2021年5月9日「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.5.9、16 小金井西ノ台教会 復活第7主日

『ハイデルベルク信仰問答』問答127~129

主の祈り(6)

 

 

問127 (司式者)

「第六の祈願は何か。」

答え  (会衆)

「『我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ』です。それはすなわち、

私たちは、自分では一時(いっとき)も保ち得ないほど、脆く弱い存在であり、

それゆえ、悪魔、この世のもの、そして自分自身の肉体に至るまで、

私たちを待ち構えて付き纏って止まない敵どもは、

私たちを絶えず試みては、私たちに激しい攻撃を加えます。

どうか、あなたの聖なる御霊の力によって、私たちを守り、強めてください、

そして、これらの敵に対して、絶えず堅く立ち続けて、この霊の戦いで敗れることなく、

最後は、完全な勝利におさめさせてください(という祈願です)。

 

 

問128 (司式者)

「どのようにあなたはこの祈りを締めくくるか。」

答え  (会衆)

「『国と力と栄えとはなんじのものなればなり』(と締めくくります)。

それはすなわち、私たちがあなたにそのようなものをすべて請い願うのは、

あなたこそ、私たちの王として、またあらゆることにおいて大いなる方として、

善きものはすべて、私たちに、御心と御力をもってお与えくださるからです。

しかもこれによって、私たちではなく、

あなたの聖なる御名が、永遠に褒め讃えられるようになるからです。」

 

 

問129 (司式者)

「『アーメン』という短い言葉は、何を意味するか。」

答え  (会衆)

「『アーメン』とは、すなわち、真実で確かであることを意味します。

なぜなら、わたしの祈りは、わたしが自分の心の中でそれらを神に求めていると感じるよりも、

遥かに確かなこととして、神によって聞かれているからです。」

 

2021.5.9 小金井西ノ台教会 復活第6主日礼拝

『ハイデルベルク信仰問答』問答127~129 主の祈り(6)

ハイデルベルク信仰問答講解説教66

説教 「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」

聖書 創世記3章1~7節、マタイによる福音書4章1~11節

マタイによる福音書26章69~75節、エフェソの信徒への手紙6章10~20節

 

はじめに. マタイ(誘惑と悪い者)とルカ(誘惑)

本日の説教は、主の祈りの第六の祈り「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」についての解き明かしとなります。マタイによる福音書は「6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず(kai. mh. eivsene,gkh|j h`ma/j eivj peirasmo,n)、悪い者から救ってください(avlla. r`u/sai h`ma/j avpo. ponhrou/)。」と記し、ルカによる福音書は「わたしたちを誘惑に遭わせないでください(kai. mh. eivsene,gkh|j h`ma/j eivj peirasmo,n)。」と記します。マタイの「悪い者から救ってください」という項目はマタイだけで、ルカにはない項目です。その理由については定かではありませんが、元々「主の祈り」は、厳格な律法規定のように、また教会典礼として文言が確定されて、伝承された祈りではなかったからです。主イエスは、弟子たちの祈りの訓練として、その基本となる祈りの形を提供したのであって、弟子たちはそれを柔軟に活用していたと考えられます。やがて弟子たちが世を去るようになると、改めて「教会共同体の祈り」として纏め直されて伝えられたと考えられます。教会の中核を成した使徒たちが世を去り、新世代のリーダーたちを迎える中で、教会共同体は、「使徒たちの教え」を伝承する重要文書の一つとして纏められ保存されます。聖書に記録される段階では、使徒たちが其々に責任を担う教会の形成において、その事情にふさわしい柔軟な形で、「主の祈り」として伝えていたものが福音書に保存されましたが、やがて教会全体に通用する、いわば公同の祈りの形で「ディダケ―」の一つとして纏められ伝承され、現在、私たちが祈る「主の祈り」の形となった、と考えられます。本日の「誘惑」にあわせないように、という第六の祈りは、マタイとルカにあり、「悪い者」からの救いは、マタイだけの祈りとなっていますが、教会は、改めて「主の祈り」として確定し纏め直したのです。

