2021年9月12日「わたしは命のパンである」 磯部理一郎 牧師

 

2021.9.12 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第17主日(創立65周年記念)礼拝

ヨハネによる福音書講解説教15

説教 「わたしは命のパンである」

聖書 ヨハネによる福音書6章41~59節

エレミヤ書31章1~6節

 

聖書

6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。

6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が人の子を認証されたからである。」

6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。6:33 神のパンは天から降って来て世に命を与えるものである。」

6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンであるわたしのもとに来る者は決して飢えることがなくわたしを信じる者は決して渇くことがない。6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに信じない。6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。」

 

 

説教

はじめに

本日の礼拝は、わたくしども小金井西ノ台教会の創立を覚える「創立記念」礼拝となります。したがいまして、本日もヨハネによる福音書の講解説教をこれまで通り進めますが、その前に、教会創立を共に記念しながら、ヨハネ福音書のみことばを分かち合いたいと存じます。そこで、本日は、特に「教会を立てる」ということを意識して、或いは、「教会の基とは何か」という点に焦点化させて、ヨハネのみことばを読んでまいります。

 

1. 教会創立記念礼拝に臨んで

『小金井西ノ台教会三十年史』にしたがって、小金井西ノ台教会の創立を振り返りますと、1956年9月23日に「日本基督教小金井西ノ台伝道所」として、渡辺充牧師によって、現在のこどもの国幼稚園園舎で、第一回礼拝が行われたことが記録されています。そして1966年には高尾霊園に教会墓地を購入しています。1971年1月渡辺充牧師のご逝去に伴い、東部連合長老会議長芳賀真俊牧師のご推薦により宮本進之助牧師を説教者にまた上良康牧師を代務者に定め、伝道は継続されました。1975年には「伝道所」から「第二種教会」に昇格を果たし、1977年に新会堂を貫井南町に建築し、竹森満佐一牧師によって献堂式が行われました。この新会堂建築により、第二代牧師に宮本進之助牧師が就任され、教会の宣教は幼稚園園舎から新会堂へと移りました。その後、1986年田中牧人牧師、寺田真一伝道師を経て牧師招聘に困難を覚えますが、1997年より川崎嗣夫牧師、2003年より武田英夫牧師、2010年より青戸宏史・歌子牧師、そして2019年現在の磯部理一郎・紀代子牧師へと宣教の働きは受け継がれております。これまでの西ノ台教会の歴史で、最も大きな宣教の転機となったことは、幼稚園園舎で渡辺牧師により宣教の産声を上げた誕生期、次に1977年貫井南町に新会堂を建設し幼稚園から分離独立し、宮本進之助牧師を招聘し宣教を本格化させた第二段階、そして2000年(平成12年)川崎嗣夫牧師のもとで小金井市貫井南から現在地本町6丁目7番3号に移転し、新しい宣教地を得た第三段階として、教会の変遷を捉えることができそうです。ただ、薬屋さんだった木造の中古住宅を購入して会堂としたため、建物はそのまま改修して用い、既に築50年を経過しています。その間、2003年川崎牧師の退任を受けて武田英夫牧師が、2010年武田牧師に代わり青戸宏史・歌子牧師が、この新天地で宣教を受け継ぎ教会形成が担われて来ました。早くも貫井南町の新会堂建築から44年、この本町に移転して20年を迎えました。現在、丸2年、足掛け3年に及ぶコロナ禍の中で、教会の宣教は困難を極めていますが、これまでの神の恵みに、心から感謝申し上げますと共に、これからの新しい5年10年の教会宣教の展望をしっかりと見据えながら、更なる教会形成と宣教の課題に取り組んでまいりたいと考えております。

 

