2021年12月5日「言葉は神と共にあった」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 12.5 小金井西ノ台教会 待降節第2主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教27

説教 「言葉は神と共にあった」

聖書 創世記1章1~5節

ヨハネによる福音書1章1~5節

 

 

聖書

「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 

 

説教

はじめに.クリスマスを待ち望む

待降節を迎えました。クリスマスを迎える直前まで、一本ずつの蝋燭の火をともしながら、4つの主日を辿り、クリスマスを迎えます。このクリスマス直前までの、約4週間は、教会が「待降節」として公に定め設けた準備の期間であります。単純な考えからすれば、そのまますぐにクリスマスを迎えれば、それでよいのですが、すぐにクリスマスを迎えずに、4週間にも渡る「待降節」が用意されたのは、いったいなぜなのでしょうか。それには大きな理由と意味があります。ヨハネによる福音書1章5節には「1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。確かにそして実際に「光は暗闇の中で輝いている」のです。これは、動かすことの出来ない神の事実であり、真理の出来事なのです。しかし、光がどれほど燦然と輝いていても、「暗闇は光を理解しなかった」というのです。言い換えれば、神は厳然と現存し、人類に愛と命を齎そうとしても、人々は一向に神を認めず、神の愛と命に生きようとはしないのです。神が、いくらクリスマスに御子による救いを実現しても、人々はそれを受け入れようとはしないのです。ルカによる福音書は御子の誕生の次第をこう記します。「2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:6~7)と述べ、御子をには産まれるためのべ場所がなかったことを証言しています。人々は、メシアを迎えるべき場所を用意しようとはしなかったのです。またマタイによる福音書は「2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。」(マタイ2:16)と証言しています。二歳以下の幼児全てを虐殺してまでも、メシアの誕生を認めることはできなかったのです。人間の自我が、御子のための場を、自分のうちに認めることができなかったのです。言い換えれば、神の御子を「わが主、わが神」として、迎え入れることができなかったのです。いくら神がおられ、福音と共に到来しても、それを受け入れることができなければ、人は神なき世界を生きることになります。そこで教会は、蝋燭の火を一本また一本と灯すようにして、神という光、神の恵みと真理の光を心のうちに輝かせて、わがうちに神の光とすることを、クリスマスを迎える前の信仰生活に求めたのではないでしょうか。そして4本の蝋燭全てに光が燈る頃、私たちの魂のうちに、神をお迎えするにふさわし場が用意されることを求めたのではないでしょうか。そうでなければ、本当の意味で、クリスマスを迎えることは出来ないからです。私たちの心の内に、神がお出でになれる隙間を用意するのであります。心を開いて、私たちの魂の全てを神に明け渡すのであります。

 

1.クリスマス礼拝の意義

クリスマスの礼拝は12月25日と公に教会で定められています。正確には、24日の日没から25日夜明けにかけて、クリスマス礼拝は夜通しに行われます。24日の日没を迎えますと、「イブの礼拝」と呼ばれ、先ず神の御子が神のもとで永遠に生まれたことを覚えて、「永遠の神の御子」の礼拝が行われます。キリスト教の神の定義は、父と子と聖霊の三位一体の神の教理によりますが、言うまでもなく、父も子も聖霊も同一本質の「神」であります。御子は「神」として「永遠」において神の御子であり、聖霊もまた「神」として「永遠」において聖霊の神であり、しかも父と子と聖霊は相互に同等同質である、と規定したニケア信条により、キリスト教会の「神」は根本教義として定義されます。クリスマスの意義は、何よりも先ず、この御子が永遠の「神」であることを覚え、宣言する礼拝であり祭りであります。伝統的な教義では、「子」は父から永遠に「生まれ」、「聖霊」は父から永遠に「発出する」と言われて来ました。かつてはこの教理から逸脱しますと、直ちに「異端」として弾劾されました。

