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ローマの信徒への手紙1章16~32節

ローマの信徒への手紙1章16~32節

2022.6.26 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第4主日礼拝
磯部理一郎牧師

聖書

1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり心が鈍く暗くなったからです。

 

1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せ像と取り替えたのです。1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。1:25 神の真理を偽りに替え造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。

 

造り主こそ永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。1:26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、1:27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡されそのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、1:30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。1:32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。

 

 

説教

はじめに. 「神の福音のために選び出し、召された使徒となった」

パウロは、文字通り、徹底した「キリスト・イエスの奴隷(僕)」として、キリスト・イエスを「主人」とし、「神の福音」のために、仕える奴隷である自己を示し、この壮大な福音の説教を書き始めました。自分は惨めな罪による死と滅びの奴隷である。神の義に導くはずの「律法」さえも、一生懸命に守ろうとすればするほど、守り切れない自分が見えて来て、自分は罪に支配された「罪の奴隷」であることが分かるのです。律法の奴隷から罪の奴隷であることが分かり、その結果、自分は「死と滅びの奴隷」にすぎない、と宣告されてしまうのです。「律法の奴隷」として懸命に仕えれば仕えるほど、「死と滅びの奴隷」である実態が、明らかにされてゆくのであります。そうした死と滅びの宣告と絶望の中にあって、罪と死の奴隷であったパウロのために、主イエス・キリストは、十字架の死というご自身の命の代価を支払って、死と滅びから復活による永遠の命のもとに、パウロを買い戻してくださったのです。すなわち、パウロは、キリストの支払った十字架の死と復活という犠牲の代価によって、罪による死と滅びから、新しい永遠の命に贖われ、買い戻されて、主イエスを主人とする奴隷となって、神の福音に仕える使徒として召され、選び分かたれてたのです。律法の奴隷でもなく、罪の奴隷でもない、神の福音のためにキリスト・イエスを主人として仕える僕として聖別されたのです。しかもそれは、生まれるずっと前から、神によって選びだされ、召され、初めから聖別されて取り分けられていた、と知ったのです。こうして、パウロは、自分がだれであるか、自分の本当の姿を、はっきりと認識したのです。それが、「パウロ即ち奴隷」という自己紹介から、この手紙を書き始めなければならなかった理由です。「奴隷」という自己紹介は、まさにパウロの根源的な原点であり、同時にまた生まれる前から永遠に選ばれていた在り方でした。「死の奴隷」が、「神の福音の奴隷」として生まれ変わり、神が主人となってくださり、力ある福音のみわざを行われる恵みの原点ともなったのでありました。

パウロは、早くから、世界の宗教文化や文明の中心であったローマに訪れたい、そしてこの絶大な神の力である福音を告げ知らせたい、と切望していましたが、エルサレム教会のために献金を届ける責任を優先させたため、ローマ行きは断念して、エルサレムへ向かう途中、ガイオ宅で、この壮大なる福音の説教を、手紙の形で、口実筆記させ、テルティオに託しました。前回は、その手紙の冒頭一章1~7節の自己紹介、そして8~17節の挨拶を読んだ所でありました。本日は、その続きで、いよいよ本題である神の福音に入ります。

 

1.「わたしは福音を恥じとしない」(16節)

パウロは、自己紹介と挨拶を書き終えて、いよいよ「神の福音」という本題に入ります。その第一声が「わたしは福音を恥としない(Ouv ga.r evpaiscu,nomai to. euvagge,lion)」という言葉です。恥じとしないのは、なぜなら「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。1:17 福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と書いています。「福音を恥としない」その第一の理由は、「福音」には、「神の力」が漲り溢れているからだ、と言うのです。では、福音は「神の力」であるというのは、どういうことでしょうか。原典をそのまま紹介しますと、「力だ、神の」(du,namij ga.r qeou/ evstin)となっています。何よりも先ず福音とは絶大な「力だ!」というのです。わたしは福音を恥としない、なぜならそれは、福音にこそ唯一真の神の力が完全に現わされているからだ、というのです。「力」(デュナミスdu,namij)という言葉の意味を非常によく表しているのが、あの爆薬のダイナマイトという言葉です。第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして現在も同じですが、地球を破壊する爆発力です。どんなものでも一瞬で世界万物を吹き飛ばしてしまう絶大な「力」を持っている、と言うのです。この「力」は、どんな爆発力なのでしょうか。

人類は皆、ローマ皇帝でさえも、悪や罪そして死と滅びに対しては、完全に無抵抗であり、奴隷となって支配を任せるしかありません。この死と滅びを一瞬で吹き飛ばして消滅させてしまう、絶大な爆発力ををもって、神は福音の中に現れたのです。その死と滅びの全てを一瞬にして完全に吹き飛ばして消滅させるだけではなく、何と、また一瞬にして全く新しい永遠の命の世界をそこに造り出して、人類を命と希望のもとに解放したのです。

しかも続いて言われますように、この福音における爆発的な力は、即ち「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」と、パウロは告げ知らせます。ここで決定的に意味深いことは、「救いをもたらす神の力」であり、それは「信じる者すべてに」と言っていることです。つまり「信じる者すべてに救いをもたらす」という偏りのない、公正と正義に満ちた神の力です。ここで是非注目すべき言葉で「信じる者すべてに」救いをもたらせる力である、という点です。神の力は、救いにあって、その救いは信じる者すべてに齎されるのです。「信じる」ということを、端的に言えば、ただ信じて「受け入れる」だけで、ということです。「受け入れる」というのであれば、こちら側は空っぽでよいのです。何もいりません。条件もなければ、前提もないので、ただで「恵み」として無償に与えられる神の力である、ということになります。しかも「受け入れる」のであれば、かえって、「空っぽ」であればあるほど、たくさんのものを受け入れられるので、空っぽの方がよいのです。なぜなら、空っぽで空洞が大きければ大きいほど、神の恵と力は、大きく豊かに働くからです。無限のゼロで、よいのです。こちら側に神の働きを邪魔するような余計なものは何もない方が、かえってよいのです。カール・バルトは、信仰を「空洞」(Vakuum)と表現しましたが、福音という絶大な神の力をいただくには、こちら側に用意すべきものは何一ついらない、ということなのです。

ただ「空っぽ」で信じ受け入れればよい、と言うのであれば、それを言い換えれば、神は、福音においては、無償で無条件で或いは無前提に、ただの「恵み」として一方的に与える「力」となって働く、ということになるのではないでしょうか。「信じれば」何もいらない、と言うのは、神の力は、いつも「恵み」として一方的に、無条件で働くからです。パウロが「力」と言ったのは、神としての本当の「力」は、何の条件もいらない空洞の信仰に、無限のゼロにおいて、死を命に変える無限の「恵み」として、爆発的に発揮されるのです。無からすべてを創造する恵みの力であります。逆にこちら側で、あれこれと用意がありますなどと言い、いろいろと余計なことをすれば、それは、神の恵みとして働く絶大な力を、人間の力で拒むことになり、結果として神の力を排除し拒絶することになり、神からの救いは与えられないまま、自分の力を依り頼むことになるのではないでしょうか。したがって「力」とは、無条件かつ無償で、神さまからの一方的な恵みとして誰にもどんな差別区別なく、ただ空っぽになって受け入れるだけで、その無限の恵みは全て与えられるのです。「神の力」は、このように、無条件の「恵み」として、働き現れることであり、その恵みの力は、死も滅びも一瞬で吹き飛ばしてしまい、永遠に命溢れる世界に一変させる無限の創造力なのです。神の力とは、無条件の神の恵みであり、無限の神の創造力である、とも言えましょう。だから、福音の恵みは、ユダヤ人もギリシャ人も日本人も全く関係なく、無条件で絶大な恵みとして与えられるのです。なぜなら、その「力」は、「神の」まさに万物と命を無から創造する無限の力であって、神以外のものは皆、被造物として、その恵みをただいただく以外に方法はないからです。だから、信じて、すなわち空っぽになって受け入れされすれば、それで充分であり、空っぽであればあるほど、神の無限の恵みとして働くこの力を、本来の力として、よく知ることができます。自分で何か用意しようとすれば、自分に目が行ってしまい、神本来の恵みを見失ってしまいます。無為自然とは、まさにこの空っぽの信仰のことに用いられて然るべきであり、それは神がないのではなくて、神が爆発的な恵みの力によってお救いくださるのであるから、そのお力を信頼してお任せすればよいのであります。だからこそ、即ち無前提・無償・無条件に「恵み」として働く神の力であり、そこには、すべての差別や区別は既に完全に撤廃されているのです。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも信じる者すべてに救いをもたらす神の力」と言い表した通りです。

「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす」ということは、人種やそれに基づく宗教は何ら意味を持たないということであり、もう少し広く解釈すれば、どんな人種、文化、宗教、言語であろうと、人間の側に対しては一切のことを問わない、ただ空っぽになってただ信じ受け入れるだけでよいのです。なぜなら全ては神ご自身がご用意くだったからです。神は全ての代価を支払って私たちを回復し、爆発的な力をもって新たな命を創造してくださるからです。墓の中に入れられようと、土の塵に帰ろうと、一瞬にして死と滅びの世界は吹き飛ばして復活という永遠の命に造り変えてくださるのです。しかもその力はただ「信じる者すべてに(panti. tw/| pisteu,onti)」に与えられたのです。この「全てに(pa/j panti.)」という形容詞は、あらゆる、あらんかぎりの、一つの例外もなくまた欠けも無いという意味で、差別区別は一切なく、「全て」に与えられる普遍的な救いの力である、という意味です。福音とは、神が「恵み」の主として、また「新しい創造」の主として、しかも一切の差別区別のない普遍的救いの力として、お姿を顕現してお働きなられた出来事を言います。

パウロは「力(du,namij)神の(qeo,j qeou/)」について「救いをもたらす(eivj swthri,an)」力であると定義していました。「もたらす」と訳されている元の字は、前置詞(eivj)で、非常の幅広い意味があります。たとえば、ものやことの変質・変化・転換・移動など、或いは状況・状態や場所・空間における変容・移動・変動など、動的でダイナミックな変化を表現する字です。ですから「救い(swthri,a)」という全く異なる新しい変容の中に、直ちに招き入れる、変化に至らしめることを意味します。死という実態から、全く異なる命という新しい創造に瞬く間に大転換してしまうのです。神が「光あれ」と言われると「光はあった」というあの驚異的な創造力です。パウロは、そうした福音という神の絶大な力を、ローマの皆さんと分かち合いたい、というのです。福音を恥としない、とはそういう福音の「力」を知っていたからでありましょう。

 

2.「福音には、神の義が啓示されています」(17節)

そればかりか、パウロは、「福音」という「神の力」について、その力が発揮され現わされる仕方について、さらに「1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と告げます。パウロはここで、「神の力」を根源から支える原理がある、即ち神は、その力において「神の義」を貫き実現しようとされる、という言うのです。「神の義がなぜなら啓示されているから(dikaiosu,nh ga.r qeou/ evn auvtw/| avpokalu,ptetai)」だと解き明かしています。「福音」は、絶大な神の「力」となって働くのは、その根底に、「神の義が啓示されている」からであり、特に「神の義」が明らかになって現わされているからであるからです。神の力が神の力となって働く根源に、「神の義」が啓示されて、明らかになるからです。

こうした「神の義」(dikaiosu,nh qeou)が「啓示されている」(avpokalu,ptetai)という表現、その意味について、是非ともさらに注意深く読む必要があります。「啓示する、啓示されている」(avpokalu,ptw avpokalu,ptetai)という言葉は、「聖書」とは何か、それをそのまま言い表す重要用語だと言えます。よく聖書は「神のことば」であると言われます。それは、聖書という書物のうちに、「神」という存在を覆い隠している覆いが取り除かれて、その性質やお姿が露に現わされ、神のことばを神ご自身が語り、それをそのまま神のことばとして証言されているからです。ここで決定的な意義をもつのは、主語であり、即ち啓示する啓示者ご自身が「神」である、ということです。神の啓示は、基本原理として、地上に根拠を持たず超越した「天」から、現わされるのであり、人ではなく「神」ご自身によって、啓示されることです。極論すれば、啓示行為は、一方的に神のみによる、天からの極めて排他的で超越的な行為です。したがって「聖書」が「啓示のことば」であるとするならば、語るお方は神が天からお語りになってご自身を現わすのであり、人間が書いた書物として読むことは出来なくなります。神ご自身が語られお書きになった「神のことば」すなわち「聖なる書」として読むべき神の書物となります。人間や地上から読みまたは聞くのではなくて、徹底的に神の方から、神ご自身が天から語られる、神のことばとして、福音は啓示されているのです。したがって、神を基準として読み聞くのでなければ読み解くことはできません。人間や自分の欲求、自分の聴きたいことを基準にして読み聞きすればするほど、理解は遠退いてゆくばかりです。神が神の啓示のことばとしてお語りになり、私たちはそれを神の天からの真理のことばとして聞き入れ聴き直すこと、すなわち聖書に対して信頼と従順をもって読み聞きすることが求められます。それゆえ、人間である私たちには空っぽの信仰によってのみ、聖書のことばを聞き入れてゆく謙遜な態度が求められます。神の啓示であるから、それを神の啓示のことばとして、信じて受け入れるのです。

そこで重要な問題は、果たして神は天から、いったい何を、啓示したのか、ということになります。それが「神の義」であります。神が「力」あるお方として働き、ご自身のお姿を現す場は、「神の義」において、であります。神の義が、神の力となって、福音の中に現わされた、と言えます。「神の義」が主語で、しかも「啓示されている」という動詞は、現在形受動態で書かれています。したがって「神の義」とは、「今」ここに啓示されて現在ある、ということになります。聖書のことばを読みまた聞く人に対して、現在の出来事として、あなたの前に今ここに明らかにされてある事実として、強く迫る現実があるのです。それが「神の義」です。天を裂いて地上に現れて、今ここて聞く私たちに、神の義が顕現され、神は義なるお方として、私たちに迫るのです。パウロは、そういう現在の出来事として、今ここにわたしたちに迫る神の啓示として、書いています。では、この神の義とは、何でしょうか、神が義なるお方としてご自身を現わされ、啓示するとは、どういうことなのでしょうか。

パウロは、奴隷でありました。律法学者の中でも最も優秀と言われる律法主義者でした。先週「律法の奴隷」であったという話をしましたが、まさに律法を完全に守り通すことで、神の義を実現しようとした人であり、それゆえ生涯が律法によって規定され拘束されていた「律法の奴隷」でありました。義という正義、神の義という神から完全承認を受けるべき神の義を実現できず、パウロは苦悩したことは前回もお話した通りです。したがって、パウロは、自分のうちに義はないこと、ましてやこの世の人類のうちに神の義はなく、人は決して自分の手にすることはできない、それが神の義であり、それゆえ、パウロは律法に対する敗北者であり、不義の奴隷でありました。神を主語とする「啓示する」という字から、考えますと、まさに「神の義」とは、神が力あるお方として、神の恵みにおいて爆発的にその力を発揮してご自身を露にお示しになるのですが、そこに明らかにされこととは「神の義」であり、神の義が絶大な神の力としてまた恵みとして与えられることであります。パウロが「罪と死の奴隷」から「キリストの奴隷」へと移されたのは、この爆発的な神の力によってであり、その神の力とは、無条件にただ受け入れるだけの「恵み」として働く神の「力」でありました。その恵みとして無条件に働く力において明らかにされたこと、それが「神の義」であります。すなわち「神の義」とは、十字架に死に至るまで従順に死の代価を支払い罪を償われた、また復活という新しい永遠の命のもとにパウロを買い戻した、十字架と復活において啓示された「神の義」であります。神がキリストという主人となって代価を支払い買い戻してくださったという事実が、今のパウロの本当の姿を指し示しています。だからこそ、パウロは自分を「キリスト・イエスの奴隷(僕)」と言って自己紹介し、この壮大な福音の物語を書き始めたのであります。そして今もなお、永遠に変わらない、二度と色あせたり朽ち果てたりしない、永遠の現在として「啓示されている」のであります。

その神の義を、パウロは、今のいつもそのまま、ただ只管に感謝と喜びにあふれて、空っぽの信仰をもって、信じて受け入れるばかりでした。「生きる」とはこの天から啓示された「神の義」を源泉として始まるのであり、また同じように「生きる」とは、まさにこの天からの啓示である「神の義」を源泉として終わるのです。終始一貫全ては「神の義」を源泉として生まれ「神の義」において終わるのです。パウロは「1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」と書きました。ここで、パウロは、神の義について解き明かして、それは信仰による、と語り、「信仰による」ことを強調しています。

実は、先ほどバルトの「空洞」としての信仰について触れましたが、確かにそれは神学的理念として理解できても、実際に信仰実践の問題として捉えますと、果たして私たちはどこまで、神の恵みとして働く神の力に対して、即ち神の義の啓示に対して「空っぽ」しなることができるのでしょうか。鎌倉で思春期に学んだ臨済宗の禅でも「無」をもって悟りとすることを教えられましたが、「無」になることは出来ませんでした。無になっても、そこには「力」も「義」も見えず、孤独でありました。庭の石を見て石になるのですが、やはり分別が起こり、石と自分とが争い始めるのです。やはり、私たちは素直に、神の啓示として神の義を、神の恩恵や憐れみをただで空っぽになって受け入れる、ということが難しい、できないことのようにも思われます。やっぱり「自分」を貫き押し通すのです。反対に、心から「主人」を認めて、自分を空っぽにしてただ神を信頼し、主人の憐れみを受け入れることができないのです。神の義を源泉として、それを空っぽの信仰によって信じ受け入れ、ただ神の義とその憐れみだけにすがり、空っぽな信仰から信仰へと終始一貫することができないのです。教会の説教でさえ、神のことばを純粋に聞く、というのではなく、つまり信仰によって神の福音を聴こうとするのではなく、自分の聴きたい言葉を求めていつも都合の良いように求めて聴きたいのです。時には、自分の求めるものがないと、福音がない、と心の中で罵り説教を斥け、いつの間にか、「自分」が福音を定める決定者なって、極論すれば、神ではない自分が審判者となって礼拝席に座ってしまうようになるのです。神からの啓示のみことばを聴くのではなく、自分という人間から自分の欲求が神の啓示することばとなって聞いてしまうのです。

