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2021年12月26日「主の道をまっすぐにせよ」 磯部理一郎 牧師

 

ヨハネ福音書講解説教資料集

 

■すぎこしのまつり 過越の祭り 「過越」と訳されている〈ヘ〉ペサフの語源の持つさまざまな意味(たとえば「足を引きずって歩く」「過ぎ越す」「飛び回る」「立ち止る」等)から,この祭は,もともとは悲しみ嘆くことを職業にしている人々によって演じられた異教徒の踊りからきているのではないかと推測する学者もいる.しかしそれはあくまでも推測の域を出ず,そのことばの持つ意味としては「過ぎ越す」というのが最も妥当なものであろう.この祭は春にユダヤ人が偉大な歴史的出来事である出エジプトを記念して守った祭であり,3大祭の一つである.元来は牧畜の祭であり,種を入れないパンの祭(農耕祭)とは区別されていたが,後に併合され,歴史的意味合いを持つようになった.旧約聖書においてはしばしば過越の子羊と種を入れないパンが同じ祭に用いられている(出34:25,民28:16‐17,エゼ45:21等)ところからもそのことを知ることができよう.アビブの月(後にバビロニヤ暦でニサンの月と呼ばれる.ネヘ2:1,エス3:7)の10日に祭の準備が始められ,家族の人数に応じて,傷のない1歳の雄の子羊が選ばれ,14日の夕暮にほふられた(出12:6,レビ23:5).その血は家の門柱とかもいに塗られた(後には祭壇にふりかけられ,その土台に注がれるようになった.Ⅱ歴35:11).子羊の肉はその頭も足も内臓も火で焼かれ(出12:9),その骨を折ってはならなかった(出12:46).その肉は種を入れないパン,苦菜と共に(出12:8)儀式にのっとって食され,それを翌朝まで残しておいてはならず,朝まで残ったものは火で焼かれた(出12:10,34:25).旧約聖書には至る所に神の全能の御手によってなされた奇蹟的な出エジプトのわざが記されている(Ⅰサム8:8,Ⅰ列8:53,詩135‐136篇,イザ10:26,エレ16:14,エゼ20:6,ダニ9:15,ホセ2:15,アモ2:10等).出エジプトの出来事は,イスラエル民族の存在を左右する出来事であり,過越の祭とは神が自分の民のためになしたその偉大なわざを想起させるものである.奴隷からの解放,そして約束の地での定住,これらは契約の神の忠実さのあかしである(ミカ6:4‐5).過越の祭はこれを記念するものであった.そして新約聖書において,この過越の子羊,種を入れないパンは,全人類を汚れと罪から救い出し,罪の拘束と永遠の滅びから解放する,つまり真の自由を与えてくださるイエス・キリストの型としてとらえられているのである(ヨハ6:31‐35,Ⅰコリ5:7).過越の祭,それは神の祝福への感謝の祭(農耕牧畜祭)であると共に,それにもまして神の御手による救いを記念する重要な祭であった.

 

■せいじょのシェケル 聖所のシェケル シェケルは「はかる」の語から派生した金属の重量基準で,出エジプト以降,通常の取引きと共に宗教上の目的に使用され,その場合は,聖所のシェケル(出30:13,レビ5:15,民3:47)と言われた.約10グラムに相当するものと思われる.なお,1シェケルは20ゲラである(出30:13,エゼ45:12).→かへい 貨幣,どりょうこう

■シェケル ヘブル語の「量る」という動詞から派生した語で,度量衡の基本単位であったが,後に貨幣の基本単位となった(アモ8:5).ヘブル人は元来天びんと重り石で金銭その他のものを量った(レビ19:36).その単位はタラント,ミナ,シェケル,ゲラ,ベカであった(出30:13,38:26,エゼ45:12).ヘブル人はこの単位で銀を量って取引きをした(創23:16).シェケルは最もよく使われた度量衡の単位であり,通貨の単位であった(出38:28‐29,ヨシ7:21,Ⅱ列7:1).出エジプト以後,シェケルは宗教的目的に使われる場合もあり,それは聖所のシェケルと呼ばれた(出30:13,レビ5:15,民3:47).→かへい 貨幣,どりょうこう

頃には115グレイン(7.45グラム)の金貨になっていたようである.ペルシヤの貨幣で言えば,ちょうどダリク金貨に相当するものであっただろう.

 

貨幣

タラント(マタ18:24,25:14‐30).もともとギリシヤの重さの単位であったのが金銭の単位として用いられるようになったもので,当時の一番大きな金銭の単位であったようであるが,1タラントの貨幣は存在しなかったと思われる.1タラントと言っても,金,銀,銅によりそれぞれ価値が異なるのは当然で,銀1タラントは,ローマの金貨アウレウス240枚分に当り,ローマのデナリ銀貨6000枚の価値があったようである.

ミナ(ルカ19:12‐27).ギリシヤのお金の単位で,おそらく銀1ミナでギリシヤのドラクマ銀貨100枚に相当したものと思われる.

スタテル(マタ17:27).ギリシヤの銀貨で,テトラドラクマ(4ドラクマ)とも呼ばれ,アンテオケ,カパドキヤのカイザリヤ,ツロで鋳造されたものが知られている.前65年頃ローマの皇帝ポンペイウスはアンテオケとツロのテトラドラクマを4デナリと定めたと伝えられている.またヨセフォス(『ユダヤ戦記』2:21:2)もツロのテトラドラクマが同じく4デナリであったと言う.しかしアンテオケのものはその重さがツロのものとたいして変らなかったにもかかわらず(ツロ‥220―224グレインすなわち14.3―14.5グラム,アンテオケ‥220―230グレインすなわち14.3―14.9グラム),ローマ政府により3デナリとしか認められていなかったようである.このことから,一般の取引きでは1ドラクマが1デナリで取引きされていたが,ローマ政府に対する支払の場合には4ドラクマが3デナリの割合で計算されていた,と言えるかもしれない.しかしこれはまた時と所によって異なっていたのかもしれない.スタテルは新約聖書には1回マタ17:27に出てきて,そこでは,イエスとペテロの2人分の「宮の納入金」に相当する金額である.マタ17:24で「宮の納入金」と訳されているギリシヤ語は「2ドラクマ」を表すことばであって,ユダヤ人たちの間では2ドラクマは半シェケルに当り,出30:13,38:26に出てくる人口調査の登録の際の贖い金に相当すると考えられていたようであり(『ユダヤ古代誌』3:8:2,18:9:1,『ユダヤ戦記』7:6:6),マイモニデスによればこれが後に毎年納めなければならない人頭税になったと言う.したがって1スタテルは4ドラクマで,1シェケルに相当することになる.ユダヤ教ではこの頃宮の納入金はツロの貨幣で納めなければならなかったと伝えている(ベホロット8:7)ので,マタ17:24の「宮の納入金」(〈ギ〉ディドゥラクモン「2ドラクマ」)はツロの貨幣であり,マタ17:27のスタテルもその基準にかなったものだったのであろう.

