2022年1月23日「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」 磯部理一郎 牧師

 

 

2022.1.23 小金井西ノ台教会 公現第3主日

ヨハネによる福音書講解説教34

説教「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」

聖書 創世記12章1~8節

ヨハネによる福音書8章48~59節

 

 

聖書

8:48 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、8:49 イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。

8:50 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。8:51 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」8:52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。8:53 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」

8:54 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。8:55 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っておりその言葉を守っている

8:56 あなたたちの父アブラハムはわたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」8:57 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、8:58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

8:59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 

 

説教

はじめに. 「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父」

8章59節に「ユダヤ人たちは石を取り上げイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」とありますように、主イエスは、ここでこの時点で、完全に神の冒涜者の現行犯として断罪されており、既に「即時、石打処刑だ!」ということになっていたようです。その難を逃れるために、主イエスは神殿の境内から逃亡して身を隠します。この時から、主イエスは完全にユダヤ人の敵となり、極刑に処せられるべき極悪犯となりました。宗教的議論や論争の次元を遥かに通り越して、即時処刑を受ける状態に、主のご受難の時は動き始めていた、と考えられます。

その決定的原因は、「わたしはある」という主ご自身のみことばそのものにありました。この「わたしはある」という言葉は、ヨハネによる福音書の中核を成す言葉で、ギリシャ語では「エゴー・エイミ」という字で言い表されています。この「わたしはある」については、後で詳細に論じますが、その前に、主イエスは、ユダヤ人との論争で、ご自身の受けるべき「栄光」について、ヨハネ8章54節以下で「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だと言っている。8:55 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。」と語ります。ここで、主イエスはユダヤの「神」について言及し、ユダヤ人たちが古くから「我々の神」としていた、正にそのユダヤの聖なる「神」を、神の選民であるユダヤ人たちは誰もその「神」を知らないのである、と断定しています。かてて加えて、主イエスはユダヤの神を「わたしの父」と呼び、「わたし」はあなた方の神を「わたしの父」として知っている、と言い切ってしまった場面です。主イエスにおける「栄光」とは、何よりも先ず「わたしの父」である「神」が「子」である主イエスだけにお与えになられる「神」としての栄光である、と宣言します。そしてその「神」としての栄光は、「わたし」即ち主イエスご自身から求めた「栄光」ではなく、「わたしの父」が「子」のわたしに与える「栄光」である、と明らかにしたのです。したがって、主イエスご自身が語る言葉もまた行われるみわざも、主イエスの何もかもその全てが、ユダヤ人たちが「我々の神」と呼んで来た「父」による「栄光」であり、それゆえ、主イエスの教え語るみことばは全て神の意志によることを告知した、と言えましょう。したがって、当然のことながら、「父」である「神」が「子」に与えた栄光の言葉ですから、そのみことばを信じ受け入れて守る者は、その信仰において直ちに神の栄光に与ることとなり、「決して死ぬことはない」と結論づけたのです。そして最後に、主イエスは、ユダヤ人たちの祖先である「アブラハム」に言及して、モーセの律法や預言者たちに先行する始祖アブラハムを取りあげて、父祖「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と宣言し、ご自身が「神」であることを啓示します。

 

1.「わたしはある」と「言」

この「わたしはある」という言葉の始まりは、前にご説明しましたように、紀元前1250年頃のモーセの時代に遡ります。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの子孫たちは、放浪の末、ラムセス二世治下のエジプトにありましたが、その圧政から脱出解放を求めます。その時の指導者モーセに、「神」が啓示した「神」のお名前です。旧約聖書出エジプト記3章13節以下によれば「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」と、モーセは神に尋ねます。すると、神はモーセにお答えになって「『わたしはあるわたしはあるという者だ』と言われ、さらに「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」とお命じになられます。この「わたしはある」という名前はヘブライ語で「ハーヤー」という字ですが、紀元前250年頃、プトレマイオス治下のアレキサンドリアでギリシャ語に訳されたとされる七十人訳聖書は、この「ハーヤー」を「エゴー・エイミ」(わたしはある)と訳しています。ヨハネによる福音書によれば、このモーセに啓示した「わたしはある(エゴー・エイミ)」という神の名を、主イエスはそのまま用いてご自身の名前とした表されたことになります。