2.教会の基としての「福音の信仰」

教会の宣教と形成という点で言えば、言うまでもなく、教会の基は「福音」であります。しかも「福音」を正しく継承する信仰にあります。わたくしどもの西ノ台教会は、神の福音を宗教改革の精神に基づいて、特に「改革長老教会」の信仰と神学に基づいて創設され形成されたプロテスタント教会です。この教会創立と形成の礎に固く立って教会創立を記念したいと存じます。この教会は、日本のプロテスタントの潮流の中にあって、さらに具体的な流れを申し上げるならば、旧日本基督教会の伝統と東京神学社、即ち東京神学大学を中枢にして担われて来た宣教の神学の上に立てられ、直接には今では連合長老会に所属しておりますが、より正確に言えば、熊野義孝先生や竹森満佐一先生による教会の信仰と神学を基盤にして、形成されて来た教会である、ということを、いよいよ徹底して覚え、自覚的に継承する必要があります。そうした教会創立の信仰と神学は、先ほど創立の歴史を振り返る中で触れた通りです。その中心は、日本キリスト教団や今では連合長老会も含めまして曖昧かつ未定型であり、極論してより純粋に言えば、熊野義孝先生の神学を通して受け継がれた「受肉のキリストによる贖罪の神学」を基礎にして、「福音の信仰」は私どもにおいて継承され、私どもの教会は立てられ形成されて来た、と言っても過言ではありません。私どもの教会が依って立つ教会の基と礎は、ただ一つ、「福音の信仰」にありますが、その福音信仰の本質は、「神の言葉の神学」と「受肉のキリストによる贖罪」を中核とした熊野義孝先生・竹森満佐一先生の教えを継承することで、初めて確保される教会の信仰であり、神学である、と考えられます。おそらくこの日本において、プロテスタント教会として真の教会を立てる道は、その他にはないのではないのではないでしょうか。このように教会とその宣教の礎をしっかり固めることで、次世代の教会形成を確かにすることが可能となり、担保されるのです。その教会信仰の基盤を堅く覚え、いよいよ熊野・竹森神学によって教導された信仰をよく学び、それをしっかりと継承し、この信仰と神学の継承の充実によって、教会の形成を進めることにあります。

さらに踏み込んで言えば、熊野義孝先生・竹森満佐一先生の神学と信仰の源は、これもまた言うまでもないことですが、まさに公同教会を決定づけた「ニケア信条」と「カルケドン信条」にあり、これら両信条の信仰と神学は、ルターやカルヴァンの宗教改革を踏まえつつ、「ハイデルベルク信仰問答」において受け継がれました。こうした一連の公同教会の信条・信仰告白を日本において簡潔に継承したのが、旧日本基督教会1890年制定の「信仰の告白」であります。こうした一連の公同教会の信仰を、まさに串刺しするように、聖書・ニケア・カルケドン・宗教改革・ハイデルベルク信仰問答・旧日本基督教会「信仰の告白」と受け継がれ、そして東京神学大学における熊野・竹森神学へと貫かれて来ました。こうした教会の信仰と神学の伝統の中から、わたくしども小金井西ノ台教会は生まれ形成されて来たのです。したがって、わたくしども小金井西ノ台教会は、教会の基となる信仰を、この脈絡において、しっかりと確保し教会形成の礎とするのであります。私たちに委ねられた教会の基となる信仰を正しくしっかりと受け継ぎ、力強く担うことができますように、と心から願い求める次第であります。これが、教会創立を覚え記念する根本的な意味であります。教会員ひとりひとりの信仰的自覚、そして何よりも牧師を含めて長老会の一致した理解と確信が求められる所であります。

 

3.福音の本質「わたしは命のパンである」

主イエスは「朽ちないパン、命のパンとは、わたしである」と言われ、また「朽ちないパンとは、永遠の命を得ることであり、終わりの日に復活させることである。6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」と言われました。

