ローマの信徒への手紙3章1~8節
2022.7.17 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第7主日
磯部理一郎牧師
はじめに. 「神は天から怒りを現されます」(1章18節)
パウロは「1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(1章18~23節)と言って、人類の全ての倒錯錯誤を告発し、神の怒りが現されていることを告知しました。神の怒りは、同じように、ユダヤ人にもギリシャ人にも、そしてわたしたちのようなアジアの日本人に対しても、現わされています。文字の律法を持つユダヤ人も、或いは、心の律法を持つ異邦人に対しても、神は真理に従って正しくお裁きになるのです。
特にわたしども日本人には、神の怒りや神の裁きが現されている、と言われても、余りピンと来ない話のようです。余り厳密に、神を知る、ということを、特に神の啓示ということを正しく考え直すことのなかった土壌ですから、ある意味で仕方ないことかも知れません。神のことばを聞いて、そこから、強い緊張や危機を感じることは出来ないようです。その一番の原因は、偶像宗教や偶像文化の中に余りにもとっぷりと漬かり過ぎてしまって、自然のものを神々として偶像化して拝み、偶像礼拝の生活は日常生活に浸透しており、日常的な偶像生活の中で、「神」という存在を根本から鋭く意識することは出来なくなっているのかも知れません。日常的に偶像化されたこの世の欲望欲求にとっぷり漬かって暮らす偶像生活の中で、いきなり「天」からしかも「神の怒り」が現されている、と言われても、よく分からないのです。所謂「偶像」を神々とする諸宗教は、神々や仏も皆すべて、この世の自然の営みの中に生起する宗教現象と捉えて来たからでありましょう。仏も神々もこの世や自然界から「隔絶した超自然」という概念を明確に持っていないせいかも知れません。その結果、自分たちや自然界を超える「超自然の世界」を余り厳密に意識して考えることはなかったのではないかと思います。自然の大きな力に神々を見出して来たと言えましょう。その結果、「超・自然」と言いましても、それは自然そのものの内に還元してしまうのではないでしょうか。どちらかと言えば、出来るだけ神々は、仏さまも含めて、日常生活の中に同化し混在するようにこの世の日常生活のすぐ近くに暮らしており、自分の欲求や願いは、そのまま、日常的に偶像の神々と化して肯定され、絶対化されてゆきます。いわば、世俗の中に生活する私たち自身と、聖なる超越の神との「区別」やその「異質性」を本当の意味で知らず認められない、と言うべきかも知れません。
カール・バルトの所謂「ローマ書講解」を読みますと、この「天」と地、「永遠」と時間、「彼岸」と此岸という質的に異なる二世界が強調され、神の絶対的な「超・自然性」が、非常に強く印象づけられます。そしてこの天と地の関係について、その本質的異なる関係を強調する基本概念は、創造主なる神と被造物なる自然という信仰です。したがってわたくしたち日本人の宗教意識を顧みますと、「障壁が障壁たることを承認されず、そのためにいつまでも障壁たることをやめない」(『カール・バルト著作集14』吉村義夫訳, 1974, 67頁)ということになりそうです。いわば、万物の創造主である絶対的な神と、被造物である相対的な世界との間には、決して超えることの出来ない決定的な「障壁」があり、私たち人類は先ずその本質的な「障壁」を容認するよう訴えています。神の福音の啓示が、キリスト教というこの世の宗教の形をって、人間の思想や欲求の内に深く飲み込まれ支配されてしまい、いわば人間の欲望と支配の内に、人間の手で別の神を造り上げてしまい、キリスト教を人間中心のものに変えてしまい、その結果、人間を根源から打ち砕く絶対者なる神不在の道を選び続ける、その「危機」を痛烈に指摘します。ニーチェは「神は死んだ」と悲痛な叫びをあげましたが、「神は死んだ」のではなくて、「神を殺した」のだ、と言うべきでありましょう。近代精神による神は、啓示の神ではなく、人間の手で造られた理想と感情の中に閉じ込めてしまったキリストに取替えられたのです。その結果は、誠に悲惨でありました。キリスト教国同士が大量殺戮を繰り返す世界大戦に突入してしまいました。そして21世紀の今も、その道は変わらないようです。