この問題はさらに深刻です。なぜなら「啓示されています」と現在形で書かれていましたように、常にいつも今迫る神の義に対して、常に心を明け渡すことができない、という現実が問われることになるからです。なぜ、なのでしょうか。その理由は、二つあります。一つは、本質的な問題として、この不信仰と不義の問題は、わたしたち人間が決して「自分の力」では解決できる問題ではない、ということを知らねばなりません。矛盾のように聞こえますが、一方で自分の力に頼れず、神の力による、と言いながら、他方で、その神の力にも頼ろうとしないで自分の力を求めるのです。さあ、そこでどうすればよいのでしょうか。これは根本的な矛盾であり、絶対絶命の聴きです。神なのに、人を中心とするのであれば、信仰によって神の義は得られず、死と滅びを自ら選び取ることになり、自滅します。しかも、では自分から空っぽになって信仰に生きようとするのですが、常に自分を支配するのは、ただ神への背きであり、自我欲求の支配であります。いったいどうすればよいのでしょうか。ただ一つ、それは、自分の力から神の恵を受け入れる「悔い改め」です。ここで徹底的に問題となること、それが、あなたの神に向かう「悔い改め」です。パウロは徹底的に神を主人としたいので「奴隷」という言い方をいたしました。それは、自分の意志や力で方向転換したというよりも、一方的に神が主人となって代価を支払って、死と滅びから自分を買い戻された、という完全な事実の前に立ったからです。言い換えれば、神お独りだけが初めてその主人となってそのご計画と選びに基づいて、人間の背きと罪の問題を解決してくださることだからです。したがって神のご意志とご計画によるのです。この意味からすれば、人間を超える神の問題でもあります。極論すれば、神は恵みの神として力をもって、パウロは屈服させ敗北させ死の奴隷にした、その結果、パウロはそのままの恵みのもとに、奴隷を受け入れたと言えるかも知れません。

もう一つ、さらに大事なことは、「愛と憐れみ」に触れて、心から愛されたことを本当に知ることです。これも本質的には人間を超える神の問題と言えますが、それでも、どんな罪と背きに支配された人間を「神は憐れみをもって赦す」という無制限に働く神の力こそ、解決の突破口であり、贖罪の力によるものです。よく神学では、特にルターの義認論を問題する際に、義認と聖化ということが問題に出されますが、義と認めて赦すと同時に聖化へと導く「恵み」として働く神の力を言います。その力の源は、別の助け主として働く聖霊であり、聖書のことばであり、説教であり、洗礼と聖餐を通して働く神の恵と力です。「神の義」の中枢で、いわば十字架の死に至る主イエスにおいて、神の小羊として完全にそして無限に罪を償う贖罪の力が働いていることが、そうした不信仰と不義をいよいよ明らかにします。しかし一方で不義と不信仰をあらかにしつつ、不断の悔い改めに導き、新たに向かうべき方向も明らかにされます。上手く表現しきれませんが、わたしたちの不信仰と不義が深まれば深まり、自分に絶望すればするほど、神の恵みと憐れみとして働く「力」は絶大となり、明らかに啓示されることになるのではないでしょうか。だからある意味で、裁きの前に立ち裁かれる経験もありうることでありましょう。裁かれ裁きを知ることで、愛と赦しの意義は深めることもありうるからです。汲めども汲めども汲み尽くすことのできない、神の愛と憐れみは、「神の義」として常に現在形で啓示されており、いつも私たちの不義と不信仰は悔い改めに向かって裁かれ続けますが、同時にそこでこそ初めて、だからこそ今ここで絶望にあって渇くがゆえに「さあ、飲みなさい」と言ってご自身を差し出すみことばが聞けるようになるのです。そしてその裁きの席で、泉のように湧き溢れて神の愛と恵みよる命をすすり飲むことも許されているはずです。「信仰による義人は生きる」とは、そういうことでありましょう。義人は、信仰によって生きるのですが、それ以上に、その前に「義人」とは、「神の義」のおかげで、その恩恵を信仰によって受け入れられるように愛と憐れみの力によって導かれ、そして信仰によって義の恵を知る義人であります。神の義を受け入れる信仰のない所に、神の義が与えられ実現する場もないのであり、したがって最初から義人など一人もいないはずであります。人はただ神の恵みのもとで、その愛と憐れみに恵みとして導かれ支えられてこそ、神と共に歩むことができるのであります。

 

3.「神は天から怒りを現されます」(18節)

パウロは「福音」の本質に更に深く踏み入って語ります。これまで「神の福音」を「救いをもたらす神の力」と言い、その「神の力」の根源において「神の義が啓示されている」と語りました。そして今度は18節で「神は天から怒りを現されます」と告げます。つまり「神の義」ゆえに、福音は神の力であり恵みである、と言えるのですが、しかし今度は「神の義」は同時に「神の怒り」でもあるのだ、と指摘します。この18節の翻訳で、口語訳聖書は非常に特徴ある訳をしています。「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。」と訳して、最初に「神の怒り」という言葉が出るように、とても苦心して訳しています。原典は「啓示されたからだ、なぜなら怒りが、神の」(VApokalu,ptetai ga.r ovrgh. qeou/)と書かれているからです。聖書を邦訳にする場合、何を大事にするか、それによって訳し方が大きく変わります。文法なのか、意味なのか、それとも日本語らしい訳なのか、さまざまな論点がありますが、口語訳は、原典の「啓示のことば」としての意味と力とを重んじたようです。原典の特徴は「なぜなら怒りが」という点にあります。パウロは、ここではっきりと、人間の不義と不信仰に対して「神の義は、なぜなら神の怒りとなって神の怒りを天からから現わされる」と説いています。パウロは、信仰による義人は生きると言って、信仰について語ってきたのですが、その信仰は、自分を無にして従順に神を信じ受け入れる空っぽの信仰をもって、神の福音の「力」を認め、自分の全てを神の福音に向かって自己を完全に明け渡します。しかし反対に、その信仰が、人間の側による不義と不信仰が働くゆえに、絶えず神の真理はいつも阻まれてしまいます。神の義は、本来の神の義と正しさは、完全な正しさゆえに、不義と不信仰に対しては当然ながら「怒り」或いは「裁き」となって現れます。パウロが「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」(口語訳)と記したように、神は、福音において、義と恵みとして働き、救いの力となって働く、と説いて、神の力と神の義について語りましたが、その一方で、反対に、不義と不信仰に対しては「怒り」となる、と語ります。新改訳聖書では、神の義が神の怒りとなって現れる理由について、「というのは」と訳して、「というのは不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して神の怒りが天から啓示されているからです」(新改訳)と訳しています。つまり、神の義は「神の怒り」となる。それは、なぜなら神の怒りが、不義と不信仰に対しては、神の義は、完全に正しいがゆえに、神の怒り、神の審判となって、露にあらわにされている、というわけです。奴隷のために十字架の死至るまで代価を支払って命のもとに買い戻す、という主人の喜ばしい働きは、感謝と喜びをもって受け入れる信仰のもとでは、信仰によって生きる、新たに生かされる祝福となり新生の道を開くのですが、反対に「不義によって人間のあらゆる不信心と不義に対して」は、真理を妨げ阻むがゆえに、その結果として「不信仰」のままに閉じ込められてしまうのです。不義と不信仰ゆえに真理を阻んだ結果、神の正義は「神の怒り」となって天から啓示されるのです。

パウロはここで、さらに、己を無にして空っぽな信仰をもって、主人とその福音を喜びをもって受け入れることが出来ない人間の「不信心と不義」について、しかも「不義によって真理の働きを妨げる(阻む)罪深い邪悪な人間」について、より深く見つめようとします。ヨハネによる福音書は3章で「3:18 御子を信じる者は裁かれない信じない者は既に裁かれている神の独り子の名を信じていないからである。3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだそれがもう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎みその行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:18~19)と記しています。信じないのは、闇の方を好み、悪を行うことになり、光を憎んで神に増々背き、その信じないことは、かみの裁きと怒りとなって明らかにされる、というのです。パウロは、人間には(神の)真理の働きを妨げ阻んでいる不義がある、と言っています。神は信仰には恵みと力を、不信仰には怒りを発揮されるのです。

教会の伝道と牧会の難しさはここにあります。信仰による救いは、自分が信仰して自分の信仰で作り上げる救いなど、聖書にはありません。また、神に義とされるとは、信仰によって自分が認められるようになることでもないのです。むしろ、信仰によって、自分は神の前に絶対に認められないことを受け入れ承認することです。近代現代社会で最も価値あるものは人権であると考えます。その通り、それは間違いのないことです。しかしそれ以上のことは余り考えようとはしないのではないでしょうか。自分を守るために、自分の国を守るために、武器をもって戦いますが、その次は、戦争と殺戮のディレンマに陥ることになり、結局は相手を殺し滅びし尽くすまでは、自分を守ることができなくなってしまうのです。近代現代ほど、残酷な大量殺戮と破壊を繰り返した、世界規模の世界大戦の奴隷になった時代は、歴史に例を見ることはできません。人間は最も優れた解決者であると自負しますが、人類史上、たった一つの殺人さえ解決できないでいるのです。問題は、人間以上の存在と力を認めないからです。自分が最高の知恵であり判断者であり裁き主であると、恰も神のように自分を絶対化して、自分以上の神を心から認めようとしないのです。人間には知恵があり、人間は愛と優しい心がある、と言いますが、その最先端の時代で、殺し合いはいよいよ残虐さを増し虐殺へと進んで、次は更に巨大殺戮兵器を求め、絶滅を求めて進んでゆきます。それが人間を絶対化して神は死んだと言って神を殺してしまった近代現代の本質であります。大事なことは、人間以上に力をもって働き、人間以上に愛と憐れみをもって共に歩もうとする神を、心から、先ず自分自身の心のうちに、受け入れ認めることであります。人間の傲慢を悔い改めて、自分を主とする生活から、神を主とする生活に方向転換するのです。時間も物事もお金も、自分のために用いる生活から、神のために用いる生活への方向転換が求められています。しかしその本当の意義が分からないのです。その結果、教会生活や信仰は軽蔑され、いつの間にか、教会生活や信仰の内容が人間中心のヒューマニズムに変質してしまうのです。神の名のもとに、自分を認めてもらい、自我欲求を満たす場へと、信仰の本質も教会の在り方さえも、大きく変質されてしまうのです。その結果、神の怒りは露に示されるのです。すでにその行いは裁きとなって露呈するのであります。教会に生じるさまざまな問題は、全てはこうした神の真理を阻み妨げようとする人間の傲慢によるものであります。早急な悔い改めが求められますが、神の怒りの中で、裁かれ滅びるのでしょうか。人を本当の人として尊厳豊かに救えるのは、神の力であり神の義であり、神の恵みであります。

 

4.「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず」(21節)

「神の義」は、一方で、信仰に対しては「救いをもたらす神の力」として現されますが、他方、不義と不信仰に対しては「神の怒り」として現されます。神の義は救いでありつつ同時にまた裁きとなります。神の義そのものは全く同じ一つの神の義ですが、つまり、神はご自身を完全に正しいお方として啓示なさるのですが、それを受ける信仰と不信仰とによって啓示されて現れる結果は一方で「救い」他方で「怒り」となって分岐します。ヨハネによる福音書3章18節で証言される通りです。人間の考える順序から言いますと、不義があるから神の怒りが現されるはずだと考えますが、パウロは単純にそうは言いません。実は「神の義」そのものの中に、既に「神の怒り」も「神の救い」も同時に啓示され現れているのではないでしょうか。或いはこうも言えるかも知れません。即ち「神の義」の前には、「不義と不信心」も「救いと怒り」も、非常にダイナミックにしかも逆説的に啓示され現わされている、と考えられないでしょうか。信仰と救いや不信仰と怒りを、固定的にかつ形式的に捉えるよりも、信仰と不信仰は常に同時に危機的な状態におかれている、と考えてよいのではないでしょうか。啓示とは、場合によっては両者は常に入れ替わり、否定と肯定とは逆説的に働き現れる、と理解できそうです。なぜなら、信仰とは、最初から不動の信仰なのでしょうか。義人が最初から義人であったのではなく、義人は信仰によって義とされて、信仰によって生きることができのと同じように、信仰もまた不信仰から悔い改めという恵みを必要とするからです。信仰は、不信仰という自己承認を経て、神の赦しと救いの恵みを乞いもとめつつ、神の愛と力により、しかも神の正しさにおいて赦しの承認を受けて、はじめて信仰に立つことが許されるからです。信仰は自己承認からではなく、神からの赦しの受け入れ認め、人間における承認から神の憐れみと力溢れる赦しの承認において全てに意義を方向転換させる悔い改めに基づくからです。逆に「信仰」を人間が自己承認すれば、皮肉にも逆説的に、自己義認となり、結果として神の怒りと裁きを受けることになるのではないでしょうか。

パウロは非常に意味伸長な用語を用いて、その神の怒りを解き明かそうとしています。先になりますが、先ず21節で「1:21 なぜなら、神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせずかえってむなしい思いにふけり心が鈍く暗くなったからです。」と明記します。その上で改めて、24節で「そこで神は、彼らが心の望によって不潔なことをするようにまかせられそのため、彼らは互いにその体を辱めました」という表現の仕方をしています。同じように、26節「神は彼らを恥ずべき浴場にまかせられたました」と言い、28節「神は彼らを無価値な思いに渡されそのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」と記し、そしてパウロはさらに、ストア派の哲学では不道徳の極みとされた不道徳項目の一覧を並び立て、31節で「死に値するという神の定め」であると断罪しています。神は、神の怒りの現れとして、「神の定め」として死に値する行為に彼らを任せられ、渡され、定められた、ということになります。このように「神の怒り」が啓示される根本原因には、言うまでもなく「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず」「むなしい思いにふけり、心が鈍くなったから」(21節)であり、「滅びることのない神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替え」(23節)、しかも「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた」(25節)からです。人は、神を知りながら、神を神としてあがめることをせず、神の栄光を像と取替え、造られた物を拝んで仕えた、それゆえにその結果として、人は、むなしい思いにふけり心が鈍くなり、欲望によって不潔なことをするにまかせ、互いに体を辱めた、と非常に理路整然と順序立てて、不義と不信心が描かれています。端的に言い換えますと、人間は神から離反し背いたために、本性的に堕落した、ということでありましょう。1章は、人類を根源的な「罪人」として、また人間本性を「罪の奴隷」として、明らかに示して終わります。パウロがこれから壮大な福音の物語を語ってゆくのですが、神の福音を、何よりも先ず、神が正しく公正にそして「恵み」豊かに働く場として、つまり十字架の福音においてこそ、神の真実のすべてが啓示されていることを証言し語ります。それには、どうしても、罪という人間の悲惨について目を向け向き合うことから始めなければならなかったと思われます。しかもこの深刻な罪の実態は、死に値する神の定めとして、語る必要があったと考えらえます。なぜなら、十字架において、神ご自身がこの死に値する神の定めを背負い、ご自身の命の代価を支払って引き受けられたからであります。

パウロは、不義と不信心をめぐり、痛みを一層深く覚えながら語っています。その深刻な背きは「神を知りながら神としてあがめない、という点です。「神を知りながら」というのは、「1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(20節)と言っています。つまり神の創造のみわざのうちに、そして「神に造れた」被造物であるがゆえに、神の永遠の力と見えない性質は、既に人間には、弁解の余地がないほど、明らかに現わされているからです。だから言い訳できない、弁解の余地がない、言い逃れすることは絶対にできない、と言うのです。したがって、この時点で、人類は既に神に背き、不義となり、不信仰であり、神の怒りを受けて然るべきであります。これが、神さまの側から見た人間観であり、人類に対するの根本的な認識であります。「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)とありますように、「神に従う」とは、「信仰」によって初めて成立するのであり、「信仰」において「神に従う」生活は導かれ実現します。それゆえ、人間による罪の背きは、神による怒りによって、徹底的に裁かれています。これには弁解の余地はありません。人類は皆、例外なく、既にこの恐るべき怒りと裁きの危機の中に立たされているのです。しかも更に重大なことは、この人類の滅びの危機から救うために、神は既に公正かつ義なるお方として、受肉した主イエス・キリストにおいて人間本性の全てを引き受けて背負い、その人間本性において十字架の死に至るまで神への従順を尽くして、命の代価を支払って罪を償い、神の義を得て、栄光の復活を遂げられたのであります。「啓示されています」という現在形動詞は、今もいつも常に、この十字架の事実をもって人類に迫るのであります。ここで神は真の神としてご自身の真実を啓示されたのであります。この啓示を、ただただ空っぽの信仰をもって、ただただ無限に働く恵みとして、受け入れるのであります。その時、一瞬にして、人類と自分自身の死と滅びは吹き飛ばされて、新しい命の創造の恵みと力のもとに新生するのです。罪人であり死と滅びの危機にありつつ、主の十字架の信仰において、永遠の命の恵みに生かされるのです。

ヨハネによる福音書13章1~20節

ヨハネによる福音書13章1~20節

2022.6.5 小金井西ノ台教会 ペンテコステ礼拝
磯部理一郎牧師

聖書

13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。13:18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。13:19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。

説教

はじめに 主イエスは、十字架における栄光の時を迎え、弟子の足を洗う

本日の13章1~20節を三つの段落に区切り、お話を進めて参ります。先ず1~5節では、イエスの栄光のとき、即ちイスカリオテのユダの裏切りによって、ついに十字架における死の栄光の時を迎える時であり、御子を世にお遣わしになられた父なる神のみもとにお帰りになられる日を迎えたことを告げます。地上との別れを覚悟され、地上に残す弟子たちと別れを告げるのですが、その際に、主イエスは、弟子を深く愛する愛の奉仕者として、奴隷となって、弟子たちの足を洗い始めます。