わたくしどもの教会とその宣教の基盤を聖書において堅く覚えるのであれば、まさにこのみことばにあります。したがいまして、この主の決定的な福音のみことばを改めて読み直してみたいと存じます。主イエスは6章33節以下で「6:33 神のパンは、天から降って来て世に命を与えるものである。」と告げ、また「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と宣言して、ご自身こそ、ただ一つの永遠の命に至る食べ物であり、命のパンであることを明かします。しかもそれは、神の永遠のご意志であり、神のご計画である、と啓示します。「6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」と神の隠された救いのご計画を人々に告げ知らせます。重ねて、6章44節以下でも、主イエスは「6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければだれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と告げます。主イエスはここで、これ以上にないほど明らかに「神の啓示の本質」即ち「福音の本質」をはっきりと告知したのです。こう言われます。「6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」と、はっきりと福音の本質とは何であるか、また神の隠されたご意志とご計画とは何であるのか、人々に啓示されます。神の完全なご意志とご主権のもとで、すなわち「神の国」の到来という宣教により、私たちは永遠の命に至る復活の恵みに与るのです。そしてその「永遠の命」は、主イエスによる救いを信じて受け入れる、という「信仰」を通して、私たちに与えられるのです。これが「福音」であり「神の啓示の本質」であります。そのために、神の独り子である主イエス・キリストは、父によって天から降り世に遣わされて、十字架の死において、私たちの罪を償い、神との和解を果たして、その十字架におけるキリストの功績により、わたしたちは完全に罪赦されて、永遠の命の祝福に与るのです。ヨハネが3章16節で「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と伝える通りであります。したがって、当然ながら、教会の宣教も、神の独り子であるイエス・キリストを信じ受け入れる信仰によって、裁かれずに永遠の命が与えられる、というこの福音の一点に集中します。

ここには、私たちがしっかりと覚えるべき「救いの道筋」が明示されています。「6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人一人も失わないで終わりの日に復活させることである。」と言われていますが、「わたしをお遣わしになった方」即ち「神」のご意志は、「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること」にある、と明確に宣言されます。神の啓示の真理の中心に、言わば世にある私たち人類は全て、既に神のご意志によって「わたし」即ち主イエス・キリストに与えられている、と明示されています。「わたしに与えくださった」という言い方を、逆説的な別の言葉で言い換えれば、6章44節に「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」ということになりましょう。神のご意志によって、完全にキリストに私たちは与えられ委ねられたのです。誰も父なる神の御心でなければ、教会に足を運び、洗礼を受けて、礼拝を守り続ける、ということはあり得ない、ということにもなります。世も万物も、そして私たち人間の全てが、神のご意志によって、イエス・キリストのもとに委ねられ与えられているのです。したがって、主イエスは、私たち全人類の「主」であり、私たちはまさにキリストに所有された「キリストのもの」であります。神のご意志からすれば、この世は全て本質的に「クリスティアーノス」即ち「クリスチャン」として基礎づけらたのです。

主イエスは「わたしに与えてくださった人」と呼んでいますが、父が子であるキリストに「与える」とは、どういう意味でしょうか。いくつかの意味に解釈できそうです。第一に「キリストのもの」とされることです。もう少し詳細に言えば、神の愛と意志のもとに、キリストによって統べ治められつつ、永遠の命を実現する、ということであります。「神の独り子」は、「キリスト」(メシア:救い主)としてしかも処女マリアより受肉した「人間」として、十字架の死に至るまで人間の罪を償う「完全な贖罪の生贄」として、ご自身の霊も魂も肉体もご人格の全てを神に献げられて、人類の罪の贖罪を果たし、神への完全な「従順」を尽くして、「神の義」を勝ち取り、人間のために神との和解を実現し神との完全な命と祝福の関係を回復して、復活をもって私たち人間の本性に永遠の命を注ぎ、人間の本質を根本から神のもとに回復してくださいました。この救いと福音は、十字架と永遠の命を復活というキリストのお身体において、受肉したキリストの人間本性において、成し遂げられた「キリストのお身体による和解と贖罪」であり、その勝利の証明が「復活による永遠の命」であります。キリストに属するとは、このキリストの贖罪の身体、永遠の命に溢れた復活の身体とされる、ということになります。簡潔に言えば、キリスト者すなわちキリストに属ずる者は皆、この受肉のキリストの贖罪と復活の命の身体として新たに生まれ、永遠に生き続けるのです。それが、福音の本質であり、教会宣教の中核であり、私たちの信仰の中心であります。熊野先生の信仰と神学は、まさにこの「受肉のキリストの十字架の贖罪と復活の身体」を信じ受け継ぐことにあります。神のことばにおいて、この生けるキリストの十字架と復活のお身体に私たち罪人は招き入れられ、永遠の命に養われるのです。まさにみことばにおいて主イエスはご自身を「命のパン」として差し出し与らせて下さるのであります。

