2022.3.13 小金井西ノ台教会 受難節第2主日礼拝
ヨハネによる福音書講解説教41
説教 「この病気は死で終わるものではない」
聖書 ダニエル書2章17~23節
ヨハネによる福音書11章1~16節
聖書
11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
説教
はじめに. ラザロの復活
10章では、主イエスはご自身を「良い羊飼い」に、神の民を「羊」に喩えて、良い羊飼いは、羊のために命を捨てる、そして羊に命を与える(10:10,28)とお約束なさいました。11章では、主イエスは、ご自身がとても愛しておられたラザロを墓の中からよみがえらせる、という主のご生涯で最大かつ最後の奇跡を行われます。主イエスには、人々に永遠の命を与える力があること、その栄光のみわざを、このラザロの復活の奇蹟を通して、現します。神のメシアである主イエスの栄光のみわざは、十字架の死において人々の罪をご自身の命の代価を支払って贖い、人々を復活させ永遠の命を与えることです。その栄光のわざを、ご自身における十字架の死と復活によって現すのですが、そのご自身における栄光のわざの予兆として、ラザロを死の墓の中から復活させて見せるのです。
主イエスと永遠の命の関係について言えば、ヨハネによる福音書の冒頭で「1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と讃美告白されておりましたように、先在の言(ロゴス)であり、神の御子である主イエスのうちに永遠で根源的な命はあります。ヨハネによる福音書の中心テーマは、この御子における命が御子を信じることにより、信じる者に分け与えられる(ヨハネ3:15,16,36,5:24,26,40,6:27,35,40,47,48,51,53,54,68,10:28,11:25,14:6,17:2,3,20:31)ということにあります。これは、聖書の基本原理ですが、「命」とは、そもそも「神」のうちにその源泉を有しており、神から創造の恵みとして、神から分け与えられる神の賜物であります。単純な基本原理ですが、それでも、私たち人間にはきちんと受け止められないことでもあります。わたしたちはいつも親子兄弟などの家族の命を心にかけて心配し、無事を祈ります。しかし決定的な点は、そのすべての命は皆、神のものである、という点です。神から戴くことで命は実現しているのです。自分たちのものではないのです。そうであれば、神を受け入れ、神の命の恵みへの感謝こそ、生活の中心になるはずです。しかし残念ながら、そのために神を礼拝し神に感謝する人は余りにも少ないのです。家族の命を思うと言いながら、神からの命ではなく、自分の手の中の命ばかりを考えてしまうのです。元々、命は御子のうちにあり、御子はそれを信じる者に永遠の命として与えることが出来る、と主イエスは啓示します。ラザロの復活は、それをしるしとして証明して見せるために行われます。
1.登場人物、マリア(1~3節)
さて11章には、マリア、その姉妹マルタ、そしてその兄弟ラザロという三人の兄弟姉妹が登場します。先ずマリアという人物についてご紹介しますと、マリアとマルタは、この11~12章以外でルカによる福音書10章に、その名前が挙げらるだけです。ベタニヤ近くにある墓から、マリア,マルタ,ラザロの名が記されたものが発見された、という話を聞きます。この家族について詳細情報は殆どありませんが、ヨハネによれば、主イエスは彼らをとても深くいつくしんでいたことが記されています(3,5,36節)。
マリア(Maria, Mariam)という名は、ギリシヤ語で「マリア、マリアム」と言われますが、ヘブライ語では「ミルヤーム」で、そのギリシヤ語音訳音写になります。アラマイ語方言では「マルヤーム」となりますでしょうか。旧約聖書の出エジプト記の記述によれば「15:20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。15:21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。」とあります。モーセの姉ミリアム(出15:20‐21,民12:1,ミカ6:4)に由来する、と考えらえます。新約聖書には、マリアという名の人物は六人登場しますが、ここに登場するマリアは「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身」とありますから「ベタニヤのマリア」ということになります。