2021年6月27日「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 6.27 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第6主日

ヨハネによる福音書講解説教4

説教 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」

聖書 民数記21章4~9節

ヨハネによる福音書3章1~21節

 

 

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできないからです。」

 

3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない霊から生まれた者も皆そのとおりである。」3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

 

3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証し受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 

3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて光の方に来ないからである。3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来るその行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 

 

はじめに. 前回説教「水と霊とによって新しく生まれる」を受けて

主イエスは、ニコデモに対して「だれでも、水と霊とによって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」と教えました。天の神から「水」によって罪から清められ、神からの「霊」の力を受けて、霊の力をうちに宿して、内側から新しく造り変えられて、生まれ変わる「新しい人間性」となることを、ニコデモに示唆しました。ところが、残念なことに、ニコデモはそれを理解できず、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と否定してしまいました。その時、ニコデモの心を支配していたのは、主イエスの教える「永遠の、上から」生まれる新しい人間性とは真逆の、「時間と物質」に支配され続け、やがては老いて腐敗して「死」に逝く、言わば「滅びと破綻」の人間性でした。「生まれる」ということを「母親の胎内に入る」という物質的な生物概念によって理解しようとしていたようです。それでも、主イエスはニコデモに、丁寧にそしてとても誠実に、神の霊を「風」に喩えて、諭します。「3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と語って聞かせ、神の霊による新しい生き方があることを教えたのです。しかしそれでもニコデモは、「3:9どうして、そんなことがありえましょうか」と言って、ただ否定と反論を繰り返すばかりでした。

ニコデモのように私たちも、いつも「時間」と「物」に基づいて、全てを理解しようとします。「健康」と言えば、医者であり医療費だ、と考えます。しかし神さまとの豊かな義の関係にあること、神との祝福溢れる平和と平安安息は余り考えません。「幸せ」と言えば、衣食住と生活費が満たされることであり、立身出世を考えますが、「神の愛」や「神の義」を考えようとはしないのです。それも、いつの間にか、宗教世界の中にまで、神殿運営や教会運営の奥深くに世俗的欲求が持ち込まれ、神の家を「強盗の巣」に変質させてしまうのです。そのように私たちも、「この世」の人間であり、神を捨て堕落し神のもとから転落した「滅びと破れ」の人間性に支配された考え方しかできないのです。諦めて言えば、この世にある以上は仕方のないことかもしれません。神さまのことを正しく考えることは不可能なことです。「あなたはその音を聞いてもそれがどこから来てどこへ行くかを知らない。」とイエスさまが仰せになられる通りで、神さまの愛の御心にも、神さまの救いのご計画にも思いを向けることさえ出来ないのです。それなのに、本当は「天」の恵みでありながらも、「自然」の恵みである見なしてその恵みを享受し、受け取って生きています。神さまからいただいた恵みであるのに、たとえそれが神からの賜物であることを知らなくても、あたかも自分の独占物であるかのようにして、心ゆくまで享受することはできます。端的に言って、わたしたちの人生は、まさにそうしたものです。神も神の恵みであることも知らないまま、私たちは神からいただいた命をわがもののように生きている通りであります。主イエスは、「3:10あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」と仰せなり、ニコデモと主イエスご自身との間にある、埋めようのない大きな溝に、胸を痛められるのでした。簡潔に言えば、上からの新しい啓示、神からの啓示をいくら説いて聞かせても、その天からの証言は受け入れられないのです。まさにそれは、神から水によって清められ、神の霊を心のうちに宿し新たに内側から神によって造り変えられるのでなければ、聖霊の導きと恵みに導かれ天の言葉を聞き入れて初めて、神の啓示を真理として悟ることができるのです。それがまさに「洗礼」を通して与る清めと聖霊の力であり、その水と霊の賜物として、信仰が与えられ、天から証しされた啓示のみことばを真理として深く悟り、心のうちに信じて受け入れることができるようになります。天の真理は、天からいただく水と霊の恵みによる信仰を通してのみ、認めかつ知ることができるのです。「自然と物の恵み」の根源は「上から、神による」ことに気付き、それを認め、地上から天上に心を向け直す「悔い改め」が求められます。主イエスは、否定を繰り返すニコデモに落胆しつつ、「3:10あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われますが、本来、イスラエルの教師とは、神の意志を知り、神に代わって民を正しく導き、神との正しい祝福の関係を、すなわち神の義を確保する使命を担うはずです。それなのに、どうしても、ニコデモは「神の意志」に心が向けられず、新たに天に向かって生まれることの意味が分からず、この世の時間と物質の支配の中で老いるばかりでありました。今の教会や牧師たちも、全く同じ過ちを犯し、「あなたは教師でありながら、こんなことが分からないのか」というある意味で厳しい審判の前に、主イエスを失望させているのではないでしょうか。

