2021年1月3日「父母を敬え」 磯部理一郎 牧師

2021.1.3 小金井西ノ台教会 降誕第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答103~104

十戒について(4)

 

 

問103 (司式者)

「第四戒(『安息日(あんそくび)を心に留め、これを聖別せよ。』)において、

神は何を望まれるのか。」

答え  (会衆)

「第一に、神が求めることは、説教の務めと学校での教えとが守られることです。

特に休日には、わたしが、熱心に神の教会に通い、神のみことばを学び、聖礼典にあずかり、

神に憐れみを公に祈り求め、キリストの教えに基づいて施しをすることです。

次に、神が求めることは、わたしが、全生涯を通していつの日も悪しき働きを捨て、

神が聖霊を通してわたしのうちにお働きくださるよう身を委ね、

この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始めることです。」

 

 

問104 (司式者)

「第五戒(『あなたの父母(ちちはは)を敬え。』)において、神は何を望まれるのか。」

答え  (会衆)

「わたしの父と母に対して、またわたしの上に立つすべての人々に対して、

わたしは、あらゆる敬意と愛と誠実を示し、

善き教えとその報いのすべてに、相応しい従順をもって自ら従い、

彼らの欠陥さえも、耐え忍ぶべきです。

なぜなら、私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれるからです。」

 

2021. 1.3 小金井西ノ台教会 降誕後第2主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教48(問答104)

説教 「父母を敬え」

聖書 出エジプト記20章12節

マルコによる福音書12章28~34節

 

本日の説教の主題は、十戒の第五戒です。ハイデルベルク信仰問答の104にあたります。問答104は「第五戒『あなたの父母(ちちはは)を敬え。』)において、神は何を望まれるのか。」と問い、「わたしの父と母に対して、またわたしの上に立つすべての人々に対して、わたしは、あらゆる敬意と愛と誠実を示し、善き教えとその報いのすべてに、相応しい従順をもって自ら従い、彼らの欠陥さえも、耐え忍ぶべきです。なぜなら、私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれるからです。」と告白して、神の福音に感謝し、またその応答の覚悟を言い表しています。

前回も申しましたように、問答は、人間がこうして欲しいと求める人間の側の欲求からではなくて、神が望まれる神の御心に心を向けています。少し踏み込んで言えば、神の御心に心を向けるがゆえに、そこでこそ、初めて見えて来る「新しい福音の世界」です。その神の福音の恵みゆえに、新たに与えられる世界であり、福音の光のもとに、新しく照らし出される人間の在り方でもあります。すなわち、罪による死と滅びから解放され、償われ、回復されてゆく新しい人間世界を先取りする信仰による希望の中で、新たに輝き始める人間世界を見ています。古い律法による「できないのか」という裁きの世界ではなくて、十字架と復活のもとに新しく生まれ変わった愛と赦しの新しい「希望とよろこびの世界」であります。神さまの御心に心を向けて注視すればするほど、すなわち御子イエス・キリストの十字架と復活による救いに、心を向ければ向けるほど、新しく生まれ変わり新しく生きる喜びと力が溢れるのです。わたしたちは、2021年という新しい年を迎えましたが、まさにそれはAnno Domini(主の時代) 2021でありまして、主イエス・キリストの十字架と復活のもとで、新たに生まれて生かされる2021年であります。そしてこの「新しさ」とは、「神の新しい命の創造」による新しさであり、万物が神の御前で全く新たな希望と命に導かれ、新しい歴史を生きる喜びの新しさであります。新年を祝うということは、そういうキリストにおける新しさを喜び祝うことに外なりません。

このように、神さまに心を集中させ、神の福音を凝視する中で、福音という新しい世界の誕生が視野に入ってきます。罪がキリストの血によって完全に償われて、神の御前で完全に清められた人間本性が、新たに鼓動し始め、その新しい息吹を感じとることができます。そうした神の祝福に包まれて、福音により新しくされた父や母、また多くの隣人たちの存在が視野に入ります。福音の中でこそ、新たに出会う父母であり、兄弟であり、新しい家族の姿がそこには見えてきます。神の愛の前で新たに結ばれてゆく人間関係の在り方です。ハイデルベルク信仰問答104では、父母を敬えという第五戒において、父母も兄弟も隣人も、同等同質に扱われます。なぜなら、「福音」という光のもとで、人類は皆同じ一つの兄弟となるからです。

 

先週学びました問答103では、つまり第四の戒めでは、安息日において私たちは主なる神と直結します。どちらかと言えば、問答103は、神とわたしとの一対一の直結した関係の中で、求められる安息日の生活であります。余人を交えず全てを捨てて、常に即「神とわたし」という一対一の直接関係に集中します。安息日では、神さまとわたしとの関係とその信仰の純度が、深くそして鋭く、徹底して問われます。

