2022.2.13 小金井西ノ台教会 公現第6主日礼拝
ヨハネによる福音書講解説教37
説教「あの方が神のもとから来られたのでなければ」
聖書 イザヤ書42章10~17節
ヨハネによる福音書9章24~34節
聖書
9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」9:26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」9:30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
9:34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
説教
はじめに.「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。」(24節)
律法学者たちは、主イエスを陥れて処刑するために、必要な証言を執拗に求めて、再び、生まれつき目の見えなかった人を呼び出して、尋問を繰り返します。前の9章13節は、第一回目の連行と尋問について「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。」(13節)と伝え、24節は、二回目に行われた取り調べと尋問について「9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」と記しています。「あの者が罪ある人間だ」とありますように、主イエスが罪人である、と最初から断定して尋問しています。これは、明らかに、既に主イエスは神の名を名乗る冒涜者であり、安息日規定を破る律法違反者である、既に決め付けており、処刑するために、群衆の前で証拠となる必要な証言をこの盲人に求めていたことが、この発言からよく分かります。13節では「連れて行った」(a;gw :Agousin)という動詞で、24節では「呼び出した」(fwne,w VEfw,nhsan)という動詞で、ファリサイ派の執拗な取り調べが表現されています。主語も3人称複数形で、ファリサイ派の人々の強い意志と強制力が行使されていることが、文面から推測されます。目が見えるようになった人物は、再度の召喚され、尋問が始まりました。
今日は是非、この尋問の中に、私たちの救いの鍵、そして信仰の鍵となる意味深い態度がたいへんよく示されているように思われます。尋問という形で展開しますが、改めてこれを信仰問答として読み直してみますと、主に目を開けていただいた盲人と、そして追及するファリサイとの両者の根本的な違いが浮き彫りになって来ます。その決定的な分かれ道、分岐点は「神の愛を知る」という点にあります。言い換えれば、神の恵みに与り、心の底から神を知ることができた、ということです。反対に、ただ律法という戒律を通して、神と向き合うのですが、しかし決定的なことは、神の恵みを体験して神の愛に実際に触れていない、ということであり、その結果、律法による「力づく」の生き方が浮き彫りにされてきます。神の愛の恵みに委ねることを知っているか、それとも律法的に力づくで神に認めさせようとするのか、大きく分かれる所です。そしてこれはまさに、神の救い、わたしたちの信仰を決定づける本質的な要因ともなります。
人が他者に食ってかかり、時にはひどく貶めて、非難中傷する背景には、実はこうした、神の恵みに与り神の愛に触れているか、という心の本質が問題となります。わたくしも貧しい人生経験ながら、嘘や誹謗中傷の中で卑しめられ排除と抹殺される経験をして来ました。ちょうどユダヤの権力者たちが、力づくで、その権限を利用して、排除抹殺してしまうようなことは、いつでもどこでも起こることであります。そしてそうした謀略の目的は、明らかに病んだ自我欲求や支配欲、或いは自己顕示欲であり、悲痛にも、自分を認めさせたい、自分を認めて欲しいという強烈な承認欲求が深くかかわっています。そしてその病んだ精神の中核は、悪魔の誘惑のもとで、「罪」の堕落が根強く支配しています。私たちは痛いほどその悲しさを思い知らされます。自分を認めて欲しいとする欲求は、立身出世のための利害や私利私欲、権力欲を呼び起こし、それまで従順に振舞っていても、権力や権限を奪うと、別人のように豹変して、他人を邪魔者にし排除抹殺してしまうのです。カインがアベルを騙し打ちにして殺害したように、底知れぬ悪と妬みの闇を生み出してしまうようです。最も恐ろしいことは、そうした自分を認めさせたいとする病んだ欲求は、他人だけでなく、自分自身に対しても向かってゆくことです。そしてついには、この力づくの生き方は、自分の人生まで力づくで潰してしまうこともあります。人々は、いつもこうした力づくとその強迫という強弱の中で苦悩しています。