 

1.「あなたがたは、わたしたちの証を受け入れない。」

それでも、主イエスは、頑なに否定と拒否を繰り返すニコデモに対して、いよいよ誠実の限りを尽くして、ついに決定的な「神の啓示」を、決して割り引くことなく、丸ごと明らかにします。「3:10 イエスは答えて言われた。『あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておく。わたしたち知っていることを語り見たことを証ししているのに、あなたがたわたしたちの証しを受け入れない。3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆人の子によって永遠の命を得るためである。』」と、福音の全てを、改めて誠実を尽くして、語り聞かせます。相手が分からないからと言って、福音の全てを語り与えることを、決して止めようとはしないのです。それはまさに、どんなに不信仰な人々の中にあっても、主イエスはひたすら天を見つめ、従順に死に至るまで十字架から降りようとはされなかったように、愛と憐れみのうちに立ち、福音の真理を証しすることは決してお止めになることはないのです。

さて、この主イエスの発言には、いくつかの重なり合った背景が見え隠れしています。まずその一つは、同じ主イエスの説教の中で、11節は一人称複数の「わたしたち」、12節では単数形の「わたし」に突然変わります。なぜ一人称に、複数と単数の違いが生じたのでしょうか。その背景には、元々受け継いだ主イエスご自身の説教と、それからヨハネとヨハネの教会の伝承とが、二重に重なり合って、ここに現れている、と考えられます。本来の主イエスのみことばを「わたし」が語り、本来の主イエスのみことばを受け継ぎながら、主イエスと共にある主イエスの共同体という意味で、「わたしたち」が語る、ということではないかと思います。ヨハネ以前の主のみことばとヨハネの伝承とが重複したのではないか、と想像できそうです。

いずれにしても、ここで踏まえておきたい大事な点は、ヨハネとその教会は、主イエスの教えを受け継ぎながら、主イエスと共にその証言者として、自分たちもここに世に対してしっかりと立とうとしている、ということです。であれば、私たちも同じ教会の証言者として、このみことばにしっかりと立つべきでありましょう。教会は、水と霊とによって、「キリストの身体」として新たに生まれ変わった共同体です。したがって教会の命の本質は、キリストのご自身の新しい人間性の内にあり、その本質を神の内に持つものです。天から新たに生まれて、天のことばを証言する天の共同体であります。最初の複数一人称「わたしたち」はこうした「一つの霊と命」を共有する教会共同体を背景にした表現であります。この当時、ヨハネとその教会は、主イエスの証言者として、この世にあって、二つの大きな集団と向き合っていました。一つは、ユダヤ教をはじめとする地上に数多くあったさまざまな宗教集団であり、もう一つ一つは、ローマ皇帝を中心とする多くの政治権力であります。こうした過酷な戦いの中で、唯一真正な主イエスの証言者として、教会はその使命を果たそうと、福音の信仰に堅く立ち尽くしていたのです。その証として、かつて主イエスに対して宗教的権力者たちが立ちはだかったように、「3:11わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたわたしたちの証し受け入れない。」という一人称と二人称の複数形としての発言になったと考えられます。しかし本当の問題は、その証言の「内容」にあります。それがついに一人称単数形の「わたし」によって語られます。

他方で、天の国に対して、地上の国であるこの世の私たちには、天の国は全く見えず、知ることも、触れることもできない異質の世界であり、異次元の国であります。ただ、たったひとつ、天からの啓示のことばに耳を傾け、聞き分けること、即ち「みことば」だけが地上の私たちを天に向け、天の真理を知る窓を開くのです。残念ながら、そのみことばを聴くことができないまま、ただ地上を彷徨い、地上での幸不幸を論じ合うばかりであります。

 

