2021年5月16日「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」 磯部理一郎 牧師

 

2021.5.16 小金井西ノ台教会 復活第7主日礼拝

『ハイデルベルク信仰問答』問答127~129「主の祈り」(6)

ハイデルベルク信仰問答講解説教67

説教 「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」

聖書 歴代誌上29章10~17節

エフェソの信徒への手紙3章14~21節

 

はじめに. まことの栄光讃美とは

本日の説教の主題は「神への栄光讃美」です。主の祈りの最後の祈り「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」は、言うまでもなく、神への徹底した栄光と讃美の祈りをもって、主の祈り全体を締めくくり結びます。この神の栄光讃美の結びは、「聖書比較プリント」にお示ししましたように、聖書の記述にはありません。ただ、少し後になると、新しい聖書の写本では、マタイによる福音書に登場します。「主の祈り」全文が纏まって登場しますのは、1世紀末か2世紀初頭に、シリア、パレスティナで成立したと『ディダケ―(十二使徒の教訓)』に登場します。おそらく元々は六項目から成る「主の祈り」全体を締めくくる「神の栄光讃美」または「頌栄」として、この第七の祈りは、付け加えられたと考えられます。こうした栄光讃美の祈りをもって纏め上げ締めくくるという形は、ユダヤの伝統に従う慣習でした。共同体の祈りを纏めて締めくくる時に、よくなされました。。

その典型事例の一つが、ダビデ王の祈りです。「29:10 ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。『わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。29:11 偉大さ光輝威光栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。29:12 富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。29:13 わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し輝かしい御名を賛美します。』」(歴代誌上29:10~13)。

キリストの共同体は、このように、あらゆる点で神の栄光と力を褒め讃える栄光讃美をもって「主の祈り」をて纏め上げ、言わば「公同の祈り」として典礼化されると共に、各家庭で日々祈るべき祈りとして規定されて、受け継いで来ました。前述の歴代誌上にあるダビデ王の祈りの背景には、ダビデ、ソロモンを中心としたイスラエル国家全体をあげての神殿建設がありました。「神殿建設」という形で、国を挙げて神への栄光讃美をささげようとしたのです。神の栄光を讃美し、御名を褒め讃え、頌栄を捧げる、その神の民の共同体の祈りと礼拝が、そこにはありました。主の祈りの第七の祈りは、こうした厳粛な伝統を受け継いだと考えられます。

しかし、ハイデルベルク信仰問答には、弟子たちがどのようにその伝統を受け継ごうとしたか、そこに決定的な意味と、そしてまた伝統とは本質的に異なる大きな意味を見出だしています。ダビデの栄光讃美には、国家をあげての神殿建設がありましたが、主の祈りを受け継ぐ主の共同体の背景には、単なるユダヤ教の歴史伝統の継承ではなく、新しく成立した「キリストの教会」があった、ということであります。決して単純な意味でユダヤの伝統にしたがって祈りを締めくくろうとした、というわけではないのです。大事な点は、ダビデやソロモンを中心とするイスラエル国家は、「神殿建築」を通して、神にのみすべての栄光と讃美を捧げようとしたのですが、その時、その時代の誰もまだ神の栄光を本当に現す出来事を知りませんでした。神の栄光がどのようにしてあらわされるのか、全く予想できなかったはずです。まさか、神は、「イエス・キリスト」というお方において、神の独り子が人間の肉体において受肉し、罪人や異邦人までも「神の民」として「神の国」へ招き、しかも十字架において「贖罪の死」を成し遂げることによって、神の栄光を現わす、ということは心にも及ばないことでした。人類は「キリスト」の到来において、初めて本当の「神の栄光のお姿」と出会い、その栄光が何たるかを知ることになったのです。神殿建築をさらに超えて、キリストにおける神の愛と赦しを深く認識して、信仰によって受け入れ、キリストにおいて神の永遠の栄光を褒め讃え、キリストを通して神に感謝し、讃美をもって崇めること、それこそが、最も相応しい神への栄光讃美となる、という新しい共同体の栄光讃美がここにはっきりと見ることができます。厳密に言えば、私たちが神に栄光讃美をささげる、というよりも、主イエス・キリストの十字架と復活を通して、主イエスにおいて、そしてその信仰において、歴史上初めて、私たち人類は相応しい神への栄光讃美をおささげすることができるようになったのです。

 

