2022年4月24日「イエスは必ず死者の中から復活される」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4. 24 小金井西ノ台教会 復活第3主日礼拝

ヨハネによる福音書講解47

説教 「イエスは必ず死者の中から復活される」

聖書 詩編16節1~11節

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

 

聖書

20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」20:16 イエスが、「マリアと言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

説教

はじめに 「主が墓から取り去られました」(13節)

主イエス・キリストが復活した、という復活の根拠は、「空虚な墓」を確認した所から始まりました。「20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られましたどこに置かれているのかわたしたちには分かりません。』20:3 そこでペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。」とヨハネは証言します。ペトロとヨハネは、マグダラのマリアから「主が墓から取り去られました」との報告を受けて、そこで、急いで墓に行き、墓の中に入ると、墓に納められていたはずの主イエスの亡骸は既になく、ただ亜麻布と覆いがそこに残されているだけでした。つまり、墓の中に葬られた主イエスの遺体がない、という既に空虚となった墓を確認したことから、復活の話は始まります。

マルコによる福音書による伝承では、マグダラのマリアとヤコブの母マリアそしてサロメが墓を訪れ「16:5 墓の中に入ると白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」と記されています。つまり「白い長い衣を着た若者」が墓の中にいて、「あの方は復活なさってここにはおられない」と告げ、主イエスは既に復活なさったことを告知します。同じように、ヨハネによる福音書も「20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、20:12 イエスの遺体の置いてあった所に白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。20:13 天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』」と告げ、「白い衣を着た二人の天使」の登場を証言しています。但し、マルコの伝承では「白い長い衣を着た若者」が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と主イエスの復活を告知していますが、ヨハネの伝承では「白い衣を着た二人の天使」は確かに墓の中に登場しますが、復活の告知はそこではなされず、一気にマリアに主ご自身が復活のお姿を現すという展開になっています。他方、マルコの伝承では、〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活してまずマグダラのマリアに御自身を現された。〕と復活顕現が報告されていますが、この16章9~20節の証言は、聖書協会の凡例によれば「後代の加筆と見られている」と紹介されています。マルコの伝承では、先ず「空虚となった墓」が確認され、次いで「白い長い衣を着た若者」が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という主の復活告知がなされるだけで、〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。〕という証言は、後代の加筆と見なされています。ところが、ヨハネによる福音書は、マルコの証言とは全く反対に、主イエスのご復活を、弟子たち自身による目撃体験として、特にマグダラのマリアに復活の主イエスが自らお姿を現して出会った、という復活の体験に基づいた証言を中核にして、主イエスの復活を伝えています。このマリアと復活した主イエスとの出会いこそが、主イエスが復活してその復活のお姿を現した、とする復活証言の中核を構成することになります。

 

1.「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」(14節)

マリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と二人の天使にと迫り、主イエスの亡骸を返して欲しい、と嘆き訴えます。マルコの証言によれば、そこで「長い白い衣を着た若者」が「あの方は復活なさってここにはおられない」と復活を告知することで、答えています。つまり、主イエスの亡骸がここにはないのは、主イエスは復活したからだ、と告げています。復活したから、亡骸はないのだ、ということになります。最初から「復活」は天から降ったかのように、大前提として告知されます。しかしヨハネの伝承では、復活の証言は一歩深く踏み込んで、実際に主イエスご自身が復活したお姿をマリアに直接現わした、だから、亡骸はないのではなくて、今復活してそのお姿は現されているではないか、という証言となります。ヨハネはさらに続けて「20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」と証言しています。ここで、ヨハネは「見えた」とはっきりと断言していますが、その一方で、同時に「分からなかった」ともはっきり言っています。ここで証言される復活の事態は、非常に矛盾した表現で伝えられています。「見えた」なら、「分かる」はずですが、「見えた」のに「分からなかった」とはどういうことなのでしょうか。「イエスの立っておられるのが見えた」と証言し、主イエスの復活のお姿を見たのに、しかし、「それがイエスだとは分からなかった。」とも告白しています。いったいどういうことが起こっていたのでしょうか。

