2021年6月13日「父の家を商売の家にしてはならない」 磯部理一郎 牧師

 

2021.6.13 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第4主日

ヨハネによる福音書講解説教2

説教 「父の家を商売の家にしてはならない」

聖書 エズラ記5章6~17節、詩編69編10節、列王記上8章1~10節

ヨハネによる福音書2章13~25節

 

「詩編69:10 あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。」

 

「ヨハネ2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。

2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。

2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らしその台を倒し

2:16 鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家商売の家としてはならない。』2:17 弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。

2:18 ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。2:19 イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』

2:20 それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、

2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」

 

 

はじめに. 問題の所在:過越の祭りにエルサレム神殿に詣でる主イエス

「過越の祭り」はユダヤの暦でニサンの月15日に、太陽暦に直しますと、4月の中旬頃に始まります。ヘブライの人々にとって決定的なユダヤ解放の歴史事件となったモーセの「出エジプト」を記念する祭りで、ユダヤ3大祭りの中でも最も重要な祭りが始まるのです。「過越の祭り」では、「過越の子羊」の儀式と元々農耕を起源とする「種を入れないパンの祭」(農耕祭)が併合されて行われていたようです(出34:25,民28:16‐17,エゼ45:21等)。家庭では、この過越の食事のために、家族の人数に応じて傷のない一歳の雄の子羊が選ばれ,14日の夕暮に屠られ(出12:6,レビ23:5)、その血は家の門柱とかもいに塗られ、子羊の肉はその頭も足も内臓も火で焼かれ(出12:9)、その骨を折ることは許されず(出12:46)、その肉は種を入れないパンや苦菜と共に規定通り(出12:8)に食されますが、翌朝まで残してはならず、朝に残されたものは火で焼かれました(出12:10,34:25)。主イエスは、十字架につけられる直前に、この過越の食卓に弟子たちを招き、所謂「最後の晩餐」として、ご自身こそが過越の犠牲の小羊であり、主の十字架の犠牲によって、人々は死を過ぎ越して永遠の命に至るという神の新しい契約となると約束して、聖餐の食卓は基礎づけられ、弟子たちに分け与えられました。シリア・パレスチナに住む19歳以上の男子は皆、神殿で犠牲を献げるために、エルサレム神殿に向かうなければなりませんでした。巡礼者として大勢の「ディアスポラのユダヤ人たち」も世界中から集まって来たようです。ある註解書は「225万人もの多くのユダヤ人が、過越を守るために『聖都』に集まった」(ウィリアム・バークレー著/聖書註解シリーズ5『ヨハネ福音書上』1968, 149頁)と記しています。神殿で犠牲奉献には、二つの重要な掟がありました。一つは、半シェケルの「神殿税」を支払うことで、そのために、人々は何割かの高額な手数料を支払って「神殿シェケル硬貨」という特別な硬貨に両替しなければなりませんでした。神殿税の半シケルとは、当時の2デナリオンに相当し、今で言えば凡そ2万円前後でしょうか。もう一つの掟は、犠牲を献げることで、そのためには、生贄となる動物を神殿の前庭で買い求めることでした。神殿に献げられるには、清いものが選び抜かれますので、この売り買いは厳しく神殿によって管理運営されていたようです。このように神殿運営を握る宗教的権力者たち、神殿祭司や律法学者たち、それに付随する特権を得た関係者たちは、自分たちの都合よいように律法規定を解釈し神殿運営をすることで、膨大な富を手にしていたのです。たった一年に一度の過越の祭りで、ひとり2万円の神殿税であれば20万人で40億円、200万人であれば400億円となります。これに手数料が加わり、予想のつかないほどの収入となります。そればかりか、生贄動物の売買から生じる利益も高額の収入となっていたはずです。言わば、一部の特権階級が膨大な富を私物し独占するために、神の律法に従順に仕え従おうとする信仰を、また純真な神を礼拝するための神殿を深く傷付け汚しいたことは明らかで、誰の目にも抵抗できない大きな宗教権力による腐敗として映っていたのではないでしょうか。

 

1.神殿礼拝の腐敗を糾す主イエス:「わたしの父の家を商売の家としてはならない」

ヨハネ福音書2章13節以下は「ヨハネ2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。2:15 イエスは縄で鞭を作り羊や牛をすべて境内から追い出し両替人の金をまき散らしその台を倒し、2:16 鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」と記しています。