それどころか、戦争の最終的抑止兵器と見なされていた核兵器は、今まさに世界規模で地球を破壊壊滅させてしまう可能性の危機を迎えています。超越の神の怒りと裁きの危機の前に瀕して、人間が打ち砕かれて悔い改め、謙遜に神の啓示の言葉を改めて聴き入れ、絶対者なる神を認めて受け入れることが期待されます。神の啓示に基づく福音を回復するのです。それには、人間中心の近代主義が打ち砕かれて、唯一真の絶対者である神の啓示の言葉に耳を傾け、謙遜に聞き従うのでなければなりません。バルトは「人間が自己自身の神となるなら、次には必ず偶像神が現れる。そして偶像神が崇められると、次には必ず人間がみずら真の神、すなわち神のこの創造物の創造者であると感じる。」(前掲書56頁)と断言します。今人類に一番求められること、それは限界を認め受け入れて、神の啓示である神のことばに謙遜に心を向けることでありましょう。
自己自身の欲求欲望をそのまま偶像化して拝みそれに仕える、という偶像生活を日常的に享受する日本社会の中にあっては、残念ながら、改めて神の怒りの前で審判の危機を迎え、打ち砕かれて目を覚まし、謙遜に神の言葉の真実を認め受け入れる、ということは容易なことではないように思われます。クリスチャンであると申しましても、またキリスト教会であると申しましても、宗教構造としての基本的な枠組みは、外見上は十字架が立つキリスト教に見せても本質は偶像教そのものにすぎない、という宗教構造の本質は余り変わらず、今も現実にそれはいくらでもあります。ある方が、かつて、日本のキリスト教のことを「日本教キリスト派」と呼んだことがありましたが、まさにそれが実態でありましょう。そうした現状を覚えますと、やはり、バルトの教えるように、徹底的に超越絶対の神とこの世との隔絶性、しかも神の造り主としての絶対的主権という視点を常に見つめ続けることは大きな意義があります。そこから、神のみことばを啓示の言葉として聞き直すのであります。
1.「彼らは神の言葉をゆだねられたのです」(2節)
パウロは、いよいよ福音の中核に触れます。福音の中核とは、言うまでもなく神の啓示の言葉です。「3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられた(evpisteu,qhsan ta. lo,gia tou/ qeou/))のです。3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。」(1~4節)と告げ、「神の言葉」について解き明かします。おそらくパウロは、割礼や律法には、神の啓示の言葉が託されており、神の啓示こそ律法と割礼の本質ではないか、と言いたいのではないかと思います。単に文字や外見上のしるしではなくて、その中心に、その本質には「神の御心」が託され言い表されている。しかも律法や割礼の中心に、神の福音の約束が啓示されていたのではないか、と説きます。先回りして言えば、御子の十字架と復活による救いのご計画が啓示され約束されていたのではなかったのか、というのです。それなのに、あなたはなぜ、神の真実とその救いの約束を証しせずに、自分の誇りを証しする道具に利用してしまうのですか、そのためにあなたをお選びなられた神に対して、それは余りにも不誠実なことではないか、と問うのです。特に意味深い点は、パウロが「神の言葉をゆだねられた」という表現に敢えて言い換えています。「神の言葉がゆだねられた」という言い方には、二重の深い意味があるように思われます。一つは、律法や割礼をその本質において「神の言葉」と言い換えたことです。人間の宗教儀礼ではなくで、神の啓示の言葉が、神の福音の約束がその中には誠実に生きて働いている、ということになります。もう一つは、その神の福音の約束の言葉に対して「ゆだねられた」と言い換えます。この「ゆだねられた(pisteu,w evpisteu,qhsan)」という字には、「信頼をもって与える、或いは信仰をもって受け入れる」という字が用いられています。敢えてその意味を丁寧に申しますと、「本人の主体的で自由な意志にしっかり基づいて、人格の限りを尽くして信頼し委ねて託す」という意味になります。前回、ドイツ語の「責務」(Aufgabe)という字は、「賜物や恵みの上にある、賜物や恵みに基づく」という字で出来ていることをお話しましたが、それは、恵みに与ること、その賜物自体の中に背負うべき責任責務が生じていることを意味します。神の言葉をゆだねられた、ということは、神との深い交わりと信頼において神の言葉を委ねられたのですから、神の信頼とその意図をよく汲み取って、自ら主体的な意志と確信をもって忠実かつ従順に、神の御心と福音のご計画を証しして伝える責務を負うことになります。したがって、本来、誠実に応えるべき課題(Aufgabe)を怠れば、それは神に対する不誠実であり、侮りであり、裏切りとなるのではないでしょうか。