神を知り律法を誇りとするユダヤ人でも、そしてわたしたちクリスチャンと雖も、誠に残念なことではありますが、教会や神学校の「教師」と呼ばれ神の務めを担う人々でさえも、こうした強迫の病と罪の現実の中に生きており、それは決して払拭できない現実であり、聖書は絶えずその誘惑を厳しく警告しているようにも思われます。こうした心のうち深く潜む欲求行為はとても執拗かつ強烈であり、何もかもを犠牲にしても求め続けるのです。ユダヤ人たちは、思い通りに証言を得られないと分かると、彼らは「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と罵り、彼を外に追い出してしまいました。こうして自分たちのために到来した神の祝福の事実と現実を、みずから排除抹殺してしまったのです。
1.第一の尋問と第二の尋問の内容を比較する(別紙)
尋問する「ファリサイ派」の尋問内容と、答弁する「今見えるようになった人」の証言内容とを詳細に比較するために、比較表を用意しましたので、比較して読んでみます。先ず基本となるのはイザヤのメシア預言です。これが「メシア」問題をめぐる唯一の基本資料であり基準となります。預言者イザヤは「その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。」(イザヤ29章18節)、また「目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。」(イザヤ42章16節)と古くから預言しておりました。このイザヤによって告知された、メシア到来と真のイスラエルを回復する時の「しるし」を、ユダヤ人であれば、誰もがよく知っていました。まっすぐに、このメシア預言を受け入れていて、そして主イエスがこの生まれつき目が見えなかった盲人の目を開けた、と言うのであれば、メシアの到来を前提に考えるはずです。この盲人は、まっすぐそのまま、このメシア預言の上に立って、主イエスをメシアであると証言しています。しかしエルサレム当局は、「イエスは罪人であり神の冒涜者である」と既に裁定してしまったため、イエスの賛同者は「会堂から追放する」方策を打ち出していました。こうしたメシア排除は、あのヘロデ大王の幼児虐殺と全く同じであり、その動機は、明らかに、自分たちのユダヤ支配の権限を失いたくない、とする支配欲であり権力欲にありました。
こうして、目をイエスさまに開けていただき、生まれつき目が見えなかった盲人が目が見えるようになった、という実際の体験証言から、有力なメシア証言であることは、明かです。少なくとも、主イエスが神のメシアである、という可能性は否定できません。目を開けていただいたこの証人は、厳しいファリサイ派の尋問の中で、はっきりとメシアの告白証言者として生まれ変わってゆく姿が、非常に鮮明に、際立って見えて来ます。最初は、「9:25ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と事実だけを証言するに止まっていましたが、最後は「9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と証言して、ここでは既に明白にメシアを告白する告白証言者となって、生まれ変わっています。「シロアムの池で洗う」即ち「遣わされた者」(後にアポストロス「使徒」の語源となる)として、魂の根源から洗い清められる洗礼の意義がここには具現化されているようにも思われます。
反対に、ファリサイ派の尋問から、ただ主イエスを罪人して排除抹殺したい、という悲痛な欲求がその原動力となっていることがよく分かります。ファリサイ派も最初は「9:15どうして見えるようになったのか」と奇跡の事実を尋ねていますが、「9:24 ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』」とありますように、主イエスをこの尋問の時点では既に「罪ある人間だ」と断定してしまっています。その結果「9:28ののしって言った。『お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。』」と本音が出てしまいます。「ののしって」とありますように、メシアの到来は、彼らとっては、それが真実であろうとなかろうと憎悪の対象となって現れ始めたのです。なぜなら、我々はあの者の弟子ではなく「モーセの弟子だ」と言い切っていますように、どうであれ、メシアのことよりも、律法主義の原理のもとで律法を利用する特権を持つことで我々の権益権限を守るのだ、ということになるのではないでしょうか。イザヤのメシア預言に基づいてメシア到来を検証すべき律法学者としての本来の任務を放棄してしまっていたのです。ユダヤ社会を権力支配の欲求ゆえに、その利権を守るために、律法学者という名のもとにありながら、律法の本質を見失い、「神」が見えない者となっている実態が暴かれます。そしてついにこの尋問により、神の真理をめぐり、「見える者」と「見えない者」との痛烈な逆転劇が展開されるのです。