しかし問答104では、神とわたしとの間に、父や母という家族や肉親が、そして隣人たちがその姿を現します。神との関係の間に割って入ってきます。またさまざまな社会的関係の人々が、神とわたしの信仰の間に割り込んで来るのです。神と自分との関係、その純粋な信仰の中に、他人というもう一つの異質な現実が割り込んで来るのです。実を言えば、実際の私たちの信仰生活の実態は、意味深長で、人と人との関係の質の方が強くそして濃くて、利害が直接的に影響します。したがって、どちらかと言えば、私たちはいつも人の顔を恐れて、行動決定しています。それは常に他人によって自分の損得や幸不幸が大きく影響されるからであります。その結果、神さまの御心を問うことは、ずっとあとの方に押しやられる場合が多いのではないかと思います。つまり、自分、人、そして忘れたころに神、となるのが実態であります。

 

さて、問答104の最初の表現で、「わたしの父と母に対して、またわたしの上に立つ人々に対して、わたしは、あらゆる敬意と愛と誠実を示すべきである」とあります。父と母は、そのまま、ご理解いただけると存じます。血肉を受けた父母であり、成長のために保護し守り育てる養いの父母です。ただ、その次の「わたしの上に立つ人々」という表現については、少し説明すべき点があります。「わたしの上に立つ人々」と訳しましたのは、「上司、上役、上官」を意味する字(Vorgesetzte)が使われているためのです。ただ、ここで誤解しがちなのは、社会的身分を表す上下関係の従属を求めているわけではない、ということです。「わたしの上に立つ人々」とは、元々の用語の語源からすれば「前に置く、前に差し出されている」vorsetzenという意味です。ですから、私見ですが、「(神さまが自分のために)自分の前に差し出してくださった方々」と解釈すべき所ではないかと考えます。確かに社会的に上に立つ人々であるが、しかしそれは、神が御心において自分のために、自分の前に差し出してくださった人々である、ということになります。上にも下にも右にも左にも、神さまが自分のために自分の前に差し出された方々であります。だからこそ、どんな人々であろうと、問答ではsollenという強い字を用いて「彼らの欠陥さえも、耐え忍ぶべきです(耐え忍ばねばなりません)」と規定されています。しかも、それに加えて、常に「あらゆる敬意と愛と誠実を示し、善き教えとその報いのすべてに、相応しい従順をもって自ら従う」と告白して強い覚悟を表白しています。言い換えれば、自分の前に差し出された人々のただ中に、神さまの現存とその御心を見ているのではないでしょうか。人間は皆凸凹で、完全な人は一人もいません。凸凹な人間同士が、神の愛と恵みに支えられて、互いに凸と凹を生かし合いながら、助け合うことで、豊かな神の共同体が生まれるのです。自分の凹を隣の方の凸が補ってくれる、自分の自分の凹で隣の方の凸を補い、共に喜び合うのです。なぜなら、そのように、互いの助け合いを通して、「私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれるから」であります。キリストの十字架の血によって贖われ、清められ、共に完成を目指す兄弟であり姉妹なのです。

 

ハイデルベルク信仰問答の104は、第五戒「父母を敬え」を「隣人を愛せ」という隣人愛の戒めとして、扱っていますので、改めて、聖書における隣人愛について、みことばを聴き直しておきたいと存じます。主イエスは、律法学者との論争で、隣人愛について、こう教えられました。マルコ福音書12章28節以下によれば「12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちでどれが第一でしょうか。」12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」(マルコ12:28~34)。

ここで主イエスは、第一の掟を「神を愛する」こと、第二の掟を「隣人を愛する」ことと規定します。しかも隣人愛の掟について、「どんな献げ物やいけにえよりも優れている」と答えた律法学者を高く評価し、「あなたは神の国から遠くない」(マルコ12:34)と言って祝福します。聴き方によっては、神への犠牲祭儀よりも、隣人愛の実践の方が優先される、と解釈可能です。

