぬ」と、キリスト教会自身に警鐘を鳴らしておられます。キリスト教会自身が本来の教会性を見失って、自ら主観化して、自我哲学の支配の中に堕落している、という厳しい批判であります。昨今の言い方をすれば、まさに「教会」自身が、世界を私物化し、自己目的化している、という指摘になります。こうした意識の広がりの中で、「盗むな」という戒めを、改めて聴き直すのであります。主観化の原理について、おそらくこれほどまでには、ハイデルベルク信仰問答の時代では、予測できなかったことかも知れませんが、その後の近代現代社会は、こうした驚くべき化け物のような怪物の姿をした私物化社会として出現したわけです。それは、産業革命や巨大な資本を背景にして、古代中世とは比較にならない規模で進行しています。ある報告では、世界の全ての富は僅か7%の人だけが独占している、というわけです。確かに民主的で平等な社会を近代は実現したことは、否めない歴史的事実でもあり、高く評価しなければなりません。しかし他方で、改めて根源から、世界は果たして誰のものなのか、と問うのです。極論すれば「わたしのもの」、すなわち主観化の原理と自我哲学の徹底した展開の中で実現したことも、また事実であります。さらに言い切るならば「世界は人間だけの独占物」なのか、という問いであります。人間もまた自然世界の一部であり、神の被造物の一つではないのか、という問いであります。「盗むな」という神の戒めの前には、「盗む」人間がいるのであります。熊野先生によれば「キリスト教の見地においては、現存の人間は罪を犯さざるを得ない。人間の罪悪不可避性ということがまず明確に認識されねばならぬ。このことは唯個人的に清潔が保たれ得ぬという以上に、われわれが必然的にこの堕罪の世界に生息している事実から導き出される。したがってわれわれの自覚は、人格の自律ではなく罪責の認識(Sich-Schuldig-wissen)でなければならぬ。」と述べて、いわば「盗む」という「罪責の認識」を求めておられます。先生は、さらにこう結論づけています。「私が汝乃至彼に対して相手の独立を犯し、その人格を無視する時、この罪が同時に私をも汝をも彼をも包む創造の秩序を破壊する」と断じ、盗みとは即「創造秩序の破壊」を意味し、まさに盗みとは、創造の秩序を破壊してしまった人間の堕罪から生じている、と指摘します。

まさにイエス・キリストは、この破壊された創造の秩序を回復するために、世に降り受肉して、その創造世界を本質から背負い、十字架において贖罪し、復活により新しい創造へと回復するのであります。教会は、そのキリストの身体であることを改めて想い起すのであります。この受肉のキリストにおける十字架と復活による贖罪と新しい創造こそ、教会本来の現実であり、したがって教会が世に身を置く意味と目的は、この贖罪者としての働きを担うことであります。

 

「盗む」という意味をより深く根源から考え直すうえで、世界はだれのものかと問ううちに、少し大きな議論となりましたが、単に司法上の盗みが問題となるにとどまらず、神によって創造された創造世界のすべてが、人間の犯した罪により、大きな「盗み」の中にあるのだ、という問題がお分かりいただければ、十分であります。ですから教会は、絶えず「盗んではならない」と語り続けなければならないのです。ハイデルベルク信仰問答110の答えに「隣人の財産をわがものとしようとする、あらゆる悪巧みや悪事のすべてを、神は盗みと見なします。加えて、あらゆる貪欲と神の賜物を無駄に浪費することもまた(神は盗みと見なし禁じています)。」と告白しています。ここで決して読み落としてならないことは、一見「隣人のもの」を盗むことを主題にしているように見えますが、それに加えて「神の賜物」を無駄に浪費することも大きな「盗み」として禁じられていることです。ここで、私たちは、世界がすべて「神の賜物」であることを想い起すことになります。そういう意味では、万物は、「隣人」のための所有物としてあるのでもなければ、ましてや「自分」のものだと思い込んでいる資産は勿論のこと、命や生活のための「時間」も「空間」もそして「空気」さえも、すべてが「神の賜物」であって、浪費することは盗みとなる、というわけです。すべてが神のものであること、神からお預かりしたもの、そしていずれは、神にお返しすべきものである、ということを、絶えず私たちは深く心に留めておくべきでありましょう。愚かなことですが、結局は、万物が神により創造された神のものである以上、盗んで盗んでも、盗み通すことはできないのです。改めて盗む愚かさを、深く知るべきでありましょう。言い換えれば、神の創造に対する「盗み」が根本から問題にされるその大きな枠の中で、隣人のものを盗むという人間社会での盗みが断罪されているように思われます。

 

さて、こうした盗む愚かさから一変しまして、問答111は、ついに新しい決断と信仰による神への応答として、新しい生活を告白するに至ります。「ではこの戒めにおいて、神は何をあなたに命じるのか。」と率直に問い、つまり「盗むな」という禁止命令の前で、あなたは今ここで何を学び、どう決断し、何をもってあなたの新しい生き方とするのか、とそう問答は迫ります。そして「わたしが、可能な限りそしてしたいと願う限り、隣人の利益のために、役立つようにますます励み隣人に対して、自分に人がして欲しいように自ら振る舞い困窮の中で惨めな思いをする人々を助けたいと願って、誠実に働くことです。」と応答します。告白者たちは、神のみことばである戒めに、心を向け直して、新たに決断し、神にお応えしようとしています。そして新しい信仰による生活を始めます。北森嘉蔵先生が教室でよく言われていたことを想い起します。それは、キリスト教の本質、愛の本質とは、「自己否定媒介」による他者愛である、というお言葉です。また「他者媒介」による自己形成ということも言われていたように記憶しています。自己存在を、徹底的に「他者」に向けて、献げ奉仕するのですから、当然ながら、その行為は「自己否定」となります。しかしこの自己否定の行為によって、本当の意味での自己形成は媒介され獲得される、という意味でありましょうか。信仰問答では「隣人の利益のために」「隣人に対して」そして「困窮の中で惨めな思いをする人々」と三度に渡って隣人を挙げています。そして神によって自分の前に「隣人」として差し出された人々のために、「わたしは、励みfördere、振る舞い(行動を取り)handele、そして働くarbeite」と答えでも、三重の動詞を用いて、その覚悟を告白しています。

