2022年2月20日「目の見えない者が見えるようになる」 磯部理一郎 牧師

 

2022.2.20 小金井西ノ台教会 公現第7主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教38

説教 「目の見えない者が見えるようになる」

聖書 箴言23章1~6節

ヨハネによる福音書9章35~41節

 

 

聖書

9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ているあなたと話しているのがその人だ。」

9:38 彼が、「主よ信じます」と言って、ひざまずくと、9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る。」

 

 

説教

はじめに.

前回は、ただ神の栄光のみわざとその恵みのみによって生きる生き方について、お話を致しました。わたくしども人間の根本問題は、どんなことであろうと、すべては、本当の意味で神の恵みを知っているかどうか、その一点にかかっています。生まれつき目の見えなかった盲人は、神の栄光のみわざは自分のうちにこそ最も力強く現わされていたことを経験しました。そうした自分のうちに引き起こされた神の栄光のみわざについて、この人は「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方はわたしの目を開けてくださったのに。9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめその御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と、こう証言して告白しました。これまで一度も聞いたことのない神のみわざが、生まれつき目が見えなかった自分の目を開けていただいたという神の栄光のみわざとして、外でもなく、何とこの自分のただ中で起こっていたのです。その現実と向き合い、驚きつつも、はっきりと、神の栄光のみわざが自分のうちに現わされた、とを告白しました。ただ神の栄光のみわざに心の目を向けて、ただただ神の栄光のみわざによって生きる生き方に目覚めた瞬間でした。ただ神の栄光のみわざによって生きる、ということの本当に意味を知り学んだのです。自分の周りの人々を見て、自分と比べて、意地になって自分の欲求や思いを力ずくで押し通す生き方ではなく、ただ自分のうちに働く神のみわざに目を向けて、そして何よりも、偉大な神の栄光の力は自分のうちにこそ最も大きく現わされていたことに気付き、そこで生ける真の神と出会い、そこで生きて働く神の愛と恵みに触れ、ただひたすらにこの神の栄光のわざのもとで、新しい生きたを始めよう、と決意したと言えましょう。信仰生活の尊さと意義はここにあります。他人や社会も大事ですが、先ず自分自身のうちに働く神の栄光のみわざに目を向けて、そこで生きて働く神と出会うのです。そうでなければ、本当の意味で、感謝も讃美も生まれないはずです。教会生活でも、たとえ奉仕をするにしても、意地で推し進める奉仕は、結局、自己弁護や自己崇拝にすぎないのです。いくら讃美歌を上手に歌えても、立派な奉仕をしているように見えても、自分のうちに最も力強く神の栄光の業が働いていることを知らなければ、真実な感謝も生まれず、実は何のための神讃美であるか、とても空しいことになります。なぜなら、そこには、真実な意味での、神の栄光のみわざはないからです。

その一番の問題は「自分」にこだわり続けて固執することです。その結果、心の目は神の栄光のみわざを見出す方向に向かうよりも、自分で造り上げる自己実現や自己評価の方に、意味と価値が偏ってしまいます。その結果、悲しいことに、いつもその力ずく成し得ようとする評価を求めながら、その力ずくの評価に怯えるようになり、それによって極端に自己防衛的となり、最後は自分を破壊してしまうことになります。それでは、自分の力を拝む偶像崇拝と同じことになってしまいます。「悔い改める」とは、「方向を転換する」こと、聖書では特に「神」に向かって回心することを意味する字です。まさに心の目を、神の栄光のみわざに向け直すことです。しかもその絶大な神の栄光のみわざは、この自分のうちに最も強く豊かに働いている、ということを心の底から認めて、それを常に生きるべき命の糧とする所に、信仰生活の本来の出発点があります。意地を張って自分への偏りを自分のうちに残してしまわずに、神の栄光のみわざのうちに、完全に包まれ導かれる新しい自分に目覚め、内なるみわざをいよいよ確かにする訓練こそ、信仰訓練の基本と言えます。パウロは、『コロサイの信徒への手紙』の中でこう勧告をします。「3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。3:2 上にあるものに心を留め地上のものに心を引かれないようにしなさい。3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。3:6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。」と教えます。死んで復活した、と言っています。洗礼を受けるとは、「自分」に死んで、神の栄光のみわざのうちに新しい自分を見出すことでありましょう。

