2021年3月14日「神を<われらの父>と呼ぶ祈り」 磯部理一郎 牧師

2021.3.14 小金井西ノ台教会 受難節第4主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答120~121

主の祈り(2)

 

 

問120 (司式者)

「なぜ、キリストは『我らの父よ』と、このように神を呼び求めるよう、私たちに命じられたか。」

答え  (会衆)

「(それによって)キリストは、私たちの祈りの始めにおいて、直ちに私たちのうちに、

私たちの祈りの基礎となるべき、神に対する幼子のような畏れと信頼を呼び起こすためです。

つまり神は、キリストを通して、私たちの父となられたのです。

私たちの父親でさえ、地上のものを惜しまず与えるように、

それを遥かに勝って、信仰において神に願い求めるものは何であれ、

神は、決して拒もうとはしないのです。

 

 

問121 (司式者)

「なぜ、『天にまします』と、付け加えられるのか。」

答え   (会衆)

「私たちが、神の天上の尊厳を、この地上のものとして、決して考えることがないように、

そして神の全能の御力に、肉体と魂に必要なものはすべて、依り頼むようになるためです。」

 

2021.3.14 小金井西ノ台教会 受難節第4主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答120~121「主の祈り」

ハイデルベルク信仰問答講解説教58

説教 「神を<われらの父>と呼ぶ祈り」

聖書 ルカによる福音書11章1~13節

使徒言行録17章22~31節

 

本日より、ハイデルベルク信仰問答の講解は、「主の祈り」の各項目についての解き明かしとなります。そこで、まず「主の祈り」全体の構成について、その概略をお話いたします。いつも共に唱える「主の祈り」の全文は週報4頁に掲載されている通りです。ただ、カトリック教会の「主祷文」は、所謂「主の祈り」は、わたくしたちプロテスタントの主の祈りとは、少々異なる所があります。カトリック教会の「主の祈り」では、最終項目にあたる「国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり」という項目はありません。それは、それが、聖書聖典に記述されていないからです。奇妙で皮肉な思いをお持ちになる方もおいでかと思いますが、「聖書の原理」を宗教改革の第一原理に掲げているプロテスタント教会で、聖書に記述されていない祈りを教会の中心で使用いるというのは、聖書原理に反する選択をプロテスタント教会はしてるのではないか。その一方で、聖書よりも教会伝統を重んずるカトリック教会の方が、聖書の証言に忠実に祈る、という結果になっているように見えるからです。一見すると、皮肉にも両者の基本原理が逆転したかのように見えます。そこで、今日はまず「主の祈り」の構成について、特にその中にある祈りの項目の違いについて、聖書証言に基づいて、確認することから始めたいと思います。

 

聖書テキストから参考プリントを皆さんのお手元に用意していますので、ご参照いただきながら、「主の祈り」の構成について話をいたします。参考プリントでは、()付きの番号でお示ししたように、「主の祈り」は全部で6項目の祈りから構成されています。ただ、先ほど申しましたように、第七の項目すなわち最終項目の祈りは、マタイによる福音書にもまたルカによる福音書にも、どちらの聖書テキストにも存在しない項目となります。主イエスが弟子たちに教えた「主の祈り」は、聖書の証言に忠実に従えば、6つの項目から構成された祈りであった、と考えられます。さらに厳密に言えば、マタイによる福音書では6項目ですが、ルカによる福音書では5項目であった、ということも、あわせて確認することができます。加えて、宗教改革者のルターは、マタイによる福音書の伝える6つ目の項目について、「わたしたちを誘惑に遭わせず」という前半の項目と、後半の「悪い者から救ってください」という項目とを、さらに二つに分けて、七項目と数えますが、これに対して、改革派教会のカール・バルトは、この両者を分けずに、一つの項目として扱っています。したがってルター派では7項目構成、改革派では6項目構成として扱っています。いずれにしても、聖書証言から言えば、マタイもルカも、最終項目の「国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり」という祈りはないのです。

 

