2020年12月27日「新しい安息日に召し集められる」 磯部理一郎 牧師

2020.12.27 小金井西ノ台教会 降誕第1主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答103~104

十戒について(4)

 

 

問103 (司式者)

「第四戒(『安息日(あんそくび)を心に留め、これを聖別せよ。』)において、

神は何を望まれるのか。」

答え  (会衆)

「第一に、神が求めることは、説教の務めと学校での教えとが守られることです。

特に休日には、わたしが、熱心に神の教会に通い、神のみことばを学び、聖礼典にあずかり、

神に憐れみを公に祈り求め、キリストの教えに基づいて施しをすることです。

次に、神が求めることは、わたしが、全生涯を通していつの日も悪しき働きを捨て、

神が聖霊を通してわたしのうちにお働きくださるよう身を委ね、

この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始めることです。」

 

 

問104 (司式者)

「第五戒(『あなたの父母(ちちはは)を敬え。』)において、神は何を望まれるのか。」

答え  (会衆)

「わたしの父と母に対して、またわたしの上に立つすべての人々に対して、

わたしは、あらゆる敬意と愛と誠実を示し、

善き教えとその報いのすべてに、相応しい従順をもって自ら従い、

彼らの欠陥さえも、耐え忍ぶべきです。

なぜなら、私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれるからです。」

 

2020.12.27 小金井西ノ台教会 降誕後第1主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教47(問答103)

説教「新しい安息日に召し集められる」

聖書 出エジプト記20章8~11節

ヨハネによる福音書5章1~18節

 

先週は、皆さんと共に、主イエス・キリストのご降誕をお迎えし、クリスマスを祝うことができ、感謝と喜びでいっぱいです。教会が、本来の意味で「クリスマス」(Christ+mass, キリストのミサ聖祭)を迎えられる、ということは、とても意味深いことです。主イエス・キリストは、「神の独り子」であり、真の神が「真の人」として、聖霊により処女マリアからお生まれになった、それが主のご降誕であり、人間の罪をその本性の根源から十字架の犠牲において償い、復活という新しい永遠の命によって新生させて救う「イエス」という名が与えられたのであります。そしてまさに主イエスは、「キリスト」(油塗られた者)として、預言者にして教師、大祭司、王として、私たちを教え導き(教師)、罪と死から救い(大祭司)、統べ治められる(王)のです。このように御子は、ニケア信条(325年、381年)が宣言したように「父なる神と同一本質の神」であり、そしてカルケドン信条(451年)が規定するように「真の神であると同時にまた真の人」であります。この真理を教会が一致して「アーメン」(確かに真実です、まさにその通りです)と唱えるとき、初めて世界の教会は、正しい意味で、主のご降誕を迎え、クリスマスを祝うことができるのであります。マタイによる福音書に「28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」と記されますように、復活を共にした弟子たちさえも、主イエスを、主なる神として礼拝する(プロスクネオー)を躊躇し、神として拝む疑義を覚えていたのではないか、と推察される中で、教会は数百年も間、真のクリスマスを祝えずに、暗闇の中を彷徨う歴史を余儀なくされたのです。

古い神学用語に、‘lex orandi, lex credenda’(Prosper de Aquitania; Indiculus de gratia Dei)という言葉があります。「恩寵の先行」という神学の原理から、礼拝と教理との関係を規定した用語です。そして祈りの形である礼拝そのものを通して与えられる神の恩寵は、本来、信仰の形である教理に先行することを言い表しています。しかし残念なことに、人間の側からの応答は鈍く遅れ、神の真理を捕らえることに、いつも限界を余儀なくされるのです。「ヨハネ1:5 光は暗闇の中で輝いている。(しかし)暗闇は光を理解しなかった。」のです。カルヴァンの言うように、有限は無限を包むことはできないのです。神の恩寵神の啓示と恩寵を象徴する明星が、人類の知恵を象徴する三博士を導いたように(マタイ2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」)、神は、常に終始一貫して人知を超え、インマヌエルの神として民と共に現存し、救いのみわざを行われ、啓示の出来事を通して、またみことばを通して、真理の光を照らし、人類を導かれてきました。しかし、そうした神の啓示による恵みを人類が正しく知るには多くの時間と努力が必要でした。神の救いのみわざは、常に先行して働き、またそれが完全であっても、信仰を通してその恵みを認識するに至るまでには、やはり人類には限界があり、論争や対立も生じ、忍耐と努力が求められたのです。しかしこれは教会だけではなく、私たちひとりひとりの信仰生活においても同じことであります。神の恵みは、あなたに対して本当は完全であり十分なのですが、それを相応しく知り理解するまでには多くの歳月がかかるのです。まさにミュステリオンの中に、隠された完全な神の救いの秘儀を、信仰を通して探り求め、学ぶことが、教会の歴史において今もなお求められているのです。ハイデルベルク信仰問答は、こうした伝統という学びの遺産の上にたって、教会を改革し正しく立てようとした、と言えます。

