ヨハネによる福音書14章15~31節

ヨハネによる福音書14章15~31節

2022.6.12 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第2(三位一体)主日礼拝
磯部理一郎牧師

14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 

14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。

 

14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。14:30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。14:31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

 

 

説教

はじめに.「わたしはある」(出エジプト記3章16節)

先ほど、旧約聖書出エジプト記3章7節以下を朗読いたしました。何度も繰り返しご紹介した個所です。これがヨハネによる福音書に登場する主イエスが誰であるか、その本質を証言しているからです。旧約聖書の神が、ご自身をモーセに自己啓示した場面です。7節以下は、アブラハム、イサク、ヤコブの神が「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し(中略)彼らを導き上る」と自己啓示して、ユダヤの民の救済を宣言します。ここで意味深い表現は、神は「わたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」とありますように、人々の苦しみや痛みを知る神として自己啓示されています。だから、「それゆえ」に、天から地上に降って民を救い、しかも民を地上から天へと導き上る、と宣言します。神の救いの原点は、民の苦しみと痛みを知る神の愛にあります。その民の救いの使者として、神はモーセを選び、民を解放する指導者として、お立てになりました。

ところが、モーセは、突然、天上から地上に突入する神の啓示に、戸惑いと恐れと動揺の中で、いわば「あなたはいったい誰なのですか」と、まだ見ぬ神に問います。すると、<神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」>とお答えになりました。神は「わたしはある」という者である、とご自身のお名前をお示しになられました。「わたしはある」とは、ヘブライ語では「ハイヤー」という字で「ヤハウェ」の語源であり、七十人訳聖書のギリシャ語訳ではこれを「エゴー・エイミ」と訳しました。モーセは、この神の名のもとに、ユダヤの長老たちを招集して、「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と告げ、エジプト脱出を開始します。

まさに主イエスは、この神のお名前をそのまま「わたしはある」と名乗り、ご自身が神であることを自己啓示され、その「神」である力あるしるしとして、ラザロの復活を初めとする数々の奇跡を行い、多くの人々を癒しお救いになられました。しかし「わたしはある」とする「神」の本当の救いとは、受肉した「神」である主イエスご自身において、その受肉したお身体において人間本性の全てを背負い、「神の小羊」として、十字架の死において贖罪を果たして、復活をもって死と滅びに対する勝利の栄光を遂げることにありました。主イエスにおける「神」は、処女マリアより人間本性を受けて担い、十字架の死に至るまで人類の罪を完全に償い、神への従順を貫き、人間本性を罪に支配された死と滅びから解放し、復活という永遠の命のお身体をもって新しい人間本性をご自身に背負いつつ、栄光と勝利のうちに天に昇るのです。こうして人類の新しい人間性は、主イエスの十字架の死と復活による栄光のお身体のうちに、与えられ、担われています。それゆえ人類の本来の国籍は、栄光の十字架と復活のお身体のうちに担われ、天に昇られたので、キリストの身体として「天」にあるのです。主イエスにおける「神」の力のもとで、十字架と復活の栄光のみわざを貫徹した主イエスにおいて、全人類の人間性もまた、主イエスと一体の身体として、十字架の死から復活の栄光を遂げ、そこに民の完全な救いの導きを実現したのであります。

それゆえ、天上に昇られた主イエス・キリストの栄光とお身体は、天地を串刺しにするように貫き、地上に残されたわたしたちの身体を一つにするために、そしていつも主イエスとわたしたちとが一緒にいるようにするために、父から聖霊を遣わしてくだいました。聖霊は、主イエスによる天地を貫き神と人類とを一体に結び合わせるもう一つの助け主として地上に遣わされ、降臨したのであります。主イエスは、「14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」と弟子たちにお約束なさったのです。こうしてペンテコステの聖霊降臨を迎えたのです。このように、聖霊は、天上のキリストの人間性とそのお身体を、地上のわたしたちの人間と身体を一体に結び合わせる「別の助け主」として、天から地に降臨したのです。父と子のもとから天地を貫いて働くこの聖霊の働きとその恵みにおいて、地上のわたしたちは、天上の栄光あるキリストの身体と人間性に、人間性においてもその身体性においても、一体に結び合わされて、同じキリストの身体として永遠の命に招き入れられ、生きるのです。その天上のキリストの身体における救いを、地上のわたしたちの身体の救いとするために、聖霊は父から子の願いを通して降臨したのであります。主イエスご自身が「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」(14章20節)と言われた通りであります。ついに、ペンテコステを迎えて、わたしたちは聖霊の働きと恵みに満たされて、天地を貫いてキリストの身体と一体に結合され、「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」ことになります。聖霊の恵みに与ることで、このキリストの救いの恵みの意味と力は実現し、よく分かるように自覚され、実感することが出来るようになったのです。

 