第二段落の6~10節では、弟子の足を洗い始めた主イエスに対する弟子たちの反応です。特にペトロは、主イエスが、愛の奉仕者として弟子の足を洗う、その意味を理解することが出来ません。ペトロは、イエスさまに足を洗っていただくなど、決して有ってはならないことだ、と拒絶しますが、主イエスは、弟子の足を洗うという愛の奉仕の中に、メシアと人々との本質的な関わりがあることを教えます。

最後の段落11~20節では、イエスさまの十字架の死におけるユダの裏切りと弟子たちの躓きを予告し、改めて、互いに足を洗い合うことを模範とする奉仕の愛をもって、互いに仕え合うべきことこそ、弟子であることの本質であり証明である、と教えます。

1.「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」

そこで、主イエスの栄光のときについて、即ち十字架における死の栄光について、改めて振り返りますと、イエスさまは、ラザロを復活させるという誰もが否定できない決定的なメシアのしるしを行われ、ご自身が父なる神から遣わされた神のメシアであることを証明して見せました。12章17節以下に「12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」と証言されている通りであり、まさに、主イエスにおける「神」の力は決定的でありました。主イエスにおける「神」の力が証明されたことは、つまり神のメシアであることは、誰の目にも余りにも決定的で明らかになっていたようです。反対に、これはとても皮肉なことなのですが、それが明らかになればなるほど、それを恐れた大祭司を頂点とするユダヤの宗教的権威は、最高法院において、主イエスを殺害する最終決議を断行したのでした。言い換えれば、主イエスご自身が神の子であり、神のメシアであるがゆえに、それがいよいよ真実となったがゆえに、十字架における栄光の死は、イエスさまにとっては避け難い事態となっていたのです。ユダヤの権力者たちは、神の名のもとに、律法を利用して、自分たちの権力支配を保持するためには、確信をもって主イエスを抹殺しなければならないと決断したのです。しかも民族にために神が使われたメシアをローマに売り渡すことで、ローマに対してもユダヤの利権確保を謀ったのです。神に対する背きの中で、これほどの背きは、前例を見ることはできないでありましょう。いわば、最後に残された救いの希望を、最後の究極的な神の背きとして排除してしまったのです。しかも、その通りに、ユダヤの宗教権威は、メシアを「ユダヤの王」として処刑抹殺することを、確信をもって決断し実行したのであります。

こうしたユダヤの権力者たちによる究極の背きの前で、主イエスは、壮絶なご決意をもって、臨まれます。それが、背きの罪で最も汚れている者の足を奴隷の姿となって洗う拭う、という痛ましいほどの愛の奉仕者として、まさに彼らの背きの頂点を成す十字架刑において、ご自身を生贄の小羊として死の奉仕を貫くことを明らかにされるのです。この十字架上の死による愛の奉仕は、徹底的に主イエスが「神」であること、その愛も正義も真理も、全てが権力者たちの背きによって否定され汚され卑しめられているのですが、その全否定を自己否定的な愛の奉仕をもって仕え受け入れ、主イエスはその汚れた足を洗い拭うのであります。

ヨハネはこうした苦難について、詩編41編のダビデの詩によって、描こうとしています。41:2 いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。41:3 主よ、その人を守って命を得させ/この地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。41:4 主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。41:5 わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」41:6 敵はわたしを苦しめようとして言います。「早く死んでその名も消えうせるがよい。」41:7 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが/心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。41:8 わたしを憎む者は皆、集まってささやき/わたしに災いを謀っています。41:9 「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい。」41:10 わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。41:11 主よ、どうかわたしを憐れみ/再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば/彼らを見返すことができます。41:12 そしてわたしは知るでしょう/わたしはあなたの御旨にかなうのだと/敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。41:13 どうか、無垢なわたしを支え/とこしえに、御前に立たせてください。41:14 主をたたえよ、イスラエルの神を/世々とこしえに。アーメン、アーメン。

この詩編41編で預言される祈りは、明らかに愛の奉仕者としてささげられる「苦難の祈り」であり「執り成しの祈り」のように聞こえます。主イエスの十字架における死とは、まさに過越の祭りの前日の出来事として、ユダヤの背きの足を洗うのです。「神」が主イエスにおいて民の背きの罪を洗われたのであり、足を洗われる主イエスは愛のメシアによる奉仕の本質を示している、という強い確信のもとに、ヨハネとその教会の人々は証言したのではないか、と考えられます。しかも単に「愛の奉仕」を倫理的な教訓として語るのではなくて、神のメシアの本質を成す栄光のわざとして証言します。主イエスにおいて、したがってキリスト教全体において、愛とは、神の本質を構成するものであり、奉仕とは神の救いそのものの中核を成すのであります。前にもお話しましたように、絶対である、即ち異質なる他者を自己の内に認め得ない絶対者が、痛みをもって、他者を、しかも究極の背きをもって十字架の死を仕掛けて来るユダヤの民の足を、神ならぬ人類に仕える「奴隷」となって洗い清め、自己の死の犠牲を引き換えにして、自分に背く他者を受け入れて認めるのです。そうした「足を洗う」という愛の奉仕の源泉は、三一体の神の本質から、溢れ出ます。唯一絶対の神という神の本質の内に、父と子は相互に受け入れ合い仕え合う、父は子に全権を委ね全ての栄光を与え、子は父のもとに全存在を尽くして敬い従順に従う、という相互が自己否定的に容認し合い仕え合い献げ合う、こうした三位格の永遠の相互内在的な交わりのうちに、愛の源泉はあり、神の本質が明らかにされ、三位一体という神の本性を示されます。したがってキリスト教は一神教と言われますが、その一つの神は排他的で暴力的な独裁神ではないのです。反対に、他者のためにどこまでも自己を捨てて自ら奴隷となって、他者の足を洗う自己否定的な愛において、その豊かな愛の交わりにおいて、唯一真の神としての本質を明らかにするのです。そうした父と子と聖霊の愛の交わりが本質的な愛の源泉となって、被造物世界にも及び、ついに十字架の死の痛みをもって罪人を受け入れて認めてゆく、それがキリストの愛であり、愛の奉仕であり、汚れた足を洗う主イエスの本質であります。天国とはそういう神の交わりのうちに営まれる愛と命の泉であります。

ヨハネは、主イエスの十字架における死について「この世から父のもとに移る(metabh/| evk tou/ ko,smou tou,tou pro.j to.n pate,ra)」という言葉で言い表します。この「移る」「立ち去る」という動詞は、ヨハネからすれば、ただ単に地から天への物理的移動を意味するだけではなくて、むしろ啓示の本質を明らかにする啓示の意味で用いられています。つまり「移る」とは、神本来の本質を明らかに示して表す啓示用語として用いられています。したがって、神本来の本質を明らかに啓示するとは、まさに神の愛が背きと言う罪に汚れた足を洗うという愛の奉仕のわざとなって、しかも十字架の死に至るまで洗い清めるための自己犠牲として、従順に神に献げる贖罪の生贄奉献として明らかにされるのです。3節に「13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」とありますように、主イエスにおいて、神の本質は二方向において働く神の啓示として示されています。一つは、父から見た神の働きとして、父がすべてをイエスさまの手に委ねられていること、そして子から見れば、父のもとから来て、父のもとへ帰ることとして啓示されます。さらに付け加えるならば、父と子との関係から、さらに聖霊が別の弁護者として、この世に遣わされるもう一つの派遣として展開します。教理用語で言えば、御子は「父から生まれ」、聖霊は「父から発出する」という表現を用いますが、父から子が主イエスにおいて遣わされて世に降り、そして今度は父から聖霊が主イエスを通して発出し遣わされるのです。このようにして「神」の本当のお姿が、神の本質である愛は、いよいよ愛の奉仕者という姿で世に露に現わされ、啓示されるのであります。イエスさまは、処女マリアから聖霊によって受肉して、イエスとして人間性の全てを背負い担われました。その主イエスにおいて、その人間性の奥深くにおいて、父と子と聖霊なる神はいつも相互に内在し合い愛し合いそして遣わして、神本来の本質を愛の奉仕者として、世に現わして明らかにします。父と子と聖霊とは、常に愛の奉仕者という本質に基づいて、相互に内在共有し合う関係を保ちながら、それぞれの役割を果たすのであります。三位一体の神は、受肉したイエス・キリストというお方において、内在し包まれつつ、外化し現れ、啓示されるのであります。したがって、人間のお身体を持つキリストから父なる神も聖霊も決して切り離されて存在することは有りえないのです。キリストを通して、父と子と聖霊なる神は、常に生き生きと現臨し働き、愛のみわざを行っておられるのではないでしょうか。つまり、イエスさまから、弟子たちが汚れた足を洗っていただいた、という愛の奉仕は、主イエスにおける神の永遠の本質から溢れ出る栄光のわざとして、終末を超えて永遠における天上のわざとして、先取りされて写し出されており、永遠に貫かれてゆくのです。

 

2.「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)

そしてついに主イエスは弟子たちの足を洗います。「13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言った。13:7 イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。」と記されています。十字架の死に至るまで徹底される神の愛の奉仕を非常によく象徴する行為ではないでしょうか。単に足を洗うのではなく、赦されるべきでない罪人の罪を完全に償い、赦しを与え、そして死と滅びから永遠の命に復活させる、という栄光へと招き導く、という洗足行為であり、神の救済の本質となる贖罪行為であります。しかしペトロにはその意味が分かりません。ペトロの「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」(6節)「わたしの足など、決して洗わないでください」(8節)という言葉は、一見、イエスさまに対して厳かな敬意を表しているように聞こえますが、残念ながら、全くイエスさまを理解できていない、厳密に言えば、主イエスにおいて現臨する「神」をまだ知らず、受け入れることができていないのです。そうした無理解の弟子に対して、主イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と諭します。イエスさまとは、いったい誰なのか、正しく理解できていれば、汚れた足を洗ってくださる意味の深さ尊さはよく分かるはずなのですが、しかもそれはどうしてもなくてはならないことなのですが、ペトロを初め弟子たちには、まだイエスさまにおける「神」は見えてはいなかったのです。自分の足を洗われる受肉の「神」を知らないのであります。

本日は、教会暦で申しますと、ペンテコステの聖霊降臨日にあたります。聖霊が天から降り、教会の人々に注がれ、宿ります。とても不思議な出来事ですが、皆さんひとりひとりに、「神」である聖霊が天から降り宿ったということになります。ただ、聖霊派の方々のようにこの聖霊降臨だけを突出させて、イエスさまから切り離して、この断片だけで全てを語り尽くすことはできません。なぜなら、聖霊の降臨は、あくまでもイエスさまの十字架と復活そして昇天という「受肉した御子のお身体」の存在を大前提にしているからです。言い換えれば「教会」という「キリストの身受肉の身体」を前提にして、はじめて展開する神の出来事だからです。熱狂的に聖霊さま聖霊さまと叫び求めて祈る教会もありますが、そうした聖霊派の教会でも、その教会の根本は、イエスさまの十字架と復活と昇天のキリスト、即ち天地を貫いて現臨する主のお身体を前提にしているはずであります。処女マリアから聖霊によって受肉し、地上において人間性の全てを背負って担われ、十字架において死に三日目に復活して天に昇られた、いわば天地にまたがる主イエスの栄光のお身体との深い交わりの中で、引き起こされている神としての聖霊のみわざであります。教会は、そのイエスさまの身体である、ということを前提にして、つまり主イエスおける「神」、すなわち神の御子としての父と聖霊との根源的な交わりの中で、父は子の身体である教会に対して聖霊を遣わすのであります。聖霊降臨の源泉は、三一論的な父と子と聖霊における根源的な相互内在に的な交わりにあり、しかもその三一論的交わりは子において受肉した身体性を内包し、御子の受肉した身体性を写すキリストの身体である教会を用いて、自然万物の世界を大きく包みあげてゆくのです。言えば、聖霊降臨という救済史的出来事は、キリスト論的三一論の展開として生じているのではないでしょうか。世は神の愛と恵みにより、聖霊の賜物をいただき、聖霊に漲り溢れるのであります。父と子と聖霊の豊かな愛と交わりの本質から、当然ながら、生じる神の愛の奉仕であります。そうした神の本質的な愛の奉仕という命の営みのもとに、キリストの身体は天地を貫いて存在しており、そのお身体における豊かな命の交わりを源泉として溢れ出るかのように、聖霊は地上に降り、私たちに宿り、万物に沁みわたり万物を満たすのであります。

そう考えますと、聖霊を受けるとは、元々三一論的な神の大きな愛の本質から生まれたことであり、天地を貫くキリストのお身体全身に漲り溢れる力でもあります。したがって教会生活の全てがこの神の愛の奉仕によってすっぽりと大きく包み込まれていることが分かります。洗礼を受けることや、みことばを聞くこと、聖餐に与ること、日々祈り讃美すること、それは全てイエスさまのお身体において漲り溢れる「神」の力あるみわざそのものではないでしょうか。

イエスさまが、罪に汚れた足を洗うとは、神の愛の奉仕、神本来の愛のみわざ、救いのみわざの全てを象徴する行為であります。であるとすれば、主イエスが十字架の犠牲となって罪を償うことも、聖霊が降って私たちの弁護者となってくださることも、皆、神の愛の奉仕のみわざでもあります。主イエスが、奴隷となって、足を洗うのも、聖霊が天から降りわたしたちの弁護者となって仕えてくださることも、足を洗う神の愛の奉仕そのものでもあります。足を洗うという行為は、奴隷のする仕事でしたが、イエスさまがわたしたちの奴隷のようになって足を洗うという行為を、もう一度、深く、三一論的に読み直すことができるのではないでしょうか。主イエスの十字架の死における栄光のみわざを通して、父と子と聖霊なる神もまた相互に関係し合いながら、愛の本質を果たしておられるのではないでしょうか。「父がすべてを御自分の手にゆだねられた」とは、御子のみわざのうちに、父と子と聖霊なる神は一致して、主イエスにおいて神の愛の本質を現わされた、ということになります。そういう意味からすれば、とても自己犠牲的にご自身を差し出す主イエスのサクラメント的な行為にも見えて来ます。後にペトロが主に「主よ、足だけでなく、手も頭も。」(13:9)と言っていますが、まさに洗礼のようでもあり、しかもこの洗足の行為は、「13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」と記されていた通り、食卓場であり、イスカリオテのユダの裏切りが明らかにされる場でもありました。つまり、主イエスの十字架の死を中核にして、説教がなされ、洗礼と聖餐を包み込むように、奴隷となって汚れた足を洗う愛の奉仕のわざが行われています。ここに三位一体の神の相互内在の本質、神のメシアとしてご自身を啓示する愛の本質、そして神の福音を告知する使徒としての本質と模範の全てが込められ、明らかに現わされ、示されているように思われます。このように、弟子たちは元より、教会もわたくしたちも、いつも主イエスが奴隷となって、汚れた足を洗い拭い続けてくださる洗足のみわざの中に、確かに選ばれて招かれ、包まれて導かれているのではないでしょうか。主は、決して清くない者たちの足を洗って拭い続けられる、その洗足の主こそ、教会の根拠であります。わたしたちが清く正しく強くなることによって担保され保証される教会ではない、ということがよく分かるのではないでしょうか。

 

3.「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになる」

いつもお話しますように、神さまのこと、或いは信仰の世界は、ある意味で、私たち人間に納得のゆく世界ではないように思われます。なぜなら、人間の判断や思考の基準に適うない領域だからです。元々人間には分からないことだから、信じなさいと言われても、それは余りにも乱暴な話です。ですから、やはり分かるようになる、理解し認識できるようになる、そして納得する、ということは、人間としての尊厳においても、決して捨象することはできないのは同然のことであります。主イエスご自身も、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と教えられ、「模範を示したのである。13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」と仰せになり、弟子たちを諭しておられます。決して、分からなくてもよい、というのではなくて、いずれ、分かるようになる、のです。したがって、神の方から自ら啓示して神の真理を示す神の恵みと、そしてその啓示に心を向けて認識を深めてゆこうとする人間の理解という両方向から関わり合える「交わりの場」が確保されることが大事になります。結論から言えば、聖霊なる神からの助けを受けることのできる場です。聖霊の恵みをいただくことで、「あとで」分かるようになる、ということでもあります。この「後で」とは、明らかに、キリストが天に昇られて、聖霊が遣わされた後で、ということを意味しますが、同時にまた、使徒が立てられ遣わされて、目に見える歴史的な教会が地上に導かれ、その地上の教会を聖霊が助けてくださることを意味しています。であるとすれば、教会の中に、分かる根拠は既に与えられている、ということになるのではないでしょうか。教会に使徒が使われ、福音の宣教が行われ、聖礼典が執行され、その一つ一つのうちを貫くようにして、聖霊が語るように真理を明らかにしてくださるのではないでしょうか。みことばを語りみことばを聞くとはそういうことではないでしょうか。使徒によって伝えられた信条や信仰告白に基づき、一致して、聖書が忠実に解き明かされ、解き明かしが正しく聞き分けられ、聖礼典に与るという営みそのものの中に、全ての真理が貫かれ、啓示され、導かれているのです。こうした聖霊による共同的な教導を信頼し身を委ねる営み全体を通して、信仰的認識は深められます。人間は神になることはできませんが、神との交わりを知るようになり、神との交わりに生きることは出来るようになるのではないかと思います。そして、主イエスが、弟子の足を洗われたように、主の洗足を模範として、互いの足を洗い合うという新しい生に目覚め、新しい生に生きることもできるはずです。

ヨハネによる福音書14章15~31節

ヨハネによる福音書14章15~31節

2022.6.12 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第2(三位一体)主日礼拝
磯部理一郎牧師

14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 

14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。

 

14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。14:30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。14:31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

 

 

説教

はじめに.「わたしはある」(出エジプト記3章16節)

