2020年10月18日 説教「真の悔い改め、古き罪人の死と新しき人の復活」 磯部理一郎 牧師

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第21主日礼拝

信仰告白「ハイデルベルク信仰問答」問答88~92

感謝について(感謝の生活2)

 

問88 (司式者)

「人間の真実(まこと)の悔い改めと回心は、いくつのことにおいて現れるか。」

答え (会衆)

「二つのことにおいて(現れます)。古き人の死滅において、そして新しき人の復活においてです。」

 

 

問89 (司式者)

「古き人の死滅とは、どういうことか。」

答え (会衆)

「心から罪を断ち切り、いよいよ罪を嫌悪し罪から離れ去ることです。」

 

 

問90 (司式者)

「新しき人の復活とは、どういうことか。」

答え (会衆)

「キリストを通しての神の内にある喜びであり、

神のみ心にしたがってあらゆる善きわざに生きる歓喜と熱望です。」

 

 

問91 (司式者)

「だが、善きわざとは何か。」

答え (会衆)

「ただ真実(まこと)の信仰から神の律法にしたがって神の栄誉のために行われるわざです。

自分の判断や人間の定めに基づく行為ではありません。」

 

 

問92 (司式者)

「主の律法はどのように告げているか。」

答え (会衆)

「神はこれらすべての言葉を告げられた。

第一戒『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない。』

第二戒『あなたはいかなる像も造ってはならない

上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、

いかなるものの形も造ってはならない。

あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。

わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、

わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。』

第三戒『あなたの神主の名をみだりに唱えてはならない

みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。』

第四戒『安息日を心に留めこれを聖別せよ

六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、

主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、

男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、

主は安息日を祝福して聖別されたのである。』

第五戒『あなたの父母を敬え

そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。』

第六戒『殺してはならない。』

第七戒『姦淫してはならない。』

第八戒『盗んではならない。』

第九戒『隣人に関して偽証してはならない。』

第十戒『隣人の家を欲してはならない

隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。』」

 

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第21主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教37(問答88~92)

説教「真の悔い改め、古き人の死と新しき人の復活」

聖書 詩編119編129~136節

ローマの信徒への手紙6章15~23節

 

これまで学びましたハイデルベルク信仰問答の聖礼典と天国の鍵をめぐり、もう一度、簡潔に振り返り、整理しますと、聖霊なる神は、先ず福音の説教を通して働き、私たちの心の内に信仰を芽生えさせてくださいます。聖霊なる神は、キリストの霊として、次いで洗礼と聖餐の聖礼典を通して働き、私たちの心の内に、救いの確信と確証を与えてくださいます。聖礼典に与ることで、私たちの救いは、ただ自分が信じるだけの救いではなくて、神の保証による客観的で確かな神の救いとなります。この救いの客観的な「確かさ」は、徹頭徹尾、神のみ言葉による神の約束そのものに根拠をおく確かさです。私たち人間の側による行いや信仰の量的な強さ弱さに、救いの根拠は一切ないのです。

すなわち、神のみ言葉である説教と聖礼典において、キリストご自身が、キリストの霊である聖霊の働きを通してそこに現臨してみ言葉を語り、キリストが聖礼典においてご自身の肉と血とに与らせる、という徹底した神のみわざそのものによって、神の救いは神が保証するのです。洗礼においては、キリストご自身が聖礼典を制定され、しかも聖霊を通してそこに現臨し、水とことばを用いて、実際にご自身の十字架の血の恵みにより、私たちの罪を根源から洗い清めて、神の契約共同体の一員として加えてくださいます。聖餐においても、キリストご自身が聖餐を制定され、聖霊を通してそこに現臨して、実際にキリストの身体と血に私たちを与せ、キリストの身体と一体に結び合わせご自身の身体の肢体となされ、また復活のご自身の身体と血をもって永遠の命である復活の身体に私たちを養ってくださるのです。神が先ず聖霊を通して、「福音の説教」による恵みの賜物として、信仰を芽生えさせ、次いで、「洗礼と聖餐」に与ることを通して、キリストの身体としての救いを完全保証するのであります。こうした救いの確かさと神による保証の場でありしるしとしたのが、ハイデルベルク信仰問答によれば、聖礼典にあずかる、ということです。しかもその確かさや保証の根拠として、聖礼典に与ることを通して、実際にキリストの身体と血に与ることを徹底して貫いています。ただ単に、人間の主観的な信仰に依存する象徴論とは決別しています。