2.「神の前で正直に答えなさい。」(24節)
ファリサイ派の尋問で、「神の前で正直に答えなさい。」(24節)と神に対する誓約が求められています。直訳すると、「神に栄光を与えよ」(Do.j do,xan tw/| qew/|)という意味で、服従と真実な告白を要請する決まり文句です。塚本訳「本当のことを言いなさい」、口語訳「神に栄光を帰するがよい」、リビングバイブル「イエスなんかじゃなく、神様をあがめなさい。やつは悪党だ。」と其々訳しています。尋問や問答の行われる場は、神の栄光のみわざが現される場であり、その神の真実が「見える」はずの側と「見えない」はずの側とが、実際は大逆転してしまうのです。その結果、見えるはずの律法の専門家たちは、神の栄光を現す道筋まで見失うことになります。「見える」とは、「神」を認め、「神と自分や神と世界の「関係性」が分かるようになることではないでしょうか。神が分かり、神と自分との本当の関係が分かるようになると、自分の神に対する在り方や自分自身に対する在り方も、自ずと見えて来るはずです。それが筋の通った生き方として、自分の生きるべき実存として見えて来るのです。神を造り主、世界を被造物、キリストを救い主、人間を救われた者と言われるのは、そうした神と自分との関係性の本質を言い表しています。そのように神と自分との関係がはっきりと見えるようになると、正しい自己認識も明らかになるのです。生まれて生きる人生の目的も、天地宇宙が存在する目的も、実は皆<神の栄光を写し出す(写し返す)>ためにある、ということが分かるようになります。「神の栄光を現そう」と、ひたすら生きて存在する姿はなんと美しいことでしょうか。『ウエストミンスター小教理問答』問1は、「あなたの生きる目的は何ですか。ただ神を喜び、神の栄光を現すことが、わたしの人生の生きる目的です。」と告白しています。反対に、「神を喜ぶ」こと、そして「神の栄光を現す(映し出す)」という人生の目的を失ってしまうと、人間も世界もその存在はなんと惨めで悲しいことになるでしょうか。神の栄光のためにではなく、自我欲求のために、神やみ言葉を利用して、真実に神の栄光を現そうしなくなった姿は、なんと醜くみじめに見えることでしょうか。牧師が神の言葉を語ると称して自己顕示を始めれば、それほど醜いことはないと思います。教師が生徒に仕えることを見失い、生徒を利用して、自我欲求を満たすのでは、なんと哀れなことでしょうか。「仕える」ということは、ある意味で、とても難しいことです。特に神を喜び、神の栄光を現わすために仕えるとは、難しいことであります。なぜなら、私たちはどうしても「神」ではなく「自分」の栄光を求めて自我を現して認めて欲しいと考えるからです。そして自分の思うようにゆかなくなると、事態は一変して、偽善は露わになり、全てが崩れてゆくことになります。そうした所謂「奉仕」が教会の中でも余りにも多く、○○派の○○役というような役職のもとに人事と称してさまざまな利害のやり取りが起こっているのではないでしょうか。ファリサイ派の尋問の様子はこうした「奉仕のゆがみ」までも映し出しています。「神」の栄光を映し、「神」を讃美するための律法が、「ファリサイ派」という名のもとで、或いは「祭司長」や「律法学者」という役職を利用して、実際は「神」を否定して自分が「神」に取って代わるかのように権限を発揮し、自我を顕示し自我の欲求を満たす場に変質させていたのです。
3.「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」(29節)
