2020年11月15日「神の御名によって、御心を祈り求める」 磯部理一郎 牧師

2020.11.15 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第25主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答101~102

律法について(4)

 

 

問101 (司式者)

神の御名のもとで、人が信仰に基づいて誓うことは認められるか。」

答え  (会衆)

「はい。政府がその行政官に宣誓を求めるとき、

或いは、神の栄光と隣人の祝福のために

宣誓を通して、忠誠と真実が得られ、またいよいよ必要となるときです。

こうした宣誓は、神のみことばに基づいており、

それゆえ聖徒たちによってまた旧約聖書と新約聖書において、適切に用いられています。」

 

 

問102 (司式者)

聖人やその他の被造物のもとで、誓うことは認められるか。」

答え  (会衆)

「いいえ。掟に適う誓いとは、神に依り頼む呼び求めです。

すなわち、神は御心から、ただ独り人の心を知る神として、真理に証明を与え

わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。

それゆえ、当然ながら、如何なる被造物にもこうした栄誉は値しません。」

2020.11.15 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第25主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教41(問答101~102)

律法について(4)

 

説教「神の聖名によって御心を祈り求める」

聖書 申命記10章12~21節

マタイによる福音書5章33~37節

 

「十戒」における第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」について、ハイデルベルク信仰問答から学びました。そこで少々疑問として残る点は、「主の御名を唱える」ことは、被造物を神として偶像崇拝するのではなく、唯一真の神の御名を唱えることなのに、それがどうしていけないのか、という点です。私たち日本人の宗教感情からすれば、「南無妙法蓮華経」とか「南無阿弥陀仏」或いは「南無八幡」など、数えきれないほど、いろいろな名前で偶像の神々を呼び求め、熱心に繰り返して祈願します。また、結婚式をキリスト教式で上げ、クリスマスを家族で祝い、その一週間後には親戚一同で神社仏閣に初詣をして新年を祝い、死ぬとお寺でお葬式をあげる。まさに神も仏も偶像も余り厳格な区別はなく、さまざまにしかも頻繁に神々の名を呼び求める宗教文化の中に、私たち日本人の日常生活があります。わたくし自身も鎌倉の仏教の学校で教育を受けました。多くの知識人は、唯一真の神を知らず神から離れた所で、傍観者のように諸宗教を眺めて、日本人の「寛容」と評価するかも知れません。これを宗教の寛容というか、無分別というか、大きく分かれる所であります。こうした日本人の宗教感情からすれば、聖書は実に厳格で、およそ寛容とは言えません。十戒は、第二戒で「あなたは、きざんだ像を造って、それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない」と厳格に偶像崇拝を禁じ、次いで第三戒で「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と、「唯一真の神」であっても、その画像化することすら禁じますし、それどころか、「神」の名を呼ぶことすら「みだりに唱えてはならない」と考えられないほど厳格に禁じます。ただ単に被造物を「画像」にして、偶像として伏し拝むだけではなくて、唯一真の神の「名」を呼ぶことすら禁止するのです。それは、なぜなのでしょうか。この厳格さはいったいどこから来るのでしょうか。

 