 

1.「彼が外に出された」(35節)

さて本日の聖書箇所は、この盲人が「外に追い出された」(35節)ことから始まります。「外に出された」とは、単に建物の外に出たということではないようです。戻りますが、9章22節に「9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」と記されています。つまり、目を癒されたこの盲人は、ついに「会堂追放」の処罰を受けたことが分かります。明らかに、癒された盲人が会堂から追放された理由は、先ほど引用した30節で「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたh=n ou-toj para. Qeou 新改訳「あの方は神から出ておられる」)のでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と証言してしまいましたので、彼の証言は、イエスはメシアである、と公に言い表したと見なされ、会堂追放の処罰が断行された、と考えられます。「会堂」とは、単に建物や場所である以上に、律法を唱え、祈りを捧げ、神の臨在に触れる、いわば、地上から天上に至る礼拝の場です。礼拝の場から排除されることは、神との交わりから断たれ、神との関係性が根底からはく奪されたことを意味します。ユダヤ人にとりましては、特に信仰によって生きようとする者であれば、最も恐れる深刻な事態であります。この時点で、この盲人は、ユダヤ社会から排除され捨てられた場で、新たに生きる決断が迫られることになります。所謂ユダヤの宗教共同体の恩恵の中で生きることを断念して、ただ純粋に自分の目を開けてくださった「神の栄光のみわざ」のもとで、生きようとする決断が迫られていたのです。ただ神のみわざのみで生きる新しい生き方を選ぶことになります。

 

2.「そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた」(35節)

この段落で最も意味深いくだりは、35節「そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた」(35節)という主イエスのみことばです。新共同訳聖書は「彼に出会う」と訳しています。ほかの邦訳聖書の訳をご紹介しますと、リビングバイブルは「そのいきさつを伝え聞いたイエスは、男をお捜しになり見つけ出されると、『あなたはメシヤを信じますか』とお聞きになりました。」と訳し、新改訳では「彼を見つけ出して言われた」と訳されています。主イエスはこの盲人を探し求めて見つけ出した(eu`ri,skw eu`rw.n特に努力して探した末に見つけ出す、尋ね出す」の意)のです。偶然たまたま町で出会ったのではなく、イエスさまはとても強いご意志のもとにこの盲人を探し求めておられたのです。「彼に出会う」とは、そうした主イエスのご意志と求めによる出会いでありました。そして、主イエスがこの盲人を探し求めた、その理由は、直接に彼から信仰の告白を求めたからではないか、と考えられます。したがって、明らかに、ここは偶然に出会ったのではなくて、主イエスは意図して追放された盲人を探し求めて、ついに見つけ出して、その信仰の告白を求めた、と読むべきでありましょう。不変不動なる、神の強いご意志のもとで「出会った」のです。

主イエスが彼に求められた信仰の告白とは、明白で、「イエスは人の子である、とあなたは信じているか」と主イエスはお尋ねになっておられる通りです。この問いのために、主イエスは、この人と直に顔と顔とを合わせて、対面する人格を尽くした交わりの中で、信仰を見届ける必要があったのではないでしょうか。生ける神と民とのことばにおける新しい契約の場面となったとも言えます。人格と人格とが真実な意味で根源から出会うとは、そういうことでありましょう。大切なのは、救いのみわざが行われる中枢で、神は徹底的にその人の人格と魂を根源から問題にして問うのです。その人物の魂や人格を根源から問題にしない救いはあり得ないのです。神の恵みが働く場では、常にその恵みを受ける人格の本質が問われるのです。ただ肉眼として眼が開く、というのではなくて、魂と命の目が開くのです。人格存在として全身の目が開くのです。

「人の子」という呼称には、三重の意味が重なり合っていると考えられます。先ず⑴主イエス自ら「ご自身」を指して「人の子」呼んでおられた呼称であり、次に⑵当時の宗教的常識では「終末時に到来する預言者」と考えられており、そして明らかにヨハネ福音書では、⑶神から遣わされた「神のメシア」として告知されています。つまり、主イエスはここで明らかに「あなたは、わたしを<人の子=神のメシア>である、と信じるか」とお聞きになっておられるのではないでしょうか。あなたの中に、今どなたがどんなわざを行っておられるのか、とお尋ねになられたと言えます。そして答えは、神のメシアによる救いのみわざが行われていることに、いよいよこの人物の心を向けようとされたのではないかと思います。単に肉眼の目が開くという不思議なわざにとどまらない、あなた全身の目が開く、霊と魂と人格全体の、新しく与えられる永遠の命が見えるようになる、という神のメシアによる救いを深く問うのです。そして神の栄光のみわざの本質に目を開かれるのであります。