2.「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」

一人称単数の「わたし」、すなわち主イエスは、天からの啓示、福音の本質を証します。「3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆人の子によって永遠の命を得るためである。』」まさにこの証しこそ、ニコデモとの問答の本論であり、完全な啓示になります。この証言は、明らかに、神のメシアが天から地上に遣わされて、さらに地上での使命を果たしたのちに、天に戻られる、という意味でありましょう。ヨハネ福音書らしく言い換えますと、神のメシアが「天から降る」ことそれ自体が神の栄光を現わす栄光に満ちた「天への上昇」を意味しています。メシアの栄光ある降下と上昇を一つに結び合わせる、栄光の中心となる表現が「蛇を上げる」という言葉です。「人の子」(o` ui`o.j tou/ avnqrw,pou)の使命は、14節で「モーセが荒れ野で蛇を上げた(Mwu?sh/j u[ywsen to.n o;fin evn th/| evrh,mw|)ように、人の子も上げられねばならない(ou[twj u`ywqh/nai dei/ to.n ui`o.n tou/ avnqrw,pou)」と証言される通りです。ここで「降る」(カタバイノー katabai,nw)と「上げる」(ヒュプソォオー u`yo,w)という動詞の意味について一言しますと、興味深いことに、互いに全く正反対の意味する字が、「降る」のは「上げられる」(u[ywsen])ことであり、「上げられる」のは「降った」(kataba,j)からであり、両者相互に意味を補完し合う言葉として用いられていることです。つまり主イエスは、人の子における上昇と下降は「一つの出来事」として語ろうとしているのです。そしてその一つの出来事とは「モーセが荒れ野で蛇を上げた」ように「人の子も上げられる」とありますように、「モーセの蛇」に象徴される人の子の上昇であり下降の出来事なのです。

 

3.「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」

この「モーセ蛇」の出来事は、言うまでもなく、民数記21章4節以下の記述に基づいて言及された、と考えられます。ご紹介しますと「21:4 彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、21:5 神とモーセに逆らって言った。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。』21:6 主は炎の蛇を民に向かって送られた蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。21:7 民はモーセのもとに来て言った。『わたしたちは主とあなたを非難して罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。』モーセは民のために主に祈った。21:8 主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。』21:9 モーセは青銅で一つの蛇を造り旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと命を得た。」(民数記21章4~9節)とあります。神は、民の背きの罪に対して、死の裁きを行う蛇を送ります。しかしモーセは、青銅の蛇を造り旗竿の先に掲げて、それを仰ぐと噛まれても命を得た、という話です。蛇の中で、最初に登場する「炎の蛇」は、主なる神が民の罪に対して送った「裁きの蛇」であり、蛇は民をかみ、それによって数多くの者たちが死に、「裁きと死」を象徴しています。次の「青銅の蛇」は、「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください」という悔い改めに基づいて、民の命を再生するために造られた「神の赦し」を象徴しています。つまり蛇は、一方で「裁きの死」を象徴し、他方で「赦しの命」を象徴し、相対する二重の意味と働きを担っています。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」ように、「人の子も上げられねばならない」とありますように、モーセの蛇のように、人の子である主イエスのうちに、「神の裁きよる死」と「神の赦しによる復活」が同時に引き起こされることが、ここには暗示されています。言い換えれば、主イエスにおける「十字架の死」と「復活の命」を言い表しています。人の子である主イエスにおいて、神の完全な裁きは完了し、それゆえに、神の完全な赦しもまた実現するのであります。その十字架に上がることこそ、主イエスの人の子としての使命であり、栄光の天に上がることでもあるのです。

ここで是非、改めて注意しかつ覚えておきたい点は、罪を犯した民が神の裁きによって死を迎えることは当然のことです。しかし、神の御子である主の栄光が、なぜ十字架の死における神の裁きにあるのでしょうか。なぜ、人の子は「青銅の蛇」即ち「命の再生」という使命を果たすのでしょうか。先ほど、民の悔い改めを前提にした青銅の蛇ですが、悔い改めとは、神に心を向け直して、謝罪することを意味します。言い換えれば、罪の償いである贖罪を前提にします。罪の償いである贖罪なき完全な赦罪も謝罪も存在しないのであります。

 

