2020.11.8 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第24主日礼拝
信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答99~100
律法について(3)
問99 (司式者)
「第三戒(『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない』)は、何を言い表すのか。」
答え (会衆)
「ただ呪いや偽りだけでなく不必要な宣誓により、神の御名を冒涜し乱用してはならない、
また、私たちの黙認と傍観により、この恐ろしい罪にかかわってはならない、ということです。
すなわち、神が、私たちの前で、正しく信仰告白され、呼び求められるために、
そして神が、あらゆる私たちの言葉と行いにおいて、ほめたたえられるために、
畏敬と恭順をもって(唱える)外に、神の聖なる御名を決して用いてはならないのです。」
問100 (司式者)
「では、呪文や宣誓による神の御名の冒涜は、神がお怒りになるほど重大な罪となり、
また人々に対して自ら進んで防ぎ禁じるよう働きかけない人々も、神はお怒りになるのか。」
答え (会衆)
「勿論、そうです。
神の御名を冒涜するほど、より重くそして神がなお激しくお怒りになる罪は、ほかにはないからです。
それゆえ神は、この罪に対して、死をもって重く罰せよ、と命じられました。」
2020.11.8 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第24主日礼拝
ハイデルベルク信仰問答講解説教40(問答99~100)
十戒について(3)
説教「誤った誓いと偽りの誓約を捨て、唯一真の神に仕える」
聖書 レビ記19章1~18節
マタイによる福音書5章33~37節
10月より「十戒」について、ハイデルベルク信仰問答より学んでいます。週報4頁に記載されるように、その第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」、第二戒「あなたは、きざんだ像を造って、それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」という戒めです。神や神以外のものを画像として造り、それらを拝むこと、即ち偶像礼拝の禁止です。ハイデルベルク信仰問答は、問答97で「神は、画像としてあらわされることを禁じており、決して望んでおられません」と、唯一真の神に対して画像化することをたいへん厳格に禁じております。神は「永遠・無限」ですから、人の手で有限な画像として模造し、それを神に代えて拝むことはできないのです。こうした神は永遠無限であり全知全能であるというご性質について、問答98は「私たちには、神を超えてさらに賢くなることなど、本来、あり得ないことです」と逆説的に語っています。有限である被造物が、無限である創造主の神を包む、そして神を超えるのは絶対に不可能であるのに、その神を超えて、神を捕らえられるとすること、それを「神を超えてさらに賢くなる」という考え違いをしている、というわけです。神の画像を造り神を画像化する問題性は、こうした神のご性質に対する誤りから生まれます。誤った神認識から、同時また人間自身の思い上がりから、つまり誤った自己認識から起こるのです。それを逆説的に「神を超えてさらに賢くなる」と少々皮肉も見える言い回しで表現しています。私たち人間には限界があって、神を完全に知り尽くす力ないのです。したがって、神ご自身からご自身を現してお示しくださる限りにおいて、つまり神ご自身が、みことばにおいて、ご自身を啓示される限りにおいて、初めて人間は神を知ることが許されるのであります。問答98で「神は、誰でもご自身のものであるキリスト者に対しては、もの言わぬ偶像によるのではなく、神のご自身による命溢れる説教を通してお教えになる」と解き明かしています。したがって、私たちには「唯一真の神のほかに、神があってはならない」(第一戒)のですが、その唯一真の神を、私たちが正しく知り相応しく拝むためには、自分の手で造る画像に頼るのではなく、ただ神の啓示のみことばによって、すなわち神の啓示の言葉である聖書のみ言葉を通して、また聖書に基づく説教を通して、初めて神を正しく知り神を礼拝することができる、というのが、神礼拝の基本であります。
