2022年2月27日「羊はその声を聞き分ける」 磯部理一郎 牧師

2022.2.27 小金井西ノ台教会 公現第8主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教39

説教 「羊はその声を聞き分ける」

聖書 エレミヤ書23章1~6節

ヨハネによる福音書10章1~21節

 

 

聖書

10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。10:2 門から入る者が羊飼いである。10:3 門番は羊飼いには門を開き羊はその声を聞き分ける羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。10:9 わたしは門であるわたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。10:11 わたしは良い羊飼いである良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。10:14 わたしは良い羊飼いであるわたしは自分の羊を知っており羊もわたしを知っている。10:15 それは、父がわたしを知っておられわたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。10:16 わたしには、この囲い入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならないその羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる。10:17 わたしは命を再び受けるために捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てるわたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」

 

 

説教

はじめに.主イエスにおける「神」を認め、神のメシアを受け入れるか

本日からヨハネによる福音書10章に入ります。皆さんもよくご存じの「羊飼いと羊」の譬え話です。イエスさまは、ご自身を「良い羊飼い」に喩え、そして選ばれた信仰者たちを「羊」に、或いは、教会を「羊の群れ」に喩えられました。この譬え話で、最も重要なことは、「良い羊飼い」と「羊」の「関わり方」が明確に言い表されていることです。「羊飼い」とは、「羊」に対してどう関わるのか、また「羊」は「羊飼い」に対してどのように応えるのか、両者を繋ぎ結び合わせるものは何か、分かり易く説かれています。

そこでまず、終わりの19~21節の段落から触れますと、この19~21節は、どうも前章の9章の「まとめ」として編集されたのではないか、と考えられます。「10:19 この話をめぐってユダヤ人たちの間にまた対立が生じた(9:16 ファリサイ派の人々の中には、『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない』と言う者もいれば、『どうして罪のある人間がこんなしるしを行うことができるだろうか』と言う者もいた。こうして、彼らの間意見が分かれた。10:20 多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。』10:21 ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。』」とあります。安息日に主イエスが生まれつき目の見えない盲人の目を開けた、という癒しのみわざをめぐり、ユダヤ人の間に混乱と分裂が生じていました。問題は、果たしてそれは「奇跡」かどうか、という奇跡として認定するにとどまらず、さらに奇跡であれば、奇跡を行える人は「神から来られた者」である、すなわち神のメシアの可能性を秘めた人物だ、ということになります。つまり主イエスは果たして神のメシアなのか、というユダヤ全体をひっくり返してしまう大問題となっていたのです。ユダヤ人たちは、特に時の権力者たちは、大きく動揺したはずです。そこで、律法学者たちは、イエスを安息日規定の違反者であるとして、また神を冒涜する極悪非道の罪人として、断罪処刑を決断したのですが、中には慎重派もあって、ユダヤ人たちの間に「対立」が生じていた、というのです。

この対立問題を克服するために残された道はただ一つ、主イエスにおいて生きて働く「神」を、そして奇跡として働く神の栄光の力を認めて、神のメシアとして、受け入れるか、それとも、イエスにおける「神」を否定するか、そのどちらかを自分たちの意志で決断し選び取る外に道はありませんでした。主イエスを「神のメシア」として受け入れる「信仰」に至るか、それとも主イエスにおける「神」を否定して、主イエスを排除する「不信仰」に至るか、その二者択一の選択によってのみ、この対立は解決できる問題と言えましょう。ここでユダヤ人たちに迫られた逃れることの出来ない決断は、自分の意志と責任において「神」を選び取るか、反対に、自分から「神」を抹殺するか、という自分自身による信仰の決断であります。つまり「信仰」に従うか、それとも「不信仰」によってイエスにおける「神」を否定するか、自分たちの決断をもって、選び取ることです。この決断の結末は、カヤファやピラトに受け継がれ、イエスを十字架刑に処罰するという、神の選びの民でありながら神殺しの罪を犯すことになり、パウロが『ローマの信徒への手紙』で明らかにしたように、ユダヤ人のイスラエルから、異邦人のイスラエルとして、大きく神の民は転換してゆきます。