 

1.「わたしたちを誘惑に遭わせず悪い者から救ってください」

さて本日の祈りの主題は「誘惑」です。「誘惑」とは、いったい何でしょうか。誰が、何のために、私たちを試み、誘惑し、試練を与えるのでしょうか。「誘惑」と書かれた字は、ギリシャ語名詞で「ペイラスモス(peirasmo,j)」という字で、①試み、試験、実験、試練、②誘惑、試誘を意味します。新約聖書に21回登場します。その動詞は「ペイラゾー(peira,zw)」で、①試みる、試してみる、②試験する、吟味する、試練する、③誘惑する、誘う、誘惑に陥り失敗するか試すという意味です。新約聖書に31回使われます。名詞も動詞も、新約聖書では殆どが「誘惑」(英temptation)、「誘惑する」(英tempt)という意味で用いられています。

先ほど、誘惑とは何か、誰がどんな目的で行うのか、と申しましたが、よく誤解されることで、「試み」のすべては、神が意図し神が行うものだ、と不用意に思い込んでいる方々がおられます。病気も事故も災害も、すべては「神」が造り出したもので、神による禍いであると考えるのです。神は禍いを起こして私たちを試しているのだ、と考えるのです。自分が病気をしたのも、事故にあったのも、神が神の意志によってそうなさったからだ、と考えるのです。しかしそれは、実は、大きな誤解であり、とんでもない考え違いである、と言わなければなりません。誘惑するのも、悪い者も、決して神さまではないからです。確かに、この世にあって私たちは多くの試練を受けて生きていることは事実ですが、病気も災害も事故も、決して神が意図的に引き起こしているわけではありません。聖書はこう断言します。「ヤコブ1:12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。1:13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」ときっぱりと、神は誘惑するお方ではない、と断言しています。その上でさらに誘惑の原因についてこう告げます。「1:14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ唆されて誘惑に陥るのです。1:15 そして、欲望ははらんで罪を生み罪が熟して死を生みます。1:16 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。」(ヤコブ1:13~16)。繰り返し申しますが、神が試練をお造りになることは決してないのです。その根は、神にではなく、むしろ私たち自身、自分自身の中に、しかも自分の欲望に唆されて、誘惑は生じるのであり、その結果、私たちは誘惑に陥り、罪を犯すのであります。

マタイとその教会は、この「誘惑」について、ルカにはない仕方で、さらに突っ込んで「誘惑に遭わせず、悪い者から(avpo. tou/ ponhrou/)救ってください」と付け加えて、祈っています。したがって、明らかに、マタイの「主の祈り」は、誘惑の向こう側に、或いは誘惑の中心に「悪い者」が必ず存在することを想定した祈りとなっています。この世は「悪い者」に支配されているため「誘惑」に満ちている、と考えていたと推測することもできます。聖書で「悪」または「悪い者」を表すギリシャ語は「ポネーロス」という字ですが、これは、元々「労苦や苦痛による圧迫」を意味していたようです。しかし、ヘブライの表現として用いられるようになり、具体的に人格化されて「悪い者」或いは「サタン」を意味するようになったようです。新改訳聖書は「悪」と抽象名詞で訳し、どちらかと言えば、悪いことを暗示しますが、新共同訳や口語訳の邦訳聖書は、「悪しき者」「悪い者」として、わざわさ「者」をつけて訳して、背後にはある特定の人格存在があることを暗示します。つまりマタイとマタイの教会は、明らかに、誘惑の背後にサタンの存在を認めていた、と推測することができます。いわば、マタイの教会は、誘惑の中で、決定的な或いは宿命的な悪魔との闘いを非常に強く意識していたのではないでしょうか。しかもその霊的な闘いにおいては、「主の祈り」による覚悟をもって挑み、終末をめざして生きようとしていたと考えられます。だからこそ、単に「誘惑」からではなく、「悪魔」の支配や誘惑からの解放を祈り求めたのではないかと思います。