ユダがイエスを売った値段は「銀貨30枚」であったが(マタ26:15,27:3,9),これはゼカ11:13の「銀30」にならった表現で(ゼカ11:12では同じものが「銀30シェケル」),シェケル銀貨すなわちスタテル銀貨であっただろう.この時ユダが受け取った銀貨を,「これを神殿の金庫に入れるのはよくない」(マタ27:6)に基づき,アンテオケのテトラドラクマと見る人たちも多い.しかし同じマタ27:6にはその理由が「血の代価だから」と説明されており,必ずしもツロのテトラドラクマではなくアンテオケのテトラドラクマだったので神殿の金庫にふさわしくなかった,と考える必要もないであろう.

使19:19の「銀貨5万枚」についてはテトラドラクマであったのかドラクマであったのかはっきりしたことは言えないが,「銀貨」がマタ26:15,27:3,9と同じ意味で使われている可能性は大であろう.

ディドラクマ(2ドラクマ).新改訳では宮への納入金がディドラクマであるところから「宮の納入金」と訳されている(マタ17:24).この銀貨はあまりよく流通していなかったようで,「宮の納入金」を納める時には,しばしばマタ17:27にあるようにスタテル銀貨,すなわちテトラドラクマ銀貨で2人分を納めたようである.

ドラクマ.ギリシヤの銀貨の単位で,前300年頃には,1ドラクマが羊1匹の値段であり,牛1頭は5ドラクマであったとファレロンのデメトリオスは伝えている.ローマ帝国の西部では,ローマの銀貨デナリが用いられていたが,帝国の東部,すなわちシリヤから小アジヤにかけては,ツロ,アンテオケ,カパドキヤのカイザリヤなどで鋳造されたギリシヤ銀貨,特にテトラドラクマ(=スタテル)とドラクマが依然としてローマのデナリと共に通用していたようである.ドラクマとデナリの関係についてはスタテルの項ですでに述べたが,一般の取引きではほぼ同価だったとすると1ドラクマは新約時代にはほぼ1日の労賃だったと思われる.

デナリ(マタ20:2,22:19,マコ6:37,ルカ10:35).ローマの銀貨.マタ20:2によると当時勤労者の1日の労賃だったようである.デナリという単位はもともと〈ラ〉デーニー(10ずつ)ということばに由来しているようで,おそらく「アサリオン銀貨10」というような意味だったのだろう.しかし前217年以来1デナリは16アサリオンと定められたようである.皇帝アウグストゥスからネロに至るまでの期間は,1デナリは60グレイン(3.89グラム)であったが,ネロの時に至って52グレイン(3.37グラム)になったということである.ユダヤ人たちはローマへの納税にこの銀貨をよく用いたのであろう(マタ22:17‐21).この銀貨の表にローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていた(マタ22:20)ことは,発見されたデナリ銀貨によって確認されている.

アサリオン(マタ10:29,ルカ12:6).ローマの銅貨で,デナリ銀貨の16分の1の価値があったと思われる.マタ10:29では2羽の雀の値段として出てくるが,ルカ12:6では2アサリオンで5羽の雀の値段になっている.

コドラント(マタ5:26,マコ12:42).ローマの最小の貨幣で(参照マタ5:26),銅貨.アサリオン銅貨の4分の1.

レプタ(マコ12:42,ルカ12:59,21:2).おそらくユダヤの青銅の貨幣で,2分の1コドラント(マコ12:42).ハスモン王朝,ヘロデ王朝時代の貨幣の中で15―20グレイン(0.97―1.30グラム)にも足りない青銅貨があるが,たぶんそれがこれに当るのであろう.

現代の通貨との換算は実はきわめて困難な問題を含んでいる.たとえば新約時代のローマの銀貨デナリは農園自由労働者の1日の賃金とされている(マタ20:2).しかし人間の労働力の評価は,時代と場所,文化の質により,著しく異なる.このデナリは銀の重量にすると3.89グラムである.これを単なる地金として現在の価格に直すことは容易であり,確かに一つの目安としなければならないであろう.しかし鋳造された貨幣は通貨として保証されているので,当然,単なる金属の地金の価値以上のものがある.その貨幣で購買することができる価値を別に判断することが必要である.しかしこの価値は,当然,当時の政治の安定度,それを保証している政府の力や方針などと深く関係するため,推定するのは大変困難だと言わざるを得ない.

〔参考文献〕Kennedy, A. R. S., “Money,” ADictionary of the Bible, Vol.3, CharlesScribners Sons, 1908, pp.417‐432; Wiseman,D. J./Wheaton, D. H., “Money,” IllustratedBible Dictionary, Vol.2, Tyndale, 1980, pp.1018‐1023; Archer, G. L., “Coins,” TheZondervan Pictorial Encyclopedia of the Bible,Vol.1, Zondervan, 1977, pp.902‐911; Kindler,A., “Coins and Currency,” EncyclopaediaJudaica, Vol.5, Keter Pub. House, 1972, pp.695‐721; De Vaux, R., Ancient Israel,McGraw‐Hill, 1961, pp.206‐209; Hamburger,H., “Money, Coins,” The InterpretersDictionary of the Bible, Vol.3, Abingdon,1962, pp.423‐435.(畑野 忍)

 

Joh 2:14 kai. eu-ren evn tw/| i`erw/| tou.j pwlou/ntaj bo,aj kai. pro,bata kai. peristera.j kai. tou.j kermatista.j kaqhme,nouj(

@1# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@2# eu`ri,skw eu-ren 動)直アオ能3単 わかる、見つける

@3# evn ev 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@4# o` tw/| 冠)与中単 冠詞(この、その)

@5# i`ero,j i`erw/| 指示)中単 神にささげられた

@6# o` tou.j 冠)対男複 冠詞(この、その)

@7# pwle,w pwlou/ntaj 分)現能対男複 売る

@8# bou/j bo,aj 名)対男複 牛

@9# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@10# pro,baton pro,bata 名)対中複 羊

@11# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@12# peristera, peristera.j 名)対女複 鳩

@13# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@14# o` tou.j 冠)対男複 冠詞(この、その)

@15# kermatisth,j kermatista.j 名)対男複 両替人

@16# ka,qhmai kaqhme,nouj(分)現能欠対男複 座っている

【口語訳】 Joh 2:14 そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、

【新改訳改訂3】 Joh2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、

【新共同訳】 Joh 2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。

【NKJV】 Joh 2:14 And He found in the temple those who sold oxen and sheep and doves, and the moneychangers doing business.

【TEV】 Joh 2:14 There in the Temple he found people selling cattle, sheep, and pigeons, and also the moneychangers sitting at their tables.