ヨハネによる福音書は、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書と比べますと、異邦人にもエルサレム神殿の情景が分かるように、「過越祭」にわざわざ「ユダヤ人の」と説明句を付け加え、またユダヤ人には不必要と思われる両替や生贄動物を詳細に伝えます。また共観福音書の「宮清め」は、主イエスの十字架の直前に行われており、福音書の終わりに登場しますが、ヨハネは福音書の初めに置いています。ヨハネは、物語の経緯を順序正しく辿るというよりも、福音書の中核となる「メシアの到来」を鮮やかに証しする、という福音の本質を異邦人にも分かるように展開して指し示すことに集中しかつこだわり、福音書を記述しています。どんな出来事も、金太郎飴のように「神のメシア到来」をくっきりと描き出すように、つまり神の福音の決定的メッセージの中心に常に向かうように、福音書を構成し直したのではないか、と想定されます。その結果、「宮清め」という出来事を「キリストのご復活」と「神殿の再建」に直結させながら、主のみわざの真相を福音の本質から明らかにしようとします。言い換えれば、なぜ主イエスは「宮清め」とは何か、それはすなわち、主イエスご自身のお身体そのものによる栄光のわざである、というように、「宮清め」の中に、神の啓示の本質を明らかに指し示そうとするのです。

さて、まずここで問題となるのは、言うまでもなく、神殿の腐敗です。神殿の腐敗と申しましても、建物や動物に問題があるわけではありません。あくまでも腐敗は「神殿」そのものではなくて、神殿の運営をめぐる人々の心と信仰にあります。ここでは、主イエスによって、信仰や信仰心の内容の本質が厳しくかつ根本から問われているばかりか、徹底的に糾弾されています。神殿運営をめぐる腐敗した形を、主イエスは、父の家を「商売の家に」(oi=kon evmpori,ou)した、と言っています。神殿本来の機能である「神を拝む」礼拝の場が、聖職者たちが富を自分の物にするために「商売する」欲望の場に変質させた、と主イエスは糾弾しました。共観福音書の表現はさらに厳しい表現で、「商売」でなく、「強盗の巣」(sph,laion lh|stw/n)となっています(マタイ21:13「あなたたちは/それを強盗の巣にしている」マルコ11:17「あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」ルカ19:46「あなたたちはそれを強盗の巣にした」)。「強盗の巣」という語は、最早人間ではなく野獣の住む穴(sph,laion sph,laionで暮らす強盗盗賊(lh|sth,j lh|stw/nという意味です。ここには、主イエスの驚く程の強い憎しみと激しい怒りが露わにされています。主イエスのお言葉の中に、神の啓示を認めてこれを読むのであれば、まさに神の啓示は、まさに非常に激しい怒りをもって、神殿の中枢にある者たちに臨んでおられる、ということになります。

我に返りつつ謙遜にこれを読みますと、これはユダヤ人の話であってキリスト教会の話ではない、とは言い切れないのです。この「宮清め」のテキストは、果たして、私たちの教会に適応する余地は全くない、と言えるでしょうか。私たちキリスト教会で言えば、教会の構成する人々の信仰と良心もまた同じように問われているのではないでしょうか。教会も、神殿も本来は純粋に神さまのためのものなのに、教会の組織や営みを自分の富や名声など自己都合で利用し、自我欲求を満たすために私物化して、自分のものにしていることは果たして全くないのでしょうか。「強盗の巣」「商売の家」という言葉で言われると、それはないだろう、と感情的に反応してしまいますが、謙遜に深く思いを致しますと、本当に私たちのキリスト教会は、「強盗の巣」になってはいない、と果たして言い切れるのでしょうか。宗教や信仰の名のもとに、教会や集会を自我の承認欲求を満たす場にしてはいないのでしょうか。教会は自分の気持ちや思いを満たす所でしょうか。果たして特定の教会や人々がキリスト教会の資産や人々の心を支配してはいないでしょうか。住む家もなく生活保護に頼る牧師家庭や信徒はないでしょうか。その一方で巨額の富を教会やキリスト教施設を通して得ている人はいないでしょうか。教会幼稚園や保育園は私物化されることはないのでしょうか。あるいは教会の制度や役職や権限、そうした特権や教会の資力財力を利用して、多大な影響力を行使して、権限のない弱い人々を支配したり、自己都合や自我欲求を満たすために利用する者はいないでしょうか。一見、正当と見える人道的な言葉を巧みに用いて、実はその本質で、醜い奪い合いや潰し合いはないのでしょうか。信仰とは、ただ神に感謝を献げ、ただ神のみを主権者とすることであって、自我欲求のために、神の名を利用し神のものを掠め取ることではありません。この宮清めのみことばを通して、現代のキリスト教会においても、今まさに権力化し腐敗した神殿の中枢が、キリストによって鋭く裁かれているのです。神殿という信仰の中枢に「強盗の巣」を成すように、わが物顔に独占支配する権力者たちの姿を、主イエスは鋭く見つめ、激しく怒り、痛烈に糾弾しておられるのです。私たち教会の中にもまた、主イエスと主のみことばを通して、絶えず「宮清め」が厳しく求められているように思われます。

