2022.7.10 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第5主日礼拝
ローマの信徒への手紙講解説教4
説教 「霊による内面の律法と割礼」
聖書 イザヤ書52章1~15節
ローマの信徒への手紙2章17~29節
聖書
2:17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、2:18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。2:19 -20また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。
2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。2:24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。
2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。
説教
はじめに「神は天から怒りを現わされます」(1章18節)
使徒パウロは「わたしは福音を恥としない」(ローマ1:16)と言って、なぜなら神の福音は信じる者すべてに救いをもたらす「神の力」(ローマ1:16)であるからだ、と証言します。しかも、神の福音には「神の義が啓示されている」(1:17)と告げ、「神は正しくお裁きになる」(2:2)お方として、「あなた」即ち私たちひとりひとりの前に現在形で立ち給い、神の義をお示しになります。そうであれば、正しい者にとっては、大きな励ましであり「喜びの福音」となります。しかし反対に、正しくない者にとっては、大きな恐怖となり「死の審判の危機」となります。不義と不信仰の者には、正しい裁きは福音どころか、最も恐るべき死と滅びの宣告となるのであります。預言者たちが証言した「メシアの到来」の出来事は、民にとって光と喜びであり、しかしその一方ではまた、闇であり死の審判も齎します。
「メシアの到来」の出来事をめぐり、聖書は多くの人々の思いや反応をさまざまな形で描いています。その典型は、この世の政治的権力者を象徴するヘロデです。メシア(キリスト)が生まれたと聞いたヘロデは、「学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(マタイ2:16)のです。ヘロデはユダヤの政治的権力者として君臨し続けるため、最も厄介な難問がメシア到来であり、メシアの抹殺を謀るのです。その結果、無差別に同世代の男児を皆ことごとく虐殺したのです。神の御子を殺すという明らかなそして確信的な神の背きです。しかし、主の天使が夢でヨセフに現れ「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(マタイ2:13)と告げたので、難を逃れました。同じように、ユダヤの宗教的権力者として頂点に立つ大祭司カイアファは、主イエスがメシアであると明らかになると、直ちに、最高法院で主イエスの殺害を決議します。ヨハネは「11:47祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』(中略)11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」(ヨハネ11:47~53)と証言しています。ここで、非常に深刻で悩ましいことは、主イエスこそメシアであることが明らかになったので、つまり神の厳然たる啓示を前にして、宗教的権力者自身が、その権威の中枢である最高法院において、しかも明確な意図と意志に基づいて、神のメシアを計画的に殺す決議したことです。このように、ユダヤの政治的及び宗教的権力者たちは、明白な意図と確信のもとに、神を拒み、メシアを抹殺した、という事実を告げています。そして主イエスの十字架刑はその通りに世界史の事実として実行されたのです。若き日の律法主義者パウロ自身も、こうした陰謀の中枢に場を占めていたと考えられます。