この19~21節の纏めの句は、後の10章22~26節のまとめの句とも連携して働いて、この信仰の決断を迫る役割を担う句でもあります。両者は共に、信仰と不信仰の決断を迫るヨハネの使信の中核とも言えます。それはまさに、主イエスが「わたしはある(わたしは…である)」と自ら自己啓示した神のみことばそのものを受け入れて信じるか、という神の問いと神に対する応答の前に、全ての人類を引き出します。ヨハネはここでまさに主イエスにおける「神」を人類に突きつけ、決断を迫る決定的な問いを提示しているのです。先週読みましたように、主に目を開けていただいた盲人のように、「わたしはある」という名前でご自身をモーセに啓示した「神」は、主イエスにおいて受肉し現臨し生きて働き栄光のみわざを行われている、と認めて、主ご自身が言われる通り「神の独り子」は主イエスにおいて受肉した、と信じて、主イエスをわが主わが神として讃美告白し、ひれ伏して礼拝する者となるか、それとも、ユダヤの権力者のように、私物化した既得権限を守るために、律法を利用して、主イエスを処刑し主イエスにおける「神」を抹殺してしまうのか、そういう致命的な信仰的決断の前に、わたしたち全人類は引き出され、立たされるのであります。そうした緊張と対立の中で、いよいよ主イエスは、ご自身を「神」として、自己啓示するだけではなくて、その生きて働く「神」は、「羊のために命を捨てる、良い羊飼い」として神の栄光を現わすのだ、と啓示したのです。それが10章の主題でありましょう。

 

1.「羊飼い」と「羊」

主イエスは、<羊飼い>のたとえを用いて、ご自身がどなたであるか、さらに具体的に分かり易く教えます。先ず主イエスは「良い羊飼い」として、神の民である「羊の群れ」を導いて連れ出し、天国の門を通り抜けて、「神の国」という新しい永遠の命の囲いの中に招き入れるお方であることを宣言します。そして主イエスの「羊飼い」としての本質を明らかにします。聖書から引用しますと、「羊飼い」は、自分の羊の名を呼んで連れ出す(3節)、先頭に立って行く(4節)、羊が命を受ける(10節)、羊のために命を捨てる(11節)、自分の羊を知っており羊もわたしを知っている(14節)、羊のために命を捨てる(15節)、囲いの外のほかの羊も導く(16節)、羊は(羊飼いに)導かれ一つの群れになる(16節)と教えます。このように、主イエスとは、民である羊を神の国に導く唯一の「良い羊飼い」である、と表明します。

この「良い羊飼い」に対して、ファリサイ派やユダヤの権力者たちは、「盗人」であり「強盗」であり(1, 8, 10節)、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」(10節)と断定しています。6節に「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」と明記されていますので、ファリサイ派を名指しして、偽の羊飼い、羊を捨て去る雇い人、盗人、強盗、と呼び、神の御心に敵対する偽り者である、というように、相当厳しく非難したと思われます。聖書の言葉を具体的に引用しますと、盗んだり屠ったり滅ぼしたりする(10節)、羊を置き去りにして逃げる(12節)、羊を奪いまた追い散らす(12節) 、羊のことを心にかけていない(13節)と表現されています。

次に「羊」の特性について触れますと、「羊」とは、その声を聞き分ける(3節)、羊はその声を知っているのでついて行く(4節)、ほかの者には決してついて行かず逃げ去る(5節)、羊は彼ら(盗人や強盗)の言うことを聞かなかった(8節)、門を出入りして牧草を見つける(9節)、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである(10節)、羊もわたしを知っている(14節)、わたしの声を聞き分け羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる(16節)と表現しています。このような羊の特性を纏めますと、何と言っても、その本質的な特徴は、「羊」は「羊飼い」を正しく明確に知っており、その声を厳密に「聞き分ける」ことができる、という点にあります。しかも羊は羊飼いの声を正しく聞き分けた上で、その声を知っているので、ついて行く(4節)ことができる。ここに羊が羊である重要な本質的特性がある、と言えます。

 

2.「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(3節)