それには、本当の意味で、私たち人間が、どうすれば、神を神とすることができるか、という課題があるからです。神なしに、神を抜きにして、人間を中心にして、礼拝や宗教を形づくろうとする、人間の原罪を根源とする神への背き」があるからす。ハイデルベルク信仰問答は問答5で「わたしには生まれつき神と隣人を憎む傾向があるからです。」と告白します。つまり人間本性はその本質において「神を憎み、隣人を憎む傾向にある」と深く人間の本性を見つます。ドイツ語原典はGeneigt(neigen)「下向きに傾く」という字を用いて、人間の本性は神を憎み人を憎む方向に傾いていると表現します。もう二度と神を神とすることができなくなってしまった人間の根源的な「神への背き」と「転落」を表白します。前回の説教に関連づけて申しますと、信仰告白において正しく神を神とする(プロスクネオー proskune,w)ことも、礼拝典礼において正しく神に仕え務めを果たす(レイトゥルゲオー leitourge,w)ことにおいても、そして日常の生活習慣において神を神とする(ラトリューオー latreu,w)ことにおいても、本当の意味で、神を神とすることができないのです。あくまでも神を正しく神とするのですが、それをどこまで徹底して神さまを中心にして、神を神とするのか、それとも反対に、自分や人間の都合に偏らせて、人間を中心にして、神を造り神の名を呼ぶのか、という問題に尽きるようです。礼拝とは、神を神とする場であります。神の栄光のもとに「神を神とする」場において、初めて真実な意味で礼拝は成り立つものです。人間の欲望欲求のもとに、神を都合よく造り変えて拝むと、唯一の真の神を拝んでいるはずなのに、人間の欲望が造り出す偶像の神を拝むことになるのではないでしょうか。それは「神」を、人間の欲望や欲求に造り変えることを意味します。「画像」化することでも、また「神の名」唱えることでさえも、結局は人間の欲求にしたがって人間中心に神を造り変えて礼拝するのであれば、それは「偶像崇拝」の危機となります。どんなに、神の御名をよんでも、キリストの名をよんでも、自分の欲求支配のために、人間中心に、神を勝手に都合よく造り変えて、神の御名を唱えるのであれば、それは本質的には偶像崇拝となってしまうのです。まさに、自我欲求の支配に傾き、神を憎む傾きの中で、いくら唯一真の神の御名を呼び求め、結局、その呼び求めは、根源的に「神を憎む傾き」に支配されてしまうのです。こうした「神を憎む傾き」が、人間本性の根源から、正常な向きと関係に修復されない限り、本当の意味での礼拝は成立しないのです。神を唯一真の神として正しく知り拝む、という造り主なる神と被造物との根本的な関係の在り方、そしてそれは礼拝という形で表現されるのですが、その神と人間との根本的な関係とその在り方が問われる場が、まさに礼拝の仕方に現れるのです。言い換えますと、具体的な礼拝の形や態度一つ一つに、礼拝者の本当の心と姿一つ一つが現れ、映し出されます。そうした人間存在の根源から噴き出す、人間の欲求に従う人間中心主義に対して、戒めは、神中心に神を神とする礼拝を求めます。なぜなら神は、万物の造り主であり、万物を根底から支え保つ、全知全能の神だからです。永遠無限に全てを保証できるのは、有限な人間ではなく、永遠無限の神です。私たち人間は、あくまでも被造物として、造り主なる神に依存する存在です。

 

「十戒」で第三戒は「神の御名を唱える」行為を重く受け止め、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と厳格に戒めます。しかし、先ほどの問答5は問いで「あなたは、神の律法が要求するこれら全てのことを完全に遵守(じゅんしゅ)できるか。」と問い、「いいえできません。なぜなら、わたしには生まれつき神と隣人を憎む傾向があるからです。」と答えます。つまり人間は律法を遵守できない、という本質的な傾きと背きがある、と最初から問答5は認めます。神々や仏の名を繰り返し唱える、そうした習慣にある私たち日本人の宗教感情からすれば、その常識や想像を超えて、この戒めを理解するのはとても難しいように思われます。しかも「神の聖なる御名を唱える」ことは、一般社会における誓いや誓約という行為にまで及びます。所謂、神の名にかけて誓うという社会一般を支える契約行為にまで及びます。前回は「神の名をみだりに唱えてはならない」という戒めから、単に神の御名をよぶことから、神の御名をよんで誓う行為へと問題は広げられますが、前回に続き、今回も「一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。」(マタイによる福音書5章34節)とする主イエスのみことばを聴きました。誓いの絶対禁止です。誓うことが許されない理由は、主イエスのみことば通りで「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」からです。被造物全体は、どれもこれも、皆、例外なく、造り主なる神と神の憐れみに依存する限りにおいて、存在が許されるものです。私たちがどれほど誓いを立てても、それを完全に保証する根拠は、私たちにも、世界にもないのです。だとすれば、神の御心において、神がお認めくださる場においてのみ、神の御名は用いられるべきでありましょう。このように、神を正しく神とすることを困難にしている背景に、有限な被造物の本性としての限界であり、また悪魔に唆されて自我欲求を利用され、神と神のみことばに背き、堕落した人間の本性における堕罪が大きく影響しているようです。