 

3.「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(36節)

盲人は、実に意味深長な応答の仕方をしています。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(36節)と主イエスに答えます。一見すると、この答えは、必ずしも完全な信仰告白による応答とは言えないようです。どちらかと言えば、曖昧で複雑な応答の仕方に聞こえます。この応答で、まず「主よ」(ku,rie)と真っ先にイエスを呼んでおり、これは明らかに「神」に対する呼称とも解釈できます。ちゃんと主イエスを受け入れているようです。しかしその一方で「どんな方ですか」(ti,j evstin)と改めて問い直しています。これはどう解釈すればよいでしょうか。果たして主イエスは、ここで、この盲人に対して完全な信仰告白を求めたのでしょうか。むしろ完全な信仰を求めたというよりも、より完全な信仰の告白に至るように、招き導き誘っているように思われます。永続する不断の神の栄光のみわざの中で、わたしたちの信仰は導かれつつ絶えず形成され続けるものではないかと思われます。したがって、この盲人は、ただ驚愕するばかりで、彼の中では測り知れないことばかりが溢れかえっていたように推測されます。ましてや、主イエスはだれなのか、主イエスにおいて生きて働く「神」はどのようにしておられるのか、神秘に満ち満ちたことばかりであります。イエスという「受肉」した人物を前にして、では本当の永遠の神は、どのようなお方で、どこにおられるのですか、という神の世界の奥深い戸惑いを隠しきれないのです。まさにモーセに語り啓示した「わたしはある」(出エジプト3:14)という神は、主イエスにおいて、どのようにしておられるか、という問いでもあります。少々過大解釈かも知れませんが、三一体の神の前で、人間はその能力の限界の中でそれをどのように受け入れることができるのでしょうか。明らかに、人間能力の尺度を遥かに超える限界値に達していたはずです。主イエスは、既に8章58節で「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と言って、ご自身が「神」(「わたしはある」という神)である、と自己啓示しておられたことを想起します。この主イエスによる神の自己啓示、「わたしはある(ハイヤー、エゴー・エイミ)」とモーセに啓示された神は、即ち、主イエスご自身であるという意味を、どのように理解すればよいのか、まさに一つの「神」として父・子・聖霊なる三つの位格(ペルソナ)がおられる、という神認識にまで至る信仰告白が求められていたのでしょうか。果たしてこの盲人の信仰は、そこでまで及んでいたのでしょうか。そうした神認識での戸惑いと不完全性が、複雑な応答として、現れているように思われます。同時にまた「その方を信じたいのですが」という言葉使いから、是非とも正しい、そして完全な神認識に到達したい、という求道の熱心もよく現れているように思われます。

 

4.「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(37節)

すると、いよいよ驚いたことに、主イエスははっきりと「あなたは、もうその人を見ているあなたと話しているのが、その人だ(Kai. e`w,rakaj auvto.n kai. o` lalw/n meta. sou/ evkei/no,j evstin)。」(37節)とお答えになります。新共同訳聖書は「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」となっていますが、口語訳聖書は「あなたと話をしているこのわたしがそれである」と訳し、新改訳聖書は「あなたと話しているこのわたしがそれです」と訳して、わざわざ「このわたし」という言葉を入れて意訳しています。なぜ口語訳も、新改訳もわざわざ「このわたしが…である」と訳す必要があったのでしょうか。理由は明らかにです。ここは是非とも「わたしは…である」(エゴー・エイミ)という主イエスの自己啓示の持っている本来の趣旨を生かす場面と考えられるからです。このように、主イエスは、あなたはすでにこのイエスにおいてその本当の永遠の「神」そのものを見ており、主イエスにおいてその本当の「神」と直接話しているではないか、と告げたのです。この場面は、あのサマリアの女との場面と全く同じ場面です。4章25節で女が「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と答えると、主イエスは即座に25節で「それは、あなたと話をしているこのわたしである(VEgw, eivmi( o` lalw/n soi)。」と自己における「神」を自己啓示します。こうした直接の対話を通して、主イエスは、ご自身から、みことばを通して、「神」を自己啓示する場面です。まさに主イエス自らによる神の自己啓示です。神はどこか遠くの永遠の世界におられるのではなくて、今まさにここに、人の子である人間イエスとして、また神のメシアとして、あなたの前に立っておられる、と告げます。神を見る、神と語り合う、それは直ちに、イエスを見て、イエスと語り合い、イエスと一体となって共に生きることだったのです。ここに、即ち主イエスにおいて、初めて生ける神は現臨したのです。「神」は「イエス」において到来したのです。しかもこの「見る」は「既に見た」という完了形動詞であり、「話す」という動詞はまさに現在進行している現在形で表記されています。言わば、主イエスにおいてあなたは既に「神」を見たのであり、今まさに話を交わしている、と宣言したのであります。