クリスマスの礼拝において、さらに一つ重要なことは、日没のイブの礼拝に続く「真夜中の礼拝」へと進み、クリスマス礼拝は頂点に達するのですが、そこでは、永遠の神である御子が、聖霊の働きと共に、処女マリアの胎内において人間本性を受けて受肉し、この世に人の子として誕生したことを覚える礼拝です。つまり、神である御子が「人の子」として受肉したことを宣言し祝う礼拝です。神が人の本性の中に入る、或いは、神が人の本性を背負うのです。その瞬間に、人の本性は「神」と共にあり一体となった神の身体となることを意味します。完全に本質が異なり、しかも無限に超越する神が、人間本性に深く根源から介入するのです。これによって、人間本性は根源からの神の介入を受けて、根本的に新しく神によって造り変えられ、新しく生まれ変わるのです。教理として言えば、カルケドン信条によりますが、キリストという神の御子のうちに、「神」の本性と「人」の本性の二つの本性が同時に実現していることを意味し、しかもその神と人との本性は非分離非混合である、と宣言されますこの受肉して人間本性を引き受け背負うキリストは、罪と死と滅びに堕落した人間本性の新しい創造の原型となります。人間本性は神になることはできませんが、キリストの恵みにより、神の根元的な介入と祝福を受けて、限りなくキリストと同じ姿へと導かれてゆくことになります。

そうした人間本性と世界の新たなる誕生と喜びは、「夜明けの礼拝」において、全世界に告げ知らされ、クリスマス礼拝は完結します。したがって、クリスマスの礼拝には、キリスト教の神学と信仰の全てが込められ、現され、宣言されていることになります。

 

2.「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

このようにクリスマスの神学の基礎は、東方ギリシャ神学におけるロゴス・キリスト論に由来し、しかもその東方神学の形成の基となったのは、ヨハネによる福音書における御子イエス・キリストの教えであります。ヨハネはその福音書の冒頭で、真っ先に、先在の「ロゴス(言)」について、宣言します。「1:1 初めにがあった。言は神と共にあった言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と記して、全ての始まりは「言」から始まった、とを宣言します。原典では定冠詞が付けられており、特定の人格的存在として、「ロゴス(言)」の存在が想定されているように思われます。しかも「ロゴス(言)」は、人格的存在が想定されると共に、そのお方の力強い意志や豊かな知恵の働きもまたそこに認めることができそうです。3節に「1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とありますように、万物の生成の根源には、神の意志と知恵が働き、神は意志と知恵に基づいて創造されたことが予測されます。ただし、ここではっきりと区別しておくべきことは、グノーシス主義の言う「流出説」のように、神の言がそのまま流出して万物の生成がなったのではない、ということです。万物は「無」からの創造を受けて成った、と解釈すべきであります。それはちょうど「1:1 初めに、神は天地を創造された。1:2 地は混沌であって闇が深淵の面にあり神の霊が水の面を動いていた。1:3 神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」と創世記1章1節以下が示す通りです。神の人格的な強い意志と知恵をうかがい知ることができるのではないでしょうか。

次いで、リビングバイブルが、とても興味深い訳をしていますので、ご紹介しますと、「1:1 -2まだ何もない時キリストは神と共におられました。 キリストはいつの時代にも生きておられますキリストは神なのです。1:3 このキリストがすべてのものをお造りになりましたそうでないものは一つもありません。1:4 キリストには永遠のいのちがあります 全人類に光を与えるいのちです。1:5 そのいのちは、暗やみの中でさんぜんと輝き、どんな暗やみもこの光を消すことはできません。」と、非常に分かり易く、そして意味もしっかり通った訳になっています。まずはっきりしている所は、ロゴス(言)を、はっきりと「キリスト」と訳し切っています。さらに「はじめに」という言葉を、より明瞭に「まだ何もない時」と意訳しています。しかも、時と共に消滅する存在ではなく、キリストはいつの時代も生きておられます、と訳して、明確にキリストが永遠の「神なのです」と宣言しており、さらには、いよいよはっきりと「このキリストがすべてのものをお造りになりました」と訳しています。しかも4節と5節でも、「1:4 キリストには永遠のいのちがあります全人類に光を与えるいのちです。1:5 そのいのちは、暗やみの中でさんぜんと輝き、どんな暗やみもこの光を消すことはできません。」とありますように、クリスマスが何であるか、非常に分かり易く示しているのではないか、と思います。いわば、クリスマスの福音を言い尽くしているように思える聖句であり、また名訳です。ヨハネによる福音書の冒頭は、決してクリスマスのために書かれたわけではありませんが、クリスマスの礼拝の意義もその神学や教理も、完全に言い尽くしているのではないでしょうか。

 