さて、その羊についてですが、「羊」と主イエスが喩える民の本質として「羊はその声を聞き分ける羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(3節)と説いています。この言葉に、さらに注目して読みますと、羊飼いと羊の両者を繋ぐ絆の要は、羊飼いは羊の名を呼んで天国に導くのですが、そのために羊飼いは自分の羊の名を呼びます。そして羊の方はその自分の名を呼び続けてくれる羊飼いの声を自分の耳で聞き分ける必要があります。あるいは「羊はその声を知っているので、ついて行く。」(4節)とありますように、自分に先立って自分を連れ出す羊飼いの声をちゃんと認識していることが求められます。羊は自分からただ羊飼いの声だけを頼りにして声を聞き分けて、羊飼いについてゆかなければ、全く成立しない羊飼いと羊との絆であり関係性です。羊は自分自身から、或いは自分自身の耳に響く羊飼いの「声」にいよいよ集中して、それを自分で「聞き分け」なければならなりません。それゆえ、羊はその声を知っているので、ついて行く(4節)ことが出来るのです。声の違いを聞き分けることが出来るので、したがって、ほかの者には決してついて行かず逃げ去り(5節)、羊は彼ら(盗人や強盗)の言うことを聞かない(8節)のです。つまり、「羊」は、たった一つ「羊飼いの声」だけを頼りに「その声を聞き分け」、それによって羊飼いについてゆくことが出来るのです。ほかの意見や話を聞くのではなく、ただ「自分の名を呼ぶ」お方だけの声を聞き分けて、従いついてゆくのです。これは、信仰生活の本質をよく言い表しています。教会の牧会の本質もそこにあります。神があなたの名を呼んで、あなたご自身の耳で、主のみことばを直接に聞き分けて、その名を呼んで語りかける羊飼いの声に自分から気付いて、それを識別区別して聞き分けるのでなければ、本当の意味で信仰も救いも成立しないのです。自分から謙遜になって「声を聞き分ける」者となる外に、信仰や救いが成立する場は生まれません。当然のことながら、他人を責めて非難しようと、狂気して泣こうが騒ごうが、これはどうしようもないことなのです。「羊」は、ただ一つ「羊飼いの声」だけを「聞き分ける」ことで、羊飼いについてゆくことができ、そして天国の門を抜けて通ることができるのであります。信徒にとって、説教を正しく聴き分けられるようになること、或いは教会においてみことばの訓練を受けること、それは「神のみ声を聞き分ける」ことに外なりません。

皆さんの新共同訳聖書は、わざわざ「聞き分ける」という言葉を用いて意訳しています。元の字は「聞く」というごく普通の字(avkou,w avkou,ei「聞く、聞き従う、知らせを受ける、耳に入る」)で書かれていますが、それをわざわざ「聞き分ける」と訳しました。それはヨハネ自身も、見る、知る、聴く、信じるという動詞を、ある意味で、神の啓示を意味する、いわば啓示用語として特別に用いているからではないかと推測できます。「聞く」とは、ましてやイエスにおける「神」に聞くとは、ただ音として羊飼いの声が肉の耳に物理的に聞こえている、というだけではなくて、他の音との「違い」を聞き分けて、自分の意志で羊飼いの声としてその意味をしっかり理解して、ちゃんと羊飼いについてゆくという行動を選び取っているのです。なぜならその理由は「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあるからです。他の人の名前ではなく「自分」の名前がそこでいつも呼ばれているからです。リビングバイブルや塚本訳では「羊飼いは一匹一匹自分の羊の名を呼んで連れ出す」と訳しています。羊飼いは、今いったい誰の名を呼び続けているのか、羊飼いが一匹一匹の其々の名を呼ぶ声に、耳を澄ませて、「自分の名前が呼ばれる」のをじっと待って、自分がどうすればよいのか、耳を澄まして聞き分けるのです。天国の門を通り抜けて、永遠の命の国に入るためには、これはとても大切なことです。自分の名を呼ぶ羊飼いの声を聞き落したら、その瞬間、羊飼いを見失うことになり、天国の門を抜けて通ることは出来なくなってしまいます。よく聞く話に、羊という動物は、どうも目が余りよく見えないので、耳を頼りにする、と言われる所以です。