ファリサイ派は「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」と盲人に語ります(29節)。この言葉は、非常に致命的な自己矛盾を露わにする意味深長な言葉と言えます。なぜなら聖書、即ち神の契約「条文」は知っているが、「神」は知らない、と言っているのと同じことだからです。神がモーセに語られたこと、即ち「十戒」ですが、律法を熟知しその運用にまで長けたファリサイ派ですが、しかし肝心要の「神」を見分ける術は持っていなかったなようです。神の「書」とそれを運用する「権限」は持ちながら、生きた「神」は全く見えないのです。あちこちの教会で起こる教会紛争も全て同じことかも知れません。自我のために、真理の目は曇り「神」が見えない、というよりも、もはや見ようともしないのです。12使徒のペトロさえも、ご受難と三日目の復活は告知されていた(マタイ16:21、マルコ8:31、ルカ9:22)にもかかわらず、結局、主イエスを否定して逃亡してしまいました。とても大事なことですが、「別の弁護者(助け主)」(パラクレートス)の助けと導きによらなければ、即ち聖霊降臨を迎えなければ、12弟子たちも「使徒」として、キリストの証言者として立つ(使徒言行録1:8、2:14~42)ことはできなかったのです。自分の「力」によらず、ただ直接の神の霊の「恵み」とその信仰による以外に、神の真理を見分ける道はほかにありません。読めば分かるのではなくて、神の愛と恵みに豊かに触れて光照らされる中で読まなければ、聖書は分からない、すなわち生ける「神」は分からないのです。それは、生ける神とわたしたち自身との人格関係の中に生かされることであり、命の交わりのうちに招かれて、新たに霊と水とによって生まれ変わるのでなければ、即ち神の恵みを認めて受け入れることを前提とすることだからです。この生きた命の交わりと出会いの体験が、わたしたちを救い、わたしたちに信仰に生きる恵みを与え、聖書を読んで聞き分ける力を与え、そして誠に神を喜び、神の栄光を現わす奉仕の形を生み出すのです。この命の愛と恵みを知らなければ、すなわち感謝と喜びが本当の意味で分からなければ、本当の意味での奉仕も謙遜も分からないのです。結局、力づくの傲慢と強迫の罠に陥ってしまうのです。
4.「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに」(30節)
こうしたファリサイ派の錯誤と偽善に対して、はっきりと盲人は、「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに」(30節)と証言し告白します。事実上の<メシア告白>と言えます。そして間髪を入れずに「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と、尋問における証言・告白の閾をさらに超えて、ファリサイ派に対する反駁弁証へと進んでいます。本来律法を解釈する資格を有するファリサイ派と、罪人とののしられた盲人との「役割」が逆転しています。
ここでしっかり読み解いておきたい点は、盲人が「わたしの目を開けてくださった」と証言していることです。「他人」ではなく、「自分」の目を開けられるのは「神」だけであり「メシア」だけであります。その「神」が、その「メシア」が「自分」の目を開けてくださった、と言っています。ここでとても意味深い点は「自分」の中に働く「神」を告白している所です。生ける「神」は、ただ単に一般的に、生きて働いておられる、というのではないのです。唯一真の神が最も明白にそして最も力強く愛をもって働いておられるのは、この「わたし」のただ中においてである、という神のリアリティーです。自分の中にこそ、最も神の愛も恵みもが完全に実現している、という歓喜の喜びであり、感謝と栄光讃美であります。
加齢とともに、自分の内側から壊れてゆく実感を覚える今日この頃ですが、死と滅びを間近に迎える中で、その破れて壊れ果ててゆく自分の中にこそ、生きた神の愛と恵みは働いているという体験であり告白であります。自分の中にこそ、真の神は最も力強く働いている、そこに神の愛と栄光のみわざが鮮やかに示されている、ということがよく分かる、それは、とてもありがたいことであります。信仰とはそういう自己における生ける神の体験であり、その恵みによって導かれる実存体験であります。それはただ神の栄光の場であり、それはただ神の恵みの満ち溢れる場であり、愛される喜びに溢れる場であります。そこには恐れも強迫も、自我も欲求も何もありません。ただ感謝に溢れるばかりです。献げるものなど何一つないのですけれども、感謝という喜びを献げるばかりであります。
5.「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(25節)