この事実を受けて、では、どうしてまたいつから、最終項目は付け加えられたのか、という疑問が起こります。実は、聖書の古い写本にはなかったのに、すこし遅れて後になって造られたと考えられる写本には、最終項目が登場し始めます。したがって、聖書が成立した直後に、そのごく早い段階で既に付け加えられていたことは、明らかなようです。初期の教会が「主の祈り」を「教会の祈り」として纏め直す過程で「最後の結び」の言葉として、最終項目は付け加えられるようになった、と考えられています。ちょうど日本では西郷さんの西南戦争が起こる明治維新の終盤に当たる頃、1875年に『ディダケー』(12使徒の教訓)と呼ばれる使徒教父文書が、ギリシャ語の完全写本として、発見されました。原始教会の実態を継承する重要な記録文書です。それまでは断片的に保存され伝えられていましたが、完全な全文の形で発見された、聖書と初期の教会の歴史を繋ぐ重要資料です。16章から成り、1~6章は「命と死」、7~15章は「洗礼、断食、祈り、聖餐についての教会的諸規定」、そして16章は「終末の希望と警告」について書かれています。未受洗者の陪餐禁止事項もここには既に明記されており、聖餐の原型もうかがい知ることができます。そして「主の祈り」も記録されており、毎日3回は祈るように、と規定されています。

歴史を辿りますと、主イエスは30年頃十字架刑を受け葬られ、三日目に復活し、40日後には天に昇られました。その十数年後に当たる40年代に入ると、教会ではパウロ書簡が書かれ、65年前後にはマルコによる福音書が生まれ、おおよそ90~100年前後には殆ど全ての聖書が成立します。そして聖書の記録を補うかのように、その直後に「使徒教父文書」が登場します。『ディダケー』は、その最も重要な文書の一つです。そしてこの『ディダケ―』には、最終項目の「国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり」が既に付け加えられた形で、祈るように規定されています。考え方としては、主イエスご自身が弟子たちに直接教えた6項目の祈りに対して、後に弟子たちと教会は、その祈りをさらに公の「教会の祈り」として、「主の祈り」を纏め直して、その締めくくりの讃美として、全体の結びに第七の最終項目が付け加えられるに至ったのではないか、と考えられます。その根拠は、ユダヤの伝統的な典型事例が既に聖書によって原始教会に伝えられていたからです。歴代誌上29章11節以下に、29:10 ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。29:11 偉大さ光輝威光栄光は、主よ、あなたのものまことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。29:12 富と栄光は御前にありあなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。29:13 わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。」と、イスラエル共同体全体を代表する形で、ダビデの名により讃美の言葉によって締めくくられ結ばれています。そのように、教会も新しいイスラエル共同体として、その伝統に則って、共同体の礼拝の中で、神に全ての栄光を帰する讃美をもって「主の祈り」全体を纏め、締めくくり、讃美の応答をもって終わる形式に形成されたと思われます。こうして「主の祈り」として、讃美の応答をもって締めくくられる結びが加えられて、教会共同体の中心的な祈りとして確保された、と考えられます。こすいて「主の祈り」はいよいよ「教会の祈り」の中心となる祈りとして整えられて、特に教会共同体が「神の民」として神との契約を更新して、現臨の神と交わり、神と一体となる場であった「聖餐」に与る、その聖餐の交わりに入るときの共同体の祈りとして、典礼的にも形式化されていったのではないか、と推測されます。だからこそ、そのような重要な祈りであるから、どこにいようと、其々が日々祈る祈りとしても、少なくとも一日3回以は一致して主の祈りをささげられるように整えられ規定された、と考えられます。また聖書のいくつかの写本の中にも、付け加えられた写本もあることから、そのまま最終項目を加えた形で、祈るようになっていましたので、それを私たちも受け継いだ、ということになります。言い換えれば、主の祈りや聖餐を中心とする使徒たちの交わりの中から、次第に礼拝共同体として自覚的に最も重要な伝承として受け継がれ整えられて現在に至った、と考えてよいかと思います。

主の祈りが画一的な統一性を持たない、そのもう一つの理由は、シュバイツァーなど多くの学者が指摘するように、イエスさまが教えられたこの祈りは、最初から律法主義的に厳格に守られなければならない、という形式主義によるものではなかった、という点です。皆が、其々に、いつでも常に神に祈ることができるように、その根幹となる指針のような項目が与えられたのであって、厳格に記述記録してとどめるような目的で、与えられた祈りではなかった、と考えられています。その結果、主によって教えられた祈りの根幹は、弟子たちや教会の中で益々豊かに育まれ、いわば発展的に展開し続けていたはずです。弟子たちから新しい世代へと受け継ぐように、主の祈りは「教会の祈り」として、まさに「主の祈り」として、改めて整えられ、纏め直され、しかもその結びに、神への栄光と讃美をもって締めくくる、栄光讃美の言葉をもって完成させた。それが総合的に「ディダケ―」(教え)として残されたのではないかと思います。以上が、最終項目が付け加えられた背景であります。

 

