ヨハネによる福音書13章1~20節

ヨハネによる福音書13章1~20節

2022.6.5 小金井西ノ台教会 ペンテコステ礼拝
磯部理一郎牧師

聖書

13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。13:18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。13:19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。

説教

はじめに 主イエスは、十字架における栄光の時を迎え、弟子の足を洗う

本日の13章1~20節を三つの段落に区切り、お話を進めて参ります。先ず1~5節では、イエスの栄光のとき、即ちイスカリオテのユダの裏切りによって、ついに十字架における死の栄光の時を迎える時であり、御子を世にお遣わしになられた父なる神のみもとにお帰りになられる日を迎えたことを告げます。地上との別れを覚悟され、地上に残す弟子たちと別れを告げるのですが、その際に、主イエスは、弟子を深く愛する愛の奉仕者として、奴隷となって、弟子たちの足を洗い始めます。

第二段落の6~10節では、弟子の足を洗い始めた主イエスに対する弟子たちの反応です。特にペトロは、主イエスが、愛の奉仕者として弟子の足を洗う、その意味を理解することが出来ません。ペトロは、イエスさまに足を洗っていただくなど、決して有ってはならないことだ、と拒絶しますが、主イエスは、弟子の足を洗うという愛の奉仕の中に、メシアと人々との本質的な関わりがあることを教えます。

最後の段落11~20節では、イエスさまの十字架の死におけるユダの裏切りと弟子たちの躓きを予告し、改めて、互いに足を洗い合うことを模範とする奉仕の愛をもって、互いに仕え合うべきことこそ、弟子であることの本質であり証明である、と教えます。

1.「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」

そこで、主イエスの栄光のときについて、即ち十字架における死の栄光について、改めて振り返りますと、イエスさまは、ラザロを復活させるという誰もが否定できない決定的なメシアのしるしを行われ、ご自身が父なる神から遣わされた神のメシアであることを証明して見せました。12章17節以下に「12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」と証言されている通りであり、まさに、主イエスにおける「神」の力は決定的でありました。主イエスにおける「神」の力が証明されたことは、つまり神のメシアであることは、誰の目にも余りにも決定的で明らかになっていたようです。反対に、これはとても皮肉なことなのですが、それが明らかになればなるほど、それを恐れた大祭司を頂点とするユダヤの宗教的権威は、最高法院において、主イエスを殺害する最終決議を断行したのでした。言い換えれば、主イエスご自身が神の子であり、神のメシアであるがゆえに、それがいよいよ真実となったがゆえに、十字架における栄光の死は、イエスさまにとっては避け難い事態となっていたのです。ユダヤの権力者たちは、神の名のもとに、律法を利用して、自分たちの権力支配を保持するためには、確信をもって主イエスを抹殺しなければならないと決断したのです。しかも民族にために神が使われたメシアをローマに売り渡すことで、ローマに対してもユダヤの利権確保を謀ったのです。神に対する背きの中で、これほどの背きは、前例を見ることはできないでありましょう。いわば、最後に残された救いの希望を、最後の究極的な神の背きとして排除してしまったのです。しかも、その通りに、ユダヤの宗教権威は、メシアを「ユダヤの王」として処刑抹殺することを、確信をもって決断し実行したのであります。

こうしたユダヤの権力者たちによる究極の背きの前で、主イエスは、壮絶なご決意をもって、臨まれます。それが、背きの罪で最も汚れている者の足を奴隷の姿となって洗う拭う、という痛ましいほどの愛の奉仕者として、まさに彼らの背きの頂点を成す十字架刑において、ご自身を生贄の小羊として死の奉仕を貫くことを明らかにされるのです。この十字架上の死による愛の奉仕は、徹底的に主イエスが「神」であること、その愛も正義も真理も、全てが権力者たちの背きによって否定され汚され卑しめられているのですが、その全否定を自己否定的な愛の奉仕をもって仕え受け入れ、主イエスはその汚れた足を洗い拭うのであります。

ヨハネはこうした苦難について、詩編41編のダビデの詩によって、描こうとしています。41:2 いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。41:3 主よ、その人を守って命を得させ/この地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。41:4 主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。41:5 わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」41:6 敵はわたしを苦しめようとして言います。「早く死んでその名も消えうせるがよい。」41:7 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが/心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。41:8 わたしを憎む者は皆、集まってささやき/わたしに災いを謀っています。41:9 「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい。」41:10 わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。41:11 主よ、どうかわたしを憐れみ/再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば/彼らを見返すことができます。41:12 そしてわたしは知るでしょう/わたしはあなたの御旨にかなうのだと/敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。41:13 どうか、無垢なわたしを支え/とこしえに、御前に立たせてください。41:14 主をたたえよ、イスラエルの神を/世々とこしえに。アーメン、アーメン。