 

ところが、本日のハイデルベルク信仰問答101では、一転して、「神の御名のもとで信仰に基づいて誓うことは認められるか」と問い、信仰に基づく誓いは冒涜や御名を汚すことにならない、と容認するのです。問答はここで「御名を唱える」という意味を、さらに深く問い直し、掘り下げます。問答101は「はい。政府がその行政官に宣誓を求めるとき、或いは、神の栄光と隣人の祝福のために、宣誓を通して、忠誠と真実が得られ、またいよいよ必要となるときです。こうした宣誓は、神のみことばに基づいており、それゆえ聖徒たちによってまた旧約聖書と新約聖書において、適切に用いられています。」と答えます。キリスト教国家で「政府」が神の名による宣誓を求める場合を認め、また「神の栄光をあらわすために」「隣人の救いのために」という目的であれば、御名を唱えて誓うことは、聖書の中で認められており神はお認めくださる、と一転して容認しています。

 

この違い、即ち禁止の「いいえ」と容認の「はい」との違いは、いったいどこからくるのでしょうか。両者を比べますと、問答101は「神の御名のもとで信仰に基づいて誓う」となっています。問答101も「神の栄光と隣人の祝福のために」は容認されますが、反対に、問答102は「聖人やその他の被造物のもとで誓うことは認められるか」と問い、「いいえ」と禁止されます。つまり神の御名のもとで信仰に基づく誓いと、被造物でのもとで(信仰に基づかない)誓いとは、実は本質的に異なるということになります。その理由は、聖人や被造物の名のもつ不完全性と有限性にあり、神への背きと神を憎み隣人を憎むという人間本性の傾きにある。したがって誓えば誓うほど、その誓いは「終わり」と「消滅」が予測されます。問答102の答えには意味深い示唆があります。「掟に適う誓いとは、神に依り頼む呼び求めです。すなわち、神は御心から、ただ独り人の心を知る神として、真理に証明を与え、わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。それゆえ、当然ながら、如何なる被造物にもこうした栄誉は値しません。」と答えます。「神の御名のもとで信仰に基づく誓い」は認められ、反対に「聖人やその他の被造物のもと」で誓うことは認められず、否定されます。そしてその理由は、原理的に言えば、誓いそれ自体を成立させる根拠が、或いは誓いを保証する能力が被造物にはない、ということでした。これまでお話した通り、誓いは有限である被造物では担保されず保証されないからです。「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」からです。人間社会は「誓い」に基づき成り立っていますが、同時にまたこの人間社会での誓いは、本質的に甚だ危ういものであり、その担保と保証は常に限られるのです。破綻に傾く誓いであり、それゆえ虚偽の本質を背負っています。

 