先ずその理由の一つは、本当の意味で「生きた人格存在を知る」ということの、深くて難しい問題がここにはあるように思われます。厳密かつ正しい意味で、「生きた人格を知る」ということの奥深さがあるのではないでしょうか。皆さんは、「自分」のことをどこまで深く確かに知り、分かっているでしょうか。自分がどのような意味と目的で、誰によって命を与えられて、なぜ生まれて来たのか、そして自分の本当の姿や正体は果たして何なのか、どのように生きどのように生涯を完成させてゆくのか、自分のことでもよく分からないのではないでしょうか。それは家族でも同じです。結婚して一緒に暮らす連れ合いでも、どこまでその人を自分は知り理解しているだろうか、全く理解してなかったのではないか。血縁の親子兄弟であっても、本当に知り分かり合うことはとても難しいことです。自分が相手に求め期待する自分勝手なイメージはあっても、本当の所、相手はどのような人なのか、ちゃんと知っているわけではないのです。毎日のように顔を見て、姿形を知っていても、その人を「生きた人格」としてをどこまで本当知り分かっているのでしょうか。それは、姿形を前提にしつつも、魂の奥深い所で、相手の語る言葉を聞き分けて、相手がどのような人格なのか、死ぬまで相手の本当の姿を探り求め続ける必要があるのではないかと思います。夫婦でも、生きて生活と共に年老いてゆく中で、しかも相互の魂の深淵において、お互いの人格を探り求め続けて、時には出会い、時には見失い、そして時に矛盾に満ちた問いの中で、お互いの人格に触れ続けることで、初めて出会い、分かり合えるのではないでしょうか。人生でいろいろな人々と出会いますが、殆どが見ていてもすれ違ってしまいます。確かに物理的に一定の時間を共にして、姿形を見て音声を聞いて、場合によって共同生活するのですが、本当の意味で「人格」として出会い、知り、分かり合えるのでしょうか。見て、場合によっては知っていても、本当は知らずに、何も分からぬままに、すれ違っているのではないかと思います。人が人格存在として他者を知るとは、どういうことになるのでしょうか。

マリアは、「それがイエスだとは分からなかった」のです。目の前に立っておられる主イエス対して、「園丁だと思って」語りかけています。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」とまで言い出します。実に不思議ですが、「イエス」というお方が目の前に立っておられるのに、主イエスの存在を認めていないのです。彼女が認めたのは「園丁」でした。主イエスを認めることができないでいた原因は、「園丁だと思って」いたからです。自分の思いや考えが、現実に目の前にお立ちになって、しかも語りかける主イエスを見ても、抹殺させてしまい、分からなくしていたようです。無理解と誤解は、つまりマリアの考え違いは、マリアの自我とその外側に立つ主イエスとの間に立ちはだかる大きな壁となり、本当の人格としての出会いと二人の交わりを分断していたのです。ここに人間の不完全な限界性があります。どんなに好きになって愛して、やはり完全にその人を知り分かり合えることはできないのではないでしょうか。それが人間です。ましてや、それが人間ではなくて、万物を超越する「神」としての存在を見て知るということでしたら、どうでしょうか。カルヴァンは「有限は無限を包むことができない」と教えています。包む、理解するには、限界があり、結局人は神を知ること、ましてや十字架において死に、死者から復活した「神」を見て理解することは、たとえ見ても、不可能なこと、出来ないことです。しかし理解することができないから、存在しないとは言えません。どうすれば、その存在を確かに捉えられるのか、どう捉えればよいのか、という決定的な問いが、実は聖書の根本命題でもあります。人間関係でも、目の前にいる人を、母ならば母として愛と尊敬と信頼をもってその存在を認めて受け入れる中で、私たちは初めて、「母」と出会うことができるのではないでしょうか。問題は母の姿形だけではないようです。

 

2.「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(8節)