3.「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」

ヨハネは、御子について、「1:14 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と伝えます。キリストの受肉であり、神の言であるキリストが、聖霊の働きと共に処女マリアの胎に宿り、人の子としてこの世に誕生したことを告げ知らせています。真夜中のクリスマス礼拝では、永遠の神の御子が処女マリアより誕生したことを喜び祝いますが、まさに、「キリストの受肉」を深く覚え、高らかに宣言し祝うのです。言い換えれば、神の御子が、私たちの人間本性を根元から引き受け背負われた、と言ってもよいでありましょう。つまりキリストが処女マリアから肉を受け人間性を纏い、人の子として誕生した、その時点から、私たち人類は、完全に神に担われ背負わたのです。キリストが人間の身元引受人となったのです。

クリスマス・シーズンになりますと、巷の演奏会でも、よくヨハン・セバスティアン・バッハの「クリスマスオラトリオ」BWV248が演奏されます。当時と違って、今では教会の礼拝の中で用いられず、もっぱら演奏会の場でしか聞くことはできないようです。しかしそれでもそれを聞く度に、いつも感慨を深くいたしますのは、その中では「如何にして我は汝を迎えまつり」(Choral “Wie soll ich dich empfangen”)と、クリスマスを迎える会衆讃美のコラールがさがささげられます。そしてとても意味深長な点は、そのコラールの旋律が、受難曲のコラール「血潮滴る主の御頭」(『讃美歌』136番)にも用いられる同一の旋律ではありませんか。いかにしてあなたをお迎えするか、という祈りの讃美は、同時にまた、血潮滴る主の御頭を仰ぐ祈りの讃美と同一線上で直結して捉えられ、歌われているのです。キリストをお迎えすることは、即ちキリストの血潮滴る御頭を仰ぐことなしには、為し得ないことである、と歌っているように聞こえて来るのです。クリスマスの御子を迎えるには、受難節のキリストの十字架のお姿を仰ぐほかに、迎える方法を見出すことができないのです。ですから謝罪と悔い改めをもって胸を深く抉るように打ちながら、罪の赦しを求めるのです。それが待降節の過ごし方であります。真夜中のクリスマス礼拝で共に覚える御子の誕生、即ち受肉のキリストを迎えることは、受難節に私たちの罪の償いのために十字架の上で血を流すキリストのお姿を仰ぐことを意味しているのです。何のために、マリアの肉を受け受肉し人の子としてお生まれにならなければならなかったのか、それは人間本性を引き受け背負うことであり、その罪に堕落し、死と滅びに腐敗した人間本性を担い背負うことであり、さらには十字架における贖罪の死の犠牲を通して、人間本性における罪を完全に償い、義の祝福のもとに、新しい人間本性に造り変えるためであります。したがってクリスマスを迎える、御子のマリアからの誕生をお迎えすることは、その本質において、御子の十字架の死の贖罪をお迎えすることになります。受胎受肉は受難受苦に本質的に直結するのです。

こうして神は、キリストのご降誕において、人類を引き受け背負うたのです。しかもキリストの十字架の贖罪の死により、自ら引き受け背負った人間本性の根源から罪を償い、復活において、新しい永遠の命を人間本性に与え、人類を根本から新生させたのです。この新しい命の光、この神の真実溢れる真理の光は、まさにキリストの受肉と降誕において、暗闇の中であっても燦然と光輝き続けるのであります。先ほど、リビングバイブルの訳を紹介いたしましたが、4節5節で「1:4 キリストには永遠のいのちがあります。 全人類に光を与えるいのちです。1:5 そのいのちは暗やみの中でさんぜんと輝きどんな暗やみもこの光を消すことはできません。」と訳されていました。ここには、キリストを迎え入れた者の、非常に堅固でゆるぎない確信が、よく表されているように思われます。神は、キリストの受肉において、完全に人間本性を引き受け背負われただけでなく、その人間本性における罪と死を根源から引き受けて贖う(十字架の死の代価を支払って新しい人間性を買い戻す)のです。だからこそ、「全人類に光を与えるいのち」なのであります。そしてこの翻訳で何よりも意味深い所は「どんな暗やみもこの光を消すことはできません。」と勝利の宣言に至る所です。「暗闇は光を理解しなかった」という新共同訳聖書から、さらに前に突き進んで「どんな暗やみも、このひかりを消すことはできない」と、神の栄光溢れる勝利は永遠に不動の勝利である、と宣言します。