この詩編41編で預言される祈りは、明らかに愛の奉仕者としてささげられる「苦難の祈り」であり「執り成しの祈り」のように聞こえます。主イエスの十字架における死とは、まさに過越の祭りの前日の出来事として、ユダヤの背きの足を洗うのです。「神」が主イエスにおいて民の背きの罪を洗われたのであり、足を洗われる主イエスは愛のメシアによる奉仕の本質を示している、という強い確信のもとに、ヨハネとその教会の人々は証言したのではないか、と考えられます。しかも単に「愛の奉仕」を倫理的な教訓として語るのではなくて、神のメシアの本質を成す栄光のわざとして証言します。主イエスにおいて、したがってキリスト教全体において、愛とは、神の本質を構成するものであり、奉仕とは神の救いそのものの中核を成すのであります。前にもお話しましたように、絶対である、即ち異質なる他者を自己の内に認め得ない絶対者が、痛みをもって、他者を、しかも究極の背きをもって十字架の死を仕掛けて来るユダヤの民の足を、神ならぬ人類に仕える「奴隷」となって洗い清め、自己の死の犠牲を引き換えにして、自分に背く他者を受け入れて認めるのです。そうした「足を洗う」という愛の奉仕の源泉は、三一体の神の本質から、溢れ出ます。唯一絶対の神という神の本質の内に、父と子は相互に受け入れ合い仕え合う、父は子に全権を委ね全ての栄光を与え、子は父のもとに全存在を尽くして敬い従順に従う、という相互が自己否定的に容認し合い仕え合い献げ合う、こうした三位格の永遠の相互内在的な交わりのうちに、愛の源泉はあり、神の本質が明らかにされ、三位一体という神の本性を示されます。したがってキリスト教は一神教と言われますが、その一つの神は排他的で暴力的な独裁神ではないのです。反対に、他者のためにどこまでも自己を捨てて自ら奴隷となって、他者の足を洗う自己否定的な愛において、その豊かな愛の交わりにおいて、唯一真の神としての本質を明らかにするのです。そうした父と子と聖霊の愛の交わりが本質的な愛の源泉となって、被造物世界にも及び、ついに十字架の死の痛みをもって罪人を受け入れて認めてゆく、それがキリストの愛であり、愛の奉仕であり、汚れた足を洗う主イエスの本質であります。天国とはそういう神の交わりのうちに営まれる愛と命の泉であります。

ヨハネは、主イエスの十字架における死について「この世から父のもとに移る(metabh/| evk tou/ ko,smou tou,tou pro.j to.n pate,ra)」という言葉で言い表します。この「移る」「立ち去る」という動詞は、ヨハネからすれば、ただ単に地から天への物理的移動を意味するだけではなくて、むしろ啓示の本質を明らかにする啓示の意味で用いられています。つまり「移る」とは、神本来の本質を明らかに示して表す啓示用語として用いられています。したがって、神本来の本質を明らかに啓示するとは、まさに神の愛が背きと言う罪に汚れた足を洗うという愛の奉仕のわざとなって、しかも十字架の死に至るまで洗い清めるための自己犠牲として、従順に神に献げる贖罪の生贄奉献として明らかにされるのです。3節に「13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」とありますように、主イエスにおいて、神の本質は二方向において働く神の啓示として示されています。一つは、父から見た神の働きとして、父がすべてをイエスさまの手に委ねられていること、そして子から見れば、父のもとから来て、父のもとへ帰ることとして啓示されます。さらに付け加えるならば、父と子との関係から、さらに聖霊が別の弁護者として、この世に遣わされるもう一つの派遣として展開します。教理用語で言えば、御子は「父から生まれ」、聖霊は「父から発出する」という表現を用いますが、父から子が主イエスにおいて遣わされて世に降り、そして今度は父から聖霊が主イエスを通して発出し遣わされるのです。このようにして「神」の本当のお姿が、神の本質である愛は、いよいよ愛の奉仕者という姿で世に露に現わされ、啓示されるのであります。イエスさまは、処女マリアから聖霊によって受肉して、イエスとして人間性の全てを背負い担われました。その主イエスにおいて、その人間性の奥深くにおいて、父と子と聖霊なる神はいつも相互に内在し合い愛し合いそして遣わして、神本来の本質を愛の奉仕者として、世に現わして明らかにします。父と子と聖霊とは、常に愛の奉仕者という本質に基づいて、相互に内在共有し合う関係を保ちながら、それぞれの役割を果たすのであります。三位一体の神は、受肉したイエス・キリストというお方において、内在し包まれつつ、外化し現れ、啓示されるのであります。したがって、人間のお身体を持つキリストから父なる神も聖霊も決して切り離されて存在することは有りえないのです。キリストを通して、父と子と聖霊なる神は、常に生き生きと現臨し働き、愛のみわざを行っておられるのではないでしょうか。つまり、イエスさまから、弟子たちが汚れた足を洗っていただいた、という愛の奉仕は、主イエスにおける神の永遠の本質から溢れ出る栄光のわざとして、終末を超えて永遠における天上のわざとして、先取りされて写し出されており、永遠に貫かれてゆくのです。