 

2.悪魔の誘惑に敗北した罪びと

さて、誘惑する者、悪い者、すなわち悪魔ですが、ヘブライ表現でのサタンや悪魔は、新約聖書では多くの場合、「ディアボロス」と表記されますが、その語源に「誹謗中傷する者」という意味があります。神を誹謗中傷して、自分の都合のいいように神の御心やみことばを歪めてしまい、人間や世界から神に対する信頼を奪い取り、神のご支配とご主権を抜き取り、神に取って代わって虚偽が人間の心や世界を支配するように呪縛してしまうのです。人は、本来、徹頭徹尾「神の愛と恵み」によってはじめて生かされ生きるものです。悪魔は、その神のご主権を、愛と恵みのご配慮を、巧みに人間の感情や欲求を利用して人から奪い去るのです。食欲と空腹の不安を利用して石をパンに変える、という虚偽と幻想によって誘惑し、神からの分離を謀り、そして神への背きへと唆すのです。

誘惑を受ける典型的事例が、エデンの園のアダムとエバです。創世記3章はこう告げています。「3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』3:2 女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない触れてもいけない死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』3:4 蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。3:5 それを食べると目が開け神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(創世記3:1~6)。この女と蛇との対話に注目しますと、興味深い所は、蛇との対話により、女の心の中で神のみことばが大きく揺らき始めます。蛇と女の間で大きく食い違い揺らぐ点は、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」という蛇の問いかけに、女は「、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない触れてもいけない死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えます。ところが、蛇は「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると目が開け神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と誘惑します。「どの木からも」に対して「中央に生えている木だけ」と答えながら、ついに「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る」と唆す蛇の狂言の言葉に騙されて、しかも「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け賢くなるように唆していた」とありますように、女の欲望はもはや制御できずに、ついに一線を越えて、神に背いてしまいます。女の心の中に、みことばを通して働く神のご支配が失われた瞬間であります。神との霊とみ言葉における支配は、人間の中から失われるとき、人間は命の源を失うことになります。死と滅びを彷徨うさだめを、人は自ら一線を越えて選び取ってしまったのです。この敗北を決定づけたのは、神のご主権によるご支配を排除して、代わって自分の欲望の支配に身を委ねた所にあるようです。女は、神のご支配を自分の中から放棄してしまい、結局は欲望にすり替えて、神に背き、堕落して、蛇の誘惑に敗北したのです。ここで最も重要なことは、みことばを通して働く神のご主権を讃美と感謝をもって受け入れることができるかどうか、その一点にあります。

ここで蛇の誘惑に敗北した原因について考えますと、敗北を決定づけたのは、言うまでもなく「園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」という神のみことばを選び取ることができず、蛇の誘惑の言葉「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると目が開け神のように善悪を知るものとなる」に負けたためです。なぜ負けたか、と言えば、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け賢くなるように唆していた」からであり、自分の欲望や欲求に隷属するように支配され、その結果、神のことばを捻じ曲げてしまったためです。ここに最も深刻な誘惑の形が明らかにされます。それは即ち、聖書のみことば、神のことばを、自分や人間の考えや欲求のために、従わせ、捻じ曲げ、利用することです。正しく謙遜にそして何よりも従順に、神のことばのうちに働く神のご主権とご支配を選び取らずに、人間の欲望や都合にしたがって、みことばを変質させ利用することです。言い換えれば、神のみことばから、神のご主権とその支配を抜き取ってしまい、自分の欲望支配を入れ替えてしまうのです。これは、まさに自我欲求の神格化偶像化を意味します。聖書の言葉通り、恰も「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る」者になったような幻想の支配に、身を委ねることになります。誘惑の一番に恐ろしい所は、自分の欲求を満たすために、みことばを用い利用してしまうことにあります。神のご支配に従順に従うのではなく、自分の欲求を満たすために、聖書や教会を利用して、神に背くのです。十二分に注意したい、大罪に陥る誘惑は、まさに教会の職務や地位を用いて、或いは聖書の言葉や神学を利用して、人々の信仰を欲望と自己実現の道具にして、支配しようとすることです。そしてついには神の名を用いて、自我欲求の満足を図るのであります。認めて欲しいという自我の承認欲求や立身出世願望のために、教会やその役職を利用することは決して許されることではありません。