 

本日からハイデルベルク信仰問答講解は、神の掟である「十戒」に戻ります。待降節に入る前は「十戒」のうち「第三戒」までを学びましたが、今日はその第四の戒め「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」についての教えとなります。問答103によれば、「第四戒(『安息日(あんそくび)を心に留め、これを聖別せよ。』)において、

神は何を望まれるのか。」と問い、「第一に、神が求めることは、説教の務めと学校での教えとが守られることです。特に休日には、わたしが、熱心に神の教会に通い、神のみことばを学び、聖礼典にあずかり、神に憐れみを公に祈り求め、キリストの教えに基づいて施しをすることです。次に、神が求めることは、わたしが、全生涯を通していつの日も悪しき働きを捨て、神が聖霊を通してわたしのうちにお働きくださるよう身を委ね、この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始めることです。」と答え、安息日の信仰を告白しています。

神の戒めには、たとえどんな律法であろうと、必ず「神の御心」が表されています。神が、私たち人類に心から望み、求めておられる神さまの思いが示されています。ですから、問答はその問いで、「神は何を望まれるのか」と問うのです。第一戒では「神は何を求めるのか」(fordern)、第二戒では「神は何を望まれるのか」(wollen)、第三戒では「何を意図するのか」(wollen)と問答は問うて、神の要求、神の要望、神の意図を、其々の戒めの中に見出そうとしています。そして本日の第四戒も「神は何を望まれるのか」と問い、神がお望みなることに心を向け直すのであります。したがって答えにおいても、「第一に神が求めることは」或いは「次に神が求めることは」というように答えて、信仰を言い表そうとしています。このように、神が人類に戒めを与えることで、まずとても重要なことは、私たち人間の心を神に向ける、神の御心に向ける、ということにあります。私たちからすれば、何よりもまず「神の御心」を尋ね求めるのであります。信仰生活の第一歩は、自分の欲求ではなく、神さまの御心を謙遜に尋ね求めることができるようになることであります。

次いで、意味深いことは、第一戒で「神は何を求めるのか」という問いで用いられている字は、fordernという字ですが、「要求する、請求する」という意味のほかに、実は「厳しく訓練する」という意味があります。つまり、神は律法を通して私たちにいろいろな在り方を求めますが、実はそれによって、私たちを厳しく訓練しようとしておられるのであります。最近は、教会生活の中で、「訓練」という言葉は聞かれなくなりましたが、恩師の竹森満佐一先生は、始終「訓練」ということを言われ、教会生活の重要な要素としておられました。まさに「みことばによる訓練」であります。ヘブライ人への手紙は、信仰による希望と確信を告げた後に、12章で主による鍛錬について語っています。「12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。』12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。12:8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。12:9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」と語り、教会の人々を諭しています。厳しい神の訓練の中に溢れ出る、神の父としての決定的な愛を説いています。しかもその厳しい鍛錬の目的は、神の本質である新聖にあずからせるためである、つまり神の子として、神の家族とするためである、と告げるのです。「『主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。』12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。」このみことばは、私たちの心を、愛と誇りと励ましで、奮い立たせてくれます。つまり、十戒には、神の御心や意図が表されており、律法における神の御心とは、つまるところ、父が子を愛する愛によるのであります。ですから、戒めと向き合うとき、その中心で常に心を向けて問題にすべきことは、神の愛による、神の子としての鍛錬である、という点に尽きるのではないでしょうか。ですkら、いつも私たちは、戒めの中で、戒めを通して、神の父としての愛に出会うのであります。このことは、信仰生活において、決定的な意味を持ちます。

 

さて問答103の答えでは、神は第四の戒めを通して私たちに二つのことを望んでおられることが明らかになります。まず「第一に、神が求めることは、説教の務めと学校での教えとが守られることです。特に休日には、わたしが、熱心に神の教会に通い、神のみことばを学び、聖礼典にあずかり、神に憐れみを公に祈り求め、キリストの教えに基づいて施しをすることです。」と答えます。ドイツでは、Landeskircheと言って、英国国教会のように、国や地域の領主の選択により、ローマ・カトリック教会を取るか、福音主義のプロテスタント教会を選ぶかが、決められています。領主がルター派を選べば、その地域はルター派教会となります。ですから、教会での説教も礼拝も全てがプロテスタントの信仰により導かれます。同じように、学校教育の現場でも聖書のみことばが教えられます。神学部は今でもドイツでは日本で言う国立大学です。そうした所謂キリスト教国としての環境下にあることを前提とする表現です。大事な点は「特に休日には」と明記されていますように、日曜日の礼拝を守ることが規定されています。「わたしが、熱心に神の教会に通い、神のみことばを学び、聖礼典にあずかり、神に憐れみを公に祈り求め、キリストの教えに基づいて施しをする」と告白しています。非常に具体的ですので、説明は不要かと存じます。熱心に教会に通い、説教と聖礼典に与り、公に神と会衆との前で祈り、献金をささげることです。

