ローマの信徒への手紙3章9~20節

ローマの信徒への手紙3章9~20節

2022.7.24 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第8主日礼拝
磯部理一郎牧師

はじめに.「わたしたちには優れた点があるのでしょうか」(9節)

ユダヤ人には、神の啓示の言葉として「律法」と「割礼」とが与えられました。その時点では、確かに彼らは神と特別な関係にあり神の前に特権を得た、と言えましょう。異邦人も、創造時において「良心」という心に記された律法が与えられました。その時点で、異邦人でさえも同じように神を知りうる、と言えましょう。したがって、その意味では確かに「わたしたちには優れた点がある」と言えるかもしれません。ただし、ユダヤ人と異邦人は、一層厳密な意味で、全く同じように神を知ることが出来ると言えるのか、と言えば、やはり「律法」や「割礼」を通して、神を知るユダヤ人と全く同じレベルで、律法を持たない異邦人も、「良心」を通して、神の啓示を理解することができるのでしょうか。やはり厳密な意味で、神の啓示の言葉を知るには、律法による外に、神を知る術はない、と言わざるを得ません。したがってそのような比較においても、割礼と律法を与えられたという点で、明らかに、ユダヤ人は神を知るうえで最も神の近くおり優れている、と考えられます。

神をどこまで正しく認識できるかという点で、さらに論じますと、アダムとエバが、神に背き「罪」を犯して「楽園」を失ってしまった段階で、全人類は本性的に堕落しており、正しく神を認識して神に向き合うことは出来ない状態になっていたと考えられます。聖書は、創世記3章で人間の「堕罪」を記すと、直ちに4章で「兄弟殺し」を証言します。アダムとエバの最初の子カインは、神の前に「自分の誇り」を押し通して、その自我欲求を制御できず、弟アベルを殺害してしまいました。こうした聖書の「堕罪」とそれによる「兄弟殺人」の記述に従えば、明らかに、人類は、根源的に神の御心を写し神の言葉を聞き分けるべき創造時の「良心」を完全な形では残存することは出来なかったようです。聖書は、最初から一貫して、人間の堕罪と殺人の記事を通して、人間は罪により神による創造の恵みと秩序を本性的に破壊され喪失していたことを警告しています。それは、宗教改革者たちが主張するように、人類全体の「全的堕落」を前提に、堕罪について聖書を解釈すれば、やはり必ずしもユダヤ人と異邦人における神の啓示は同一レベルであったか、疑問が残ります。同時にまた、だからと言って、割礼と律法が与えられたからと言って、果たして堕落し創造の恵みと秩序を喪失した人間は、本性的に自らの力で、「神に対する背き」から自己を完全に解放することができるのだろうか、という疑問も残ります。

そこで、前にも触れましたが、ここで触れられる「異邦人」とは、全的堕落によって破綻した罪の現実を認めて受け入れた上で、キリストの福音によって「信仰」に導かれて、その賜物として新しい良心と新しい人間性が与えられて、信仰の戦いの内にある人々、すなわち異邦人キリスト者ではないか、と解釈することも出来そうです。異邦人は、完全破綻を前提とする「罪人」として、律法によらず、ただキリストの恵みにより信仰の光のもとで、新しい信仰に基づく良心の戦いが語られているのではないか、とも言えるかも知れません。

ここで、パウロが「優れている点は何か」と問うていますが、その根本問題は、神を正しく知るという点で、人間を本性的に破壊してしまった「罪」を認められるかどうか、その一点に尽きます。罪によって堕落し、神を神とせず自分を神に取替えて拝み仕えるという倒錯錯誤において、いったいどこに「優れた点」を認めることができるのだろうか、という問いです。異邦人の場合も「良心」が心の律法として与えられたと言っても、神の啓示を明瞭に理解することは出来ず、その意味で神を知ることは出来ませんので、罪を認めざるを得ない、ということになるのは当然です。やはり異邦人は神を正しく知らず、それゆえに偶像崇拝を犯し神に背く「罪人」であります。ただユダヤ人は、異邦人と違って、確かに「割礼と律法」が特別に与えられ、そればかりか、モーセやダビデなど数々の指導者たちや、エリヤを初めとする数多の預言者たちが、ユダヤの歴史を貫くように次々と登場し神の啓示の言葉を語り、預言者たちによって神は絶えず御心を告げ知らせて来ました。ですからユダヤの全歴史は「神の啓示」によって貫かれており、ユダヤ共同体はいつも「神の啓示」によって神の民として神の恩恵に満たされていた、と言えましょう。それは旧約聖書全体が口を揃えて明らかに証しする通りであります。だからこそ、ユダヤの民の責任は非常に重大とも言えましょう。本日のみことばの主題は、まさに神が徹底的に神の啓示のみことばをもって語り、神の御心を啓示したのですが、この神の御心とその啓示である律法や預言に対して、ユダヤの民はどのように向き合い対峙してきたのでしょうか。民の根本的な在り方が、深く根源から問われることになります。