【KJV】 Joh 2:14 And found in the temple those that sold oxen and sheep and doves, and the changers of money sitting:

【NIV】 Joh 2:14 In the temple courts he found men selling cattle, sheep and doves, and others sitting at tables exchanging money.

【LIB】 Joh 2:14 そして、宮の境内で、供え物用の牛、羊、鳩を売る商人たちや、勘定台を前にどっかと座り込んでいる両替人たちをごらんになりました。

【塚本訳】 Joh2:14 宮の庭で牛や羊や鳩を売る者、また両替屋が坐っているのを見られると、

 

Joh 2:16  kai. toi/j ta.j peristera.j pwlou/sin ei=pen( :Arate tau/ta evnteu/qen( mh. poiei/te to.n oi=kon tou/ patro,j mou oi=kon evmpori,ou)

@1# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@2# o` toi/j 冠)与男複 冠詞(この、その)

@3# o` ta.j 冠)対女複 冠詞(この、その)

@4# peristera, peristera.j 名)対女複 鳩

@5# pwle,w pwlou/sin 分)現能与男複 売る

@6# ei=pon ei=pen(動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@7# ai;rw :Arate 動)命アオ能2複 持ち上げる、ささえる、運ぶ

@8# ou-toj tau/ta 指示)対中複 このこと

@9# evnteu/qen evnteu/qen(副) ここから

@10# mh, mh. 不変)否定 ~ない

@11# poie,w poiei/te 動)命現能2複 する

@12# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@13# oi=koj oi=kon 名)対男単 家

@14# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@15# path,r patro,j 名)属男単 父

@16# evgw, mou 代)属1単 私、わたし

@17# oi=koj oi=kon 名)対男単 家

@18# evmpo,rion evmpori,ou) 名)属中単 商売

【口語訳】 Joh 2:16 はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。

【新改訳改訂3】 Joh2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

【新共同訳】 Joh 2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

【NKJV】 Joh 2:16 And He said to those who sold doves, “Take these things away! Do not make My Father’s house a house of merchandise!”

【TEV】 Joh 2:16 and he ordered those who sold the pigeons, “Take them out of here! Stop making my Father’s house a marketplace!”

【KJV】 Joh 2:16 And said unto them that sold doves, Take these things hence; make not my Father’s house an house of merchandise.

【NIV】 Joh 2:16 To those who sold doves he said, “Get these out of here! How dare you turn my Father’s house into a market!”

【LIB】Joh 2:16 鳩を売る者たちには、「それを持って、出て行きなさい。 父の家を金もうけの場所にしてはいけません」と、言われました。

【塚本訳】 Joh2:16 また鳩を売る者に言われた、「それをここから持ってゆけ。わたしの父上の家を商店にするな。」

 

Mar 11:17kai. evdi,dasken kai. e;legen auvtoi/j( Ouv ge,graptai o[ti ~O oi=ko,j mou oi=koj proseuch/j klhqh,setai pa/sin toi/j e;qnesin* u`mei/j de. pepoih,kate auvto.n sph,laion lh|stw/n)

@1# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@2# dida,skw evdi,dasken 動)直未完能3単 教える

@3# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@4# le,gw e;legen 動)直未完能3 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@5# auvto,j auvtoi/j(代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@6# ouv Ou 不変)疑複 ~ない

@7# gra,fw ge,graptai 動)直完了受3単 書く、書きおくる

@8# o[ti o[ti 接)等 ~と、なぜなら

@9# o` ~O 冠)主男単 冠詞(この、その)

@10# oi=koj oi=ko,j 名)主男単 家

@11# evgw, mou 代)属1単 私、わたし

@12# oi=koj oi=koj 名)主男単 家

@13# proseuch, proseuch/j 名)属女単 祈り

@14# kale,w klhqh,setai 動)直未来受3単 呼ぶ、名づける

@15# pa/j pa/sin 形)与 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@16# o` toi/j 冠)与中複 冠詞(この、その)

@17# e;qnoj e;qnesin* 名)与中複 国民、異邦人

@18# su, u`mei/j 代)主2複 あなた

@19# de, de. 接)完等 さて、そして、次に、しかし

@20# poie,w pepoih,kate 動)直完了能2複 する

@21# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@22# sph,laion sph,laion 名)対中単 (野獣の住む)穴

@23# lh|sth,j lh|stw/n) 名)属男複 強盗,盗賊.

【口語訳】 Mar 11:17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。

【新改訳改訂3】 Mar11:17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」

【新共同訳】 Mar 11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」

【NKJV】 Mar 11:17 Then He taught, saying to them, “Is it not written, ‘My house shall be called a house of prayer for all nations’? But you have made it a ‘den of thieves.’ ”

【TEV】 Mar 11:17 He then taught the people: “It is written in the Scriptures that God said, “My Temple will be called a house of prayer for the people of all nations.’ But you have turned it into a hideout for thieves!”

【KJV】 Mar 11:17 And he taught, saying unto them, Is it not written, My house shall be called of all nations the house of prayer? but ye have made it a den of thieves.

【NIV】 Mar 11:17 And as he taught them, he said, “Is it not written: / “`My house will be called / a house of prayer for all nations’ {[17] Isaiah 56:7}? But you have made it `a den of robbers.’ {[17] Jer. 7:11}”

【LIB】 Mar 11:17 そういう人たちに、イエスは、このように言われました。 「聖書(旧約)には、『わたしの神殿は、世界中の人たちの祈りの場所と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。 それなのに、あなたがたはここを強盗の巣にしてしまったのです。」

【塚本訳】 Mar11:17 それからこう言って教えられた、「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである』と(聖書に)書いてあるではないか。ところがあなた達はそれを『強盗の巣』にしてしまっている。」

 

Luk 19:46

le,gwn auvtoi/j( Ge,graptai( Kai. e;stai o` oi=ko,j mou oi=koj proseuch/j( u`mei/j de. auvto.n evpoih,sate sph,laion lh|stw/n)

@1# le,gw le,gwn 分)現能主男 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@2# auvto,j auvtoi/j(代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@3# gra,fw Ge,graptai(動)直完了受3単 書く、書きおくる

@4# kai, Kai. 副 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@5# eivmi, e;stai 動)直未来能欠3単 ある、~である、~です

@6# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@7# oi=koj oi=ko,j 名)主男単 家

@8# evgw, mou 代)属1単 私、わたし

@9# oi=koj oi=koj 名)主男単 家

@10# proseuch, proseuch/j(名)属女単 祈り

@11# su, u`mei/j 代)主2複 あなた

@12# de, de. 接)完等 さて、そして、次に、しかし

@13# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@14# poie,w evpoih,sate 動)直アオ能2複 する

@15# sph,laion sph,laion 名)対中単 (野獣の住む)穴

@16# lh|sth,j lh|stw/n) 名)属男複 強盗,盗賊.