1.最も相応しい神への栄光讃美は、神の独り子であるメシア(キリスト)による

ハイデルベルク信仰問答128は、「どのようにあなたはこの祈りを締めくくるか。」と問いまして、「『国と力と栄えとはなんじのものなればなり』(と締めくくります)。それはすなわち、私たちがあなたにそのようなものをすべて請い願うのは、あなたこそ、私たちの王として、またあらゆることにおいて大いなる方として、善きものはすべて、私たちに、御心と御力をもってお与えくださるからです。しかもこれによって、私たちではなく、

あなたの聖なる御名が永遠に褒め讃えられるようになるからです。」と答えます。まず問いで「締めくくるか」と明記して、六項目の祈り全体を纏めて締めくくるという役割を明らかにしたうえで、答えでは徹底して「神への栄光讃美」をもって貫いています。

前に「祈りの本質」とは「生ける神と出会う場」であり「神の恵みに与る通路」であると申しました。祈りの意味と力は、まさにこの神との出会い、神の恵みに与る所にあります。言い換えれば、生ける神と出会い、生ける神の愛に触れ、生ける神の命と力に与ることができる、そこに「祈りの確かさ」があります。しかしさらに多事なことは、この「祈りを確かさ」を誰が保証することができるのか、という祈りの根拠にあります。「祈りの根拠」となり、祈りを根元から保証できるお方はただ独り、主イエス・キリストご自身であります。

イザヤは「彼らが呼びかけるより先にわたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける」(イザヤ65:24)と預言し、神のお約束を告げました。この預言は、明らかに、メシア・キリストにおける救いのご計画に基づいて、御子イエス・キリストの派遣を前提にした預言であり、約束である、と言えましょう。この「祈りの場」そして「約束の場」が、天地を貫きかつまた時間軸を超えて永遠の神に至る「神の恵みの通路」となる保証と根拠は、まさに「主イエス・キリスト」ご自身において、実現した保証であります。確かに、ダビデもソロモンも国をあげての神殿建設をもって、すべての栄光を神に帰そうとした、神殿礼拝こそが唯一真の神による恵みの通路と考えたました。それは間違いではなかったのですが、残念ながら、彼らはまだその本当の保証を得てはいませんでした。当然ながら、人間の手で建造した神殿にはその保証の力はなく、やがて神殿は崩壊し、イスラエルは滅亡してしまいました。結局、ユダヤの民は、根本から「神の栄光」を見失い、今もなお、見失ったままのよに思われます。

しかし、主イエスの到来において、新たに選ばれ招かれたこの祈りの共同体は、初めてイエス・キリストというお方において、生ける神と出会い、生ける神の命と力に与る「恵みの通路」の保証を得たのです。言い換えますと、完全な神の栄光讃美は、ただキリストお独りにおいて、実現可能なことであります。十字架に死に至るまで従順を貫いて神の御心を完全にかつ純粋に実現したお方、神の栄光を余すところなく完全にご自身の受肉においてしかもその十字架の死と復活において現わされたお方、したがって神の栄光の本質を完全に実現された主イエスにおいてのみ、初めて可能な栄光讃美であります。キリストにおいて、キリストを通して、キリストと共に、はじめて地上から天上へと永遠の神に届く栄光讃美であります。人間の罪に汚れた手で造ったこの世の神殿では、どれほどそれが壮大堅固であったとしても、結局、真実な意味で「神への栄光讃美」にはならないのです。これは、今の私たちの教会についても、ある意味で言えることではないでしょうか。教会の「本質」は、建物や数、財力の大きさにはないのです。教会の本質は、ただキリストにおいてあり、キリストの愛と恵みによるものであることを、教会信徒は十分に認識しておく必要があります。譬え一人二人であろうと、そこにキリストがおられる、それが「キリストの身体」である、という一点にのみ、教会の本質はあるからです。現代の教会は、このことをいよいよ深く覚えるべきでありましょう。

 

2.「新しい神殿」における神への栄光讃美

さて、改めて六つの祈りの特徴を振り返ってみますと、何と言ってもまず「神」を「われらの父」と呼び掛ける祈りである、ということにあります。神を「父」と呼ぶなどということは前代未聞であり、ユダヤの伝統では決して考えられず、あり得なかったことです。しかし敢えて唯一永遠の創造主なる神を「われらの父」とお呼びすることで、「主の祈り」は、それによって初めて、真実な祈りとして、成立するのであります。ここに、決定的な主の祈りの特徴があります。主の祈りは、神を「われらの父」と呼ぶのでなければ、絶対に成立しない祈りなのです。そしてこの祈りの主題は、1「御名の崇拝」、2「御国の到来」、3「御心の成就」、4「日毎の命の糧」、5「罪の赦し」、6「誘惑と悪からの救い」と続きますが、御名も、御国も、御心も、命の糧も、罪の赦しも、そして誘惑も、そのすべてにおける栄光と勝利は、ただ主イエス・キリストお独りにおいて、実現し完成成就した出来事ばかりです。ダビデやソロモンは、人の手で造り上げた神殿によって、神に栄光と讃美をささげましたが、この主の祈りにおいては、人の手ではなく「キリストのお身体」を通して、実現された神の栄光のみわざを褒め讃えて、讃美をささげるのであります。