「神の御名のもとで信仰に基づく誓い」が認められるのは、単刀直入に申しますと、その誓いのもとに、神がおられ、神がお認めになる、神の強いご意志が想定されなければなりません。反対に「被造物のもと」での誓いには、神がおられないので、神の担保も保証も失われます。以前、「律法と福音」に対して「福音と律法」という考え方についてお話をしました。律法に破れて人間本性の破れを自覚し人間に絶望する中で、キリストの愛と憐れみに目覚め、その新しい恵み溢れる救いのもとに、すなわち福音のもとに新たに生かされる、そういう律法から福音への道を「律法と福音」とルターは呼びました。その恵みの福音から、今度は、その完全な愛と恵みによる救いの感謝と喜びに溢れて、感謝の応答として、新しく神の愛に生きる、そういう福音から新しい律法へという道を「福音と律法」と改革派は呼んだ、というお話でした。ハイデルベルク信仰問答は、まさに「十戒」という神の戒め全体を、古い律法の形においてではなく、新しい福音の中で新しく捉え直すのです。つまり福音から、感謝に溢れて、神の恵みにお応えする新しい律法の道として、すなわち「福音と律法」において捉え直します。キリストを知り、キリストを受け入れ、キリストが共におられる中で、罪が完全に償われ、新しい命の復活のもとにある中で、キリストを通して神の御名を呼び、キリストを通して神を喜び、キリストを通して神の感謝に溢れ、キリストを通して神を讃美し礼拝するのです。そうしたキリストにおける神の啓示の福音の中で、神を神とするのであり、神の御名を呼びまつるのであり、誓いを立て合うのです。私たちは、神なき世界を神なしに生きるのではなく、「キリストの身体」として、神のみことばのもとで、神と共に神の国を生きようとしています。私たちは、一方で背きと堕落の傾きに運命づけられた被造物ですが、しかし今は、信仰によってキリストを受け入れ、「キリストの身体」として生きる私たちであります。神の御名をよび、御名において誓う、その本体は、実は、キリストの身体であり、私たちに代わって、キリストご自身が償い、キリストご自身が保証し、キリストご自身が完成されるのであります。キリストを通して神を神とし、キリストを通して祈りは祈りとなり、キリストを通して神を呼び求めることができるようになったのです。

キリスト者とは、頭であるキリストに属する者であり、キリストの身体であります。その誓う誓いは、すなわち神に依り頼んでの呼び求めは、「キリストの身体」における「福音」として、無限に貫かれます。言い換えれば、主イエスの十字架と復活のみわざの中で、神の愛と憐れみの新しい律法のもとで、行われる行為となります。教会は、キリストの身体である限りにおいて、教会です。キリスト者も、キリストの身体である限りにおいて、キリスト者です。世界も、キリストの身体である限りにおいて、万物の贖いも再生も真実となります。たとえ天変地異が起こり、想定外のどんな災害が起ころうと、教会においてまたキリスト者によって、神の栄光と隣人のために祈られ誓われる誓いには、絶えず神の保証がなければ、当然、そこには限界と危うさが絶えず付きまといます。神の全面協力と支援のない所で誓う誓いは、甚だしく無力であり、ついには絶望と虚偽に終わってしまいます。私たちキリスト者も教会も、この世に存在する以上、完全に全てがこの世のものです。したがって常にこの世における四苦八苦の痛みを背負い続けます。キリスト者も教会も、この世に本質的に身を置きながら、しかし同時にまた、この世から本質的に超えるもう一つの本質を「キリストの身体」として、与えられています。その「キリストの身体」として、御名を唱え神の御名のもとで祈り誓うのです。

問答102の答えで「掟に適う誓いとは、神に依り頼む呼び求めです。すなわち、神は御心から、ただ独り人の心を知る神として、真理に証明を与え、わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。それゆえ、当然ながら、如何なる被造物にもこうした栄誉は値しません。」と告白しています。「掟に適う誓いとは、神に依り頼む呼び求めです」と言っています。「神に依り頼む呼び求め」と少々くどい訳をつけましたが、元の字はAnrufung「依願、嘆願」という字です。神に依り頼んで願い求めるという字です。誓うとは、神に依り頼んで訴え願い求めることができる、そのように神の憐れみを知って、神の憐れに依り頼む中で、神の御名を呼び求めるのです。そうでなければ、神の御名を正しく呼び求めることはできないからです。この世に神が啓示された神の御名とは、言うまでもなく、私たちの贖罪のために十字架で死に、私たちの永遠の命のために復活したイエス・キリストだけであります。唯一真の神を知っている、その唯一知る神に依り頼むことができる、そして神がお聞き届けくださり、完全に実現してくださることを既に確信しているのです。私たち人間の側からいえば、それこそ、唯一真の神を神とすることのできる唯一の道ではないでしょうか。言い換えれば、神の仲保者としてのキリストを通して、私たちは神を呼び求めることができるのです。