 

しかし、やはりどうしても近代現代の人々は、自我欲求の満足、自己実現、立身出世、そして承認欲求・・・のために、と、すべての価値が「主観化の原理」によって、「自我哲学」によって貫かれ、支配されているように見えます。そうした現実の中で「盗むな」と説き、ましてや「自己否定媒介」による「他者愛」の精神を生きることは不可能に近く、とても困難なことです。それどころか、理解さえできない、と言えましょう。理解しがたい、あり得ないことに、いよいよ思えてきます。これは、実に大きな壁であり、下手をすれば、却ってこちらの方が、別の意味で、空想や幻想であるとして、嘲笑されてしまうのではないでしょうか。場合によっては、そうした言動は、偽善かつ虚偽と見なされてしまいそうです。しかし、熊野先生の教えからすれば、だからこそ、世界や人類という水準では果たせない、「預言者」としての「批判的使命」が「教会」には委ねられている、と言えます。なぜなら、教会の本質は「天」にあるからです。そして私たちの国籍も天にあるからです。繰り返し申しますが、この被造世界にではなくて、教会は、「天」に向かって、神に選ばれ召し集められた民の共同体であり、「キリストの身体」として世に現存する教会であればこそ、世界に向かって、教会は「盗むな」と「語る」ことができるのです。「したがってわれわれの自覚は人格の自律ではなく罪責の認識(Sich-Schuldig-wissen)でなければならぬ。」ということになるのではないでしょうか。上から下に対して命令するようにではなく、愛と謙遜をもって、下から上に向かって世に仕えて、人々に奉仕し、そして隣人のために誠実に働き、励むのです。このことは、次回の説教でもう少し丁寧に触れたいと思いますが、こうした大きな壁への挑戦において、できないことをできる、と去勢を張って言っているのではありません。むしろだからこそ、却って、神を恐れ(畏れ)、なしうる謙遜をもって、向き合い立ち向かうのであります。

 

私たち自身のこの時代に対する、信仰によるチャレンジについての議論は、もう少し丁寧に、次回の問答から扱いますが、ここでは先ず、その前に、聖書から学び直しておきたいと思います。使徒パウロは、愛弟子テモテに手紙を書き送り、こう諭しています。「6:7 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ世を去るときは何も持って行くことができないからです。6:8 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。6:9 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が人を滅亡と破滅に陥れます。6:10 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。6:11 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義信心信仰忍耐柔和を追い求めなさい。6:12 信仰の戦いを立派に戦い抜き永遠の命を手に入れなさい命を得るためにあなたは神から召され多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。6:13 万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。6:14 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく非難されないように、この掟を守りなさい。」(Ⅱテモテ6:7~14)文面からは、実に温かく労り、愛情豊かに説諭するパウロの心が滲み出て来ます。しかし同時に絶対に信仰からは妥協しない、という厳しい使徒としての姿勢がここには貫かれています。「おちどなく、批判されないように、この掟を守りなさい」というのが、弟子への命令です。

パウロはテモテに二つのことを教えます。一つは、欲により罪によって引き起こされる滅びです。「その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます」と教えていました。「何も持たずに世に生まれ世を去るときは何も持って行くことができない」とも説いていました。わたくしはこれ以上に勝る、人生をわきまえ知る「分別」はほかにはない、と思います。人生最大の学びとは、世に生まれた以上は、「世を去る」意味と目的を深く考え知る、できればそれを豊かに味わう、ということではないでしょうか。しかもこの世では最後に一切を失い、無となって去る「死と滅び」の人生の意味を、そしてその後に控える最後の審判を、深く弁えることです。もう一つは、神の愛と神への信仰による「永遠の命」です。これが聖書のメッセージの中核です。「6:12 信仰の戦いを立派に戦い抜き永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」と確信、確証に満ちた言葉で、告げます。おそらくこれを読んだテモテは、どれほど大きな希望と励ましを得たことでしょうか。ここには、まさに「みことばの力」、「励まし」が溢れています。パウロは、若く未熟なテモテに、「滅び」に至る道を捨てる勇気を教え、同時にまた「命」に至る道に生きる希望と誇りを教えたのです。だからこそ、謙遜に「正義信心信仰忍耐柔和を追い求めなさい。」と勧めるのです。怯むことなく、臆することなく、愛と信仰の道を生きるのであります。

若いテモテにとっては、どれほど世界の壁、しかも大きな罪と滅びに支配された世界との宣教の闘いは、大きな壁であったでしょうか。それは現代に生きる私たちも同じであります。何も変わりません。この大きな壁の前で、パウロは愛弟子と共に立って、神への大きな信頼と希望をもって、立ち向かうのです。そしてすぐにパウロは、ローマで処刑され、殉教してゆくことになります。