さらに「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」とありますように、ユダヤ人たちの父祖であるアブラハムの権威と関連付けて、ユダヤ民族が存在する前に、否、天地万物が創造されるその前から既に先在していた神であり「言(ロゴス)」であると宣言したのです。改めて冒頭の言葉を想い起しますと、「1:1 初めに言(冠詞付き)あった言(冠詞付)は神(冠詞付)と共にあった言(冠詞)は神(無冠詞の述語的表現)であった。1:2 この言(冠詞付)は初めに神(冠詞付)と共にあった。」と謳い、ヨハネ福音書の冒頭では、初めから、万物が創造される前から、冠詞付の「神」と共に先在していた冠詞付「ロゴス(言)」であり、冠詞付「ロゴス(言)」は神であった、として表記されていたお方です。冠詞付きであるのは、独立した一人格的存在を示唆すると想定されます。そしてさらに確定し結論図けるように、「1:3 万物は言によって成った成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と言い表して、言わば福音の本質を示す「言」が先在しており、その「言」によって万物は創造された、とヨハネとヨハネの信仰共同体は、「ロゴス(言)」を讃美歌を歌うように、讃歌しています。

 

2.神のロゴス(言)の「人の子」としての十字架における栄光

「父」なる神が、「子」なる神に、お与えになる「栄光」の本質とは、その根元に、まさにこの主イエスの本質を成す「先在の神のロゴス」にあります。この先在する永遠の神のロゴス(言)はついに「1:14 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と証言されます。「それは父の独り子としての栄光」こそ、主イエスの本質的な栄光ですが、その「父の独り子」として本質的な栄光は、イエスにおける受肉において一層はっきりと示され、最終的には「受難の栄光」として頂点に達して実現します。主イエスにおけるご受難の栄光は、その本質を先在の神のロゴスを栄光の起源としつつ、人類救済のために人の子として受肉して、十字架の死に至るまで神に従順を尽くして人の罪を完全に償い尽くすという「十字架の栄光」において、完全に現される神の栄光であります。神の御子であり先在のロゴスであるお方が、イエスという「人の子」のうちに栄光を実現して、しかも十字架の死における苦難の栄光として、人類の罪の代価を支払って贖い永遠の命を与えて救済する、という「人の子の栄光」として結実し実現するのであります。この「栄光」を主に与え、主に委ねられたお方こそ、まさに父なる神でありました。主ご自身が「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって」と仰せになっておられる通りであります。繰り返し引用する黄金句で「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と言われるのは、まさにこうした「受肉における十字架の栄光」であります。「栄光」という言葉はとても抽象的なので、そのままでは分かりづらいのですが、「栄光」の意味は、先ずその根源で「神」であるということ、神でなければ現わすことの出来ない「力」であり「わざ」であり「知恵」であるということ、そして神の御子、神の言(ロゴス)による受肉でなければ実現できない十字架の栄光であり、この栄光において「神の愛」が完全に示され現れて実現したのです。言い換えれば、受肉して十字架の死に至るキリストにおいて、全ての神の愛と恵みのみわざは「栄光」として露わに啓示され実現している、と言うことが出来ると思います。こうした神の愛も命も知恵もそして神の力もわざも働きも、それらの全ては皆、主イエスの十字架の死において完全に「人の子の栄光」として実現しまた現わされているのです。これが「栄光」の意味になります。

 

3.「わたしはある」という神の名「ヤハウェ」

主イエスご自身から名乗られた「わたしはある」という神の名について、さらに詳しくお話をすべき時が来たように思います。ヨハネによる福音書を正しく読み解くむずかしさは、聖書はどこを取っても読み解くことは至難のわざですが、ヨハネによる福音書はやはりとても難しいというのが実感です。ヨハネ福音書を難しくしている原因の一つは、この「わたしはある」という言葉にあると思われます。逆に言えば、この「わたしはある」というがをきちんと分かりさえすれば、ヨハネ福音書の大部分は理解出来ることになります。そこで本日はもう少し丁寧にこの「わたしはある」という聖書表現について、そしてこの表現を用いたヨハネとその教会共同体についても、併せてお話しいたします。