 

2.「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)

そしてついに主イエスは弟子たちの足を洗います。「13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言った。13:7 イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。」と記されています。十字架の死に至るまで徹底される神の愛の奉仕を非常によく象徴する行為ではないでしょうか。単に足を洗うのではなく、赦されるべきでない罪人の罪を完全に償い、赦しを与え、そして死と滅びから永遠の命に復活させる、という栄光へと招き導く、という洗足行為であり、神の救済の本質となる贖罪行為であります。しかしペトロにはその意味が分かりません。ペトロの「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」(6節)「わたしの足など、決して洗わないでください」(8節)という言葉は、一見、イエスさまに対して厳かな敬意を表しているように聞こえますが、残念ながら、全くイエスさまを理解できていない、厳密に言えば、主イエスにおいて現臨する「神」をまだ知らず、受け入れることができていないのです。そうした無理解の弟子に対して、主イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と諭します。イエスさまとは、いったい誰なのか、正しく理解できていれば、汚れた足を洗ってくださる意味の深さ尊さはよく分かるはずなのですが、しかもそれはどうしてもなくてはならないことなのですが、ペトロを初め弟子たちには、まだイエスさまにおける「神」は見えてはいなかったのです。自分の足を洗われる受肉の「神」を知らないのであります。

本日は、教会暦で申しますと、ペンテコステの聖霊降臨日にあたります。聖霊が天から降り、教会の人々に注がれ、宿ります。とても不思議な出来事ですが、皆さんひとりひとりに、「神」である聖霊が天から降り宿ったということになります。ただ、聖霊派の方々のようにこの聖霊降臨だけを突出させて、イエスさまから切り離して、この断片だけで全てを語り尽くすことはできません。なぜなら、聖霊の降臨は、あくまでもイエスさまの十字架と復活そして昇天という「受肉した御子のお身体」の存在を大前提にしているからです。言い換えれば「教会」という「キリストの身受肉の身体」を前提にして、はじめて展開する神の出来事だからです。熱狂的に聖霊さま聖霊さまと叫び求めて祈る教会もありますが、そうした聖霊派の教会でも、その教会の根本は、イエスさまの十字架と復活と昇天のキリスト、即ち天地を貫いて現臨する主のお身体を前提にしているはずであります。処女マリアから聖霊によって受肉し、地上において人間性の全てを背負って担われ、十字架において死に三日目に復活して天に昇られた、いわば天地にまたがる主イエスの栄光のお身体との深い交わりの中で、引き起こされている神としての聖霊のみわざであります。教会は、そのイエスさまの身体である、ということを前提にして、つまり主イエスおける「神」、すなわち神の御子としての父と聖霊との根源的な交わりの中で、父は子の身体である教会に対して聖霊を遣わすのであります。聖霊降臨の源泉は、三一論的な父と子と聖霊における根源的な相互内在に的な交わりにあり、しかもその三一論的交わりは子において受肉した身体性を内包し、御子の受肉した身体性を写すキリストの身体である教会を用いて、自然万物の世界を大きく包みあげてゆくのです。言えば、聖霊降臨という救済史的出来事は、キリスト論的三一論の展開として生じているのではないでしょうか。世は神の愛と恵みにより、聖霊の賜物をいただき、聖霊に漲り溢れるのであります。父と子と聖霊の豊かな愛と交わりの本質から、当然ながら、生じる神の愛の奉仕であります。そうした神の本質的な愛の奉仕という命の営みのもとに、キリストの身体は天地を貫いて存在しており、そのお身体における豊かな命の交わりを源泉として溢れ出るかのように、聖霊は地上に降り、私たちに宿り、万物に沁みわたり万物を満たすのであります。

そう考えますと、聖霊を受けるとは、元々三一論的な神の大きな愛の本質から生まれたことであり、天地を貫くキリストのお身体全身に漲り溢れる力でもあります。したがって教会生活の全てがこの神の愛の奉仕によってすっぽりと大きく包み込まれていることが分かります。洗礼を受けることや、みことばを聞くこと、聖餐に与ること、日々祈り讃美すること、それは全てイエスさまのお身体において漲り溢れる「神」の力あるみわざそのものではないでしょうか。

