2021年3月7日「わたしたちのための祈り ―主の祈り―」 磯部理一郎 牧師

2021.2/21、28、3/7 小金井西ノ台教会 受難節第1~3主日

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答116~119 「祈りについて」(1)

 

問116 (司式者)

「祈りは、なぜキリスト者に必要か。」

答え  (会衆)

「祈りは、神が私たちに要求する感謝の最も重要な行為です。

神がご自分の恵みと聖霊を与えようとする人々とは、

呻吟のうちにも怠りなく、神の恵みと聖霊を絶えず神に請い願い、

神の恵みと聖霊を神に感謝する人々だけなのです。」

 

問117 (司式者)

「そのように神の御心にかない、神に聞き入れられる祈りとは、どのような祈りか。」

答え  (会衆)

「第一に、私たちが、心から、唯一真の神に、

すなわち、ご自身を私たちに神のことばにおいて啓示された神に、請い願いなさいと

神が私たちに命じられたことすべてを嘆願する祈りです。

第二に、私たちが、公正にそして根本から徹底して、自らの貧しさや惨めさを認識し

神の尊厳ある御顔の前に、自らへりくだり自分を低くする祈りです。

第三に、このような堅固な拠り処が、私たちにはあります。

すなわち、神のみことばにおいて神が私たちに約束されたように、

私たちが未熟でみすぼらしくあろうと、

それでも神は、主キリストゆえに、確実に私たちの祈りを聴き入れようとなさいます。」

 

問118 (司式者)

「何を請い願え、と神は私たちに命じたか。」

答え  (会衆)

「霊と身体に必要なものは皆すべてを、です。

主キリストは、既にそれらをすべて、主ご自身が私たちに教えた祈りに、纏められました。」

 

問119 (司式者)

「主の祈りとは、どのような内容か。」

答え  (会衆)

「天にまします我らの父よ、

願わくは、み名を崇めさせたまえ、

み国を、来たらせたまえ、

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ、

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ、

われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ、

われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ、

国と力と栄とは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」

☞ 「主の祈り」は、『讃美歌21』(93-5 主の祈りA)から転載しています。

 

2021.3.7 小金井西ノ台教会 受難節第3主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答116~119「祈りについて」(1)

ハイデルベルク信仰問答講解説教57

説教 「わたしたちのための祈り ―主の祈り―」

 

これまで「祈り」について、いくつかの観点から、お話をしてまいりました。一回目は祈りの本質とその特徴や形式から、前回二回目は祈りの実践的側面から、祈りの現場に臨場する、というお話をいたしました。大切なことは、唯一真の神に正しく心を向け、正しく神に心を集中させることにあります。神は聖書のみことばにおいてご自身を啓示されるのですから、また神はご自身を聖書のみことばにおいて真のお姿現しておられるのですから、聖書のみことばに導かれてこそ、はじめて心を正しく神に向けることになります。このように、祈りは、神に心を向け神に集中することから始まるますが、そのためには、まず聖書に心を向け、みことばを通して、ご自身を現す神に集中しなければなりません。祈りは、聖書のことばと一体なのです。また祈りとは、聖霊なる神が私たちのために「弁護者」として遣わされ、弁護者である聖霊に導かれる場でもあります。聖霊は、聖書の真理を、すなわち聖書に啓示された唯一真の神を照らし出してくださり、私たちの魂を神さまのみもとへ導いてくださるのです。聖霊による「イルミネーション」(照明)という作用です。聖霊が聖書の真理を照らし出す、すなわち聖霊が聖書に啓示された神そのもののお姿を照らし出して、私たちの魂の前に、唯一真の神のお姿をお示しくださるのです。そうして祈りにおいて、私たちは生ける神と出会う体験が可能となります。

 