「わたしはある」という用語は、旧約聖書に登場する「神」のお名前である、と申し上げました。かつて文語訳や口語訳の聖書に登場する神さまのお名前は、「エホバ」(yehowah)として紹介されていました。実は「エホバ」は誤りで、本来は「ヤハウェ」と音読します。その神の名「ヤハウェ」(YHWH)を新共同訳聖書などではこれまでのユダヤ教で読み替える音読習慣に倣って「主」と訳すことがあります。「エホバ」であり「主」であり、と「ヤハウェ」(YHWH)という神の名は複雑に扱われて来ました。聖書を翻訳する時、よく分からないことが多く訳し方に混乱が生じたようです。敬虔篤信なるユダヤ人にとりましては、最も聖なる「神の名」をお呼びすることは、「神の名をみだりに唱えてはならない」と唱える通り、とても厳重厳粛で恐るべきことでした。そのため、神の名「ヤハウェ」が聖書に現れますと、それを直ちに「アドーナーイ(主)」と読み替えて音読するのが通例の規則となったと言われています。そうした慣習が長く続いたために、ヘブライ語では元々母音は表記されず子音だけで表記されますので、母音記号が発明される前までは、子音の文字に自分で母音を補って読みませんと、つまり正しい音読法を覚えていなければ、聖書の朗読は不可能となります。読んでいないと、本来の「ヤハウェ」を「アドーナーイ」と読み替えているうちに、正しい音読法を忘れてしまったようです。ラビも分からなくなってしまったようです。その結果、先ほどの「エホバ」と音読してしまったように、「アドーナーイ」の母音を「ヤハウェ」と音読すべき文字列に強引に嵌め込んで音読するようになり、、結果として間違った読み方が出来てしまった、というわけです。やがて読み方が不明であった「ヤハウェ」という神の名は、後に発見された遺跡の碑文から、碑文にはヘブライ語と母音表記のある外国語との並列評価がなされていたため、その音読法は「ヤハウェ」と読むことが、最近になって分かった次第です。そうした読み替え、読み違いの背景には、十戒に「あなたの神主の名をみだりに唱えてはならないみだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(出エジプト記20:7)という厳格な禁止(タブー)があり、それに基づく律法の根幹として「24:16 主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。神の御名を呪うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる。」(レビ24:16)という規定がなされていたからであります。それゆえユダヤ人たちは、神の名「ヤハウェ」を全く異なる「アドーナーイ」という言葉に読み替えてきたため、この名の由来やもともとの発音までも、失ってしまったわけであります。

出エジプト記3章14節にありますように、この名はヘブル語動詞「ハーヤー(ある)」に由来し神の本質である永遠で不変的な存在を意味しますが、そうした神の本質を哲学的に示す意味よりも、どちらかと言えば、神ご自身の民に対する永遠で不変的な関わり方や関係性を意味するようであります。そうした神のイスラエルに対する関係性は、出エジプト記3章7節以下に示されており、「神」はとても人格的な情愛溢れる神としてご自身を民に啓示されます。神は民の痛みを知るゆえに、降って行動する神としてご自身を現します。神は民との人格的な関係からこう民に呼びかけられます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞きその痛みを知った。3:8 それゆえわたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」と、神はモーセに仰せになり、民の痛みを知りそして地に降る神として、ご自身を示されます。それゆえに、神はモーセにご自身の名を啓示して、民のもとに遣わさす、と仰せになるのです。このように、神は民にご自身の憐れみを啓示する神として、「わたしはある」という者だと仰せになり、神の名をお示しになるのであります。このように「わたしはある」とは、神が民のために痛みを知り地に降る神として「わたしはある」と、ご自身を表明されたのであり、民との人格的な関係において永遠不変にいましたまう神である、としてご自身を名乗られたことになります。

ヘブライ語による出エジプト記が、『七十人訳聖書』としてギリシャ語に翻訳される段階で、ヘブライ語「ハ^ヤー」(ヤハウェの語源)は、ギリシャ語「エゴー・エイミ(わたしはある)」として翻訳されます。したがって、旧約聖書をギリシャ語で読んで来たディアスポラのユダヤ人たちは誰も皆、「わたしはある(エゴー・エイミ)」と聞けば、それは直ちに、モーセの前にご自身の名を啓示し、モーセをイスラエルの民のためにお遣わしになられた神ヤハウェのお名前であるとして鋭敏に反応してしまうはずです。しかも今そこに民の救済のために現臨する「神」そのものを意味することは、ユダヤ人であればだれでもよく知っていたはずです。主イエスは、まさにその通りに、ご自身を「神」として自己啓示して、お示しになったのであります。こうした主イエスによる「神」(「わたしはある」)としての自己啓示に対して、ユダヤ人たちは「神の冒涜である」と解釈して、「24:16 主の御名を呪う者は死刑に処せられる共同体全体が彼を石で打ち殺す。」と定めたレビ記の規定にしたがって、「8:59ユダヤ人たちは、石を取り上げイエスに投げつけようとした。」(ヨハネ8:59)わけであります。

 

4.「わたしはある」と「命のパン、世の光、良い羊飼い、まことのぶどうの木」

ヨハネによる福音書において、主イエスは、このヘブライ語では「ヤハウェ」という、またギリシャ語表現では「わたしはある」という神の名に、さらにいくつかの啓示用語を付け加えて並列させ、神としての自己啓示する定式を発展させて、用いています。たとえば、「わたしはある」という神の名に、冠詞付きの「命のパン」(6:35、41、48、51)、「世の光」(8:12)、「良い羊飼い」(10:1、14)、「道、真理、命」(14:6)、「まことのぶどうの木」(15:1、5)というさらにご自身のお姿を啓示する用語を付け加え、「わたしはある」という神の名と同格併記して、民に対してご自身をより一層明瞭に自己啓示する定式として、主イエスはご自身を示されています。つまり、主イエスは、ただ単に「神」であることを啓示するにとどまるのではなくて、先在のロゴスであり、受肉して、民に対する命のパンとして、光として、或いは良き羊飼いとして、道や真理や命として、ご自身を啓示しておられるのです。