【口語訳】 Luk 19:46 彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。

【新改訳改訂3】 Luk19:46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

【新共同訳】 Luk 19:46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」

【NKJV】 Luk 19:46 saying to them, “It is written, ‘My house is a house of prayer,’ but you have made it a ‘den of thieves.’ ”

【TEV】 Luk 19:46 saying to them, “It is written in the Scriptures that God said, “My Temple will be a house of prayer.’ But you have turned it into a hideout for thieves!”

【KJV】 Luk 19:46 Saying unto them, It is written, My house is the house of prayer: but ye have made it a den of thieves.

【NIV】 Luk 19:46 “It is written,” he said to them, “`My house will be a house of prayer’ {[46] Isaiah 56:7}; but you have made it `a den of robbers.’ {[46] Jer. 7:11}”

【LIB】 Luk 19:46 「聖書(旧約)に『わたしの神殿は祈りの場所と呼ばれる』と、はっきり書いてあるではありませんか。 それなのに、あなたがたは強盗の巣にしてしまったのです!」

【塚本訳】 Luk19:46 こう言われた、「『わたしの家は祈りの家であらねばならぬ』と(聖書に)書いてあるのに、あなた達はそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

 

 

 

■しんでん 神殿 聖書で「神殿」と言われる時,一般的にはエルサレムにあった神殿を指していると理解されるが,実際には,歴史的に言えば3つの神殿という理解が必要である.ここでは,それら3つの神殿,すなわち,ソロモンの神殿ゼルバベルの神殿(第2神殿),ヘロデの神殿に関して述べ,その他の神殿,すなわちエルサレム以外に存在した神殿に関しては簡潔に述べるだけにとどめる.

エルサレムの神殿の地理的位置については,ソロモンの神殿のあった同じ位置に,ゼルバベルによる第2神殿が建てられ,さらに,ヘロデもまたその位置に神殿を建てたと一般に理解されている.その神殿跡は,モリヤの山の少し北方に位置する場所で,現在では「岩のドーム」と呼ばれるイスラム教寺院が建てられている.最近では,その神殿跡の中心は,現在の位置よりも少し北西よりの所であるとの意見も出されている.

1.ソロモンの神殿.

2.ゼルバベルの神殿.

3.ヘロデの神殿.

4.その他の神殿.

1.ソロモンの神殿.一般に第1神殿とも呼ばれる,このソロモンが建てた神殿は,聖書の記述資料という点からすれば,主として,Ⅰ列5‐8章,およびそれとの並行記事と考えられるⅡ歴2‐7章にほとんどが記されている(エゼ40‐43章は,幻を通しての啓示の終末論的な展開であるので,この場合には除外する).

(1)ソロモン神殿の起源.神殿に関する記述は,その土地の取得から論じられるべきである.Ⅱサム24:16‐25には,神殿建築を前提とした土地の取得がソロモンの父ダビデによってなされたとあり,また,ダビデ自身も神殿建築を願っていたことが記されている(Ⅱサム7:2‐7,Ⅰ列5:3,8:17‐19).しかし,神がダビデに求められたことは,エルサレムを都として,神殿建築のために場所を備えることであり,ダビデはそれを果した.神殿の前身は,出エジプト以来イスラエルの民が大切にしてきた幕屋であった(Ⅱサム6:12‐7:2).年代的には,ソロモンの王位継承を前961年とすれば神殿建築開始は前957年(Ⅰ列6:1)で,完成は前950年と考え得る(Ⅰ列6:38).神殿建築は,神がソロモンに与えられた一大使命であった(Ⅰ列5:3‐6,Ⅱ歴6:18‐21).ソロモンはツロの王ヒラムの協力を得て,神殿のために最善の資材を用い,大きな犠牲を払って,海外からの技術者たちをも登用した.そのスケールの大きさはⅠ列5‐7章に記されている通りである.

(2)ソロモンの神殿の規模と資材.神殿の大きさは,Ⅰ列6:2に総括的に述べられており,「長さ60キュビト,幅20キュビト,高さ30キュビト」となっている.1キュビトは,約44―45センチである.「キュビト」はラテン語のキュビトゥム(ひじ)から取られた表現で,ひじの関節から中指までの長さを指す.Ⅱ歴3:3には「先代の尺度のキュビトにしたがって」という表現があり,後代にはさらにこれに1手幅を加えたものもあったようである(エゼ40:5).ソロモンの宮殿のサイズ(Ⅰ列7:2)と比較すれば,神殿は必ずしも特別に巨大であったとは言えない.むしろそれに使用された資材や,装飾品,調度品の質に,ソロモンは最良の物,高価な物を用いたようである.

(3)ソロモンの神殿の構造と資材.神殿の外形または外観は,Ⅰ列6:2‐38によれば,だいたい下記のようである.しかし,歴代誌の並行記事や,エゼ40‐43章などの記述との調整をした結果,ソロモンの神殿の想像復元図は,学者によって異なり,必ずしも詳細点においては一致しているとは言いがたい.

神殿は長方形で,玄関は神殿の幅と同じであり,本堂のまわりには壁を利用した脇屋があり,2階の脇屋に通じるためには,神殿の玄関横にらせん階段を設けた.同じようなものが左側にもあったのかについては,明記されていない.使用された建材としての石は,あらかじめ石切り場で寸法を合せて切断され,工事現場では,それらが組み合されるようにできていた.天井など木材が用いられるところは,高価な杉材が用いられた.床にはもみの木が張られ,神殿の内部の杉の板には彫刻が施された.奥まった所には至聖所が造られ,主の契約の箱が安置された.その内部にも,また杉材の祭壇にも純金が張られた.さらに,そこにはケルビムの彫刻が置かれた.本堂や内堂にもオリーブ材の扉をつけて彫刻を施し,金をかぶせた.

Ⅰ列7:13‐22によれば,神殿の玄関広間の前に建てられた2本の柱が青銅で作られ,さまざまな装飾が施された.そしてその右側の柱にはヤキン,左側の柱にはボアズという名がつけられた.高価な調度品や,什器についてもⅠ列7:23‐50に詳しく述べられている.

しかし,既述のように,ソロモンの神殿の復元図は,学者によって異なる点がある.なぜなら聖書の記述は,すべての情報を完全に提示しているとは言えないからである.

この荘厳なソロモンの神殿は,南ユダ王国の滅亡の時,前586年に聖都エルサレムがバビロンの王ネブカデネザルによって攻撃された際,ついに破壊されてしまった(参照Ⅱ列25:1‐21,Ⅱ歴36:11‐19).聖にして義である神ヤハウェは,必要ならば御自分の民をさばき,その神の臨在の場所と考えられている神殿でも,聖なる神の宮としての実質が伴わない場所として汚されてしまう時には,破壊され,滅ぼされる,と預言していた預言者エレミヤや,エゼキエルなどのことばが実現したのである(本辞典「エレミヤしょ」「エゼキエルしょ」の項の2.「時代的背景」を参照).