ベタニヤは、エルサレムから約3キロほどの所で、オリーブ山の東南の斜面にある村と考えらえます。ベタニヤのマリヤは、姉のマルタと兄弟のラザロと共に、このオリーブ山の斜面の村で暮らしていたようです。主イエスとの出会いは、主イエスがユダヤ伝道の折りにこの村を訪れ、一家と親しく交わるようになり親交を深めたのではないか、と考えられます(ヨハネ11:5)。主イエスは、神殿に詣でる際に、彼らをしばしば訪ね、その家で食卓を囲みみことばを語られたようです。その際、マリヤはイエスの足もとに座り、主のみことばに聞き入りますが、姉マルタはイエスのもてなしのために忙しく働きます。主イエスの宣教は、いつも罪人と共に食卓を囲み、み言葉を語りましたので、食卓のために忙しく働くことはとても意味ある奉仕でしたが、マルタは自分だけが準備で忙しくしている、と不満を主イエスに訴えますが、主イエスは、マリアの行為は最も意義あるとしてマリアを妨げてはならない、と諭します(ルカ10:41~42)。来週触れますが、ラザロを復活させる奇跡を主イエスは行われます(11:1~46)。その時「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と告げています。言わば、主イエスがラザロを復活させる出来事につなげる役割を果たしています。最もマリアらしい行動は、イエスの最後の過越の祭の準備の時のことです。マリアは300デナリもする高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、涙と共に、自分の髪の毛でぬぐったことが記されています(12:1~8)。こうしたマリアの行為は、イスカリオテのユダなどは、浪費で愚かな行為として、非難しますが、主イエスはかえって彼女の愛の行為を感謝するばかりか、葬りの備えとした彼女の信仰を高く評価しています。(マタイ26:10,マルコ14:6)。
2.マルタとラザロ
マルタ(Martha)は「婦人」を意味するアラマイ語から派生した名前のようです。新約聖書では、ルカ10:38~41,ヨハネ11:1,5,19~39,12:2に登場します。先ほどの、イエスの死の準備に香油を注いだマリア(ヨハネ12:3)の姉として、そして主イエスが死人のうちからよみがえらせたラザロの姉として登場します。マタイによる福音書やによれば「26:6イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」とあり、またマルコによる福音書によれば「14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」とありますように、この香油を注いだ女がマリアであれば、「思い皮膚病の人シモン」の家にいたとする一人の女とは、マリアでありその姉がマルタ、或いはラザロもいた可能性もありうることではないか、と推測されます。つまりマリア、マルタ、ラザロは、重い皮膚病のシモンの家の家族または関係者であったと思われます。言い換えれば、深刻な汚れた罪人と断罪された人物の家族関係者であることが分かります。したがって、やはり主イエスは、罪人のもとに自ら訪れ、罪人を招き、罪人と共に食卓を分かち合い、みことばを語る、という宣教活動を常としていたようです。その宣教活動のただ中で、同じ罪人の家族であるラザロを主イエスは復活させて、新しい命に罪人を招くのであります。
ラザロという名の人物も、聖書には複数登場しますが、ここでは「ベタニヤのラザロ」です。主イエスの親しい友人であり、マルタとマリヤ(ルカ10:38~42)の兄弟です。そして場合によっては、重い皮膚病のシモンの関係者と言えましょう。それ以上の記述はありません。ただ、ここで、ラザロは、その性格や人間性に何か特別な意義があるからというのではなく、ラザロの役割は、あの生まれつき目が見えなかった人が目を開けられた人と全く同じように、神の栄光のみわざが主イエスによって行われる「栄光の場」として、象徴的に登場している点にあります。そうした主の栄光が現れる場としての役割を担っているように思われます。
3.「この病気は死で終わるものではない」(4節)
人物紹介はこれまでといたしまして、早速本論に入りますと、ラザロ復活の発端として、ラザロの病気が姉妹から主イエスのもとに伝えられます。ヨハネは「その兄弟ラザロが病気であった。11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。11:4 イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」と記しています。