ハイデルベルク信仰問答127は「第六の祈願は何か。」と問い、「『我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ』です。それは、私たちは、自分では一時(いっとき)も保ち得ないほど脆く弱い存在です。それゆえ、悪魔、この世のもの、そして自分自身の肉体に至るまで、私たちを待ち構えて付き纏って止まない敵どもは私たちを絶えず試みては私たちに激しい攻撃を加えます。どうか、あなたの聖なる御霊の力によって、私たちを守り、強めてください、そして、これらの敵に対して、絶えず堅く立ち続けて、この霊の戦いで敗れることなく、最後は、完全な勝利におさめさせてください(という祈願です)。」と告白します。ここでしっかり認識すべき点は、自己を正しく理解することです。自分は一時も保ち得ないほど脆く弱い、という徹底した自己理解です。しかも、何に対して自分は脆く弱いのか、と言うと、悪魔を初めとするあらゆる敵の誘惑において、脆く弱いと告白しています。言い換えますと、みことばに従う信仰において神の主権はすでに勝利しているのですが、そのみことばにおける神のご主権という所で、つまりみことばのうちに神のご支配を認めるという信仰において、人間はまことに脆弱である、ということを意味するのではないでしょうか。そこでは、牧師も神学者も、誰であっても、無力であります。そしてただ謙遜で従順であること以外に、なす術はないのです。神のみことばを聴き分ける信仰において、神のご支配が勝利することを祈るばかりです。それはもはや人間の力では不可能なことであり、聖霊の助けと導きを祈る他に方法はないようにも思われるのです。

 

3.世界は「悪魔の誘惑」のただ中にある

人間は、蛇の誘惑のもとに、自ら堕落して、神に背き、神の創造の恵みを失い、死と滅びの中を迷走し続けています。しかし、悲しいかな、神はその人間を深く信頼して、人間の自由な意思を認め、世界と万物の統治を委託します。創世記1章28節によれば、「1:28産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と、神は宣言し、世界の管理責任とその統治を人間に委託します。したがって万物世界の営みは、自然それ自体の営みの原理に基づきつつも、その一方で、人間がしかも堕落の罪を背負った人間が被造物世界の管理運営に大きく関与する権限を得たことになります。ここにさらに深刻な「二次被害」が生じます。罪は人間本性を蝕むだけでなく、堕落した人間本性のもとで世界の管理責任を担うことで、世界万物もまた罪によって蝕まれるのです。人間は、万物から神のご主権を抜き取って、そればかりか、自然万物の自然原理までも蝕んで、万物のすべてを欲望支配のための道具にしてしまおうとする「自我の原理」に益々堕落してゆきました。グローバルな都市化と工業化による環境破壊や温暖化は、人間の意志と欲望によるものですが、それによって地球は大きく痛み病んで深いうめきの中にあります。神による創造の主権的統治とその愛と恵みによる秩序が、人間の罪と背きのもとで大きく歪められ、傷つき痛んでいるのです。人間が汚した大地の痛みは、そのまま自然原理を伴いつつ、天地に響き渡る慟哭となって、人間に覆いかぶさり戻って来るはずです。文明や都市化の中で、自己中心になり傲慢になった人間は、そうした自然の痛みを、恰も神による禍いであるかのように責任転嫁するのです。そうした意味において、誘惑における霊的な敗北の結果、人類は、人間の歴史を中心として世界史全体も大きく罪に堕落し神に背き、死と滅びという悲惨の中にある、と言えるかも知れません。この第六の祈り、誘惑に対して神の勝利を願い求める祈りは、世界全体、万物すべての祈りでもあります。神の創造の恵みのもとに、神の義と平和のもとに、人間は本来の人間性を回復し、万物は人間の堕落支配から神の主権のもとへと回復される必要があるのです。いわば、神の創造の恵みのもとに、神と和解し、神との平和のもとに、人も世界も回復されるのでなければ、誘惑に翻弄され、空しく死と滅びに向かってただ彷徨うばかりであります。人類の文化文明の大きな課題は、世界を誠実に背負いつつ、悪魔の誘惑から脱却して、神との和解を果たすことにあります。