神以外の被造物については、問答97で「被造物が画像としてあらわされることは、確かに認められています」と、被造物の画像化は容認されており、有限である被造物が正しく理解され、相応しく扱われることは、私たちには可能なので、それを認めています。ただし「人が被造物の画像を崇拝するために、或いはそれらに仕えるために、画像を造り所有することを厳しく禁じておられます」と宣言し、拝むという礼拝目的で、被造物を画像化し、所有し、偶像としてそれに仕えることは、厳しく禁じています。偶像を造りそれらを拝むという偶像崇拝の背景には、人間の根源的な罪と堕落があります。人間は、神の御心よりも自分の欲求欲望を慕い求めるように、悪魔から誘惑され、その結果、神よりも自分を選び取り、ついには神に背き、神を喜び喜ばせることよりも、自分を喜び喜ばせる本性へと転落して、本来、人間は被造物ですから、神なしには絶対に生きれないのに、神なしに神を抜きにした所で生きようとして、いよいよ神を捨てて、自分の欲求を実現しようといたします。しかし人間の本質は、神ではないので、被造物なので、永遠性はなく有限でありますから、倒錯錯誤の矛盾を生きることになります。結果として、別な形で神を求めるようになります。それが偶像であります。偶像を造り上げて、それにひれ伏して仕えるようになります。そうして自分の欲求欲望の実現を図ろうとするのです。偶像はまさに人間の欲求の投影そのものであります。こうした人間の罪と堕落による魂の倒錯から、偶像崇拝は生じるのであります。
では、どうしすれば、唯一真の神を神として、正しく礼拝することができるのでしょうか。問答96は「神がご自身のみことばで命じた以外の方法で、神を拝んではならない」と命じたうえで、問答98で「もの言わぬ偶像によるのでなく、神ご自身のみことばによる命溢れる説教を通して、お教えになる」と告白されていました。神のみことばにおいて神は現臨し、その神のみことばにおいて私たちは神のご自身と出会い、神のご人格に触れるのであります。言い換えれば、「聖書」に基づく福音の説教を通して、神は語りかけてくださるのです。
「人格と言葉」との関係にはとても重要な意味があります。人間本性や人格をあらわす英語にpersonalityという言葉があります。personである人間はpersonalityによって成立する、ということでしょうか。人間が本来の人間であるための本質、それが「人格」です。私たち人間同士でも、本当に人間らしく心から出会い触れ合う所にこそ、その人の真実な姿が、外形からは見えなかった「人格」として、鮮明に現れます。その人格の根源で出会う所では、いつも、真実な言葉が求められます。人格としての根源的な出会いは、全身全霊を込めた「ことば」において出会い交わるのです。だからこそ「嘘をつく」ことは、人格を根源から傷つけ破壊へと導くので、悪魔的なのです。元来、人間の人格は「ことば」における真実と誠実において現れ、保たれ、生かされます。こうした意味から、人間の本質である「人格」は、実は「ことば」から生まれるのです。
宗教改革者ルターは、みことばにおいて、神は現臨しご自身を啓示し、そして力ある救いのみわざを行われる、という真理を聖書から発見しました。みことばの根源は、神のロゴス(ことば)であり、ロゴス・キリストです。ヨハネが福音書において「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。」と証言する通りであります。福音の説教は聖書の証言に基づき、聖書の証言は歴史に介入してご自身を啓示する神の啓示に基づき、そして神の啓示は、まさに「言は神であった」と証言される通り、神であり神の言(ロゴス)であるキリスト自身が、受肉を通して、神を世に啓示されたのであります。こうして唯一真の神は、キリストご自身の受肉とそのみことばにおいて、私たちの前に現存し、罪を償い、罪の赦し、ご自身の御身体である教会を通して、神のことばである福音の説教と聖礼典を通して私たちをキリストの身体の肢体(えだ)として、新しい復活の命へと導かれるのであります。このみことばにおいて、このみことばを通して、私たちは、唯一真の神を知り出会い、そしてその豊かで力強い神のご人格に触れて、神を礼拝するのであります。
本日は十戒の第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」について、問答の99~100から、その解き明かしを分かち合います。「主の名をみだりに唱える」とは、どういうことを意味するのでしょうか。問答99は「ただ呪いや偽りだけではなく、不必要な宣誓によっても、神の御名を冒涜し乱用してはならない」と示されています。こうした神の御名を汚す冒涜と御名の乱用に加え、そうした冒涜行為に対して、傍観し黙認することについても「黙認と傍観によって、この恐ろしい罪にかかわってはならない」と厳しく戒めています。つまり御名の乱用ばかりか、その傍観もまた同罪である、ということになります。イエスさまは弟子たちにマタイによる福音書で「5:33また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」と教えられました。