2021年5月23日「われは、聖霊なる神を信ず」 磯部理一郎 牧師

2021.5.23 小金井西ノ台教会 聖霊降臨日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答53

聖霊なる神について(1)

 

 

問53 (司式者)

「『聖霊』について、あなたは何を信じるか。」

答え (会衆)

「先ず、聖霊は、御父と御子と共に、永遠の同一本質なる神です。

次に、聖霊はまた、私たちのために与えられており、

わたしのために、真(まこと)の信仰を通して、キリストにあずからせ、

キリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださり、

わたしを慰め、わたしの傍らに永遠(とこしえ)までも共にいてくださるのです。」

 

2021. 5. 23 小金井西ノ台教会 聖霊降臨日礼拝

ハイデルベルク信仰問答53 「聖霊なる神について」(1)

ハイデルベルク信仰問答講解説教68

説教 「われは、聖霊なる神を信ず」

聖書 ヨハネによる福音書14章15~17節

コリントの信徒への手紙一2章1~16節

 

はじめに. 聖霊のご降臨をお迎えして、新しい救いの段階に入る

本日は、主イエスが天の父のみもとへお帰りなられ、聖霊なる神さまを別の助け主として遣わされた、「聖霊降臨日」です。教会はこの新しい救いの段階をお迎えしたことを大きな喜びとして教会暦に覚え、また記念して「聖霊降臨日」礼拝、またはユダヤの暦で申しますと「ペンテコステ(五旬節)」となります。イエスさまは、四十日に渡り、「栄光の復活のお身体」をもって、弟子たちと寝食を共になさり、そしてついにその栄光のお身体と共に天に昇ってゆかれ、代わって五旬節に「聖霊」をお送りくださったのです。

使徒言行録によれば、「1:8 『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、1:11 言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」(使徒言行録1:8~11)と伝えています。

ここから、救いのご計画は、さらに新たな段階を迎えることになります。神さまがこの歴史上で展開なされる救いの歴史を「救済史」と申しますが、その救済史は、旧約聖書から新約聖書の記述に基づいて、つまり神さまが歴史上にそのみわざを示された数多くの歴史的証言と証しに基づいています。まず神さまは、「創造主」なる神さまとして万物を創造を創造され、万物を神さまのご配慮と摂理のもとにおかれました。中でも人間は、神の特別なご恩寵のもと神に似せて造られ、「神の像(かたち)」として、しかも直接「神の息」を人間の鼻の中に吹き入れて創造されましたので、神は人間を尊重して万物の統治をご委託なさいました。しかし人間は「蛇の誘惑」に負けて、堕落し、神に背き、罪を犯してしまい、神の祝福を失い、死と滅びの中を彷徨うことになってしまいました。そこで神は人を深く愛し憐れんで、罪による死と滅びから人類を救い出すために、神の独り子をイエス・「キリスト」(救い主)として、聖霊によって処女マリアの胎内に宿らせて、肉体をもった受肉のキリストとして、世にお遣わしなられました。イエス・キリストは、人間に代わって人間を罪とその裁きから解放するために、ご自身の命と身体を贖罪の生贄として、十字架に献げて、人間に代わって罪を償い、十字架の死に至るまで徹底して神への従順を尽くして、死んでゆかれました。それゆえ神は、キリストを死からその肉体と共に三日目に復活させて命の祝福をお与えになられました。そればかりか、神はついに主キリストのご復活をもって、人類の復活再生の約束となったのです。こうして、罪と滅びに支配されていた人間は、神の御子であるキリストによって、完全に罪を償われ、永遠の命へと贖われた(買い戻された)のであります。神は、神のご計画に基づいて、天にいます神のみもとへと帰り右におられるキリストに代わる助け主として、新たに「聖霊」を遣わして、残された弟子たちを終末の完成に至るまで守り導くのであります。それが「聖霊の降臨」です。こうして神は、今や、「キリスト」に代わり「聖霊」によって、人類をはじめとする万物を完全なる救いの完成へと導くのです。「創造」から、神と人との関係回復する、すなわちキリストの贖罪による「和解」を経て、今や、万物は完全な完成に至る段階、すなわち「救贖」という新しい救いの段階を迎えたのです。

「聖霊」が遣わされたことで、「使徒」が立てられ「福音の証人」として世界宣教のために派遣されます。そしてキリストによる救いを証言する「神のみことば」によって福音宣教が開始されました。「神のみことばを伝える」ことを通して、すなわち「キリストご自身」を証し、キリストの語られた「説教」を告げ知らせ、キリストの制定されたサクラメント(洗礼と聖餐)を行うことを通して、「キリストの霊と身体の交わり」を実現して、そこに天のキリストをかしらとする「地上のキリストの身体」すなわち「教会」をたて、人々を悔い改めと信仰を通して招き集め、神の民、神の家族とする時代を迎えたのです。そのような意味で、まさに、私たちは「教会」による救いの最終段階にあります。

