2022.1.9 小金井西ノ台教会 公現第1主日礼拝
ヨハネによる福音書講解説教32
説教 「何を求めているのか」
聖書 ダニエル書9章20~27節
ヨハネによる福音書1章35~42節
聖書
1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ―『先生』という意味―どこに泊まっておられるのですか」と言うと、1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア―『油を注がれた者』という意味―に出会った」と言った。1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
説教
はじめに. メシアの告白証言と「岩」
洗礼者ヨハネの証しは、主イエスを「世の罪を除く神の小羊(o` avmno.j tou/ qeou/ o` ai;rwn th.n a`marti,an tou/ ko,smou)」(ヨハネ1:29)とするメシア証言でした。さらにこのメシア証言を繰り返されます。「歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子たちはそれを聞いて、イエスに従った」(ヨハネ1:35~37)とありますように、「神の小羊だ」と信仰を告白する洗礼者ヨハネの告白証言を受けて、今度は、洗礼者ヨハネと共にいた二人の弟子たちが、それを聞いて、イエスに従います。この二人の弟子たちは、「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった」(ヨハネ1:40)と明記されていますので、一人の弟子が誰かは不明ですが、もう一人の弟子が「アンデレ」であったことが分かります。次いで「わたしたちはメシア―『油を注がれた者』―に出会った」(ヨハネ1:41)とメシアを告白して証言する兄弟アンデレの告白証言を受けて、アンデレの兄弟であるシモン・ペトロも、また同じようにこのメシア証言を直ちに分かち合うように、主イエスに従った、というのが、本日の話です。こうして、洗礼者ヨハネのメシア証言は、新しい弟子たちにも、受け継がれることになります。特にアンデレの口を代表して、はっきりと「わたしたちはメシア―『油を注がれた者』—に出会った」とメシアを告白する共同体の告白証言となって継承されます。イエスは「神の小羊」であり「メシア」である、とする洗礼者ヨハネの告白証言を受けて、主イエスはそれに応えるようにペトロに対し、或いはペトロに代表されるこの告白共同体(「わたしたちはメシアに出会った」という信仰告白の共同体)に対して、「ケファ(岩)」という名前を与えます。言うなれば、これは、このメシア告白は「岩」のように確かに真実である、という神の御子自らによる承認が与えられたことであり、信仰を告白する共同体に天的な承認と保証が賦与されたことを意味するのではないでしょうか。しかも、ここで一貫して貫かれるテーマは、主イエスこそ唯一無二の「神の小羊」であり真の「メシア」である、とするメシア告白であります。
こうして受け継がれたメシアの告白証言は、その根幹において、洗礼者ヨハネのメシア証言が貫かれている、ということも、忘れてならない事実ではないかと思います。ヨハネによる福音書で言う「洗礼者ヨハネ」のメシア証言の根幹となる特徴は、前回の説教でご紹介しましたが、一つは、主イエスは、⑴「世の罪を取り除く神の小羊」であること、しかもその神の小羊とは、⑵「先におられた」お方であることです。ここで是非注目すべき点は、共観福音書では「優れて(ivscuro,tero,jより強くより力ある)」(マタイ3:11)「優れた方(o` ivscuro,tero,jより強くより力あるお方)」(マルコ1:7、ルカ3:16)と証言していますが、ヨハネ福音書では「その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである(o[ti prw/to,j mou h=n)。」(ヨハネ1:)と告白して、さらに踏み込んで、その優れた力強さの根源根拠が「先在の神の言である」からであることを明らかにしており、メシア証言を神のメシアとして三一論的に確定している点にあります。「世の罪を取り除く神の小羊」とは、ただ単に罪の犠牲となる生贄を意味するのではなくて、その罪の犠牲となる生贄である神の小羊が、何と創造の前から永遠におられた「先在の神の言(ロゴス)」であるということです。