パウロは「1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(1:21~22)と告げます。ユダヤ教を根幹から担うユダヤの中枢で、大祭司カイアファはその権威の最高法院で、イエス殺しを雄弁に論じ、殺害は確定しました。この言動は、まさに自分では知恵があると吹聴しながら、かえって愚かになり、滅びることのない神の栄光を滅び去る人間と取り替えたことを象徴的に物語っているのではないでしょうか。パウロ自身が実際に関わっていたことですから、これがユダヤ人の否定できない現実であり、弁解の余地はありません。したがって、当然ながら、神の義は「神の怒り」となって啓示されます。神の怒りの裁きに対して「弁解の余地はない」のであります。このように、福音は、信ずる信仰のもとでは「救い」を齎す「神の力」となりますが、反対に、不義と不信仰のもとでは、明らかに「神の怒り」となって啓示され、死と滅びの裁きを受けることになります。ただし、これは、ただユダヤ人だけのことではありません。パウロは、神は分け隔てなく正しくお裁きになる(2:2)お方ですから、「2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされる。」(2:13)と説いて、ユダヤ人の律法不履行の責任を問います。次いで、律法を持たないギリシャ人を初めとする異邦人に対しても、「律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」と述べて、異邦人もまた心の律法にしたがって正しく裁きを受ける、と告げるのであります。いずれにしても、神はすべての民を偏りも分け隔てなく正しくお裁きになるのであります。こうして、主イエス・キリストの十字架の死という神の福音において、神は全人類に神の力と神の義を啓示し、神の正しい審判を下すのであります。
1.「自分には教えない」(2章21節)
私たちには皆、誕生以来、心のうちにある良心であれ文字の律法であれ、神からの律法を実行しなければなりません。その実行による義をもってこそ、人は人であります。人類は皆すべて神に似せて造られた「神の像(Imago Dei)」であります。その創造の恵みによって、人は根源的に神を知ることができます。ただ、プロテスタント教会は、人は罪を犯し堕落した結果、創造の恵みとして受け継いだはずの「神の似像」とその効力は完全に失われたとする全的堕落を表明する立場もあります。人間に神を記憶し神を知る力がどの程度残存するか、その理解は教会の立場によって異なります。確かに神の創造において、人類には心に記された律法が「良心」として与えられており、それによって神をある程度は知ることができる、と考えられます。しかし全的堕落の立場からすれば、神を完全に忘れ喪失しているのですから、ギリシャ人を初めとする異邦人は、多少は神のようなものを想像し、善悪をある程度は判断できても、正しく神を知る力は最早ない、ということになります。このように、全的堕落ゆえに人には神を知る力は全くあり得ないと解釈すれば、ここでパウロが言うギリシャ人とは、今はキリスト者となって神を知ったギリシャ人を指すのではないか、という解釈もできそうです。アウグスティヌスやカール・バルトはそう解釈したようです。
罪に堕落して神から離反した人類に対して、神は、先ずユダヤ人を選び、人類全体にやがては及ぶ「祝福の基」としてアブラハムを立て、「割礼」や「律法」をお与えになりました。確かに、神は偏りや分け隔てなく、文字と心の律法に基づいて正しくお裁きになるのですが、もう少し厳密に言えば、律法による「神の啓示」を抜きにしては、自然の啓示だけでは、それも堕落し倒錯した自然では、本当の神を正しく知ることはできないはずです。したがって異邦人は、ある程度は、神らしき存在を意識し想像できても、ユダヤ人の律法に啓示されるような「確かさ」のもとに、神の啓示を認識することは不可能であります。創造の恩寵のもとにある自然の効力として「良心」の働きをどれほど評価できるかは、先ほど触れましたように教会の教理的立場によって解釈の違いがあります。人間の側から、神の審判について完全にその全てを詳細に知ることは不可能であります。しかし、いずれにせよ、パウロが問題にするように、神さまの側から見れば、神は「正しく(kata. avlh,qeian)」お裁きになる(ローマ2:2)ことは間違いのないことであります。正しくお裁きになられるのは、全能の神お独りであります。
