説教:2020年10月11日 動画 「神の愛と恵みへの感謝」 磯部理一郎 牧師

 

マタイによる福音書:6章19節~24節

コリントの信徒への手紙一:6章12~20節

ハイデルベルグ信仰問答:86~87

ハイデルベルク信仰問答講解説教:36

 

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第20主日礼拝

信仰告白「ハイデルベルク信仰問答」問答86~87

感謝について(感謝の生活1)

問86 (司式者)

「私たちは、自分のどんな悲惨からも、自分の一切の功績によらず、キリストの恵みによって、

救い出されているのであれば、なぜ、私たちはなおも善き行いをなすべきなのか。」

答え (会衆)

「それについて(はこうです)。すでにキリストは、ご自身の血をもって

犠牲を払い私たちを贖ってくださったのですから、

次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通して

ご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます

このキリストの恩恵に対して、私たちは自らの全生涯を尽くして神に感謝を言い表し

そうして、神は私たちを通して褒め讃えられるのです。

私たちは自分の信仰が確かであることをその実りから自分で確信し、

神を畏れる敬虔な生活態度をもって、私たちの隣人たちをキリストのもとに勝ち取るのです。」

 

問87 (司式者)

「ならば、自分から進んで感謝しない人々、

また神に向かって回心しようとしないで生活態度に悔い改めない人々は、

天国の祝福にあずかることはできないのか。」

答え (会衆)

「(天国の祝福にあずかることは)断じてできません。なぜなら、聖書が証言するからです。

すなわち『みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、

人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。』」

 

2020.10.11 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第20主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教36 (問答86~87)

説教「神の愛と恵みへの感謝」

聖書 マタイによる福音書6章19~24節

コリントの信徒への手紙一6章12~20節

 

神が救いをお示しくださる啓示のみことばに導かれ、その救いのみ言葉を聞き分けて正しく認識して、神を信じ受け入れる信仰が生まれます。つまり、神の選びと救いの恵みに対して、それを心から受け入れ、感謝と讃美をもって応えしたい、と願うようになると、そこに信仰は生まれます。そうした応答としての信仰は、まさに神とその恵みに対する心からの感謝と言えます。このように、私どもは、神の救いの恵みや選びに対して、確かな信頼と心から深い感謝をもって、今度は神さまに応えしようと、それにふさわしい生活が与えられます。それが、キリストの身体とされた者の生活であり、身も心も新しくされた教会における信仰生活です。そうした神の救いの恵みに対して、その信仰による応答の生活を通して、わたくしたちの救いは導かれています。

 

聖書のみ言葉で申しますと、前回ご紹介しましたが、ヨハネによる福音書10章のみ言葉から、「10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く羊はその声を知っているのでついて行く。10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」とありますように、キリストである羊飼いは、罪人の名である羊の名を、そのひとりひとりの名を呼んでくださり、みことばをもって、滅びの世から天国へと連れ出してくださるのであります。しかも、常にキリストはわたくしども罪人の先頭に立って、私たちを導かれます。そのキリストの救いの御声を羊たちは皆よく聞き分けて、キリストの導きをいよいよ深く豊かに知るようになります。罪人である羊は、キリストの声をいよいよ正しく聞き分けて、安心と信頼を深めて、ひたすらキリストについてしたがってゆきます。そういうキリストのみ声をいよいよ正しく聞き分ける心が養われ、自分からキリストに着いてゆき従うという新しい生活が養われます。そこに教会における信仰生活が生まれるのです。

使徒言行録2章で言えば、「使徒の教え」を守る教会の交わりの生活です。

 

