2022年3月6日「わたしは永遠の命を与える」 磯部理一郎 牧師

 

2022.3.6 小金井西ノ台教会 受難節第1主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教40

説教 「わたしは永遠の命を与える」

聖書 詩編23編1~6節

ヨハネによる福音書10章22~42節

 

 

聖書

10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。

 

10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」

 

10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。10:32 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」10:33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは人間なのに自分を神としているからだ。」10:34 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。10:35 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。10:36 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。10:37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられわたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」10:39 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

 

10:40 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。10:41 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」10:42 そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 

 

説教

はじめに. 主イエスは、ご自身における「神」を、自己啓示した

我慢ができなくなったユダヤ人たちは、神殿で主イエスを見つけ出して、「あなたは、人間なのに、自分を神としている」(34節)と言って、問い詰めます。聖書はその様子を「10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。』」と伝えています。神殿奉献記念祭とは、ペルシャ王クロスの帰国許可によりバビロン捕囚(前586~539年)からエルサレム帰還を許された人々は、直ちに「律法」の編纂と「神殿」の再建にとりかかり、紀元前520年には神殿再建を果たします。その神殿奉献式について、エズラ記は「6:16 イスラエルの人々、祭司、レビ人、残りの捕囚の子らは、喜び祝いつつその神殿の奉献を行った。6:17 この神殿の奉献のために雄牛百頭、雄羊二百匹、小羊四百匹をささげ、また全イスラエルのために贖罪の献げ物としてイスラエルの部族の数に従って雄山羊十二匹をささげた。6:18 そしてモーセの書に書き記されているとおり、エルサレムにおける神への奉仕のために、祭司たちをその担当の務めによって、レビ人をその組分けによって任務に就かせた。」と記しています。神殿の至聖所には十戒を記した石板二枚を収めた契約の箱が設置され、そこに神が現臨され、ユダヤの人々を「神の民」とする契約締結がなされる場でありました。神殿は、神が生きて臨在し働く場で、祭司たちは犠牲祭儀を繰り返し執り行い、神の民として新たな契約更新がなされました。神殿は、祭司による犠牲祭儀を通して神と民との契約更新がなされる、言わば、ユダヤ共同体存立の原点であり、要となる場と言えます。

しかしそうした荘厳な犠牲祭儀が祭司たちによって神殿で行われる一方で、これは実に皮肉な話ですが、その同じで神殿において、主イエスは、ご自身こそ生きて働く神の神殿である、と説いて、ご自身を民のための贖罪の犠牲の神の小羊として血を流されるのです。実際に、十字架における贖罪の犠牲により、民を罪から贖い、神の新しい命の祝福を齎します。律法に基づく神殿での犠牲祭儀が、これほどまでに権威ある宗教儀礼として守り抜かれている反面、実際の現実に生きて働く神からは、余りにも遠く離れてしまっていたのです。唯一真実で意味ある犠牲祭儀は、人間の手による権威主義的宗教儀礼にではなく、生ける神の御子である主イエスのお身体において実現するからです。

何度もお伝えした通り、主イエスは「エゴー・エイミ(わたしはある/わたしは…である)」とご自身を名乗りました。これは、紀元前1250年頃に遡りますが、「神」がモーセにご自身を「わたしはあるハイヤーエゴー・エイミ)」(出エジプト記3章14節)と自己啓示した神の名です。「わたしはある」(ハーヤー)は、神「ヤハウェ」の語源であり、神の自己啓示を象徴する神の名ですが、その伝統にしたがって、主イエスはご自身こそ「わたしはある」神であり、アブラハムが生まれる遥か前から、永遠に存在していた、と自己啓示したのです。主イエスは、徹頭徹尾首尾一貫して、ご自身における「神」の本性を啓示します。6:48「わたしはある [命のパン] (evgw, eivmi o` a;rtoj th/j zwh/j)。」、8:12「わたしはある [世の光]  (VEgw, eivmi to. fw/j tou/ ko,smou)」、9:5「わたしはある [世の光] (fw/j eivmi tou/ ko,smou))」、10:7「わたしはある [羊の] (evgw, eivmi h` qu,ra tw/n proba,twn)」、10:9「わたしはある [門] (evgw, eivmi h` qu,ra)」、14:6「わたしはある [道] [真理] [命] (VEgw, eivmi h` o`do.j kai. h` avlh,qeia kai. h` zwh,\)わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」、15:1「わたしはある [まことのぶどうの木] (VEgw, eivmi h` a;mpeloj h` avlhqinh,)」、15:4「わたしはある [ぶどうの木] (evgw, eivmi h` a;mpeloj)」というように、主イエスは、「わたしはある(エゴー・エイミ)」(出エジプト3章14節)という神であることを自己啓示しつつ、しかもその神名「エゴー・エイミ」の直後に並列して、メシアとしての働きを象徴する「光」「命」「パン」「道」「門」「羊飼い」「ブドウの木」を加え、ご自身のお姿を言い表します。この一連の自己啓示を、ユダヤ人たちは「神の冒涜」だと言って、断罪し、激しく敵視したのです。