次に、聖書本文を比較参照しておきたいと思います。プリント左段がマタイによる主の祈り、右段がルカによる主の祈りの原型です。マタイを中心とする教会が受け継いだ形の「主の祈り」の原型と、ルカの教会が受け継いだ形の「主の祈り」の原型を、其々に対照してみますと、既にお気づきかと思いますが、右側のルカ伝承の主の祈りには、第3項目の「御心が行われますように、天におけるように地にも」という祈りは、ないのです。これを、本来あった項目が何かの事情で失われ欠落してしまった、と考えることもできますが、反対に、マタイの教会では、むしろ祈りをより豊かに発展的に展開したため第3項目となった、と考えることもできます。学者によってその判断は異なり、完全にそれを断言するのは、わたくしにはできませんが、マタイもルカも其々に、どちらも意味ある有効な実証性をもっている、とわたしは考えています。このことは、また改めて問答124で詳しくお話できるのではないか、と思います。先ほども申し上げましたように、主イエスは、厳格な形式のもとに律法主義的に記録し保持すべき祈りとして、この祈りを教えられたわけではなく、弟子たち其々の祈りの助けとなるようにと、とても柔軟な形で祈りの手ほどきをしたものが、マタイやルカの教会に引き継がれていたようです。

 

さて、本日の主の祈りは、第一項目「天にましますわれらの父よ、願わくは、み名を崇めさせたまえ」についての解き明かしを進めてまいります。ハイデルベルク信仰問答120は「なぜ、キリストは『我らの父よ』と、このように神を呼び求めるよう、私たちに命じられたか。」と、神を「父」と呼ぶ意味を訪ねています。おそらく、神さまを「われらの父」と呼びかけることから、祈りを始めるというは、この「主の祈り」の一番大きな特徴ではないかと思います。

マタイによる福音書6章9節による主の祈りでは、「天におられるわたしたちの父よ」(Pa,ter h`mw/n o` evn toi/j ouvranoi/j)と、「天におられる神」を「わたしたちの父」と呼びかけています。「唯一真」であり、「天にいます神」(o` evn toi/j ouvranoi/j)を「われらの父」(Pa,ter h`mw/n)と呼ぶのです。文法的に言えば、「私たちの父」と「天にいます神」を「同格扱い」にして、呼びかけて祈ることになります。ただ単に「われらの神」と、神を所有格で、呼ぶのではなくて、加えて神を「われらの父」と身内扱いにして、呼びかける祈りです。「われらの」という字も、「父」という字も、どちらも共に神と私たちとの「関係の本質」を表す言葉です。「われらの」とは、神さまと私たちが何らかの「所有の関係」にあることを表す言葉です。「父」とは、「親子関係」である人格的な出来と出生の関係を表す言葉です。言い換えれば、血の繋がった「命の根源」であることを示します。子は父から生じて、初めてその命と存在は与えられます。神さまの方から言えば、したがって私たちは、神から生まれた「神の子」である、というになります。

先週の説教で、私たちは、祈りにおいては、みことばを通して、神と出会うのだ、という話をしました。問題は、その神と出会うとき、私たちは、どのようにして、どのような関係で、果たして出会うのでしょうか。その答えが、まさに「私たちの父」として、私たちは、本質的に父子として、神と出会うのである、というのです。神さまの側から言えば、神は、私たちを「わが子」としてお迎えくださる、ということになります。人格の関係を示す言葉で、「親子」という言葉以上に、その関係の深さを本質的に示す関係性は他にはないのではないでしょうか。根源的で決定的な関係で、父と子として、私たちは神と出会い、共に生きるのです。前回紹介した聖書でも、7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:7~11)と、ここでも主イエスは、「あなたがたの天の父」(o` path.r u`mw/n o` evn toi/j ouvranoi/j)と呼んでおられます。実はここでも、主の祈りの所と全く同じように、「あなたがたの父」と「天にいます神」とが、それぞれ定冠詞のついた同格表現になっています。

 

問答120は「なぜ、キリストは『我らの父よ』と、このように神を呼び求めるよう、私たちに命じられたか。」と、神を父と呼ぶ意味を訪ねてから、答えで「(それによって)キリストは、私たちの祈りの始めにおいて、直ちに私たちのうちに、私たちの祈りの基礎となるべき、神に対する幼子のようなおそれと信頼を呼び起こすためです。つまり神は、キリストを通して、私たちの父となられたのです。私たちの父親でさえ、地上のもの惜しまず与えるように、それを遥かに勝って、信仰において神に願い求めるものは何であれ、神は、決して拒もうとはしないのです。」と告白します。