パウロは、既に、この問題は長い間ずっと預言されており、鋭く預言者によって指摘されていたはずではないか、と改めて旧約聖書の言葉を引用して問います。それが詩編14編や53編のみことばであります。新共同訳聖書の巻末括弧付き(44頁)に「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」が掲載されています。そのローマの信徒への手紙3章10―12節の項をご覧いただきますと、詩14編1-3節(=詩53編2-4節)とあります。これは詩編14編1~3節または詩編53編2~4節から引用されたテキストであることを示唆しています。ご参考にしていただけるとよいと思います。また「LXX」と明記される引用個所は、明らかにギリシャ語の七十人訳聖書から引用されたテキストであることを示しています。本題に戻りまして、つまり古くからユダヤの人々は皆、神が民の「罪」を厳しく問題にしておれることを知っていたはずなのです。詩編14編1節以下で「14:1 指揮者によって。ダビデの詩。神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。14:2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。14:3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」とあり、詩編53編2節以下では「53:2 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」とあります。ですから、旧約聖書全体を根本から学び、その本質をよく知っていたパウロは「2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」と語ったのでありましょう。いわば、これがパウロの旧約神学です。ここに「神を知らぬ者」とありますが、さらに真意を汲んで言えば、神を神として崇めず認めないで、神を蔑ろにし神を捨てて、自分や自分の思いを神のように取替えて偶像化して仕え、ついに自己を神のように絶対化する者のことです。律法を知る人であれば、すなわち律法に表された神の御心を知り、信仰心をもって旧約聖書を日々朗読し、懺悔と憐れみを乞い求める祈りをもって暮らすユダヤ人であれば、旧約聖書全体が常に罪を悔い改めることを求めており、神の憐れみと赦しを乞い求め、救い主を待ち望むということは、誰も知り得る所でありました。それなのに、ユダヤ人たちは、律法と割礼を自分の誇る道具に取替え、権力支配のための格好の材料としたのです。神が求められた最も単純で最も重要なことは「自分の罪を認める」ことであり、「悔い改め」にありました。そういう意味で、パウロは律法を悔い改めに導く「養育係」と呼んで、旧約聖書全体の意義と役割を位置づけたのではないでしょうか。律法全体が悔い改めに導くための、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐の啓示であり、神の憐れみのあらわれとなっていたのです。それを無視して侮り、自我欲求に取替えて偶像化し神を冒瀆したのです。律法と割礼という神の恵み、ユダヤ人の罪ゆえに、重大かつ深刻な仇となってしまったと言えましょう。

 

1.「彼らの目には神への畏れがない」(18節)

「神を知る」と申しましても、いろいろな「知り方」があります。単なる知識としてただ文字の上で「神」というものを知っているということもあれば、神を生きて現存するご人格として自分のうちに認め、いわば相互の深い人格的な交わりとその生きた体験を通して神を知るということもあります。或いは、自分自身の全存在と生死がかかった所に神は厳然とおられる、言い換えれば、自分の命そのものの「生殺与奪」の審判者としておられる神を恐れる(畏れる)という知り方もあります。聖書は「彼らの目には神への畏れがない」(3章18節)と指摘します。神の「畏れ(fo,boj fo,boj)」という字は、元々は恐れ慄く恐怖することを意味します。そこから、さらに畏怖、畏敬、崇敬を意味するようになったようです。人間や生物が最も恐れることは「死滅」して自己を失うことです。存在と生死に関わる「危機」の中で、死の恐怖の感情が生まれ、同時に奇跡的に生命は与えられたという驚きをもって生を体験する、そこから畏怖する感情が生じます。つまり生死を司る根源に、超越の「神」がおられ働かれているという認識が「神の畏れ」であります。しかし人間は、生死の根源に神がおられ、神の憐れみと恵みが命に働いていることを無視して、反対に「自分」が神となって、自分の生きることも死ぬことも自己決定可能であるかのように思い上がり、生死は自己完結できると勘違いし、その結果、命と存在の支配と根拠を神から自己に取替え転倒倒錯させてしまいました。「人工中絶」は人間の自由な基本的権利であるという問題が、アメリカで再燃し国民を二分する大問題となっています。まさに胎内に生きる「胎児の人権」をどう考えるか、果たしてその命を奪う権利を容認できるのか、という命の尊厳をめぐる議論であります。近代現代の人権思想の根幹には、明らかに「人間中心の自我欲求」を大前提とする社会思想が貫かれているのではないか、という風に見えることもあります。確かに自分の命の管理者、主権者は自分自身であることは否定できませんが、ここで深く問われる課題は、そこに自らの命の中に何らかの「神」の恵みや力を認めることができるか、或いは、人間はあくまでも「神を畏れる」信仰の秩序のもとで、初めて自分の命と存在の管理と判断に関わることが可能となる、ということになるのではないでしょうか。人間の尊厳はいつも「神をおそれる」ことと背中合わせにあるのです。