(4)ソロモンの神殿神学.すでに述べたように,ソロモンの神殿は歴史的にも,その起源においては出エジプトの過程において与えられた幕屋の規定に基づいている.構造上からも,聖所および至聖所という基本的区分などはそのことをよく示している.幕屋が提示する神学概念と,ソロモンの神殿が提示する神学概念とは,必ずしも対立するものではない.ソロモンが神殿建築を終え,その献堂の時になした祭儀と説教と祈りは,ソロモンが神殿についてどのように考えていたかをよく示している.すなわち,列8章の記述は,ソロモンの神殿神学とも言い得る.行政面からすれば,それはソロモンの国家神学でもあった.内容的には次のように要点を整理することができる.a.主の契約の箱が神殿の中心である至聖所に置かれその中には2枚の石の板が納められその時に主の栄光が主の宮に満ちソロモンは自分の建てた神殿を神の臨在の場所として告白した(Ⅰ列8:1‐13).神殿は建物そのものが大切なのではなくその中に納められている神のことばとしての律法(〈ヘ〉トーラーが重要であることを示している.すなわち,トーラー中心主義が神殿神学の背景となっている.b.神殿建築の完成は,出エジプトをイスラエルの民に経験させられた神ヤハウェ御自身の御名のためであったことが確認されている(Ⅰ列8:15‐21).c.ソロモンは偉大な神ヤハウェのために,その偉大さにふさわしい神殿を,最善を尽して立派に完成したにもかかわらず,創造主である神は,人が地上に建てた神殿などには住まわれないほどの偉大な方であるという,ソロモンの神概念が示されている(Ⅰ列8:23‐27).d.神殿はイスラエルの民の全生活の中心となるべきであり,それゆえ原則的には民は神殿に来て祈りをささげなければならない.生活における神殿中心主義である(Ⅰ列8:28‐53).この神殿神学は,現在の教会観に多くの示唆を与えてくれる.

2.ゼルバベルの神殿.ソロモンの神殿に対して,第2神殿とも呼ばれ,70年間に及ぶバビロン捕囚の後に,神の主権的摂理のもと,バビロンの地に捕囚となっていたイスラエルの民が故国ユダの地に帰還し,破壊されていた神殿を再建したのがこの第2の神殿である(参照Ⅱ歴36:20‐23,エズ1:1‐4).ゼルバベルの神殿と呼ばれるのは,彼が捕囚の民の指導者の一人であり,特に神殿再建に当っては,祭司であり学者であったエズラや,総督であったネヘミヤなどと共に大きな貢献をしたからである(本辞典「ゼルバベル」の項を参照).

捕囚の民に対して,神がペルシヤ王クロスを通して告げられたことは,イスラエルの民の帰還であった.そして故国ユダへの帰還と共に告げられた大切なことは,エルサレム神殿の再建であった(エズ1:3).その布告が出されたのは,ペルシヤの王クロスの第1年(前538年)と考えられる.しかし,その神殿再建は必ずしも順調に進行したとは言えない(参照エズ4:4‐5).建築の過程においても,ソロモンの神殿の荘厳さを見ていた老人たちは,工事中の第2神殿の規模などをソロモンの神殿と比較して,その貧弱さを嘆いたようである(ハガ2:3).第2神殿の建築中にはそういったさまざまな困難があったが,失望する民を励まし,祭司で学者であったエズラ,総督であったネヘミヤ,およびゼルバベルなどに協力してその建築を完成に向けて推進させたのは預言者ハガイとゼカリヤであった(エズ5:1‐2,ハガ2:1‐3).神殿の再建工事は一時中断されていたが(エズ4:24),やがて再開され,第2神殿が完成したのは,ペルシヤの王ダリヨスの第6年,前516年であった(エズ6:15).

この第2神殿の実際の大きさについては,エズ6:3にある「宮の高さは60キュビト,その幅も60キュビト」のほかには具体的な表示は与えられていない.ソロモンの神殿の幅が20キュビト,高さが30キュビト(Ⅰ列6:2)であったことを考え合せてみて,一般には,第2神殿は計画としては大きかったが,実際には,第1神殿とほとんど同じであったと考えられている.考古学的にも現在のところ,第2神殿が第1神殿よりも規模において大きかったことは実証されていない.装飾や建材など総体的な面から考えても,第2神殿が第1神殿よりすぐれて,よりいっそう立派なものであったことを示す資料は現在のところ手に入れることはできない.ペルシヤ政府からの援助の額の大きさ(エズ1:4,3:7,6:4,8‐9)を考慮に入れると,必ずしも第2神殿が第1神殿よりも劣っていたとする理解は妥当でないとの見解もあるが,それでもなお総合的には,第2神殿が第1神殿よりもすぐれていて,より荘厳であったという根拠を見出すことは困難である.

歴史的には,このゼルバベルの神殿の方が,ソロモンの神殿よりも長期間にわたって存続したことを考えると,それが後期ユダヤ教の形成に与えたさまざまな面での影響は過小評価できない.そしてそれらは歴史的にも,資料的にも,ほとんどが旧約外典および旧約偽典においてふれられているものである.事実ソロモンの神殿は,約360年存続したが,ゼルバベルの神殿は,ローマのポンペイウスの率いる勢力に屈して滅びたハスモン家と共に,前37年に破壊されるまで約480年近くも存続したことも,そのような影響の大きさを示しているように思われる.第3神殿とも呼ばれるヘロデの神殿は,1世紀にも及ばない短い存在で,紀元70年,ティトゥス将軍の率いるローマ軍によって破壊されてしまった.

正典中においては,ネヘミヤ記が,神殿そのものではないが,エルサレムの城壁の修理について比較的詳しく告げ,神殿において祭司およびレビ人などが参与した祭儀にも言及している.しかし,第2神殿を巡る諸行事や,歴史的事件のほとんどは,外典および偽典において言及されているものである.

3.ヘロデの神殿.これは,第3神殿とも呼ばれ得るが,その建築は前20年頃に開始され,だいたいの構造は約2年ほどでできあがったが,完成までには約50年近く要したと考えられる(参照ヨハ2:20).神殿内の部屋などは,ソロモンの神殿の配置を踏襲したが,外観などその建築様式には当時のギリシヤ,ローマ等の影響が見られたとも言われている.このヘロデの神殿の土台石として用いられた一部分は,現在「岩のドーム」と呼ばれるイスラム教寺院の建てられている部分に見られるとも言われている.