この対話の中には、病気に対する一つの重要な見方が示されています。この味方はとても信仰生活には重要な考え方です。しかしそれと同時に、私たち人間の感情からすれば、非常に驚くべき考え方でもありますから、ある意味で躓きのもとにもなりそうです。信仰とは、どんなことでもそうですが、信じる者には福音であっても、正しく信じられない者には、いつも躓きとなります。主イエスはラザロの病気について「病気は死で終わるものではない(ouvk e;stin pro.j qa,naton)」と断言しました。直訳すれば、死に至るものではない、となります。つまり「死」に至らしめる「病気」などはなく、病気は「死」に至らしめるものではない、ということでしょうか。或いは、今や、病気は「死」に至らしめるものではなくなった、ということを意味するのでしょうか。場合によっては、今や、「死」はなくなったのだ、それゆえ、病気さえも恐れることはないのだ、という意味にもとれます。今、わたしたちは、非常に難しい感染症で苦しめられております。人類の歴史は、病気との闘いでもありました。誠に悲しいことですが、多くの犠牲者を出してきました。誰もが心を深く痛めるばかりか、いつかは自分も感染したら、と非常に恐れています。わたくしも母の病死が人生を変えました。そうした病いに対する恐れや痛み悲しみこそ、わたしたち人間に共通する感情であります。だからこそ「11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた」とありますように、早急な癒しを主に求めたはずです。先ほども紹介しましたが、後に間に合わずに死んでしまったラザロの悲しみとその無念さから、「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った」のです。死んでしまった者は、もう二度と生き返ることはない。それが「死」であります。しかし主イエスは、病気は「死」をもたらしはしない、と言い切っています。では病気による死とは何なのでしょうか。主イエスは「死」を二重に見ているのでしょうか。一つは、完全な死滅や永遠の滅びという根源や本質における死と、時間の中で現象として生じる死の状態とを区別して見ておられるのでしょうか。11節で「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言われています。用語では「眠ってしまっている」(koima,omai kekoi,mhtai)という現実として完了形で表し、だから「眠りから呼び覚ます」(evxupni,zw evxupni,sw)と仮定法過去(アオリスト)で表しています。
したがって、ここには明確な「ある視点」に立って病気を見つめる主イエスのお姿が見えて来ます。ある特別な視点から、「死」を見つめている、と言ってもよいでありましょう。それは、主イエス・キリストご自身による視点から見えて来る、「死」の本質であります。主イエス・キリストにおいて「神」の到来を認めて受け入れた信仰の視点から見れば、「死」の本質は「眠ること」であり、確かに病気によって眠らされてしまったが、「死」という終焉を滅びとして迎えているわけではない、というのであります。したがって、病気が死に誘い至らしめるそのただ中に、福音の光が射し込んでいると言えましょう。なぜなら、そこに、主イエスにおける「神」の現臨は、直ちに「神の国」(神の支配)の到来を意味するからです。神の永遠のご支配が病気の中に介入されるからであります。主イエスにおける「神」のみわざは、主イエスによる十字架と復活のみわざであり、それこそが、まさに「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受ける」場となるからであります。主イエスにおいて真実に生きて働く「神」は、今この地上に到来し、このわたしたちの生活の隅々に降り、主イエスの十字架と復活において、永遠の命はこの地上に突き刺さるように介入したのです。その明確の視点に立つとき、はじめて病気は決して死で終わるものではない、否、死そのものに勝利するという希望の光が、病気という悲惨な闇に光射すのです。
4.「夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