ここで問題となる第二の掟、すなわち隣人愛とは、どのようなことでしょうか。自我欲求と自己中心のために、蛇に唆され神に背き、そして罪に堕落した人間に、果たしてそれはどこまで可能なのか、大きな疑問が残ります。マルコ福音書の10章に、ある資産家の青年が登場します。「10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。10:21 イエスは彼を見つめ慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ったたくさんの財産を持っていたからである。」という話です。まずここで意味深い点は、「父母を敬え」の第五戒は、隣人の項目の後に挙げられています。つまり読み方によれば、隣人愛、平たく言えば、人を愛する範疇として「父母を敬え」は位置づけられているようです。したがって、ハイデルベルク信仰問答104もまた、第五戒の「父母を敬え」を隣人愛の項目として扱ったと考えられます。その上で、隣人愛の規定として、たくさんの資産を持っていたのに、施すことができるはずなのに、彼はその資産からほんの僅かでも分け与えることができず、ましてや主イエスに従うことはできなかった、というわけです。隣人愛規定に破綻した瞬間を描いています。このエピソードは、後にマルコ福音書10章23節以下で、次のように総括されます。「10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのはなんと難しいことか。10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」10:26 弟子たちはますます驚いて、「それではだれが救われるのだろうか」と互いに言った」。ここで言う「施し」とは「隣人を愛する」律法行為そのものを意味します。資産やお金があるから、施しができない。或いは、資産やお金をどれほど所有していても、施すことはできない。反対に、譬え資産やお金を持ちえない貧しい人であったとしても、施しはしない。従って神の国に入るのは難しい、ということになります。福祉国家と呼ばれる国家の行政の中核は、国家権力によって国民から強制的に税を徴収して、富を再分配を計ることにあります。こうした徴税により再分解を謀り、隣人愛の「施し」を実現しようとする政治選択ですが、それほど、貧しい人に施すことは、言い換えれば、実際に隣人愛の実践は難しい現実である、ということをよく示しています。この地球上の富は、僅か7%の人が独占している、とさえ言われるほどです。神の命令として隣人愛を尊重する精神はよく分かりますが、いざそれを実際に実行するとなると、途端に絶望という大きな壁に突き当たってしまいます。神を愛することも、隣人を愛することも、私たちは、本当の意味で、やはり、できないのです。極論すれば、他人を愛してその愛によって他人を救うほど、そんな愛も力も、私たちにはない、ということになるのでしょうか。

 

ところが、驚くべきことに、ヨハネは全く新しい視点から、すなわち「福音から律法へ」という信仰による希望から、改めて「隣人愛」を説き直しています。「4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。4:21 神を愛する人は兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(Ⅰヨハネ4:20~21)と語ります。ご注目いただきたい点は、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(4:20)と言い切っています。つまり、神への愛は隣人愛によって決定づけられる、と断言しています。つまり第一の掟の可否は、第二の掟によって判断される、とするとても意味深い教えです。本来ならば、神を愛する秩序と、人を愛する秩序は異なる別の秩序のはずです。しかも普通は、「神」を愛する秩序の方が「人」を愛する秩序に優先する、と考えるはずです。しかしヨハネは、その異なるはずの神との関係と人との関係を並列的に並べて論ぜず、相互に内的に結合した連続一体の関係秩序において捉えています。目に見える兄弟の中に、目に見えない神を見て、愛する、と言っています。目に見える人間の中に、目に見えない神を見る。目に見える兄弟の中に、目に見えない神の愛の実現を見ている、と言ってもよいでありましょう。言い換えれば、目に見えない神の愛とは、目に見える兄弟の中にこそ実現しているからだ、と言うのであります。4章16節以下では「4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちもイエスのようであるからです。(中略)5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。」と論じます。

イエス・キリストにおいて、神に対する愛も隣人に対する愛も共に一つに直結していて、その一体性において、真の愛は実現しているのです。神への愛と人への愛という二元的愛は、キリストにおいて、「神・人」一元の愛の秩序として、一体の愛として統合されています。つまり、目に見えない神を愛する愛は、直ちに、目に見える隣人を愛する愛であり、目に見える隣人を愛する愛は、即、目に見えない神を愛する愛に外なりません。なぜなら、仲保者であるキリストにおいては、神への愛は人への愛となり、人への愛は神への愛となり、それがまさに神の永遠の愛であるからであります。「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とする、ヨハネ福音書による「神の愛」において、この「神の愛」に立つとき、神への愛は人への愛となり、人への愛は神への愛となるのです。こうした神へと向かう愛と人へと向かう愛は相互に流動し合い、一つのキリストにおける愛として、統合される愛であります。まさに「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とする父なる神の愛であり、それに答える御子の愛ですが、それはキリストの受肉となり、御子イエス・キリストの十字架と復活となって展開します。このキリストの受肉において、神への愛と人への愛という二つの掟は、完全に一元化され、相互に流動し合い、そして一体の命のとして実現しています。それがまさに「神の愛」の姿であります。

ヨハネは第一の手紙4章2節以下で「4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」と語って、キリストの受肉において、神のご計画の全てが実現したことを確認した上で、次のように解き明かします。「4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ神を知っているからです。4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」つまり一言で言えば、キリストの受肉による贖罪で、私たちの罪は償われ、新しい命と愛の人間性のもとに生まれた、ということではないでしょうか。キリストの身体として生まれ変わらせていただいた。だから隣人のために命を尽くすことに、大きな感謝と喜びを知ることができるようになったのです。それが神の愛であり、そこにキリストがおられ、そこにこそ神の国が実現するからであります。改めてヨハネによるみことばを読み直しますと、「4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。4:18 愛には恐れがない完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」そうです。隣人ひとりひとりが、キリストの完全な贖罪の命と愛と恵みを背負っているのです。生きた目に見えるキリストを着、キリストを背負っているのです。それが私たちの隣人なのです。