創世記3章で女は「3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と蛇に答えます。神は万物の造り主として被造物全体を無から創造されました。したがって命と存在の根拠を神の創造の憐れみに依存している被造物が、どうして造り主である神に取って代わることができるでしょうか。しかし「蛇の誘惑」に心を奪われた人間は大きな勘違いを犯します。自分の欲望欲求の誘惑に負けて、自分も神のように命と存在の支配者なれる、生殺与奪の審判者になれる、自分はそれほど善悪を決する知恵があるはずだ、と考え違いをしてしまったのです。存在と命における神の主権を根本から掠め取って食べ、自分のものにしてしまう、それは、「被造物」である人間にとっては、いかにも不可能で愚かな考えである、と神が警告し語った言葉でした。「神を畏れる」ことの基本は、先ず唯一神だけが万物の造り主であり、したがって神のみが万物の存在と命の生殺与奪の審判者であることを、絶えず「おそれ」をもって知り、覚え、褒め讃えることにあります。警告注意の言葉として語られた「死んではいけないから」という神の言葉は、実に意味深い表現であって、表面的には「死んではいけない」と死の警告を言い表していますが、その奥にある真意は、神に背き神の言葉を無視して、造り主から賦与された「創造の恩恵」を失う、という重大な創造主と被造物との決定的な関係性を教えているように思われます。みことばにおける約束を破る、即ち神に背くことの問題の大きさは、ただ背くというのではなくて、命と存在に根源的に深く関わる神の創造的恩恵そのものを斥けることであり、命と存在の根拠と根源を直ちに失う楽園喪失を余儀なくされ、したがって死んで滅びることになりますよ、という致命的な警告のように聞こえます。ここには、明らかに、永遠無限の絶対者であり創造主である神と、有限であり滅びの危機を背負う被造物である人間と、したがって創造主の恵みに与らなければ生きることも存在することも出来ない被造物との間にある、絶対的「隔絶」と本質における決定的「相違」が、明らかに宣言され警告されています。ところが、蛇は女を誘惑して「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言って唆します。、蛇は巧みな誘惑の言葉により、女の良心から「神をおそれる」意識を奪い去り、その造り主と被造物との間にある絶対的に隔絶した「障壁」を否定し、本質的な神と人とを識別する障壁を破壊し、神と人とを混同させてしまうのです。本当は、ただ「神」だけが神なのでなく、実は「あなた」も神になれるのだ、と言って唆したのです。すると、女は「わたしも神になれるのか」と思い、「神」から離れ、「神」とは別に、「自己」を神に祀り上げてしまいました。先ほどの詩編の引用で言えば、「神への畏れがない」とは、まさに人に命と存在の与えた創造主と、存在と生死を神に依存する被造物と、その間にある本質的に違いや決定的な依存関係を、人間の側から一方的に破棄して神から離反したのです。つまり人は、創造主なる神の恩恵において生き存在している、という根源的な関係性を根本から廃棄してしまったのです。それが堕罪であり楽園喪失であります。この命と存在の基本原理である神に対する関係を罪によって放棄し破壊してしまった人間は、神でない自己を神のよう取替えて限定的には生きることができても、結局は根源的に死に滅びに堕ちるばかりです。そして人類史全体が現代にあっても未だに何一つ変わっていないのです。カラスがクジャクの羽をつけるように、人類はいつまで神にはなれないカラスを演じ続けるのでしょうか。このように、既に旧約聖書の冒頭が示す通り、また詩18節で引用された詩編が証する通り、創造の最初から、人類は罪に堕落して、神の創造の恩恵を放棄してしまったことは明らかなようです。こう見ますと、10節に戻りまして、パウロが説くように「正しい者はいない。一人もいない」(10節)ということが、段々とはっきりして来るのではないでしょうか。「3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。3:14 口は、呪いと苦味で満ち、3:15 足は血を流すのに速く、3:16 その道には破壊と悲惨がある。3:17 彼らは平和の道を知らない。3:18 彼らの目には神への畏れがない。」という詩編の言葉は、現代史を生きる人類にもそのまま当て嵌まる深刻な課題でもあります。

