2021年3月21日「御名を崇めさせたまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.3.21 小金井西ノ台教会 受難節第5主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答122

主の祈り(3)

 

問122 (司式者)

「第一の祈願は何か。」

答え  (会衆)

「『み名を崇めさせたまえ』です。

第一に、私たちに告げ知らされることは、

私たちが、正しくあなたを知り、

あなたの全能と知恵、善意と正義、慈愛と真理を光輝かせ給う、あなたのみわざすべてにおいて、

あなたを聖なる方として崇め、褒め讃えて、讃美することです。

次に(私たちに告げ知らされることは)、

それに向けて、私たちの生活態度や考え方また言葉や行動をすべて整え、

私たちゆえに、あなたの御名が汚されることなく、

却って、御名が褒め讃えられるようになることです。」

 

2021.3.21 小金井西ノ台教会 受難節第5主日礼拝

「ハイデルベルク信仰問答」問答112

ハイデルベルク信仰問答講解説教69

説教 「御名を崇めさせたまえ」

聖書 詩編138編1~8節

テモテへの手紙二2章19節

 

前回の説教では、「天にいます我らの父よ」とありますように、神を祈りにおいて「われらの父」と呼びかける意味について、お話しました。神を「父」(ルカ11:2)或いは「天にましますわれらの父」(マタイ6:9)と呼ぶのは、ハイデルベルク信仰問答120が告白する通り、「神がキリストを通してわたしたちの父となられた」からです。即ちキリストの十字架と復活による「贖罪の恵み」を通して、私たちはキリストをかしらとする「神の子」として、つまり新しく「神の子」として、生まれ変わったからです。それによって、唯独り永遠の神の御子であるキリストを通して、神は私たちの「父」となられました。主イエスは、十字架にかけられる直前に、ゲッセマネの園で夜を徹して祈られましたが、その苦悩されるお姿について、ルカによる福音書は「22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」と伝えています。私たちが「われらの父」と祈るとき、そして主イエスが「われらの父よ」と祈りなさい、と教えられると、いつもそこでは、このキリストの「血の滴る」祈りが、贖罪という大きな愛と力に満ちた祈りが、私たちを包み込み、天地に響き渡っています。神の永遠の御子であるイエス・キリストは、受肉して地上に降り、私たちと全く同じ人間になることによって、その受肉した人間のお身体をもって十字架と復活を貫き、またそのお身体をもって天に昇られて、神の右に座しておられます。キリストは、そのお身体と共に天にあって、私たち人間をその魂と肉体の全てを「神の子」としてくださいました。その結果、神は「私たちの父」となったのです。それゆえ私たちは「天の国」を本国とする「神の民」と呼ばれます。宗教改革者ルターの表現を用いれば、私たちの身体には「キリストの皮膚と背骨」が貫かれており、だから神を「父」と呼ぶのです。さらに主イエスは、天から「聖霊」を私たちに与えて、神の救いのご計画の真相を明らかに示されました。それを、パウロは「4:6 あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊をわたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」(ガラテヤ4:6)と告白しています。

 

問答121は「なぜ、『天にまします』と、付け加えられるのか。」と問うています。私たちはよく讃美歌21-18で「心を高くあげよ!」(Sursum Corda)と神を讃美します。心を高くあげるのは、私たちの魂も身体も、キリストのお身体と共に「天」にあるからであり、天のキリストと共に「子」として「父なる神」を礼拝する神の家族であるからです。確かにまだ「終末の完成」の時を迎えていませんので、今はまだ地上での形を残しながらの、しかしそれでもその本質からすれば、終末と完成を先取りした形で、私たちは「天」の神を拝んでいます。

ルカの伝承による主の祈りには、マタイのように「天にまします」という言葉はなく、いきなり神を「父よ」と呼び掛けて始まります。ルカからすれば、既にしかも直接、神を「父」と呼んで、神を礼拝することで、天と地上の教会とが一体であることを強く意識していたようです。マタイとその教会は、明らかに、地上での闘いを強く意識しつつ、だからこそ「天にいます神」を強く意識して、困難と向き合いつつ、地上での信仰生活を貫こうとしているように思われます。マタイもルカも、向き合う教会の事情は、其々違いますが、其々の状況との闘いの中で、「天」を強く意識し天にいますと天に呼びかけ、また一方で、天と地との強い戦いを覚えつつ、天と教会との一体性を強く意識して、天地を貫いて、直接、神の名を「父」と呼び続けていた、と考えられます。