4.「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

ついに、ヨハネの決定的なメッセージがここで発せられます。「神は、その独り子を与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)という神の啓示の全てを言い尽くしたと言える福音です。そしてこう言い切ります。「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」という神の救いのご計画と決意が証言されます。神は、御子を世に与えることで、世を救おうとした、その御子を世が信じることで、永遠の命を得られるようにした、というメッセージであります。

では「神は、その独り子をお与えになった」とは、どういうことなのか、少し踏み込んで、ヨハネ福音書を読み直してみましょう。ヨハネは、福音書を書き始めるその冒頭で、こう記します。「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった言は神であった。1:2 この言は初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と記して、神の独り子とは、先在の「神」であり「言(o` lo,goj)」であり、「言は神であった」(qeo.j h=n o` lo,goj)と証言します。ヨハネはさらに「1:12 しかし、言は自分を受け入れた人その名を信じる人々に神の子となる資格を与えた。1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって恵みと真理とに満ちていた。」と記して、神の独り子が、神のロゴスであり、「言は肉となって、私たちの間に宿られた(o` lo,goj sa.rx evge,neto kai. evskh,nwsen evn h`mi/n)」(ヨハネ1:14)と告げています。こうした記述から「神は独り子を世にお与えになった」とは、まずの「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)ことであり、しかも「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々に神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)ことが分かります。

この記述から「独り子を与える」とは、まさに「言が肉となった」ことです。神の独り子、ロゴス・キリストの「受肉」を指します。新共同訳は「肉となった」と訳しますが、「肉体となった」或いは「人間となった」ということです。整えて意訳すれば、神が「人間となった」のです。これこそが、キリスト教の人類救済の中核です。神と共に永遠の昔から先在して、万物創造に参与した「神のロゴス(言)」が、即ち「神の独り子」が人間となって人々のうちに宿ることで、人類は永遠の命を得る、という救済観です。なぜ「肉体となる」のでしょうか。つまり、なぜ「神の子」は「人」となって、人の子として世に遣わされなければならなかったのでしょうか。「キリストの受肉」の根本をここでしっかり受け止めておきましょう。なぜなら、人間の罪を赦し、人間に永遠の命を与えて、人類を救済するのは、このキリストにおける新しい人間性、すなわち「受肉の身体」であるからです。ここに神の愛の真骨頂があり、ここにこそ独り子を与えるという根本命題がかかっているからであります。

先週の説教「水と霊とによって生まれる」という話の中で、キリストご自身が、洗礼者ヨハネより「洗礼」をお受けになられた場面に触れました。その主イエスのご受洗において、特にご注目して頂いたことは、洗礼をお受けになったのは主イエス・キリストですが、その主イエス・キリストとは、まさに「聖霊」によって処女マリアから生まれ、人間の心と身体を受けた「受肉」のキリストであります。その受肉のキリストにおける「新しい人間性」に、私たちは注目し、その受洗した「新しい人間の心と身体」に向かって、天が開け、聖霊が鳩のように降り、そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)という天からの声が響く中で、聖別されたのです。神の愛を受けるのに十分に相応しく、神の御心に十分に相応しい「神の愛する子」として聖別されたのです。言い換えれば、それは、直ちに、神の御心とそのご計画に従順に従って主の受肉のご生涯を神にお献げする、ということです。「洗礼」に、聖別奉献の清めの意味が含まれるとすれば、主イエスはこの「新しい人間の身体」を神にお献げする、献身の聖別をお受けになったのではないでしょうか。キリストは十字架の死に至るまで、この「新しい人間性」をもって、神に従順と義を尽くし罪を完全に償い、「贖罪の死」を遂げます。そして三日目に「栄光の復活」を遂げて、その40日後には天に昇られました。この一連の「栄光」を成し遂げられたのは、キリストによって背負われた「受肉の身体」、すなわち「新しい人間性」であり、新しい人間の心と身体、そして新しい人格であります。なぜ、そこまで、肉体となって受肉してまでも、深く神は「人間性」に深くかかわるのでしょうか。それは、御子によって、御子を与えることによって、そして御子の受肉の身体を奉献することによって、人類を永遠の命のもとに新しく(上から)生み、創造するためであります。