新約聖書におけるヘロデの神殿への言及は100回あまりに及ぶが,その神殿の構造上のことについてはほとんど言及されていない.新約聖書で一般に「神殿」「宮」と訳されている語はギリシヤ語では2種類あるが,日本語訳でもあまり明確な区別はされていない.至聖所を含む場所で,祭司以外は入ることのできない神殿の部分を指す場合には通常〈ギ〉ナオスが用いられている(マタ27:51,マコ15:38,ルカ23:45等).それに対して,神殿全体を指す場合には通常〈ギ〉ヒエロンが用いられている(マタ4:5,21:12,24:1,マコ11:15,27,ルカ4:9,19:45,20:1,21:5,ヨハ2:14等).日本語では<ギ>ヒエロンは「神殿」とも「宮」とも訳されている.

ヘロデの神殿の広範囲の構造に関して,部分的にではあるが情報を提供してくれるものに,たとえば次の聖句がある.ソロモンの廊について(ヨハ10:23,使3:11,5:12),美しの門について(使3:2,10)などであるが,その位置や形については沈黙を守っている.

そのほかに,新約聖書では,イエスの教えの中などで「神殿」「宮」が用いられている場合がある(マタ12:6,ヨハ2:19).「神の神殿」をアナロジーとして用いている場合もあるが,その場合は必ずしもヘロデの神殿を指すと考える必要はない(Ⅰコリ3:16‐17,6:19,Ⅱコリ6:16等).

ヘロデの神殿の総合的な位置,また配置に関してはだいたい図のように一般に理解されているが,ある部分は厳密な意味では必ずしも確定しているとは断定しがたく,今後の学術研究の結果を待たなければならない.

4.その他の神殿.すでに述べた3つの神殿ソロモンの神殿ゼルバベルの神殿ヘロデの神殿)は,エルサレム神殿として考えられるが,エルサレム以外に,神殿は主として異教的なものとしてさまざまな形で存在したことが考古学的に実証されている.ここでは,この項の冒頭で述べたように,簡潔に,しかもそのおもなもののみにかぎって言及するにとどめる.

(1)旧約聖書に言及されているもの.まず,表現語彙に関して言えば,人為的である場合も,自然的な場所に人為的に多少の手を加えたものであっても,礼拝や,祭儀を対象とした場所または構造を指すと考えるのが妥当である.そのためには,古代においては「高き所」または単に「家」などとも表記された.シェケムにあったカナンの肥沃神の神殿エル・ベリテ(士9:46),ペリシテの魚の神の神殿でアシュドデにあったダゴンの神殿(Ⅰサム5:2等)はそのよい例である.偶像礼拝の神殿とされた「高き所」は,同じような意味で取り扱われている(Ⅰ列12:31,13:32,Ⅱ列17:29,32,23:19等).

(2)考古学的に発掘されているもの.一般に知られているおもなものをあげると,a.前3300―3000年頃のものとしてメギドで発掘された祭壇のある神殿跡,b.前3000年頃のものとしてアイで発掘された祭壇のある神殿跡,c.前1500年頃のものとしてゲゼルで発見された高い所に建ち並んでいる石柱の神殿または礼拝所跡,d.前1300―1200年頃のものとしてシェケムで発掘された神殿跡と付属器具,e.前1200年頃のものとしてハツォルで発掘された刻まれた像と付属品,などである.

〔参考文献〕W・F・オールブライト『考古学とイスラエルの宗教』日本基督教団出版局,1973,pp.187‐201; De Vaux, R., Ancient Israel, ItsLife and Institutions, McGraw Hill, pp.312‐330; Heaton, E. W., Solomons New Men,Thames and Hudson, 1974, pp.77‐100;Rowley, H. H., Worship in Ancient Israel:ItsForms and Meaning, SPCK, 1967, pp.71‐110;Vaughan, P. H., The Meaning of BAMA inthe Old Testament, Cambridge, 1974; Grintz, J.M., “Some Observations on the High‐Place inthe History of Israel,” VT, 37, 1977, pp.111‐113;McCown, C. C., “Hebrew HighPlaces and Cult Remains,” Journal of BiblicalLiterature (JBL) 69, 1950, pp.205‐219;Quellette, J., “The Solomonic Debir Accordingto the Hebrew Text of Ⅰ Kings 6,” JBL, 89,1970, pp.338‐343; Scott, R. B. Y., “ThePillars Jachin and Boaz,” JBL, 58, 1939, pp.143‐149;およびⅠ列5‐8章についての諸注解書を参照.詳しい文献表は,Stinespring, W. F.,“Temple, Jerusalem,” The Interpreters Dictionary of the Bible, Vol.4, Abingdon, 1962,pp.559‐560.(服部嘉明)

 

 