聖書釈義から言えば、1章1節の冠詞付きの「言(ロゴス)」は、万物の創造以前から永遠に「神の御子」として、冠詞付きの神である「父なる神」と共に先在していた神のロゴスである、ということです。しかもそのお方こそ、イエスという名のもとに、マリアから受肉して、「人の子」として、人類全ての人間本性を引き受けて背負い、「世の罪を取り除く神の小羊」として、十字架における栄光のわざを成し遂げられるお方、それは他でもない「神の御子」である、だから唯一無二の真の救いとなるのだ、ということになります。つまり洗礼者ヨハネのメシア証言を受け継いだ弟子たちは、同時にまたあの「ロゴス(言)讃歌」を讃美歌として歌いづけて来た、福音書記者のヨハネとその教会の信仰においても、共に受け継がれていたことが予想されます。そのように、ヨハネは福音書を書くうえで、洗礼者ヨハネのメシア証言を用いているのです。そうしたメシアの証言者であり告白者となった弟子たちを代表して、つまり洗礼者ヨハネのメシア証言から12人使徒たちの告白証言へと流れるメシア証言を代表して、さらにはヨハネとヨハネの教会の信仰告白を代弁するかのように、その一連のメシア告白と証言を代表して、アンデレやペトロは登場し、或いはその岩陰に伴うようにヨハネとその教会もまた「わたしたちはメシア―『油を注がれた者』という意味―に出会った」と告白し証言しているかのように思われす。その告白証言に対して、主イエスは「岩」としての名を与えたのです。ここには、イエスをメシアとする告白証言とその告白証言を受け継ぐ教会共同体に対して、それを「岩」と名付けたように、さらに明確で確かな不動の肯定と絶対の承認が、唯一の啓示者である主イエスによって与えられたことを意味するのではないでしょうか。加えてヨハネとその教会は、ここで、キリスト教会の強い使命感と誇り高い尊厳を表白しているように思われます。
1.弟子の召命、その一
「弟子の召命」と呼ばれるこの場面を、もう少し詳しく見ていきますと、特に共観福音書の伝承と大きく異なる所があります。大きな違いは、弟子の召命が行われた時期です。マルコによる福音書によれば「1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』」言われた。1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。1:17 イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」(マルコ1:14~17)と記されております。つまり洗礼者ヨハネが逮捕されたあとに、主イエスの宣教活動は開始されて、それから弟子たちの召命は行われています。しかしヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネを登場させ、そのメシア証言を明らかにすると、いきなりすぐに、あたかも洗礼者ヨハネの弟子たちが、洗礼者のメシア証言にしたがって、主イエスのメシア告白に及んで、そのまま今度は主イエスの弟子へと移行していくように、記されています。つまり弟子の召命は洗礼者ヨハネが捕縛される前に、それどころか、洗礼者ヨハネの洗礼活動の中に設定されているように読めます。
二つ目の違いは、主イエスから召命を受けた弟子の名前が異なる点です。マルコ福音書では、ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネの二組(マルコ1:16~20)ですが、ヨハネ福音書では、先ほど触れましたように、匿名の人物とアンデレ、それからアンデレの兄弟ペトロ、さらにピリポとナタナエル(ヨハネ1:35~51)と続きます。
