2021年8月8日「父は子を愛し、復活させて命を与える」 磯部理一郎 牧師

ヨハネによる福音書講解説教10

説教 「父は子を愛し、復活させて命を与える」

聖書 ダニエル書12章1~13節

ヨハネによる福音書5章9~30節

 

聖書 ヨハネによる福音書5章9~18節

5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。 5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法で許されていない。」 5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われ2021.8.8 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第12主日礼拝

たのです」と答えた。 5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。 5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。 5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」 5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。 5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めたイエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。 5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられるだからわたしも働くのだ。」 5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで御自身を神と等しい者とされたからである。

 

5:19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は父のなさること見なければ自分からは何事もできない父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。5:23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない

 

5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく死から命へと移っている。5:25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。5:26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。5:27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。

 

5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、5:29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。5:30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

 

はじめに

先週の説教では「床を担いで歩きなさい」という題で、癒しの奇跡について、お話いたしました。もう少し正確にいえば、神は、主イエスとそのみことばの働きを通して、この38年もの間、動くことの出来ななかった人物の中で、働き動き始めました。この人物は、絶望と不信の淵に捨てられていましたが、「よくなりたいか」という主のみことばの力により、その深い魂の根源から、初めて真摯に神に心を向け直します。それによって、この病の人は、神の真理を深く見つめて自ら考え、真理を正しく認識する精神を求め始めたようです。そしてついに、神は、キリストを通して「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という神の創造的な命令形とも言うべき神のみことばを通して、救い主なる神は、この人の肉体の奥深く隅々に至るまで働き、動き始めました。その結果「5:9 するとその人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」という新しい人間主体として生まれ変わり、神の応答を即座に開始したのでした。天の神は、主イエスとそのみことばにおいてついに地上に働く神として動き出したのです。人々の信仰について言えば、ただ単に天上におわす神について信じるのではなくて、その天上の神がついに主イエスにおいて地上に降って来て、人類の歴史そのものに介入し、私たちひとりひとりの人生の内に働き始めたのです。神はいるのかいないのか、ではなくて、実際に民の中でそして自分自身の中で生き生きと力強く動き始めている体験を重ねている、共に生きているのです。これが福音の信仰のリアリティーです。この地上の不条理の中で、胸を痛める度に、わたくし自身の中にも、天上の神が地上の歴史に介入してくださるのだろうか、とよく若い頃は疑問に思うことがありました。今すぐにこの地上にご介入下さって、公正なお裁きを行ってください、と祈ることもありました。天上の神さまは、このわたくしたちの苦悩する地上に対して、果たしてどのように関わってくださっておられるのるのか、問い続ける日々もございました。しかし、キリスト教の福音の本質とは、まさに地上のただ中に、苦悩と痛みのただ中に、深く介入し働き、みわざを行う神であります。その神の真実の姿が、まさにこの人物の中に示された瞬間でありました。

前回の説教では、神はまさに地上に舞い降りて来て、神のみわざを行われ、38年も病気に苦しんでいた人が起き上がり、新しい人生を歩み始める、そういう救いのみわざを行った、という話でした。しかしこの癒しの事件が、あろうことか、ユダヤ人たちとイエスさまとの間で、抜き差しならない深刻な論争となってしまったのです。本日は、この深刻な対立の背景に潜む、信仰の根本問題について、すなわち律法主義社会と信仰の本質について、お話したいと存じます。

 

安息日の癒し

先ず、論争を引き起こした問題の所在は、言うまでもなく、主イエスの律法違反です。しかもとりわけ重大な安息日規定の違反でした。「その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった」(9節)「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法で許されていない。」(10節)と聖書は記しています。安息日とは、ヘブライ語で「シャッバース」、ギリシャ語では「サバトン」と言い、「やめる・休む」という意味です。神さまは天地創造のわざを6日で終えたので、7日目に休まれ、この日を「聖」と宣言して特別に区別されました(創世記1章~2章)。後に「十戒」の第4戒として安息日が規定され、生産労働活動や治療行為はすべて禁止されました。主イエスの癒しが、安息日の治療行為を禁止した律法違反だとするのが、ユダヤ人たちの主張です。確かに主イエスの律法違反が論争の発端ではありますが、実は真相を注意深く見ると、事態ははるかに深刻です。主イエスの行動は、律法に依存するユダヤ教社会そのものを根底からひっくりかえしてしまうからです。換言すれば、律法違反どころか、律法それ自体を根底から覆してしまう行為だからです。神に祝福された関係、神との平和で幸いな関係を、聖書では「神の義」と言いますが、この「神の義」を、律法を守り抜くことで獲得するのか、それとも、律法の道筋から外れて律法とは別に、神の愛と罪の赦しを戴くことで、「神の義」を獲得するのか、という救い方、救われ方が問題になって来るからです。つまり、主イエスは、これまでとは全く異なる、誰も考えられなかった新しい救いを行われたのです。言わば、神の愛と恵みによる救いです。律法を守り抜くことで、神の義を獲得しようとする律法主義に対して、ただ新しい神のご恩寵のみにすがって、神の義にあずかろうとする福音の道をゆこうとするのか、全く異なる救いの道が啓示されたのです。したがいまして、主イエスの福音による新しい救いの道を知るうえで、ユダヤの律法主義社会の本質を事前に整理、確認しておきたいと思います。