 

2.そもそも「神殿」とは何であったか

ところで、そもそも、イスラエルにおいて「神殿」とは何であったのでしょうか。まず歴史からお話しますと、エルサレムに立てられた神殿はこれまで主に三つありました。ダビデ王の意向を受け、後継者ソロモン王が紀元前950年にエルサレムに建立した最初の神殿が「ソロモンの神殿」です。しかしながらバビロニアのネブカドネザルによって破壊され、民はバビロンへ捕囚されました。その後、捕囚から帰還した民は真っ先に、紀元前520年頃に神殿を再建します。それが「ゼルバべルの神殿」です。そして三つ目は、ヘロデ大王によって紀元前20頃に再建着手された「ヘロデの神殿」です。本日のヨハネ福音書に登場する神殿は、この三つ目の「ヘロデの神殿」です。その神殿の構造については詳しくは分かりませんが、配布プリントにお示したような構造になっていた、と考えられています。「異邦人の庭」とある所で、神殿税の両替や生贄動物の売り買いが為されていたようです。

神殿の構造で、最も重要な場所は「至聖所」と呼ばれる場所で、「至聖所」には「十戒」を刻んだ二枚の石の板が収められた「契約の箱」が置かれました。これが神殿の中核であり、神殿を神殿とする根拠拠点です。この契約の箱に、すなわちこの契約のことばの上に神は臨在すると考えられ、最も聖なる場所と定められ、祭司以外は近づけなかったようです。祭司であっても一年に一度だけ、「贖罪の日」に大祭司だけが生贄の血によって清められて入ることが許されました。契約の箱に収められた「十戒」は、モーセを通してシナイ山で神と民とが交わした「契約」であり、このことばを守ることにおいて、神は民の神として民を平和に守り、命の祝福に導くのです。

「神殿」という新約聖書用語について申しますと、邦訳ではふつう「神殿」「宮」と訳されますが、ギリシヤ語には概ね二つの用語があります。邦訳には明確な区別はないようですが、祭司以外は立ち入ることのできない、所謂「至聖所」を含む神殿は「ナオス」(nao,j)という用語が用いられます(マタイ27:51,マルコ15:38,ルカ23:45)。それに対して、先ほどの異邦人の庭に至るまで、広く神殿全体を指す場合は「ヒエロン」(i`ero,n)という字が当てられることが多いようです(マタイ4:5,21:12,24:1,マルコ11:15,27,ルカ4:9,19:45,20:1,21:5,ヨハネ2:14)。今日のヨハネ福音書では「神殿の境内で」(evn tw/| i`erw/|)と訳されていますが、この「ヒエロン」という広く神殿全体を総称する字が使われています。

神殿建設の目的についてですが、つまりユダヤの民はなぜ神殿を建築したのか、神殿建立の神学的根拠ですが、列王記上8章はこう記述しています。「8:1 ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。8:2 エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人がソロモン王のもとに集まった。8:3 イスラエルの全長老が到着すると、祭司たちはその箱を担ぎ、8:4 主の箱のみならず臨在の幕屋も幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。8:5 ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。8:6 祭司たちは主の契約の箱を定められた場所至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れケルビムの翼の下に安置した。8:7 ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。8:8 その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日もなおそこに置かれている。8:9 箱の中には石の板二枚のほか何もなかったこの石の板は主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセがそこに納めたものである。8:10 祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。」とあります。