このように教会は、キリストを頭とするキリストの身体であり、福音の説教と聖礼典を媒介にして、天地を貫き、過去・現在・未来を貫通して、終末を超えて永遠に、神の民の共同体として構築されます。ここに教会の本質があります。この教会を「公同の教会」として、私たち日本基督教団は、使徒信条や信仰告白を通して、信じ告白しています。したがって「教会」を抜きにした所に、神のみ言葉である「説教と聖礼典」を抜きにした所には、救いの根拠や救いの確かさは、失われてしまい、存在しないのです。神自らが、キリストを通して、聖霊において、キリストを頭とするキリストの身体である教会を導かれるのですが、そのキリストの身体である神の教会は、天地を貫いて、「唯一」のuna, 「聖」なるsancta, 「公同普遍」のcatholica, そして「使徒」のapostolica 「教会」ecclesiaとして地上に受け継がれ、その本質的な使命として「福音の説教と聖礼典」による神のみことばが告知され、私たちは聖霊を通してそれらに招かれ導かれ与ることで、キリストによる罪の赦しと復活による救いは実現します。こうしたキリストの身体である神の教会を否定し排除した所に、或いは聖礼典を拒否する所で、いくら救いの理想を豊かに語り合ったとしても、そこには「神」によるキリストの身体としての「教会」(ecclesia神が名を呼び、召し集め神の民の共同体)の救いはなく、単なる「人間」の主観的な思想集団に終始します。

私たち罪人が罪赦され永遠の命に救われたことの確かさは、福音として聞き分ける神のみ言葉にあり、キリストの身体と血に与る聖礼典に込められた神の保証にあります。そしてその確かな救いに対する真実な応答として、救われた事実を受け入れ認めて、その事実を信仰として言い表し、そして救いの神に心から感謝し、神に厳粛な賛美をささげ、神の栄光をたたえます。こうした救いの根拠となる神の言葉、すなわち「福音の説教」と「聖礼典」を、その神の啓示の言葉としての本質を歪めることなく、相応しい信仰をもって、神の愛と恵みにお応えすることが求められます。み言葉の教えにしたがって、キリストの十字架と復活による恵みを心から信頼して、信仰を言い表すのです。そしてその信仰とは、救いの現実に対する正しい認識であり、神への感謝であり、讃美となります。そのために教会は責任を持って、キリストの愛と配慮のもとに、説教と戒規という鍵の働きを通して、人々に仕えるのであります。

 

本日の主題は「感謝」です。先週の問答86~87の続きとなります。問答86の答えで、「すでにキリストは、ご自身の血をもって犠牲を払い私たちを贖ってくださったのですから、次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通してご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます。このキリストの恩恵に対して、私たちは自らの全生涯を尽くして神に感謝を言い表し、そうして、神は私たちを通して褒め讃えられるのです。私たちは自分の信仰が確かであることをその実りから自分で確信し、神を畏れる敬虔な生活態度をもって、私たちの隣人たちをキリストのもとに勝ち取るのです。」と宣言しています。8月初めに学びました問答70でも「『キリストの血と霊とによって、洗い清められる』とは、どういうことか。」とする問いに対して、答えで「十字架での犠牲奉献で、私たちのために代わって流された、キリストの血のゆえに、その恵みにより、神のみ前に罪の赦しが与えられている、ということです。犠牲奉献によりまた聖霊を通して、新しくされ、キリストの肢体(えだ)として聖別され、いよいよ罪に対して死に、信仰心に溢れて責められることのない生涯に造り変えられます。」と告白されていました。ここでも、罪の赦しが与えられて、キリストの身体の肢体として聖別されて、さらには責められることのない生涯に造り変えられます、と新しい人としての創造が告白されています。

 