問題は「天にいます」という言葉の意味にあります。神のおられる場所は、地上のこの世ではなく、「天」です。地上にある私たちは、天と地というその大きな違いを意識します。地上の教会は、この世と共に、常に深刻な課題と向き合わなければなりませんし、決して地上での信仰的な闘いは終わりがなく、問題解決はないからです。地上の教会ほど、問題の山積する場は、他にないかと思います。だからこそ、どのような信仰をもって、どのように祈るか、それはとても大切なことです。そこでマタイは「天にいます父よ」と祈ったのでしょう。問答121は、その答えで「私たちが、神の天上の尊厳を、この地上のものとして決して考えることがないように、そして神の全能の御力に、肉体と魂に必要なものはすべて、依り頼むようになるためです。」と告白しています。問答は「神の天上の尊厳」と呼び、それを「この地上のものとして決して考えてはならない」と言ってます。地上にありながら、強く「天」を意識しています。その意識は、天を地上のものとして考えないという強い信仰的自覚によるものです。「天」とは、物理空間を意味する言葉ではなくて、地上に存在するあらゆる事物とは完全に質的異なる存在である、すなわち「超越性」を意味します。「天」には、地上からは連続して類比できない本質や性質があるのです。それなのに、私たちは、天を地上に引き寄せて、天の神を世俗的に現世的に変質させてしまいがちなのです。問答がそう告白する理由は、単純明解で、この世の地上のものは、どんなに意味や価値に溢れるとしても、この地上の世は必ず「終わり」を迎えるからです。どんな資産を得てもどんな地位や名声を得ても、私たちは、あっと言う間に「終わり」を迎えます。万物は皆、終わりと滅びの中に、必滅の終末という定めの中にあるからです。他方、神は永遠であり、全知全能であります。したがって「神の全能の御力に、肉体と魂に必要なものはすべて、依り頼むようになる」ほかに、私たちが存在する、生きる道はどこへ行っても他にはないのです。私たちは「天」に向かう以外に、本当に生きる道はないのです。私たちは、滅びるものを、滅びに向かって求めるのではなくて、滅びる地上のものではなく、滅びることのない永遠の天に向かって、永遠の命の恵みを「天にいます永遠の神」に求めるのです。したがって「天にいます」とは、神がおられる場所を示す以上に、神さまの本質を、例えば、聖なる、永遠なる、全能なる、そして完全な自由なるという神さま特有の性質全体を、地上にあるものとは本質的に異なる「天」という表現で、象徴的に言い表していると言えます。前に、祈りの本質は、天と地を貫く或いは地上から天上へと通じる「恵みの通路」であると申しました。まさに祈りの場の意義は、神の永遠不変で全能の力に依り頼み、永遠の命を保証してくださる場であることです。祈りにおいて、私たちは空しい霞を食べるのではなくて、永遠の命に養われ生きる場を得るのです。極論すれば、祈りの場では、地上を捨てて天の権能に与る、という強い天の意識と自覚によって貫かれます。地上の死から天上の生へと移る場です。マタイとその教会共同体は、その「天にいます父」と共に生きることを、地上にありながら、とても強く意識し自覚していたのではないでしょうか。

 

「主の祈り」でもう一つ。天にますます「われらの父」と複数一人称で祈ります。それは唯単に、神が天におられる、というだけではなくて、そこに「わたしたち」は皆、同じように、「父の子」として共に天にある、ということではないでしょうか。地上に身を置きながらも、「わたしたち」は皆、「父の子」として「天」の場を確かに得ている、という確信です。つまりキリストを通して、神の招きを受け、地上から天へと既に選び分かたれ、神の民の教会共同体として、「父なる神の子」とされて、新しい永遠の生命の本質のもとに本体は既に「天」において、父と共にある、それが「われらの」という教会共同体の姿が見えて来るのであります。地上にあるよりも、実は「父なる神の子」として、私たちは、キリストの身体として、天に向かって共に集められた神の家族であり、神の民であり、神の共同体なのです。そう考えますと、礼拝で主の祈りをささげる意味もはっきりしてくるのではないないでしょうか。主の祈りを献金の祈りにしてしまう前に、まず私たちは「天」に向かって神の共同体として共に集められたことを、天に対しては感謝と讃美をささげ、地上に対しては、その天の所在を秋からに表明する信仰告白によって、礼拝は始まるのです。外形的には、この地上の教会として集められますが、しかしその本質は「天」に向かって召し集められている、ということをいよいよ強く自覚すべき祈りなのです。「天にいます父」の、その父なる神の子として、すなわち天に昇られたキリストをかしらとする「父なる神の子」として、天に向かって召し集められた共同体であり、「天」においてこそ、神と共に私たちの命と人格の本体はあるのだ、ということを明確にそして最初に、言い表すべき祈りなのす。つまり、わたしたちの本当の所在もまた、「父のなる神の子」として「天」にあることを共有する所から、共同体の礼拝は始まるのです。唯一永遠の神の御子は、イエス・キリストお独りですが、その主イエス・キリストが、神を父とする天の恵み、永遠の恵み、愛と力に溢れた恵みを「子」として、私たちにも与えてくださったからです。私たちもキリストと共に一体の身体として十字架で従順を貫き、神の義をまとい、永遠の命に溢れた復活が約束され、天に召された存在とされたのです。厳密に言えば、終末の完成をまだ迎えていない、という時の制限の中にありますから、地上での使命と責任を一方で担い続ける反面、同時にまた他方では、天にいます永遠の御子であるキリストと同じ一体の身体として、教会共同体は「天」に存在するキリストの永遠の身体でもあります。キリストと一体の身体として、父なる神の子なのです。