1.「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(15節)

主イエスは「14:15あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と言われ、真実な愛は、「わたしの掟を守る」という新しい形となって生まれる、とお教えになりました。愛も信仰も、そのままで終わらずに、その果実として、新し生命とそれに相応しい生の形を生み出す、ということでしょうか。「わたしを愛する」ことは「わたしの掟を守る」ことですが、具体的に、どのようなことなのでしょうか。主イエスは24節で反対に「14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と言われていますので、明らかに「わたしを愛する、わたしの掟を守る」とは、「わたしの言葉を守る」ことであり、主のみことばに聴き従うということを意味すると考えられます。わたしたちの出来る主を愛する愛し方は、そしてわたしたちの最も優れた掟の守り方とは、ただ只管に、主を信頼して謙遜に、主のみことばを聞き続けることにある、ということになります。

主イエスご自身が弟子たちに語られた主のみことばは、実際に弟子たちにも聞き取ることができ、また理解できる具体的な音声言語として語られました。それはヘブライ語から派生したアラマイ語でありましたが、実際に弟子たちに語られた主のみことばは、さらにそれを聞いた弟子たちによって誰もが共有して読むことのできる「証言記録」としてさまざまな形で伝承され、いくつかの福音書が生まれ、ついに教会のために「聖書」正典として保存され、現代に伝えられています。したがって後代のわたしたちからすれば、「わたしの言葉を守る」とは、聖霊に導かれつつ、「聖書」から主イエスのみことばを聴いて、主イエスのお身体である「教会」の歴史を通して、正しく聞き分けてゆく、ということになります。

 

2.「その人にわたし自身を現わす」(21節)

さらに意味深い点は、「14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と主イエスは教え、主イエスのみことばを聴くことは、即ち「父」のみことばを聴くことに直結しており、そのまま「父」の愛を受けることになり、したがって主のみことばを聴くことは、「父」と「子」から愛を受けることになる、というのです。ここでしっかり覚えておきたいことは、みことばを聴くことは、そこで、直ちに「父に愛される」という神の根源的な愛のみわざのうちに入れられることである、と説かれていることです。聞き落としてはならない点は、みことばを聴く、ということの中に、父と子による神の一致した愛の行為が、しかも能動的で永遠なる神の行為が引き起こされ働いているという点です。

このみことばのうちに、神の方から力強く現臨して働き、永遠の愛のみわざを行われるのですが、それを主イエスは、さらに真実な意味で「その人にわたし自身を現わす」と言われます。「その人」即ち主のみことばを聞き入れて守る人に「わたし自身を現わす」とは、神が主のみことばを通して永遠の愛のみわざを行うことですが、具体的にはどういうことを言っているのでしょうか。塚本訳によれば、(だからわたしを愛する者だけが、わたしを見ることができるのだ。)と加えています。17節では「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」と言っています。先週の説教から言えば、まさに父と子は神として相互に内在し合う関係が明らかにされます。そうした父と子の相互内在性に加えて、主イエスはさらにご自身における主イエスと弟子たちとが相互に内在し合うようになる、と宣言します。つまりわたしたちが主イエスのうちにあり、主イエスがわたしたちの内にあることを可能にする、と言われるのです。

少し複雑で分かりにくいかも知れませんが、ここでは、二重に重なり合う相互内在性が告知されていることになります。一つは、「わたしが父の内にあり」と言われていますように、「神」として、即ち「三一論」として、父と子と聖霊が、愛の交わりのもとに、相互に認め合い受け入れあって、相互に内在し相互を共有し合う。それによって永遠に一体の神のとして現臨する、という「神」としての相互内在性です。ニケア信条では、父と子と聖霊が「同質本質」(ホモウシオス)として言い表しました。もう一つは、「あなたがたがわたしの内におり、っわたしもあなたがたの内にいる」と言われていますように、受肉したキリストのお身体において、つまり「キリスト論」として、御子である「神」の本性と、罪を除いてはわたしたち人間と全く同じ人間性を受けた主イエスにおける「人」の本性とが、神の永遠の愛のもとに「神」は人を愛し、「人」は神への従順と義を貫き、相互に認め合い相互に交流し相互に共有し合って、一体であることを示してします。カルケドン信条では、キリストにおいて、神性と人性とが「非分離かつ非混合」と言い表しました。言い換えれば、ヨハネはこのキリストのみことばを通して、明らかに三一論とキリスト論を同時に語っているのであります。「その人にわたし自身を現わす」とは、そうしたキリスト論を基とした三一論を展開しているように思えて仕方ありません。