わたしに与えてくださった」とは、それだけの意味に止まるものではありません。私たちをキリストに与えて委ね、その所有と支配のもとに任せられたのですから、キリストは私たちの「主」であり、「主」とは、さらに厳密に言えば、「支配の主(王)」である以上に、最後の審判における「裁き主」であります。つまり私たちが神に裁かれるとすれば、それはまさにキリストによって裁かれるのです。キリストは「最後の審判者」となられたのです。それゆえ、私たちが「義」とされて永遠の命に救われるのであれば、それは主キリストが「最後の審判者として復活させ救うのです。キリストは、まさに「最後の審判者」として、私たちのために贖罪の赦しと復活の命を与え、かつ決定づけるために、私たちの前に立ち、みことばを語り、ご自身の十字架と復活の身体を私たちの前に差し出されるのです。主イエスは、ご自身のみことばにおいて、私たちをご自身の十字架と復活のお身体のもとにお招きくださり、いよいよ深く永遠のみことばを語り、私たちの魂の奥深くに向かって、ご自身が神のメシアであり神の独り子である、という本当の神キリストのお姿を現してお示しになり、そして「これは、わたしの身体である、取って食べなさい」と言って、ご自身の贖罪と復活のお身体を差し出されるのです。みことばにおいてご自身の十字架の贖罪の中に私たちを招き入れ、差し出されたご自身の十字架と復活のお身体をみことばを通して分け与えられ、それによってついに、私たちは罪を完全に償われて、永遠の命に満たされ、まさに飢え渇き朽ち果てるべき人間本性は、その根源から復活による永遠の命のお身体のうちに養われるのであります。「みことば」において、即ち「説教」というinvisible見えないことばと「聖餐」というvisible見えることばにおいて、主イエスは、ご自身を「天から降って来た命のパン」として「これは、わたしの身体である」と宣言して、私たちに十字架と復活のお身体を差し出して分け与えてくださるのであります。「説教と聖餐」という「みことば」において、主ご自身が差し出される十字架と復活のお身体に、聖霊の恵みと信仰によって共に与り、私たちは死と滅び裁きから永遠の命の祝福のうちに救われるのです。私たちは、みことばにおいてこのキリストのお身体に与り永遠の命に養われつつ、魂と身体の全人格において、唯一真の神を見、主と出会い、唯一真の神の生ける命の交わりのうちに、しかも三一体の神の交わりのうちにいよいよ深く招き入れられ、神と共に生きるのです。これが、キリストに属する者の実態であります。この福音を私たちはキリストの身体である教会として担っているのです。

 