それだけはありません。もっと重要なことは、しかもそこに託された課題が「神の言葉」であるということです。パウロは「律法」と「割礼」をその本質を担う性質から、わざわざ「神の言葉をゆだねられた」と言い換えて表現していました。律法や割礼が与えられたのは、神の言葉を委ねられたことに外ならないのです。神の言葉ですから、それは神の啓示そのものです。人類に対する神の御心が表明されており、神のご計画や約束のすべてが、そこに込められ、宣言されているはずです。したがって、神の言葉には、神の救いのご計画を約束して実現する神ご自身の啓示が言い表されています。神ご自身とそのご決断とご計画に対して、神の恵みとして感謝して受け入れ、信仰をもってその恵みに基づく奉仕と実践が求められます。だから「委ねる」即ち「信じて受け入れる」という字でパウロは言い表したのです。このように、誠実にそして従順に信仰をもって応答する中に、そうした神と民とが信仰と信頼で結ばれゆだねられるという実質こそが、神との特別な関係の基礎となるはずです。律法や預言とは、そのように、神がユダヤの民に委ねられた神の福音の約束でありました。ユダヤの民は、律法に込められた神の隠されたご計画とその御心を自らの肉体に刻まれた割礼をもって証しするよう求められたのです。しかし割礼や律法を換骨奪胎して、神のご計画である福音の約束を捨てて、自我欲求の偶像と取替え、ただ自分を誇るためだけの道具となし、神の名を自分の権力支配を担保する道具に悪用してしまいました。その事例は。既に前回ご紹介しましたように、政治的支配者のヘロデや宗教的支配者のカイアファに見られる通りであります。そしてわたくしたちのキリスト教会も、絶えず誘惑と堕落の中で、そうした危うさを禁じ得ません。
2.「不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」(3節)
悲しいかな、宗教としての現実は、人類の不誠実により、神の言葉は侮られ、汚されてしまったわけであります。しかしパウロは、さらに大事な点を明らかにします。それは「神の誠実」とその確かさであります。彼は3節で宣言します。「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ(ti, ga.r* eiv hvpi,sthsa,n tinej)、その不誠実(h` avpisti,a auvtw/n)のせいで、神の誠実(th.n pi,stin tou/ qeou)が無にされる(katargh,sei)とでもいうのですか。3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。』」と議論を進め、本筋である神の真実と神の言葉の意義に、改めて立ち戻ります。新共同訳は「不誠実」と訳し、口語訳や新改訳は「不真実」、リビングバイブルは「不忠実」と其々訳が異なりますが、原典は「彼らが信じなかった」(avpiste,w hvpi,sthsa,n)(とすれば、どるなるのか)というアオリスト形動詞や「不信仰」(avpisti,a avpisti,a)という名詞で書かれています。用語法から言えば、明らかに、先ほどの「神の言葉を委ねられた」という言葉と同じ字を用いることで、神が人間に福音を託したその信頼の確かさに対して、神に対する人間の不信仰とが対比されています。まさに「信頼と信仰」における決定的かつ絶対的な「障壁」が対照されています。神による不動不変の誠実と、人間による絶望的な裏切りと不誠実が強調されます。邦訳聖書はいろいろな用語で訳していますが、ここでの中心となる用語は「信仰」であり、一方で神においては「信実」(吉村義夫氏の訳語に倣って)が徹底して貫かれ、他方で人間において「信仰」は失われ、偽善化され、腐ってしまったのです。