 

ユダヤ律法社会の苦悩と破綻

簡潔にイスラエルの歴史に触れますと、凡そ紀元前1000年にダビデ王がイスラエルを統一し歴史上初めて統一王国を建国しました。このイスラエル建国は、その250年ほど前のモーセにおいて、さらに遡りますと、紀元前1800年ほど前のアブラハムの時代から、すでに「神さまの先行する選びと恵み」によって、民は導かれて来ました。出エジプトの際に、アロンのもとで民が金の牛を拝んでも、それでも神は新たに後継者としてヨシュアを立て、ついにダビデを立てて民の願いをかなえ、イスラエル建国を実現しました。しかしその後、王国が分裂・滅亡して、バビロン捕囚という辛酸を経験します。しかし新興国ペルシャが興ると、キュロス王の命によりエルサレム帰還が許され、紀元前前520年頃には、エズラ・ネヘミヤを指導者とするユダヤの民は、第二神殿の再建と「律法」文書の再編を果たします。その神殿再建と律法再編にあたり、ユダヤの民の心を決定的に支配したことは、エルサレム再建をめざしたのですが、当然ながら、再建の原点となったのは、イスラエル滅亡を導いた原因はどこにあったのか、という非常に深い反省でした。民は神との契約に違反し、神に背き、罪を犯したことによる、と厳しく反省したのです。の裁きを受けるような跌を二度と神踏まないようにする、という強い決意のもとに、エルサレム神殿は再建され、律法は再編纂されたのです。より堅固で確かな再建は、より堅固で確かな「律法」体系とそれを監視する律法社会を構築することでした。こうして後期ユダヤ教社会は、固く律法主義に立つことで、神の背きを防止して、神の裁きを免れることを深く学んだと言えましょう。誤解を恐れずに言えば、元来「神の先行する選びと恵み」を中心としたはずの恵みによる信仰が、イスラエル滅亡とバビロン捕囚以降から、「神の裁きと審判」を回避することを中心とする律法主義に変質してしまったのです。信仰の本質は愛と恵みの喜び感謝から、裁きと恐れの律法遵守へと大きく転換したのでした。つまりダビデまでのユダヤの宗教と、後にエズラなどが再建した捕囚以降の律法宗教とは、神の信仰において本質的に異なるものとして、はっきりと区別できるのではないか、と思います。このようにバビロン捕囚を経験したエズラ・ネヘミヤ以降のユダヤ教は、民の罪ゆえに、神に裁かれ滅んだのだから、罪を犯さないための完全な律法社会つくるのだ、という考え方です。こうしてユダヤの神概念は「選びと恵みの神」から「審判の神」へと、本質的に変容してしまいます。神のみこころを取り戻し神にお喜び戴くためには、熱心に律法を遵守する以外にほかに道はない、と考えたのです。その結果、厳格な律法体系によって、ユダヤ民族全体を徹底管理する律法社会のシステムをつくりあげたのです。神に喜ばれ神のみこころを取り戻すためには、より厳しい律法社会をつくりあげ、神に嫌われてしまわないためにはより厳しい罰によって厳格に裁きあう罪人をつくり罪人を排除する社会へと変貌していったのです。姦淫の女は、皆で石で打ち殺すという話が聖書に登場しますが、まさにそうした律法社会が構築されてしまったのです。

一見、こうした取り組みは「信心深い」と評価されがちですが、反面、そこには大きな「落とし穴」が二つあります。神に喜ばれ優れた良い神の民になる、そのためには律法を強化する、という考え方それ自体は論理的には正しいのですが、しかし、そこには不完全で弱い人間の本質を見落とされています。その結果、「愛」や「憐れみ」の心は、背後に退いてしまうのです。イエスさまは、民衆に、律法の本質は、神を愛すること、隣人を愛することである、と言って、心の内側から無限に湧き出すような愛と憐れみによって、神の民は導かれ神の国はつくられることをお教えになられましたが、当時の律法学者や祭司たちは皆、神を愛することを忘れ恐れて、罪を誤魔化すようになり、いよいよ動物による贖罪の犠牲は増えてゆくことになります。人間の弱さを深く見つめず、罪の根源的な支配を見失った結果、律法を強化しますが、皮肉にも、実は律法に破綻し敗北することになり、最終的には「絶望」もしくは「偽善」を生み出すことになります。魂の「絶望」は直ちに魂の「死」を意味します。皆さまも、より立派なことをしようとすればするほど、できない自分、破れ果ててゆく自分と向き合わねばならなくなる、という経験をなさったことがあるのではないでしょうか。もう一つの落とし穴は、できなかったという破れと破綻の裏腹で、必ずできたとする「虚偽と偽善」が生まれます。非常に皮肉なことですが、表側で神にお喜び戴くために律法を強化すればするほど、裏側では絶望と偽善を無限に生み出してしまう、という律法主義社会の悪循環が構造化されてしまうのです。加えて、「絶望」の魂は、神は未だに沈黙のまま苦しむ者にお答えくださらない、という餓え乾きを増幅してしまいます。。