わたくしども改革派教会の神学では、すべてが「みことば」において始まり、「みことば」において終わる、と考えます。神のことば(言)とは、第一に、「神の独り子」であり、永遠の神の御子である「神」そのものを指します。次いで第二に、神の独り子が受肉した「イエス・キリスト」です。すなわち歴史上に「救い主」(メシア、キリスト)として、人間の姿を取って現れたお方を指します。そして第三に、受肉したキリストを証言した「聖書」の言葉を指して神のことばと呼びます。。あるいは「聖書」に基づいて説教された宣教のことばもそれに含めることもあります。重要な点は、その一連のみことばは皆、一体に串刺しにされていて、「神の啓示」という本質において貫かれており、一つの纏まりをもっていることです。バラバラに切り離して取り扱うのではなくて、連続する一連の啓示のみわざとして捉えます。したがって、聖書が朗読され、聖書に基づいて説教が正当になされると、つまり聖書の解き明かしが行われると、それは、歴史において受肉された「イエス・キリスト」の証言となり、さらには「神の独り子」であり「神の永遠の御子」である「神の言」(ヨハネ1:1~5)が啓示されます。「啓示される」とは、神がご自身から隠された覆いを取り除いて隠されたご自身の本当のお姿を現し、その真実なお姿を世界に対してお示しになることを言います。つまり、聖書のみ言葉において、神はご自身を覆いを取り除いてご自身を現してお示しになります。そのおかげで、聖書のみことばを私たちが受け入れ、聖書のみことばに導かれることで、心の目は神を見る目として開かれ、唯一真の神を見ることができるようになり、神を知り、神と豊かに出会うことができるようになります。みことばを通して、神は私たちの魂の内に姿を現わし現臨するのです。その神の御前に私たちは厳かに立ち、今度は神ご自身のみ言葉を聴くことになります。こうして聖書のみ言葉を通して現臨する神のことばを直に聞き、私たちの魂は、ついにはみことばを通して現臨する神に触れ、みことばを通して確かにそこにいます神と人格の深みにおいて出会い、命の交わりに入ることができるのです。主イエス・キリストは、地上においてお約束してくださったように、聖霊を私たちのために「弁護者」として、「助け主」としてお遣わしになり、みことばを通して、私たちを神のもとに導くのです。ヨハネ福音書が証言する通りです。「14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におりこれからもあなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ14:16~17)と、主イエスが約束されています。ここに、祈りの内実があります。祈りにおいて、聖霊とみことばは一体に構造化されており、まさに祈りの現場となるのです。自然神学的な意味で、この地上の肉体に残存する神の創造の恵みを手掛かりにして、祈りを成立させてゆくという方法とは、大きく異なる祈りの方法です。地上の教会のかしらであって、天にいます御子イエス・キリストから、直接、遣わされた聖霊なる神が私たちを助けてくださり、聖霊と一連一体のみことばにおいて、天地を貫いき、主と出会わせてくださり、私たちは主と出会い主と固く結ばれるのです。まさにハイデルベルク信仰問答117が「ご自身を私たちに神のことばにおいて啓示された神」に請い願いなさい、と教えるようにです。神・受肉者・聖書(解き明かし)という「神のことば」において、一直線に串刺しにされるようにして、私たちは唯一真の神の啓示とそのみわざのただ中に一気に到達するのです。これが、私たちの祈りの方法です。したがって、祈りは、人間を手掛かりにする「修行」ではなくて、祈りは優れて「神のことば」における「神の恵み」そのものなのであります。

 