 

1.「イエスを殺そうとする」(31節)ユダヤ人たち

それゆえ「5:18ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで御自身を神と等しい者とされたからである。8:59ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。10:39ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。」と繰り返し記されます。

こうしたユダヤ人たちの敵意の源は、明らかに「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは人間なのに自分を神としているからだ。」(33節)と明記されています。一層深刻な問題の所在は、どうしてもユダヤ人たちには主イエスにおける「神」(エゴー・エイミ)を認めることが出来ない、という無理解と誤解、不信仰から生じていることです。その不信仰と無理解が原因となって、憎悪や敵意を引き起こして「殺そうとする」所にまで、彼らを駆り立ててしまうのです。「不信仰」は益々彼らを「神殺し」へと追い詰めてゆきます。とても悲しいことですが、ユダヤ人たちは、律法という聖書を命がけで守り続けていたのに、イエスは神のメシアである認められない分からない聞き分けられない悟れないために、神の御子である主イエスを殺そうとします。主イエスが言われる通り「わたしの声を聞き分ける」ことが出来ないがゆえに、「10:25わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」のです。その結果、ユダヤ人たちは、その不信仰ゆえに、主イエスを「冒涜者」と誤認し、主イエスを憎み、主イエスを殺そうします。神の正義は、このように人間の不信仰において激しく逆転変質して真実の神を失い、十字架という極刑によって抹殺してしまうのです。愛国心は、無理解ゆえに変質すると、他国の人々を虐殺する正義に変貌するどころか、愛する母国をも破壊してしまうように、ユダヤの信仰熱心は、誤解と変質の中で、神までも殺してしまう深刻な冒涜へと変貌するのです。悲しいと同時に、何と恐ろしいことでしょうか。正しい信仰と謙遜が失われると、敵視や憎しみは嵐のように人々を虜にしてしまうのです。

 

2.「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」(26節)

こうしたユダヤ人の「不信仰」という根本は、そもそも、律法の中に書かれた神は認めても、実際に主イエスのうちに働く「生きた神」を認め受け入れることが出来ない、という不信仰にあり、非常に事態は複雑です。真実に生きて働く神を排除してしまう不信仰を生み出した背景には、やはり宗教的権威主義や権力支配に対する強い欲求が働いており、それが信仰の目を曇らせ歪めてしまったようです。それでも主イエスは諦めずにこう諭します。「10:26 しかし、あなたたちは信じないわたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである」。生きて働く神を正しく見分け、神の言葉を正しく聞き分けなさい、と教えます。主イエスの態度は一貫して真っすぐに神の真理を証し啓示し続けます。これ以上変えようもない、他に言いようもない、それが啓示の言葉です。神の真理は神の真理であって、それを人間がどんな感情で受け止めようと、足すことも引くこともなく、そのまま、歪めず伝える外にないのです。それが神の啓示の本質であり、神の言葉を語るとはそういうことでありましょう。教会の宣教の在り方もそうあるべきでありましょう。

この26~30節は、主イエスの最後の説教の結びですが、ユダヤ人が主イエスを神を冒涜する者だと非難する、その非難に対しての最終弁論です。ここで、主イエスは、どうしても取りあげなければならない重大問題に言及します。それは「信仰」の源泉について、つまり「信仰」はいったいどこから来るのか?という根源的な問題です。なぜユダヤ人たちはキリストを信じなかったのか?という問いです。少し極端な表現ですが、聖書を読み教会に通う環境さえあれば、必ず誰も皆「主イエスを信じる」ようになれるのか?という根本問題です。主イエスは、はっきりと、ユダヤ人たちに「10:26 しかし、あなたたちは信じないわたしの羊ではないからである。」と断言します。ユダヤ人たちは、最初から主イエスの羊ではなかった、だから信じないのだ、と言っているように聞こえます。他方「わたしの羊は、わたしの声を聞き分けるわたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」と告げます。とても意味深長な言い方です。不信仰の原因は、ユダヤ人にあるが、しかしその根元をさらに問えば、それは「神の定め」にあるからだ、と読めそうな箇所です。