 

4.悪魔の誘惑と闘い、みことばにおいて勝利した主の祈り

主イエスは、悪魔の誘惑において、その決定的な霊的闘いにおいて、きっぱりと「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言い切って、虚偽と幻想に満ちた悪魔「ディアボロス」の誘惑を斥けました。しかも、みことばにおける神のご主権とその支配を完全に全うなさったのであります。その勝利は、まさしく「メシア(キリスト)」としての意味ある勝利でありました。その典型的事例は、何と言っても、荒れ野での誘惑です。マタイによる福音書4章はこう伝えます。「4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4:1~4)。ここから読み取れる誘惑は、非常に意味深い、またとても複雑な状況の中で、進められています。まず聖書によれば、「悪魔から誘惑を受ける」(peirasqh/nai u`po. tou/ diabo,lou)と、誘惑する首謀者とは、明らかに「悪魔」であります。

しかし同時に「“霊”に導かれて」(avnh,cqh eivj th.n e;rhmon u`po. tou/ pneu,matoj)とありますように、そこには「聖霊」が伴われていたことが分かります。直訳しますと、「聖霊によって彼は荒れ野の中に導かれた」となります。つまり、主イエスは、聖霊と共に、メシア(キリスト)として、悪魔の誘惑のただ中に向かったのです。確かに「ディアボロス(悪魔)」が主イエスを誘惑するのですが、しかしその悪魔も誘惑行為もすべては、「聖霊」の働きのもとに、既におかれていたことが分かります。「3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。3:17 そのとき、『これはわたしの愛する子わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:16、17)とありますように、神は御子イエスにおいて神のご主権とご支配を実現なさるのであります。言い換えれば、主イエスは、「聖霊」のご支配のもとで、或いは聖霊と共に、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8章3節)みことばをもって、悪魔の誘惑に打ち勝った、ということになります。神が語る一つ一つの言葉で生きるとは、すなわち、みことばを通して神のご意志と御心に与ることであり、神のご主権とご支配のもとでこそ、人は命の祝福に与り初めて生きることができる、ということになります。踏み込んで言えば、私たち人間の命も生涯もすべては、神のご主権とご支配のもとにある、と宣言したことを意味します。しかも、聖霊の導きの中で、主イエスにおいて、みことばを通して働く「神のご主権」の勝利が明らかに宣言され、確かにされたのです。

主の祈りを祈るその中心で、主ご自身が私たちのメシアとして悪魔の誘惑と闘い、すでに確かな勝利をおさめられているのです。み言葉を通して働く神の支配とそのご主権は、聖霊がすべてを包むような聖なる働きとその導きの中で、主イエスにおいて完全勝利したのであります。これは、単にイエスさまだけの勝利に終わるものではありません。イエスさまを「救い主(メシア・キリスト)」として「教会のかしら」とする、「主の祈り」を祈る共同体の勝利でもあります。すなわち弟子たちの教会の勝利でもあります。主イエスはご自身のためである以上に、ご自身が召し集められた「教会」のために、悪魔の誘惑に対して勝利を収めてくださったのではないでしょうか。しかも、みことばにおける神のご主権とご支配とを完全に全うすることにおいて、悪魔に勝利したことは、とても意味深いことです。なぜなら、「教会」においてこそ、礼拝で聞かれる神のみことばの中にこそ、「神のご主権とご支配」を見出すからであります。そこに、教会の全き希望と生命の望みがかかっているからです。