 

2. 「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになる」(19節)

こうして9節で「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」と断じたパウロは、ついに律法の担う役割について決定的な結論を述べます。「3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と結論づけました。簡単に言えば、全人類は皆、最初から、律法に啓示された神の御心を行なうことは出来ないので、それゆえ神にからその責任と課題が問われ、誰一人として弁解も言い訳もする余地はなく、結局、怒りの審判を受けざるを得ないのです。この19節を、リビングバイブルは「神様のおきてを守る責任があるのに、守らず、こうした悪事にふけっているからです。 彼らのうち一人として、申し開きのできる者はいません。 事実、全世界が全能の神様の前に沈黙して立ち、有罪の宣告を受けているのです。」と訳しています。とても分かり易い、意味のはっきりとした訳となっています。

このパウロの結論をめぐり、先ず注意したい点は「すべての人の口がふさがれて」という言い方です。そのあとでも「全世界が神の裁きに服する」と言っています。さらに言えば「だれ一人神の前で義とされない」とまで言い切っています。「すべての人」「全世界」そして「だれ一人」と言って、パウロは人類全体を完全否定します。否、人類のみならず「全世界が神の裁きに服する(u`po,dikoj ge,nhtai pa/j o` ko,smoj tw/| qew/|)」と言い、被造物全体をも含めて完全否定します。欽定訳は、“all the world may become guilty before God” 即ち「全世界は神の前に有罪となる」と訳しています。つまり人類万物皆全てが、神のみ前で有罪であると断罪します。何もかも、神に対して、神を知り神を畏れるという点では、弁解の余地は全くないということになります。

パウロは、どうしてこれほどまでに全世界を完全否定するに至ったのでしょうか。それは、もう少し聖書の先を読みながら詳しく述べますが、余りにも「神の福音」が絶大であることを知ったからではないかと思います。本当の意味で「神」の大きさを知ったからではないか、と思います。別な言い方をすれば、それほど「神の福音」における恵みには、分け隔てや偏りがなく、まことに公正と公平に徹底しており、完全に万物を満たしてしまっていることが分かったから、でありましょう。神の福音には、差別や偏りがなく、完全に全ての存在に対して平等であり完全であり、開かれているからです。あなたに対しても、わたしに対しても、どんな人にも、どんなものにも、「神の福音」は完全に開かれており、すべてを完全無限に満たして余りある絶大な恵であることに気付いたのであります。キリストの十字架の死と復活は、それほど大きな創造的な爆発力を持っているのです。「神の力」それも神のダイナマイトのような爆発力で世界宇宙を吹き飛ばしてしまうかのように、万物の隅々に神の新しい創造と命の力を浸透させてしまったことを知ったからです。いわば、律法を完全実行して神の義に至るという観点から言えば、人類は、堕罪ゆえに、死と滅びの中に閉じ込められたまま死と滅びの運命を辿るばかりであります。自らの力によって自己を解放することも出来ず破れ果て絶望の中で、自分自身においても死と滅びの転落を辿りつつ、その後に待っている決定的な運命は、神のみ前で有罪の宣告を受けて神の完全否定を余儀なくされるばかりであります。しかし反対に、キリストの福音の恵みにただ信仰によって与りいただく、という「恵み」の観点から言えば、神の御子が十字架の死に至るまでご自身の内にわたしたちを丸ごと徹底的に背負い、どんな罪であろうと人類の罪を完全に償い、しかも神への従順を貫き通して神の義に勝利してくださいました。神の義は「御子の十字架における恵み」として与えられ、御子の十字架の死による従順と贖罪の恵みにより、万物は神の義という完全肯定に包まれ新たな祝福を与えられ、「復活」という新しい創造の秩序のもとで「永遠の命」によって新生したのであります。十字架の死における贖罪の力は無限であり、罪の大小の違いや人種は元より身分や学歴など一切合切の全てを超えて、一切関係なしに、万物を贖い包む爆発的な力であり、万物を完全に創造して回復する神の創造の恵みであります。そういう贖罪の恵みの大きさから言えば、罪の大小の差別区別を超えてしまっているのです。皆罪人であるが、しかし同時に皆罪赦された義人となる、ということになります。

