2021年7月25日「あなたの息子は生き返る」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 7.25 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第10主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教8

説教「あなたの息子は生き返る」

聖書 ダニエル書3章19~25節

ヨハネによる福音書4章43~54節

 

 

4:43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。4:44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。4:45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。4:46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。

さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。4:48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。4:49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。4:50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。

4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

 

 

はじめに. サマリア伝道の成功を受けてガリラヤへ

主イエスは、最も憎悪の深いサマリア人の宣教に、成功しました。ヨハネは4章39節以下で「4:39 さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によってイエスを信じた。4:40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。4:41 そして、更に多くの人々がイエスの言葉を聞いて信じた。4:42 彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いてこの方が本当に世の救い主である分かったからです。』」と記して、サマリア伝道の成功を総括しています。このサマリア伝道の総括句には、非常に意味深い「ヨハネの神学」が表されているように思われます。その典型は42節の言葉で「4:42 彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いてこの方が本当に世の救い主である分かったからです。』」と、はっきり言い表して、信仰の根拠と内容を表明しています。サマリアの人々の信仰は、どのようにして形成されたのか、信仰形成の本質を明確に伝える証言でもあります。それは、人々が自分自身で、主イエスの語られたみことばの中に、メシアが今ここに自分の前に到来し自分の救いのために現臨しておられる、という体験の中で、ついにメシアの確信に至った、という信仰告白であります。またみことばを通して、実際のメシアと出会い、新しく生まれ変わる、という霊的経験でもあります。言い換えれば、啓示者としてみことばを語る主イエスのうちに、自分のもとに到来して生き生きと働き現臨するメシアを発見し、またメシアの人格と深く出会い、まさに主イエスにおけるメシアの到来と現臨は真実である、という真理認識に至り、きちんとみことばを理解することができたのです。もはや他者であるサマリアの女の証言に依存して、間接的にメシアを知るのではなくて、自分自身の魂で直にメシアの人格と触れ、出会い、しかもみことばにおいて霊的な対話を交わすうちに、メシアの到来が真実であることを理解するに至っていたのでした。これこそ、サマリア伝道を成功とするヨハネの総括の神学的特徴である、と言えます。わたくしどもが、福音を宣教する証言者となるには、先ず自分自身の魂において直にキリストに触れ、確かにキリストと出会い救われた、という霊的な信仰体験を持つことが必要です。自分の体験が曖昧で揺らいでしまえば、福音書の証言も揺らぎ、結局、宣教はできないのです。教会の宣教力が失われる背景には、わたくしどもひとりひとりの、自分のうちに、確かに現臨して働き給うキリストの体験が失われるか、曖昧希薄になっているからでもあります。サマリアの人々は、自分で聞いて、メシアの真理を自分の決定的な出来事として体験して、明らかな確信に至っていたのです。それが、ヨハネの伝えようとする伝道の本質であります。

かつて、主イエスは、ユダヤの教師であるニコデモに、「3:5はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ3:5~6)と説いて諭しました。ただ肉として主イエスを受け入れるのではなくて、霊のお方としても、正しく認め受け入れる、ということが、あなたにとってどこまで可能かどうか、ということになります。神の御子であり、受肉した先在の神のロゴスであり、かつ父から遣わされた人の子として、主イエスを正しく認めて受け入れるということは、物理的にこの世の理性や論理の枠組みを遥かに超えた事象であり、この世の思考の限界を打ち破ってこそ、初めて可能となる出来事です。信仰の課題がここにあります。この世の論理の枠組みをいかにして超えて、いかにして神を知るようになるか、であります。なぜなら、信仰の対象、認識の対象が、超越の神であるからです。無論、世の常識で考えれば、主イエスの語るみことばにおいて、メシアが現臨して、そのメシアと人格的に深く出会うなどということはあり得ないことだ、と多くの人は思うでありましょう。したがって、ここはどうしても水と霊とによって新たに上から生まれなければ、肉は肉のままで終わり、霊の本質に生きることはできないのです。サマリアの人々は、明らかに主の霊とことばとによって、上から助けられつつ、主のみことばを霊に導かれて、みことばを正しく聴き分けることで、見事に肉から霊の本質に生まれ変わって生きる、ということにおいて、すでにこの世を越えて新しい世界に生きようとしていたと考えられます。

 