このように、救いの福音の説教が語られると、説教をより正しくそして深く聞き分けて、豊かに受け入れる信仰が聖霊の賜物として与えられます。聖書のみ言葉をより深くそしてより正しく聞き分けられるようになると、しかも自分勝手に自己中心に聞くのではなく、聖霊の恵みとして聞き分けられるようになると、救いにふさわしい信仰と生活が内側から、心身共に新しく引き起こされ、生き方が大きく変えられるようになるのです。ここに、ハイデルベルク信仰問答の特徴とする「鍵」の役割があります。問答83によりますと、「鍵の務めとは何か。」と問い、「(鍵の務めとは)聖なる福音の説教キリストの戒規です。この一対にある両者(の鍵の務め)を通して、天国は、信仰のある者に開かれ、信仰のない者には鍵をかけて閉ざされます。」と宣言告白しています。つまり、神が、福音の説教を通して、救いの恵みを告知して、一匹一匹の羊の名を呼び、羊をキリストのもとにキリストの十字架と復活のもとに、教会として呼び集めるのです。そして天国に向かうための新しい生活の道が開かれるのです。以前に学びましたハイデルベルク信仰問答65では、「ただ信仰のみゆえに、私たちはキリストのあらゆる善きわざの恩恵にあずかります。そうであれば、そのような信仰はどこから来るのか。」と、信仰の由来を問い直して、さらに答えでは「聖霊は聖なる福音の説教を通して信仰を私たちの心のうちに引き起こしてくださり、(聖靈は)また聖礼典の慣行を通して信仰に確証を与えてくださる」と告白していました。キリストの霊である聖霊は、福音の説教を通して、私たちの心の内に働き、その賜物として信仰と信仰による新しい生活が与えられるのです。そしてそこに教会として呼び集められた羊たちの群れが生まれ、「福音の説教」と共に、今度は「洗礼」や「聖餐」という、もう一つの神の言葉を通して、罪と死のからだは心身共にいよいよ復活という新しい身体に造り変え、天の新しい命として養ってくださることになります。目に見えない神のことばである「福音の説教」と、そして目に見えるもう一つの神のことばである「聖礼典」(洗礼と聖餐)とが、神のことばとして一体となって、わたしたちの名を呼び続け、救いへと導き続けるのです。キリストの霊、神の霊である聖霊は、キリストをわたしたちの教会の頭とし、説教と聖餐というみ言葉を通して、徹底的に働いて、キリストの身体である私たちを永遠の命に養い育ててくださるのであります。こうして、天国の鍵は、み言葉によって完全に開かれるのです。

 

こうして羊は、其々各々で、主の御声を正しく聞き分けること、正しい信仰による認識をもって神とその救いを受け入れて知ること、そして神の愛と恵みに対してふさわしい生活態度を身に着けること、が求められます。つまり、神さまへの応答として、正しい信仰をもって、ふさわしい感謝と讃美をささげる、ということが、教会生活の根本命題、或いは中心課題となります。「戒規」は「福音の説教」と共に天国の鍵として働いて、羊たちを神の救いに相応しい生活に導く役割を担うものです。前回、既に説明しましたが、「戒規」とは、ドイツ語原典から言えばの用語で「悔い改めと贖罪に導くための規則」という意味の、特別な用語が用いられています。英語版ではdisciplineと訳され、「弟子を教え訓練するための規律」という意味の用語で訳されています。内容としては、教会が担う「牧会」を指しています。ハイデルベルク信仰問答は「天国へと導くための愛の規律」とその道筋を明確に規定した、と言えましょう。問答85では、この福音に対する信仰による応答としての、新しい教会生活について、すなわち「戒規」という鍵の務めについて、こう説明します。「どのようにして天国は、キリストの戒規によって、開かれまた閉ざされるのか。」と問い、「このように(です)。キリストの命令にしたがって、天国から閉め出されます。すなわち、キリスト者の名の下にありながら、キリストに反する教えや言動を行い、後に幾度か兄弟としての勧告を受けても、その過ちや悪から離れず、それに対して教会または然るべき職務にある者から戒告を受けても、なおも訓戒に心を留めず改めない人々です。こうした人々は、教会の職務による聖礼典の禁止をもって、キリスト共同体の交わりから閉め出され、また神ご自身によっても、キリストの御国から閉め出されます。しかし、ここで最も重要な点は、真実の改心を誓い表明するのであれば、キリストの身体の肢体(えだ)としてまた教会の一員として、再び受け入れられます。」と答えています。一言で言えば、戒規とは、迷い出てしまう羊のために設けられた、徹底した教会による「愛の配慮」であり、教導のための牧会である、と言ってもよいのです。この内容を正しく理解すれば、「鍵」とは、天国に鍵をかけて締め出す、ということが目的ではなく、反対に、天国へと羊を守り導くための、愛の鍵であります。一見、厳しい表現が用いられていますが、実は、罪と迷いの中にある羊を、教会は責任をもって、「戒規」を用いて、神さまのもとに連れ戻そうとする慈しみに満ちた配慮なのです。救いから零れ落ちないように、愛と責任をもって何とかしよう。そのためには、教会はどう責任をもって対処すべきか、その教会としての愛に基づく責任的配慮に溢れた牧会を、問答85は明確に示唆しています。どうすれば、正しい純粋な信仰による応答を導き出すことができるのか、ハイデルベルク信仰問答は大変真摯にこうした教会の牧会責任と向き合っているように思われます。そして神の愛と恵みに対して、いよいよ誠実にお応えする道は何か、正しく真実で純粋な信仰的応答とは何か、非常に真剣に探り求めるいるようにも思われます。