 

1. 聖霊は、御父と御子と共に、永遠の同一本質なる神です

ハイデルベルク信仰問答53によりますと、聖霊なる神について、こう告白します。「『聖霊』について、あなたは何を信じるか。」と問いまして、「先ず、聖霊は御父と御子と共に永遠の同一本質なる神です。次に、聖霊はまた、私たちのために与えられており、わたしのために、真(まこと)の信仰を通して、キリストにあずからせキリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださり、わたしを慰め、わたしの傍らに永遠(とこしえ)までも共にいてくださるのです。」と告白します。聖書における啓示の根幹が、まず第一に表白されます。キリスト教信仰がよって立つ基盤であり土台であります。この信仰がはっきりしないと、絶対にキリスト教にはならない、ニケア信条の教理が厳粛に受け継がれ、告白されています。すなわち「聖霊は御父と御子と共に永遠の同一本質なる神です」と告白します。何と言っても、聖霊はその本質において「神」であって造られた被造物ではないのです。したがって当然のことながら、父と子と並んで、礼拝で拝むべき対象とならなければなりません。私たちの教会はスコットランド教会式文に倣って、教会暦を聖霊降臨後第〇主日と表しています。これは本来の古い教会の伝統にしたがえば、三位一体の主日となります。つまり私たちキリスト教の礼拝は、「父・子・聖霊」の3位格を同時に「一体の神」として、礼拝し拝むのです。なぜなら、御父と御子と聖霊は共に「永遠の同一本質なる神」だから、そのように三位格を一体の神として礼拝いたします。ですから、週報の暦は、来週からはクリスマスや十字架と復活のキリストに加えて、聖霊が地上に降臨したのですから、神を三位一体の神を神として礼拝する主日となります。

この父と子と霊の三位一体の神について、しかも聖霊なる神について、ニケア信条は「聖霊は、命を与える主であり、父と子から発出し(evkporeuo,menon)、父と子と共にともに礼拝され(sumproskunou,menon)あがめられ(sundoxazo,menon)、預言者を通して語られました。」と告白しています。またヨハネによる福音書は「14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ14:16, 17)と証言しています。つまり神は聖霊を遣わされることで、そして私たちは聖霊を信じ、聖霊を受け入れ宿すことで、聖霊においてそっくりそのまま三一体の神と永遠に共にいることになる、というのであります。キリストは天におられるので、地上にはおられないと考えるのは、人間だけに偏った余りにも物理的で合理主義的な考えにすぎません。神を信じ、神に従うという信仰に立つのであれば、合理主義や物理主義に偏るよりも、聖霊の神としての恵みと働きにおいて、私たちは永遠に三位一体の神のすべてと共にあることに、確かさと喜びを覚えるべきであります。本質的に神は「三位一体の神」であるからです。

 

2.聖霊は、真の信仰を通してキリストにあずからせ、キリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださる

問答53は次いで「聖霊は、私たちのために、真(まこと)の信仰を通して、キリストにあずからせキリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださる」と告白します。その直前では「聖霊はまた、私たちのために与えられており」とあります。このように、父なる神や子なる神と大きく異なる「聖霊」の神の特徴は、私たちに与えられるという形で、私たちのうちに現存してくださる神である、ということにあります。これは、とても意味の深いことです。キリストは処女マリアから私たち人間の肉体を取り、ご自身も人類として人間性のうちに過ごし、人間性そのものを背負って、十字架の死に至るまで罪を償い従順を尽くして、神の義を人間のもとに回復してくださいました。それによって私たち罪人である人間は救われ、永遠の命のもとに集められたのですが、今度は、「聖霊」が私たちのうちに内在内住することで、私たちを完全な完成へと守り導いてくださるのです。キリストはそのお身体をもって神との和解を果たしてくださいましたが、聖霊は私たちのうちに与えられ、私たちの内に住み、私たち自身を成長させ聖化させて永遠の命へと守り導きます。それが、聖霊による聖化であり、救贖のわざであります。

聖霊のさらに大切な恵みある働きは、キリストと一体に働くことです。キリストと全く別な所で、別な仕方で、聖霊は決して単独で働くのではないのです。聖霊の信仰で間違い易い点は、何か聖霊だけで神がかるように考えてしまいがちですが、そうではないのです。聖霊は、むしろ益々「キリストの身体」として、益々「キリストの恵み」を私たちのうちに実現してくささるのです。言わば、キリストと私たちとを繋ぎ合わせてくださるのです。