先ほど、旧約聖書出エジプト記3章7節以下を朗読いたしました。何度も繰り返しご紹介した個所です。これがヨハネによる福音書に登場する主イエスが誰であるか、その本質を証言しているからです。旧約聖書の神が、ご自身をモーセに自己啓示した場面です。7節以下は、アブラハム、イサク、ヤコブの神が「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し(中略)彼らを導き上る」と自己啓示して、ユダヤの民の救済を宣言します。ここで意味深い表現は、神は「わたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」とありますように、人々の苦しみや痛みを知る神として自己啓示されています。だから、「それゆえ」に、天から地上に降って民を救い、しかも民を地上から天へと導き上る、と宣言します。神の救いの原点は、民の苦しみと痛みを知る神の愛にあります。その民の救いの使者として、神はモーセを選び、民を解放する指導者として、お立てになりました。

ところが、モーセは、突然、天上から地上に突入する神の啓示に、戸惑いと恐れと動揺の中で、いわば「あなたはいったい誰なのですか」と、まだ見ぬ神に問います。すると、<神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」>とお答えになりました。神は「わたしはある」という者である、とご自身のお名前をお示しになられました。「わたしはある」とは、ヘブライ語では「ハイヤー」という字で「ヤハウェ」の語源であり、七十人訳聖書のギリシャ語訳ではこれを「エゴー・エイミ」と訳しました。モーセは、この神の名のもとに、ユダヤの長老たちを招集して、「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と告げ、エジプト脱出を開始します。

まさに主イエスは、この神のお名前をそのまま「わたしはある」と名乗り、ご自身が神であることを自己啓示され、その「神」である力あるしるしとして、ラザロの復活を初めとする数々の奇跡を行い、多くの人々を癒しお救いになられました。しかし「わたしはある」とする「神」の本当の救いとは、受肉した「神」である主イエスご自身において、その受肉したお身体において人間本性の全てを背負い、「神の小羊」として、十字架の死において贖罪を果たして、復活をもって死と滅びに対する勝利の栄光を遂げることにありました。主イエスにおける「神」は、処女マリアより人間本性を受けて担い、十字架の死に至るまで人類の罪を完全に償い、神への従順を貫き、人間本性を罪に支配された死と滅びから解放し、復活という永遠の命のお身体をもって新しい人間本性をご自身に背負いつつ、栄光と勝利のうちに天に昇るのです。こうして人類の新しい人間性は、主イエスの十字架の死と復活による栄光のお身体のうちに、与えられ、担われています。それゆえ人類の本来の国籍は、栄光の十字架と復活のお身体のうちに担われ、天に昇られたので、キリストの身体として「天」にあるのです。主イエスにおける「神」の力のもとで、十字架と復活の栄光のみわざを貫徹した主イエスにおいて、全人類の人間性もまた、主イエスと一体の身体として、十字架の死から復活の栄光を遂げ、そこに民の完全な救いの導きを実現したのであります。

それゆえ、天上に昇られた主イエス・キリストの栄光とお身体は、天地を串刺しにするように貫き、地上に残されたわたしたちの身体を一つにするために、そしていつも主イエスとわたしたちとが一緒にいるようにするために、父から聖霊を遣わしてくだいました。聖霊は、主イエスによる天地を貫き神と人類とを一体に結び合わせるもう一つの助け主として地上に遣わされ、降臨したのであります。主イエスは、「14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」と弟子たちにお約束なさったのです。こうしてペンテコステの聖霊降臨を迎えたのです。このように、聖霊は、天上のキリストの人間性とそのお身体を、地上のわたしたちの人間と身体を一体に結び合わせる「別の助け主」として、天から地に降臨したのです。父と子のもとから天地を貫いて働くこの聖霊の働きとその恵みにおいて、地上のわたしたちは、天上の栄光あるキリストの身体と人間性に、人間性においてもその身体性においても、一体に結び合わされて、同じキリストの身体として永遠の命に招き入れられ、生きるのです。その天上のキリストの身体における救いを、地上のわたしたちの身体の救いとするために、聖霊は父から子の願いを通して降臨したのであります。主イエスご自身が「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」(14章20節)と言われた通りであります。ついに、ペンテコステを迎えて、わたしたちは聖霊の働きと恵みに満たされて、天地を貫いてキリストの身体と一体に結合され、「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」ことになります。聖霊の恵みに与ることで、このキリストの救いの恵みの意味と力は実現し、よく分かるように自覚され、実感することが出来るようになったのです。

 

1.「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(15節)

主イエスは「14:15あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と言われ、真実な愛は、「わたしの掟を守る」という新しい形となって生まれる、とお教えになりました。愛も信仰も、そのままで終わらずに、その果実として、新し生命とそれに相応しい生の形を生み出す、ということでしょうか。「わたしを愛する」ことは「わたしの掟を守る」ことですが、具体的に、どのようなことなのでしょうか。主イエスは24節で反対に「14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と言われていますので、明らかに「わたしを愛する、わたしの掟を守る」とは、「わたしの言葉を守る」ことであり、主のみことばに聴き従うということを意味すると考えられます。わたしたちの出来る主を愛する愛し方は、そしてわたしたちの最も優れた掟の守り方とは、ただ只管に、主を信頼して謙遜に、主のみことばを聞き続けることにある、ということになります。

主イエスご自身が弟子たちに語られた主のみことばは、実際に弟子たちにも聞き取ることができ、また理解できる具体的な音声言語として語られました。それはヘブライ語から派生したアラマイ語でありましたが、実際に弟子たちに語られた主のみことばは、さらにそれを聞いた弟子たちによって誰もが共有して読むことのできる「証言記録」としてさまざまな形で伝承され、いくつかの福音書が生まれ、ついに教会のために「聖書」正典として保存され、現代に伝えられています。したがって後代のわたしたちからすれば、「わたしの言葉を守る」とは、聖霊に導かれつつ、「聖書」から主イエスのみことばを聴いて、主イエスのお身体である「教会」の歴史を通して、正しく聞き分けてゆく、ということになります。

 

2.「その人にわたし自身を現わす」(21節)

さらに意味深い点は、「14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と主イエスは教え、主イエスのみことばを聴くことは、即ち「父」のみことばを聴くことに直結しており、そのまま「父」の愛を受けることになり、したがって主のみことばを聴くことは、「父」と「子」から愛を受けることになる、というのです。ここでしっかり覚えておきたいことは、みことばを聴くことは、そこで、直ちに「父に愛される」という神の根源的な愛のみわざのうちに入れられることである、と説かれていることです。聞き落としてはならない点は、みことばを聴く、ということの中に、父と子による神の一致した愛の行為が、しかも能動的で永遠なる神の行為が引き起こされ働いているという点です。

このみことばのうちに、神の方から力強く現臨して働き、永遠の愛のみわざを行われるのですが、それを主イエスは、さらに真実な意味で「その人にわたし自身を現わす」と言われます。「その人」即ち主のみことばを聞き入れて守る人に「わたし自身を現わす」とは、神が主のみことばを通して永遠の愛のみわざを行うことですが、具体的にはどういうことを言っているのでしょうか。塚本訳によれば、(だからわたしを愛する者だけが、わたしを見ることができるのだ。)と加えています。17節では「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」と言っています。先週の説教から言えば、まさに父と子は神として相互に内在し合う関係が明らかにされます。そうした父と子の相互内在性に加えて、主イエスはさらにご自身における主イエスと弟子たちとが相互に内在し合うようになる、と宣言します。つまりわたしたちが主イエスのうちにあり、主イエスがわたしたちの内にあることを可能にする、と言われるのです。

少し複雑で分かりにくいかも知れませんが、ここでは、二重に重なり合う相互内在性が告知されていることになります。一つは、「わたしが父の内にあり」と言われていますように、「神」として、即ち「三一論」として、父と子と聖霊が、愛の交わりのもとに、相互に認め合い受け入れあって、相互に内在し相互を共有し合う。それによって永遠に一体の神のとして現臨する、という「神」としての相互内在性です。ニケア信条では、父と子と聖霊が「同質本質」(ホモウシオス)として言い表しました。もう一つは、「あなたがたがわたしの内におり、っわたしもあなたがたの内にいる」と言われていますように、受肉したキリストのお身体において、つまり「キリスト論」として、御子である「神」の本性と、罪を除いてはわたしたち人間と全く同じ人間性を受けた主イエスにおける「人」の本性とが、神の永遠の愛のもとに「神」は人を愛し、「人」は神への従順と義を貫き、相互に認め合い相互に交流し相互に共有し合って、一体であることを示してします。カルケドン信条では、キリストにおいて、神性と人性とが「非分離かつ非混合」と言い表しました。言い換えれば、ヨハネはこのキリストのみことばを通して、明らかに三一論とキリスト論を同時に語っているのであります。「その人にわたし自身を現わす」とは、そうしたキリスト論を基とした三一論を展開しているように思えて仕方ありません。

さらに話を進めまして、9節では「しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きる(za,w zw/)ので、あなたがたも生きる(za,w zh,sete)」からです。この19節をリビングバイブルは「もうすぐ、わたしはこの世を去りますが、それでもなお、いっしょにいるのです。わたしは再び生き返り、あなたがたもいのちを受けるからです。」と訳しています。さらに塚本訳は「もう少しするとこの世(の人)はもはやわたしを見ることができなくなるが、あなた達は(間もなく)わたしを見ることができる。わたしは(死んでまた)生き、(それによって)あなた達も生きるからである」と訳しています。19節の「わたしが生きる」ので「あなたがたも生きる」は、どちらも、確かに「未来形」が用いられています。これを語られた時点は、主イエスはまだ十字架につけられ死んではおらず、死の前のことであり、ましてや復活の前のことですので、未来形で語られるのは当然なことです。文法よりも、文の意味から申し上げますと、どちらかと言えば、ここからは時間の概念よりも、いわば時間を貫通する強い「意志未来」の形として、神の強いご意志を読み取ることができるのではないでしょうか。ここでは、神の強い意志においては、今という時そして後の未来の時という「時間」の概念を突き破り、永遠的な同時性として、現在と未来とが一つとなることが語られています。そればかりか、「時間」の概念を打ち破るだけでなく、また「天」と「この世」とを貫通して空間の限界をも打ち破るように、先取りされた「終末論的現実」が語られているように思われます。この時空を超えた打破を可能にしている中心こそ、受肉のキリストとして現臨する神人両性を担う主イエス・キリストのお身体であります。受肉した神である主イエス・キリストのお身体において、その一点で、天地は串刺しにされて貫かれ、永遠と時間の壁は打ち破られて交流し始めたのです。時間と空間を貫通する終末的現実です。

「その人にわたし自身を現わす(evmfani,zw evmfani,sw)」とは、狭義に言えば、これからすぐに起こるキリストの死と復活と世における復活顕現を未来形で告知しています。主イエスは、十字架に死んだ後に復活して、弟子たちに復活のお姿を現す、ということを先ずは意味します。しかしそれに続いてさらに、主イエスは「あなたがたも生きる」(リビングバイブル:あなたがたもいのちを受ける、塚本訳:わたしは死んで生き、それによって、あなた達も生きる)と言われています。ただイエスさまだけが十字架の死から復活してお姿を現す、というだけの意味ではなく、わたしたち人間もまた主イエスと同じように復活して永遠の命に至る、という終末時に完成する救いの約束を宣言します。したがって「わたし自身を現わす」とは、さらに深い終末論的な意味を先取りしているように思われます

ですから、みことばを聴くということの中に、終末の出来事がそっくりそのまま先取りされ、豊かに現実のこととして包含されているのです。キリストのみことばを聴くことを通して、またみことばにおいてキリストは天地を貫き現臨して働いておられ、そして地上と時間の中にいるわたしたちは、みことばにおいて現臨するキリストのみわざにより、天上と永遠のうちへと招き入れられ、空間と時間を超越して、主イエスのお身体と一体とされ、復活のキリストの身体に造り変えられてゆくのです。主イエスは、ご自身が語られたみことばを通して、そのみことばのうちに現臨し、わたしたちにご自身を現わして差し出すのです。言い換えれば、神が人を愛する最も幸いな形は、その人に「わたし自身を現わす」ことである、と読むことも出来そうです。

 

3.「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(10、11節)

主イエスは、「その人に」即ち主のみことばを聞く人に、「わたし自身を現わす」と仰せになりました。しかしさらに踏み込んで、ここで言われる「わたし自身」とは、どういうお方を意味しているのでしょうか。さらに詳しくこの意味を聞き直す必要がありそうです。父と子との関係について、少し前のヨハネ証言に戻りますと、「父を見せてください」と言って、主イエスに迫る弟子フィリポに対して、主イエスは「14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」と言って、答えます。主イエスにおいて「神」は働いており、主イエスの語る言葉はそのまま「神」である「父」の語る言葉なのです。主イエスにおいて、また主イエスの語るみことばにおいて、或いは主イエスの全ての行為は、そのまま直ちに「神である父」ご自身が行う神の行為そのものである、と表明されています。

つまり、主イエスはご自身を「わたしはある」と名乗って、「神」そのものをご自身において現わし啓示したのですが、主イエスにおけるその「神」にさらに深く踏み込んで、「父」と「子」とは一体の「神」として、現臨し働いている、と告げます。11節でも「14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と繰り返して言われます。いわば、父と子と聖霊における天的な神としての一体性が、地上においても主イエスを通して現わさられている、と言ってもよいのでありましょう。受肉者イエスにおいて現臨し啓示された「神」は、まさに父と子と聖霊という三者が一体の神として地上において現わされて、働いているのであります。つまり、主イエスにおける「神」は、御子としての神であると同時に、父と子と聖霊よいう三者一体の神として、三位格が相互に内在共有し合う一つの神として、ここに啓示されているのであります。父は子の内に、子は父の内に内在するのです。これを、父から子は永遠に生まれ、聖霊は父から永遠に発出する、と古代の教理は定義しました。こうした神の視点から「わたし自身を現わす」という意味を考えますと、それは、ただ単に復活して栄光勝利のお身体を弟子たちに顕現されることは元より、弟子たちとその教会に対して、さらに深い奥義として、主イエスはご自身における「神」そのものを、父と子と聖霊が同一本質の「神」であるとして、即ち主イエスにおける三位一体の神を、より深い意味で自己啓示しようとしたのではないか、と言えましょう。主イエスの到来も、聖霊降臨も、このように、神の内側から見ることもできるのではないでしょうか。そしてその神の内在交流の本質から、ご自身を外化し啓示され、歴史という時間とこの世という空間の中に突入したのであります。「父を見せてください」と言ったトマスは、主イエスにおいて、既に完全に「神」を見ていたのに、それどころか、主イエスにおいて、父と子と聖霊が一体に働く神のご自身を既にで合っていたのに、その重大な神の現実を信じて受け入れることが出来ず、理解に至らないまま、終わってしまっていたようです。前に触れましたように、受肉したキリストである主イエスにおいて、三一の神が力強く現臨して働き、みことばを語り、愛のみわざを行われておられるのです。言い換えれば、主イエスにおいて生ける神そのものにフィリポは直面し見ていたのです。

 

4.「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(23節)

みことばを聴き守るとは、詰まる所、主イエスにおける「神」を信じ受け入れる「信仰」に至ることであり、しかもその「信仰」において、主イエスにおける「神」ご自身が働き神のみわざを行われるのです。みことばを聴いて信じる信仰こそが、地上にある私たちが天上の救いに至る唯一の道であります。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない(VEgw, eivmi h` o`do.j kai. h` avlh,qeia kai. h` zwh,\ ouvdei.j e;rcetai pro.j to.n pate,ra eiv mh. diV evmou)。」(ヨハネ14:6)と仰せになられました。「みことばを聞く」とは、ただ人間の側のことだけではないようです。主イエスが徹頭徹尾すべての主導権をもって、神の行為をわたしたちのうちに信仰を通して行われることであり、主ご自身が自ら「命」と「真理」そのものとしても、しかも同時にそれに至らしめる唯一の「道」となって、わたしたちの傍らに共におられ導かれる、ということを意味しています。

主イエスは、わざわざ「14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る(thre,w thrw/n 保つ)」(21節)とか「わたしの言葉を守る(th,rhsij thrh,sei「遵守」)」(23節)という言い方をしておられます。それゆえ、みことばを聴くとは、聞く人が主の告知をアーメンと心に信じ認めて受け入れる「信仰」に至り、その信仰において、神ご自身が徹底して行使される命と真理のみわざに与らせていただだくことでもあります。「聞く」とは、人格全体とその中枢である魂と身体のうちに、みことばを受け入れ、「神」のみことばのご支配に対して自分自身の全てを完全に委ね明け渡すことであり、それによって、みことばを語る主ご自身が聞く人の内に宿り、永遠に共に住み、天における永遠の命の営みに「道」となって導き入れるのです。人間としてこちら側はただ信じて受け入れるだけですが、しか「神」は、みことばを通してみことばのうちに働き、信仰においてわたしたち人間の魂と身体のうちに深く宿り、永遠に住み着いて、神のみわざを行い、永遠の命の営みに迎え入れてくださるのです。

しかも、人間として受肉してみことば語られる主イエスにおいて、「神」は父と子と聖霊なる三位一体の神として共に一体の働きをもって神のみわざを行い続けます。それは、主イエスご自身が「わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」と言い表された通りであります。主イエスのうちにおける父が、ご自身のわざと働きをしておられるのですから、当然ながら、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」という完全な祝福が実現することになります。聖霊は、もう一つの「弁護者」としてただ聖霊お独りで、キリストから離れて現臨する神ではなく、ヨハネによれば、主イエスご自身のお身体のうちに現臨する一体の神としても、父と子と共に相互に共有し合う神として共に働き、わたしたちのうち深くに共に宿り、共に住まわれるのではないでしょうか。そして、キリストにおける人間性とわたしたち人類すべての人間性を一つに結び合わせて、天地を貫く一体のキリストの身体と成すのです。主イエス・キリストの神人両性の豊かで生き生きとして永遠の相互交流において、しかも主イエスにおける神の三一論的一体性により、聖霊はいよいよ私たち人類を死と滅びから解放し永遠の命による復活を成し遂げられたキリストの身体のうちに招き入れ、豊かな永遠の命の営みのもとで新しいキリストの人間性に造り変え養い育ててくださるのです。ヨハネは、このようにキリストにおける父子聖霊の神を、即ちキリスト論的三一論を生き生きと展開しているように思われます。