ところで、問答117には「神が私たちに命じられたことすべてを嘆願する祈りです」とありますように、「嘆願する祈り」と訳しています。ふつうは「呼び求める」という字を、元の意味を強調して言い表すために、「嘆願する祈り」と訳しています。その理由は、祈りとは、根本からまた本質から言いますと、神がわたしたち人間のために「恵み」を与える場であり、その恵みを「請い願い嘆願する場」であるからです。そして嘆願の祈りは、常に神に聞き入れられ、余りある神の恵みとして体験し知る場であるからです。前回朗読したダニエル書9章17節では「わたしたちの神よ僕の祈りと嘆願に耳を傾けて荒廃した聖所主御自身のために御顔の光を輝かしてください」というみ言葉に倣ったためです。ここで重要なのは「荒廃した聖所」に、即ち本来礼拝の場となるべき魂に、まさに「御顔の光」を輝かせてください、と祈っていますように、求められているのは「神の現臨」と「神の啓示」そのものであり、それによって真実な礼拝が実現することです。まず祈る中心は、神の現臨と啓示を求めることにあります。しかもそれは、先ほど紹介したように、また長老教会の式文にもありますように、祈りや礼拝では「聖霊の派遣」と「聖霊の照明」を請い求める共同の祈りとなって展開します。聖霊の導きのもとで、神の啓示のことばである「聖書」の朗読がなされ、次いで聖書の言葉に基づいて「福音の説教」が告知され、ついには地上を超えて天地を貫き、主キリストの十字架と復活の身体与り、主と一体とされ、天国に至るのであります。

ただし「請い願う嘆願の祈り」と言いますと、思い違いや誤解を犯しやすい注意すべき点が一つあります。それは、自分や人間の考えで自分の欲求を中心にして、呼び求める祈りであり嘆願を考えてしまうことです。私たちが願い求めるというと、求める私たち側の方に意味がある、と考えてしまいがちです。しかし祈りは、あくまでも「神の恵み」であって、しかも神の愛と憐れみによる救いのご計画とご意志に、その本質はあります。祈りは、罪に支配された私たち人間の欲望や願望を実現するための「道具」ではなくて、神さまの愛を実現する恵みの場であります。以前に、近代社会を支配した思想は「主観化の原理」であると総括した熊野先生の見解を紹介しましたが、まさに自我の哲学や主観化の原理に基づいた人間中心の願望実現の道具ではない、ということです。宗教や祈り、神や教会は自我欲求の道具ではない、ということを弁えておく必要があります。そこには、神のご意志とご計画に基づく人間の完全な救いと「神の支配」(=神の国)があるからです。「自分の欲求」を基準にするのではなくて、あくまでも「神の恵み」を神の恵みとするのであります。だからこそ、主の祈りでは、「御心の天になる如く、地にもなさせたまえ」と祈るのです。そのような神の御心を求め、神の御心を明らかにする信仰的態度が必要です。ですから、祈りは「請い願い嘆願する」場ですが、それは自我欲求を基準とする場ではなく、「神の御心を中心にする」場であります。

 

問答117は「神が私たちに命じられたことすべてを嘆願する祈り」と述べて、はっきりと祈りにおいて嘆願すべき事柄は、事前に定められていてすでにあることを、明記します。神が何を求め、神が何を命じておられるのかを知らなければ、そしてその神の御心を正しく理解して求めるのでなければ、こうした祈りはできません。だからこそ「神のことばにおいて啓示された神に」と言い直して、聖書のみことばから、正しく真理を照らし出された場で祈るのです。みことばから、より深く厳密に聞き直して、照らし出された啓示に触れて、その神の御心をより深く学ぶ必要があります。罪という闇と絶望に支配された魂が、みことばの光に照らされて、「神の義」をめざして導かれる始めます。そして神は、絶対の・唯一真の・永遠なる愛と恵みのもとに、神の御心により、わたしにとっては其々に最善最良である、しかも今最も必要な恵みを、お与えくださるのであります。有限で破滅と荒廃の中にあるわたしたち人間の思いを基準にする欲望の祈りから、永遠の尊厳と恵みに満ちた「神の義」を求める祈りへと、聖霊はわたしたちを導き、地上から天上へと解放してくださるのであります。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と、主イエスがお教えくださった通りです。

 