1.故郷ガリラヤで

さて、主イエスは、サマリアに二日間滞在されてから、「4:43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた」とあります。ついに主イエスは、故郷のガリラヤに、お帰りになりました。ヨハネは、主イエスのガリラヤ帰還について、「4:45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。4:46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。」と記しています。ガリラヤの人々は、主イエスを「歓迎した」と伝えています。主イエスのユダヤ宣教が、ファリサイ派の宗教権威を圧倒するほど、しかしその結果ファリサイ派を嫉妬させてしまうほど、民衆の大きな反響を見ていた人々がガリラヤに大勢もいたようです。しかし主イエスは、ご自身のお心の中では「預言者は自分の故郷では敬われない」と思っておられたようです。これは、確かにガリラヤの人々は主イエスを歓迎したのですが、その歓迎の意味、何をもって主イエスを歓迎したか、人々の心を主イエスはすでに見抜いておられたからではないでしょうか。サマリアの人々と比較すれば、サマリア伝道の成功の本質は「4:42わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いてこの方本当に世の救い主である分かったからです。」とはっきり自分の信仰を表明していました。反対に、ガリラヤの人々が主イエスを歓迎したのは、主イエスの中にメシアそのものを認めて、信じ受け入れていたからではなく、実はエルサレムで数々の「しるし」を見たからに過ぎなかったのです。後にも主イエスご自身も言われているように、「4:48あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と、見ておられました。つまり「奇跡」を引き起こし「不思議な業」を行うことのできる「力」を求め、その「力」を崇拝していたのです。やがてこの「力」崇拝は、メシアについての理解に、大きく影響を及ぼします。この世での「力」崇拝は、この世での政治や宗教の「権力崇拝」や「権力欲求」をかなえる英雄のメシア理解となり、メシアに対する理解を歪めて、根本から「神」のメシアを「この世」のメシアに変質させてしまうことになります。確かに主イエスは、神の御子ですから、絶大かつ超絶的「力」をお持ちであることは間違いないのですが、主イエスが求められた信仰は、「力」を崇拝することではなくて、十字架の死に至るまで従順に贖罪の死を遂げる「メシア」を受け入れる信仰であり、この人類の贖罪のために、メシアは父から遣わされた御子である、ということを認める信仰でした。なぜなら、神は「力」あるお方であると共に、人類を愛し、その愛のために、人々を死と滅びから救うために、かけがえのない神の独り子を「贖罪の犠牲」としてお与えになるお方でありました。神の全能の力とご意志はすべて、人類の愛と救済に注がれたのです。人々のこのひたむきで純粋な愛と憐れみの中に、本当の意味での「神の力」を見出すべきであります。神が世にお与えになられた救い主であるメシアとして、その本当のお姿を認め、正しく知ることを求めておられたのではないか、と思われます。

 

2.王宮の役人の嘆願(カファルナウムからカナへ)

そうしたカナの主イエスのもとに、カファルナウムから王宮の役人が訪ねて来ます。「さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」とヨハネは記します。「王の役人」(basiliko.j)とは、後に洗礼者ヨハネを斬首したヘロデ・アンティパスの王宮でヘロデ王に仕える高官であった、とそのギリシャ語の用語から推測されます。さらにいくつかの重要な点がこの記述から分かります。まずヘロデ王に仕える高官という立場です。主イエスは洗礼者ヨハネと同じように「洗礼」を授けて宣教活動をしており、ファリサイ派や祭司たちからは敵視され、彼らとの紛争を避けるためにガリラヤに退かれていました。洗礼者ヨハネもこの後、ヘロデ王を激しく非難し悔い改めを迫ったため、斬首されます。それゆえヘロデもユダヤの宗教的特権階級も、双方の政治的利害から、共に結託し合う関係にありました。加えてアンティパスの父、ヘロデ大王は、マタイによれば、メシアを地上から抹殺するために、ベツレヘムで全幼児の無差別的虐殺をしています(マタイ2:16)。ヘロデ大王はエルサレム神殿を修復し、サンヘドリンの宗教的特権階級のために活動の場を与えました。サンヘドリンは、神殿を利用して「神殿税」などを徴収し膨大な収益を懐にしていたので、これに対して、主イエスは「強盗の巣にした」と非難し、宮清めを断行したばかりです。そうした世の権力支配と神の国の到来という本質的に異なる世界の対立の中で、この「王の役人」はイエスを訪ね求め、カファルナウムから約30Kmも離れたカナまでやって来たのです。当然ながら、その行動は、王や宗教権力者たちの耳に入ることは明らかです。こうしたリスクを承知のうえで、この王宮に仕える役人は、主イエスの力を求めて、嘆願行動を起こしたのです。それは、わが子の命を救って欲しい、という父親の一途な一念からでした。