ここで注意したいことは、そこには、ちゃんと羊飼いの声を聞き分ける羊として自分がおり、羊としての自分という存在が確かにある、ということです。その自分の名を羊飼いは呼んで連れ出す、という働きの中で、自分の名を呼んでくださる羊飼いの声のおかげで、それに耳を澄ましそれを聞き分ける羊として導かれる「自分」があるのです。これは「牧会の本質」でもあります。カール・バルトの親友トゥルナイゼンは「みことばによる牧会」ということをとても強調しました。人が人の力に頼って人の世話をして導く牧会では、一定の助け合いは可能ですが、天国の門を通り抜けて、永遠の命を得る力にはならないのです。天国の命のために、人を世話し導いて牧会するのは、「神のみことば」それ自身だけなのです。そこで大切なのは、勿論、みことばが宣べ伝えられることですが、その中で、羊飼いがおられ、自分の名を呼び、自分を導き天国の門を抜けて通り、永遠の命の国に連れ出してくださることです。羊が耳を澄ませてみことばを待っている、しかも精一杯自分の力を尽くして心の耳を澄ませて、「その声を聞き分ける」ための準備して待っているのです。そして自分の名を呼んで、みことばが語られると、自分の呼ばれる名前もその意味もちゃんと聞き分けて、従いついてゆくという行動選択ができる、ということです。羊は、自分の名を呼ぶ御声を聞き分けて、自分の名を呼んでくださるという導きの中で、だからこそ自分で間違うことなく正しく羊飼いについてゆくことが出来るのであって、鞭で叩かれ、紐に繋がれて引き摺られて、ついてゆくのではないのです。そこでは、自分の名を呼んでくださる羊飼いの愛と恵みに導かれて、あなた自身の御声を聞き分ける耳と心が大きな意味を持つのです。あくまでも自分の名が呼ばれるその声に、そのその声に溢れる愛と恵みに自分で気づき、自分で御声を聞き分けるのです。そのためには、どうしても、心の底から謙遜になって、主よ、みことばをお語りください、耳を澄ませてあなたの御声をお聴きします、という準備が重要になります。こうして、みことばを謙遜に学ぶ心が養われ、教会の訓練を尊ぶ礼節を知るようになります。

「聞き分ける」と敢えて訳されていましたが、分けて取捨選択することが問われているのです。捨てるべきことを拒否して捨てる、受け取るべきことを感謝と喜びをもって受け取る、そういう取捨選択の耳をつくるのです。自分の聴きたい言葉しか聞かない、という独善が生じることがありますが、聴き分けるべき声をしっかり取捨選択して、選び取るべき声はただ一つ、自分の名を呼んで連れ出す羊飼いの声だけであって、ほかの者には決してついて行かず逃げ去る(5節)、羊は彼ら(盗人や強盗)の言うことを聞かなかった(8節)というのが、羊飼いの言う羊の本質です。自分の名を呼ぶ羊飼いの声とそのみことばを聞き分けることによってのみ、信仰生活は導かれ、天国の門を通り抜けて、永遠の命に至るのです。

 

3.「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10、11節)

聞き分ける、即ち、自分の意志で違いを聞き分けて、羊飼いの声だけを取捨選択する、ということを申しました。大事なのはこの取捨選択です。一方で徹底的に「捨てる」のです。そして一方で「選び取る」のです。10節後半から11節で主イエスは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と言われました。ここで、最も大事なことは、「羊は命を受ける」と言われ、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われる所です。聞き分けて取捨選択をする。自分の名前を呼び続けるキリストの声を聞いて、死と滅びに向かう罪の支配と誘惑を徹底的に捨てるのです。そして自分の名を呼び自分を永遠の命に連れ出す、みことばとみわざを、しっかり選び取り自分の手でもって受け取るのです。「羊のために命を捨てる」十字架の死において、自分の名前が呼ばれているのです。その十字架の中で自分の名を呼ぶ声と、その意味を聞き分けて、自分の命の贖う御声を聞き取り、十字架による死の贖罪によって、自分を名を呼びつつ天国の門を通り抜けて、永遠の命の祝福溢れる囲いの中に連れ出すのです。十字架の死において自分の名が呼ばれ、その声の恩恵により自分は感謝と喜びにあふれてついてゆき、ついには十字架の死による贖罪の恩恵に与り、十字架の門を通り抜けて、天国における永遠の命の祝福に与るのです。そうした神の十字架のみことばによる導きの中で、神の御子は、このわたしのために命を捨てられ、わたしは神の御子からその命を受けたことを知るようになります。羊飼いが羊の名を呼ぶとは、そういうことでありましょう。