前回、律法の意味と目的は「律法の実行では義とされない」ことを知り、キリストの十字架における福音に導くための「養育係」であることをお話しました。それが、律法学者であったパウロの結論であります。その結論に至る前に、パウロはユダヤ人の担い果たすべき「責任」について問います。パウロは、2章17節以下で、ユダヤ人の選ばれた特権とその責任を、二人称単数の主語(su,)と現在形の動詞の形で、「あなた」が実行して果たすべき責任として、ユダヤ人のひとりひとりに対し非常に厳しく徹底して問います。「2:17 ところで、あなたは(su,)ユダヤ人と名乗り(evponoma,zw evponoma,zh|)、律法に頼り(evpanapau,omai evpanapau,h|)、神を誇りとし(kauca,omai kauca/sai)、2:18 その御心を知り(ginw,skw ginw,skeij)、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています(dokima,zw dokima,zeij)。2:19 -20また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」(ローマ2:17~20)と、パウロは先ずユダヤ人の担っている特別な役割を敬意をもって認めます。こうした神の特別な選びは、大きな神の「賜物」と言えましょう。しかし「賜物」には、当然ながら「責務」が付いて来ます。ドイツ語で「責務(Aufgabe)」という字は「恵みの上に、恵みに基づく」という字です。そのように、選びと賜物という特権の裏には、その賜物に基づく責務が生じます。しかも「律法」は、何よりも「神の御心」を公に言い表わした神の啓示の言葉であります。であれば、神の御心を先ずそのまま行い実行するという実践生活が求められます。それが律法を与えられた者の責務であります。「割礼」は、男子だけですが、ひとりひとりの肉体に、直に、しかもその象徴的な部分に刻印して、神が「神の民」として聖別されたことを表す神の賜物です。であれば、その肉体そのものをもって、神の選びの恵みを証しする責務が生じます。つまり選びと恵みの特権の裏側には、ちゃんと負託の責務があり、果たすべき課題があります。職務を本質的に全うする責任を担うのです。したがってパウロは、「2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか(o` ou=n dida,skwn e[teron seauto.n ouv dida,skeij)。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。2:22 『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。2:24 『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』と告げます。律法を持ち、知り、誇り、しかも他人に教えていながら、自分自身には教えていないのは、どうしたことか、と問うのです。それは、明らかに、神の律法を侮り神を冒涜し、神に従わず神に背くのではないか、と詰め寄るのです。自己を空っぽに空しくして、律法を通して神の恵を受け入れ、神を崇め、日々神の御心を実践するのであればよいのです。ところが、その反対に、律法をもって「自分の誇り」にしてしまう、という外側の律法という名目だけを切り取り、内容となる神の御心を捨て去り、自分の誇りのために利用したのです。律法の内容を空っぽに捨てて空洞化し、外側の律法という名だけを神から掠め取って、自分の利益のために利用して、自分たちは神に選ばれ、神と特別な関係にあり、特権を有すると主張したのです。ここは、わたくしたちキリスト者も十分注意すべきところです。牧師もガウンやカラーをつければ牧師らしくなれる、と大きな勘違いをする人もありそうです。教会も儀式や礼拝堂を形式化すれば教会らしくなる、と考える人も少なくないようです。いろいろな神の名目のもとに、選挙運動をして役職に就けば、それで教会ができる、と勘違いするのです。しかし問題は、外見ではなく内実です。内容をより深く知り内容を本質から生きることです。カラスがクジャクの羽をいくらつけてもクジャクにはなれず、カラスにすぎないのです。それが透けて見えるようです。ユダヤ人の根本問題は、内容をしっかり生きることは放棄して、ただ外面形式や名を利用して、自己を誇ろう、自分を認めさせよう、自分を高くあげようとしたことです。「ユダヤ人と名乗り(evponoma,zw evponoma,zh|)」という字の意味は、どちらかと言えば、中身のない名ばかりのことを意味します。