ここで、是非注目すべき、とても重要な教えが記されています。それは、神をただ「父」と呼ぶだけにとどまらないことです。問答120で「つまり神は、キリストを通して私たちの父となられたのです。」と告白して、父と呼ぶだけでなく、実際に「父となれた」と告白しています。しかもそれは「キリストを通して」神は私たちの「父となられた」と言っています。いわば、私たちは、キリストをかしらとする、或いはキリストと全く同じ命と人格を持つ兄弟として生まれ変わることになるわけです。つまり「わたしたちの」あるいは「わたしの」と所有格で呼びかけられる決定的な根拠も、そして「父」と呼びかけることが可能となった根拠も、いずれも「キリストを通して」神が私たちの父となる、ということが実現しているのです。キリストがおられなければ、私たちは、神を「父」と呼び求めることも、ましてや「私たちの父」と呼ぶこともできなかったのです。神を「父」(アッバ)と及びになったのは、主イエス・キリストただお独りです。神は神であって、父ではありません。しかし主イエスは、その全能の神であり万物の造り主なる神を、「わが父」とお呼びになりました。その独り子であるキリストは、十字架と復活という贖いのみわざを通して、私たちを「罪と滅びの子」から「永遠の命」溢れる「神の子」として生まれ変わらせ、造り変えてくださったのです。キリストの十字架と復活を通して、その贖罪のみわざによって、私たちを新たに誕生させてくださったからです。言い換えれば、キリストの十字架と復活の恵みに与ったがゆえに、私たちが新たに生まれ変わり、神の子とされているので、神を父と呼ぶことができるのです。

ここで注目すべき点は、祈りを支え、祈りを成立させる基盤に「父と子の関係」が永遠不変、不動の現実として存在している、という点にあります。父と子の関係にあるからこそ、私たちの「祈り」は成り立つのです。キリストの十字架と復活を通して、その愛と恵みのみわざにより、祈りは、神と私たちを「父と子」として、存在の根源から、本質的にかつ決定的に切っても切れない関係として、親子ですから命の本質を共有するお互いとして、永遠に結び合う場となったのです。キリストの十字架と復活による贖罪から、神さまと私たち人間との関係性が本質的に「父と子」の関係性に変化したのです。しかもそのキリストの霊として、聖霊が私たちの内に与えられ、宿るという新しい神との関係性が構築されたのです。その新しい存在と関係性の中で、しかも聖霊に導かれて、私たちの祈りは始まるのです。

キリストの贖罪により、「父と子」という決定的に新しい関係性から、すなわち新たに生まれた「子」の命と魂に生じる果実として、つまり神の子とされた成果が実際に示されます。それが、祈りにおいて生じる「神への畏れと信頼」です。聖霊は私たちのうちに力強く働いて、キリストの贖罪を聖書の証言に基づいて照明しつつ、キリストの贖罪体験へと導いてくださります。そこで、私たちはまさに父なる神のもとで、「神の子」として生まれ変わり、永遠の命に養われます。そうした「神の子」として人格の根源から生まれ変わる中で、真実な意味で「神に対する畏れと確かな信頼」はうちに泉のように湧き溢れるのです。したがって、祈りにおけるこの畏れと確信は神の賜物と言うべき天の恵みであります。「畏れ」Furchtと訳しました元の字は、「恐怖」「不安」「心配」を第一義とする言葉です。確かに、神は人智を超えた超越の神ですから、予測できず、人間の思い通りにゆかないということからすれば、それは恐怖や不安のもとにもなりうるのです。しかしあえてそれを捨てて、「畏敬」や「畏怖」を意味する言葉として訳しました。なぜなら、神はキリストを通して「われらの父」となられたからからです。大事な点は、「キリスト」の十字架と復活ゆえの「父」である、ということです。つまり十字架の愛と憐れみを前提にする「畏れ」であり、したがってこの父に対する子としての畏れは、本質的に信頼であり従順であり、安心の畏れとなります。

「信頼」Zuversichtと訳した元の字は、「物事がうまく運ぶであろうという確実な期待や確信」を意味します。単に信じるという人間の側の真理作用を遥かに超えて、万事を益としてくださる父に対する絶対の確信です。虎や猫の子は、常に親の胸元から離れず乳を吸いますが、胸元から離れますと、親は首をつかんで、再び安全で豊かな成長を保証する胸元へと再び連れ戻してくれます。つまりこどもの将来全体に渡って養い育てるのです。そういう親にすべてを委ねて任せ、自らを預けるのです。この本能は神が動物に与えた賜物ですが、それ以上に、キリストを通して与えられた「子」としての身分は本質的に異なり、それを遥かに超えた特別な神の愛と恩寵によります。神は、私たちの完全な保護者として私たちを守りぬき、最後の最後まで子であるキリストに与えた同じ命を分け与えて、私たちをわが子として養い育て、私たちのために万事を益にしてくださるのです。この永遠の命の育て親として、私たちは神を畏敬し確かな信頼をもって向き合う場、それが、神を「父」と呼ぶ祈りの場であります。問答の告白する通り、「神は畏敬と信頼を直ちに私たちのうちに呼び起こす」とは、そういうことではないでしょうか。