 

ローマの信徒への手紙2章17~29節

ローマの信徒への手紙3章9~20節

2022.7.24 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第8主日礼拝
磯部理一郎牧師

はじめに.「わたしたちには優れた点があるのでしょうか」(9節)

ユダヤ人には、神の啓示の言葉として「律法」と「割礼」とが与えられました。その時点では、確かに彼らは神と特別な関係にあり神の前に特権を得た、と言えましょう。異邦人も、創造時において「良心」という心に記された律法が与えられました。その時点で、異邦人でさえも同じように神を知りうる、と言えましょう。したがって、その意味では確かに「わたしたちには優れた点がある」と言えるかもしれません。ただし、ユダヤ人と異邦人は、一層厳密な意味で、全く同じように神を知ることが出来ると言えるのか、と言えば、やはり「律法」や「割礼」を通して、神を知るユダヤ人と全く同じレベルで、律法を持たない異邦人も、「良心」を通して、神の啓示を理解することができるのでしょうか。やはり厳密な意味で、神の啓示の言葉を知るには、律法による外に、神を知る術はない、と言わざるを得ません。したがってそのような比較においても、割礼と律法を与えられたという点で、明らかに、ユダヤ人は神を知るうえで最も神の近くおり優れている、と考えられます。

神をどこまで正しく認識できるかという点で、さらに論じますと、アダムとエバが、神に背き「罪」を犯して「楽園」を失ってしまった段階で、全人類は本性的に堕落しており、正しく神を認識して神に向き合うことは出来ない状態になっていたと考えられます。聖書は、創世記3章で人間の「堕罪」を記すと、直ちに4章で「兄弟殺し」を証言します。アダムとエバの最初の子カインは、神の前に「自分の誇り」を押し通して、その自我欲求を制御できず、弟アベルを殺害してしまいました。こうした聖書の「堕罪」とそれによる「兄弟殺人」の記述に従えば、明らかに、人類は、根源的に神の御心を写し神の言葉を聞き分けるべき創造時の「良心」を完全な形では残存することは出来なかったようです。聖書は、最初から一貫して、人間の堕罪と殺人の記事を通して、人間は罪により神による創造の恵みと秩序を本性的に破壊され喪失していたことを警告しています。それは、宗教改革者たちが主張するように、人類全体の「全的堕落」を前提に、堕罪について聖書を解釈すれば、やはり必ずしもユダヤ人と異邦人における神の啓示は同一レベルであったか、疑問が残ります。同時にまた、だからと言って、割礼と律法が与えられたからと言って、果たして堕落し創造の恵みと秩序を喪失した人間は、本性的に自らの力で、「神に対する背き」から自己を完全に解放することができるのだろうか、という疑問も残ります。

そこで、前にも触れましたが、ここで触れられる「異邦人」とは、全的堕落によって破綻した罪の現実を認めて受け入れた上で、キリストの福音によって「信仰」に導かれて、その賜物として新しい良心と新しい人間性が与えられて、信仰の戦いの内にある人々、すなわち異邦人キリスト者ではないか、と解釈することも出来そうです。異邦人は、完全破綻を前提とする「罪人」として、律法によらず、ただキリストの恵みにより信仰の光のもとで、新しい信仰に基づく良心の戦いが語られているのではないか、とも言えるかも知れません。

ここで、パウロが「優れている点は何か」と問うていますが、その根本問題は、神を正しく知るという点で、人間を本性的に破壊してしまった「罪」を認められるかどうか、その一点に尽きます。罪によって堕落し、神を神とせず自分を神に取替えて拝み仕えるという倒錯錯誤において、いったいどこに「優れた点」を認めることができるのだろうか、という問いです。異邦人の場合も「良心」が心の律法として与えられたと言っても、神の啓示を明瞭に理解することは出来ず、その意味で神を知ることは出来ませんので、罪を認めざるを得ない、ということになるのは当然です。やはり異邦人は神を正しく知らず、それゆえに偶像崇拝を犯し神に背く「罪人」であります。ただユダヤ人は、異邦人と違って、確かに「割礼と律法」が特別に与えられ、そればかりか、モーセやダビデなど数々の指導者たちや、エリヤを初めとする数多の預言者たちが、ユダヤの歴史を貫くように次々と登場し神の啓示の言葉を語り、預言者たちによって神は絶えず御心を告げ知らせて来ました。ですからユダヤの全歴史は「神の啓示」によって貫かれており、ユダヤ共同体はいつも「神の啓示」によって神の民として神の恩恵に満たされていた、と言えましょう。それは旧約聖書全体が口を揃えて明らかに証しする通りであります。だからこそ、ユダヤの民の責任は非常に重大とも言えましょう。本日のみことばの主題は、まさに神が徹底的に神の啓示のみことばをもって語り、神の御心を啓示したのですが、この神の御心とその啓示である律法や預言に対して、ユダヤの民はどのように向き合い対峙してきたのでしょうか。民の根本的な在り方が、深く根源から問われることになります。

パウロは、既に、この問題は長い間ずっと預言されており、鋭く預言者によって指摘されていたはずではないか、と改めて旧約聖書の言葉を引用して問います。それが詩編14編や53編のみことばであります。新共同訳聖書の巻末括弧付き(44頁)に「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」が掲載されています。そのローマの信徒への手紙3章10―12節の項をご覧いただきますと、詩14編1-3節(=詩53編2-4節)とあります。これは詩編14編1~3節または詩編53編2~4節から引用されたテキストであることを示唆しています。ご参考にしていただけるとよいと思います。また「LXX」と明記される引用個所は、明らかにギリシャ語の七十人訳聖書から引用されたテキストであることを示しています。本題に戻りまして、つまり古くからユダヤの人々は皆、神が民の「罪」を厳しく問題にしておれることを知っていたはずなのです。詩編14編1節以下で「14:1 指揮者によって。ダビデの詩。神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。14:2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。14:3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」とあり、詩編53編2節以下では「53:2 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」とあります。ですから、旧約聖書全体を根本から学び、その本質をよく知っていたパウロは「2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」と語ったのでありましょう。いわば、これがパウロの旧約神学です。ここに「神を知らぬ者」とありますが、さらに真意を汲んで言えば、神を神として崇めず認めないで、神を蔑ろにし神を捨てて、自分や自分の思いを神のように取替えて偶像化して仕え、ついに自己を神のように絶対化する者のことです。律法を知る人であれば、すなわち律法に表された神の御心を知り、信仰心をもって旧約聖書を日々朗読し、懺悔と憐れみを乞い求める祈りをもって暮らすユダヤ人であれば、旧約聖書全体が常に罪を悔い改めることを求めており、神の憐れみと赦しを乞い求め、救い主を待ち望むということは、誰も知り得る所でありました。それなのに、ユダヤ人たちは、律法と割礼を自分の誇る道具に取替え、権力支配のための格好の材料としたのです。神が求められた最も単純で最も重要なことは「自分の罪を認める」ことであり、「悔い改め」にありました。そういう意味で、パウロは律法を悔い改めに導く「養育係」と呼んで、旧約聖書全体の意義と役割を位置づけたのではないでしょうか。律法全体が悔い改めに導くための、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐の啓示であり、神の憐れみのあらわれとなっていたのです。それを無視して侮り、自我欲求に取替えて偶像化し神を冒瀆したのです。律法と割礼という神の恵み、ユダヤ人の罪ゆえに、重大かつ深刻な仇となってしまったと言えましょう。

 

1.「彼らの目には神への畏れがない」(18節)

「神を知る」と申しましても、いろいろな「知り方」があります。単なる知識としてただ文字の上で「神」というものを知っているということもあれば、神を生きて現存するご人格として自分のうちに認め、いわば相互の深い人格的な交わりとその生きた体験を通して神を知るということもあります。或いは、自分自身の全存在と生死がかかった所に神は厳然とおられる、言い換えれば、自分の命そのものの「生殺与奪」の審判者としておられる神を恐れる(畏れる)という知り方もあります。聖書は「彼らの目には神への畏れがない」(3章18節)と指摘します。神の「畏れ(fo,boj fo,boj)」という字は、元々は恐れ慄く恐怖することを意味します。そこから、さらに畏怖、畏敬、崇敬を意味するようになったようです。人間や生物が最も恐れることは「死滅」して自己を失うことです。存在と生死に関わる「危機」の中で、死の恐怖の感情が生まれ、同時に奇跡的に生命は与えられたという驚きをもって生を体験する、そこから畏怖する感情が生じます。つまり生死を司る根源に、超越の「神」がおられ働かれているという認識が「神の畏れ」であります。しかし人間は、生死の根源に神がおられ、神の憐れみと恵みが命に働いていることを無視して、反対に「自分」が神となって、自分の生きることも死ぬことも自己決定可能であるかのように思い上がり、生死は自己完結できると勘違いし、その結果、命と存在の支配と根拠を神から自己に取替え転倒倒錯させてしまいました。「人工中絶」は人間の自由な基本的権利であるという問題が、アメリカで再燃し国民を二分する大問題となっています。まさに胎内に生きる「胎児の人権」をどう考えるか、果たしてその命を奪う権利を容認できるのか、という命の尊厳をめぐる議論であります。近代現代の人権思想の根幹には、明らかに「人間中心の自我欲求」を大前提とする社会思想が貫かれているのではないか、という風に見えることもあります。確かに自分の命の管理者、主権者は自分自身であることは否定できませんが、ここで深く問われる課題は、そこに自らの命の中に何らかの「神」の恵みや力を認めることができるか、或いは、人間はあくまでも「神を畏れる」信仰の秩序のもとで、初めて自分の命と存在の管理と判断に関わることが可能となる、ということになるのではないでしょうか。人間の尊厳はいつも「神をおそれる」ことと背中合わせにあるのです。

創世記3章で女は「3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と蛇に答えます。神は万物の造り主として被造物全体を無から創造されました。したがって命と存在の根拠を神の創造の憐れみに依存している被造物が、どうして造り主である神に取って代わることができるでしょうか。しかし「蛇の誘惑」に心を奪われた人間は大きな勘違いを犯します。自分の欲望欲求の誘惑に負けて、自分も神のように命と存在の支配者なれる、生殺与奪の審判者になれる、自分はそれほど善悪を決する知恵があるはずだ、と考え違いをしてしまったのです。存在と命における神の主権を根本から掠め取って食べ、自分のものにしてしまう、それは、「被造物」である人間にとっては、いかにも不可能で愚かな考えである、と神が警告し語った言葉でした。「神を畏れる」ことの基本は、先ず唯一神だけが万物の造り主であり、したがって神のみが万物の存在と命の生殺与奪の審判者であることを、絶えず「おそれ」をもって知り、覚え、褒め讃えることにあります。警告注意の言葉として語られた「死んではいけないから」という神の言葉は、実に意味深い表現であって、表面的には「死んではいけない」と死の警告を言い表していますが、その奥にある真意は、神に背き神の言葉を無視して、造り主から賦与された「創造の恩恵」を失う、という重大な創造主と被造物との決定的な関係性を教えているように思われます。みことばにおける約束を破る、即ち神に背くことの問題の大きさは、ただ背くというのではなくて、命と存在に根源的に深く関わる神の創造的恩恵そのものを斥けることであり、命と存在の根拠と根源を直ちに失う楽園喪失を余儀なくされ、したがって死んで滅びることになりますよ、という致命的な警告のように聞こえます。ここには、明らかに、永遠無限の絶対者であり創造主である神と、有限であり滅びの危機を背負う被造物である人間と、したがって創造主の恵みに与らなければ生きることも存在することも出来ない被造物との間にある、絶対的「隔絶」と本質における決定的「相違」が、明らかに宣言され警告されています。ところが、蛇は女を誘惑して「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言って唆します。、蛇は巧みな誘惑の言葉により、女の良心から「神をおそれる」意識を奪い去り、その造り主と被造物との間にある絶対的に隔絶した「障壁」を否定し、本質的な神と人とを識別する障壁を破壊し、神と人とを混同させてしまうのです。本当は、ただ「神」だけが神なのでなく、実は「あなた」も神になれるのだ、と言って唆したのです。すると、女は「わたしも神になれるのか」と思い、「神」から離れ、「神」とは別に、「自己」を神に祀り上げてしまいました。先ほどの詩編の引用で言えば、「神への畏れがない」とは、まさに人に命と存在の与えた創造主と、存在と生死を神に依存する被造物と、その間にある本質的に違いや決定的な依存関係を、人間の側から一方的に破棄して神から離反したのです。つまり人は、創造主なる神の恩恵において生き存在している、という根源的な関係性を根本から廃棄してしまったのです。それが堕罪であり楽園喪失であります。この命と存在の基本原理である神に対する関係を罪によって放棄し破壊してしまった人間は、神でない自己を神のよう取替えて限定的には生きることができても、結局は根源的に死に滅びに堕ちるばかりです。そして人類史全体が現代にあっても未だに何一つ変わっていないのです。カラスがクジャクの羽をつけるように、人類はいつまで神にはなれないカラスを演じ続けるのでしょうか。このように、既に旧約聖書の冒頭が示す通り、また詩18節で引用された詩編が証する通り、創造の最初から、人類は罪に堕落して、神の創造の恩恵を放棄してしまったことは明らかなようです。こう見ますと、10節に戻りまして、パウロが説くように「正しい者はいない。一人もいない」(10節)ということが、段々とはっきりして来るのではないでしょうか。「3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。3:14 口は、呪いと苦味で満ち、3:15 足は血を流すのに速く、3:16 その道には破壊と悲惨がある。3:17 彼らは平和の道を知らない。3:18 彼らの目には神への畏れがない。」という詩編の言葉は、現代史を生きる人類にもそのまま当て嵌まる深刻な課題でもあります。

 

2. 「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになる」(19節)

こうして9節で「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」と断じたパウロは、ついに律法の担う役割について決定的な結論を述べます。「3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と結論づけました。簡単に言えば、全人類は皆、最初から、律法に啓示された神の御心を行なうことは出来ないので、それゆえ神にからその責任と課題が問われ、誰一人として弁解も言い訳もする余地はなく、結局、怒りの審判を受けざるを得ないのです。この19節を、リビングバイブルは「神様のおきてを守る責任があるのに、守らず、こうした悪事にふけっているからです。 彼らのうち一人として、申し開きのできる者はいません。 事実、全世界が全能の神様の前に沈黙して立ち、有罪の宣告を受けているのです。」と訳しています。とても分かり易い、意味のはっきりとした訳となっています。

このパウロの結論をめぐり、先ず注意したい点は「すべての人の口がふさがれて」という言い方です。そのあとでも「全世界が神の裁きに服する」と言っています。さらに言えば「だれ一人神の前で義とされない」とまで言い切っています。「すべての人」「全世界」そして「だれ一人」と言って、パウロは人類全体を完全否定します。否、人類のみならず「全世界が神の裁きに服する(u`po,dikoj ge,nhtai pa/j o` ko,smoj tw/| qew/|)」と言い、被造物全体をも含めて完全否定します。欽定訳は、“all the world may become guilty before God” 即ち「全世界は神の前に有罪となる」と訳しています。つまり人類万物皆全てが、神のみ前で有罪であると断罪します。何もかも、神に対して、神を知り神を畏れるという点では、弁解の余地は全くないということになります。

パウロは、どうしてこれほどまでに全世界を完全否定するに至ったのでしょうか。それは、もう少し聖書の先を読みながら詳しく述べますが、余りにも「神の福音」が絶大であることを知ったからではないかと思います。本当の意味で「神」の大きさを知ったからではないか、と思います。別な言い方をすれば、それほど「神の福音」における恵みには、分け隔てや偏りがなく、まことに公正と公平に徹底しており、完全に万物を満たしてしまっていることが分かったから、でありましょう。神の福音には、差別や偏りがなく、完全に全ての存在に対して平等であり完全であり、開かれているからです。あなたに対しても、わたしに対しても、どんな人にも、どんなものにも、「神の福音」は完全に開かれており、すべてを完全無限に満たして余りある絶大な恵であることに気付いたのであります。キリストの十字架の死と復活は、それほど大きな創造的な爆発力を持っているのです。「神の力」それも神のダイナマイトのような爆発力で世界宇宙を吹き飛ばしてしまうかのように、万物の隅々に神の新しい創造と命の力を浸透させてしまったことを知ったからです。いわば、律法を完全実行して神の義に至るという観点から言えば、人類は、堕罪ゆえに、死と滅びの中に閉じ込められたまま死と滅びの運命を辿るばかりであります。自らの力によって自己を解放することも出来ず破れ果て絶望の中で、自分自身においても死と滅びの転落を辿りつつ、その後に待っている決定的な運命は、神のみ前で有罪の宣告を受けて神の完全否定を余儀なくされるばかりであります。しかし反対に、キリストの福音の恵みにただ信仰によって与りいただく、という「恵み」の観点から言えば、神の御子が十字架の死に至るまでご自身の内にわたしたちを丸ごと徹底的に背負い、どんな罪であろうと人類の罪を完全に償い、しかも神への従順を貫き通して神の義に勝利してくださいました。神の義は「御子の十字架における恵み」として与えられ、御子の十字架の死による従順と贖罪の恵みにより、万物は神の義という完全肯定に包まれ新たな祝福を与えられ、「復活」という新しい創造の秩序のもとで「永遠の命」によって新生したのであります。十字架の死における贖罪の力は無限であり、罪の大小の違いや人種は元より身分や学歴など一切合切の全てを超えて、一切関係なしに、万物を贖い包む爆発的な力であり、万物を完全に創造して回復する神の創造の恵みであります。そういう贖罪の恵みの大きさから言えば、罪の大小の差別区別を超えてしまっているのです。皆罪人であるが、しかし同時に皆罪赦された義人となる、ということになります。