これはすべて、「神に対して」ではなく、なぜなら既に神の御心や恵みは捨てて空っぽにしてしまっているので、ただ「人に対して」自分の支配権や権勢を誇り、認めさせたいがための悪用です。外見上は律法を守り信仰を守っているかのように、巧みに見せかけるのですが、実態は信仰の従順も献身もな、自我の欲求を満たし合う集団にすぎないのです。「他人の同じ行為をも是認している」(1:32)とありましたように、互いに神の名を語り自分を立てお互いの利害を求め合うのですが、それはまさに「死に値するという神の定め」にある、とパウロが断じた通りであります。あるのはただ、自我とその欲求ばかりであります。神から負託された責務を、神に対して果たすべき律法や割礼の本質を捨ててしまって、律法における神の名と教理的お題目だけを語り、自己目的化して利用したにすぎないではないか、とパウロは厳しく指摘し糾弾します。
2.「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。」(28節)
そしてついに、パウロは25節以下で「2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」と告げます。問題は、一つは、神の御心である内容本質を放棄し空洞化させてしまい、結局は「神」の恵みそのものを汚すことで神を侮るのです。そしてもう一つは、外形や名目だけを神から掠め取って、自分の誇りや資格に見せかける虚偽偽善であります。驚いたことに、それを生ける神のみ前で行っているのですから、神は怒りとなって裁きを行われることは、まさに弁解の余地のないことです。本来は何一つ誇ることが出来ない罪人なのに、ただ神の愛と憐れみと恵みをいただいたおかげで、律法と割礼により聖別されて生きる民となれたのですが、どこで勘違いをしたのか、律法と割礼という外形が、自分の力のように思い込み、驚く程の自信となって他人を裁き差別するようになるのです。大祭司という役職を利用し主イエスを殺害する決議をしたカイアファはその典型であります。ユダヤ人は、律法と割礼により、異邦人は身分や資産や役職によって、大きな勘違いをするのではないでしょうか。律法や割礼という形式や身分や持ち物が人々に誇りを与えるのではなくて、救いは外見的形式や名目から来るのではなく、真実な意味で「生きて働く神」ご自身とその愛と恵みにおいて人は救われるのであります。その救いの恵みに与り生きて、初めて人々は正しく神を崇められるようになって導かれるのです。
外見だけ形式化することで、「心」は深く問われなくなります。その結果、心はいよいよ神から離反して、自我欲求に向かい始めます。「律法を実行する」ということは、頭も手も足も肉体の全てを挙げて、全人格において、心から律法の実行に取り組むことであり、律法によって絶えず全身全霊が拘束されることを意味します。それは、まさに「律法の奴隷」であります。パウロは生涯尽くしてこの律法と格闘したと思われます。闘って戦い抜いて、破れ、破綻しました。そして、破綻したと同時に「罪の奴隷」であることを自覚しました。2章2節にありましたように、パウロが最も伝えたいことは「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く」(4節)ことを知ってほしいのです。律法の実行を通して完全に自己が破れ果て破綻し、死と滅びと絶望の宣告を受ける、そのどん底で、十字架における神の憐れみに触れ、悔い改めという神の恵に与り生かされ、初めて神の裁きと怒りの中に、救いをもたらす福音の力に触れて欲しいのです。パウロは、その神の憐れみ、神から来る福音の憐れみを告げ知らせたいのです。人を救うのは、人の力づくで律法を実行するからではなく、律法に破れ破綻するただ中で、神の本当の御心に触れ、神の憐れみに与ることに依ります。神は、心から神に救いと助けを求める従順を、深く憐れまれるのです。ある意味で敗れて悶え苦しみながらも、そのどん底と絶望の心のうちに、神の霊は神の憐れみと力となって奥深くに働き、「選び」という割礼の刻印をしるすのです。パウロは「2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」と解き明かします。