4.みことばにおいて、キリストを信じ受け入れる「信仰」の意義

最後に残された問題が一つあります。それは、みことばにおいて、差し出された十字架と復活のお身体の前に、私たちはどう応えするか、ということです。その神の真実を認めず暗闇の中を彷徨い続けるのか、神でないものを神とする偶像を拝み続けるのか、或いは、感謝と喜びをもって信じ受け入れ従うのか、であります。すなわち、みことばに背き罪に支配され続けるのか、それとも福音の信仰に生きるのか。みことばを受け入れず、神の啓示を拒み、神に背くのか。この背きの罪ゆえに、世は神の真理の光のうちに決して憩うことは出来ないのです。その背きの実態は、人間自身の自我欲求ゆえに、悪魔の誘惑に唆されて、誘惑に敗北して堕落し、この堕落と破綻を生涯の宿命として生きるのではなく滅びに堕ちることにあります。6章32節で主イエスはこう言われます。「『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。6:33 神のパンは、天から降って来て世に命を与えるものである。』6:34 そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、6:35 イエスは言われた。『わたしが命のパンであるわたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに信じない。』と言われています。ここで、是非注目すべき意味深長な言葉は、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」という痛烈な指摘です。言い換えれば、見ても信じることができない、という意味にも解釈できそうです。見ていても、果たして何が見えているか、です。もう一つ、注目すべき意味深長な表現があります。6章45節のみことばで「6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。6:46 父を見た者は一人もいない神のもとから来た者だけが父を見たのである。」と教える部分です。ここで注目すべき所は、主イエスは聖書の言葉を事例として引用しながら「父から聞いて学んだ者」は皆、「わたしのもとに来る」と仰せになっている所です。同時に併せて「父を見た者は一人もいない」とも断言しておられます。つまり、はっきりとここで、主イエスは、神を「肉の眼」では決して見ることはできない、と諭しておられるのではないでしょうか。神は「無限」ですが、人は「有限」です。有限である人の眼で、無限の神を完全に見て取ることはできないはずです。たとえ肉眼で「見たから」と言って、人間の感覚器官で神を完全に捕らえ包み込むことができるでしょうか。したがって、神ご自身が語りかける啓示のみことばを信じて受け入れる以外に、外に方法はないのではないでしょうか。私たちは、ただ「みことば」による神の啓示によって光照らされて、初めて神の真理に触れることができます。それも、ほんの僅かな真理を知るにすぎません。それなのに「見たから」と言って、否、かえって、神を見れば見るほど、信じがたい驚きに包まれてしまうのではないか、と思います。前の説教でお話しましたように、湖の上を歩く主イエスを弟子たちは実際に「見た」からこそ、それは驚くべきことであり、恐れとなって、「幽霊だ!」と叫ぶしか、できなかったのです。そして主イエスはみことばをもって語りかけます。「恐れることはない。わたしだ。」と主ご自身が語りかけるみことばにおいて、主はご自身を明らかにお示しになると、そして弟子たちは安心して、あれほど荒波に翻弄され続けていた小舟は既に向こう岸に着いていた、という新しい事実と向き合うことができたのです。

結局は、神の啓示のみことばを聴き入れることができないと、神の真実は見失われ、損なわれてしまうのではないでしょうか。みことばに現わされた神の啓示を、すなわち、イエスを神のメシアとして、その十字架と復活をわが救いとして、信じ受け入れない、という不信仰が生じることになります。ヨハネは6章41節以下でこう記します。「6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」とあります。主イエスをどう見るか、主イエスをどう信じるか、その見て信じる内容が問われています。一方では「天から降って来たパンである」と言われるように、主イエスを、天から降って来た神のメシアであり、人々を永遠の命に養い永遠の命を与える命のパンである、という「神の真理」です。イエスのうちに「神」を見て信じることを示しています。もう一つは、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。」と呟いたユダヤ人のように、主イエスを、この世の身分から、言い換えれば「この世」から見て、卑しめ貶めています。

確かに主イエスは、ヨセフとマリアの息子でもあります。それはとても重要な意味を持ちます。ご自身のうちに、すべての人間を背負い、ご自身から人間としての責務を果たすためです。主は、神のメシアであるからこそ、ご自身のお身体において人間性の全てを背負い完全な贖罪の生贄として、さらには完全な命の復活勝利の身体として、全人類を背負うのです。しかしただの人間にはそれはできないことです。神から遣わされた神のメシアだけが、マリアから受肉したお身体と人間性をもって、全人類の人間性そのものを背負い担うのです。したがって、ここでとても大切な点は、受肉したイエスのうちに天から降られた神の独り子を同時に見て、信じ受け入れることです。この信仰は、ニケア信条に示されるように、イエス・キリストは父なる神と同一本質であるという信仰であり、またキリストにおいては、神であり同時に人である、とするカルケドン信条の信仰となります。主イエスは、ご自身のみことばにおいて、神であり人であるメシアとして、ご自身を現しておられるのであります。福音の中核であり、教会宣教の基であり、信仰の源泉となります。しかし、この信仰を受け入れられないのが、ユダヤ人たちでした。そういう意味からすれば、ある意味で、ニケア、カルケドンの信仰を受け継げないのであれば、このユダヤ人たちと同じことになるのではないでしょうか。私たちの信仰も教会も、しっかりとここに立つのであります。