ここで再確認すべき点は、問答86の原典では、時制を完了形と現在形とを使い分けて、先ず完了形で「すでにキリストは、ご自身の血をもって、犠牲を払い私たち贖ってくださった」のであるから、と告白します。私たちは、キリストの恵みによって、無償で、既に完全に罪赦されてしまっているのです。神の恵みが先に働いて、私たちを既に救いの座へとお招きくださったのです。これは、明らかに、キリストによる恵みの先行であり、無償の恵みによる「宣義」であり「義認」であります。それを問答86では「完了形」で示されています。しかし問答は、そこで完了してしまって、完結しはしないのです。

つまり、問答の86は、それでは、既に罪赦され救われた私たちは、今これからどうすればよいのか、という先行された神の恵み対して、後から起こる私たち自身の応答が問われるのです。そこで問答は、既に罪の償いは完全に完了してしまったので、その先行して実現した救いの恵みに対して神にどう応えるのか、その答えとして、今度は、私たちが今ここで「自らの全生涯を尽くして神に感謝を言い表わす」のだ、と告白します。神に感謝を言い表すのです。では、神に対する相応しい感謝とは何でしょうか。どうすれば、最も相応しい感謝となるのでしょうか。それは、何よりも先ず、キリストの救いが確かである真実であるとする信仰をいよいよ堅固にすることです。救いが事実である、しかもその信仰が堅固になれば、その感謝はいよいよ相応しく、また厚く深くなります。そしてささげる礼拝や讃美も、それに応じて、いよいよ献身的で豊かになります。そのように、敬虔で信仰に満ちた生活態度が内側から生まれて、やがては内から外に溢れ出て来るはずです。キリストによって罪赦され・死から解放され・復活の新しい命に生まれ変わることが、日々リアルによく分かるようになると、実際にその様子を自らの人生で味わい体験できるようになると、いよいよ神への感謝と喜びは深まり、その恵みに対する応答は明瞭になり強くなり、生きる人生には新しい希望が溢れ、未来に向かう新たな目標が生まれます。そしてついに死さえも貫いて、永遠の命を意識して、天国に至る、という人生と生涯の在り方が、根本から本質的に変えられてゆくはずです。そうした神の恵みによる新しい人生の新生と再創造について、信仰問答86の後半で「次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通してご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます。」と告白します。どんなに遅遅とした歩みであろうと、躓き躓きの繰り返しであろうと、確実に、神は聖霊の働きを通して、福音の説教と聖礼典により、私たちをキリストの身体として、「生き写し」のように、造り変えてくださるのです。キリストの無償の救い、恵みによる「義認」に続いて、救われた者の「キリストの身体」としての、新しいいのちの道である「聖化」の道が、神によって聖霊を通して開かれます。神による救いの確信は、神への感謝と喜びの深まりを経て、聖霊による聖化という新しいの命の道へと展開してゆくのです。

 

その感謝を根源とする「聖化」の道をハイデルベルク信仰問答はいよいよ明確に展開します。それが、問答88~92の項目です。先ず問答88では、生まれ変わり新生した新しい生活について、「古き人の死滅において、そして新しき人の復活において」その姿は現れると教えています。古き人の死滅とは、問答89によれば「心から罪を断ち切り、いよいよ罪を嫌悪し罪から離れ去ること」であり、新しき人の復活とは、問答90によれば「キリストを通して神の内にあることの喜びであり、神のみ心にしたがってあらゆる善きわざに生きることの歓喜と熱望です」と答えています。その新しき人の復活は、問答91以降によれば、神の御心に従って生きる善きわざの生活、すなわち神の律法に生きる生活として語られてゆきます。

古き人の死滅とは、単刀直入に言えば、自分の罪を知った、自分の罪を認めることができる、日々自分の罪と正しく向き合うことができる、ということではないでしょうか。だから自分の罪と戦うことができるのです。それどころか、自分の罪ばかりか、世の罪の全体と本質が見えるようになるのです。しかもその大きな罪との闘いには、常にキリストが共におられ、十字架での償いをもって絶えず罪を償ってくださる神の愛と憐れみに満ち溢れた闘いであります。そればかりか、聖霊なる神は、常に心のうちに働き、内住してくだって、私たちの心身を根源からいつもキリストの身体として新しくしてくださり、確かな希望と豊かな励ましに満ちた日々の戦いとしてくださるのです。罪と滅びから目を逸らすのではなく、罪と死と滅びの中枢を貫いて、闘い抜き、勝利する。そういう罪との闘いを自分の生涯の内に持った、ということであります。