そして三つ目の違いは、マルコ福音書では「1:17 イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。」(マルコ1:17)と記しますように、漁師としてのこの世での職業生活を完全に放棄して、弟子としての生活に専念する姿が強調されます。つまり「捨てて従う」という弟子の覚悟が印象づけられています。しかもそこでは、先ず主イエスからの呼びかけが先にあって、その応答として、家族も職業も全てを捨てて、主イエスに師事して弟子となるという形です。ところが、ヨハネ福音書では「歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」(ヨハネ1:36b~37)と記し、弟子の生活として意味ある応答の本質は、職業生活の放棄における服従にではなく、明確な「メシア」告白の証言に置かれます。突然「見よ、神の小羊だ」と絶叫して証言告白する、「その言葉を聞いて」、アンデレとペトロは主イエスに師事するという展開です。言い換えれば、これは私見ですが、洗礼者ヨハネの弟子集団の中にいた弟子たちが、洗礼者ヨハネの証言に基づいて、主イエスと出会い、メシア告白に至ったかのように、洗礼者ヨハネのメシア告白を直ちにそのまま受けて主イエスの弟子となっていったようにも読むことができそうです。
2.メシア預言から、メシアの告白証言として
この弟子たちの「召命」という出来事の中で、弟子たちが依って立つ立場、拠り所とする場が大きく変質することになります。それは、洗礼者ヨハネによる預言的なメシア証言から、メシアご自身と共に一体となってメシアを実際に今ここに臨場して告白し証言する、という聞いて信じる告白から、見て触れて生きる体験告白へと本質に変えられてゆきます。直接、神のメシアと出会い、日々寝食を共にし、メシアを直に体験し証言するメシアの体験者へと変えられてゆくからです。預言者から当事者としての告白証言者への転換です。そういう意味で、メシアの時の「外」からメシアを指さすのではなく、完全にメシアの時の「ただ中」で、メシアと共に生きる共同生活者として告白証言する者に変わるのです。
ギリシャ語原典によれば、アラム語表現をギリシャ語に言い換える所がここに現れます。最初に、⑴「歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」とありますが、ここにはギリシャ語の説明はありませんが、明らかにユダヤの伝統による「贖罪の生贄」または「贖い」を意味する表現です。次いで、⑵「1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、「ラビ―『先生』という意味―どこに泊まっておられるのですか」と言うと、1:39 イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。」という所です。「ラビ」とは、ユダヤの厳格な律法社会制度において、公に律法の教師として認定された教師を意味する用語と言われます。しかも「どこに泊まっておられるのですか」という問いは、単に宿泊場所を尋ねる問いではなくて、この問いは、主イエスの教えそのものを求めることであり、その説かれた教えを聞いて教えに与る者の資格を意味すると考えられます。最終的には、教えの真理そのものに与る一員となって、どうすれば救われるのですか、あなたにおいてお救いください、という教えに生きる生活を意味します。弟子たちは、律法の解釈や文言の意味を学ぶラビとしてではなく、救いそのものを与えてくださるお方として師事する、ということになります。ですから主イエスの方から、「ラビ」と呼ぶ弟子たちに、改めて「何を求めているのか」と彼らの真意を問い質しています。ラビとして律法の解釈と意味を求めるのか、それとも律法解釈による救済論ではなくて、メシア(救い主)の救いそのものに与る、という本質的な問いであります。ヨハネ福音書は、最初からはっきりと、弟子たちによるメシアの証言告白をもって、即ち「世の罪を取り除く神の小羊」という救い主として、あなたのもとで真の救いに与らせてください、という弟子の召命を語っているのではないでしょうか。
そして最後に意味深い点は、⑶「1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア―『油を注がれた者』という意味―に出会った』と言った。1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする』と言われた。」という部分です。これはほぼ結論と言うべき、とても意味深長な問答と言えます。単に公認された律法教師であるラビから受ける律法の手ほどきによる学びではなくて、もう既に解釈や学びの段階を終わり、今わたしたちは直接イエスというお方の中に「油を注がれた者」である「メシア」を見出し出会ったのです、という体験の中に、「岩」すなわち真実な確かさがあると、主イエスはこれらの弟子たちの体験的告白をお認めになったのであります。つまり主イエスは、ご自身が創造以前から先在していた神のロゴスであり、受肉したメシアはまさにあなたがたと共におり、あなたがたの生活のただ中に宿った、ということにほからないのではないでしょうか。