 

5.「彼が、『主よ、信じます』と言って、ひざまずくと、」(38節)

こうした主イエスの問いに対して、この人は「主よ、信じます」と言って、ひざまずいて」(38節)お答えします。ここで「ひざまずく」と直訳された字は「プロスクネオ―」(proskune,w proseku,nhsen)という字です。語源は「ひざまずく」「ひれ伏す」という意味で、前3世紀にヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳されるときに、早くから「ひざまずき、ひれ伏して(神)を礼拝する」という意味で用いられて来た字です。つまり「イエスを礼拝した」と訳す字です。したがってリビングバイブルは「『主よ信じます。』男はそう言ってイエスを礼拝しました。」と訳していますし、塚本訳も「イエスをおがんだ」と訳しています。両者共に、主イエスを「神」として礼拝した、と訳しています。イエスを主なる「神」とする信仰告白をもって拝む、即ち正しい神認識と信仰告白に基づいて礼拝をした、ということを意味します。この人は、ひざまずく前に、「主よ、信じます」とはっきりと信仰を言い表していますように、正しくイエスを神(主)として礼拝した、ということがよく分かるのではないでしょうか。

聖書の用語で「(神を)礼拝する」という用語について考えますと、ここではモーセに啓示した「わたしはある」という神が主イエスである、ということになります。この信仰は、その後、4世紀のニケア信条で、⑴「キリストは神と同一本質(ホモウシオス)である」という信仰告白となります。こうした明確な神認識をもって神を神とする、という神礼拝を表す言葉が「プロスクネオー」という字です(マタイ28:17)。次いで、⑵たとえば「聖書を朗読する」など具体的な典礼の務めを果たすことで神を礼拝する、という礼拝行為には「レイトゥルギア」(leitourgi,a  leitourge,w)という礼拝用語が用いられます(ルカ1:23、ヘブライ10:11)。最後に、⑶「日々の生活を神への献身としてささげる」など、生活全般を神への献身やささげものとして捉えるときには、「ラトレイア(神への奉仕)」(latrei,a latreu,w)という礼拝用語が使われます(ローマ12:1)。分けても重要な用語は「プロスクネオー」で、正しい神認識の上に立って、真の神を神としてひれ伏して礼拝することを意味します。因みに新約聖書中60回使用されますが、半数以上がヨハネ文書で「神を礼拝する」意味で使用されています。ヨハネの典型的な用例は、「礼拝すべき場所はエルサレム」(4:20)「わたしを信じなさい・・・父を礼拝する」(4:21)「まことの礼拝をする・・・霊と真理をもって父を礼拝する」(4:23)「神は霊であるだから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(4:24)と、徹底的に、正しい神認識のもとで神を礼拝する神礼拝を意味しています。このように、聖書の翻訳は、ただ言語を辞書的に正確に翻訳することが求められますが、さらに加えて、神学的な意味を深く配慮してなされるなければなりませんので、誠に至難のわざと言えましょう。

こうして、主イエスに目を開けていただいた盲人は、主イエスを「神」であると信仰告白して礼拝する者となり、まさに「遣わされた者」(シロアム)として、福音の証言告白を担う一員として新たに立てられていったと考えられます。少々深読みをすれば、それはヨハネの証言するように、主イエスを受肉の神として、先在のロゴスを神の独り子とする(ヨハネ1:1~4)、三位一体の神として礼拝する信仰へと導かれたと言えるかも知れません。