こうした神を「父」と呼ぶ意味について、以前に学びました問答26はこう告白しています。「『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず』と言い表すとき、あなたは何を信じるか。」と問い、「全能の父なる神を信ず」、と告白するときに、そこで、私たちは何を心に覚えるべきかについて問います。つまり、なぜ神を「われらの父」と呼ぶのか、その意味を問うています。そして問答26はその答えで「私たちの主イエス・キリストの永遠の父である神は、天と地と共に、その中にあるすべてのものを無から創造し永遠のご計画と摂理によって、被造物全体を保ち統べ治めておられます。父なる神は、ご自身の御子キリストのゆえにわたしの神でありわたしの父です。わたしはこの神を信頼し、依り頼んで、疑うことはありません。即ち、父なる神はわたしのために身体と魂に必要なものはすべて与えてくださり、わたしを嘆きの谷に送られようとも、わたしのために、万事を善きことに変えてくださるのです。全能の神として、父なる神はご自身からそれを行うことができ、また誠実な父として、父なる神はご自身からそれを願っておられるのです。」と告白しています。ここに、神を父と呼ぶ、すべての根拠が示されており、その一時一句を丁寧に辿れば、これ以上の説明は不要かと存じます。私たちは、祈りにおいて、神を父と呼ぶことで、神に父として出会い、神は私たちを子として受け入れてくださり、創造のわざ、摂理のわざ、そして統治のわざがいよいよ進められることになります。また問答26も120と同じように「父なる神は、ご自身の御子キリストのゆえに、わたしの神であり、わたしの父です。」と告白している点も合わせて、覚えておきたいと思います。

 

 

マタイによる福音書6章

 

6:9 だから、

こう祈りなさい。

 

⑴『天におられるわたしたちの父よ、

Pa,ter h`mw/n o` evn toi/j ouvranoi/j(

御名が崇められますように。

a`giasqh,tw to. o;noma, sou

 

⑵ 6:10 御国が来ますように。

evlqe,tw h` basilei,a sou\ \

 

⑶ 御心が行われますように、

genhqh,tw to. qe,lhma, sou(

天におけるように地の上にも。

w`j evn ouvranw/| kai. evpi. gh/j

 

⑷ 6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

To.n a;rton h`mw/n to.n evpiou,sion do.j h`mi/n sh,meron\

 

⑸ 6:12 わたしたちの負い目を赦してください、

kai. a;fej h`mi/n ta. ovfeilh,mata h`mw/n(

わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

w`j kai. h`mei/j avfh,kamen toi/j ovfeile,taij h`mw/n\

 

⑹ 6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、

kai. mh. eivsene,gkh|j h`ma/j eivj peirasmo,n(

悪い者から救ってください。』

avlla. r`u/sai h`ma/j avpo. ponhrou/)

 

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⑺ 国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり。

☞ 聖書テキストにはない項目。『ディダケー』に登場。

使徒教父文書『ディダケー(十二使徒の教訓)』(1c末~2c初頭シリア、パレスティナで成立)に登場します。本書構成は1~6章「生と死」7~15章「洗礼,断食,祈り,聖餐等の教会生活書規定」16章「終末の希望と警告」。1875年ギリシャ語写本(11c)の全文が発見された。

本書は毎日3回「主の祈り」を祈るよう規定している。

 

2021. 3.14  磯部理一郎

 

ルカによる福音書11章

 

11:2 そこで、イエスは言われた。

「祈るときには、こう言いなさい。

 

⑴『よ、

Pa,ter(\\

御名が崇められますように。

a`giasqh,tw to. o;noma, sou

 

⑵ 御国が来ますように。

evlqe,tw h` basilei,a sou

 

 

 

 

 

⑷ 11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

to.n a;rton h`mw/n to.n evpiou,sion di,dou h`mi/n to. kaqV h`me,ran\

 

⑸ 11:4 わたしたちのを赦してください、

kai. a;fej h`mi/n ta.j a`marti,aj h`mw/n(

わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

kai. ga.r auvtoi. avfi,omen panti. ovfei,lonti h`mi/n\

 

⑹ わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

kai. mh. eivsene,gkh|j h`ma/j eivj peirasmo,n)