◆契約の箱の安置とソロモンの祈り

8:1 ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。8:2 エタニムの月、すなわち第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人がソロモン王のもとに集まった。8:3 イスラエルの全長老が到着すると、祭司たちはその箱を担ぎ、8:4 主の箱のみならず臨在の幕屋も幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。8:5 ソロモン王は彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共にその箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。8:6 祭司たちは主の契約の箱を定められた場所至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れケルビムの翼の下に安置した。8:7 ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。8:8 その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは今日もなおそこに置かれている。8:9 箱の中には石の板二枚のほか何もなかったこの石の板は主がエジプトの地から出たイスラエル人と契約を結ばれたときホレブでモーセがそこに納めたものである。8:10 祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。8:11 その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである。8:12 ソロモンはそのときこう言った。「主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。8:13 荘厳な神殿を/いつの世にもとどまっていただける聖所をわたしはあなたのために建てました。」8:14 王は振り向いて、イスラエルの全会衆を祝福した。イスラエルの全会衆は立っていた。8:15 王は言った。「イスラエルの神、主はたたえられますように。主は自ら語り、わが父ダビデに約束なさったことを御手をもって成し遂げ、こう仰せになった。8:16 『わが民イスラエルをエジプトから導き出した日からこのかた、わたしの名を置く家を建てるために、わたしはイスラエルのいかなる部族の町も選ばなかった。わたしはただダビデを選び、わが民イスラエルの上に立てた』と。8:17 父ダビデは、イスラエルの神主の御名のために神殿を建てようと心掛けていたが、8:18 主は父ダビデにこう仰せになった。『あなたはわたしの名のために家を建てようと心掛けてきた。その心掛けは立派である。8:19 しかし、神殿を建てるのはあなたではなく、あなたの腰から出る息子がわたしの名のために神殿を建てる』と。8:20 主は約束なさったことを実現された。主が約束なさったとおり、わたしは父ダビデに代わって立ちイスラエルの王座につきイスラエルの神主の御名のためにこの神殿を建てた。8:21 またわたしは、そこに主との契約を納めた箱のために場所を設けたその契約は主がわたしたちの先祖をエジプトの地から導き出されたときに彼らと結ばれたものである。」8:22 ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、8:23 祈った。「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、8:24 あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。8:25 イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの前を歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を断たず、わたしの前から消し去ることはない』と。8:26 イスラエルの神よ、あなたの僕、わたしの父ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。8:27 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿などなおふさわしくありません。8:28 わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。8:29 そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。8:30 僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け聞き届けて罪を赦してください。8:31 もしある人が隣人に罪を犯し、呪いの誓いを立てさせられるとき、その誓いがこの神殿にあるあなたの祭壇の前でなされるなら、8:32 あなたは天にいましてこれに耳を傾け、あなたの僕たちを裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらし、善人は善人として、その善い行いに応じて報いをもたらしてください。8:33 あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、8:34 あなたは天にいまして耳を傾けあなたの民イスラエルの罪を赦し先祖たちにお与えになった地に彼らを帰らせてください。8:35 彼らがあなたに罪を犯したために天が閉ざされ、雨が降らなくなったとき、この所に向かって祈り、御名をたたえ、あなたの懲らしめによって罪を離れて立ち帰るなら、8:36 あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの僕たち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らに歩むべき正しい道を教え嗣業としてあなたの民に与えてくださった地に雨を降らせてください。8:37 またこの地に飢饉が広がったり、疫病がはやったり、黒穂病、赤さび病、いなご、ばったが発生したり、敵がこの地で城門を封鎖したり、そのほかどんな災い、どんな難病が生じたときにも、8:38 あなたの民イスラエルが、だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら、そのどの祈り、どの願いにも、8:39 あなたはお住まいである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、こたえてください。あなたは人の心をご存じですから、どの人にもその人の歩んできたすべての道に従って報いてください。まことにあなただけがすべての人の心をご存じです。8:40 こうして彼らは、あなたがわたしたちの先祖にお与えになった地で生を営む間、絶えずあなたを畏れ敬うでしょう。8:41 更に、あなたの民イスラエルに属さない異国人が、御名を慕い、遠い国から来て、8:42 ――それは彼らが大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕のことを耳にするからです――この神殿に来て祈るなら、8:43 あなたはお住まいである天にいましてそれに耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください。こうして、地上のすべての民は御名を知り、あなたの民イスラエルと同様にあなたを畏れ敬い、わたしの建てたこの神殿が御名をもって呼ばれていることを知るでしょう。8:44 あなたの民が敵に向かって戦いに出て行くとき、あなたの遣わされる道にあって、あなたのお選びになった都、わたしが御名のために建てた神殿の方を向いて主に祈るなら、8:45 あなたは天にいましてその祈りと願いに耳を傾け、彼らを助けてください。8:46 もし彼らがあなたに向かって罪を犯し、――罪を犯さない者は一人もいません――あなたが怒って彼らを敵の手に渡し、遠くあるいは近くの敵地に捕虜として引いて行かれたときに、8:47 彼らが捕虜になっている地で自らを省み、その捕らわれの地であなたに立ち帰って憐れみを乞い、『わたしたちは罪を犯しました。不正を行い、悪に染まりました』と言い、8:48 捕虜にされている敵地で、心を尽くし魂を尽くしてあなたに立ち帰り、あなたが先祖にお与えになった地あなたがお選びになった都、御名のためにわたしが建てた神殿の方に向かってあなたに祈るなら、8:49 あなたはお住まいである天にいましてその祈りと願いに耳を傾け、裁きを行ってください。8:50 あなたの民があなたに対して犯した罪、あなたに対する反逆の罪のすべてを赦し、彼らを捕らえた者たちの前で、彼らに憐れみを施し、その人々が彼らを憐れむようにしてください。8:51 彼らは、鉄の炉であるエジプトからあなたが導き出されたあなたの民、あなたの嗣業です。8:52 どうか、この僕の願いにも、あなたの民イスラエルの願いにも御目を向け、いつあなたに呼びかけても彼らに耳を傾けてください。」

 

■ニコデモ (〈ギ〉Nikodemos) ヨハネの福音書にだけ登場する人物で,パリサイ人.ユダヤ人の指導者,教師であり,主イエスを夜訪問した様子が描かれている(ヨハ3:1以下).彼は,イエスの人格と教えに引きつけられた誠実な人物と思われるが,自分のイエスに対する関心が仲間のパリサイ人たちに知られるのを恐れていたようである.神と民についての真理を知るべき立場にありながら,イエスの会話の過程を通し,主イエスが用いた霊的隠喩を理解できず,神の国について基本的な事柄を理解していないことを暴露している.

ニコデモは,ヨハ7:50‐52において再び言及されている.そこでは,本人に直接聞くことなく,イエスを罪に定めようとする当局の意向に対し,慎重な態度をとるよう抗議する勇敢な人物として描かれている.

最後の言及であるヨハ19:38‐42では,アリマタヤのヨセフに協力しイエスのからだに塗るための没薬とアロエを持ってきたとされており,かなり富裕な人物であったと思われる.多くの伝説があるにもかかわらず,彼についてはっきりしたことは何も知られていない.

 

■がいてん 外典(新約)

Ⅰ.「外典(〈ギ〉アポクリュファ)」の意味.

1.「外典」と訳されるアポクリファは中性複数形容詞〈ギ〉アポクリュファに由来する.このギリシヤ語は「隠された(物,本)」を意味した.ギリシヤ語訳ダニ2:22「神は,深(くて測り知れな)いことも,隠されていること(アポクリュファ)もあらわし(アポカリュプテイ)」,マコ4:22「おおい隠されている」,コロ2:3「隠されている」がこの語である.古典と聖書のギリシヤ語では単純にこの意味でだけ使われた.

2.しかしギリシヤの密儀宗教には,一般公開の教理・経典・儀式から区別された奥義があって,これを許される免許皆伝の弟子は〈ギ〉エソーテリコスと呼ばれ,それ以外の初心者や外部の人は〈ギ〉エクソーテリコスと呼ばれた.内輪の弟子にだけ許された秘本は〈ギ〉エソーテリカ(複数)であった.

アレキサンドリヤのクレメンスはこのエソーテリカな本のことを初めてアポクリファと呼んだ.「ピタゴラスは,かの大ゾロアスターがペルシア人であることを示した.プロディコスの異端の追随者たちは,この人のアポクリファなもろもろの書物を蔵していることを誇っている」(『雑録』1:15).

このような場合,アポクリファな本とは信奉者にとってひときわ貴重な本という意味である.したがって,一般の人に隠されていた奥義を特別に啓示されたと主張する黙示文学(〈ギ〉アポカリュプシス.先に引用したギリシヤ語訳ダニ2:22)と似てくる.ヨハネの黙示録がアポクリファと呼ばれたのは,この意味である(ニュッサのグレゴリオス『按手礼』2:44,エピファニオス『異端反駁論』51:3).

3.やがてキリスト教異端分派が自派の経典を数多く生産所蔵するようになると(本項目Ⅲ.2.を参照),教会は異端書をアポクリファと呼ぶようになった.たとえば,アタナシオスの復活節書簡(367年)は,正典書・教育用に読むよう教父によって定められた書アポクリファ,の3種をあげる.第2種が,外典のソロモンの知恵,ベン・シラ,エステル,ユデト,トビトと使徒教父文書のディダケーとヘルマスであるから,第3のアポクリファは読んではならない書物の意味である.彼はそれらが何々であるかを積極的に名指してはいない.