イエスさまが、罪に汚れた足を洗うとは、神の愛の奉仕、神本来の愛のみわざ、救いのみわざの全てを象徴する行為であります。であるとすれば、主イエスが十字架の犠牲となって罪を償うことも、聖霊が降って私たちの弁護者となってくださることも、皆、神の愛の奉仕のみわざでもあります。主イエスが、奴隷となって、足を洗うのも、聖霊が天から降りわたしたちの弁護者となって仕えてくださることも、足を洗う神の愛の奉仕そのものでもあります。足を洗うという行為は、奴隷のする仕事でしたが、イエスさまがわたしたちの奴隷のようになって足を洗うという行為を、もう一度、深く、三一論的に読み直すことができるのではないでしょうか。主イエスの十字架の死における栄光のみわざを通して、父と子と聖霊なる神もまた相互に関係し合いながら、愛の本質を果たしておられるのではないでしょうか。「父がすべてを御自分の手にゆだねられた」とは、御子のみわざのうちに、父と子と聖霊なる神は一致して、主イエスにおいて神の愛の本質を現わされた、ということになります。そういう意味からすれば、とても自己犠牲的にご自身を差し出す主イエスのサクラメント的な行為にも見えて来ます。後にペトロが主に「主よ、足だけでなく、手も頭も。」(13:9)と言っていますが、まさに洗礼のようでもあり、しかもこの洗足の行為は、「13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」と記されていた通り、食卓場であり、イスカリオテのユダの裏切りが明らかにされる場でもありました。つまり、主イエスの十字架の死を中核にして、説教がなされ、洗礼と聖餐を包み込むように、奴隷となって汚れた足を洗う愛の奉仕のわざが行われています。ここに三位一体の神の相互内在の本質、神のメシアとしてご自身を啓示する愛の本質、そして神の福音を告知する使徒としての本質と模範の全てが込められ、明らかに現わされ、示されているように思われます。このように、弟子たちは元より、教会もわたくしたちも、いつも主イエスが奴隷となって、汚れた足を洗い拭い続けてくださる洗足のみわざの中に、確かに選ばれて招かれ、包まれて導かれているのではないでしょうか。主は、決して清くない者たちの足を洗って拭い続けられる、その洗足の主こそ、教会の根拠であります。わたしたちが清く正しく強くなることによって担保され保証される教会ではない、ということがよく分かるのではないでしょうか。

 

3.「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになる」

いつもお話しますように、神さまのこと、或いは信仰の世界は、ある意味で、私たち人間に納得のゆく世界ではないように思われます。なぜなら、人間の判断や思考の基準に適うない領域だからです。元々人間には分からないことだから、信じなさいと言われても、それは余りにも乱暴な話です。ですから、やはり分かるようになる、理解し認識できるようになる、そして納得する、ということは、人間としての尊厳においても、決して捨象することはできないのは同然のことであります。主イエスご自身も、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と教えられ、「模範を示したのである。13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」と仰せになり、弟子たちを諭しておられます。決して、分からなくてもよい、というのではなくて、いずれ、分かるようになる、のです。したがって、神の方から自ら啓示して神の真理を示す神の恵みと、そしてその啓示に心を向けて認識を深めてゆこうとする人間の理解という両方向から関わり合える「交わりの場」が確保されることが大事になります。結論から言えば、聖霊なる神からの助けを受けることのできる場です。聖霊の恵みをいただくことで、「あとで」分かるようになる、ということでもあります。この「後で」とは、明らかに、キリストが天に昇られて、聖霊が遣わされた後で、ということを意味しますが、同時にまた、使徒が立てられ遣わされて、目に見える歴史的な教会が地上に導かれ、その地上の教会を聖霊が助けてくださることを意味しています。であるとすれば、教会の中に、分かる根拠は既に与えられている、ということになるのではないでしょうか。教会に使徒が使われ、福音の宣教が行われ、聖礼典が執行され、その一つ一つのうちを貫くようにして、聖霊が語るように真理を明らかにしてくださるのではないでしょうか。みことばを語りみことばを聞くとはそういうことではないでしょうか。使徒によって伝えられた信条や信仰告白に基づき、一致して、聖書が忠実に解き明かされ、解き明かしが正しく聞き分けられ、聖礼典に与るという営みそのものの中に、全ての真理が貫かれ、啓示され、導かれているのです。こうした聖霊による共同的な教導を信頼し身を委ねる営み全体を通して、信仰的認識は深められます。人間は神になることはできませんが、神との交わりを知るようになり、神との交わりに生きることは出来るようになるのではないかと思います。そして、主イエスが、弟子の足を洗われたように、主の洗足を模範として、互いの足を洗い合うという新しい生に目覚め、新しい生に生きることもできるはずです。