2022.6.19 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第3主日礼拝
ローマの信徒への手紙講解説教1
説教「あなたがたに福音を告げしらせたい」
聖書 イザヤ書7章10~16節
ローマの信徒への手紙1章1~15節
聖書
1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。1:6 この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――1:7 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:8 まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、”霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。1:13 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。1:14 わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。1:15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。
説教
はじめに. 「ローマの信徒への手紙」の誕生
本日より「ローマの信徒への手紙」より、神の啓示、福音のみことばをお聞きすることになります。今日はその1章15節までお読みしますが、皆さんの「新共同訳聖書」には、ペリコーペに従って小見出しが一つ一つ付けられておりますが、1~7節が「挨拶」、8~15節が「ローマ訪問の願い」となっています。聖書原典にはそうした小見出しや標題は一切ございませんので、表題の意味に余り影響されずに、聖書の文面から直接に本来の意味を聞き分けてゆければ、と願っております。
ローマの信徒への手紙の講解説教は、西ノ台教会では初めてのことのようですので、先ずこの手紙が、だれが、いつ、どこで、またどういう事情から書かれた手紙なのか、という所からお話しいたしますと、著書は言うまでもなく「使徒パウロ」です。パウロは、主イエスが十字架に死に三日目に復活した直後、その年代決定は学者によって異なりますが、おおよそ35年前後に、復活のキリストの声を聞き、キリスト教に回心し、バルナバと共に、異邦人伝道のために「使徒」としてエルサレム教会から遣わされ、3度に渡る宣教旅行を繰り返し、最後はローマ市民として正当な裁判を受けるためにローマに赴き、65年前後に処刑され殉教を遂げました。そうしたパウロの宣教活動の足跡は、聖書巻末の「パウロの宣教旅行」という地図になって掲載されておりますので、ご参考にされますと、役立つと思います。ローマとエルサレムとの交流は、ディアスポラのユダヤ人を初め、ユダヤ教改宗者など、エルサレム神殿を中心に、早くから活発に行き来されており、すでに四万人前後のユダヤ人たちがローマで暮らしていたようです。紀元50年前後になると、エルサレム教会との交流からキリスト教会が生まれ、大勢のユダヤ人クリスチャンがおりました。しかし皇帝クラウディウスの勅令により、ユダヤ人キリスト者はローマから追放されてしまいます。
この「ローマの信徒への手紙」は、パウロが、晩年にまだ見ぬローマの教会のために、福音を教理的説教として解き明かした手紙です。ペトロとパウロは共にローマで殉教しましたが、今のヴァチカンの聖ペトロ教会の、その基礎となった地下に、かつてペトロとパウロが埋葬された墓があった、と発掘調査から報告されています。パウロは、ローマという世界の宗教と文化の中心にあって、キリスト教の福音を体系的に説く使命を強く覚えて、本書を書いた、と考えられます。いきさつとしては、その頃パウロは、エルサレム教会の貧しい兄弟姉妹らのために、マケドニヤやアカヤの異邦人教会に対して「愛の献金」を訴えて集め、その献金をエルサレムに持参する責任を覚えていました。それはまたエルサレム教会のユダヤ主義者たちと和解するためでもあったようです。パウロは、ローマに赴きローマ宣教を果たしたいと切望していましたが、自分の願いよりもエルサレム教会の責任を果たすことを優先しエルサレムに向かいますが、途中ローマに赴く者があると聞き、詳細は不明ですが、おそらく第3回コリント訪問の際、ガイオ宅に滞在し、この手紙を口述筆記させて(ローマ16:22, 23)、ローマに送ることにしたようです。パウロ自身が「この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。」(ローマ16:22,23)と記している通りです。56年頃と推定されます。このように、「ローマの信徒への手紙」は、使徒パウロが、56年頃に、コリント人ガイオ宅で、テルティオに口述筆記させて、テルティオによってローマ教会の信徒のもとに伝えられ、次第に礼拝の中でも或いはさまざまな公の集会で回し読みされるようになりました。したがって最初はパウロの私的な福音理解を纏めた「手紙」でしたが、やがて教会という公の場で共有され、いわば「教会公式書簡」として用いられるようになり、最後は教会の正典とされるようになりました。