 

6.「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39節)

39節で「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」と仰せになっておられますが、この「裁くために」という表現に、戸惑いを覚える方もありそうです。なぜなら「ヨハネ3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と言われているからです。では「裁くため」即ち「裁くためにわたしはこの世に来た(Eivj kri,ma evgw. eivj to.n ko,smon tou/ton h=lqon)」とは、どういう意味なのでしょうか。神の御子である主イエスが世に到来したことは、ましてや永遠の神そのものが「人の子」として生まれ、人間イエスのうちに到来し現れ、地上を歩くなど、誰が予測したことでしょうか。人間の常識を覆す出来事であり、神に選ばれ神の律法を知り、神に犠牲をささげ続けて来たユダヤ人でさえも予測できなかったことです。律法に描かれた文書の中の神は知っていても、人間イエスにおいて現臨し、この地上で生きて働く神は、思いも寄らず、信仰や律法の知識や判断を遥かに超えるものでした。そこで求められることは、そこで必要とされることも、そしてそこで唯一有効なことがあるとすれば、それは、イエスを「神」として信じ、イエスの言葉と教えを認めて、イエスを「神」として受け入れるという「信仰」による外に道はありません。いわば人間やこの世に基づく全ての基準はここでは放棄されて、ただイエスの言葉だけを信じて受け入れる信仰のみが、生きて働く神の啓示を受け入れることを可能とします。つまり「裁き」とは、世に基づくあらゆる価値や権威がすべて無力となり放棄されて、ただイエスの信仰だけが「神」への道を開く、という大逆転です。まさに世のすべての権威は、神の真理に対しては無力であり、かつ無効となり、信仰だけが神の真理に対して有効となります。信仰によって認められ受け入られる神の真理ですから、信仰がなければ、神の真理を受け入れ認めることはできなくなりますので、既に裁かれている、ということになってしまいます。

 

7.「見えない者は見えるようになる見える者は見えないようになる」(39節)

最後に、結論として、主イエスの教えが総括されます。「見えなかったのであれば、罪はなかった。『見える』と言っている。だから罪は残る」(41節)と宣言されます。奥深く、重厚な意味を持つ言葉です。肉眼で物理的な事柄を言うのではありません。「見える」とは、最終的に言えば、神の恵みと信仰によって、神の救いに与る、ということではないでしょうか。パウロは『ローマの信徒への手紙』3章21節以下で「3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。3:25 神はこのキリストを立てその血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」と、神が、御子を贖罪の犠牲として、私たちのためにお与えくださった恵みにより、それを受け入れて信じる信仰によって、義とお認めくださる、という神のご計画と真理を伝えています。この神の愛とそのご計画を真理として認め受け入れることができるようになる、それが見えるということになります。ユダヤ人の致命的な点は、その神の恵みを信仰によって認めることが出来ず、その結果、神のご計画の真理が見えないのに、「見える」と言い張って、自分の力に依存して、力ずくで律法を押し通したのです。パウロは、この恵みとしての神の救いをはっきりと「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて神の義が示されました」と見切っています。「見える」という律法主義者たちの価値判断や権威は、自分の力では「見えない」ことを認めて、力ずくの律法主義では成し得ない神の絶対恩寵による救いであることを知り、つまり「見えない」ことを認め、唯々神の憐れみに縋り、御子による十字架の贖罪を受け入れる外に道はない、という信仰による恵みに取って代わる、という逆転劇が、ここには、総括されています。「見えない」神の義は力ずくの律法行使では実現できないという罪の現実は、「見えない」と認めるゆえに、「恵み」を天に求め恵みを必要とするゆえに、神の恵みに与ることで「見える」という罪の赦しの現実へと取って代わるのです。こうして「見える」と「見えない」における本質的な大逆転が、イエスの到来によって引き起こされたことを意味します。主イエスの十字架と復活を受け入れて認める信仰は、罪を赦しと復活へと大逆転する神の恵みの場となったのです。まさに生まれつき目が見えない人において、神の栄光が完全に救いの栄光として現わされる場となったのであります。