よく教会の中で話される話に、「誰もみんな神さまに救われているよ、だからそれだけで十分ですよ。何も分からなくてもいいのですよ。神様がすべてをよくしてくださるから。」といって慰めることがあります。確かに、神さまの絶対恩寵は完全ですから、その通り、救いは無条件であります。しかしそれは往々にして致命的な誤解を引き起こすことがあります。ある意味で分かり易く、優しい耳ざわりのよい言葉です。では、本当に何もなくてよいのでしょうか。確かに神の絶対恩寵を受ける条件としては、「空洞」のように、何もない無条件でよいのですが、しかし神の恵みの実体は、「救いの恵み」の現実として、わたしたちのうちに働き現存します。神の救いの恵みは決して「空洞」ではありません。この神の生きて働き続ける恵みを聞き分けて、自分の名が呼ばれていることを知って、喜びと感謝とをもってそして讃美と告白とをもって、お応えすることはできるはずです。すなわち、常に働く恵みを知って絶えず感謝することは出来ます。それは感謝と喜びに満ちた信仰の生活という実存として現存するのです。決して「何もない」ことでも「空洞」でもありません。力ある喜びと希望に満ちた、生きた現実の信仰生活です。その意味で、わたしたち信仰者の実存は、決して空洞にはなりません。それどころか、いよいよ豊かに新しい永遠の命の満ちた現実がそこにはあるはずです。生まれつき目が見えなかった人が目が見えるようになった、その人のうちに絶大な神の栄光のみわざは働き現わされました。まさにここで、ついに「自分の名が呼ばれた」と言えましょう。神の栄光のみわざは、この人物の全身全霊とその人生の全てにおいて、いっぱいの恵みとなって満たして、「遣わされた者」(シロアム)という新しい命の現実を創造したはずです。その結果、神さまに対する心も、信仰生活として、生活それ自体の内容本質が大変革したのです。こうした「現実」或いは信仰から生まれた信仰者の実存は、信仰生活や教会の至る所で生きて働き現れています。教会の奉仕の仕方も、それは単なる助け合いを遥かに超えて、献金の献げ方に至るまでも、それは単なる会費を遥かに超えて、天国の命に至る喜びの行為であります。また教会の中で交わす「平和の挨拶」は、単なる礼儀の意味と本質的に違って、死と滅びに勝利する平安の共有であるはずです。より深く信仰に基づく意味を理解し、より確かに羊飼いの声と牧会の意味を見分け聞き分けられるようになります。

信仰生活での一番の誤りは、「キリストの恵み」を中心に置かずに、キリストを抜きにして、或いはキリストを優先せずに、自分や人間の感情を優先させて、キリスト不在の教会生活や信仰生活に陥ることです。ほとんど全て、悪気はなく故意にでもなく、結果として陥る罪です。その原因は、自己自身の欲求と人間関係による呪縛です。神との天地の垂直関係が薄らぎ失われて、人間同士の顔を前に、世の水平的利害関係の中に埋没し、キリストの十字架が見えなくなるためです。それは人間関係として、牧師や長老、教会員同士の関係の中に、好き嫌いによる場合も含めて、キリストの恵みによる垂直関係が見失われて、本当の意味で人と人の真実な関係性を実現成立させる根拠はただキリストの血にあることを忘れてしまうからです。親子や兄弟の関係の中でも、キリストの十字架の恵みを抜きにして、直に家族の思いや利害に溺れると、不安定な人間の力だけを頼りにすることになり、疑心暗鬼が生まれ、ついには争いとなります。この世の躓きの多くは、キリストの恵みを抜きにしてしまうことが原因です。キリストを通して(において、によって)今の全てがある、ということを原点に、また常に中核にして現実を見つめ直すことが肝要ではないでしょうか。聞き分けるとは、まさにキリストを全ての中心に据えて選び取ることでもあります。

 

4.「わたしは羊の門である」(7, 9節)「わたしは良い羊飼いである」(11, 14節)

最後に何度もお話して来ましたが、ここでも「わたしは羊の門である」(7, 9節)「わたしは良い羊飼いである」(11, 14節)とありますが、「わたしはある(わたしは…である)エゴー・エイミ」という神ご自身がモーセに啓示した神のお名前が登場します。ギリシャ語原典では「わたしはある」(エゴー・エイミ)という神の自己啓示の名前が先ずあって、同格のように並んで、さらに主イエスの働きを象徴する「門(羊の門)」「良い羊飼い」「世の光」などの用語が併記される構文です。しかもその7、9節の「わたしは羊の門である」をさらに受けて、1,2節のように「門を通らないで」(1節)「門から入る者が羊飼いである」(2節)「門番は羊飼いには門を開き」(3節)と語り、羊飼いのもう一つの役割として「門を開く」働きが告げられます。まさにこの「門」とは、<キリストを通して・キリストにおいて・キリストによって・キリストに結ばれて・キリストと共に>通り抜けて、即ち「神の義」と「贖罪」の門を見事に通過して、永遠の命の祝福を受けることのできる「神の救い」です。天国に至る門は、即ち神の救いは、キリストの十字架と復活の中を<通る>ことで実現します。主イエスは、真の神であり真の人間として、わたしたち人類の罪を背負い、完全に罪の代償を支払い、わたしたち罪人を贖ってくださいました。そればかりか、わたしたちと全く同じ魂と肉体をもって復活し天に昇られました。わたしたちの永遠の身体は、復活と昇天のキリストの身体として、主の約束のうちに存在しています。永遠の命を新たに創造し天国に導くお方、それはただイエス・キリストお独りです。このイエス・キリストを、はっきりと「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)とする信仰告白を通過して、救いは実現します。