1.「パウロ奴隷」(Pau/loj dou/loj)
私たちは、自分が誰かから卑しめられたり馬鹿にされたりすると、当然ながら、とても傷つきます。怒りが生じ、心が痛み、辛くなります。それはなぜでしょうか。自分は、卑しめられたり馬鹿にされるような人間ではない、と思っているからではないでしょうか。或いは、自分はもっと認められ、正当に評価されて然るべきである、と考えているからではないでしょうか。一般社会でも、不当な誹謗中傷に対しては、人権侵害や名誉棄損などで、告訴することができます。わたしたちは、それが当然の、人としての「権利」である、と考えています。
ところが、パウロは、驚いたことに、このローマの信徒への手紙を書き始めるにあたり、真っ先に「パウロという奴隷から」という自己紹介をもって挨拶して、「神の福音」を解き明かそうと、この荘厳長大な教理体系を手紙に書き始めたのです。第一声である書き始めの言葉は、原典をそのまま引用しますと「パウロ奴隷」(Pau/loj dou/loj)という字で始まります。「僕」と邦訳されていますが、正確に言えば、直接の意味は「奴隷」という字です。つまりパウロは真っ先に「奴隷のパウロ」から、と言って手紙を始めたのです。なぜ「奴隷」という身分から、パウロは自己紹介を始めなければならなかったのでしょうか。余りきれいな表現ではありませんが、お前はいったい何様だと思っているんだ、などという表現がありますが、文字通り、パウロは「奴隷のパウロから」と言って、自分を自己紹介して、このローマ書を開始したのです。実は、パウロは「奴隷」から始めて、それを福音を語る出発点、つまり「福音の原点」として、神の福音を教理的に体系づけた、と言ってよいでありましょう。「神の福音」を語るということは、自分が「奴隷」であることを深く知る所から始まるのであり、福音を語り終えるのも自分が「奴隷」であることに徹底して終わる、と考えたからではないでしょうか。「奴隷」という字は、新約聖書には126回用いられていますが、その大半はパウロの手紙に登場します。
では、なぜ、パウロは、自分は「奴隷」であると明記して、この手紙を書き始めなければならなかったのでしょうか。それには重大なパウロの思いがあったからに違いありません。既に皆さんもご存じの通り、パウロはローマの市民権を持っていたので、ローマ皇帝の座で市民として正当な裁判を受ける権利を有していました。所謂「奴隷」の身分ではなく「市民」です。しかしやはりパウロは、自分の本質は「奴隷」に過ぎない、と考えていたので「パウロという奴隷から」と書いたのです。どうして、パウロは自分のことを「奴隷」と言って、自己紹介する必要があったのでしょうか。
これは推測ですが、いくつかの理由から、パウロは「主人」にはなれない、したがって常にだれかの支配を受ける「奴隷」に終わってしまっている、と深く苦悩していたのではないでしょうか。自分が自分の本当の意味で自分自身に対して「主人」となって生きることは出来ない、と思いを深くしていたと考えられます。自分自身に対して本当の意味で「主人」にはなれない、という痛みと破れがあったのです。自分で自分をどうすることも出来ない、したがって自分には自由はなく、常に何かによって支配され、拘束された、非常に無力で哀れな「奴隷」に過ぎない、と思い知らされていたのです。人間は皆、人から尊敬される立派な人間になろうとします。立身出世して認められ称賛されたいと願い、一生懸命に努力します。だから、人に褒められ認められると、とてもうれしいのです。しかしその反対に、認められないと、激しい屈辱と怒りを覚え、心は傷つき、生きる力を失います。パウロは、自分で自分を立派にすることも、自分で自分を慰めて平安を保つことも出来なかったのかも知れません。この手紙の7章を読み進んでゆきますと、パウロはこう告白します。「7:8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。7:9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、7:10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。7:11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」そして「7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と自分の絶望的な悲惨を表白します。文字通り、自分で自分を救うことは出来なかったのです。つまり自立した自由を持った「主人」にはなれず、罪と死に支配された「奴隷」にすぎない、と心底から思い詰めていたのです。