こうした記述から、明らかに、神殿建築の目的は神の律法(トーラー)の中核を成す「十戒の安置」にありました。この「十戒」という契約のみことばの上に、即ち神の命令のみことばの上にのみ、神は生きて働き現臨する、と考えたのです。つまり契約の箱の上に現臨する神のみ前で、イスラエルは、国家全体をかけてまた全民族も命を尽くして、神との契約を立て、契約を守り抜く、そこにのみ神の祝福と平和は保証されました。「十戒」という神の言葉を通して働き現臨する神の命令に聴き従うこと、それが神殿建設の目的でした。しかし問題となるのは、この神の律法に対する「違反」行為です。神の律法に対して即ち神に対して、人々が犯す「罪」をどう処理して神の御前に出るか、ということにありました。そこで、神の御前で、犯した罪に対して厳格厳密に罪を償い贖う、という「贖罪」の儀式が求められました。そうでなければ、聖なる神は穢され、神の民の平和も祝福も直ちに失わてしまい、神の怒りと裁きにあう、と考えたからです。これが律法主義の根底にある思想であり、捕囚以降の後期ユダヤ教の考え方です。イスラエルが滅び、バビロン捕囚の辛酸をなめた、その理由は民の、否、民族全体による国家的な「罪」ゆえであり、神の律法を犯したゆえに「神の裁き」を受けた、とそうイスラエル再建を求めた律法学者たちは深く悔いたのです。そこでエズラやネヘミヤをはじめ神殿再建に着手した人々は、いよいよ律法を厳しく遵守する、そして罪を犯せば厳しく神の御前での贖罪の道を求めたのです。その結果、罪を贖うためには、牛や羊、鳩などの数多くの動物の命が毎日のように生贄として祭壇にささげられなければならなかったのです。律法を堅く守ることの上にのみに、神の祝福は得られると堅く考え、律法を遵守しようとするのですが、結果的には罪を犯すことになり、多くの動物の命による生贄を必要としたのです。こうした、いわば救いのない「贖罪」儀式の繰り返しには、終わりがなく、延々と続く宗教生活であります。宗教に熱心に生きようとすればするほど、罪とその贖罪のわざは延々と続くのです。これほど悲しいことはないのではないかと思います。ただ罪と裁きと絶望の中で、毎日動物の生贄を献げ続けなければならないイスラエルの民の良心は深く病み、傷ついていたのではないでしょうか。パウロの叫ぶような嘆きからも窺い知ることができます。ローマの信徒への手紙7章でパウロはこう訴えています。「7:14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」と、終わりのない地獄のような延々と続く律法生活を告白しています。しかし神殿運営の特権階級にある聖職者たちは、この民の「罪の苦悩」を逆手に取って、神殿税や動物売買を通して、巨大な富を得ていたのです。

 

3.「贖罪の身体」としての神殿:「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」

そうした神殿運営をめぐり、神の民は深く傷つき病んで、しかし絶望しつつも、いよいよ従順かつ熱心に、神殿税を支払い、動物を買い求めては贖罪の犠牲を献げ続けなければならず、罪人の深い「魂の破れ」とその呻きの祈りを、主イエスはいつも聞き続けておられたのではないか、と思います。しかも大祭司や律法学者を初めとする宗教的権力者たちは、その贖罪の犠牲を献げるための税を課し、生贄の売り買いを設け、神殿運営を利用しては、痛む民を食い物にして莫大な富を得ていたのです。この民の悲痛な律法と罪と犠牲の連鎖の中で、民をどう救えばよいのか、主イエスは胸を深く痛め、その憐れみと同情はやがて強烈な怒りとなって爆発します。ついに主イエスは宣言されます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と、そうはっきり言い切って、神の御心を民に啓示します。

こうした主イエスとユダヤ人との論争について、聖書は「2:17 弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。2:18 ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。2:19 イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ三日で建て直してみせる。』2:20 それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。2:21 イエスの言われる神殿とは御自分の体のことだったのである。2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」と記しています。