 

3.「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」

このように、息子の命の救いを懇願する王の役人に対して、主イエスは、ご自身のみことばをはっきりとそのまま、お語りになります。「4:48 イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない(VEa.n mh. shmei/a kai. te,rata i;dhte( ouv mh. pisteu,shte)』と言われた。」と、実に率直に伝えています。ここで言われる「しるし」(shmei/on)、或いは「不思議な業」(te,raj)を見るとは、どういうことを指しているのでしょうか。第一に明らかなのは「神の子を見る」とか「メシアを見る」とは言っていないので、人々が求める、また人々が心を向ける信仰の対象は「メシア」や「神の御子」ではなくて、自分の願いをかなえてくれる「力」を求めており、それは誰でも何でも、場合によってたとえ悪魔であっても構わないのです。信仰は、力が示され願いが聞かれたそのあとで、即ち「しるし」や「不思議な業を見た」そのあとで信じればよい、ということになります。しかも、それは決して神の御心に従って、神の啓示の真理に心を向ける、というのではなくて、自分の欲求に支配され願望や欲求に心を奪われているに過ぎないことです。たとえば、王宮の役人も、非常に熱心に30キロも離れたカファルナウムからカナまで主イエスを訪ねるのですが、その熱心は、自分の愛する息子を助けて欲しい、という父親の願望から生まれた熱心にとどまるものです。主イエスを「メシア」として発見して信じたので、メシアを拝むために来た、という要素は全くないのです。極論すれば、神や神の御子を喜んで受け入れる熱心ではなくて、自分の欲求や自分の願望を求める熱心です。神を神とする神のための信仰ではなく、自分の欲求を主とする自分のための願望であります。であるとすれば、それは厳密に言えば、神に向かう「信仰」ではないので、人間の欲望を崇拝する背きの「不信仰」であり、結果として、どんなに深刻で熱心な嘆願であろうと、罪を深める嘆願となります。問題は、この王の役人は、息子が癒されさえすれば、良いのであって、それで果たして、神のメシアとしての主イエスのもとに魂を向けることはできるのでしょうか。そうした役人の心を主イエスは既に見抜いて、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と仰せになったと思われます。「信じる」と言う場合、問題は、何をどのように信じるのか、それが最も重要であり、根本問題となります。しかしそうした主イエスのみことばは、役人の耳には全く入らず、ただ父親としての切羽詰まった愛情と願いから、「4:49主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と懇願するばかりでありました。主イエスの求める信仰の本質は、常に主イエスにおける神のメシアを認めることであり、父なる神から遣わされた救い主を受け入れることですが、反対に人々の求める信仰とは、自分の願いや欲求を満たしてくれる「力あるわざ」でありました。

 

4.「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」とイエスの言われた言葉を信じて帰って行った

熱心に懇願する役人に対して、主イエスは「4:50 帰りなさいあなたの息子は生きる」と断言します。言わば、この主のみことばは「救いの約束」であり「保証の宣言」そのものであります。もう少し踏み込んだ表現をすれば、主イエスのみことばの中に、神の国が到来して、完全な神のご支配と救いのみわざが実現する、という真実を啓示し、言い表しています。ここでとても興味深いそして実に意味深いことは、不思議なことに「その人は、イエスの言われた言葉を信じ帰って行った(evpi,steusen o` a;nqrwpoj tw/| lo,gw| o]n ei=pen auvtw/| o` VIhsou/j kai. evporeu,eto))」と、記していることです。折角30キロかけて、カファルナウムからカナまで、わざわざ来たのに、単に「言葉を信じた」(evpi,steusen tw/| lo,gw)だけで、目に見える何の成果も得られずに、すんなりと、また30キロかけてカファルナウムに帰る帰途についてしまった、という言うのです。とても考えられない、理解を超えた行動です。ふつうであれば、主イエスを引きずってでも、無理矢理に、カファルナウムの自宅にまで主イエスを連れて行くはずですが、ただ「言葉を信じた」だけで、帰ってしまったというのです。ここをどう解釈すればよいのでしょうか。まだ息子が本当に癒されるのか、分からないまま、いわば空手で帰るようなものです。なぜ、王の役人は、主イエスの言葉だけで、帰って行くことができたのでしょうか。いったい、この人の心の中で、何が起こっていたのでしょうか。