聖書の言葉で言えば、一方では、立派な人間であろうとする「律法」に拘束され束縛された「律法の奴隷」であり、しかし他方では、律法は本来幸福と自由な人格の完成に導くはずなのに、残酷かつ皮肉にも、立派になれない自分を訴え続けて断罪するのです。そしてついに、あなたは「罪の奴隷」である、と裁定宣告したのです。こうしてパウロは、破綻と破れの奴隷、敗北の奴隷でしかない、喪失と絶望そして死と滅びの奴隷である、という深い自覚と認識に至り、叫ぶように、この深刻な嘆きを訴えたのであります。人間の心の心理は不思議です。本当は「できない」のに、それでも「できる」と言われたい、と渇くように求めるのです。そうでないと耐えられないのです。深刻に飢え渇きながら、あなたは「できる」という承認を求め続けるのですが、しかし実際は常に「できない」という矛盾と分裂を心の奥深くに背負うのです。パウロは、自分に対して、どうしても「主人」にはなれませんでした。ましてや他人に対しても、或いは律法や死に対しても、自分は勝利者である「主人」となって生きるなど、とてもできない、と知りました。罪に敗れた罪の奴隷であることを思い知らされたのです。しかも立派になろうと、どれ程に律法を重んじて律法の主人になろうとしても、やはり律法においても破れ果て、律法の奴隷にすぎない、と観念したのです。初めは律法を学ぶことで、前途有望なる理想と可能性に憧れ、自己の前途を期待するのですが、律法といよいよ真剣かつ誠実に向き合えば向き合うほど、自分の敗北を否定することができなくなったのです。ついに完全敗北を認め、律法の奴隷から罪の奴隷という自己認識に至った、と思われます。絶望を嘆く悲嘆の奴隷でもありました。人は皆、その人間である本質において、律法の奴隷として学びますが、結果は罪の奴隷であることを自覚し、死と滅びに敗北する奴隷となる、とパウロは深く認識したのです。
2.「キリスト・イエスの僕(奴隷)」
もう一つ「奴隷」ということで、これが最も重要な点なのですが、パウロは「キリスト・イエスの僕」と書いています。「僕」と訳された元の字は「奴隷」ですが、同じ「奴隷」という字を、邦訳聖書は、敢えて「僕」と訳し変えています。訳し変えた理由は不明ですが、私見によれば、奴隷という「身分」から、さらに転じて奴隷の「働き」に視点を移しますと、それは「主人に仕える」或いは奴隷には「仕えるべき主人」がおられるのだ、という意味になります。つまり奴隷という身分から、仕えるべき主人に目を向けて、奴隷の使命を考え直すのです。そして奴隷は主人に仕えるのであるから、それは「僕」である、と訳したのではないかと思います。
これまでパウロは、自分に対しても他人に対しても「罪の奴隷」「律法の奴隷」「死の奴隷」でしたが、それがパウロの身分と境遇を決定づけ支配していたのです。しかし、ここで今度は一変して「キリスト・イエスの僕(奴隷)」と言ったのです。奴隷という身分を明らかにすると、今度はすぐさまに、奴隷の働きに目を向けて、自分の僕として仕えるべきご「主人」の存在を明らかにし始めたのです。なぜでしょか。
古代の「奴隷」は、奴隷市場で売り買いがなされており、奴隷商人に高額な金銭が支払われて買い取りされていたようです。したがって、代価を支払って自分を買い取った人が、奴隷の唯一人の「主人」となりました。パウロが、自分は「奴隷」である、と言うからには、それには、自分のために高額な代価を支払って、自分を買い取られたご「主人」がいたからです。自分には代価を支払って買い取った「主人」がいるので、それゆえに、自分は「奴隷」である、と言うわけです。
パウロは、律法と罪の奴隷からそして死と滅びの奴隷から、キリスト・イエスというご主人が自分のために十字架という代価を支払って、復活した永遠の命のもとに買い戻され、新たに死と滅びの裁きから解放されて、主人であるキリスト・イエスに仕える奴隷となりました。大事なことは、代価を支払って罪よる死と滅びから買い取り買い戻してくださった「主人」が自分にはおられることです。それが「キリスト・イエス」です。罪と死に対する代価が、この主人ご自身の命の犠牲によって支払われ、この主人の新しい命の祝福のもとに買い戻されたことです。いわば自分のために「無限の代価を支払う」お方がおられるのだ、ということです。実は、聖書の言葉で「贖う(贖い)」(lutro,w)とは、奴隷のために代価を支払って買い戻す、という意味を語源とする字です。ですから、罪から代価を支払って義へと買い戻すことを「贖罪」と言います。キリスト・イエスは、罪と死の奴隷であったパウロのために、十字架の死という命の代価を支払って贖罪し、ご自身の復活の命のもとに買い戻したのです。したがって、パウロは、「主人」とは、罪と死から代価を支払って、自分を命へと買い戻してくださった「キリスト・イエス」というお方である、と自己紹介したのです。しかし、パウロはここで「奴隷」と自己紹介しながら、そう言えることが、とてもうれしいのです。「キリスト・イエスの奴隷」と自ら自己紹介できることが、パウロにはとても大きな喜びであり誇りであり、希望なのです。なぜなら、自分のために、主人の尊い命の代価が支払われたことを知ったからであります。主人による無限の愛と恵みが自分のために注がれていることを知ったからです。