 

次に、問答122の「第一の祈願は何か」と最初に問う問いには、とても重要な意味があります。というのは、この始まりが、主の祈り全体の方向性を決定づけるからです。主の祈りの各項目を比べてみますと、第一の祈りが「御名」について、第二の祈りが「御国」について、そして第三の祈りは「御心」についてで、其々皆、「神」のための祈りです。そして第四の祈りから「日用の糧」について、第五の祈りは「負い目」もしくは「罪」について、そして最後の第六の祈りは「誘惑と悪」についてで、其々皆、地上の「人間」のための祈りになっています。そのため、主の祈りを二つに分け、前半は「神」についての祈り、後半を「人間」についての祈りというように扱うことが一般的です。それはそれでよいのですが、ただ、わたくしは敢えて二つに分割して考える意味は余りないと考えます。かえって一体に捉え直す方が大事であり、意味が生きるように思えるからです。構造的には、二つに分けて考えずに、前半の神についての祈りが、人間についての祈り全体を天の神の支配へと方向づけ、しかも人間のあらゆる祈りのすべてを力強く親が子を抱きかかえるように包み込んで、命と成長を保証する根拠となって決定づけられている、と考えるべきではないかと思っています。すでに「われらの父よ」と祈ることで、父なる神の子として、地上の共同体はすでにそして完全に「天」に属する存在として、天のものとして召され集められているからです。天のものとして、神の子として必要な「糧」を問題にしているのであり、天のものとしてどのように誘惑や罪と向き合い、或いは闘うのか、ということになるのではないかと考えるからです。立つべき軸足は、地上のこの世に立つのではなくて、あくまでも天に軸足を置くのであります。

 

問答122は「「第一の祈願は何か」と問い、私たちは何をどう祈るべきか、問い、教えます。これはとても大事なことだと思います。なぜなら、私たちは、案外、何をどう祈るべきか、またどのように祈りの世界に入ってゆけばよいのか、本当の意味で余りよく分からないからです。祈る礼儀作法と言いますと、社会儀礼的に聞こえますが、祈りに入るときには、心を改めて祈るという相応しい心構えが必要です。問答122は、『み名を崇めさせたまえ』と祈りを始める意義について、二つのことを教えています。「第一に、私たちに告げられることは、私たちが、正しくあなたを知りあなたの全能と知恵善意と正義慈愛と真理を光輝かせ給う、あなたのみわざすべてにおいてあなたを聖なる方として崇め褒め讃えて、讃美することです。」もう一つは「次に(私たちに告げられることは)、それに向けて、私たちの生活態度や考え方また言葉や行動をすべて整え、私たちゆえに、あなたの御名が汚されることなく、却って、御名が褒め讃えられるようになることです。」と教えています。何と言っても、「御名が崇められますように」と祈る、その第一の理由は、そこで初めて実際に、私たちは、本当の神を正しく知ることになりからです。祈る中で、心を向けるべきお方と、初めて現実にそして人格として出会うことができるからです。

随分前になりますが、ハイデルベルク信仰問答の持つ決定的な一つの特徴に、信仰の定義がありました。問答によれば、信仰とは「認識」と「信頼」である、とを学びました。つまり私たちは、祈りにおいて、神と出会い、そこで改めて実際に、神に触れて神を正しく認識します。一番分かり易い事例は、恵みを受けたときです。祈りは「天の恵みに与る通路」です。そこで、真実に神と出会い、神を知ることになります。私たちは神からいただいた恵みを一つ一つ丁寧に数えあげ検証します。そこで神がどのように恵み、導いてくださったのか、その神の恵みの大きさや完全さを再認識することになります。最初は自分中心の目先の欲で祈り求めたけれど、神に聞いてはいただけなかったのではなく、神は、それ以上に、もっと深くもっと相応しい仕方で、しかもいよいよ豊かに、わたしのためになるように聞き届けてくださっていたことが分かるのです。皆さんはこうした経験を幾度もなさったのではないでしょうか。その度に、祈りを通して、神の知恵や神の思慮の深さに驚かされます。一見すると、罰があったのではないか、と神の罰や裁きに見えるのですが、実は裁きどころか、大きな救いと導きがそこに用意されていたことを、随分時間が経って、私たちは知るようになります。神を正しく知るには、そのようにおおくの時間がかかり、またある意味では一生かかる場合もあります。