そうした真実な意味で、生きた人格との出会いは「信仰」による、とヨハネは確信したのではないでしょうか。先ほど読んで聖書の中で、とても意味深長な表現がありました。「20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と記していますが、この言葉は、前後関係からすれば、少々唐突に組み入れられたヨハネ自身の「注釈」のようにも読めます。ヨハネは「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の真理を理解するには、復活した主イエスを「入って来て見て信じた」という三重の人格的行為を経て、初めて実現することができる、と言い表わしているように思われます。ヨハネは、死を迎える直前まで、イエスさまとは「誰」であったか、主イエスにおいて「啓示された神」(「わたしはある」「エゴー・エイミ」)とはどういうことであり、どのような神であったのか、振り返り反芻し続けて来たと考えられます。主イエスは、ご自身の十字架の死や甦りにおいて、何を弟子たち啓示し示そうとしたのか、ヨハネの別の弁護者と言われた聖霊の導きのもとで、さらに奥深く問い、いよいよ神の真実を探求し続けていたと考えられます。そしてついに確信したことこそ、「来た、見た、そして信じた」という三つの人格的行為を貫くことで、人は神と出会うことができた、と思い至ったのではないでしょうか。主イエスにおいて啓示された「神」とは、まさに「神」であり御子でありそして先在の言であり、しかもそれは「人」として受肉した神であり、であるとすれば、主イエスにおける神人両性において、実現する神の秘儀を確認したのではないでしょうか。その真理に達するには、ただ弟子として来た、従っただけでは、到底理解するには不充分であったはずす。また目の前で事実を「見た」だけでもだめだったのではないでしょうか。どうしても、「入って来て見て信じた」所に至って、それは初めて分かる始めることなのです。教会生活も、入って来ただけでもだめ、教会生活を見ただけでもだめ、結局、あなたの魂の根源から、神のすべてをそのまま従順に信じて、受け入れてこそ、そこで初めて真実に「神」と出会うのです。人格存在との出会いには、どうしても、魂の根源において、その人を認めて受け入れ、そして信じることにおいて、初めてその人を知り出会い分かり合えるようになるのです。つまり、人格存在は皆、実際に自分で、来て、見て、信じる所で、人格の根源と魂を尽くして、声を聞き、初めてその人格としての存在に触れ、出会い、交わることができるのであります。自我を押し付けて、自我によって相手を支配することではないのです。マリアは復活の主を「園丁」にしてしまったように、復活の主との出会いを疎外していた障壁は、まさに「自我」から生じる自分の考え違いにあります。このマリアの自我による勘違い思い違いゆえに、それはとても深刻なほど、二人は引き離し、マリアから何もかもを奪い去り、失わせていたのです。これこそ、生ける神と出会うことができない人間の限界であり、罪であり、悲しい宿命と言えましょう。私たちも、主が目の前に立っておられ語りかけておられるのに、神を園丁にしてしまう、神を世の物にしてしまっているのではないでしょうか。ヨハネは、その限界を突き抜ける決定的な行為として、「信じた」と言ったのではないでしょうか。そこで初めて「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉」を理解したのではないでしょうか。

 

3.「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った」(16節)

こうしたどうしようもない人間の側の限界と障壁を打ち破り、信仰において出会う道を開いたのが、主イエスからのみことばによる呼びかけでした。イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った、とありますように、主からのみことばが、この人間の側の限界を打ち破ったのです。主イエスはマリアの前に立って、「マリア」と彼女の名を呼んで、マリアの目を覚まし心の扉を開いたのです。ただ前に立ってそこにおられるだけではないのです。名前を読んで、言葉を語り、ご自身を開いて、十字架の死において勝利して復活し、永遠の命に漲り溢れるご自身の人格をマリアに対して差し出されます。それは単に名前を呼ぶことで終わらないのです。徹底的に、十字架と復活のご自身をマリアの人格の中枢に向かって差し出し与えるのです。真実な言葉とは、そのように自己自身の人格の全てを開いて相手に差し出し明け渡すことではないでしょうか。すると、マリアも「ラボニ」と同じように、いつも呼んでいた主の呼び名で、応えます。差し出された復活の主イエスご自身に対して、マリアも自己自身の人格の全てを開き明け渡して、主を認め受け入れ、そして全てを信じたのです。「ラボニ」(先生)とは、いろいろと解釈できるでしょうが、先ず、自分の全てを導く師として自己を開き明け渡したと言えましょう。この後で、トマスは「わが主、わが神」と主を呼び、復活の主を受け入れていますが、まさに自分のすべてにおける神として、主として、主イエスを受け入れたことを意味しているのではないでしょうか。

 

4.「わたしにすがりつくのはよしなさい」(17節)

こうしてついに、マリアは復活の主と出会うことができ、喜びと安堵の中で、主を迎え入れようとします。しかし「先生」と言って主に縋り付こうとするマリアに対し、主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と押しとどめます。しかしこのテキストの中心は、即ち主イエスのメッセージの主眼点は、「すがりつくのはよしなさい」と押しとどめることではありません。それに続く、メッセージにあります。「まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」と告げます。マリアとの出会いも大事ですが、それ以上に、神の本質の神の共同体の本質について、啓示するみことばが語られます。主イエスは十字架の死から復活したことを見て信じて理解したマリアに、さらに深い神の啓示を告知したのです。それは「まだ父のもとへ上っていない」というもう一つの新しい主の栄光のみわざです。そればかりにとどまらず、さらにこの新しい栄光のみわざ、即ち、天の父のみもとへと上るという啓示の証言者として、弟子たちのもとにマリアを遣わします。この使命を受けたマリアは、「20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」とありますように、主に命じられた通りに伝えました。