さらに話を進めまして、9節では「しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きる(za,w zw/)ので、あなたがたも生きる(za,w zh,sete)」からです。この19節をリビングバイブルは「もうすぐ、わたしはこの世を去りますが、それでもなお、いっしょにいるのです。わたしは再び生き返り、あなたがたもいのちを受けるからです。」と訳しています。さらに塚本訳は「もう少しするとこの世(の人)はもはやわたしを見ることができなくなるが、あなた達は(間もなく)わたしを見ることができる。わたしは(死んでまた)生き、(それによって)あなた達も生きるからである」と訳しています。19節の「わたしが生きる」ので「あなたがたも生きる」は、どちらも、確かに「未来形」が用いられています。これを語られた時点は、主イエスはまだ十字架につけられ死んではおらず、死の前のことであり、ましてや復活の前のことですので、未来形で語られるのは当然なことです。文法よりも、文の意味から申し上げますと、どちらかと言えば、ここからは時間の概念よりも、いわば時間を貫通する強い「意志未来」の形として、神の強いご意志を読み取ることができるのではないでしょうか。ここでは、神の強い意志においては、今という時そして後の未来の時という「時間」の概念を突き破り、永遠的な同時性として、現在と未来とが一つとなることが語られています。そればかりか、「時間」の概念を打ち破るだけでなく、また「天」と「この世」とを貫通して空間の限界をも打ち破るように、先取りされた「終末論的現実」が語られているように思われます。この時空を超えた打破を可能にしている中心こそ、受肉のキリストとして現臨する神人両性を担う主イエス・キリストのお身体であります。受肉した神である主イエス・キリストのお身体において、その一点で、天地は串刺しにされて貫かれ、永遠と時間の壁は打ち破られて交流し始めたのです。時間と空間を貫通する終末的現実です。

「その人にわたし自身を現わす(evmfani,zw evmfani,sw)」とは、狭義に言えば、これからすぐに起こるキリストの死と復活と世における復活顕現を未来形で告知しています。主イエスは、十字架に死んだ後に復活して、弟子たちに復活のお姿を現す、ということを先ずは意味します。しかしそれに続いてさらに、主イエスは「あなたがたも生きる」(リビングバイブル:あなたがたもいのちを受ける、塚本訳:わたしは死んで生き、それによって、あなた達も生きる)と言われています。ただイエスさまだけが十字架の死から復活してお姿を現す、というだけの意味ではなく、わたしたち人間もまた主イエスと同じように復活して永遠の命に至る、という終末時に完成する救いの約束を宣言します。したがって「わたし自身を現わす」とは、さらに深い終末論的な意味を先取りしているように思われます

ですから、みことばを聴くということの中に、終末の出来事がそっくりそのまま先取りされ、豊かに現実のこととして包含されているのです。キリストのみことばを聴くことを通して、またみことばにおいてキリストは天地を貫き現臨して働いておられ、そして地上と時間の中にいるわたしたちは、みことばにおいて現臨するキリストのみわざにより、天上と永遠のうちへと招き入れられ、空間と時間を超越して、主イエスのお身体と一体とされ、復活のキリストの身体に造り変えられてゆくのです。主イエスは、ご自身が語られたみことばを通して、そのみことばのうちに現臨し、わたしたちにご自身を現わして差し出すのです。言い換えれば、神が人を愛する最も幸いな形は、その人に「わたし自身を現わす」ことである、と読むことも出来そうです。

 

3.「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(10、11節)

主イエスは、「その人に」即ち主のみことばを聞く人に、「わたし自身を現わす」と仰せになりました。しかしさらに踏み込んで、ここで言われる「わたし自身」とは、どういうお方を意味しているのでしょうか。さらに詳しくこの意味を聞き直す必要がありそうです。父と子との関係について、少し前のヨハネ証言に戻りますと、「父を見せてください」と言って、主イエスに迫る弟子フィリポに対して、主イエスは「14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」と言って、答えます。主イエスにおいて「神」は働いており、主イエスの語る言葉はそのまま「神」である「父」の語る言葉なのです。主イエスにおいて、また主イエスの語るみことばにおいて、或いは主イエスの全ての行為は、そのまま直ちに「神である父」ご自身が行う神の行為そのものである、と表明されています。