そこで、もう一度、主イエスの言われたみことばを丁寧に見直してみますと、「あなたの息子は生きる」という元の字は「生きる」(za,w)という動詞の直接法現在形(zh)で書かれています。未来形、即ち未来のことをして言われてはいないのです。未来ではなく、「今」のこととして、すでに生起している現在の現実を告げる言葉です。日本語訳の聖書から、いつかこの部分の訳を紹介しますと、新共同訳は「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」口語訳は「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」新改訳は「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と、概ね皆、原典通りに「現在形」で訳していますが、塚本虎二訳は「かえりなさい、息子さんはなおった」、リビングバイブル日本語版は「さあ、家にお帰りなさい。 お子さんは治りました。」と、既に治癒は完了したことを強調する完了の意味で訳しています。英語聖書では、The King James (Authorized) Versionは “Go thy way; thy son liveth.”と現在形で、The New International Versionは “You may go. Your son will live.”と「未来形」で訳し、二つに分かれます。原典は、明らかな「現在形」なのに、なぜ現在形で、或いは未来形や完了形の意味を強調して訳したのか、それぞれの訳の意図を問いたい所です。興味深い所ですが、今日はここまでにして、さらに大事な点を申しますと、息子の治癒が、聖書原典では「現在形」で宣言されている、という点をどう読み、どう解釈するか、という点です。

前に、ヨハネ福音書における主イエスの福音告知の特徴として、二元論的にしかも事態を現在化させて、福音を語る、というお話をいたしました。主イエスは、神と神のみわざを現わすために、ご自身の啓示のみことばにおいて、「今」ここにおられる神の現臨を告げ、将来に来るはずの未来を「今」のこととして直面させて、真理を解き明かします。そればかりか、そうした未来のことを現在化して、聞く者に未来を現在に直面させたうえで、そのみことばを信じるか、信じないかという二元論的な選択を迫ります。未来のこととしてではなく、今ここで現在のこととして、告げられたみ言葉を真理である、と信じ受け入れる決断を迫り、この人にその信仰の告白を求めたのではないでしょうか。少なくとも、明らかなことは、この王の役人は、今、直接、主イエスと向き合い、主イエスのみことばを聴く当事者として、神のみ前に招かれていることは間違いありません。主イエスにおいて、そのみことばを通して、現臨する神の御子のみ前に招かれて立ち、直接自分で、主のみことばを聴く中で、ある決定的な出来事に、目覚めさせられたのではないでしょうか。

先ほど、サマリアでの伝道が成功したことをヨハネは総括して、42節の言葉で「4:42 彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いてこの方が本当に世の救い主である分かったからです。』」という発言を紹介しましたが、正に、この役人の中でも、全く同じ出来事が生起した、と考えられます。改めて読み直しますと、最初は「4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られた聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。」と記されていますように、明らかに、誰かの証言を聞いて、藁をも縋る思いで、カファルナウムからカナまでやって来たことが分かります。しかしそれはあくまでも間接的な伝達にすぎません。しかし今は、直接自分で、主イエスと対面する中で、主イエスにおける神の現臨に触れる中で、「4:50帰りなさい。あなたの息子は生きる」と聞いて、神のみわざを現実のこととして明らかになることを体験しているのではいでしょうか。そういう体験の中で、主イエスのみことばを聴き、その真実を知ったのではないかと思います。それは最早「4:50帰りなさい。あなたの息子は生きる(o` ui`o,j sou zh/|)」とは「未来」のことではなく、鮮やかな「現在形」のこととして、永遠不変の現在として聴き分けることが出来たのではないかと思います。この主のみことばにおいては、未来のことであろうと、すべてが現在化されているリアリティーに触れた、と言ってもよいでありましょう。ヨハネは、徹底して「今」ここに生起している、それが神のみわざなのだ、ということを「現在形」で言い表そうとしているのです。みことばに直面した者の実存体験そのものでありました。