そして第四戒を通して、神が私たちに望まれることは、「次に、神が求めることは、わたしが、全生涯を通していつの日も悪しき働きを捨て神が聖霊を通してわたしのうちにお働きくださるよう身を委ね、この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始めることです。」と答えています。悪い働きを捨てる、聖霊を通して神が自分のうちに働くように、自分を神に委ねることが求められます。単刀直入に言えば、生まれ変わり造り変えられた感謝と喜びであり、その応答として、日々常に神への「献身」を覚える、という生活であります。「永遠の安息日」を生きる生活と言ってよいでありましょう。本日の説教題は「新しい安息日に召し集められる」といたしました。それは、問答103に「この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始める」と告白されており、新しい信仰生活が言い表わされているからです。元々「安息日」とは、出エジプト記によれば「20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された」、また申命記によれば「5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならないそのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられた」と、安息日の目的を記しています。万物創造の完成と神の民であるイスラエルの救いを覚えるために、ということになります。

安息日すなわち完成を覚え聖別する「安息日」に、なぜ、わざわざ「永遠の」という言葉が付け加えられるのでしょうか。安息日は、すなわち神の創造は完全で永遠のものではなかったのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答が「永遠の安息日」を言い表した背景には、人間の罪と堕落があります。神の創造は完全であり完成したのです。その完全さの中に、神はご自身の人格に似せて人間を造り、霊を吹き入れ、理性を持つ魂と肉体を与えました。神は人間をご自身のように愛し、ご自身のように霊と命の尊厳を尊重して、人間の全ての自由を与えたのです。これ以上の愛の表し方はほかにはないのではないでしょうか。ところが、あろうことか、人間は、その神の愛の象徴とも言える自由において、神に背き、一心一体の関係を破壊し、自ら罪に堕落して、死と滅びの定めに彷徨うことになりました。狡猾な蛇は、人間の自由な自我欲求を利用して神から離反するよう唆したのです。唆した蛇も悪いのですが、誘惑に負けて神に背いた人間はもっと悪く悲惨であります。神の創造は完成しつつも、その完成がゆえに、人格的自由を愛によって与えたゆえに、神の創造とその豊かな秩序は、人間の罪と堕落により、傷つき病んで、滅びへと向かって破綻し始めたのです。安息日は、汚され、傷つき、破壊されてしまったのです。創造のわざも、エジプト脱出のわざも、すべてが神の愛と恵みによるものであり、その意味では、完全であり永遠であります。しかしそれを受ける人間は、永遠の神の創造と救済を、常に罪によって汚し傷つけて、永遠のものとすることができなかったのです。やはり、人間には、御子のご降誕と受肉による、御子の十字架と復活による、新しい創造の完成と解放が必要だったのです。そしてついに御子イエス・キリストは十字架により、人間をはじめ万物を贖い、復活という新しい永遠の命と義の秩序のもとに、回復したのであります。そのキリストによる完全な創造完成と回復を前提にして、キリストの恵みのうちに導かれているゆえに、単に古い安息日に逆戻りするのではなくて、新しい「永遠の安息日を始める」と告白したのではないでしょうか。罪の赦しと創造の完成の約束の中にある、新しい安息日であります。罪に対する神の怒りや神の裁きによる滅びを予定された安息日ではないのです。安息日に病人を癒された主イエスは、こう仰せになりました。「5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。5:22 また、父はだれをも裁かず裁きは一切子に任せておられる。5:23 すべての人が父を敬うように子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく死から命へと移っている。」と。つまり、今私たちが迎えている新しい安息日とは、裁きではなく、御子によって復活の命を与えられる恵みと喜びの日であります。「裁かれることなく、死から命へと移っている」と主イエスご自身が宣言された通り、死を超えて命に移る安息日であります。主日の礼拝は、本日最後です。次回は、新年を迎えての礼拝となります。まさに死と終わりを超えて、新しい永遠の命に移る安息日を私たちは共に守っているのであります。