主イエスは弟子たちに「昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」と教えています。「昼」には「光」があり、「夜」とは暗闇の象徴ですが、暗闇は「光」を失った不信仰を意味します。つまり「光」とは、主イエスご自身であり主ご自身が現臨して今ここにおられること、そして主イエスにおいて現臨する神を信じる信仰であります。この光すなわち信仰こそ、世界のすべての現象とその真相を見分ける明確な「視点」となります。明確な信仰という視点をもって、キリストにおける「神」の到来という光のもとで照らし出される世界の真相を見分けるのです。「その人の内に光がない」とは、キリストにおける神のご支配を福音として信じ受け入れることができない不信仰を言い表したのでありましょう。主イエスの十字架と復活を通して与えられる神の恵みから見れば、病気は、確かに悲痛な現実であることは変わりはありませんが、そこでもう一つの真実が、すなわちキリストを通して到来する「神の支配」という光の介入です。病気に苦しみ悶えつつも、わたしたちは「神」と共に病気と向き合い、そして病気を乗り越えて、死に勝利するのです。こうして病気は、わたしたちを永遠の死へと至らしめるものではない、という真実を知ります。病気は痛ましい病気のままであり続けることはなく、キリストの十字架と復活を通して、「神の栄光」が現れる場となり、私たち自身からすれば、だからこそ、その希望の光のもとで、神の栄光を現わす場として積極的に受け止め直すことができるようになるのではないでしょうか。苦しみも悲しみも、確かに痛み悲しみの現実は変わりませんが、キリストの十字架と復活を通して働く神の栄光のみわざを知れば、それは敗北と絶望の場ではなく、その痛み苦しみの場こそ、希望に生きる場であり、本当の意味で命に勝利する場となるのではないでしょうか。ようやくホスピス病棟が我が国でも受け入れられるようになりましたが、それはただ医療の敗北から仕方なく容認せざるを得ない、というのであってはならないと思います。むしろ永遠の命に向かう尊厳と希望に溢れた、言わば本当の意味で生き抜こうとする過程であり場であります。したがって、ホスピス病棟を根底から支えるものは、主イエスにおける「神」の到来と現臨であり、主の十字架と復活を通して実現した贖罪と復活の恵みであり、その信仰であります。
5.
主イエスが「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と仰せになり、一行はベタニアに向かって出発するのですが、それに対して、弟子たちは根本的な誤解をしてしまうのです。12節以下に「11:12 弟子たちは、『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう』と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。」と記されています。主のみことばを誤解した弟子たちには、「死」という究極的なその本質はおろか、ラザロが実際に死んだ、ということさえ、誤解しており、ただしく受け止められてはいなかったです。「11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。』」と改めて、主イエスは現実のこととしてラザロの死を告げ直して、本当の意味で、ラザロを死から復活させる出来事を暗示します。しかしそれでも、「11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った。」とありますように、死と復活の意味はさらに二重に誤解されてしまいました。しかし、これがわたくしたち人間の実情でありましょう。主イエスのみことばをその場で正しく聞き分け理解することは至難と言わなければなりません。この福音書を書き記したヨハネ自身もそうだったと思われます。だからこそ、ヨハネは死の直前まで、繰り返し繰り返し主の言われた言葉、主のなされたみわざを反芻するように、想起しつつ、その意味を問い続け、ようやくこの福音書を書くに至ったのでありましょう。
以前にも少し触れましたが、「牧会」の目的は「信仰」の助けとなることにありますが、その本質を言えば、キリストご自身の御声そのものが、羊の名を呼び、羊を連れ出して、天国の門を通り抜けて、永遠の命の囲いの中に導くこと、それが牧会の本質です。したがって、ひとりひとりが、羊飼いである主イエスのみことばの声を聞き分ける、その一点に牧会は生じるのではないでしょうか。この場面での弟子たちは、まだ羊飼いの御声を正しく聞き分ける段階には至らなかったようです。わたくしたちも同じで、長い牧会という信仰の旅と訓練の中で、絶えず自分の名前を呼ばれ、引き戻され連れ出されつつ、門を通り抜けてゆくことになります。