「誓ってはならない」という言葉が徹底して繰り返されます。誓うのであれば、完全に誓いは果たさねばなりません。果たさなければ、それは「嘘」になります。嘘は人格を根源から傷つけ腐らせます。イエスさまの教えを注意して聞き直しますと、明らかに見えてきますのは、「神」と「人(被造物)」との本質的な違いを知る、というです。全知全能で万物の創造主であり神の前に立つとき、私たちはただ神のご恩寵にすがって存在する被造物に過ぎません。神の憐れみのある限りにおいて、初めて存在し生きるのです。その被造物がどんなに力強く誓おうとも、神のみ前では無力で、空しいものにすぎないのです。無に等しい者が誓いを果たすとは、いったいどういうことでしょうか。イエスさまは「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」と、私たち人間の本質を鋭く突きます。無力な者が誓いを立てる、それは明らかな矛盾であり偽りであります。どこまでも無限で正しい、誠実かつ純粋な神のみ前で、虚偽をもって立つことは、神の名を汚すことになります。
では、私たち人間にとって、虚偽とならない真実とは何でしょうか。それは単純明解です。それはまず自分の無力を心から認め、自分の罪と破れを心から悔いることです。そして神の全能を心からほめたたえ、神に憐れみを乞うことです。それ以外の、ほかに何があるでしょうか。問答99は「神の聖なる御名は、畏敬と恭順をもって(唱える)外に、用いてはならない」と教えます。その理由は、「神が、私たちの前で、正しく信仰告白され、呼び求められるために、また神が、あらゆる私たちの言葉と行いにおいて、ほめたたえられるため」である、と告白します。極論すれば、自分自身の罪の告白と、神に対する信仰告白と祈りと讃美においてのみ、つまり神を礼拝するためだけに、神の聖なる御名は用いられるべきであって、それ以外は用いてならない。そうでないと、冒涜となり乱用となる、という信仰意識です。神の聖なる御名を唱える基本条件は、ただ「神を礼拝する」というときにのみ、原則、限定される、ということになります。私たちのすべての生活行為は、あらゆる点で「神を礼拝する」という根本形態によって貫かれ、成り立っている。そうでなければ、それは冒涜となり乱用となる、というのであります。ハイデルベルク信仰問答は、私たちの生活や存在の全てを丸ごと、「礼拝」という概念を基軸にして、捕らえようとしているのです。神の聖なる御名については、否、神に対しては全て、「礼拝」として成立するのでなければ、その全てがそのまま冒涜となる、御名の乱用となる、というのです。神と被造物との本来の関係、或いはあり方とは、そういうものなのだ、と言うのです。何をするのでも、どんな存在でも、すべては、は、神を拝むという「礼拝」を基軸に成り立っていることに、改めて気づくべきです。つまり被造物全体は、「礼拝」という形でしか、その存在においてまたその在り方において、成り立つことはできないのです。
「礼拝」という用語を聖書神学してみますと、主に聖書には三つの「礼拝」という言葉があるようです。この三つの「礼拝」は、一つは信仰告白に基づく教理、二つ目は礼拝の務めに仕える礼拝典礼、そして最後に、日常生活での言葉と行いの基本となる礼拝生活という三つの視点から「礼拝」を捕らえています。一つは、聖書では「レカピチュラチオー」という字で、新共同訳聖書では「ひれ伏す」と訳されます。正しい神認識をもって、相応しい信仰理解に基づいて、正しく神を唯一真の神とする、信仰告白やみことばに即して神を礼拝する、という意味です。どちらかといえば、教理的側面から「神を正しく礼拝する」ことを意味します。マタイによる福音書28章に「28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」という、驚くべき記述があります。「疑う」(躊躇する)とは、どういうことでしょうか。ユダを除き11人の弟子たちは、既に40日に渡り復活の主と寝食を共にしていました。どうも「主の復活」を訝る疑いではないようです。わたしは、問題は「ひれ伏した」にあるように、推測しています。と申しますのは、イエスさまを、教理的に「唯一真の神」として礼拝すること、復活の「イエス」を唯一真の神の礼拝が適用されたからではないでしょうか。つまり「唯一真の神」を、父と子と聖霊の三位一体の神として礼拝する、という躊躇であり疑義でははなかったか、と推測することが可能ではないでしょうか。ひっとしたら原始教会の中にも、特にユダヤ人キリスト者の中でさえも、ユダヤ教の教理のもとで、主イエスの復活を認めることはできても、主イエスが唯一真の神として礼拝する、という点には、また複雑な躊躇があったのかも知れません。