しかし案外このキリストの福音の大きさを、わたしたちはまだ十分に知らないのではないでしょうか。人間はどんな人も、罪という神の審判のもとでは皆平等であり、神の前で有罪の宣告を受け完全に否定されています。しかしわたしたち人間の気持ちから言えば、どうしても「自分」を中心に考えたいのです。自分を言いたいのです。神を仰ぎ見る垂直的な態度ではなく、人間同士の比較に基づいて物事を見ようとすれば、罪にも大きい小さいの違いがある、或いは救いの信仰にも、大小の違いがある、と誰もが思うのです。それは、神に対して罪を犯している、という罪の決定的な意味がまだ十分に分からないからであります。時には、あの人は神に裁かれたのだ、と言って、自分が神に認められたかのように思い込むことすらあります。自分が審判者のようになっていることを自覚しないまま、他者を神が審判したかのように思うのです。しかし本当は、神に対して罪人であり、有罪宣告を受けている点では、自分も他者も全く同じはずです。したがって当然ながら、神から罪を赦されたという救いの恵みもまた正しく理解できないのです。すべては人間の中だけでしか見えていないからです。自分はあそこまでは酷くはないぞ、あれは論外だなどと言いたくなるのが人情ですが、人間は皆だれもが、自分の世界の中に閉じこもり自分だけを特別扱いにしたいのです。少しは自分を認めて欲しい、自分にも言い分や事情がある、それは違う、と思うのです。しかしそれはあくまでも人間同士の話であって、神に対する根源的な罪と堕落の話とは全く異質であり、神に対して罪赦されて新たに生きるという神の恵みの話では全くないことです。神に対することと人間同士のことでは、質でも量でも、全く違う話であります。先ほど創世記3章を紹介したように、神の創造の恩恵を放棄してしまった人間の堕罪によって、その創造の恵みの放棄と破壊は、神のみ前では、人間だけに止まらず、被造物全体にまで及び世界を巻き込んでしまいました。まさに神に対して、被造物全体を巻き込んですべてを破壊し汚してしまった、それが自分の本質なのだ、ということがよく分からないのです。神に対するおそれを知らないとは、そういうことであります。それは同時に、神に対して永遠の命をもって新たに生きるという新しい創造的な人間性の可能性も、その絶大な恵みの力もまた思いつかないのではないでしょうか。全地全能の創造主である神が、完全絶対の愛と憐れみを尽くして創造した世界であり、被造物世界であります。その神の無限の恩恵の秩序を放棄し破壊したのです。これは、人間一人一人の個人差をどうこう言い分けるようなレベルの問題ではないのです。同じように、神の福音の前には、救いの大きい小さいは全くなく、神の御子による十字架の救いは永遠完全であります。

ではなぜ神は、それなのに、敢えてユダヤ人に文字の律法を与え、異邦人には心を律法を与えたのでしょうか。改めて律法の役割に議論が戻ります。「それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」とパウロは述べてその真相を明らかにします。文字や心の律法が与えられた意味を整理しますと、第一に、神の背きの事実に対しては全く弁解の余地なく、したがって有罪の宣告を受けていることを認めることです。つまり「神の前に有罪宣告を受ける」のために、神の律法は民を断罪する審判者として働いている、ということになります。第二は、創造の恩恵を放棄して楽園を失った人類は、その堕落ゆえに律法に啓示された神の御心を実行することができないので、自分の力では問題解決ができず、破綻して絶望し、自分の「破れ」を知り認めるようになるための道程として働いています。第三に、律法を行えず、有罪宣告を受けることで、初めて人類は心のうちに「神」に対する「罪の自覚」が生じるのです。つまり「罪の自覚」に導くために律法は与えられた、ということになります。言い換えれば、自己中心の心を捨てて、神に対して心を開き神の啓示の言葉を待つ準備が与えられるのです。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(dia. ga.r no,mou evpi,gnwsij a`marti,aj)。」と記されていますが、この罪の「自覚(evpi,gnwsij evpi,gnwsij)」という字は、「厳密で正確な認識」を意味します。動詞では「しかと見届ける、識別する、知り尽くす、深く洞察する、承認する」という意味です。つまり「罪の自覚」とは、厳密で正確な罪の認識に基づいて神に対する罪を承認することを意味します。新共同訳と口語訳は「罪の自覚」と訳し、新改訳は「罪の意識」と訳しています。重要なのは、「罪の自覚」とは、神に対してどのような罪を犯しているか、正確かつ厳密に認識し、神に対する自分の罪を承認して受け入れるのでなければならない、という点です。この神に対する正確かつ厳密な自分の罪の承認に導くことこそ、まさに文字と心の律法の担う役割であったのではないでしょうか。そしてこの厳密かつ正確な罪の認識の根幹を中心から担う自覚は、自分の力に依り頼むことの放棄であり、自分を特別扱いしてほしいという自我欲求の断念であり、その空しさ無意味さの承認であります。しかしこれは同時にまた、余りある神の福音の大きさ豊かさ、神の恵みとはどのようなものか、その本質を知り、本当の意味で神を神として認めほめたたえる道となります。全くこの世のもの、人間的なものは一切通用しない世界である、ということです。極論すれば、神の義を得るという点では、自己の全てに破綻し絶望する罪の自覚であり、そして自己中心から神の恵み目が開くことで獲得される新しい認識の出発点であり、その承認是認であります。律法を通しては、人は神に対する罪を厳格厳正に認識し承認し、御子の十字架の死と復活においては、本当の神の恵みを「恵み」として正しく認識して受け入れ、そして神を本当の意味で神と崇める出発点となります。大事なのは、神の福音を福音とする、神の恵みを恵みとする原点が、罪の承認というこの完全な自己破綻を受け入れて承認する罪の自覚にあり、救いは人間のうちにはなく、ただ神の恵みによることを知るのです。罪の自覚は、キリストの十字架における死を知れば知るほど、一層はっきりと、罪は厳密に正しく認識され自覚されるようになります。反対に、いつまでも自分を認めて欲しいと拘泥すればするほど、恵みを知る原点と場を失うことになります。ですから、神が有罪を宣告するのも、それによって罪の自覚が生じるのも、根本は、神の恵みを恵みとして受け入れる道をわたくしたちの心のうちに開いてくださるためであります。どこかまだ自分を認めて欲しい、どこかまだ自分の見どころがあるのではないか、自信や自分の誇りが残存すれば、それは堕落した人間の世界に堕ちたまま、しかも神なき人間世界の中で彷徨い続けるのであり、神の福音を恵みとして見上げる原点には至らないからです。「信仰」に至らず、人間だけの世界にとどまる、ということになります。

 

3.「聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」(1章2~3節)

「神のおそれを知る」ということには、恐怖と畏敬という二重の意味があることはお話した通りです。一方で、律法を実行するという観点から言えば、人類の神に対する背きの罪に有罪宣告し全人類に審判を下し完全否定する「怒り」の神として恐怖を覚えます。そこには、底なしの死と滅びの恐怖が拡がります。しかし他方で、神の御子が十字架の死に至るまで、ご自身の全身全霊において全人類を丸ごと背負い、神への従順を尽くし全人類の罪を償い、その肉体の復活において全人類に永遠の命を齎します。そこには、完全無限なる「罪の赦し」と爆発的な創造回復の力が漲り溢れます。それはまさに神を畏怖畏敬する畏れであります。パウロは冒頭の自己紹介で、「1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」と告げています。改めて読み返してみますと、明らかに、律法の担う役割は「聖書の中で預言者を通して約束されたもの」であり、「御子に関するもの」を啓示する働きを担っていたと言えましょう。ある意味で、人類史やユダヤ人にとっては、とても長い旅路であったと言えるでありましょう。人類はその歴史を通じて常にわが内なる「良心」と格闘しては破れ、未だに問題解決に至ってはいないのです。ユダヤ人とて律法や割礼を与えられながら、やはり律法に破れ、結局はそこに啓示された神の御心を生きることは出来ずにいます。神は、長い間、ご自身を否定し自我を偶像化し拝み仕えてきた人類の「罪の自覚」を寛容をもって忍耐し、求め待ち続けておられたのではないでしょうか。そうした人類が罪との長い格闘と破れを繰り返す中で、神は「キリストの時」を準備されたのではないでしょうか。そしてついに今や、律法とは別に、キリストの十字架と復活において、無限に働く爆発的な創造の力によって、死者が甦るという新しい創造の力を現わすのであります。

ローマの信徒への手紙3章1~8節

ローマの信徒への手紙3章1~8節

2022.7.17 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第7主日
磯部理一郎牧師

はじめに. 「神は天から怒りを現されます」(1章18節)

パウロは「1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(1章18~23節)と言って、人類の全ての倒錯錯誤を告発し、神の怒りが現されていることを告知しました。神の怒りは、同じように、ユダヤ人にもギリシャ人にも、そしてわたしたちのようなアジアの日本人に対しても、現わされています。文字の律法を持つユダヤ人も、或いは、心の律法を持つ異邦人に対しても、神は真理に従って正しくお裁きになるのです。

特にわたしども日本人には、神の怒りや神の裁きが現されている、と言われても、余りピンと来ない話のようです。余り厳密に、神を知る、ということを、特に神の啓示ということを正しく考え直すことのなかった土壌ですから、ある意味で仕方ないことかも知れません。神のことばを聞いて、そこから、強い緊張や危機を感じることは出来ないようです。その一番の原因は、偶像宗教や偶像文化の中に余りにもとっぷりと漬かり過ぎてしまって、自然のものを神々として偶像化して拝み、偶像礼拝の生活は日常生活に浸透しており、日常的な偶像生活の中で、「神」という存在を根本から鋭く意識することは出来なくなっているのかも知れません。日常的に偶像化されたこの世の欲望欲求にとっぷり漬かって暮らす偶像生活の中で、いきなり「天」からしかも「神の怒り」が現されている、と言われても、よく分からないのです。所謂「偶像」を神々とする諸宗教は、神々や仏も皆すべて、この世の自然の営みの中に生起する宗教現象と捉えて来たからでありましょう。仏も神々もこの世や自然界から「隔絶した超自然」という概念を明確に持っていないせいかも知れません。その結果、自分たちや自然界を超える「超自然の世界」を余り厳密に意識して考えることはなかったのではないかと思います。自然の大きな力に神々を見出して来たと言えましょう。その結果、「超・自然」と言いましても、それは自然そのものの内に還元してしまうのではないでしょうか。どちらかと言えば、出来るだけ神々は、仏さまも含めて、日常生活の中に同化し混在するようにこの世の日常生活のすぐ近くに暮らしており、自分の欲求や願いは、そのまま、日常的に偶像の神々と化して肯定され、絶対化されてゆきます。いわば、世俗の中に生活する私たち自身と、聖なる超越の神との「区別」やその「異質性」を本当の意味で知らず認められない、と言うべきかも知れません。

カール・バルトの所謂「ローマ書講解」を読みますと、この「天」と地、「永遠」と時間、「彼岸」と此岸という質的に異なる二世界が強調され、神の絶対的な「超・自然性」が、非常に強く印象づけられます。そしてこの天と地の関係について、その本質的異なる関係を強調する基本概念は、創造主なる神と被造物なる自然という信仰です。したがってわたくしたち日本人の宗教意識を顧みますと、「障壁が障壁たることを承認されず、そのためにいつまでも障壁たることをやめない」(『カール・バルト著作集14』吉村義夫訳, 1974, 67頁)ということになりそうです。いわば、万物の創造主である絶対的な神と、被造物である相対的な世界との間には、決して超えることの出来ない決定的な「障壁」があり、私たち人類は先ずその本質的な「障壁」を容認するよう訴えています。神の福音の啓示が、キリスト教というこの世の宗教の形をって、人間の思想や欲求の内に深く飲み込まれ支配されてしまい、いわば人間の欲望と支配の内に、人間の手で別の神を造り上げてしまい、キリスト教を人間中心のものに変えてしまい、その結果、人間を根源から打ち砕く絶対者なる神不在の道を選び続ける、その「危機」を痛烈に指摘します。ニーチェは「神は死んだ」と悲痛な叫びをあげましたが、「神は死んだ」のではなくて、「神を殺した」のだ、と言うべきでありましょう。近代精神による神は、啓示の神ではなく、人間の手で造られた理想と感情の中に閉じ込めてしまったキリストに取替えられたのです。その結果は、誠に悲惨でありました。キリスト教国同士が大量殺戮を繰り返す世界大戦に突入してしまいました。そして21世紀の今も、その道は変わらないようです。それどころか、戦争の最終的抑止兵器と見なされていた核兵器は、今まさに世界規模で地球を破壊壊滅させてしまう可能性の危機を迎えています。超越の神の怒りと裁きの危機の前に瀕して、人間が打ち砕かれて悔い改め、謙遜に神の啓示の言葉を改めて聴き入れ、絶対者なる神を認めて受け入れることが期待されます。神の啓示に基づく福音を回復するのです。それには、人間中心の近代主義が打ち砕かれて、唯一真の絶対者である神の啓示の言葉に耳を傾け、謙遜に聞き従うのでなければなりません。バルトは「人間が自己自身の神となるなら、次には必ず偶像神が現れる。そして偶像神が崇められると、次には必ず人間がみずら真の神、すなわち神のこの創造物の創造者であると感じる。」(前掲書56頁)と断言します。今人類に一番求められること、それは限界を認め受け入れて、神の啓示である神のことばに謙遜に心を向けることでありましょう。

自己自身の欲求欲望をそのまま偶像化して拝みそれに仕える、という偶像生活を日常的に享受する日本社会の中にあっては、残念ながら、改めて神の怒りの前で審判の危機を迎え、打ち砕かれて目を覚まし、謙遜に神の言葉の真実を認め受け入れる、ということは容易なことではないように思われます。クリスチャンであると申しましても、またキリスト教会であると申しましても、宗教構造としての基本的な枠組みは、外見上は十字架が立つキリスト教に見せても本質は偶像教そのものにすぎない、という宗教構造の本質は余り変わらず、今も現実にそれはいくらでもあります。ある方が、かつて、日本のキリスト教のことを「日本教キリスト派」と呼んだことがありましたが、まさにそれが実態でありましょう。そうした現状を覚えますと、やはり、バルトの教えるように、徹底的に超越絶対の神とこの世との隔絶性、しかも神の造り主としての絶対的主権という視点を常に見つめ続けることは大きな意義があります。そこから、神のみことばを啓示の言葉として聞き直すのであります。

 

1.「彼らは神の言葉をゆだねられたのです」(2節)

パウロは、いよいよ福音の中核に触れます。福音の中核とは、言うまでもなく神の啓示の言葉です。「3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられた(evpisteu,qhsan ta. lo,gia tou/ qeou/))のです。3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。」(1~4節)と告げ、「神の言葉」について解き明かします。おそらくパウロは、割礼や律法には、神の啓示の言葉が託されており、神の啓示こそ律法と割礼の本質ではないか、と言いたいのではないかと思います。単に文字や外見上のしるしではなくて、その中心に、その本質には「神の御心」が託され言い表されている。しかも律法や割礼の中心に、神の福音の約束が啓示されていたのではないか、と説きます。先回りして言えば、御子の十字架と復活による救いのご計画が啓示され約束されていたのではなかったのか、というのです。それなのに、あなたはなぜ、神の真実とその救いの約束を証しせずに、自分の誇りを証しする道具に利用してしまうのですか、そのためにあなたをお選びなられた神に対して、それは余りにも不誠実なことではないか、と問うのです。特に意味深い点は、パウロが「神の言葉をゆだねられた」という表現に敢えて言い換えています。「神の言葉がゆだねられた」という言い方には、二重の深い意味があるように思われます。一つは、律法や割礼をその本質において「神の言葉」と言い換えたことです。人間の宗教儀礼ではなくで、神の啓示の言葉が、神の福音の約束がその中には誠実に生きて働いている、ということになります。もう一つは、その神の福音の約束の言葉に対して「ゆだねられた」と言い換えます。この「ゆだねられた(pisteu,w evpisteu,qhsan)」という字には、「信頼をもって与える、或いは信仰をもって受け入れる」という字が用いられています。敢えてその意味を丁寧に申しますと、「本人の主体的で自由な意志にしっかり基づいて、人格の限りを尽くして信頼し委ねて託す」という意味になります。前回、ドイツ語の「責務」(Aufgabe)という字は、「賜物や恵みの上にある、賜物や恵みに基づく」という字で出来ていることをお話しましたが、それは、恵みに与ること、その賜物自体の中に背負うべき責任責務が生じていることを意味します。神の言葉をゆだねられた、ということは、神との深い交わりと信頼において神の言葉を委ねられたのですから、神の信頼とその意図をよく汲み取って、自ら主体的な意志と確信をもって忠実かつ従順に、神の御心と福音のご計画を証しして伝える責務を負うことになります。したがって、本来、誠実に応えるべき課題(Aufgabe)を怠れば、それは神に対する不誠実であり、侮りであり、裏切りとなるのではないでしょうか。

それだけはありません。もっと重要なことは、しかもそこに託された課題が「神の言葉」であるということです。パウロは「律法」と「割礼」をその本質を担う性質から、わざわざ「神の言葉をゆだねられた」と言い換えて表現していました。律法や割礼が与えられたのは、神の言葉を委ねられたことに外ならないのです。神の言葉ですから、それは神の啓示そのものです。人類に対する神の御心が表明されており、神のご計画や約束のすべてが、そこに込められ、宣言されているはずです。したがって、神の言葉には、神の救いのご計画を約束して実現する神ご自身の啓示が言い表されています。神ご自身とそのご決断とご計画に対して、神の恵みとして感謝して受け入れ、信仰をもってその恵みに基づく奉仕と実践が求められます。だから「委ねる」即ち「信じて受け入れる」という字でパウロは言い表したのです。このように、誠実にそして従順に信仰をもって応答する中に、そうした神と民とが信仰と信頼で結ばれゆだねられるという実質こそが、神との特別な関係の基礎となるはずです。律法や預言とは、そのように、神がユダヤの民に委ねられた神の福音の約束でありました。ユダヤの民は、律法に込められた神の隠されたご計画とその御心を自らの肉体に刻まれた割礼をもって証しするよう求められたのです。しかし割礼や律法を換骨奪胎して、神のご計画である福音の約束を捨てて、自我欲求の偶像と取替え、ただ自分を誇るためだけの道具となし、神の名を自分の権力支配を担保する道具に悪用してしまいました。その事例は。既に前回ご紹介しましたように、政治的支配者のヘロデや宗教的支配者のカイアファに見られる通りであります。そしてわたくしたちのキリスト教会も、絶えず誘惑と堕落の中で、そうした危うさを禁じ得ません。