次いでパウロはさらに言及し、罪と死の奴隷から死の代価を支払って自分を永遠の命のもとに買い戻してくださったキリスト・イエスというご主人について、その詳しい本質を言い表します。すなわち、罪と死から、十字架の死の代価を支払って、復活という永遠の命のもとに買い戻してくださった、キリスト・イエスという主人とは、どのようなお方なのか、さらに深く語り始めます。その主人とは「1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:3, 4)と書いて、主人の本当のお姿を紹介します。罪と死から命へと贖ってくださったキリスト・イエスとは、「肉」という人間としての性質から言えば、ダビデの子孫で大工の子イエスとして生まれた、私たち全く同じ「人間」そのものであり、「聖なる霊」という神としての本質から言えば、「力ある神の子とさだめられた」「御子」である、と証言したのです。教理的に言えば「キリスト論」を告白しているのですが、そのキリスト・イエスにおける「人間性」について言い表したのです。これは、後のカルケドン信条で、御子であるイエス・キリストは罪を除く外は私たちと同じ「完全な人間」であり、同時にまた父と同一本質なる「完全な神」であって、この「人」としての本質と「神」としての二つの本質は、互いに混同せずまた分離もしない、という「キリスト両性論」になります。さらに「聖なる霊」という神としての本質から言えば、「力ある神の子」である、と永遠の昔から定められていた、ということになります。これは、後のニケア信条で言えば、キリストは父と同質本質である神であり「神の子」である、という三位一体の神の告白となります。「神の御子」は、天より地に降り、処女マリアの胎内から人間本性の全てを受け取り受肉して、わたしたち人間のために十字架の死に至るまで神の従順を貫き、しかも十字架の死に至るまで死の代価を支払って人間として罪を完全に償い、この十字架上における贖罪をもって、神の義を実現して栄光のうちに死人のうちより永遠の命に復活して天に昇られたのであります。この御子こそ、パウロのために十字架の死の代価を支払い、復活の命のうちに買い戻された、パウロの「主人」の本当のお姿であります。
3.「神の福音のために選び出され、召されて」
人間的な思いから短絡的に想像しますと、奴隷の気持ちからすれば、自分を買うために、主人が「いくら」支払ったのかということは、大きな意味を持ちます。奴隷の側にも、何等かの支払いを受けるべき「値打ち」があったからではないか、と考えがちであります。しかし、それはどんでもない勘違いであります。先ほど申しましたように、パウロは「律法の奴隷」から「罪の奴隷」となり、ついには「死と滅びを嘆く奴隷」として、完全破綻してしまった、そういう自分の回復不可能な破れを痛感していたからです。そのような地獄から自分を買い取ることの出来る人は、この地上には誰もいないはずです。親の血筋や愛情をもってしても、子を生き返らせることは出来ないのです。絶大な財力と権力を握るローマ皇帝でさえ「死と滅びの奴隷」として終生終わるのです。それはパウロ自身が「わたしは死にました」(ローマ7:10)と絶叫するほど、また「7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)と絶望を表白するほど、自分が全てにおいて完全破綻してしまったことを一番よく知る者でありました。自分自身に代価を支払うような価値などは全くない、ということを彼は痛いほど認識していました。であるとすれば、これは、神の内側から、いわば神の愛によって、無前提にそして無条件に起された「贖い」(買い取り)であります。この奴隷には、代価を支払う値打ちなどないのですから、まして死の代価を支払われる必要はないのですから、贖うお方のご意志のうちにおいてのみ、その理由も意味も見出されるはずです。パウロはこれを「ミステリー(奥義)」即ち「(神の)秘められた計画(musth,rion)」(ローマ11:25、新約聖書中28回のうちパウロ書簡25回)という言葉で表現しています。またヨハネによる福音書は「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16)と神の奥義を言い表しています。自分が最低で無価値であり、死と滅びの絶望の中にあった、その時そこに、突然一方的に「主人」が現れて犠牲の代価を支払い、自分を死の絶望から買い戻し始めたのです。これは驚きであり、予想と思いを超えた、いわば全くの「外」から突入した異質で衝撃的な出来事でありました。