先ほど、主イエスとユダヤ人たちとの深刻な対立の句を確認しましたが、その論争の中心は、主イエスにおける「神」を認め、しかも罪から解放するメシアであることを受け入れて信じるか、そういう信仰的決断をするか、それとも拒絶するか、という点にあったことをお話しました。目を開けていただいた盲人は、主イエスにおける「神」を受け入れ、全生涯における「主」として自分のうちに生きて働く「神」として認め、自分を罪と滅びから解放するただ独りの神の子であると、信仰を公に言い表して、ひれ伏し礼拝しました。この信仰を鮮明に告白することで、しかも神として主イエスを礼拝することで、この盲人は主イエスの羊となり、そして主イエスはこの人の羊飼いとして命を捨てる、そういう神とその民との関係を結ぶという所にまで至り、天国の門を通り抜けて、罪の裁きから解放され、新しい永遠の命を与えられる、という決定的な救いに与ったのであります。

イエスさまは、さらにここで、「羊」であることの本質を「羊はわたしの声を聞き分け」さらに「わたしの声を聞き分け」て「一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる」と明確に語り、明らかに、主のみことばを聴き分ける信仰共同体としての新たな教会の形成について語っておられます。平面的に広がる教会であり、垂直的に昇りゆく教会の広がりであり、終末の未来へと広がる教会の展開でもあり、唯一の、聖なる、公同の、使徒による教会でもあります。言い換えれば、救いが成就するための明確な「道筋」があり、そして救われた結果としての明確な「形」が現れるのです。何もないのでも、何も知らなくてよいのでも、そのままでよい、というものでもないのです。新しい命が形成される道筋と形が生まれるのです。具体的には、主イエスという羊飼いの「声を聞き分け」て集う新しい羊の群れが生まれ、主イエスが救い主であるとする「信仰告白」を共有してこの世の旅路を行き、天国の門を通り抜けてゆく羊の群れが続きます。羊飼いが自分の名前が呼び、羊はその声を聞き分けて、羊飼いについて行くという信仰者としての実存が形成されるのですが、それは「個」としての実存形成ではなくて、不断に形成される「群れ」としての信仰的実存でもあります。教会で言えば、キリストをわが救いの主、わが救いの神とする洗礼を受け、教会という羊の群れに加え入れ、教会員としての生活が与えられるのです。キリストというお方の十字架における贖罪を通して、罪赦されて神の国の門を通り抜けるのです。そして、キリストのもとで初めて神の国の民となる、という道筋を通して救いは実現します。「神」が主イエスにおいて、わたしたちのために十字架の死に至るまで従順を尽くして、贖罪の生贄となって罪を償い、新しい復活の命をお与えくださった、ということをアーメンと確かに告白するのです。そこではじめて、「だからこそ、祈りは必ず聞かれる」という本当の意味が分かります。羊飼いが誰で、どんな声で、何を語りかけ、どんなことを行ってくださるのか、羊はよく知っているので、間違えず、ただ独りの羊飼いについてゆくのです。洗礼を受ける際に、また聖餐に与る時にも、「信仰告白」が求められるのは、「神」に与り、神の愛と恵みのみわざに与る、神礼拝の基本です。自分のために血を流されたお方がどなたなのか知らずに、信じ受け入れることはあり得ないことです。ましてや、信仰も問わずに、十字架と復活の食卓に与る、というのは、余りにもおかしな話です。そのためには、まず自分の救い主は「キリスト」ただお独りにあり、礼拝する神は「三位一体の神」である、と聖書のみ言葉から学び知るべきでありましょう。長老教会の最も優れた誇るべき所が仮にあるとすれば、それは徹底的に、主のみことばのもとで謙遜に学び、信仰の訓練し合い、神の愛と恵みを正確に数え上げ、感謝と栄光をただ神にのみ帰する所にあると言えましょう。