パウロは、神を知る知識の不完全さについて、昔の不鮮明な鏡に映る像に喩えています。「13:12 わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくともそのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(Ⅰコリ13:12)と述べています。また、キリスト者の生活は、鏡に主の栄光を映すかのように、「3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリ3:18)と、祈りの体験を伝えています。こうしたパウロの証言を手掛かりに、逢坂元吉郎は祈りの働きについて、「鏡(鑑)」における乣明の作用として、実践していたことをお話しました。こうして私たちは、祈りにおいて「神を正しく知る」ようになるのであり、言い換えれば、次々と顔と顔とを合わせて見るように、はっきりと神を知るようになるのです。そうした祈りを通して知る、或いは実際に賜物としていただく天の恵みを具体的に数えることができるようになるのです。その結果、言葉としては抽象的ですが、神の全能や知恵、神の善意や正義、神の慈愛と真理の一つ一つの実際が手に取るように、具体的にそして体験的に、理解できるようになるのです。そこで、だからこそ、初めて、私たちは、本当の意味で、心から神を「あなたを聖なる方として崇め、褒め讃えて、讃美する」ことが、よく分かるようになり、実際にできるようになるのです。

では「御名が崇められますように」と祈るのは、なぜなのでしょうか。それは、「神」を正しく知るためだ、と第一に答えていましたが、神を正しく知るとは、同時にまた、「自分」自身の本当の姿をを正しく知ることでもあります。神の全能や知恵、神の善意や正義、神の慈愛と真理の一つ一つを正しく、かつ体験的に知る、ということは、自分の弱さや惨めさ、愚かさや破れを、より深く正しく知ることができるようになります。それによって、自分の欲求を祈り求めるのではなくて、神の御心を中心に覚えて祈る祈りに、祈りの本質が変えられてゆくはずです。地上のことを求める以上に、天上の恵みを祈り求めるようになるはずです。こうして、自分の自我欲求を求めたり、自分を讃えることではなく、神の御心を求め、神のご計画に寄り添い従うことの意味が理解できるようになります。その結果、われら人間全体が背負う深刻な病い、多くの人々が抱える痛みや悲しみ、そして根源的な罪や死と破れから、神の全能なる力や愛によって救いの恵みが必要であることが、いよいよ分かるようになるのではないでしょうか。とても残念なことですが、教会生活を一生重ねるような方にも、場合によって牧師でさえも、結局、絶えず自我欲求と自己顕示の奴隷となり、放浪してしまう方々がとても多いように思われます。神を正しく知り、自分を正しく知らないまま、神や教会を自我の道具にするばかりで、人生を終えてしまうのです。魂の奥深くにある、自己自身の本当の姿を知るには、どうしても、神を知り、神の御前に出て、聖霊の光に照らされ、みことばによる省察を経て、初めて私たちは自己を知ることができるのです。神の御前で、真実な意味で謙遜にされ、へりくだり、みことばに導かれ教えられて、初めて自分の姿が分かるのです。

 

したがって極論すれば、「御名が崇められますように」と祈りを始めることで、徹底した「自己放棄」が開始されることになります。この世や人間の力には決して依存しない、という自己放棄の固い決断と意思を神に御前に表明することになります。まさに神の御心に対する恭順の場です。そしてそのためには何が必要なのか、より深く考えて祈るようになるはずです。そこで改めて確認し知ることは、「福音のみことば」を告げ知らされ、福音のみことばに与る、ということです。本当の意味で、神の御名が崇められるようになるとは、ましてやこの地上において、神の御名が崇められるようになるとは、私たちが神を正しく知り、神のみわざの中核を成す福音を正しく知り、即ち神の愛と救いのみわざを感謝と喜びをもって受け入れ、福音の喜びを宣べ伝えることではないでしょうか。つまり「福音の説教」をよく聞き分けて、共に「福音の宣教」を担うことにあります。私たちが地上での生活と命のすべてを尽くして、福音の説教を共に受け入れ、共に福音の説教に仕えるとき、最も神の御名は高く崇められることになるはずです。その一番の中心は、絶えず福音のみことばが正しく語られ、絶えず福音のみことばが正しく聴き分けられ、心から感謝と讃美をもって受け入れられることです。そのとき、初めて本当の意味で、神の御名は崇められるようになるのではないでしょうか。問答122は「あなたをあなたのみわざすべてにおいて、あなたを聖なる方として崇め、褒め讃えて、讃美する」とは、キリストを信じて受け入れ、キリストのことばを聞き分けて、キリストのことばにお仕えすることを意味するのではないでしょうか。教会を立て教会の宣教を共に担うということにもなります。そして全地が一致して、信仰を告白する共同体となることではないでしょうか。