突然の「外」から一方的に「主人」目の前に現れて、自分のために死の代価を支払い、罪と死の世界から神の義という冠を与えてくださり、永遠の命のうちに買い戻されたのです。パウロが「15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」(コリント一15:9)と告白している通り、パウロは、反キリストであり、ステパノを死に追いやった迫害者であった、その自分のために、十字架の死の代価と復活という命を恵み与えてくださったのです。それをパウロは「神の福音」と呼びます。この衝撃的な「神の福音」が自分のために引き起こされ、自分は買い戻されて、主人に仕える奴隷となったのです。言うまでもなく、福音とは「喜ばしい音信」という意味ですが、神は、独り子キリスト・イエスの十字架の死において、その死の代価を支払って罪と死の滅びから、復活という永遠の命のもとに、自分を買い戻してくださった、という突然の出来事が、余りにも衝撃的に自分の前で、しかも無前提で無条件に引き起こされ、自分に向かって迫って来たのです。その衝撃的で驚きに満ちた「神の福音」が、まさに外から自分の内に啓示され、神の福音として、自分のうちに引き起こされたのであります。完全に罪を償い、死と滅びの支配の奴隷であった自分を罪と律法の奴隷から解放してくださって、喜びと希望に満ちた福音のもとに、お招きくださった主人で出会ったのです。いわば闇と絶望の奴隷から光と希望に支配される奴隷へと根源から移され変えてくださる主人がおられ、そのお方のもとでそのお方の福音のために仕える奴隷、すなわちキリスト・イエスの僕として生まれ変わったのです。
もう一つ、衝撃的で決定的な出来事が天から降って来たように突入し、パウロのうちに引き起こされます。それは、復活のキリストからのみことばでありました。使徒言行録9章によれば「9:1 さて、サウロ(パウロ)はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。9:4 サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。9:5 『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』」(使徒言行録9:1~6)と記されております。復活の主イエスは、パウロに、ご自身からの直接のみことばをもって、自己啓示したのです。復活のキリストによる突然のお召しであり、僕としての召命でありました。こうして新たに、パウロは復活の主によって永遠の命の福音のもとに買い戻され、キリスト・イエスの奴隷として生きること、それは、パウロの人生にとって決定的な出来事であり、パウロという存在の全てを根底から規定し直す出来事でありました。そしてこの出来事は、外の天から突然に神から与えられた「恵み」としての出来事でありました。「神の恵み」として、突然神から与えられた出来事でした。
パウロは、ここでついに「神の啓示」と「神の選び」とは、その本質は「恵み」として、突然に与えられる出来事である、と知ります。救いとは突然に神が「無条件の恵み」として一方的にご自身の代価を支払って買い取りお与え下さる神の恵みの賜物であった、と気づきます。だから「神の福音」としか言いようがないのです。神は、「救う主人」として即ち「救い主」として、自分のために「無条件の恵み」という仕方で現れ、「選びの恵み」と「啓示の恵み」をパウロにお与えになられ、そして「使徒」としての恵みをお与え下さったのです。恵みは、「物」ではありませんので、正確に言えば、神ご自身が、ご自分を買い取りの代価として支払う「恵みの主」として現れ、パウロを死と滅びから買い戻したのです。
パウロは「神の福音のために選び出され(avfwrisme,noj eivj euvagge,lion qeou)、召されて使徒(klhto.j avpo,stoloj)となった」と言い表しています。「召されて(klhto,j klhto.j)」とは、招待を受けた、と言う字です。自分は、キリストによって名を呼ばれて、恵みによって招かれご招待を戴いている、その恵みの上に、今の自分の存在がある、ということです。しかもさらに重要なことは「神の福音のために選び出され(avfwrisme,noj eivj euvagge,lion qeou)」とも言っていますが、それは、神の福音のために、自分は最初から神により分離分割されて取り分けられていた、という受け身の完了形で表現されています。既に神の福音のただ中に切り取られて入れられており、福音のただ中にあって救いに与るだけでなく、神の福音のために新しい命に生まれ変えられていたのです。それは、この世とは全く異質な神の福音の世界であり、そのただ中へにこの世から切り取られ分離されて、即ち選び分かたれて、取り分けられている(avfori,zw avfwrisme,noj)、それが、今の自分の生きる「生」である、ということがよく分かったのです。神の福音の中に生まれたのですから、福音のために福音と共に生きるのは当然であります。