ただ、律法を実行することを放棄して、律法による拘束から自我を解放し、挙句の果てに、律法に宿る神の恵みを放棄して、外見形式の名目だけを切り取って利用し始めると、恵みの通路は完全に断ち切られて、あとはただ権力支配欲を初めとするあらゆる欲望の奴隷となるばかりであります。ヘロデもカイアファも、神の名を生ける神から切り離して、都合のよい名目として利用し、自我欲求を満たす道具としていたのです。宗教は皆、キリスト教も含めて、どんな宗教でもこうした側面を否定し切れないのではないでしょうか。神の名を利用することで、したい放題に自分を立てて誇り自分の欲望を満たすのです。その結果「あなたはかたくなで悔い改めようとせず、神の怒りを自分の上に蓄える」(5節)ことになります。
3.「その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(29節)
人は皆「誉れ(e;painoj e;painoj)」を求めて生きています。「誉れ」とは、称賛や喝采を意味します。言い換えますと、認めてもらうために生きている、と言えましょう。認めてもらえなければ、耐えられず、生きてはいけないのです。キルケゴールは、死に至る病は「絶望」である、申しましたが、その絶望の原因は、誉れを失うことにあり、認められない現実に耐えられず、絶望する、と考えることもできましょう。ユダヤ人の誉れは、「神」を律法と割礼ゆえに持ったことでした。本来神は全能なる神ですから、人間が所有することはできないはずですが、ユダヤ社会は、共同体全体を神の選びの民であり律法共同体とすることで、恰も自分たちの集団だけが「神」を知りしたがって神を持っているかのように思い込んでしまったようです。ましてや割礼は、自分の肉体に直接しるしをつけることで、いよいよ自分自身が「神の力」を持つて生まれた特別な存在であるような自負してしまったようです。ユダヤの権力者たちは、自分の誉れを得るために、それはユダヤ社会を権力支配するという自分の欲望に従ったのです。自分の誉れと自分の欲求を満たすために、自分を認めてもらうために、神の名を語り、神の律法を利用し、神を崇めるべき神の礼拝を神を無き者にして空洞化させ、自分の欲求を偶像化して拝む、自分のための礼拝に変質させてしまいました。自分の誉れのために宗教活動をするとはそういうことでありましょう。したがってそれはいつでもどこでも、そしてこのキリスト教会においてさえ日常としてありうることなのです。
ある方から、とても興味深い話を聞きました。「神から」栄誉を受ける生活を知ると、自分はとても孤独になります、と言うのです。まだ洗礼を受けて間もない頃でしたので、それを聞いて、胸が詰まる思いでした。しかし同時に不思議な、ある平安と安堵を心に覚えました。「洗礼」を受けたばかりで、「洗礼」の喜びを親友たちと共有したくてもできず、ある種の疎外感を覚えていました。人生で最善の選択をしたはずなのに、親戚からも見放され、誰もそれを認めてくれませんでした。場合によっては、夫婦や親子兄弟でも、その時からそこから、本当の孤独が生まれ、神からの孤独を知るようになるのではないでしょうか。神からの栄誉を受け、神の恵みに与り生きようとするとき、そのとき、人は深い神からの孤独を生きることになります。場合によっては、クリスチャン家庭ですら、教会の中ですら、そしてそれが名目上の外見の上のクリスチャンであればあるほど、本当のことは言えず、当然、理解してはもらえない、認め合えないこととなって表面化することもあるかも知れません。
パウロは、はっきり「その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(29節)と言っておりますように、本当の誉れは「人から」ではないからです。人から離れた所にこそ、離れたというよりは完全に「質」的に異なる所から、神からの栄誉は与えられるのです。神からの誉れは、人から人のもとにではなく、神から神と共に神のもとにあります。人との関わりに心を奪われますと、見失います。ただ「神」との関わりに集中する中からだけ、与えられる栄誉です。ですから、神とだけ共にある、神からだけの栄誉と言わざるを得ないのです。神さまだけと共にある神と自分だけの栄誉ですから、人との関係においてはとても孤独であります。人と話し人と交わる中からではなく、したがって孤独の中で、ただ神から与えられる栄誉に生きることになります。それは、生きる心の支えは神だけに頼ることでもあります。日々の喜びも楽しみもそして生きる日々の目的も神だけにあります。どんな時にも生きる心の支えは、神の外、十字架に死んでくださった主キリスト以外にはない、そこに、本当の人生の誉れがあります。老後を迎えますと、とても寂しくなるものです。人がとても恋しくなります。食事をするにしても独り、テレビを見るのも独り、寝るのも独りです。しかし、ただ神さまとだけ共に暮らす孤独を誇りとすることも、とても大切なことだと痛感しています。