この27~30節のみことばは、信仰の源泉について、二つのことに言及しています。一つは、27節「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とありますので、主イエスを受け入れる信仰は、羊自身の主体的な選択と決断から、生じると考えられます。つまり信仰は羊側の責任です。もう一つの意味深い表現は、「わたしの羊」は元々「わたしの父がわたしにくださったもの」(29節)と言われ、父が子にお与えになったがゆえに、「わたしの羊」となり、したがってわたしの羊であるから「わたしの声を聞き分ける」ことができる。つまり、信仰の源泉は、羊自身の主体的な選択と決断の前に、既に「わたしの羊」であり、「父が子にお与えになったもの」である、という神の決定に基づくことである、ということになります。言わば、父なる神による永遠の選びの決定です。しかも、この神による永遠の選びの決定は、10節「わたしと父とは一つである」とありますように、父も子も共に「神」という本質は一つであるので、父子共に一致した永遠不変の決定である、ということになります。これは、ヨハネによる福音書の「予定」論と言えます。つまり、ヨハネは、一方で羊における主体的実存的選択を言い、しかしその前提に、三一の神による永遠の選びが現存する、というわけです。この父なる神が子なる神へと与えられた羊だけが、子なる神の御声を聞き分け、羊飼いに連れ出されて、天国の門を通り抜け遠の命の囲いの中に至るということになります。

このみことばから、羊による信仰の源泉となる「わたしの声を聞き分ける」行為の前提に、神の見えざる御手が見えて来ます。それは「羊」という存在の決定は「父が子に与えたもの」であり、しかも「父と子は一つである」がゆえに、「羊」という本性は父と子によって決定づけられており、そのおかげで、永遠の命を与えられる、というのです。「父が子に与えたもの」、それが羊の本質だからです。であるがゆえに、父が子に与えた羊は、子の声を聞き分ける、子に従いついてゆくことが出来る、というのです。言い換えれば、羊が主イエスのみ声を聞き分けついてゆくのは、最初から「父が子に与えられたもの」「父がわたしにくださったもの」だからだ、という意味になります。それゆえ羊の信仰的決断は、元々羊自身にあるのですが、その決断を可能している根拠は、父が子に与えたもの」だから、子は羊として導き羊は子について行くのだ、と読めます。明らかにこれは、一種のヨハネによる「予定」論が展開されているのではないかと思われます。神の永遠の選びと切り離した所で、羊の信仰的決断はあり得ない、ということになり、羊が御声を聞き分けついて行くことが出来るのは、羊が御声を聞き分ける前に、すなわち「信仰」を決断する前に、既にその前提となる「神の選び」があった、ということになりそうです。信仰は、その「結果」であり、その「追認行為」にすぎず、それ以上でもそれ以下でもないと言えましょう。

 

3.「わたしと父とは一つである」(30節)

「10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」と告げ、ついに「羊」の本質を明らかにします。羊とは、父が子である主イエスに元々与えられていたものである、予定論的な意味で、羊の本質が表明されます。そしてこの「わたしの父がわたしにくださった」ものにおいて、「わたしと父は一つである」から、完全に一致している、と宣言して終わります。羊が羊として選ばれる根源に、「父が子に与えられたもの」であるという前提があります。それは「父とわたしは一つである」という「神の本質」基づく選びであり、神の永遠の選びとなります。「神」という同一の本質を共有する「父」と「子」の共同の、永遠に一致した愛と決断のもとに、羊は主イエスのもとに与えられている、ということなります。

見落としてはならないとても重要なことが一つあります。それは「永遠」における父と子の一致した愛と決断です。「神」の本質において一致した永遠不変のご計画がある、と言ってもよいかもしれません。この神の救いのご計画という大きな枠組みの中に、神の選びは備えられ与えられていることになります。三一論的本質とその一致から神の選びは設定されているということになります。言い換えますと、神の人類救済の中心点は、言うまでもなく、御子イエス・キリストの十字架における死の贖罪と永遠の命の復活にあります。したがって「選び」の中心もまた、この主イエスの十字架と復活に深く参与し収斂されているのではないでしょうか。そして人類救済の中核を成す主イエスの十字架は、永遠の「神」の本質によって貫かれ担われていますが、それと同時に、この世における時の中心となる受肉した「人の子」の犠牲として実現しています。主の十字架における死の贖罪と罪の赦しは、神の選びの実現完成の場であり、同時にまた、この世の時間の中で、人間のうちに生じる永遠の選びが「応答」として実現する場でもあります。十字架という永遠と時が重なり合う中心において、永遠神の選びと人間にうちに生起する信仰的決断は、永遠と時間という全く異質な概念の二次元が二重に重複し同時進行してゆくのです。一方で、神の永遠の選びが実現し、他方で、この世における人間の応答行為としての信仰による選びが実現しているからです。