主イエスはこう弟子たちに語りました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコ13:2)と、主は仰せになり神殿崩壊を予告しました。さらに「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2:19)「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」(マタイ26:61)と、宣言なさいました。主イエスは、ご自身のお身体をもって、神への栄光讃美の場としたのです。ここで言われる「三日で」とは、即ち「20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」(マタイ20:19)とされる、主イエスの「十字架の死」と「復活」のお身体を示して言われたことは言うまでもありません。

わたくしたち人間は、常に神に背き続ける、傲慢と無知が支配しています。何をどうしようとも、私たちには神を正しく拝むことができないのです。たとえどんな立派な神殿を建てて荘厳な礼拝を行ったとしても、結局は、ダビデやソロモンがそうであったように、その荘厳な神殿礼拝の中で、罪を宿し罪を抱えてしまうのです。何と悲しいことでしょうか。私たち人間が何をどうしようと、偽善や見せ掛けではなく、本当の意味で、神に栄光を帰する讃美礼拝にはならないことを、主イエスはよくご存じでありました。主イエス・キリストただ独りが、ご自身のお身体を通して、主の十字架の死に至るまで父なる神に従順を尽くし、ご自身のお身体をもって肉を裂き血を流してご自身のすべてを贖罪の生贄として献げ、それによって、ついに神のご主権を守り抜き、神の義とご支配を正しく示し、唯一真の神の存在を世に啓示したのであります。しかもそれは、愛と救いの神として、唯一真の神をご自身の受肉したお身体をもって啓示したのでした。「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とヨハネが証言する通りであります。「主の祈り」は、その根源根底から、純粋かつ完全に神に栄光と讃美を捧げるためには、奉献されたキリストの身体そのものを前提にしており、主の身体を土台として建てられた祈りであることがよく分かります。それがまさに神を「われらの父」と呼ぶことでしか、成立しない主の祈りの本質であります。

 

3.「キリストの身体」における真の栄光讃美

主の祈りの冒頭で、私たちは「天にましますわれらの父よ」と祈りますが、ここには、決定的に重要な意味が明らかにされています。天にいます神を「われらの父」と呼ぶのですが、神を「父」とお呼びになられたのは、ただお独り、主イエス・キリストだけです。それは、事実、主イエスだけが神の永遠の独り子であられるからです。神の唯一永遠の神の独り子であるキリストだけが、神を「父」と呼ぶことができる、その特権を、私たち罪人集団にもキリストは与え、罪人集団に神を「われらの父よ」と呼ぶことをお許しになられたのです。なぜ、主イエスに、それができたのでしょうか。なぜ、父なる神は御子にそれをお許しになり、お認めになったのでしょうか。元々私たちは汚れた罪びとです。神のみ前に立つことすらできないはずです。神に背き続ける罪びとが神の御前に立ち、神を「父」と呼ぶことができる理由は、ただ一つ、それは、私たちの罪を償うために、キリストが「生贄としての血」を流して、「贖罪の生贄」としてご自身を神にささげられたから、に外なりません。