しかし案外このキリストの福音の大きさを、わたしたちはまだ十分に知らないのではないでしょうか。人間はどんな人も、罪という神の審判のもとでは皆平等であり、神の前で有罪の宣告を受け完全に否定されています。しかしわたしたち人間の気持ちから言えば、どうしても「自分」を中心に考えたいのです。自分を言いたいのです。神を仰ぎ見る垂直的な態度ではなく、人間同士の比較に基づいて物事を見ようとすれば、罪にも大きい小さいの違いがある、或いは救いの信仰にも、大小の違いがある、と誰もが思うのです。それは、神に対して罪を犯している、という罪の決定的な意味がまだ十分に分からないからであります。時には、あの人は神に裁かれたのだ、と言って、自分が神に認められたかのように思い込むことすらあります。自分が審判者のようになっていることを自覚しないまま、他者を神が審判したかのように思うのです。しかし本当は、神に対して罪人であり、有罪宣告を受けている点では、自分も他者も全く同じはずです。したがって当然ながら、神から罪を赦されたという救いの恵みもまた正しく理解できないのです。すべては人間の中だけでしか見えていないからです。自分はあそこまでは酷くはないぞ、あれは論外だなどと言いたくなるのが人情ですが、人間は皆だれもが、自分の世界の中に閉じこもり自分だけを特別扱いにしたいのです。少しは自分を認めて欲しい、自分にも言い分や事情がある、それは違う、と思うのです。しかしそれはあくまでも人間同士の話であって、神に対する根源的な罪と堕落の話とは全く異質であり、神に対して罪赦されて新たに生きるという神の恵みの話では全くないことです。神に対することと人間同士のことでは、質でも量でも、全く違う話であります。先ほど創世記3章を紹介したように、神の創造の恩恵を放棄してしまった人間の堕罪によって、その創造の恵みの放棄と破壊は、神のみ前では、人間だけに止まらず、被造物全体にまで及び世界を巻き込んでしまいました。まさに神に対して、被造物全体を巻き込んですべてを破壊し汚してしまった、それが自分の本質なのだ、ということがよく分からないのです。神に対するおそれを知らないとは、そういうことであります。それは同時に、神に対して永遠の命をもって新たに生きるという新しい創造的な人間性の可能性も、その絶大な恵みの力もまた思いつかないのではないでしょうか。全地全能の創造主である神が、完全絶対の愛と憐れみを尽くして創造した世界であり、被造物世界であります。その神の無限の恩恵の秩序を放棄し破壊したのです。これは、人間一人一人の個人差をどうこう言い分けるようなレベルの問題ではないのです。同じように、神の福音の前には、救いの大きい小さいは全くなく、神の御子による十字架の救いは永遠完全であります。