主イエスにおいて、永遠の「神の御子」が、同時に、この世に受肉した「人の子」として、十字架と復活の栄光は実現しており、この時点において、永遠の神の神の選びの一致は今この「時間」の中に突入し実現しており、人間のうちに生まれる信仰的決断は、十字架ゆえに十字架の前に立つからこそ、その応答として引き起こされる決断であります。永遠の神の選びは時間に覆われており、それは信仰的決断のうちに現れつつも、やはり隠されたままであります。終末論的に言えば、神の救いの出来事は神の側の事実として完全ですが、この世の側の現実としては覆われ隠されており、未完成のようにしか見えないのです。言わば、永遠の選びは、時間の中では、羊において先取りされ現れされた、と言えるかも知れません。神において永遠に羊として選ばれた者は、今この時間の中で、御声を聞き分ける、という信仰的決断として先取りされて現れ、隠されつつも永遠の選びを現わすことになります。言い換えれば、主イエスを受け入れるという信仰的決断は、時間の中のことであり、終末以前のことですが、既に終末を超え時間を乗り越えて、御声を聞き分ける信仰においては、永遠の命に至る領域に及んでいるのです。なぜならこの世に受肉した主イエスは、同時にまた永遠の神であり父と一つであり、神という本質的一致によって貫徹されるからです。こう理解しますと、神の「永遠」の羊としての選びは、主イエスにおける「今」の羊の選びと一つにつながっていることになります。強いて言えば、こうした永遠の神の選びの予定は、本来、三一の神という本質を一つにする父と受肉のイエスの関係そのものから生じていると言えます。

 

4.「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」(38節)

主イエスは最後に、「10:37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられわたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」と告げて、その場を去ります。残念ながら、結局、ユダヤ人たちは主イエスを認め受け入れることが出来ないのです。しかし、主イエスを認められなくても、神は認めるはずなので、神が、どこでどのように、どんなみわざを行われるのか、それだけは目を離さずに見ていなさい、と諭しているように思われます。その神のみわざ、しるしによって、真理を悟ることができるようになるはずだ、と猶予を与えた、とも受け取れます。いわば、ユダヤ人の信仰を先送りした発言として聞くことも出来そうです。実際に、ユダヤ人たちの間に対立が生じて、主イエスを「神」と認めて、主イエスのみことばを聴き分け、受け入れて従う人々と、反対に、律法違反を口実に、主イエスを殺してしまおうとする背きの人々とに分裂してゆきます。本来、ユダヤの人々は、アブラハムの子孫として「神の祝福」に入れられ、モーセの律法のもとに「神の民」として選ばれていたはずです。厳密に言えば、永遠の選びの恵みに与っているはずです。歴史的に重大な神の選びの中にありながら、律法を守るために聖書を学び続けるユダヤの人々の中に、どうしてこのような「背きと躓き」が生じるのでしょうか。ユダヤ人たちの選びは無効になったしまったからでしょうか。

こうした神の選びの中で、最も苦悩した人物がパウロではないでしょうか。パウロは『ローマの信徒への手紙』で悲痛な思いを露わにしつつ、こう述べます。「11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせその幾人かでも救いたいのです。11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」と述べて、実は、異邦人の選びのために、ユダヤ人が選ばれたのだ、と説明しています。ヨハネの言葉で言えば、「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と言及されていた、あの「この囲いに入っていないほかの羊」と呼ばれる人々のことです。ここで主イエスが説教をしている相手は皆ユダヤ人です。主イエスの十字架に立ち会うのも、その当事者はユダヤ人です。しかしそのために、12使徒が立てられ、ついにはパウロも使徒として立てられ、異邦人を導くことになります。したがって、神の深いと愛と憐れみそしてその豊かな配慮からすれば、永遠の選びは、決して「切り捨てる」取捨選択の選びではなくて、その反対の「すべてのために活かし用いる」選びであったことが分かります。パウロの言葉で言えば「世界の和解」に至るための選びであります。そのために先ず、神の御子であるキリストご自身が自ら犠牲となります。主イエスの十字架と復活において、ユダヤ人も異邦人も、その区別差別はなく、すべての人々は神の愛のうちに選び取られ、救い獲られています。