反対に、それを神の側からの恵みとして言えば、「神は御心からただ独り人の心を知る神として、真理に証明を与え、わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます。」という告白になります。ここで「神は御心から」とわざわざ「御心から」という言葉を加えて訳しましたのは、wolle gebenという形で、神を主語として神の意志や願望を非常にはっきり言い表す表現だからです。人の心を知る神が、何を望み、何を意図しておられるか、神の「神の意志」を非常にはっきりと信じて理解しているように思われるからす。だからこそ、続いて神は必ず「真理に証明を与える」と言い切ることができるのです。英語版では、to bear witness to the truthと、とても意味深い訳が施されています。神ご自身から、神自らのご意志で、自ら真理の証言者となって、ご自身においてその証言と証明を背負う、ということでしょうか。つまり証言と証拠を担うのは、神がそのご意志において担うのです。それこそが、神のロゴスの受肉であり、イエス・キリストとして神がその証言を担われたのであります。わたしは決して独りで孤独な「罰」を受けるのではないのです。自ら真理に証明を与え、自ら証言者として真理を担うキリストがおられるのです。わたしたちはまさに、キリストなき律法に生きるのではなく、人間の心を知るキリストの深い愛と憐れみの中で、その十字架と復活の身体として豊かに養われつつ、豊かな慰めと希望に溢れて、新しい律法に生きるのです。

キリスト者と教会の本質は、神のみことばが語られ、神のみことばが聞かれている、という点にあります。みことばにおいて、神が現臨し神が共におられ、共に世界の痛みを担い背負われることを知っています。私たちはそのキリストの「身体」の肢体であり、キリストの血による新しい契約共同体です。この告白で、さらに意味深い所は、「ただ独り人の心を知る神」である、という所です。私たちばかりか、この世界の本当の痛み悲しみを知っておられるのです。そしてさらに意味深長な点は、「人の心を知る神は、わたしが虚偽に膿むときは、わたしを罰してくださいます」という所です。神はどのように人を知っているか、といえば、虚偽に膿んでいる、ということになるでしょうか。「膿む」と訳した字は、辞書によれば、schwöre:schwärte (schären接続法Ⅱの古形)という字で「(傷が)膿んで化膿する」という意味です。つまり、神は、自分の奥深く潜む罪という傷が、いよいよ深く膿んで化膿し、全身全霊に至るまで腐らせてしまい、虚偽の状態に変質していることをよく知っておられるのです。わたしが内側から膿んで化膿し虚偽に腐り果てているのを、神はご存じなので、全身を腐らせてしまう膿みを罰して、滅ぼしてくださる、というわけです。神を正しく呼び求めることができないほど、悲惨に膿み痛み果てていることを一番知るお方が、神なのです。「誓う」どころか、誓うわたしの本質は、その中身は完全に膿んで腐り果て、虚偽でいっぱいに満ちている、そこにどうすることもできない惨めと悲しみが溢れている、というわけであります。わたしをこの世と置き換えますと、この世は、膿んで化膿して、虚偽の苦しみの中にある、だから、その「膿み」と「虚偽」を滅ぼしてくださる、というのであります。そのような、神と人間との本質的な関係から、しかもキリストの十字架と復活において背負われている、という福音の光の中で、ハイデルベルク信仰問答は「誓う」という行為を考え、見つめるのです。神の御名のもとで信仰に基づいて誓うとは、神に罰せられつつも、それ以上に、神のみことばにおいて、日々新たに造り変えられ養われる命の喜びの中で、新しい律法に日々希望に溢れて新しい完成へとチャレンジするのです。私たちは、まさにキリストの身体として、新たな挑戦者として律法の前に立つのです。