もう一つ、聖書の原文を読み直しますと、この役人は「言葉を信じて」帰ったのですが、その「言葉を信じる」(pisteu,w)という動詞は、アオリスト形(evpi,steusen)で書かれています。二度と変更出来ない、決定的な出来事であることを示す動詞の形です。言い換えれば、時間を超えた永遠不変の真理として、この信仰体験は言い表されています。この人は、既にここに立ったので動かないという信仰の現実です。つまりこの人の中に信仰が与えられ、その信仰に固く立ち、その信仰のもとに服従し仕える決断をした、ということでしょうか。息子は生きるのは、時を超えて永遠不変の真理として、しかも今現在の出来事として迫り生起している、それを信仰において受け入れる決断をしたのです。主のみことばを、自分で直に聴き、みことばのうちに現れるメシアの現臨を、そしてみことばのうちに力づよく生き働く神に、魂の底から触れる体験において、主イエスは神の子であり、人類の救いのために遣わされた神のメシアである、という真実を経験し知ったのではないか、と思います。信仰が不動の事実として与えられた瞬間でもあります。単に「力」を求めるのではなくて、神の子が自分の救い主として到来して今ここに現れている、そして自分の息子ばかりか、自分も家族もみんなを救うために、今ここに現臨して、信じるか、と真剣な決断を迫っているのです。このみことばの中には、神の御子であるからこそ、神から遣わされたメシアであるからこそ、発揮する救いの力が現れている。その本当の救いの力を前にして、あなたはわたしを信じるか、と主は霊的に問われ、そしてこの人も、霊の助けにより、あなたをすべて信じます、と決断することができ、みことばのうちに実現している神の救いを受け入れることができたのではないでしょうか。ここで、信仰の焦点は、心を向けるべき中心点は大きく変わります。息子を救いたい、という願望と力の崇拝から、神のメシアが自分の前に救い主として到来しており、今ここに真理のみことばを語り告げておられ、今まさにここでわたしはその真理に触れている、そしてわたしとわたしの家族の救いのために、今まさに神のみわざを行っておられる、否、みわざを行うどころか、既に「あなたの息子は生きる」という命の保証を宣言されたのだ、という驚くべき体験のうちにあって、この体験は信仰の本質を根本から変える決定的な転換点となるのです。しかもさらに重要な点は、それはまさに、最後の審判者であり、完全に人類の罪を償い、神の義を回復するメシアにおいて、神との完全な和解が成就して、人は初めて本来の命の祝福に溢れることができたことを知ったのであります。この役人が、主イエスのみことばの前に、和解の福音の告知の前に、この神のメシアに、この最後の審判者に、自己のすべてを明け渡して、委ね、服従する決断をしたのです。黙って帰って行くとは、そういうことではないでしょうか。主ご自身が神の真理を語られたみことばにおいて、そこに現臨し現れている神のメシアの前で、自己を完全に開いて、主なる神に完全に明け渡して、すべてを委ね、完全に服従しようと決断したのです。そして、その時からその瞬間に、救いは現実のものとなったことを知り、確信したのではないでしょうか。みことばを聴くとは、みことばにおいて臨在するキリストのもとに導かれ、みことばを通して現臨するキリストのみわざを共に経験し、みことばによってそのみわざの中で生き続けることを意味するのではないでしょうか。言わば、キリストの命溢れる、そして力溢れる交わりの中に生かされることではないでしょうか。それを新たに生まれる、と言うのではないでしょうか。

 

5.結末:ことばにおいて既に実現していた救い

この奇跡の結末について、福音書はこう証言します。「4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。」と、この結末が明記されています。注目すべき所は、「息子の病気が良くなった時刻」に、ヨハネは注意を向けようとしています。そのうえで「4:53 それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。」と明記して、ヨハネは、言葉と成就の関係について、注目させようとしています。ます。つまり、みことばの中に、神のロゴスであり啓示者ご自身が現臨し働いて、神のメシアとして力ある救いのみわざを成就する、というみことばにおける神の権能に、ヨハネは目を向けさせます。よく分からない不思議な現象に心を奪われ、ただ自分の願望にしがみつくのではなくて、明らかに、みことばにおいて神が現臨して働き、みことばを通して神のみわざは既に成就している、という決定的な福音のみことばの原理について、ヨハネはここで伝えようとしているのではないでしょうか。ここで初めて、この役人は、奇跡を遥かに超える真実な意味での奇跡の意味に目が開かれるのです。即ち、主イエスのうちに既に神のメシアは到来しており、したがって福音の告知そのものである主のみことばを通して、自分たちのうちに神の力あるわざが既に現在の出来事として行われていたのです。「彼もその家族もこぞって信じた」のは、その現実に招かれていたからではないかと思います。