3.「歩いておられるイエスを見つめて」
この弟子の召命は、どうして可能となったのでしょうか。弟子たちが主イエスに従う、という出来事はどのようにして、引き起こされたのでしょうか。「わたしたちはメシアに出会った」とするアンデレの証言は、その決定的な意味を明らかにしてくれます。改めてこの弟子の召命の箇所を読み直してみますと、すべては1章35節から始まっています。「1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。」というここから「召命」の出来事の全ては引き起こされています。そこで原典に固執して読み直しますと、いくつかのことが分かります。先ず中心となる言葉は「見つめて」(evmble,pw evmble,yaj)という動詞です。能動形アオリスト分子で男性単数主格で「見る、見つめる、熟慮する」という意味です。ただ歩いているのをぼーと見ていて、イエスだと気づいた、というのでありません。最初からじっと見て注目し続けいたのです。主イエスの言動を深く見つめてさらに熟慮してきた、という字です。この背景には、洗礼者ヨハネ集団を初め、さまざまな当時のユダヤの宗教集団が主イエスに注目していたことが想定されます。リビングバイブルは「その姿を食い入るように見つめながら」と訳しています。そうさせる主イエスの「力」が働いていたからです。私たちの日常生活でも人生を大きく変えてくれた人物との出会いには、何か不思議で大きな力が働いていたと感じることがよくあります。しかも新共同訳聖書では「歩いておられるイエスを見つめ」と訳されておりますが、その「歩いておられる」(peripate,w peripatou/nti)という字も、ただ歩いているのではなくて、「生涯を過ごす、生き方をする、行動する」というさらに広い意味を持つ動詞です。言わば、単にイエスさまが歩いているという「外見」ではなくて、むしろ人間であるイエスさまの「内側」から、イエスさまの人格の奥深くにある本質から、何か命と力が湧き溢れているのです。結果として生じる奇跡のような出来事に着目するのではなくて、奇跡そのものを絶えず引き起こしている源泉のような「言(ロゴス)の力」を見ているのです。主イエスのご生涯の命の本質を深く見つめて、さらに言えば、イエスという名のもとに、先在のロゴスが受肉して世の罪を取り除く神の小羊として、今わたしたちのそば近くにお出でになられ、実際に寝食を共にする生活の中で、自分たちの魂も身体も根源から変えてゆく力に触れ包まれているのです。そのメシアを、大きな感動をもって、文字通り「食い入るように見つめて」おり、言わばその体験の中から、魂と身体の底から絶叫するような信仰証言して叫びとなったのではないでしょうか。イエスというお方の中に、また歩いて行動し語られるその言動の中に、見れば見るほど、触れれば触れるほど、先在の神の言(ロゴス)が現臨しており、神ご自身が完全に本質的に存在しており、聞いて見て感じることのできる形で、イエスというお方のうちに躍動する永遠の命を見ていたのではないでしょうか。主イエスのうちに永遠の命とその力が泉のように湧き出て、自分たち人間が本当に求めるべきものを照らし出して、この命によって私たちを光照らすのです。ヨハネの手紙一によれば、その冒頭で「1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」と書かれています。まさに「言が肉となって、私たちの間に宿った」永遠の命の体験と証言であります。