そして新しき人の復活とは、これはとても意味深いことですが、「キリストを通しての神の内にあることの喜び」のうちに生かされる、ということにあります。とても意味深いと申しましたのは、私たちは神の内にある、神の内に生きている、という現実です。しかもそれは、愛と慈しみ溢れる十字架と復活のキリストというお方を通して、いよいよ豊かに実現しているのです。神の外にいて、神と対抗しているのではないのです。神の内にあって、聖霊がうちに住んでくdさり、キリストと共に生き、神の内に養われているのです。しかもその神の内に生きるという実感は、無限の喜びに満ち溢れます。だから、この神の御心にしたがって常にありたい、生きたい、と願い求めようになります。つまり「神のみ心にしたがってあらゆる善きわざに生きる」ことを拒否するどころか、かえって喜びと誇りをもって、歓喜し熱望して、神が求めておられることをより深く正しく知り、神の御心を喜べるようになります。これが「感謝と喜び」の道であり、「応答と聖化」の道であります。そしてついに、問答91では「だが、善きわざとは何か。」と問い、答えで「ただ真実(まこと)の信仰から神の律法にしたがって神の栄誉のために行われるわざです。自分の判断や人間の定めに基づく行為ではありません。」という告白に至ります。これはまさに、神による救いに対する心から感謝と讃美から、ただ真実で純粋な信仰から、今度は、神の律法にしたがって生きるという新しい人生の旅立ちを迎えるのであります。

前回の説教で、ルター派の教理では「律法と福音」という言い方をするのに対して、カルヴァンの改革長老派では「福音と律法」という言い方をする、というお話をいたしましたが、ついに、その「福音と律法」の宣言がここに明記されています。つまり、救いが真実であり確かであることがいよいよ分かり、確信できるようになれば、すなわち信仰の内容がはっきりしてくると、その福音の豊かな「信仰の実り」として、信仰による新しい応答の生活が言い表されるようになるのです。後で改めて、ハイデルベルク信仰問答は問答92~115において「十戒」のすべてを、新しい福音と救いの視点から、感謝と喜びの中で受け入れ直すことになりますが、ハイデルベルク信仰問答の構成全体から申しますと、大きく区分すれば、律法の要であった「十戒」も「主の祈り」も、実はキリストの恵みに対する「感謝」を根源として生まれる「新しい生活」の主要素です。「感謝」という項目の内に、皆其々組み込まれています。「福音と律法」として、その福音と律法を根源から一体に結合している「と」の部分に、溢れるような「感謝」がある、と言ってもよいのではないかと思います。問答64は「キリストに真(まこと)の信仰を通して接ぎ木され結ばれた者は、必ず感謝の実を結びます。」と、こう確信し告白しています。「必ず感謝の実を結びます」と言うのです。まさにその「感謝の実り」となって、新しい生活が結実してゆくことになります。それが、感謝としての新しい律法の生活です。救いの条件のための破れと苦痛のための律法から、感謝と讃美のための律法へと、その本質は大きく変わります。したがって日々、感謝と喜びに溢れる中から希望もって、戒めの一つ一つに対して、大事に真摯にそして謙遜に向き合い、取り組むことになります。

 

ただし、こうした感謝としての律法に取り組むうえで、注意すべき、心得ておくべきことが、一つあります。それは、信仰をもち教会生活を歩みながら、キリスト者でありながら、また聖化という新しい恵みの道を進みながら、数々犯してしまう罪の問題であります。所謂、受洗後の罪の問題です。

ローマ・カトリック教会では、そうした受洗後に犯す罪を想定して、罪を告白し罪を悔い改めるための「告解」が重要なサクラメントとして、日常的に執行されています。さらに大切な点は、そこで必ず「罪の赦し」が司祭によって宣言されることです。その上で、ミサ聖祭に与ることが許されます。つまり意味深い点は、受洗後に犯した罪を確実に悔い改めて、確実に罪赦されるための場が、教会の制度の中にきちんとある、という点です。犯した罪は、神さまによって、或いは権威ある司祭によって、教会の制度の中でサクラメントとして赦される、という場が公にあるのです。しかしこれも、余りにも典礼の形式や教会の制度ばかりに偏りますと、罪を犯す本人の「魂の現実」は実際には放置されてしまうのではないか、と危惧します。