主人により、主の福音のもとに「買い戻された奴隷」は、そのまま直ちに主人の福音のために生まれ変わったのですから、福音のために仕える僕であります。わたしたちは皆、主イエスに代価を支払って福音のただ中へと買い戻され、福音のうちに所属するようになったのですから、キリストを主人とするキリストのもの、キリストの奴隷であり、即ちクリスティアーノス(クリスチャン)と呼ばれるのです。わたしたちを救う主人であり、救い主なる神は、ご自身を死と滅びの代価として支払う「恵みの主人」であります。死の奴隷を贖い買い取るために、御子の十字架の血はその代価として流され、死の奴隷を神の義の冠のもとに永遠の命に招くために、御子は復活して天に昇られたのです。パウロはその使徒として「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい」と書いています。御子イエス・キリストにおいて、その十字架と復活という秘められた神のご計画において、生まれる前からパウロを召し選び出されていたのです。それが、パウロにとっては、全ての真実でありました。神が、御子において、無条件の恵みとして、御子の十字架と復活を通して、まさにご自身の全身全霊を代価としてお支払いになられた「霊の賜物」を、是非ともローマの皆さんと共に分かち合いたい、と伝えました。このように、パウロは、キリスト・イエスを「主人」として高く掲げ、主人に仕える「僕」(奴隷)として使徒とされ、この手紙を書き始めたのです。
こうしたパウロの「奴隷」(僕)としての自覚は、私たちの思いを改めて戒めます。自分を認めて欲しいという自我欲求から、人の集まる中でみんなに見えるように、自分の自慢したいものを教会に持って来るような言動がよくあります。奉仕についても、同じことが言えるかも知れません。これは、一見、とても無邪気で微笑ましいように見えますが、少し皮肉に考えますと、自分のものや行為は高く掲げて飾っても、案外、神の福音や説教を高く掲げて飾る人は教会でも余りいません。教会のことを名目に、結局、自己を顕示し自己を認めさせたい、という「奴隷」ではなく、自分が教会や信仰生活においてさえも「主人」になろうとするからです。主人である神の愛や福音よりも、自分の欲求を選ぶのです。ここに、本質的な人間の心の病が、罪と背きという病があるからです。これを非難して責めるつもりは毛頭ありませんが、是非、改めて脚下照顧していただきたいのです。反対にパウロのように、本当に神の福音を知る者は、心の底から喜び感謝できる「主人」を知る者は、主人の僕となって仕える「奴隷」の生活を理解し受け入れることができます。教会にいながらも、いつまでも自我欲求の奴隷でいる人は、もしかしたらまだ本当の「主人」を知らず、神の福音が分かっていないからのではないからではないでしょうか。神の愛も、恵みも、福音という喜びも、本当の意味で、まだ知らないのではないか、そして何よりも、自分が実際に今どんな奴隷として隷属と支配を受けているのか、自覚できていないのではないか、ということです。「奴隷」という意味が自覚できないこと、それが、どれほど悲しいことであるか、気付けないことほど痛ましいことはないのです。パウロは自分を「奴隷」と言って、全ての前から自分の一切を取り下げて、ただ「主人」に仕え、キリストの福音を高く掲げて讃美します。教会で信仰の生活をしていても、自分をどう自己認識するか、その自己理解は、そうした行動によってはっきりと表面化されるものであります。奉仕と言いながら、結局は、認めて欲しい、と願う自分が主人になってしまうのです。それとも「奴隷」であることに徹底して、神の福音を高く掲げるのか、そこには本質的な違いが生じて来るのです。改めて、パウロの通り、私たちは「キリスト・イエスの奴隷」なのです。なぜなら、キリストが「主人」となって、死の代価を支払ってご自身の命もとに私たちを買い戻してくださったからです。ですからキリストというご主人に喜んで仕える僕となったのです。そこに、徹頭徹尾「主人」である神に属するもの(クリスティアーノス)として、それゆえに神の栄光のうちに買い取られたものとして、私たち人間の本当の誇りと尊厳が与えらています。この尊厳を知る者だけが、「キリスト・イエスの奴隷」であることを心の底から生涯を尽くして喜ぶことができるのであります。それが教会生活の本質であります。そうでなければ、汚れた罪と自我欲求の奴隷のまま、死と滅びのただ中に、ただただ転落するばかりであります。
4.「使徒となったパウロ」