パウロは「聖霊」についてこう証言しています。「3:11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。3:14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、3:15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように救われます。3:16 あなたがたは自分が神の神殿であり神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(Ⅰコリント3:11~17)。このみ言葉は、とても意味深い、そしてとても解釈の難しい所でもあります。文面からすると、明らかに、私たちは「キリストの土台」の上に立てられた神の神殿であり、終末における審判の燃え盛る火に、どれほど激しく厳しく吟味されようとも、その裁きの火をくぐり抜けた者のように、救われる、とまず「キリストの身体」としての私たちは燃え尽きない、裁かれても耐えうる、と言い切っています。しかも前後の文脈は、飛躍しますが、間違いなく、聖霊は私たちの内に住んで、自らそうした神の神殿として、即ちキリストの身体として、私たちを造り上げてくださる、と説いています。つまり、ハイデルベルク信仰問答53では「キリストにあずからせキリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださる」と告白していました。パウロは、それをさらに「あなたがたは、自分が神の神殿であり神の霊が自分たちの内に住んでいる」からである、と告白しています。ここで問答の最も注目すべき点は「キリストにあずからせる」Christi theilhaftig macht (makes partaker of Christ)ということです。つまり罪に汚れた私たちが、聖なるキリストを受け取ることができるように整えて、さらには実際に「キリストの身体」そのものに結び付け、ついには、栄光勝利の「キリストの身体」に与らせ、その身体と一体なるように、聖霊は徹底して私たちが「キリストの身体」に成り尽くすように、守り導くのです。そうして聖霊が私たちのうちにあって、私たちのうちに実現し成し遂げてくださった「キリストの身体」を、パウロは「神の神殿」と呼んでいます。死の中を、しかも紅蓮の炎に焼かれる陰府にもくだりつつも、三日目には栄光の勝利の復活を遂げられたキリストのお身体そのものとして、聖霊は最後まで私たちを育み育てるのです。したがって問答53の告白する通り「キリストのあらゆる恩恵にもあずからせてくださる」ということになります。聖霊は、私たちを「キリストの身体」として、造り変えてくださった、だから、パウロは「神の神殿」と呼んだのでありましょう。キリストの贖罪の死と栄光の復活の身体として、新しい身体を新しい人間性を神の神殿として、二度と滅びない神の神殿として、聖霊は、私たちを立て直してくださるのであります。だからこそ、裁きの火に焼かれても、救われて、燃え尽きることはないのです。

私事で誠に恐縮ですが、わたしは思春期に母を末期癌で失いました。そして冷たくなった物言わぬ死体を抱え続けたことを忘れられません。父もその50年後に亡くなりました。ただ、そうした両親の死で、最も辛く堪え得なかったのは、燃え盛る火をもってその遺体を焼き尽くすことでした。結局、枯れ木と塵のように変わり果てた姿を呆然と見つめるばかりでした。これからの私自身も、愛する妻や子供たちも、全く同じように、燃え尽きてしまうのでありましょう。しかし聖霊は、キリストのお身体として、母の身体も父の身体も新しく立て直してくださるのであれば、それこそそれは大きな慰めであり希望であります。そうであれば、キリストの身体としての新しい身体をもっと大事にして、これからは生きよう、と強く思います。私たちは、「キリストの身体」として、永遠に共に生きるからです。こうして聖霊は、私たちのために、私たちのうちに現臨し内住し、私たちを復活の身体へと造り変えてくださるのであります。

 

3.聖霊は、わたしを慰め、わたしの傍らに永遠まで共にいてくださる

皆さんは、ご自分の一番の幸せはどこにあるか、一番の慰めとは何なのか、お考えなったことがあるでしょうか。何が、本当の、しかも人生最大の、「慰め」であり「幸い」なのでしょうか。私たちの罪ある所は、いつもこうした慰めや幸せを、キリストと切り離して、神さまから切り離して求める所に生じます。言い換えれば、神から離れキリストを無視した所で、自分の欲望を中心にして、自分勝手に幸せや慰めを求める傾向にあります。だから、本当の慰めや人生最大の喜びや幸せが分からなくなってしまうのです。大事なことは、キリストと出会い、神を知ったことが、人生最大の恵みであり喜びである、ということがいよいよ正しく深く、分かるようになることが、信仰生活においては大事な課題ではないでしょうか。