ところが、プロテスタント教会では、この「告解」の秘跡は、サクラメントから除外されてしまい、いわば教会の救いの制度、そのメカニズムの中からは失われています。畢竟、信徒其々による心の中で、個人の主観感情において孤独で曖昧な処理をすることになります。処理と申しましたのは、そこには本質的な、或いは根源的な、そして神ご自身による解決の道が用意されていないからです。つまり公の教会の中で、教会の制度としては、犯した罪を解決できずに、牧会相談という極めて不透明で曖昧な人間的状況の中に、問題は未解決のまま、そこに置かれ残されてしまうことも多々あるからです。しかもその解決は、牧師や信徒の個人的な人間性や宗教観によって大きく影響されます。神に罪赦され神に救われるのか、人間的なかかわりで同情され慰められるのか、非常に混濁してしまうのです。かつて、デートリッヒ・ボンヘッファーは、キリスト教共同体の中に、互いに罪を告白し祈り合う「交わりの生活」が重要な意味を持つ、と主張しましたが、まさにその通りです。したがって、今後の教会の祈祷会の果たす役割は、とても重要であり、大きな教会的課題でもあります。どのように、受洗後に犯し続ける罪を「教会」として解決してゆくか。各自其々が自分の中で処理しなさい、ということでは済まない、牧会の本質的な問題と言えましょう。

そこで、改革長老派の教会では、隠れた密室においてではなく、公の礼拝の中で、しかも其々が教会共同体の一員として、神の御前に出る最初に、会衆全体が一つになって、罪を告白します。罪を心から神の御前で告白して悔い改めを示します。礼拝のプログラムで言えば「十戒」の項目です。律法の実行により自分では神の義を獲得し救いを得ることはできない、したがってキリストの愛と憐れみによらなければ、まさに十字架の犠牲によらなければ、神の赦しを得ることはできません、と心から悔い改めつつ、深く噛みしめながら十戒の一つ一つを唱和します。その上で「信仰告白」という項目で、会衆一同一つとなって、キリストの救いを信仰として言い表します。そして聖書のみ言葉が朗読されて福音の説教がなされ、キリストによる罪の赦しが公に宣言されるのです。私たちは罪を重ねてしまうことがとても多いのですが、犯した一つ一つの罪の真相をみ言葉の光のもとで、その罪をお赦しくさかる神の福音としてより深くより正しく知り、認識できるようになると、次は犯さないで済む罪もまた一つ一つ増えて来るはずです。私たちが罪を犯す原因は、大抵の場合、それがどういうことなのか、気づけない、知らない、分からない、所謂「無知」による場合が多いようです。ですから、正しく知る、より深く厳密に、しかも筋を通して確かに知ることで、多くは乗り越えられるようです。どんな些細に見える罪でも、その一つ一つの真相を、み言葉のもとで照らし出してもらえるならば、説教や教会での学びは、天国へと導く力強い鍵の役割を果たすことになります。私たちには、分からないこと、知らないことが余りにも沢山あります。ましてや、神さまの御心のもとで、分かることは非常に限られますので、善かれと思ってすることでも、罪になってしまいます。謙遜に聞き分けて学ぶ、ということは、私たちが罪と闘う上で、とても大切なことです。これまで、天国の鍵の務めを担う「福音の説教」と「戒規」の意義について学びましたが、まさに、み言葉を聞き分ける訓練により、次第に少しずつですが、しかし確実に、本当の意味で罪の真相は何か、気付いて分かるようになります。そして福音がその罪に対してどれほど豊かな愛と慈しみに溢れて、罪の赦しを宣言しているか、聞き分けられるようになるのです。「戒規」を英語版ではdiscipline(弟子を訓練し教えること)と訳したことは、とても意味深いことです。み言葉の説教をより深くより正しく聞き分ける、そして教会の交わりの中で、み言葉を聞き分けた会衆同士が共に学び導き合い、互いに良き牧会者として重要な意味を担うことになります。こうして少しずつではありますが、私たちは新しく造り変えられてゆきます。一人ひとりの信仰が新しくされると共に、教会の在り方も新しくされてゆきます。