神は徹底して深く民を信頼し「信実」を貫くのですが、民は神に対して「信仰」を捨てて、神の名を語り自分を偶像化し、神を侮ったのです。先ほど申しましたように、神は神の啓示の言葉をユダヤ人に深い信頼をもって負託し委ねられたのですが、しかるに、ユダヤ人たちは神の信頼に背き、神を神とせず、自分の支配欲求を満たすために自分自身を自ら誇るべき偶像の神と取替え、割礼や律法を自分のための都合のよい道具に利用したのです。神の御心を汚す背きと偽りの中で、果たして、神の福音のご計画と約束はどうなるのでしょうか。それが、最も肝心なことで、パウロは、民の不信仰から、更に深く踏み込んで、今度は「神の信実」を問題にいたします。
神の言葉を担うべき役職にある人がどれほど不義不誠実であろうと、神の誠実や真実は決して不動不変であって「信実」を尽くすものであり、断じて「無」にされず、実を結ばずに根絶されてしまうものではない、とパウロは断言します。人を見る、人の「不誠実」を見るのではなく、神を見る、神の「信実」とその確かさを見るのです。確かに、教会の中に不誠実や不正が起こると、わたくしたちは心の底から、教会が汚され神や信仰が冒瀆され傷つけられた、と思い激しく憤ります。教会が汚され傷つけられ壊されてしまった、だからもう行く教会は失われてしまった、と思うのです。こうした切実な思いから、教会から離れて去った人々は数多くあります。もしかしたら教会に残る人よりも博rかに多くの人々が教会に絶望して去ったのではないか、とても深刻に想像します。実際の経験から言えば、その通りで、信仰生活とは、そうした期待外れの連続であり、それどころか、失望や絶望の繰り返しではないでしょうか。しかしパウロは反対に、それこそ、そこでこそ、いよいよ「神の真実」と「神の確かさ」に、心を向ける好機である、と教えるのです。皮肉な言い方に聞こえるかも知れませんが、教会に躓く所こそ、神に対する信仰の始まりと言えるかも知れないのです。私たちの心を信仰心に導く出発点は、地上の教会から天上の教会へと貫く、或いは天上から地上を貫通する神の真実に心の目を向け直す方向転換にあるからです。船乗りが航海中に北極星から目を離せば、航海不能となり難破してしまいます。ですから、教会生活や信仰生活という長い航海を進めるためには、その最も力となることとは、それは「神の確かさ」だけに信仰心を向けて続けて、神の真実から目を逸らさずに神に集中させることであります。反対に、人間やこの地上の教会に躓き続ける中に、天上の教会と神の誠実は明らかにその姿を顕すからであります。したがってパウロは「あらゆる人を偽り者(yeu,sthj yeu,sthj)としても、神を真実なもの(o` qeo.j avlhqh,j)とすべきである」(4節)と説いています。これは、大きな慰めであり励ましであります。
さらにパウロは「わたしたちの不義(h` avdiki,a h`mw/n)が神の義(qeou/ dikaiosu,nhn)を明らかにする(suni,sthmi suni,sthsin)」と説きます。「明らかにする」という字は「一緒に並んで示す」という字です。人間の不義が、神の義と一緒に並んで、神の真実を指さし照らし出するように、一層「神の義」が明らかにされ示されてゆく、という意味です。間髪を入れずにパウロは「3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。」と言い切ります。何と力強い「義」の教えでしょうか。外側の教会事情だけを見て動揺するような不信仰は、吹き飛んでしまって、ここにはありません。本当の「神」の信仰に立ち直して、「神の確かさ」と向き合える場がここにあります。人間の不誠実に絶望する一方で、神の真実は、この世の支配の内にはなく、ましてや人間の手の内などに置かれることは絶対にないのです。神の真実は、確かであればあるほど、人間の側の不正と不義を貫き、かえって、対照的に相並ぶようにして、人の不義を暴き、神の真実を明らかに示します。しかもただ単に、理念として神の真実が現れるというのではなく、「怒りを発する神は正しく(中略)世をお裁きになる」という具体的な神の霊的な行為行動となって、その姿を露わに顕わされます。不義は全て徹底的に神の怒りのもとに裁きを受け罰を受けるのです。