だからこそ、主イエスは、マタイによる福音書において、その最後の言葉として「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と宣言されたのではないでしょうか。パウロもまた、コリントの信徒への手紙一14章で、礼拝の中で、異言と預言(説教)の役割を区別して、「14:23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。14:24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、14:25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」と述べています。いわば、教理的に語られる福音の説教において、神が現臨することに気付くことの大切さについて、また教理によって導かれる信仰認識や信仰の告白に基づいて真の礼拝は実現する、ということを教えているように思われます。
二つ目の「神を礼拝する」という言葉は「レイトゥールゲオー」という字で一般的には「奉仕する、仕える」と訳されます。英語のliturgyです。神殿において礼拝典礼での定められた言葉や祈り、あるいは祈祷書によって神に仕える奉仕を意味するようです。いわば、典礼的側面から正しく神を礼拝する、という意味です。ヘブライ人への手紙で「10:11 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち(口語訳:すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、新改訳:すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし)、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。」とありますように、礼拝儀式で定められた司祭が正しく規定の務めに仕えて礼拝する、という意味になります。
三つ目の「神を礼拝する」は「ラトリュウオー」という字で、これも「礼拝に仕える」と訳されるようです。ヘブライ人への手紙やローマの信徒への手紙に用いられています。どちらかといえば、へブル書では、礼拝儀式の意味から使用されますが、ローマ書ではパウロは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と述べ、キリスト者としての生活や倫理について、そのあるべき生活を言い表してように思われます。キリストの救いの恵みにより新生し、新たに造り変えられるキリスト者としての生活です。つまり、どちらかといえば、神を正しく礼拝するという礼拝神学から、キリスト者の生活倫理へと発展させ敷衍しているようにも思われます。つまり存在や生活そのものが、実は礼拝後そのものなのだ、ということになるのではないかと思います。
このように、聖書において、「神を礼拝する」ということは、教理神学に基づく信仰告白、礼拝神学に基づく典礼、そして生活倫理への展開という三つの視点から、記述されているように思われます。唯一真の神を正しく神とする信仰告白による礼拝であり、また礼拝儀式に基づいて正しく礼拝の務めを果たすのであり、そしてキリスト者としての全生活を尽くして、神に誠実を尽くして、正しい神礼拝となるような生活を生きる、そのような意味で、神を仰ぎ、神に仕え、神を礼拝する、ということになります。ハイデルベルク信仰問答は、神の御名を呼ぶ礼拝について、確かにこうした聖書の証言に基づいて忠実に告白しています。「神が、私たちの前で、正しく信仰告白され、呼び求められるために、また神が、あらゆる私たちの言葉と行いにおいて、ほめたたえられるために」と礼拝の本質を明記したうえで、「神の聖なる御名は、畏敬と恭順をもって(唱える)外に、用いてはならない」と戒めます。しかも問答100は「神の御名を冒涜することより重く、なお激しく神がお怒りになる罪は、ほかにない」と、神の御名をみだりに唱えることの重罪を確認したうえで、答えでも「それゆえ、神は、この罪に対しては死をもって重く罰せよ、と命じられました。」と厳しく、主の名をみだりに唱えることを戒めます。御名をみだりに唱えることの戒めのき厳しさは、「沈黙と傍観をもって」しかも「自ら進んで(冒涜を)防ぎ禁じる働きをしない人々も、同じように、神はお怒りになる」と言い切って、傍観者も同罪としています。厳しすぎると感じるほど、厳格に「神の御名を唱える」こと、すなわち「礼拝」の在り方が、改めて根源から、問われています。もう一度、私どもひとりひとりの祈りの在り方、礼拝の在り方について反省が求められています。