いよいよここで一気に本日のみ言葉の結論に直行すれば、主イエスはまさに、「あなたがたのために私自身のからだを永遠の贖罪の生贄としよう、そしてあなたがたの罪を完全に赦してあげよう」と宣言したのです。いくら胸を叩いて懺悔の祈りを重ね、そして無限に動物の血を生贄として流しても、罪は解決できないのです。完全に罪を償い、完全な贖罪を実現することは、だれにもできないことであります。罪を「原罪」として、人間本性の根源に本質的に背負う人間には、解決できない絶望的な課題であります。神の御子が受肉して人間本性をその根源から背負い尽くして、贖罪の身体となって、十字架において永遠の生贄の犠牲として自己を捧げる、その外には道はないのです。つまり十字架と復活の身体である主の身体による外に、神の御前に完全な贖罪を果たして神を礼拝できる神殿は他にはないのです。キリストの十字架の贖罪なしに、本当の意味で神の礼拝は成り立たないのです。悪魔の唆しと罪に支配された人間性には、神を心から信じ神を神となす、という本来の神礼拝は絶対にできないのです。神よ、主よ、と口では言っても、結局は、神の名をかたり、自分の欲求を満たすほかに考えることはないのです。こうした罪の支配は、徹底的にそして完全に裁かれ滅ぼされるのでなければ、本当の神殿は立たないはずです。「宮清め」とはキリストの十字架の復活であり、「神殿」とは主の十字架と復活の栄光のお身体以外にはないのであります。

 

4.「聖霊の宮」としての神殿形成:「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」

最後に主イエスが問題にされたのは、人々の「信仰」です。まことの神殿がなければ礼拝することができないのと同じように、神を拝む人々の心の中に「真の信仰」が宿っていない限り、神の礼拝は成り立ちません。つまり主イエス・キリストの十字架と復活の栄光の身体としての「神殿」は立てられても、その神殿に招かれ導かれる人々の「信仰」が次に求めるられます。大事な点は、ひとりひとりの人格の中枢に、神を神とする信仰心が造られることにあります。聖書はこう告げます。「2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。2:24 しかしイエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」と、とても意味深長な表現になっています。深読みになりますが、ここには、肯定と否定の二つの側面が隠されているように思われます。まず否定の側面から申しますと、文字通り直接表現で「イエス御自身は彼らを信用されなかった」と記されるように、人間の心は全く信用できない、ということです。人間には、神を心から信じて神を正しく礼拝することは不可能である、それが人間の心の中にある本質である、という結論です。肯定的な側面を敢えて深読みしますと、一切書かれてはいないのですが、それは「聖霊」の恵みを待たなければならない、ということになるのではないでしょうか。主が共にがおられなければ、弟子たちは何もできない、主はそれを日常の生活からご存知でした。しかし主イエスは、十字架の後に復活して父のいまし給う天にお帰りにならなければなりません。残された弟子たちには、神を信じる信仰も、信仰にしたがって神を礼拝する場もありません。信仰がなければ礼拝は成立しないからです。そこで主イエスは、別の助け主、別の弁護者として「聖霊」をお遣わしになられます。その聖霊を受けて、自らのうちに聖霊を宿すことにより、人々ははじめて主イエスを正しく信仰告白する信仰が生まれ、キリストの栄光の身体における神殿礼拝が信仰において可能となります。つまり聖霊の恵みの賜物として、神を信じ神を知る信仰も、神を拝み神を礼拝する真の神殿も与えられることになります。聖霊の降臨と聖霊を宿すことなしに、信仰も生まれず、キリストの身体における永遠の神殿礼拝も実現しないのです。しかし反対に、聖霊を弟子たちは受けて彼らのうちに聖霊を宿すことで、信仰が生じて、キリストの身体を永遠の神殿とする礼拝が実現し、そこに、新しい神の契約共同体である教会が誕生するのです。

 

5.結語 全く新しい神殿建設と根源的な宗教改革のために

「宮清め」とは何であったか。一言で言えば、ユダヤ宗教の根本的宗教改革であり、新しい神の啓示を示唆する象徴的な出来事であった、ということになるのではないでしょうか。単に神殿礼拝をめぐる腐敗を糾弾して改善を図る、という点にとどまるのではなくて、神殿礼拝そのものを、神殿における犠牲祭儀による神の礼拝そのものを廃棄して、新しく神の恵みと憐れみよって立てられたキリストの身体という永遠の神殿で、真の神を初めて正しく礼拝することができるようになったのです。まさに「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」という新しい神殿礼拝の確立でした。ヨハネの福音は、まさにこの福音の中枢を貫くように、「宮清め」の出来事を配置したのです。