この盲人は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(25節)と、非常にはっきりと、今ここにある現実を言い表します。いろいろ読み方が可能な所だと思いますが、本段落の一番の急所は、ここにあるのではないでしょうか。この「今は見える」という表現は、「神」とその真理が見える、そして神と自分との新しい関係が明らかに実現されたことを暗示します。今ある自分の立ち位置(立脚点)についての自覚であり、自己認識を意味します。主イエスの愛と栄光のみわざに与り、つまり十字架による罪の赦しを知り、復活という永遠の命による新生を受け入れることで、自分の死と滅びのうちに「神」が生きて働き栄光のみわざを行われたことが見えるようになると、今度は新しく生まれ変わる希望の自分も見えるようになったのです。今見えるとは、単に肉の眼ではなくて、信仰の目、魂の目、霊の命の現実でもあります。主イエスの栄光のみわざに与り、自分の本当の生きるべき目的と意味が今見えるようになったのです。「今は見える」という体験の奥行が感じられるのではないでしょうか。世界の真理が全く見えなかったわたしがはっきりと真理が見えるようになったのです。今、何もかもが見えて分かる、というのです。本当の悲しさも喜びも、人生の意味も、この世に生まれ生きる意味も全てが見えるようになったのです。確かに、信仰と言っても、真理が見えると言っても、わたくしたちの信仰は完全ではありません。だからと言って、不完全であることを恐れるのではなくて、むしろ不完全な信仰であることをよく知るべきであります。見えないわたしと、今は見えるようになったわたしとを、しっかり判断できるようになることです。しかしもっと大切なのは、その中心に、自分の中で「神」が生きて働いて栄光のみわざを行ってくださること、この生きて働く神の愛と恵みのもとで、わたしたちは日々見えるようになっているといことです。そのような意味で<学び>は非常に重要です。学びは、見えないわたしを、そしてまだ何が見えていないかを、更に今は何が見えているかを、鮮やかに教えてくれます。しかしそれ以上に、学びとは、わたしの内で神が生きて働き栄光のみわざが行われておれるという愛と恵みである、ということです。そういう「神のみわざ」による恵みの結果であるという意味で、こうした聖書の学びや教理の学びは、とても大切なのです。謙遜に学ぶことから、わたしたちの信仰のすべては始まるのです。ハイデルベルク信仰問答は、「知る」ということをとても大切にしていますが、「今目が見える」とはそういうことも意味しているのではないでしょうか。
6.「神の業がこの人に現れるためである。」(3節)
主イエスの「神の業がこの人に現れるためである。」(3節)という教えとみことばを、9章の冒頭に立ち帰りながら改めて考え直してみますと、神のみわざが現れるとは、どういうことか、よく分かるのではないでしょうか。ただ肉の眼が開いて、物が見えるようになった、という物理的な奇跡のことでしょうか。イザヤの預言に「目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変える」(イザヤ42:16)とありましたように、それは、あなたのためにあなたに対して「神」は降り、あなたを救い、あなたを導き上る、ということではないでしょうか。この盲人は、ついに事実上のメシア告白に至ったように、自分の救いのために到来して生きた働く「神が見える」ようになった、しかもその生ける「神」は、主イエスにおいて、自分のうちに最も鮮やかな「栄光のみわざ」を現されたのです。それはただ単に肉の眼が開いただけではなく、人格の根源から暗闇から光の世界へと生まれ変わったことであり、神と敵対する罪の関係から、神の愛と祝福のもとに平和に生きる永遠の命に導かれたことでもあります。神がおられると確信できる、神の御心に思いを向けて寄り添う生き方を知る、神の恵みのみわざを受けている、その恵みを具体的に一つ一つをはっきりと数え上げることができる、常に神と共に生きている、そして神を喜び神の栄光を現すために生きる、という一連の信仰生活に導かれることでもあります。神のご支配とみわざの内に、即ち「神の国(神のご支配)」に招き入れられて、新たに生きる者となったのです。神の愛と憐れみにより、「物」を見る世界を超えて、「神」を見る世界へと招かれ導かれて、新しい生に生きる恵みを与えられたのです。神の業、神の栄光のみわざが現れるとは、そういうことではないでしょうか。究極は、十字架と復活の主イエスに「わたしはある」とモーセに名乗りを上げた神を見た、いうことになるのではないでしょうか。主イエスのみわざにおいて、神の臨在に触れたのです。