請い願い嘆願する祈りという点で、さらにもう一つ、主イエスは弟子たちにこう教えています。「7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる探しなさい。そうすれば、見つかる門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け探す者は見つけ門をたたく者には開かれる。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:7~11)。祈りは、単なる意味で、呼びかけでも、語りかけではない、ということが、ここからも、明らかになります。どうしても、私たちの意識では「求める」という所に思いが行ってしまいますが、祈りは、求める場である以上に、それに勝って「与えられる場」であります。神によって「与えられる」「見つかる」「開かれる」場であります。「受け」「見つけ」「開かれる」場こそ、祈りの場なのです。だからこそ、請い願い嘆願する意味も目的もはっきりして来ます。人間の思いを遥かに超えた、天の恵みをいただく場なのです。申し上げましたように、求める内容が非常に明確な、神に嘆願する場であり、しかも明らかに、神に求めるべきことは聖霊による助けであり、神の恵みであります。もっと率直に言えば、祈りは、神の恵みと聖霊をいただく場なのです。しかも、十字架と復活のキリストのお体をいただく場であります。

 

さて、問答117はさらに、第一に祈りとは「請い願い嘆願する」場である、と教えたうえで、「自らの貧しさや惨めさを認識する」場である、と教えます。「第二に、私たちが、公正にそして根本から徹底して自らの貧しさや惨めさを認識し神の尊厳ある御顔の前に自らへりくだり自分を低くする祈りです」と告白する通りです。真実な謙遜とは、人前で人目を基準にする謙遜ではないのです。人から褒められよく思われたいと願うのは否めない人情であり、大半の人々が求めることですが、しかしそれは、信仰においては、最も危険で最も誘惑に満ちた感情であることを知っておくべきです。真実な謙遜とは「神の尊厳ある御顔の前に、自らへりくだり自分を低くする」ことに外なりません。祈りの世界では、決して優等生にはなれない、ということを知るべきであります。どうすれば、そうした謙遜は実現できるのでしょうか。明らかなことは「公正にそして根本から徹底して、自ら貧しさや惨めさ認識する」ことです。以前、さまざまな祈りの形についてお話しましたが、そこで「乣明」という祈りの作用について触れました。乣明とは、広辞苑によれば「罪や悪事を問いただし、悪い所を追及して明らかにすること」とあります。植村門下で、熊野先生の兄弟子にあたる逢坂元吉郎先生が、最も重視した祈り方です。逢坂元吉郎によれば、祈りには「鏡(鑑)に写す」或いは「写映する」という作用がある(『逢坂元吉郎著作集上』1971、説教要録18「鏡」360頁)と説教し、実践しました。その祈りという鑑に、写し出すべき対象は二つあって、一方で「罪」を写し、他方で「キリスト」を写す、という写映作用を教えます。しかも、逢坂の祈りで、最も意味深い点は、キリストを益々鮮やかに魂に写し出して、その鮮やかに映し出されたキリストが自分の霊と魂とに乗り移り、ついには十字架と復活の身体と一体に結び合わせる体験へと至ることです。つまり逢坂にとって祈りの場とは、罪とキリストを「乣明する」場であり、同時にまた、乣明されたキリストが自分の身体と魂に乗り移って来て、自分を「キリストの身体とする」現場なのです。まさに祈りの場とは、十字架のキリストによって罪が贖罪され罪赦され、さらには自分の身体と魂にキリストが乗り移って、「聖化」が実現されてゆく力強い聖なる場であったのです。問答117は「公正にそして根本から徹底して、自らの貧しさや惨めさを認識する」という非常に的確な表現で、罪とキリストを写し出す「乣明」の場として、祈りを教えているのではないかと思います。そこでさらに大切なことは、神の無限絶対の愛と命が、わたしの心と身体の中を隅々に至るまで染み通すように、いわば「復活の身体」に造り変えるように迫り来る体験です。竹森満佐一先生は、「主の愛は、主イエスの祈りのうちにこそ、もっとも明らかに知られる」(竹森満佐一『主の祈り』1975)と言い表しています。無限の神が、私たちの心と身体を隅々に至るまで貫き、愛と命を満たして、ついに罪を完全に贖罪して、罪は赦され、新しい復活の命となって湧き溢れるのです。

 