ではなぜ神は、それなのに、敢えてユダヤ人に文字の律法を与え、異邦人には心を律法を与えたのでしょうか。改めて律法の役割に議論が戻ります。「それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」とパウロは述べてその真相を明らかにします。文字や心の律法が与えられた意味を整理しますと、第一に、神の背きの事実に対しては全く弁解の余地なく、したがって有罪の宣告を受けていることを認めることです。つまり「神の前に有罪宣告を受ける」のために、神の律法は民を断罪する審判者として働いている、ということになります。第二は、創造の恩恵を放棄して楽園を失った人類は、その堕落ゆえに律法に啓示された神の御心を実行することができないので、自分の力では問題解決ができず、破綻して絶望し、自分の「破れ」を知り認めるようになるための道程として働いています。第三に、律法を行えず、有罪宣告を受けることで、初めて人類は心のうちに「神」に対する「罪の自覚」が生じるのです。つまり「罪の自覚」に導くために律法は与えられた、ということになります。言い換えれば、自己中心の心を捨てて、神に対して心を開き神の啓示の言葉を待つ準備が与えられるのです。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(dia. ga.r no,mou evpi,gnwsij a`marti,aj)。」と記されていますが、この罪の「自覚(evpi,gnwsij evpi,gnwsij)」という字は、「厳密で正確な認識」を意味します。動詞では「しかと見届ける、識別する、知り尽くす、深く洞察する、承認する」という意味です。つまり「罪の自覚」とは、厳密で正確な罪の認識に基づいて神に対する罪を承認することを意味します。新共同訳と口語訳は「罪の自覚」と訳し、新改訳は「罪の意識」と訳しています。重要なのは、「罪の自覚」とは、神に対してどのような罪を犯しているか、正確かつ厳密に認識し、神に対する自分の罪を承認して受け入れるのでなければならない、という点です。この神に対する正確かつ厳密な自分の罪の承認に導くことこそ、まさに文字と心の律法の担う役割であったのではないでしょうか。そしてこの厳密かつ正確な罪の認識の根幹を中心から担う自覚は、自分の力に依り頼むことの放棄であり、自分を特別扱いしてほしいという自我欲求の断念であり、その空しさ無意味さの承認であります。しかしこれは同時にまた、余りある神の福音の大きさ豊かさ、神の恵みとはどのようなものか、その本質を知り、本当の意味で神を神として認めほめたたえる道となります。全くこの世のもの、人間的なものは一切通用しない世界である、ということです。極論すれば、神の義を得るという点では、自己の全てに破綻し絶望する罪の自覚であり、そして自己中心から神の恵み目が開くことで獲得される新しい認識の出発点であり、その承認是認であります。律法を通しては、人は神に対する罪を厳格厳正に認識し承認し、御子の十字架の死と復活においては、本当の神の恵みを「恵み」として正しく認識して受け入れ、そして神を本当の意味で神と崇める出発点となります。大事なのは、神の福音を福音とする、神の恵みを恵みとする原点が、罪の承認というこの完全な自己破綻を受け入れて承認する罪の自覚にあり、救いは人間のうちにはなく、ただ神の恵みによることを知るのです。罪の自覚は、キリストの十字架における死を知れば知るほど、一層はっきりと、罪は厳密に正しく認識され自覚されるようになります。反対に、いつまでも自分を認めて欲しいと拘泥すればするほど、恵みを知る原点と場を失うことになります。ですから、神が有罪を宣告するのも、それによって罪の自覚が生じるのも、根本は、神の恵みを恵みとして受け入れる道をわたくしたちの心のうちに開いてくださるためであります。どこかまだ自分を認めて欲しい、どこかまだ自分の見どころがあるのではないか、自信や自分の誇りが残存すれば、それは堕落した人間の世界に堕ちたまま、しかも神なき人間世界の中で彷徨い続けるのであり、神の福音を恵みとして見上げる原点には至らないからです。「信仰」に至らず、人間だけの世界にとどまる、ということになります。

 

3.「聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」(1章2~3節)

「神のおそれを知る」ということには、恐怖と畏敬という二重の意味があることはお話した通りです。一方で、律法を実行するという観点から言えば、人類の神に対する背きの罪に有罪宣告し全人類に審判を下し完全否定する「怒り」の神として恐怖を覚えます。そこには、底なしの死と滅びの恐怖が拡がります。しかし他方で、神の御子が十字架の死に至るまで、ご自身の全身全霊において全人類を丸ごと背負い、神への従順を尽くし全人類の罪を償い、その肉体の復活において全人類に永遠の命を齎します。そこには、完全無限なる「罪の赦し」と爆発的な創造回復の力が漲り溢れます。それはまさに神を畏怖畏敬する畏れであります。パウロは冒頭の自己紹介で、「1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。1:5 わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」と告げています。改めて読み返してみますと、明らかに、律法の担う役割は「聖書の中で預言者を通して約束されたもの」であり、「御子に関するもの」を啓示する働きを担っていたと言えましょう。ある意味で、人類史やユダヤ人にとっては、とても長い旅路であったと言えるでありましょう。人類はその歴史を通じて常にわが内なる「良心」と格闘しては破れ、未だに問題解決に至ってはいないのです。ユダヤ人とて律法や割礼を与えられながら、やはり律法に破れ、結局はそこに啓示された神の御心を生きることは出来ずにいます。神は、長い間、ご自身を否定し自我を偶像化し拝み仕えてきた人類の「罪の自覚」を寛容をもって忍耐し、求め待ち続けておられたのではないでしょうか。そうした人類が罪との長い格闘と破れを繰り返す中で、神は「キリストの時」を準備されたのではないでしょうか。そしてついに今や、律法とは別に、キリストの十字架と復活において、無限に働く爆発的な創造の力によって、死者が甦るという新しい創造の力を現わすのであります。