遠藤周作の小説に『沈黙』という小説がありますが、それは、キリスト像を刻んだ踏み絵を踏んで、キリスト教信仰を棄教した転びキリシタンを描いた小説ですが、私見ではありますが、仮に転んで踏み絵を幾度も踏んだとしても、わたしはあなたを引き受け背負い続け、あなたの罪の償いと命の贖いのために死んだ事実は永遠に消えることはないのです、と語りかける神の不動の恩寵を描いた作品ではないか、と思います。リビングバイブルの訳の「どんな暗やみもこのひかりを消すことはできない」とは、そうした神の不変不動の贖罪と愛の勝利を宣言したに違いないように思います。こうした神の完全で無限の恩寵に背負われ、或いは包まれて、世界は全く新しい命の光のうちに生まれ変わるのであります。同じ遠藤周作の『深い河』でも、解釈は分かれる所でありましょうが、ガンジスの川面に多くの人々が聖なる場を求めて集いますが、そうした異教徒の集う聖なる川面の深き底にこそ、実はキリストの十字架において引き受け背負う神の贖罪と愛が豊かに湧き溢れているのだ、ということを意図しているのではないでしょうか。いずれにしても、クリスマスの本質は何か、ということです。まさにクリスマスの本質は、キリストの受肉とその十字架と復活において、神は人類全ての人間本性を根源から愛し憐れみ贖い、永遠の命に新生させた、ということにあります。そしてこの神による愛と命の出来事は永遠に変わることもなければ、消し去ることも出来ない、ということにあります。人類はまさに、クリスマスの出来事を通して、神の絶対恩寵のただ中に包まれているのです。言い換えれば、人類は自分の存在の根底にそして人間本性の本質に「神」を迎え入れ、「永遠」を持ったのです。この命の光を、この神の真実なる光を、誰も消し去ることは出来ないのです。

 

4.「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」

ヨハネによる福音書の中核は、神に遣わされた人の子イエスにおける神の啓示であり、永遠の神の子による自己啓示にあります。そしてヨハネは、その神の子の自己啓示を、つまり人となった神の子の啓示を、前共観福音書伝承に基づいて、受難物語として展開します。しかし最もヨハネらしい展開は、信仰は光であり、不信仰は闇であり、信仰は命であり、不信仰は直ちに裁きであり死であるとして展開される所にあるように思われます。ヨハネによる福音書のゴールデン・テキストと言われる3章16節にはこう記します。「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と記して、神の子の自己啓示を信じて受け入れることが、決定的な意味を持つことになります。御子の啓示を、すなわち、クリスマスにおいて、神の子が、聖霊の働きと共に処女マリアより受肉し人の子として世に到来したこと、そしてその受肉して自ら背負われた人間性において、人類の罪を完全に十字架の死の犠牲において償い、人類を贖われたことを感謝と喜びをもって信じ受け入れるのです。この啓示の信じ受け入れることで、人々は新しい命の福音に招かれて生まれ変わるのであります。

夜明けのクリスマス礼拝では、あのバッハもクリスマス・オラトリオのコラールで暗示したように、十字架と復活において、既に新しい永遠の命に導かれた人類の新生を喜び祝い、高らかな栄光讃美と勝利の喜びにおいて、世界へと散らされて行くことになります。神の愛と命のわざは、無論、不変不動であって、どんな暗闇の消し去ることはできない永遠の救いでありますが、問題は、その恩寵を受け入れ、恩寵の上に固く立ち尽くして、私たち自身が新しく生まれる変わることにあります。神の啓示が不動の真実であればあるほど、人はその受け入れるべき信仰的決断がいよいよ深刻に問われるのです。人は、神に似せて神の像として、いわば、神のような人格存在として、創造されました。不完全で破綻しつつも、神は、キリストにおける贖罪と復活のわざの恵みを通して、また聖霊降臨における救贖と完成のわざの働きを通して、そしてその無限の恵みを心から受け入れて生きることを通して、私たち人類が本来の意志と自由と正義に立ち帰ることができるように、新しい人間性に造り変えてくださるのであります。人類は、キリストの十字架と復活のおかげで、罪と死の支配に勝利しました。そのキリストの恵みに、信仰においてさらにわがうちにおいて勝利するのであります。