つまり、主イエスはご自身を「わたしはある」と名乗って、「神」そのものをご自身において現わし啓示したのですが、主イエスにおけるその「神」にさらに深く踏み込んで、「父」と「子」とは一体の「神」として、現臨し働いている、と告げます。11節でも「14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と繰り返して言われます。いわば、父と子と聖霊における天的な神としての一体性が、地上においても主イエスを通して現わさられている、と言ってもよいのでありましょう。受肉者イエスにおいて現臨し啓示された「神」は、まさに父と子と聖霊という三者が一体の神として地上において現わされて、働いているのであります。つまり、主イエスにおける「神」は、御子としての神であると同時に、父と子と聖霊よいう三者一体の神として、三位格が相互に内在共有し合う一つの神として、ここに啓示されているのであります。父は子の内に、子は父の内に内在するのです。これを、父から子は永遠に生まれ、聖霊は父から永遠に発出する、と古代の教理は定義しました。こうした神の視点から「わたし自身を現わす」という意味を考えますと、それは、ただ単に復活して栄光勝利のお身体を弟子たちに顕現されることは元より、弟子たちとその教会に対して、さらに深い奥義として、主イエスはご自身における「神」そのものを、父と子と聖霊が同一本質の「神」であるとして、即ち主イエスにおける三位一体の神を、より深い意味で自己啓示しようとしたのではないか、と言えましょう。主イエスの到来も、聖霊降臨も、このように、神の内側から見ることもできるのではないでしょうか。そしてその神の内在交流の本質から、ご自身を外化し啓示され、歴史という時間とこの世という空間の中に突入したのであります。「父を見せてください」と言ったトマスは、主イエスにおいて、既に完全に「神」を見ていたのに、それどころか、主イエスにおいて、父と子と聖霊が一体に働く神のご自身を既にで合っていたのに、その重大な神の現実を信じて受け入れることが出来ず、理解に至らないまま、終わってしまっていたようです。前に触れましたように、受肉したキリストである主イエスにおいて、三一の神が力強く現臨して働き、みことばを語り、愛のみわざを行われておられるのです。言い換えれば、主イエスにおいて生ける神そのものにフィリポは直面し見ていたのです。

 

4.「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(23節)

みことばを聴き守るとは、詰まる所、主イエスにおける「神」を信じ受け入れる「信仰」に至ることであり、しかもその「信仰」において、主イエスにおける「神」ご自身が働き神のみわざを行われるのです。みことばを聴いて信じる信仰こそが、地上にある私たちが天上の救いに至る唯一の道であります。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない(VEgw, eivmi h` o`do.j kai. h` avlh,qeia kai. h` zwh,\ ouvdei.j e;rcetai pro.j to.n pate,ra eiv mh. diV evmou)。」(ヨハネ14:6)と仰せになられました。「みことばを聞く」とは、ただ人間の側のことだけではないようです。主イエスが徹頭徹尾すべての主導権をもって、神の行為をわたしたちのうちに信仰を通して行われることであり、主ご自身が自ら「命」と「真理」そのものとしても、しかも同時にそれに至らしめる唯一の「道」となって、わたしたちの傍らに共におられ導かれる、ということを意味しています。

主イエスは、わざわざ「14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る(thre,w thrw/n 保つ)」(21節)とか「わたしの言葉を守る(th,rhsij thrh,sei「遵守」)」(23節)という言い方をしておられます。それゆえ、みことばを聴くとは、聞く人が主の告知をアーメンと心に信じ認めて受け入れる「信仰」に至り、その信仰において、神ご自身が徹底して行使される命と真理のみわざに与らせていただだくことでもあります。「聞く」とは、人格全体とその中枢である魂と身体のうちに、みことばを受け入れ、「神」のみことばのご支配に対して自分自身の全てを完全に委ね明け渡すことであり、それによって、みことばを語る主ご自身が聞く人の内に宿り、永遠に共に住み、天における永遠の命の営みに「道」となって導き入れるのです。人間としてこちら側はただ信じて受け入れるだけですが、しか「神」は、みことばを通してみことばのうちに働き、信仰においてわたしたち人間の魂と身体のうちに深く宿り、永遠に住み着いて、神のみわざを行い、永遠の命の営みに迎え入れてくださるのです。

しかも、人間として受肉してみことば語られる主イエスにおいて、「神」は父と子と聖霊なる三位一体の神として共に一体の働きをもって神のみわざを行い続けます。それは、主イエスご自身が「わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」と言い表された通りであります。主イエスのうちにおける父が、ご自身のわざと働きをしておられるのですから、当然ながら、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」という完全な祝福が実現することになります。聖霊は、もう一つの「弁護者」としてただ聖霊お独りで、キリストから離れて現臨する神ではなく、ヨハネによれば、主イエスご自身のお身体のうちに現臨する一体の神としても、父と子と共に相互に共有し合う神として共に働き、わたしたちのうち深くに共に宿り、共に住まわれるのではないでしょうか。そして、キリストにおける人間性とわたしたち人類すべての人間性を一つに結び合わせて、天地を貫く一体のキリストの身体と成すのです。主イエス・キリストの神人両性の豊かで生き生きとして永遠の相互交流において、しかも主イエスにおける神の三一論的一体性により、聖霊はいよいよ私たち人類を死と滅びから解放し永遠の命による復活を成し遂げられたキリストの身体のうちに招き入れ、豊かな永遠の命の営みのもとで新しいキリストの人間性に造り変え養い育ててくださるのです。ヨハネは、このようにキリストにおける父子聖霊の神を、即ちキリスト論的三一論を生き生きと展開しているように思われます。