問答53は、最後に「キリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださり、わたしを慰めわたしの傍らに永遠(とこしえ)までも共にいてくださる」と告白します。キリストの恩恵とは何でしょうか。しかもあらゆる恩恵です。問答は、その中心となる一つとして、慰めて元気づけてくださる(trösten, comfort)と言っています。ハイデルベルク信仰問答1の冒頭の問い「生きるときも死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何か」という問いをすぐに想い起すのではないでしょうか。そして答えで、「わたしは、生きている時もまた死ぬ時さえも、わたしの身体(からだ)と魂のすべてが、自分のものではなく、わたしの真実(まこと)の救い主イエス・キリストのものである、ということです。主キリストは、貴(とうと)き血潮(ちしお)をもってわたしの一切の罪のために完全に償(つぐな)ってくださり悪魔のあらゆる力からわたしを救い出し今も守っていてくださいます。それゆえ、天の父の御心(みこころ)によらなければ、わたしの頭から髪の毛一本も落ちることはできないのです。そして万事が、わたしの祝福として必ず役立つようになるのです。したがって主キリストはまた、その御霊(みたま)によってわたしに永遠(えいえん)の命を保証してくださり、今から後も、わたしが心から喜んで主キリストのために生きることができるようにしてくださるのです。」と答えいます。本当の慰めとは、たった一つの慰めしかないのです。中でも、信仰を通して、初めて知りうる「慰め」である「キリスト」というお方を本当に知らなければ、決して言い表すことのできない慰めです。それが「生きている時もまた死ぬ時さえも、わたしの身体(からだ)と魂のすべてが、自分のものではなく、わたしの真実(まこと)の救い主イエス・キリストのものである、ということです」。多くの方々が、自分は自分のものであって、他人のものではない、と考えると思います。それなのに、敢えて「わたしはキリストのものである」と言い切って、そこに本当の慰めがある、と言えるのは、明らかに、キリストを知りキリストと共に暮らす中で初めて知る経験です。本当の信仰生活ゆえに、与えられた真実の慰めではないでしょうか。

先ほどの問答53にありましたように、「慰め」という字は、英訳ではcomfortという字を使います。語源は「要塞」を意味します。つまり強力な軍隊が自分の内に常駐している、という字です。それによって守られ元気づけられ慰められる、という意味です。ですから大事なのは、強靭で堅固な軍隊が常駐している、という強い要塞の中で自分は守られている、という確かな現実実態がある、ということです。したがって、それは決して「気休め」に終わることではありません。先ほどの紅蓮の火で焼かれても、それをくぐり抜けるほどの、堅固な要塞によって常に自分は守られている、そういう「確かさ」です。神は「わが盾」「わが櫓」と申しますが、まさに「わが要塞」です。それが「慰め」という言葉の意味です。

それには、確かな根拠があります。問答1は、その慰めの確かな根拠として、「主キリストは、貴(とうと)き血潮(ちしお)をもってわたしの一切の罪のために完全に償(つぐな)ってくださる」と、実際にキリストが降って来られ、十字架で血を流して死んだではないか、と告白します。自分のために血を流し、自分のために死死んでくださった方がおられる。自分のあらゆる罪過を償い尽くし、命を尽くしてくださるキリストがおられる。そんなことは、血肉を分けた家族でも親子でもできないことです。しかも「悪魔のあらゆる力からわたしを救い出し今も守っていてくださる」のです。あらゆる力からの救いと守りがいつも自分にはあるのです。特に最も恐るべき力は、自分を罪と死と滅びに引きずり込んでゆく悪魔の力です。まさに、ここにはあらゆる力からの完全な解放がここにあります。聖霊は、まさにこの慰めを、その力強く堅固な要塞を、私たちの内に築いてくださるのです。人間が人間であることの、本当の尊厳を満たす喜びと誇りは、いったい、どういう所に見出すことができるでしょうか。問答はわざわざ「生きている時もまた死ぬ時さえも、わたしの身体(からだ)魂のすべてが」と言っています。「わたしのすべてが」しかもそれは「肉体」においても「魂」のすべてにおいても、キリストのものである、取っています。肉体においても、そして魂においても、人には、死もあれば、老いもあれば、また病もあります。心の辛酸も肉体の苦痛も付きまといます。「キリストのもの」という元の字は、クリスティアーノスという文法的にはキリストの所有格を表す字から生まれた新約聖書の言葉です。しかし所有格というように文法的に読むよりも、もっと人格的な意味に読むべきです。それを示すのが、問答53の「わたしを慰め、わたしの傍らに永遠(とこしえ)までも共にいてくださる」という信仰告白です。所有関係よりも、わたしの傍らで共に暮らし、共に泣き共に苦しみ、そして共に喜ぶのです。キリストに所属するとはどういうことなのでしょうか。キリストは十字架の死に至るまで、私たちの人間性を捨てませんでした。最後まで痛み苦しみました。それはすなわち、私たち人間の傍らにとこしえまでも共におられるためでありました。私たちは、洗礼を受けて、新しく生まれ、教会の伝統によって新しい名前が付けられて、クリスチャン(キリストの者)として、十字架の死と復活の命を新たに着た生涯を始めます。そして説教と聖餐を通して、私たちは肉体においても魂においてもすべてが「キリストの身体」としてまた「キリストの霊」をもって養われ、復活体という身体と霊における永遠の命を完成するに至ります。キリストのものになるとはそういうことであります。まことの人間性がそこに完成するのです。それを成し遂げてくださるもう一人の助け主こそ、聖霊なる神であります。