 

本日の説教の主題は、「感謝」です。「鍵」の務めとして一対には働く「説教と戒規」について、少し丁寧に振り返りながら、お話してまいりました。それには理由があります。実は「鍵の務め」、特に教会における「戒規」の中心に、神の愛と救いの恵みに対して、その最も真実で相応しい応答の形とはいかなる形なのか、という信仰の根本問題があるからであります。ある方は、社会や多くの人に役立つ働きをすることではないか、と考えるでありましょう。或いはまた、非力でも精一杯隣人を愛することだ、と密かに決意なさる方もおられるでありましょう。ひとりひとりの信仰による応答は、とても幅広く奥も深い、また多様であります。それほど神の恵みは豊かであって、その応答の形もまた、幾重にも広がって豊かとされている、ということではないかと思います。ましてや、新しい時代や多様な文化の営みそしてさまざまな社会形態の中で求められる、「福音の証し」は、信仰に基づいて多種多様に展開されて然るべきでありましょう。政治や経済の分野で、或いは医療や福祉の場で、そして教育や研究の働きの中で、多種多様な応答の形をいよいよ豊かに見ることができます。

 

しかしハイデルベルク信仰問答は、その応答の中核と本質を、扇の要として、明確に「神への感謝」である、と告白宣言します。先ず何よりも、どうであれ、真っ先に神の御前に立つこと、そして悔い改めの痛みと、罪の赦しの感謝と讃美を神にささげることに尽きる、というわけです。社会派か福音派か、あれかこれか、並列的な二者対立の図式ではなく、真の社会奉仕はいよいよ福音の本質によって根底から支持され導かれる、という同一本質の根源となる信仰を改めて深堀りにしています。これまで天国の鍵の役目について語ってきたのですが、より重要な問題は、鍵のもつ本来の任務であり、鍵のめざす目的にあります。繰り返し申しますが、権威主義による処分と締め出しが、「鍵」本来の目的ではありません。「鍵」本来の目的は、正しくそして力強く豊かに、わたしたちの心と生活を神に向け直すことにあります。救いに与っているのであれば、残された唯一つの応答は、心から神に感謝し讃美し、神の栄光をあらわすことになります。日々、常にキリストの十字架と復活の恵みを心から受け入れて、より真実でより深い悔い改めに導かれること、すなわち福音の認識をいよいよ確かにすることであります。そうすることで、改めて、神に対して心からより純粋に感謝とより豊かな讃美を献げることが可能となります。大切なのは、確かに救いに与っているという力強い体験と、そしてそれにふさわしく、神を正しく認識する確かな信仰に導かれるのであれば、当然ながら自然と、神の愛と恵みに相応しい成しうる限りの感謝をささげ、永遠に神を喜び讃美するほかにありません。まさに形式を遥かに超えて、本質的で真実な礼拝がそこに生まれます。

 

ハイデルベルク信仰問答86~91は「感謝」という表題のもとに信仰を言い表しています。もう少し丁寧に言い直しますと、救いの条件として善きわざが求められるのではなくて、善きわざは「感謝と讃美」の喜びから生まれ、自然と内側からその実践を求めるようになります。宗教改革で、ルータ派の教える福音の特徴として、「律法と福音」という言い方をします。つまり律法は福音に導く養育係で、律法から福音に至る道筋を示します。ところが、反対に、改革派の教える福音の特徴は、「福音と律法」という言い方をします。福音と律法の順番が逆なのです。つまり、律法から福音に至る、という救いの前提となる道筋は、変わらないのですが、福音には、その「結実」として、新しい命と生活の展開があるというのであります。神の義である救いは「善きわざの実践」や「律法の遵守」を通して自分で獲得することはできません。律法や行いによらず、ただ「キリストの犠牲」のゆえに罪は完全に償われ、その「キリストの恵み」を信仰として認めて受け入れることで救われます。これが、律法から福音への道です。しかし問題はそれで終わりません。さらに重要な問題は、そのキリストによる救いの恵みに対して、私たちはどう心を尽くしてお答えすればよいのか、という課題が残されています。それが、まさにハイデルベルク信仰問答が、信仰による応答において最も大切なこととして、「感謝」であり「讃美」です。感謝としてまた讃美として、神さまのみこころにしたがって生きれるようにしてください、という願いで祈りであります。新たに神のもとで生かされる新生の喜びをどう言い表して、神の栄光を表すかです。神の豊かな救いの中で感謝と喜びにあふれて生きる生き方は何か、それは、やはり福音に支えられて、感謝と喜びの中で、神の御心である律法に生きようとすることではないか、という点です。律法を守ることができないからと言って、神から罪人として裁かれ見捨てられてしまうのではない。なぜなら、私たちは既に、洗礼によって、キリストの血によって罪を清められ、救いの保証を戴いています。そして聖餐にあずかり、神から贖罪と復活の完全保証を戴いています。そこに求められるのは、真摯な悔い改めと救いの感謝であり、神への賛美です。そしてもう一度、神の御心に適う生き方を求める意欲と誠実な志ではないでしょうか。