最初の人類であるアダムとエバは、「蛇の誘惑」に破れて、堕落して神に背き、神の義と祝福を失いました(創世記3章)。そしてその直後には、人類最初に生まれた子どもは妬みにより弟を殺すという世界最初の殺人を、しかも兄弟殺人を犯すのであります。それ以来、全人類は常にかつ普遍的に「罪」に支配され、死と滅びの中を彷徨い続けて来ました。しかし主イエスは、私たちを罪と死から解放するために、十字架の贖罪と復活の祝福をもって、神の愛と義と命を、その根源的な祝福を取り戻してくだいました。しかも主は、十字架において、ご自身のすべてを「贖罪の生贄」として献げてくださったのです。しかもその十字架奉献の直前に、裏切り者のイスカリオテのユダも含めまして、弟子たちを皆「最後の晩餐」にお招きになられ、十字架で贖罪の生贄となさるご自身の「お身体」を弟子たちに分かち与えられました。そうしてキリストは、ご自身のお身体を、私たちのために与える「贖罪のお身体」となさって十字架の死において献げ、三日目には「栄光の身体」として復活をもって、永遠の命の祝福となさったのです。キリストは、私たちに分け与えてくださったご自身のお身体に、ご自身の霊と命を注ぎ込んで、「贖罪の生贄の身体」と「栄光の復活の身体」となさったのであります。簡潔に言えば、神の唯一永遠の独り子であるキリストは、私たちを選び、ご自身の十字架と復活のもとに招き、そして洗礼と聖餐を通して、ご自身の贖罪と復活のお身体を私たちに分かち与え、まさに文字通り血肉を分けた兄弟として神を「われらの父」としてくださったのです。主キリストは、ご自身のお身体を私たちに与えることで、私たちを本当の「神の子」となし、したがって「御国の相続者」としてくださったのです。それゆえ、洗礼と聖餐というサクラメントを通して、私たちは「キリストの身体」を確かに着るのであり、キリストの身体を確かに着ることを通して、神は私たちの「父」となり私たちは神を「父」を呼び、そして主の祈りを祈るたびごとに、そこで、私たちは「神の子」として守られ養われるのであります。大切なのは、私たち自身が「キリストの身体」そのものとされている、その大きな恵みの中で、私たちは「われらの父よ」と言って、主の祈りを捧げている、そういう栄光讃美なのだ、ということにあります。締めくくりの栄光讃美と申しますが、まさにその栄光讃美を真実な意味で可能とする根拠は、ただ一つ十字架と復活を通して神の栄光を現わしたキリストの受肉にありそのお身体にある、しかも私たちはそのキリストの身体である、ということにあります。

 

4.終末を待ち望む教会の祈りの力と感謝と讃美の応答

私たちは、キリストをかしらとする「キリストの身体」を分かち合い共有することで、キリストの全存在を受け継ぎ、神を「父」と呼び、「神の子」とされ、「御国の相続人」とされました。ここから、決定的な私たちの存在の本質も明らかになります。主の祈りにおいて、私たちは紛れもなく既に「神の子」であり「御国の相続人」であります。これは二度と揺るぐことはありません。主の祈りを祈ることを通して既に確定している神の事実であります。それは、私たちは既に「キリストの身体」とされ、キリストの身体を着た存在であるからです。私たちは、「神の子」としての自覚と信仰に堅く立って、主において神にお応えするのでなければなりません。したがって、主の祈りにおけるこの結びは、「キリストの身体」としての応答でもあります。すなわち「教会」としての普遍なる応答でもあります。この教会の民として応答する自覚について、パウロはフィリピの手紙で教えます。「3:20わたしたちの本国は天にありますそこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ3:20)。パウロはまず私たちの国籍は天国であることを宣言します。しかし同時に天国に所属するものの、その天からキリストが再臨されるのを待つ身でもあることを告げます。この自覚には二重性があるように思われます。一つは、本質的で永遠不動の真実として「われらの国籍は天にあり」と告白します。もう一つは、時間的制約の中にあって「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と告白して、「待ち望む」共同体としての自覚を表白します。しかしその待つ間も、「あなたこそ、私たちの王として、またあらゆることにおいて大いなる方として、善きものはすべて、私たちに、御心と御力をもってお与えくださる」とハイデルベルク信仰問答128は告白しています。

そして、パウロは私たちの基本的な生活の在り方としてこう教えています。「12:1自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかわきまえるようになりなさい。12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマ12:1b~3)。

一言で言えば、正しく神を信じ、その信仰によって謙遜に生きる、ということでありましょう。その信仰の源泉として、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げる」ことを明記しています。ただ、これは私たち自分の力ではできない行為であり生き方です。唯一可能なのは、キリストの贖罪の死と復活における神の恵みを知り、そのキリストの十字架と復活のお身体としていただく、という大きな恵みの中に絶えず新たに生まれ生かされることにあります。キリストの霊とみことばによって魂は常に新しく養われ、キリストご自身が聖なる生贄としてお献げになられたキリストのお身体を日々分かち与えられて、キリストの身体として養われることの外にありません。まさに私たちの生き死には、キリストと共に、キリストの身体のうちに、キリストの身体として、日々新たにされ養い続ける中にあります。そうした日々の謙遜で、感謝と喜びに溢れた信仰の生活にこそ、私たちの唯一真なる神への栄光と讃美はあるのではないでしょうか。