ユダヤ人たちは、主イエスの癒しを「律法違反」として、糾弾します。分けて最も深刻な「安息日規定」違反として徹底的に主イエスを憎悪しついに殺害を決意します。しかしその憎悪と糾弾の背後で、絶望と破綻の呻き、虚偽と偽善の裏切りでユダヤ全土はあふれていたことも、また否めない事実でありました。どうにもならないほどに、ユダヤ教の律法社会は絶望と偽善で行き詰まり破綻していたのです。だからこそ主イエスに従おうとする人々がどこに行っても溢れるようにいたのです。律法を利用することで支配権を得ていた律法学者はこうした主イエスを非常に恐れるようになります。38年も病気で苦しんでいた人が、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と訴えたのは、まさにユダヤ社会そのものを暗示しています。神のもとに祝福を得たいと願いつつも、そこに至る道は完全に断たれてしまっていて、だれも神のもとに行くことができないのです。主イエスはこれに応えて、ついに安息日規定を超えて、この人に命のみことばを与えたのです。そしてこの人は生ける神のみことばに全幅の信頼を置いて応答したのです。主イエスとの人格を尽くした神聖な魂の対話の中から、新しい命と創造のみことばを聞き取り、みことばを信頼して応答し、神と共に行動した者には、鮮やかすぎるほど鮮やかな、神の新しい福音の事実であることは明白であります。そこには今まで表に現れていなかった神の現実があらわになります。なんと神はすでに動いておられる、という新しい神の福音の事実の発見でありました。律法主義社会の絶望的な行き詰まりの中で、神はついに律法を超えて、動きだされたのでした。律法による神信仰から、神の福音による救いの信仰へと、信仰の本質が転換した瞬間です。しかし問題は、そうした神の新しい愛の啓示が、ユダヤ人の眼には許し難い律法違反としか見えませんでした。律法を超えて愛に動き出した神に対して、絶望と偽善を生み続ける律法に依存するユダヤ人の現実は、ついに主イエスを排除抹殺してしまうのですが、その抹殺の道具に利用した十字架さえも、律法を超える神の愛のわざでありました。

 

秘められた神の真実の告知

主イエスは正面から告げます。「わたしの父は今もなお働いておられるだからわたしも働くのだ」。 ここで主イエスは秘められた神の真実を二つ啓示し告知します。一つは、父なる神が今もなお働いておられること。神は沈黙したまま、お答えにならないのではなく、世界の中心で今まさに働いておられる、という神の真実を告げます。加えて、その神の働きの中心に、父と共に子である主イエスもまた、今まさに働いておられる、というもう一つの神の真実が告げられます。すなわち、神の力強い行動の中心に、主イエス・キリストという神の子であり仲保者の派遣があることを宣言したのです。「神を御自分の父と呼んで御自身を神と等しい者とされた」とありますが、神の啓示の新たな展開です。すなわち神は、ご自身の独り子であるキリストを地上に派遣して、神の愛と憐れみの十字架により、律法を超えて新しい命と希望を与える、という新しい行動を起こし、歴史に介入されたのです。こうして、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊の降臨へと、神の新しい啓示は展開してゆきます。これこそが、地上にくだる神の行動だったのです。

わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞きその痛みを知ったそれゆえわたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る(出エジプト記3章7節以下)と前回ご紹介したとおりです。しかし今なお、イスラエルの民の苦しみ痛みが続いているではないか。世界の苦悩とその叫びはいよいよ響き渡っているのではないか。神はいったい世界の何を、歴史の何を完成したのでしょうか。何一つ、完成などしていない。完成どころか、いよいよ貧しく弱い人々は、苦しみ悶えているではないか。とすれば、神は今こそ動き、働くべき時であります。主イエスは、はっきりと「わたしの父は今もなお働いておられるだからわたしも働くのだ」と宣言されます。父が地上に降り、共に動き、働いておられるのだから、だからこそ、わたしも人格のすべてを尽くして、福音のために働くのだ、と仰せになるのです。主イエス・キリストは、父と共に働く。言い換えますと、父なる神は、イエス・キリストにおいて、絶大な救いの行動を起こしたのです。イエス・キリストの受肉において、父なる神もまた地上に舞い降り、歴史の奥深くに突入し、イエス・キリストにおいて、律法を完全に果たすと共に人類の罪の裁きを引き受け、イエス・キリストにおいて復活という新しい人間性をお示しになられたのです。