神は義なるお方ゆえに義を貫きますが、義を貫くのであれば、不義と不正に対しては、正しく真理に基づいて怒りを発することとなり、世をお裁きになるのです。正義と信仰に立つ者は、神の裁きの前に立ちつつ謙遜に悔い改めをもって、神の真実を信頼し、確信をもって全てをおゆだねすればよいのです。不義と不正の嵐の中でこそ、神の義と真実は、神が神であることの全てを尽くして、かえって発揮され、神は真実に基づいて正しく審判をくだされるでありましょう。前の2章7節でパウロは「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになる」とも断言しています。ここで一つ、誤解しないように、是非注意すべきことがあります。それは、不誠実と言うべき人たちと、誠実というべき人々を真二つに分けて余りにも単純化してしまう誤解です。実は、多くの場合、ひとりの人の心の内に、不誠実も誠実も同時に並んで立つことの方がふつうだからです。そこは、絶えず、古き人は死んで新しき人に新生する場となり、危機の場でもあり好機の場ともなります。自ら不誠実を認めて、神の赦しを乞い、み言葉を聞き分ける場となるのです。信仰の航海士が「北極星」を取り戻す場となるのです。
3.「罰を受けるのは当然です」(8節)
7、8節で、おかしな屁理屈を言って言い逃れをしようとする人々に対して、パウロは「罰を受けるのは当然です」とはっきり言って、断罪宣告します。福音には「神の義」が貫かれているがゆえに、神が怒りをもって正しく裁く「神の裁き」も同時に啓示されています。言い逃れは許されないのです。「3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。3:8 それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受ける(kri,ma kri,ma)のは当然です。」と断じます。つまり、結果として「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば」、それは即ち「善が生じるために悪をする」のであるから、よかったではないか、という話です。おかしな屁理屈であり言い逃れであります。「こういう者たちが罰を受ける(kri,ma kri,ma)のは当然です」と言って、パウロはきっぱりと審判を宣言します。
邦訳聖書の殆どが「罰を受ける」と訳していますが、新改訳聖書は「罪に定められる」と訳しています。原典の言葉から言えば、受けた審判の「内容結果」を意味する言葉ですが、その受けた審判の内容が、結果として罪と断定され、罰を受けることになります。このことは、大変重要な意味を持ちます。それは「律法」や「割礼」は、厳然として、神の啓示の言葉として、審判者となって生きて働き機能していることを示しているからです。彼ら、ユダヤ人たちが、というよりも、人類全体に対して、今も後も変わることなく、「律法」と「割礼」において刻印された神の啓示とそのみことばは、永遠に普遍不動であり、決して撤回されることはないからです。したがって律法を担う者はその律法を担ったその場が、そのまま裁きの法廷となるのではないでしょうか。ユダヤ人は文字の律法を担うその場で、異邦人は心の律法を担うその場において、神は裁き主として怒りをもって裁きを断行されるのです。神の言葉の告知を委ねられた者は、その自ら語る言葉において、神の法廷に立ち、神の真実に基づいて審問され審判を受けることになります。一方で罪と断罪され罰を受けます。他方で死の宣告を受け入れたその場で、神の福音の真実は貫かれ啓示せられ、十字架の福音を聞く場となります。選ばれて、みことばを担う者が、神の啓示とその真実を覆い隠してしまうのは、自我欲求に支配され、神の啓示を捨てて、自己追求に溺れるがゆえであります。それこそ、担うみことばそのものに基づいて、その虚偽と偽善は審判され、罰を受けることになります。なぜなら、神は、ご自身が真の神であることも、そしてその真実も正義も永遠不変であって、決して揺るぐことはないからです。わたくした人類の歴史そしてこの世界の歴史が、たとえどれほど神に背き、神に対立して逆らおうとも、神は世界の裁き主として永遠の義をもっていまし給います。文字と心の律法において、神は啓示者として自ら語り、また神は審判者として自ら裁きを断行されるのであります。