 

2.「不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」(3節)

悲しいかな、宗教としての現実は、人類の不誠実により、神の言葉は侮られ、汚されてしまったわけであります。しかしパウロは、さらに大事な点を明らかにします。それは「神の誠実」とその確かさであります。彼は3節で宣言します。「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ(ti, ga.r* eiv hvpi,sthsa,n tinej)、その不誠実(h` avpisti,a auvtw/n)のせいで、神の誠実(th.n pi,stin tou/ qeou)が無にされる(katargh,sei)とでもいうのですか。3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。』」と議論を進め、本筋である神の真実と神の言葉の意義に、改めて立ち戻ります。新共同訳は「不誠実」と訳し、口語訳や新改訳は「不真実」、リビングバイブルは「不忠実」と其々訳が異なりますが、原典は「彼らが信じなかった」(avpiste,w hvpi,sthsa,n)(とすれば、どるなるのか)というアオリスト形動詞や「不信仰」(avpisti,a avpisti,a)という名詞で書かれています。用語法から言えば、明らかに、先ほどの「神の言葉を委ねられた」という言葉と同じ字を用いることで、神が人間に福音を託したその信頼の確かさに対して、神に対する人間の不信仰とが対比されています。まさに「信頼と信仰」における決定的かつ絶対的な「障壁」が対照されています。神による不動不変の誠実と、人間による絶望的な裏切りと不誠実が強調されます。邦訳聖書はいろいろな用語で訳していますが、ここでの中心となる用語は「信仰」であり、一方で神においては「信実」(吉村義夫氏の訳語に倣って)が徹底して貫かれ、他方で人間において「信仰」は失われ、偽善化され、腐ってしまったのです。神は徹底して深く民を信頼し「信実」を貫くのですが、民は神に対して「信仰」を捨てて、神の名を語り自分を偶像化し、神を侮ったのです。先ほど申しましたように、神は神の啓示の言葉をユダヤ人に深い信頼をもって負託し委ねられたのですが、しかるに、ユダヤ人たちは神の信頼に背き、神を神とせず、自分の支配欲求を満たすために自分自身を自ら誇るべき偶像の神と取替え、割礼や律法を自分のための都合のよい道具に利用したのです。神の御心を汚す背きと偽りの中で、果たして、神の福音のご計画と約束はどうなるのでしょうか。それが、最も肝心なことで、パウロは、民の不信仰から、更に深く踏み込んで、今度は「神の信実」を問題にいたします。

神の言葉を担うべき役職にある人がどれほど不義不誠実であろうと、神の誠実や真実は決して不動不変であって「信実」を尽くすものであり、断じて「無」にされず、実を結ばずに根絶されてしまうものではない、とパウロは断言します。人を見る、人の「不誠実」を見るのではなく、神を見る、神の「信実」とその確かさを見るのです。確かに、教会の中に不誠実や不正が起こると、わたくしたちは心の底から、教会が汚され神や信仰が冒瀆され傷つけられた、と思い激しく憤ります。教会が汚され傷つけられ壊されてしまった、だからもう行く教会は失われてしまった、と思うのです。こうした切実な思いから、教会から離れて去った人々は数多くあります。もしかしたら教会に残る人よりも博rかに多くの人々が教会に絶望して去ったのではないか、とても深刻に想像します。実際の経験から言えば、その通りで、信仰生活とは、そうした期待外れの連続であり、それどころか、失望や絶望の繰り返しではないでしょうか。しかしパウロは反対に、それこそ、そこでこそ、いよいよ「神の真実」と「神の確かさ」に、心を向ける好機である、と教えるのです。皮肉な言い方に聞こえるかも知れませんが、教会に躓く所こそ、神に対する信仰の始まりと言えるかも知れないのです。私たちの心を信仰心に導く出発点は、地上の教会から天上の教会へと貫く、或いは天上から地上を貫通する神の真実に心の目を向け直す方向転換にあるからです。船乗りが航海中に北極星から目を離せば、航海不能となり難破してしまいます。ですから、教会生活や信仰生活という長い航海を進めるためには、その最も力となることとは、それは「神の確かさ」だけに信仰心を向けて続けて、神の真実から目を逸らさずに神に集中させることであります。反対に、人間やこの地上の教会に躓き続ける中に、天上の教会と神の誠実は明らかにその姿を顕すからであります。したがってパウロは「あらゆる人を偽り者(yeu,sthj yeu,sthj)としても、神を真実なもの(o` qeo.j avlhqh,j)とすべきである」(4節)と説いています。これは、大きな慰めであり励ましであります。

さらにパウロは「わたしたちの不義(h` avdiki,a h`mw/n)が神の義(qeou/ dikaiosu,nhn)を明らかにする(suni,sthmi suni,sthsin)」と説きます。「明らかにする」という字は「一緒に並んで示す」という字です。人間の不義が、神の義と一緒に並んで、神の真実を指さし照らし出するように、一層「神の義」が明らかにされ示されてゆく、という意味です。間髪を入れずにパウロは「3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。」と言い切ります。何と力強い「義」の教えでしょうか。外側の教会事情だけを見て動揺するような不信仰は、吹き飛んでしまって、ここにはありません。本当の「神」の信仰に立ち直して、「神の確かさ」と向き合える場がここにあります。人間の不誠実に絶望する一方で、神の真実は、この世の支配の内にはなく、ましてや人間の手の内などに置かれることは絶対にないのです。神の真実は、確かであればあるほど、人間の側の不正と不義を貫き、かえって、対照的に相並ぶようにして、人の不義を暴き、神の真実を明らかに示します。しかもただ単に、理念として神の真実が現れるというのではなく、「怒りを発する神は正しく(中略)世をお裁きになる」という具体的な神の霊的な行為行動となって、その姿を露わに顕わされます。不義は全て徹底的に神の怒りのもとに裁きを受け罰を受けるのです。神は義なるお方ゆえに義を貫きますが、義を貫くのであれば、不義と不正に対しては、正しく真理に基づいて怒りを発することとなり、世をお裁きになるのです。正義と信仰に立つ者は、神の裁きの前に立ちつつ謙遜に悔い改めをもって、神の真実を信頼し、確信をもって全てをおゆだねすればよいのです。不義と不正の嵐の中でこそ、神の義と真実は、神が神であることの全てを尽くして、かえって発揮され、神は真実に基づいて正しく審判をくだされるでありましょう。前の2章7節でパウロは「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになる」とも断言しています。ここで一つ、誤解しないように、是非注意すべきことがあります。それは、不誠実と言うべき人たちと、誠実というべき人々を真二つに分けて余りにも単純化してしまう誤解です。実は、多くの場合、ひとりの人の心の内に、不誠実も誠実も同時に並んで立つことの方がふつうだからです。そこは、絶えず、古き人は死んで新しき人に新生する場となり、危機の場でもあり好機の場ともなります。自ら不誠実を認めて、神の赦しを乞い、み言葉を聞き分ける場となるのです。信仰の航海士が「北極星」を取り戻す場となるのです。

 

3.「罰を受けるのは当然です」(8節)

7、8節で、おかしな屁理屈を言って言い逃れをしようとする人々に対して、パウロは「罰を受けるのは当然です」とはっきり言って、断罪宣告します。福音には「神の義」が貫かれているがゆえに、神が怒りをもって正しく裁く「神の裁き」も同時に啓示されています。言い逃れは許されないのです。「3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。3:8 それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受ける(kri,ma kri,ma)のは当然です。」と断じます。つまり、結果として「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば」、それは即ち「善が生じるために悪をする」のであるから、よかったではないか、という話です。おかしな屁理屈であり言い逃れであります。「こういう者たちが罰を受ける(kri,ma kri,ma)のは当然です」と言って、パウロはきっぱりと審判を宣言します。

邦訳聖書の殆どが「罰を受ける」と訳していますが、新改訳聖書は「罪に定められる」と訳しています。原典の言葉から言えば、受けた審判の「内容結果」を意味する言葉ですが、その受けた審判の内容が、結果として罪と断定され、罰を受けることになります。このことは、大変重要な意味を持ちます。それは「律法」や「割礼」は、厳然として、神の啓示の言葉として、審判者となって生きて働き機能していることを示しているからです。彼ら、ユダヤ人たちが、というよりも、人類全体に対して、今も後も変わることなく、「律法」と「割礼」において刻印された神の啓示とそのみことばは、永遠に普遍不動であり、決して撤回されることはないからです。したがって律法を担う者はその律法を担ったその場が、そのまま裁きの法廷となるのではないでしょうか。ユダヤ人は文字の律法を担うその場で、異邦人は心の律法を担うその場において、神は裁き主として怒りをもって裁きを断行されるのです。神の言葉の告知を委ねられた者は、その自ら語る言葉において、神の法廷に立ち、神の真実に基づいて審問され審判を受けることになります。一方で罪と断罪され罰を受けます。他方で死の宣告を受け入れたその場で、神の福音の真実は貫かれ啓示せられ、十字架の福音を聞く場となります。選ばれて、みことばを担う者が、神の啓示とその真実を覆い隠してしまうのは、自我欲求に支配され、神の啓示を捨てて、自己追求に溺れるがゆえであります。それこそ、担うみことばそのものに基づいて、その虚偽と偽善は審判され、罰を受けることになります。なぜなら、神は、ご自身が真の神であることも、そしてその真実も正義も永遠不変であって、決して揺るぐことはないからです。わたくした人類の歴史そしてこの世界の歴史が、たとえどれほど神に背き、神に対立して逆らおうとも、神は世界の裁き主として永遠の義をもっていまし給います。文字と心の律法において、神は啓示者として自ら語り、また神は審判者として自ら裁きを断行されるのであります。

ローマの信徒への手紙3章9~20節

ローマの信徒への手紙3章9~20節

2022.7.24 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第8主日礼拝
磯部理一郎牧師

はじめに.「わたしたちには優れた点があるのでしょうか」(9節)

ユダヤ人には、神の啓示の言葉として「律法」と「割礼」とが与えられました。その時点では、確かに彼らは神と特別な関係にあり神の前に特権を得た、と言えましょう。異邦人も、創造時において「良心」という心に記された律法が与えられました。その時点で、異邦人でさえも同じように神を知りうる、と言えましょう。したがって、その意味では確かに「わたしたちには優れた点がある」と言えるかもしれません。ただし、ユダヤ人と異邦人は、一層厳密な意味で、全く同じように神を知ることが出来ると言えるのか、と言えば、やはり「律法」や「割礼」を通して、神を知るユダヤ人と全く同じレベルで、律法を持たない異邦人も、「良心」を通して、神の啓示を理解することができるのでしょうか。やはり厳密な意味で、神の啓示の言葉を知るには、律法による外に、神を知る術はない、と言わざるを得ません。したがってそのような比較においても、割礼と律法を与えられたという点で、明らかに、ユダヤ人は神を知るうえで最も神の近くおり優れている、と考えられます。

神をどこまで正しく認識できるかという点で、さらに論じますと、アダムとエバが、神に背き「罪」を犯して「楽園」を失ってしまった段階で、全人類は本性的に堕落しており、正しく神を認識して神に向き合うことは出来ない状態になっていたと考えられます。聖書は、創世記3章で人間の「堕罪」を記すと、直ちに4章で「兄弟殺し」を証言します。アダムとエバの最初の子カインは、神の前に「自分の誇り」を押し通して、その自我欲求を制御できず、弟アベルを殺害してしまいました。こうした聖書の「堕罪」とそれによる「兄弟殺人」の記述に従えば、明らかに、人類は、根源的に神の御心を写し神の言葉を聞き分けるべき創造時の「良心」を完全な形では残存することは出来なかったようです。聖書は、最初から一貫して、人間の堕罪と殺人の記事を通して、人間は罪により神による創造の恵みと秩序を本性的に破壊され喪失していたことを警告しています。それは、宗教改革者たちが主張するように、人類全体の「全的堕落」を前提に、堕罪について聖書を解釈すれば、やはり必ずしもユダヤ人と異邦人における神の啓示は同一レベルであったか、疑問が残ります。同時にまた、だからと言って、割礼と律法が与えられたからと言って、果たして堕落し創造の恵みと秩序を喪失した人間は、本性的に自らの力で、「神に対する背き」から自己を完全に解放することができるのだろうか、という疑問も残ります。

そこで、前にも触れましたが、ここで触れられる「異邦人」とは、全的堕落によって破綻した罪の現実を認めて受け入れた上で、キリストの福音によって「信仰」に導かれて、その賜物として新しい良心と新しい人間性が与えられて、信仰の戦いの内にある人々、すなわち異邦人キリスト者ではないか、と解釈することも出来そうです。異邦人は、完全破綻を前提とする「罪人」として、律法によらず、ただキリストの恵みにより信仰の光のもとで、新しい信仰に基づく良心の戦いが語られているのではないか、とも言えるかも知れません。

ここで、パウロが「優れている点は何か」と問うていますが、その根本問題は、神を正しく知るという点で、人間を本性的に破壊してしまった「罪」を認められるかどうか、その一点に尽きます。罪によって堕落し、神を神とせず自分を神に取替えて拝み仕えるという倒錯錯誤において、いったいどこに「優れた点」を認めることができるのだろうか、という問いです。異邦人の場合も「良心」が心の律法として与えられたと言っても、神の啓示を明瞭に理解することは出来ず、その意味で神を知ることは出来ませんので、罪を認めざるを得ない、ということになるのは当然です。やはり異邦人は神を正しく知らず、それゆえに偶像崇拝を犯し神に背く「罪人」であります。ただユダヤ人は、異邦人と違って、確かに「割礼と律法」が特別に与えられ、そればかりか、モーセやダビデなど数々の指導者たちや、エリヤを初めとする数多の預言者たちが、ユダヤの歴史を貫くように次々と登場し神の啓示の言葉を語り、預言者たちによって神は絶えず御心を告げ知らせて来ました。ですからユダヤの全歴史は「神の啓示」によって貫かれており、ユダヤ共同体はいつも「神の啓示」によって神の民として神の恩恵に満たされていた、と言えましょう。それは旧約聖書全体が口を揃えて明らかに証しする通りであります。だからこそ、ユダヤの民の責任は非常に重大とも言えましょう。本日のみことばの主題は、まさに神が徹底的に神の啓示のみことばをもって語り、神の御心を啓示したのですが、この神の御心とその啓示である律法や預言に対して、ユダヤの民はどのように向き合い対峙してきたのでしょうか。民の根本的な在り方が、深く根源から問われることになります。

パウロは、既に、この問題は長い間ずっと預言されており、鋭く預言者によって指摘されていたはずではないか、と改めて旧約聖書の言葉を引用して問います。それが詩編14編や53編のみことばであります。新共同訳聖書の巻末括弧付き(44頁)に「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」が掲載されています。そのローマの信徒への手紙3章10―12節の項をご覧いただきますと、詩14編1-3節(=詩53編2-4節)とあります。これは詩編14編1~3節または詩編53編2~4節から引用されたテキストであることを示唆しています。ご参考にしていただけるとよいと思います。また「LXX」と明記される引用個所は、明らかにギリシャ語の七十人訳聖書から引用されたテキストであることを示しています。本題に戻りまして、つまり古くからユダヤの人々は皆、神が民の「罪」を厳しく問題にしておれることを知っていたはずなのです。詩編14編1節以下で「14:1 指揮者によって。ダビデの詩。神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。14:2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。14:3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」とあり、詩編53編2節以下では「53:2 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」とあります。ですから、旧約聖書全体を根本から学び、その本質をよく知っていたパウロは「2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」と語ったのでありましょう。いわば、これがパウロの旧約神学です。ここに「神を知らぬ者」とありますが、さらに真意を汲んで言えば、神を神として崇めず認めないで、神を蔑ろにし神を捨てて、自分や自分の思いを神のように取替えて偶像化して仕え、ついに自己を神のように絶対化する者のことです。律法を知る人であれば、すなわち律法に表された神の御心を知り、信仰心をもって旧約聖書を日々朗読し、懺悔と憐れみを乞い求める祈りをもって暮らすユダヤ人であれば、旧約聖書全体が常に罪を悔い改めることを求めており、神の憐れみと赦しを乞い求め、救い主を待ち望むということは、誰も知り得る所でありました。それなのに、ユダヤ人たちは、律法と割礼を自分の誇る道具に取替え、権力支配のための格好の材料としたのです。神が求められた最も単純で最も重要なことは「自分の罪を認める」ことであり、「悔い改め」にありました。そういう意味で、パウロは律法を悔い改めに導く「養育係」と呼んで、旧約聖書全体の意義と役割を位置づけたのではないでしょうか。律法全体が悔い改めに導くための、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐の啓示であり、神の憐れみのあらわれとなっていたのです。それを無視して侮り、自我欲求に取替えて偶像化し神を冒瀆したのです。律法と割礼という神の恵み、ユダヤ人の罪ゆえに、重大かつ深刻な仇となってしまったと言えましょう。

 

1.「彼らの目には神への畏れがない」(18節)