前述の通り、「神の福音のために選び出され(avfori,zw avfwrisme,noj)」とは、神の福音に向かってその中に切り取られ、そのために分離され、取り置かれた、という意味でした。また「召されて(klhto.j)使徒(avpo,stoloj)となった」とは、キリスト・イエスの「使徒(avpo,stoloj)」として、その務めにご招待をいただき、遣わされた、という意味でした。つまり使徒言行録から読み直しますと、「サウロ(サウル)」(使徒言行録9:4)は回心して、実際に使徒たちとエルサレム教会全体の決定に基づき公に「使徒」として立てられ、異邦人宣教に遣わされました。使徒言行録13章によれば「13:1 アンティオキアでは、そこの教会(evkklhsi,a evkklhsi,an)にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者(profh,thj profh/tai)や教師たち(dida,skaloj dida,skaloi)がいた。13:2 彼らが主を礼拝し(leitourge,w leitourgou,ntwn)、断食していると、聖霊(to. pneu/ma to. a[gion)が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい(口語訳・新改訳:聖別して、VAfori,sate dh, moi to.n Barnaba/n kai. Sau/lon)。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために(eivj to. e;rgon o] proske,klhmai auvtou,j))。』13:3 そこで、彼らは断食して祈り(proseu,comai proseuxa,menoi)、二人の上に手を置いて(evpiqe,ntej ta.j cei/raj auvtoi/j)出発させた。」と証言されています。パウロ自身が用いたのと同じ「選び出される」(VAfori,sate)という字がここでも用いられています。聖霊が命じたみことばに基づいて、教会の礼拝中にバルナバとパウロを「わたし(聖霊)のために選び出した」ということになります。教会は、聖霊の命じるみことばに応じて「断食して祈り、二人(バルナバとパウロ)の上に手を置いて」按手礼を執行しています。「上に手を置く」とは、人間の手ではなくて「聖霊」を象徴しており、神の御手である聖霊によって任職されたことを意味します。聖霊なる神自らが、二人の上に御手を置かれ、使徒として選び分かち、遣わすのです。さらにエルサレム教会の教会会議が行われ、使徒たちや長老たちが共に集い、バルナバとパウロを使徒として異邦人教会に派遣することを協議しています。そして全会一致をもって使徒として異邦人教会に派遣を決定します(使徒言行録15:1~21)。しかも「15:22そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。15:23 使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。『使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。15:24 聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。15:25 それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。』」(使徒言行録15:22~25)とありますように、この教会決議に基づいて、そのための証人を選び、決議記録の正面添書として携えさせ、バルナバとパウロに随行させています。キリストが十字架につけられ復活昇天してから僅か数年足らずのことです。この使徒言行録の証言は非常に重要です。エルサレム教会の全会一致による教会的な決議に基づいて、パウロは「使徒」として認定され、異邦人教会に派遣されます。ウロの「使徒」職は、正統な教会的手続きを経て、使徒として公の根拠をもって、任職され、派遣されています。目に見えない神、聖霊なる神の御手によって「按手」を受けると同時に、実際の目に見える地上の教会的権威と正式な手続きを経て、公の権威ある教会的根拠のもとに、使徒としての派遣が行われたことはとても意味深いことです。現代の教会でよく問題になる根本問題として、教職や牧師の任職と派遣をめぐる正統な教会的根拠は何か、という問題です。神が選び出し任職したとする正統な根拠はどこにあるかを問うのです。その根拠として問われることは、先ず教会が果たして正統な歴史的教会であるかどうか、本当に神の教会であるかどうか、その根拠を問う、ということにかかって来ます。人間同士が自分たちで集まって決めた、或いは人間の考えで造り上げた教会ではなく、神によって立てられた教会であることの証明が求められます。神が召してお立てになる教会であることを証明する客観的な証拠と根拠が問われるのです。