ここで最も重要な、主イエスのメッセージは、父なる神のもとに上る、という栄光のみわざについての告知にあります。「まだ父のもとへ上っていない」(avnabe,bhka pro.j to.n pate,ra)だから「わたしの父のもとへわたしは上る」(VAnabai,nw pro.j to.n pate,ra mou)というメッセージです。これは、いったい何を意味しているのでしょうか。しかも「わたしの父のもと」とは、同格表現を用いて、即ち「あなたがたの父」であり「あなたがたの神」でもある所だと告げています。ここには二重の一体性が暗示されているように思われます。一つは、「上るという」神の栄光のわざは、つまり主イエスの栄光において「神」として父なる神も子なる神(言)も一体の栄光にある、ということを暗示しているのではないでしょうか。教理的な表現をすれば、ヨハネは「父」「子」「聖霊」は神として一体の栄光のうちにあることを言い表わそうとしているのではないか、と考えられます。したがって、ただ単に栄光のうちに天に昇るのではなくて、ヨハネにおいて、主イエスが天に昇るのは、主イエスにおける「神」(わたしはある)は、父・子・聖霊の一体で一致した一つの栄光である、ということを意味します。この天に上るという栄光は、父と子と聖霊とが一体に神としての交わりを相互に共有し合う栄光である、という神の栄光に加えて、ヨハネはさらに、その栄光は「あなたがたの父」の栄光であり、「あなたたがの神」の栄光である、と直ちに同格的に言い表します。主イエスが父のもとに上るとは、実は、わたしたち自身もまた父のもとに上ることを意味しているのです。なぜなら主イエスにおける「神」は同時に主イエスにおいて「人」を一体に背負い担っておられるからです。これ以上の福音は外にあるでしょうか。パウロは「われわれの国籍は天にあり」と告白した通り、まさに、わたしたち人類の本質は、主イエスのうちに担われ背負われて復活して天に上る、その主イエスのお身体のうちに、しかも既に天において存在するのであって、今のわたしたちのこの世での姿は、永遠の天での姿を写す影に過ぎないのではないでしょうか。わたしたちの本体は天にあれ、主イエスのお身体のもとにあるのです。時間的に先取りして言えば、時間と地上にある私たちは、永遠の天上から見れば、少し遅れた天からの影に過ぎないのではないでしょうか。

わたしは、この永遠の天上において父と子と聖霊の一体の神の交わりのもとに、主イエスにおける人性を通して、私たち人類の人間は根源から全て担われ背負われて一体の身体として、同じ命の交わりのうちに共有されている、と信じています。これが「天」であり、「教会」の本体であり、そしてその先取りした招きの場が地上の教会であります。そしてニケア信条に置いて告白される「唯一の、なる、公同普遍の、使徒の、教会」とは、このことを指すものだと思います。地上にある教会の根拠は全てここに収斂されます。唯一性も、聖性も、公同性も、そして使徒性も、其々の概念は相互に内的に融合した概念です。教会が唯一であるから聖であり、或いは教会が普遍的である(カトリック)根拠は使徒によるからです。逆も言えます。使徒的でなければ普遍的な公同教会は存在しないのです。いずれにせよ、こうした教会の根拠根源は天にあって、その天の栄光とは父と子と聖霊の神が一体のうちに共有する栄光であり、その栄光のわざとは、主イエスにおいて受肉・十字架の死・葬り・復活・昇天を貫通する神人両性の一体の交わりであり、その人性のうちに、私たち人類の人間性は担われ背負われ一体の身体として場を得ているのです。この「父のもとへ上る」という栄光のみわざにおいて、全ての救いは実現し全ては完成します。ヨハネは、こうした天のキリストから、すべてを俯瞰するように福音を語ろうとしているのではないでしょうか。

西方のキリスト教の信仰は、どちらかと言えば、このキリストをキリスト論的に焦点化して、贖罪論的な教理を強く展開し、一体性よりも三位格を其々の存在様式において経綸的に記述しようとするようです。しかし、ヨハネを初め、東方のキリスト教の信仰の特徴は、常に、父と子と聖霊は一体のうちに相互内在化しており、父のうちに子はおられ、子のうちに聖霊もおられ、聖霊がおられる所には、父と子の神も一体におられると考え、どちらかと言えば、一体性において相互を同時に語ろうとするように思われます。