さらにこの表現の特徴を言えば、ギリシャ語やラテン語は、主語をわざわざ書く必要のない言語で、動詞だけでも主格を表すことが出来ます。それなのに、わざわざ「わたし(エゴー)」という一人称主格が加えられますと、「わたし」という主語が強調されることになり、他でもなく、唯一この「わたし」独りだけが、という特別な意味合いが生じます。つまり「『わたし』こそ、唯一真の啓示された『神』である」というように非常に「わたし」が強調された意味になります。つまり、今ここでは、主イエスただお独りにおいてのみ、「神」は民のために現臨し、神としての「栄光」は現わされる、ということになります。だからこそ、主イエスは、民にとって唯一真の命のパンであり、世の光となるのであり、神の真理に導く羊飼いとして現臨して働いておられる、ということになります。

 

4.「わたし」(主イエス)と「わたしたち」(ヨハネとその信仰共同体)

随分前になりますが、「わたし」と「わたしたち」、或いは「あなた」と「あなたたち」という主語が重なり合う現象が、ヨハネによる福音書では随所に起こっていることをお話いたしました。先週の説教でも若干触れた所です。「わたし」と「わたしたち」という重なり合いは、今日読んだ聖書箇所には特に見られませんが、前にあのニコデモとの対話の中で、3章10節以下で「3:10 イエスは答えて言われた。『あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておくわたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。』」とありましたように、この場面は主イエスご自身がニコデモに語っておられるのですから、本来「わたし」のはずが、いつの間にか「わたしたち」になっています。また先週お読みしたナタナエルとの対話でも、1章50節以下で「1:50 イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」とありましたように、「あなた」から「あなたがた」という複数二人称へと変わっています。こうした事例から分かりますように、一人称単数と複数、二人単数と複数が重なり合うのです。それは、主イエスという一人のお方の人格と、主イエスを信じ受け入れた信仰共同体の複数が重なり合うのです。言い換えますと、ヨハネとヨハネの教会が、いつも主イエスと共に一体に寄り添うように、一方では語り、一方では聞いているのではないでしょうか。したがって、ヨハネによる福音書を読む時、是非心得ておきたい重要な点は、ヨハネとその教会は、ただ単に主イエスのみことばを聴く或いは伝える側に立っているのではなくて、聴いて信じて受け入れるという信仰ゆえに一体化されるのです。同じ信仰証言において、今度は自分たちも、主イエスと一体となって、すなわち主イエスの「わたしは」はヨハネとその教会の「わたしたちは」となって、共に同じ一体の告白証言者として、語り出すのです。本日は、このことについて、余り深入りすることは慎みたいと存じますが、事前に少し触れておきたいと思います。特に「はっきり言っておく」という定型句によって、この告白証言における一体化は導かれていきます。この「わたし」と「わたしたち」という重なり合うことの本当の意味は、本来は絶対他者であり唯一の客観的な神の現臨は、信じて受け入れた信仰共同体において、追体験され同じ一つの共同体体験として一体化される、という信仰的実存を意味します。みことばの啓示における神の現臨は、信仰的告白証言を通して、常に実はひとりひとりの実存における神の現臨となって一体化され、いよいよ真実に現実の出来事として生きて働くのであります。神を信じるということは、その信仰を通して、神がわたしのうちに宿ることです。そしてわたしの内に宿った神こそ、真実に現臨して生きて働く神となるのです。ここに、信仰によって生まれるそれぞれの実存的生命と生活が生起するのです。

実は神の名「ヤハウェ」即ち「わたしはある」は、神の永遠不変の存在を意味する以上に、民に対してわたしはあるという「関係性」において永遠不変にわたしはあることを啓示する意味を持つ、と申しましたが、神がイスラエルの民に「わたしはある」という名でご自身を啓示した、ということは、そういう民との関わりの中に現臨することを意味することになりまうs。「わたしはある」(ハーヤー、エゴー・エイミ)と自己啓示する神は、肉となって民のうちに宿る神であり、民のうち宿り民と共にある神であります。であれば、それは即ちわたしたちひとりひとりの内に宿り寄り添い共にある神であり、わたしたちの内においてこそ、つまりわたしたちの生活の内に主体化され主観化される中でこそ、真実なる神として現臨する神ではないでしょうか。そういう意味で、信仰において、わたしたちの実存において、神は真実におられ生きて働いておられるのです。