私たち人間には、どうしても解決しなければならない「罪」と、その支配によって背負った「死と滅び」の法則です。これは人間の手ではどうしても解決することはできません。ただ罪を償い、そして罪と闘い抜き、罪に完全勝利する外に道はないのです。人類の未来はないのです。言い換えれば、神に背き罪を犯し堕落したその罪の「贖罪」を果たして、神に対する「義」を実現し、罪と死に勝利して永遠の命に溢れた人間になることです。「義」とは、神との正しい関係回復とそれを永遠に維持する保証ですから、背いた神に対して、贖罪を果たし、義を回復し、義を永遠に貫く力が求められます。「命」を回復するための謝罪とその代償とは、即ち「命」を買い戻して贖うわけですから、その等価値の賠償は「命」以外にはありません。それが贖罪の原理です。したがって御子が栄光に溢れて高く上げられるのは、人間として従順に命を支払い尽くして、十字架における贖罪の死を遂げるまで罪を償うのでなければならないのです。とすれば、高く上げられる栄光の高挙とは、従順に贖罪のための命を支払い尽くす十字架の死にによって、初めて実現する「贖罪の死」であります。これこそが「神は、独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という本当の意味ではないでしょうか。神の愛は、人間には絶対に出来ない贖罪を、御子の人間性において贖罪のための命と従順を完全に支払い尽くすことだったのです。したがって、御子にとって、栄光の高挙とは、直ちにその人間性において十字架の死を遂げることになります。それが神の御心であり、神の愛の実現だからです。「人の子」とは、文字通り、神の御子が人間を自らの身体として背負い、神の御心に従順に従って、贖罪の死を果たす人物であります。言わば、神の代理人であると同時に、神の御子が人間に代わって贖罪の死を代行したのです。キリストは、ご自身の人間性において、十字架での贖罪の死を通して、神と人との「和解」を実現してくださったのです。それゆえ主イエスは、ご自身の十字架と復活の人間性において、まさに「仲保者」となってくださったのです。

この主のみことばの教理は、明らかに、ロゴス・キリスト論であり、ヨハネはそれをさらに、ロゴスの受肉としてキリスト論を徹底しています。「神の独り子」が、即ち先在の「ロゴス(言)」が、主イエスという「受肉の身体」において、天から地に降下し、同時にまた地から天に上昇していることを意味しています。人の子である主イエスの人間性を通して神の国は地に到来しており、主イエスの人間性に包まれて地は既に天に向かって上昇するのです。言い換えれば、主イエスのお身体のうちに、十字架の死に至るまでの御子の従順を尽くした償いがあり、主イエスのお身体のうちに、神の義と祝福にあふれた栄光の復活と永遠の命が湧き出ているのです。この御子の身体、御子による新しい人間性に与る、移し替えられること、パウロの言葉で言えば、キリストを着ることを通して、私たち地上の人間は、キリストの身体という新しい栄光の人間性に生まれ変わるのであります。この受肉のキリストにおける新しい人間性において、まことに鮮やかに、神の国は実現しているのであります。

 

5.結語

清めの水、そして人間を根元から造り変える霊の力、この水と霊とが一体となって働く神の神秘のみわざ、それが「洗礼」でありま。「洗礼」を通して、「罪」は清められ「聖霊」が内に宿ります。そして私たちの心身の中枢において、まず「信仰」が賜物として与えられ、信仰を通して「みことば」を聴き分けて深く神の愛を味わい知ることができるようになり、益々信仰を通して、私たちは内側から新しいキリストの人間性へと造り変え、生まれ変わらせ、養わるのです。水と霊とによる「洗礼」は、そのようにして、私たちをキリストの身体に結び合わせ、キリストの身体として新たに誕生させるのです。

私たちが水と霊とによって生まれる変わるためには、神はどうしても独り子を私たちのために与える必要があったのです。それが神の愛でした。そして御子もまた、従順に、世の罪を贖うためにご自身のお身体においてその命の全てを贖罪の犠牲として支払いつくしたのであります。だからこそ、主イエスご自身から、洗礼をお受けになり、洗礼という秘儀そのもののうちに、受肉のキリストとして新しい人間性を与える奉献の場とされたのではないでしょうか。まさに神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されたのです。そしてその御子の犠牲により、水と霊とによって生まれる新しい人間性のもとで、私たちは死の裁を過ぎ越して、永遠の命の冠をいただくのであります。