あなたは、あなたの信仰を通して、神から誉れをいただくのですから、当然ながら、神は、あなたご自身のすべてをご存知のはずです。あなたは神に完全に知られているはずです。人はそれほどに自分を理解し分かってくれるでしょうか。そのありのままのあなたを、神はいつもご覧になって、そればかりか、いつも共に暮らして、あなたに「神からの誉れ」をお与えくださるのです。人生の根本問題とは、自分自身の死と滅びに至る罪であり、自分の弱さや醜さです。神は自分の罪の全てを知り、弱さを知り、御子の十字架の死における贖罪の恵みを惜しみなく差し出されます。罪に悶え苦しむ者に、十字架の贖罪を救いとして差し出しされ、罪と死から贖い出す神の力をこの肉体の隅々に注ぎ満たしてくださいます。十字架の死による贖罪を通して、神の義という本当の割礼をこの身に刻んでくださるのです。御子による十字架の死における贖罪の恵みを通して、神は神の義を現わされましたが、もう神の義に飢え乾く必要はないのです。十字架と復活における神の恵みに与り受けるとき、初めて神は正しくわたしのうちで神として崇められるのです。この愛と憐れみに満ちた、同時にまた神の義を貫かれた御子の十字架の死による贖罪、それによって罪赦され、新しい命のもとに新生する、その恵みを通して、初めて私たちは神を知り、正しく神を礼拝することができるようになります。神の正しさは、わたしたちを押し潰し滅ぼしてしまう力ではなく、人類を罪と死と滅びからご自身の命の代価を支払って贖うという救いとして、御子の十字架の死における贖罪に現わされ啓示されます。これが、神からの誉れです。人からは絶対に受けることが出来ない神からの誉れであります。
自分は何のために生きているのか。何のために教会に通い、信仰生活をするのか。それは、ただ外見上の洗礼を受けて、ただ名目上のクリスチャン、教会員である、というのではないはずです。生きた心の洗礼と生きた命の名が永遠に魂のうちに刻印されているはずです。生きた内面の洗礼は、キリストの十字架という神の力が漲り溢れ、神の憐れみと慰めに満ちています。確かに、洗礼という場は、「罪」に痛み苦しみ死の宣告を受けて「死」を迎える場ですが、その死の場において、主が自分のために十字架の死をもって罪と死から自分を救い出し、永遠の命へと贖い出してくださった聖なる場でもあります。御子の十字架の死と復活おいて、あなたは神さまから、十字架のもとに招かれ、キリストの身体として知られ、守られ、愛されているのです。
律法の本来の意義と目的は、その徹底した実行実践を通して、生ける真の神を崇め、その力ある恵みに与ることにありました。したがって律法は、徹底してどこまでも誠実を尽くし日々の生活として実行する、という不断の生活実践の中で、生ける神と出会うのです。信仰生活も同じではないでしょうか。律法の生活実践も信仰生活も、詰まる所、そこで、私たちは正しく裁き給う審判者としての神であり、神の義を貫く神であります。したがって不義なる者には、そして不信仰なる者にも、神の義は神の怒りの裁きとなって現れます。それは当然のことであります。これが律法の基本と言えましょう。パウロは、律法学者として、誠実に神の律法を実行しようとするのですが、残念ながら破綻してしまいました。パウロは、魂の中枢を支配する巨大な罪と悪の支配に敗れ果てたのです。ユダヤ人の律法主義者は、反対に律法の権威とその名を真実な実践から切り離して、自我欲求や権力支配のために神の名や宗教制度を利用して、私物化していました。律法を通して見えて来るはずの罪の支配と滅びの運命とは向き合わず、自分を誇りとして、恰も神のようになって支配したのであります。「かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄える」こととなりました。パウロは律法を通して破れを知り、律法は神の憐れみと恵みを求める場であることを自覚します。そして十字架の死と復活に現れ啓示された唯一真の「神」を知ったのであります。パウロの言葉で言えば、「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くその豊かな慈愛と寛容と忍耐」を知り、感謝と讃美をもって受け入れたのです。