ここには、時と場所を共有する共同のいのちの体験があります。まさに主の命に与り、主の命における交わりを確かにすることです。イエスにおける神は命であり、その命は弟子たちに新しい霊的な命を与え、与えられた新しい命は弟子たちのうちに宿り、内なる真の光となって輝き、人間自らの人間本性を明るく照らし出し自己を認識させると共に、力ある神と神のみわざを確かに働く出来事として認識させるのです。そういう大きな生きた神の命と光の体験がここに弟子たちのうちに引き起こされていたのではないでしょうか。命の光に捕らえられ、また自らもこの命の光のただ中に投げ入れ、その真理と輝くような力のもとに、身を委ねるのです。外見として物理的に出会うことを遥かに超えて、内面の奥深くに命が注がれ、注がれて命の息吹は内面で光となって輝き、神の認識へと導くのです。だいぶ神秘的な言い方になりましたが、「神に出会う」とは、そういう内面での衝撃体験ではないでしょうか。言わば「神」でなければ、つまり主イエスにおいて肉となった神の力でなければ、「世の罪を取り除く神の小羊」として来られ、自分たちのうちに宿られた命の光でなければ、決して経験できない内面からの「神」体験を弟子たちは共に共有した、と言えましょう。その体験が、イエスにおける完全な「神」体験として、否、そこまで完全とは言えないにしても、「人生の原点」となる根源的な体験であったことは間違いないと思います。人生が新しく創造され、新生するという新しい原点を、弟子たちは得たのです。そして人生を根源から帰るこの原点を齎したお方こそ、主イエスであり、主イエスにおける神の力でありました。この驚くべきイエスにおける「神の力」が、この弟子の絶叫すべき信仰証言を引き起こしていた、と言うべきでありましょう。反対に、イエスにおいて「神」が生き生きと現臨しておられるのでなければ、こうした絶叫するような告白証言も生まれなければ、また弟子たちの召命という人生の新生させる原点も与えられなかったのではないでしょうか。
こうも言えるかも知れません。もし私たち一人一人の中に、人生を新しく生き直す「新生の原点」があるのであれば、そうした体験を心のうち深くに私たちが持つと言えるのであれば、それはまさしくイエス・キリストにおける「神」が現臨して生きて働いているからです。その「神の力」が、私たちを大きく変えるどころか、私たちを根源から導いておられる、と言うこともできるのではないでしょうか。その神の力に私たちは全てを委ねお任せすることも可能なのです。大事なことは、この根源から私たちを絶叫さえ証言へと導く「神」を、心から認めて信じ受け入れて、私たちの全てをお委ねすることです。自分の小さな感情や気分、自我や欲求に振り回せて、日々を無駄に過ごすのではなくて、このイエスにおける「神」を認めて深く信頼を置き委ねることを、わが人生の原点とすることにあるのではないでしょうか。どうであれ、何であれ、私たちの人生は、世の罪を取り除く神の小羊である主イエスのいて、十字架と復活を成し遂げられた主イエスにおいて、しかもその主イエスにおける「神」によって生かされ、その新しい創造と救いを常に実現する永遠の神に担われ背負われて共にあるのです。
このようにヨハネ福音書では、常に主イエスにおける「神」の現臨と啓示の体験があり、その神が、十字架の死において罪と死を滅ぼして、復活において新しい永遠の命を与えられ、天の父なる神と共に住まう天の国を、今既にここに実現しておられる、という信仰が息づいているように思われます。あのロゴス讃歌の讃美歌をうたいながら、ヨハネとその教会は神の国を確かに生き続けていたのではないでしょうか。
4.「何を求めているのか」
最後に、「何を求めているのか」という、本日の説教題といたしました主イエスの問いですが、これはとても意味深い問いではないでしょうか。主イエスご自身が弟子たちひとりひとりに対して問い、今度は弟子たちが、それぞれの教会に集う信徒ひとりひとりに問い続ける問いでもあります。おそらくヨハネとその教会においても、教会に集うひとりひとりに、あなたは「何を求めているのか」と問い続けた問いではなかったか、と思います。そして今、私たちもここで、あなたは何を求めているのか、と問うのであります。それは、わたしたちが今ここで神と出会うためであります。今ここに受肉のキリストとして立ち、現臨してみことばを語る主イエスと出会い、血を流し肉を裂いて差し出されるキリストの身体に与るのであります。そして主の新しい創造と救いのみわざに与るのです。キリストの身体とキリストのみことばを通して、わたしたちは受肉の神と出会い、受肉の神の救いを宿すのであります。大切なことは、ひとりひとりがその受肉のキリストの恵みと力をそのひとりひとりの魂と身体のうちに宿して、新しく生かされることであります。それが、先在のロゴスであり神の御子が受肉して十字架の栄光を遂げる目的であったからです。そしてそれは直ちに、私たち人類が新しい創造と救いに新生する栄光となるからであります。