こうして、祈りの場は、私たちの命と生活の「堅固な拠り所」となります。問答117は、最後に「第三に、このような堅固な拠り処が、私たちにはあります。すなわち、神のみことばにおいて、神が私たちに約束されたように、私たちが未熟でみすぼらしくあろうと、それでも神は、主キリストゆえに、確実に私たちの祈りを聴き入れようとなさいます。」と宣言します。ここでも、「神のみことばにおいて、神が私たちに約束されたように」と告白して、みことばの原理、聖書原理がはっきりと貫かれます。神が約束された約束のみことばの中に、私たちのすべての確かな根拠があり、だからこそ「堅固な拠り所」なのです。したがって「私たちが未熟でみすぼらしくあろうと、それでも神は主キリストゆえに確実に私たちの祈りを聴き入れようとなさいます。」と告白することができるのです。

 

主イエス・キリストは、二つのことを私たちにお与えくださいます。一つは十字架において、ご自身の命と身体をもって私たちの罪をお赦しくださり神の義をお与えくださり、そして復活において、永遠の命の祝福を与えくださります。もう一つは、私たちの弁護と助けのために、聖霊なる神をお遣わしくださいます。聖霊をいただき、聖霊によって、私たちの心が照らされるとき、私たちの贖罪と義そして永遠の命は確かな真実として、明らかにされます。たとえこの世で死に向う時でさえも、祈りを通して、聖霊なる神は私たちに「永遠の命」を照らし出すのです。否、滅びが支配するこの世にあるからこそ、神は、キリストの十字架において、贖罪のみわざを通して罪と死を滅ぼし、キリストの復活において、新しい甦りの永遠の命をお与えくださいます。私たちひとりひとり、其々の人生のただ中で、しかも魂の底においてその罪の赦しと復活を明らかにする場所こそ、祈りの場であります。

 

そしで最後に、ハイデルベルク信仰問答118は、主イエスが自ら弟子に教えられた祈りである「主の祈り」の解き明かしに進みます。以前、礼拝全体の中で、どの位置に「主の祈り」をおくかという点で、行き場を失った「主の祈り」について、お話しました。主イエスをかしらとする唯一無二なる教会共同体の祈りであり、弟子たちが日々共に集まるとすぐに「主の祈り」をもって集会が進められ、「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈るように、その中心は日々のパン裂きである聖餐の交わりがありました。やがて、過酷な迫害から、受洗したキリスト者の交わりを守るため、ミサ典礼が「感謝の典礼」として整えられるにしたがい、聖餐の祈りがささげられると、すぐに聖餐に与る前に「主の祈り」を共に唱え合い、ニケア信条を告白し聖餐に与りました。つまり「主の祈り」は、常に「聖餐の交わり」と一体の形で、構造化されていたのです。西ノ台教会のように、献金の後に、献金の祈り用に献げられる祈りでは決してなかったのです。聖餐に与るための共同の祈りだったのです。大切なことは、本来「聖餐」を中心とする礼拝構造の全体の中心において、「主の祈り」は共同体の天に通ずる祈りとして、位置付けられたいたのです。それどころか、「十戒」の唱和、或いは「聖書朗読」や「説教」なども、すべての礼拝要素は皆、一つの目的と意味に向かって、相互に関連付けられ、構造化されており、一体に組み合わされていました。そしてそのすべての役割は「聖餐の交わり」へと導くことにありました。聖霊の光に照らされつつ、聖書朗読と説教の解き明かしにより、「福音」は会衆に告知され、会衆は福音を聞いてそれを受け入れて信じ、キリストの十字架と復活の身体に与り、永遠の命に至る共同体験へと導かれるためです。主の祈りを唱えること、説教を聞くこと、讃美歌を歌うこと、それらは皆すべて、キリストの十字架と復活の身体と結ばれ一体とされ、復活による永遠の命に溢れて、天に生きる体験へと導かれたのです。そして今、私たちも、その聖餐の交わりに、主の祈りをもって臨むのであります。