「神を知る」と申しましても、いろいろな「知り方」があります。単なる知識としてただ文字の上で「神」というものを知っているということもあれば、神を生きて現存するご人格として自分のうちに認め、いわば相互の深い人格的な交わりとその生きた体験を通して神を知るということもあります。或いは、自分自身の全存在と生死がかかった所に神は厳然とおられる、言い換えれば、自分の命そのものの「生殺与奪」の審判者としておられる神を恐れる(畏れる)という知り方もあります。聖書は「彼らの目には神への畏れがない」(3章18節)と指摘します。神の「畏れ(fo,boj fo,boj)」という字は、元々は恐れ慄く恐怖することを意味します。そこから、さらに畏怖、畏敬、崇敬を意味するようになったようです。人間や生物が最も恐れることは「死滅」して自己を失うことです。存在と生死に関わる「危機」の中で、死の恐怖の感情が生まれ、同時に奇跡的に生命は与えられたという驚きをもって生を体験する、そこから畏怖する感情が生じます。つまり生死を司る根源に、超越の「神」がおられ働かれているという認識が「神の畏れ」であります。しかし人間は、生死の根源に神がおられ、神の憐れみと恵みが命に働いていることを無視して、反対に「自分」が神となって、自分の生きることも死ぬことも自己決定可能であるかのように思い上がり、生死は自己完結できると勘違いし、その結果、命と存在の支配と根拠を神から自己に取替え転倒倒錯させてしまいました。「人工中絶」は人間の自由な基本的権利であるという問題が、アメリカで再燃し国民を二分する大問題となっています。まさに胎内に生きる「胎児の人権」をどう考えるか、果たしてその命を奪う権利を容認できるのか、という命の尊厳をめぐる議論であります。近代現代の人権思想の根幹には、明らかに「人間中心の自我欲求」を大前提とする社会思想が貫かれているのではないか、という風に見えることもあります。確かに自分の命の管理者、主権者は自分自身であることは否定できませんが、ここで深く問われる課題は、そこに自らの命の中に何らかの「神」の恵みや力を認めることができるか、或いは、人間はあくまでも「神を畏れる」信仰の秩序のもとで、初めて自分の命と存在の管理と判断に関わることが可能となる、ということになるのではないでしょうか。人間の尊厳はいつも「神をおそれる」ことと背中合わせにあるのです。

創世記3章で女は「3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と蛇に答えます。神は万物の造り主として被造物全体を無から創造されました。したがって命と存在の根拠を神の創造の憐れみに依存している被造物が、どうして造り主である神に取って代わることができるでしょうか。しかし「蛇の誘惑」に心を奪われた人間は大きな勘違いを犯します。自分の欲望欲求の誘惑に負けて、自分も神のように命と存在の支配者なれる、生殺与奪の審判者になれる、自分はそれほど善悪を決する知恵があるはずだ、と考え違いをしてしまったのです。存在と命における神の主権を根本から掠め取って食べ、自分のものにしてしまう、それは、「被造物」である人間にとっては、いかにも不可能で愚かな考えである、と神が警告し語った言葉でした。「神を畏れる」ことの基本は、先ず唯一神だけが万物の造り主であり、したがって神のみが万物の存在と命の生殺与奪の審判者であることを、絶えず「おそれ」をもって知り、覚え、褒め讃えることにあります。警告注意の言葉として語られた「死んではいけないから」という神の言葉は、実に意味深い表現であって、表面的には「死んではいけない」と死の警告を言い表していますが、その奥にある真意は、神に背き神の言葉を無視して、造り主から賦与された「創造の恩恵」を失う、という重大な創造主と被造物との決定的な関係性を教えているように思われます。みことばにおける約束を破る、即ち神に背くことの問題の大きさは、ただ背くというのではなくて、命と存在に根源的に深く関わる神の創造的恩恵そのものを斥けることであり、命と存在の根拠と根源を直ちに失う楽園喪失を余儀なくされ、したがって死んで滅びることになりますよ、という致命的な警告のように聞こえます。ここには、明らかに、永遠無限の絶対者であり創造主である神と、有限であり滅びの危機を背負う被造物である人間と、したがって創造主の恵みに与らなければ生きることも存在することも出来ない被造物との間にある、絶対的「隔絶」と本質における決定的「相違」が、明らかに宣言され警告されています。ところが、蛇は女を誘惑して「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言って唆します。、蛇は巧みな誘惑の言葉により、女の良心から「神をおそれる」意識を奪い去り、その造り主と被造物との間にある絶対的に隔絶した「障壁」を否定し、本質的な神と人とを識別する障壁を破壊し、神と人とを混同させてしまうのです。本当は、ただ「神」だけが神なのでなく、実は「あなた」も神になれるのだ、と言って唆したのです。すると、女は「わたしも神になれるのか」と思い、「神」から離れ、「神」とは別に、「自己」を神に祀り上げてしまいました。先ほどの詩編の引用で言えば、「神への畏れがない」とは、まさに人に命と存在の与えた創造主と、存在と生死を神に依存する被造物と、その間にある本質的に違いや決定的な依存関係を、人間の側から一方的に破棄して神から離反したのです。つまり人は、創造主なる神の恩恵において生き存在している、という根源的な関係性を根本から廃棄してしまったのです。それが堕罪であり楽園喪失であります。この命と存在の基本原理である神に対する関係を罪によって放棄し破壊してしまった人間は、神でない自己を神のよう取替えて限定的には生きることができても、結局は根源的に死に滅びに堕ちるばかりです。そして人類史全体が現代にあっても未だに何一つ変わっていないのです。カラスがクジャクの羽をつけるように、人類はいつまで神にはなれないカラスを演じ続けるのでしょうか。このように、既に旧約聖書の冒頭が示す通り、また詩18節で引用された詩編が証する通り、創造の最初から、人類は罪に堕落して、神の創造の恩恵を放棄してしまったことは明らかなようです。こう見ますと、10節に戻りまして、パウロが説くように「正しい者はいない。一人もいない」(10節)ということが、段々とはっきりして来るのではないでしょうか。「3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。3:14 口は、呪いと苦味で満ち、3:15 足は血を流すのに速く、3:16 その道には破壊と悲惨がある。3:17 彼らは平和の道を知らない。3:18 彼らの目には神への畏れがない。」という詩編の言葉は、現代史を生きる人類にもそのまま当て嵌まる深刻な課題でもあります。

 

2. 「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになる」(19節)

こうして9節で「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」と断じたパウロは、ついに律法の担う役割について決定的な結論を述べます。「3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と結論づけました。簡単に言えば、全人類は皆、最初から、律法に啓示された神の御心を行なうことは出来ないので、それゆえ神にからその責任と課題が問われ、誰一人として弁解も言い訳もする余地はなく、結局、怒りの審判を受けざるを得ないのです。この19節を、リビングバイブルは「神様のおきてを守る責任があるのに、守らず、こうした悪事にふけっているからです。 彼らのうち一人として、申し開きのできる者はいません。 事実、全世界が全能の神様の前に沈黙して立ち、有罪の宣告を受けているのです。」と訳しています。とても分かり易い、意味のはっきりとした訳となっています。

このパウロの結論をめぐり、先ず注意したい点は「すべての人の口がふさがれて」という言い方です。そのあとでも「全世界が神の裁きに服する」と言っています。さらに言えば「だれ一人神の前で義とされない」とまで言い切っています。「すべての人」「全世界」そして「だれ一人」と言って、パウロは人類全体を完全否定します。否、人類のみならず「全世界が神の裁きに服する(u`po,dikoj ge,nhtai pa/j o` ko,smoj tw/| qew/|)」と言い、被造物全体をも含めて完全否定します。欽定訳は、“all the world may become guilty before God” 即ち「全世界は神の前に有罪となる」と訳しています。つまり人類万物皆全てが、神のみ前で有罪であると断罪します。何もかも、神に対して、神を知り神を畏れるという点では、弁解の余地は全くないということになります。

パウロは、どうしてこれほどまでに全世界を完全否定するに至ったのでしょうか。それは、もう少し聖書の先を読みながら詳しく述べますが、余りにも「神の福音」が絶大であることを知ったからではないかと思います。本当の意味で「神」の大きさを知ったからではないか、と思います。別な言い方をすれば、それほど「神の福音」における恵みには、分け隔てや偏りがなく、まことに公正と公平に徹底しており、完全に万物を満たしてしまっていることが分かったから、でありましょう。神の福音には、差別や偏りがなく、完全に全ての存在に対して平等であり完全であり、開かれているからです。あなたに対しても、わたしに対しても、どんな人にも、どんなものにも、「神の福音」は完全に開かれており、すべてを完全無限に満たして余りある絶大な恵であることに気付いたのであります。キリストの十字架の死と復活は、それほど大きな創造的な爆発力を持っているのです。「神の力」それも神のダイナマイトのような爆発力で世界宇宙を吹き飛ばしてしまうかのように、万物の隅々に神の新しい創造と命の力を浸透させてしまったことを知ったからです。いわば、律法を完全実行して神の義に至るという観点から言えば、人類は、堕罪ゆえに、死と滅びの中に閉じ込められたまま死と滅びの運命を辿るばかりであります。自らの力によって自己を解放することも出来ず破れ果て絶望の中で、自分自身においても死と滅びの転落を辿りつつ、その後に待っている決定的な運命は、神のみ前で有罪の宣告を受けて神の完全否定を余儀なくされるばかりであります。しかし反対に、キリストの福音の恵みにただ信仰によって与りいただく、という「恵み」の観点から言えば、神の御子が十字架の死に至るまでご自身の内にわたしたちを丸ごと徹底的に背負い、どんな罪であろうと人類の罪を完全に償い、しかも神への従順を貫き通して神の義に勝利してくださいました。神の義は「御子の十字架における恵み」として与えられ、御子の十字架の死による従順と贖罪の恵みにより、万物は神の義という完全肯定に包まれ新たな祝福を与えられ、「復活」という新しい創造の秩序のもとで「永遠の命」によって新生したのであります。十字架の死における贖罪の力は無限であり、罪の大小の違いや人種は元より身分や学歴など一切合切の全てを超えて、一切関係なしに、万物を贖い包む爆発的な力であり、万物を完全に創造して回復する神の創造の恵みであります。そういう贖罪の恵みの大きさから言えば、罪の大小の差別区別を超えてしまっているのです。皆罪人であるが、しかし同時に皆罪赦された義人となる、ということになります。

しかし案外このキリストの福音の大きさを、わたしたちはまだ十分に知らないのではないでしょうか。人間はどんな人も、罪という神の審判のもとでは皆平等であり、神の前で有罪の宣告を受け完全に否定されています。しかしわたしたち人間の気持ちから言えば、どうしても「自分」を中心に考えたいのです。自分を言いたいのです。神を仰ぎ見る垂直的な態度ではなく、人間同士の比較に基づいて物事を見ようとすれば、罪にも大きい小さいの違いがある、或いは救いの信仰にも、大小の違いがある、と誰もが思うのです。それは、神に対して罪を犯している、という罪の決定的な意味がまだ十分に分からないからであります。時には、あの人は神に裁かれたのだ、と言って、自分が神に認められたかのように思い込むことすらあります。自分が審判者のようになっていることを自覚しないまま、他者を神が審判したかのように思うのです。しかし本当は、神に対して罪人であり、有罪宣告を受けている点では、自分も他者も全く同じはずです。したがって当然ながら、神から罪を赦されたという救いの恵みもまた正しく理解できないのです。すべては人間の中だけでしか見えていないからです。自分はあそこまでは酷くはないぞ、あれは論外だなどと言いたくなるのが人情ですが、人間は皆だれもが、自分の世界の中に閉じこもり自分だけを特別扱いにしたいのです。少しは自分を認めて欲しい、自分にも言い分や事情がある、それは違う、と思うのです。しかしそれはあくまでも人間同士の話であって、神に対する根源的な罪と堕落の話とは全く異質であり、神に対して罪赦されて新たに生きるという神の恵みの話では全くないことです。神に対することと人間同士のことでは、質でも量でも、全く違う話であります。先ほど創世記3章を紹介したように、神の創造の恩恵を放棄してしまった人間の堕罪によって、その創造の恵みの放棄と破壊は、神のみ前では、人間だけに止まらず、被造物全体にまで及び世界を巻き込んでしまいました。まさに神に対して、被造物全体を巻き込んですべてを破壊し汚してしまった、それが自分の本質なのだ、ということがよく分からないのです。神に対するおそれを知らないとは、そういうことであります。それは同時に、神に対して永遠の命をもって新たに生きるという新しい創造的な人間性の可能性も、その絶大な恵みの力もまた思いつかないのではないでしょうか。全地全能の創造主である神が、完全絶対の愛と憐れみを尽くして創造した世界であり、被造物世界であります。その神の無限の恩恵の秩序を放棄し破壊したのです。これは、人間一人一人の個人差をどうこう言い分けるようなレベルの問題ではないのです。同じように、神の福音の前には、救いの大きい小さいは全くなく、神の御子による十字架の救いは永遠完全であります。

ではなぜ神は、それなのに、敢えてユダヤ人に文字の律法を与え、異邦人には心を律法を与えたのでしょうか。改めて律法の役割に議論が戻ります。「それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」とパウロは述べてその真相を明らかにします。文字や心の律法が与えられた意味を整理しますと、第一に、神の背きの事実に対しては全く弁解の余地なく、したがって有罪の宣告を受けていることを認めることです。つまり「神の前に有罪宣告を受ける」のために、神の律法は民を断罪する審判者として働いている、ということになります。第二は、創造の恩恵を放棄して楽園を失った人類は、その堕落ゆえに律法に啓示された神の御心を実行することができないので、自分の力では問題解決ができず、破綻して絶望し、自分の「破れ」を知り認めるようになるための道程として働いています。第三に、律法を行えず、有罪宣告を受けることで、初めて人類は心のうちに「神」に対する「罪の自覚」が生じるのです。つまり「罪の自覚」に導くために律法は与えられた、ということになります。言い換えれば、自己中心の心を捨てて、神に対して心を開き神の啓示の言葉を待つ準備が与えられるのです。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(dia. ga.r no,mou evpi,gnwsij a`marti,aj)。」と記されていますが、この罪の「自覚(evpi,gnwsij evpi,gnwsij)」という字は、「厳密で正確な認識」を意味します。動詞では「しかと見届ける、識別する、知り尽くす、深く洞察する、承認する」という意味です。つまり「罪の自覚」とは、厳密で正確な罪の認識に基づいて神に対する罪を承認することを意味します。新共同訳と口語訳は「罪の自覚」と訳し、新改訳は「罪の意識」と訳しています。重要なのは、「罪の自覚」とは、神に対してどのような罪を犯しているか、正確かつ厳密に認識し、神に対する自分の罪を承認して受け入れるのでなければならない、という点です。この神に対する正確かつ厳密な自分の罪の承認に導くことこそ、まさに文字と心の律法の担う役割であったのではないでしょうか。そしてこの厳密かつ正確な罪の認識の根幹を中心から担う自覚は、自分の力に依り頼むことの放棄であり、自分を特別扱いしてほしいという自我欲求の断念であり、その空しさ無意味さの承認であります。しかしこれは同時にまた、余りある神の福音の大きさ豊かさ、神の恵みとはどのようなものか、その本質を知り、本当の意味で神を神として認めほめたたえる道となります。全くこの世のもの、人間的なものは一切通用しない世界である、ということです。極論すれば、神の義を得るという点では、自己の全てに破綻し絶望する罪の自覚であり、そして自己中心から神の恵み目が開くことで獲得される新しい認識の出発点であり、その承認是認であります。律法を通しては、人は神に対する罪を厳格厳正に認識し承認し、御子の十字架の死と復活においては、本当の神の恵みを「恵み」として正しく認識して受け入れ、そして神を本当の意味で神と崇める出発点となります。大事なのは、神の福音を福音とする、神の恵みを恵みとする原点が、罪の承認というこの完全な自己破綻を受け入れて承認する罪の自覚にあり、救いは人間のうちにはなく、ただ神の恵みによることを知るのです。罪の自覚は、キリストの十字架における死を知れば知るほど、一層はっきりと、罪は厳密に正しく認識され自覚されるようになります。反対に、いつまでも自分を認めて欲しいと拘泥すればするほど、恵みを知る原点と場を失うことになります。ですから、神が有罪を宣告するのも、それによって罪の自覚が生じるのも、根本は、神の恵みを恵みとして受け入れる道をわたくしたちの心のうちに開いてくださるためであります。どこかまだ自分を認めて欲しい、どこかまだ自分の見どころがあるのではないか、自信や自分の誇りが残存すれば、それは堕落した人間の世界に堕ちたまま、しかも神なき人間世界の中で彷徨い続けるのであり、神の福音を恵みとして見上げる原点には至らないからです。「信仰」に至らず、人間だけの世界にとどまる、ということになります。

 

3.「聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」(1章2~3節)

「神のおそれを知る」ということには、恐怖と畏敬という二重の意味があることはお話した通りです。一方で、律法を実行するという観点から言えば、人類の神に対する背きの罪に有罪宣告し全人類に審判を下し完全否定する「怒り」の神として恐怖を覚えます。そこには、底なしの死と滅びの恐怖が拡がります。しかし他方で、神の御子が十字架の死に至るまで、ご自身の全身全霊において全人類を丸ごと背負い、神への従順を尽くし全人類の罪を償い、その肉体の復活において全人類に永遠の命を齎します。そこには、完全無限なる「罪の赦し」と爆発的な創造回復の力が漲り溢れます。それはまさに神を畏怖畏敬する畏れであります。パウロは冒頭の自己紹介で、「1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」と告げています。改めて読み返してみますと、明らかに、律法の担う役割は「聖書の中で預言者を通して約束されたもの」であり、「御子に関するもの」を啓示する働きを担っていたと言えましょう。ある意味で、人類史やユダヤ人にとっては、とても長い旅路であったと言えるでありましょう。人類はその歴史を通じて常にわが内なる「良心」と格闘しては破れ、未だに問題解決に至ってはいないのです。ユダヤ人とて律法や割礼を与えられながら、やはり律法に破れ、結局はそこに啓示された神の御心を生きることは出来ずにいます。神は、長い間、ご自身を否定し自我を偶像化し拝み仕えてきた人類の「罪の自覚」を寛容をもって忍耐し、求め待ち続けておられたのではないでしょうか。そうした人類が罪との長い格闘と破れを繰り返す中で、神は「キリストの時」を準備されたのではないでしょうか。そしてついに今や、律法とは別に、キリストの十字架と復活において、無限に働く爆発的な創造の力によって、死者が甦るという新しい創造の力を現わすのであります。