 

5.神の勝利を先取りし、神のご支配を現在化する祈り

前に、祈りの特質として、祈りには普遍的に終末論的な本質がある、とお話いたしました。祈りとは、天と地とを垂直に行き来する聖なる神の恵みの通路であり、過去・現在・未来を串刺しにして、永遠を確保する恵みの場であり、聖なる神の場である、と申しました。ですから、私たちが、たとえどんな場所にいようと、どんな時にあろうと、祈りにおいては、私たちは「永遠の完成」を先取りすることができるのです。まだ未完成の時の中にあろうとも、すでに実現された完成の時を、今ここに、私たちのもとに現在化することができるのです。それは、祈りという場において、聖霊の働きに包まれつつ、主イエスのお身体において、みととばを通して働く神のご支配とご主権が勝利しているからです。そしてその勝利は常に私たちのために確保され、実現しているからであります。聖霊は、キリストの十字架と復活のお身体とその勝利を、そのまま、私たちのうちにもたらして、私たちをキリストの身体に与らせ、キリストの霊と身体と同じ一つの体にしてくださり、永遠の天における神の御国の勝利へと導いてくださいます。聖霊は、みことばの説教を通して、主キリストを私たちの「かしら」としてくださり、また主キリストは、聖霊に働きとみことばを通して、ご自身が制定された洗礼と聖餐に私たちを与せ、私たちをキリストの十字架と復活の身体としてくださいます。その意味で、私たちは、神によるサクラメンタルな方法で、根源的に「キリストの身体」であり、キリストと共に悪魔の誘惑と闘い、キリストの十字架の死に至るまでの従順においてすでに悪魔に勝利し、神の義を獲得しキリストと共に永遠の命に復活した喜びと完成の中にあります。どこにいようと、どんな時であろうと、私たちはキリストの身体なのです。キリストは、荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝ちましたが、「アッバ、父よあなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)と祈り、十字架の死に至るまで、一方で父なる神の御心を貫き、他方で人間の罪を償い贖ったのです。このキリストをかしらとして、わたしたちはキリストの身体として、キリストの教えられた祈りをささげます。「どうか、あなたの聖なる御霊の力によって、私たちを守り、強めてください。そして、これらの敵に対して、絶えず堅く立ち続けて、この霊の戦いで敗れることなく、最後は完全な勝利におさめさせてください。」と祈るハイデルベルク信仰問答127の祈りは、正に「教会」の祈りそのものであります。聖霊の働きの中で、キリストにおいて、神の主権は完全に勝利し、神のご支配は打ち立てられているのです。

 

6.世界史の重荷を自覚的に担う祈り

祈りは、自分たちのために祈ることも大切ですが、もっと大切なことは、神の栄光が輝くことを喜び祈り、そ世界の贖いのために祈り、そして世界万物とその全歴史を担う祈りとならなければなりません。主イエスをかしらとして、また主イエスの身体として、世界の隣人や万物の贖いを求めて闘い祈る祈りでなければならないはずです。主イエスが、十字架において、私たち罪人のための血を流して悪魔の誘惑と闘われたように、私たちもまたこの祈りを通して、世界の人々のために、悪魔の誘惑と闘うのであります。「8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。8:23 被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」このパウロの言葉における「霊のうめき」は、そのまま、キリスト御自身のうめきであり、またキリストの身体である教会のうめきでもあります。聖霊の働きのもとに、キリストをかしらとする万物が一体となって、祈る祈りではないでしょうか。