その正統な歴史的根拠とは、主イエス・キリストによる直接の任命委託として、教会の宣教を委ねられた、それが12使徒であり、その使徒たちが一致した教会的権威に基づいて、パウロを使徒として任職して、異邦人宣教に遣わしたことです。このように直接に使徒から使徒へ、歴史的客観性をもつって按手によって任職されるという形で、使徒としての務めは確立されました。現代でも監督制度を堅持する教会においては、この按手は二度と修正できない決定的な力と意味を担います。いわば、「一つの、聖なる、公同の(カトリック)、使徒的教会」を地上に写す重要な根拠となっています。この正統な按手と任職を受けたのだから、真の教会がここに受け継がれている、と言うことになります。それは人間による哲学や倫理を超えた「神の客観的事実」となります。プロテスタントでも、この本質は非常に微妙ですが、監督制度を教会の根幹とする聖公会、メソジスト教会でも同じようです。こうした歴史的に直接に使徒から使徒に至る「使徒継承」の上に、歴史的教会としての客観的で実証的な根拠がある、と考えるようです。
これに対して、宗教改革者ルターは、教職や牧師の務めに、神のみことばの奉仕者(ministerium verbi divini)であることを徹底して求めました。主人は「神のことば」であり奴隷は「使徒」であって、その逆転を容認しませんでした。逆転とは、本来の奉仕者(奴隷)が主人に取って代わり、神のことばを意味を決定し、サクラメントの実質を変化させてサクラメントを成立させる力を独占してしまうことです。奴隷として主人に仕える使徒が、福音そのものの管理権を得て、奉仕する仕え人のはずが最高階級の身分に変質した、とローマ教会を批判したのです。福音の「主人」として働くのは、徹頭徹尾、主イエス・キリストお独りであります。長老派や会衆派の教会も使徒継承を教会の根拠とするのではなく、どちらかと言えば、神のことばでる聖書を規範とし、聖書から解釈される信仰に基づいて、教会を論じる傾向が強いと言えます。使徒から使徒への直接的な使徒継承という歴史的根拠から教会の根拠を語らず、教理的な信仰の継承によって、教会の根拠を見出そうとする立場です。その結果、聖書を規範とする規範とし、信仰告白を規範とされた規範と規定して、教会の根拠の明らかにしようとしました。但し、問題は、逐語霊感説を排除して、やはり聖書を人間が解釈するのですから、人間の側の主観的な「信仰」解釈に依存することとなり、解釈の多様化は教会の分裂を引き起こし、最終的には教会はその根拠を失いかねないという危機を内包しています。
熊野義孝先生は、この教会としての歴史的根拠を基礎に、教会に仕えるべき学びとして、神学をなさった神学教師でした。カトリックや聖公会、或いはメソジスト教会のように、監督制度による使徒継承を主張せずに、どちらかと言えば、長老教会のように信条や教理による信仰継承によって、「一つの、聖なる、公同の、使徒的な教会」を見出そうとされたのではないでしょうか。その中核となる信条は何と言っても「ニケア信条」であり「カルケドン信条」であります。信条の中から公同教会(カトリック教会)の本質を引き出し継承しようとなさったのではないかと思われます。しかもさらに重要なことは、この「一つの、聖なる、公同の、使徒的教会」としての歴史的根拠は、天と永遠から地上と歴史に降って来られた「受肉のキリスト」にあり、特にそのキリストの人性を担う「お身体」を歴史的教会の根拠とする神学を追求されました。地上の教会の本質は、キリストの受肉したお身体を根拠に、即ち十字架に死に復活の栄光勝利を遂げ、天に昇られた神人両性を一体として担うお身体にあります。地上の歴史的教会の根拠は、この天地を貫くキリストの受肉の身体にある、と考えたと言えましょう。このお方がわたしたちの主人となって教会を集め、ご自身である「キリストの身体」そのものに与らせるのです。原啓示である聖書に基づいて、みことばを語り聴き、聖礼典に与る、という地上の歴史的教会における行為は、天地を貫くキリストの身体を根拠とする教会として、キリストの身体そのものに与る道筋となったのです。ですから、洗礼や聖餐は、キリストの身体に直結する恵みの通路であるがゆえに、地上の教会においては、いわば天地を貫いてキリストの身体として現臨する主人ご自身が、地上の教会を通して、福音のみわざを行われるのです。熊野先生の神学の中核は、受肉のキリストによる贖罪と復活による新生の身体にありました。その天地を貫くキリストの身体こそ教会の根拠であり、その根拠と権威のもとで、神の福音のために選び出され、召されて使徒とされることを見出した、と言えましょう。パウロの自己紹介には、どちらかと言えば、直接使徒継承という考え方よりも、十字架と復活のキリストがそのまま「主人」として恵みのみわざを行い、その圧倒的な恩恵のもとで、召されて使徒として仕える自分があったのではないでしょうか。「1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」と述べています。いわば、パウロからすれば、神が、その御子である受肉のキリストにおいて、自分のために十字架の死の代価を支払い、その代価を支払われた主人のもとで、神の福音のために選び分かたれ、召されて使徒となった自分は、やはり主人に仕える奴隷でありました。