問86で、「私たちは、自分のどんな悲惨からも、自分の一切の功績によらず、キリストの恵みによって、救い出されているのであれば、なぜ、私たちはなおも善き行いをなすべきなのか。」と問い、なぜ、なおも善きわざが求められるのか、すでに救いは完成したのであれば、もう他に何も必要ではなくなったはずではないか、と問うています。そして答えにおいて、「それについて(はこうです)。すでにキリストは、ご自身の血をもって犠牲を払い私たちを贖ってくださったのですから、次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通してご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます。このキリストの恩恵に対して、私たちは自らの全生涯を尽くして神に感謝を言い表し、そうして、神は私たちを通して褒め讃えられるのです。私たちは自分の信仰が確かであることをその実りから自分で確信し、神を畏れる敬虔な生活態度をもって、私たちの隣人たちをキリストのもとに勝ち取るのです。」と答えます。パウロは、コリントの信徒への手紙一6章19、20節で「6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」と教えていますが、まさに、私たちのためにキリストの血と言う代価が支払われて、キリストは、キリストの霊である聖霊を遣わして私たちの内に宿してくださり、神の神殿として新たに造り変えられるのです。

 

確かに、キリストの十字架の犠牲において、私たちは完全にキリストの血によって贖われました。この贖いは間違いのないことです。しかし神さまの愛と救いのみわざ、それで終わらずに、いよいよ続くというのです。それが、「すでにキリストは、ご自身の血をもって犠牲を払い私たちを贖ってくださった(完了形)のですから、次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通してご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます(現在形)。」という告白です。罪赦されただけではなく、私たちの人間性のすべてを、キリストと全く同じ人間性に造り変えてくださる、というのです。いわば、いよいよキリストの身体としてくださる、というのです。少々古くて堅い教理の言葉で申しますと、「聖化」と言われていたことになります。キリストによる贖いが「義認」であれば、今度はそれに次いで、聖霊による再創造として「聖化」が行われる、というのです。聖化と申しますと、少々神秘的な意味に誤解されてしまいそうですが、神の恵みをいよいよ深く知り、そしていよいよ相応しい感謝と讃美を献げる生活を通して、私たちの心も身体も神のもとにあって造り変えられてゆく、という教えです。何か、特別に儀式的で神秘的な行為を重ねるという意味ではなくて、ただ単純かつ純粋に、神が聖霊を通してくださる「恵み」をより深く知り、より豊かに数え上げて、神を喜び、相応しく感謝と讃美を神に献げるのです。こうして、わたしたちの信仰は堅固に強くされて、私たちは増々神に向けて造り変えられるのです。本当に神の恵みに与り、救われているのであれば、相応しい救いの認識が生まれ、当然ながら、感謝と讃美をささげざるを得なくなります。冒頭で申しましたように、キリストは羊の名を呼んで導くのですが、同時に羊はキリストの声と導きを聞き分け、ついてしたがってゆきます。常に心をより正確にキリストに向け直す、そうした日々の悔い改めと共に、説教と聖餐に与り、キリストの完全に償いと赦し、そして新しい復活の命の保証を戴くのであります。それを確かに受け入れ認めることができれば、そこには無限の感謝と喜びが生まれ、神を喜び、神を讃美する生活がどれほど愛おしくかけがえのないことであるか、実感として感じられるようになるはずです。しかも、そこにとどまらず、その溢れる神への感謝と讃美は、キリスト者としての新しい生活を築く、力強い原動力となるのです。