 

5.「人格」としての人間の完成は、「信仰」において、実現する

ただし、不信仰の問題は、その神の救いと選びを認めて、自分のうちに生きた働く真の神を受け入れることが出来ないことです。文字の神を知る次元と、生きて働く神と共に生きる次元は、全く異なる次元ではないでしょうか。神に背き続ける「不信仰」は、滅びるまで「人格」の中枢において、根源から問題にされて、問われ、裁かれ続けるからです。すでに選ばれているはずなのに、どうして「背き」を続けるのか、ということになります。やはり「悔い改め」が求められます。パウロは同じ『ローマの信徒への手紙』で「3:21 ところが今や律法とは関係なくしかも律法と預言者によって立証されて神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。3:25 神はこのキリストを立てその血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ3:21~25)と教えています。ここで注目すべき点は、明らかに「律法とは関係なくしかも律法と預言者によって立証された」と述べています。確かに旧約聖書の律法や預言を通して与えられる選びと救いは、キリストによって与えられる救いとは、その本質においては、違いはないのですが、今は新たに「キリストを信じる」信仰において、律法とは無関係に、あるいは律法を越えて、神の義が啓示された、と述べています。したがって、「3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。3:25 神はこのキリストを立てその血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」とパウロが説くように、「律法」によって選ばれる道と、「信仰」によって選ばれる道を告げます。律法を遵守するユダヤ人の律法主義を想定しつつも、律法を遵守できない「罪人」や「異邦人」にまで、選びの対象を拡大させて、律法を通して選ぶ道ではなく、キリストの恵みを信じる道を通して選びを受ける恵みを、すなわち「わたしの声を聞き分け」、キリストの福音を受け入れる信仰の道を教えています。「律法を守る」選びと「キリストを信じる」選びは、選びの本質は同じですが、今や「信仰」による選びが新たに示され、後に「旧約」聖書に対して「新約」聖書が位置付けられるようになったと言えましょう。律法を守ることによる選びと、キリストを信じる信仰による選び、その決定的な分岐点は、言うまでもなく、主イエス・キリストの十字架における死の贖罪と復活における永遠の命が、人類の前に差し出されたことです。

だからこそ、主イエスは、このキリストの十字架による永遠の神の選びと愛を証言し伝えるために、信仰による選びの道を告げ知らせるために、「使徒」たちを福音の証言者としてお立てになり、お遣わしなられたのであります。つまり律法とは別に、完全な和解と贖罪を担う主イエスの十字架の死において、事実上、全ての人は既に選ばれ救われたのであり、神の絶対恩寵の恵みと選びに与っている、ということ宣教させたのです。

選びは、ただ神の決定という次元にとどまらずに、人格の中枢における自由な選択的決断として、「信仰」による選びの道がわたしたちのうちに与えられ残されたことは、とても意味深いことだと思います。神の教えを人間の力で守り抜く律法主義とは、本質的に異なる意義が「信仰」における選びにはあるからです。なぜなら、人間とは、人間性の本質において、本来、自分の心と魂をもって自由に自立して生きる人格として、神に似せて創造された神の像であるはずです。神に背いて、罪に堕落し、死と滅びに転落するような存在ではなかったはずです。この罪を償い罪の支配から解放され、キリストのように愛と従順の心をもって神に仕え、互いに支え合える人格存在を根源から回復することにこそ、本当の人間の生と生きる意味があります。したがって主イエスの十字架と復活で贖罪のわざが完了する、その本当の目的は、すなわち、最後の救いの完成とは、人間本性の中枢に、神に対してそして人間相互に対して、愛と従順を回復し、自由な人格存在として立つことにあるのではないでしょうか。ルターは、キリスト者の自由とは神への自由である、と説きましたが、まさにそのように、自立した人格の根源において、感謝と喜びに溢れて、純粋に神に向かう人格的自由を回復することであります。そうした真の人格的解放は、「信仰」おいて、初めて生まれ導かれそして育まれる人格的自由であります。それゆえ神は、その自由の完成のために、わたしたちのうちに、一方で別の助け主として「聖霊」を降臨させ、ご自身の身体を基とする教会を立てて、使徒を遣わし、福音のみことばを語り、目に見えることばの洗礼と聖餐を設定し、人々を招き、人類の信仰的決断を迫り、「信仰」による選びにおいて、永遠の命と品格に満ちた新しい人間性を回復して導くのであります。こうした意味からすれば、ヨハネの予定論はいよいよ実存的であり、「信仰」においてこそ、その力を発揮するのではないでしょうか。