4.紀元1世紀末近くに,外典第2エスドラス(第4エズラ)書が書かれたが,その14章でエズラは神の霊感を受けて94巻を書き,そのうち24巻を一般に公開し残り70巻を民の中の賢い者のために保存せよと命じられた(14:41‐47).この書はラテン語訳しか現存しないが,もしギリシヤ語版があればこの70巻にアポクリュファという語を使ったことであろう.この物語は明らかに一般信徒の正典である24巻のヘブル語聖書(律法)の存在を前提としている.エズラは霊感を受ける前に,神に向かって「あなたの律法は焼かれ,そのため誰もあなたがすでになさったことも,また今後どんな御業が始るのかも知らないのです.ですから……私の中に聖霊を送って下さい.そうすれば私はこの世で初めから起ったすべての事,あなたの律法の中に誌されていた事を書きしるしましょう」と言ったからである(14:21‐22,八木誠一・綾子訳).したがって,この場合アポクリファは前記2.の意味から変って,正典の外にある書物という意味になりつつあるのかもしれない.

尊敬/蔑視のいずれとも感情を込めずに,正典の外にある書物という語義は,ヒエロニムスの『列王記ラテン語訳序文』に例が見られる.彼は22巻の正典「に見当らぬものは,アポクリファのなかに位置づけられねばならない」とし,その書名をソロモンの知恵,ベン・シラ,ユデト,トビト,マカベア第1と第2とあげ,ヘルマスの牧者もあげた.

宗教改革以後,英国国教会とプロテスタント教会に教会用語として定着したのは,このヒエロニムスの用語法である(本辞典「がいてん(旧約)」の項のⅠ.3.(3)を参照).

Ⅱ.外典とされた書物.

アポクリファという語の使い方と同様に,どの書をアポクリファと見なすかという点についても一定した慣例はなかった.東方教会と西方教会とではまた伝統に違いもあったから,代表的な例だけをあげることにする.

1.東方教会.エルサレムのキュリロス(386年頃没)は,旧約22巻と新約26巻(ヨハネの黙示録を除く)と区別して,読んではならない「異論のあるもの」をすなわち「アポクリファ」と呼んだ(『カテキズム講義』4:33,35).彼の言うアポクリファも異端書の意味であり,その一つに今日有名なトマス福音書があった.彼はこれをマニ教徒作としている.

いわゆる「60巻の表」というものが,中世にギリシヤ語で伝わっていた(7世紀).それは3部に分れていて,(1)60巻,(2)60以外の書,(3)アポクリュファ,とある.(1)には,士師記とルツ記を一括,歴代誌の上下巻分けなし,エレミヤ書と哀歌を一括,エズラ記とネヘミヤ記を一括し,エステル記と黙示録を欠く正典書が列挙される.(2)は,ソロモンの知恵,ベン・シラ,マカベア4巻,エステル,ユデト,トビト.(3)は,アダム,エノク,ラメク,族長たち,ヨセフの祈り,エルダムとモダム,モーセの遺訓,モーセ昇天記?,ソロモンの詩篇,エリヤ黙示録,イザヤ昇天記,ゼパニヤ黙示録,ゼカリヤ黙示録,エズラ黙示録,ヤコブ物語,ペテロ黙示録,使徒たちの旅と教え,バルナバ書簡,パウロ行伝,パウロ黙示録,クレメンスのディダスカリア,イグナティオスのディダスカリア,ポリュカルポスのディダスカリア?,バルナバ福音書,マッテヤ福音書があげられている.

コンスタンティノポリスのニケフォロス(806―815年)は,(1)教会的正典的な旧約,(2)新約,(3)旧約の異論ある書(アンティレゴンタイ),(4)新約の異論書,(5)旧約のアポクリュファ,(6)新約のアポクリュファ,を分ける.(1)にバルクがあり,(2)に黙示録なく,(3)はマカベア3巻,ソロモンの知恵,ベン・シラ,ソロモンの詩篇と頌歌,エステル,ユデト,スザンナ,トビトとトビア,(4)はヨハネの黙示録,ペテロ黙示録,バルナバ,ヘブル人福音書である.目下の興味である(5)はエノク,族長たち,ヨセフの祈り,モーセの遺訓,モーセの昇天,アブラハム,エラドとモーダデ,預言者エリヤ,預言者ゼパニヤ,ヨハネの父ザカリヤ,バルク・ハバクク・エゼキエルとダニエルのプシュードエピグラファであり,(6)はペテロの旅,ヨハネの旅,トマスの旅,トマス福音書,使徒たちのディダケー,クレメンス2巻,イグナティオス・ポリュカルポス・ヘルマスである.

2.西方教会.アウグスティヌスは,ヒエロニムスがアポクリファとした書物を正典に入れて数えたことで有名である(『キリスト教教理について』2:8:13).そこで,彼の言うアポクリファは,異端者の生み出した最近の著者偽名書のことであった(『神の国』15:24).

ローマ教会は多くの著書を禁書にしてきたから,それらもアポクリファと呼ばれることがあった.ゲラシウスの教皇教書(現形6世紀)は,アレキサンドリヤのクレメンス,テルトゥリアヌス,エウセビオスの著書までアポクリファとした.

以上の概観が明らかにするように,実際にアポクリファの名のもとにどの書物が入れられるかは,全く千差万別であり,一定の定めはない.それは新約アポクリファに限っても,使徒教父文書のうちのいくつかと,他はほとんど偽典・黙示文書であった.だから近代に例をとっても,ウィリアム・ホーンが偽典9冊と使徒教父文書とを合せて『外典的新約聖書』と題したのも(1820年),無理からぬことであった.

3.日本語で読むことのできる最も詳しい新約外典一覧は,教文館『聖書外典偽典』別巻・補遺Ⅱの巻末に荒井献氏によって提供されている.その数はかれこれ85種に及んでおり,教父文書を除いて,発見される古文書断片や言及された文書を何もかも列挙したという観を呈している.『聖書外典偽典』では,新約外典を定義して,「正典と対抗しようとしたものとして正統教会から排除された」「紀元後2世紀から5世紀に及ぶもの」(1巻5頁),「新約『正典』が紀元後2世紀以降結集されていく過程において,その中から除外された諸文書とその中に採用されなかった諸文書」「他方これを『外典』の側から見れば,それは『正典』と同一の価値を有するとの要求を掲げ,文学形式上正典に類似するか,あるいはこれを補足する傾向を持つ諸文書」(6巻3頁)と言っている.

しかし,厳密に歴史的に言うならば,新約正典書は明らかに新約外典より先にできていたから,新約外典は文学形式において正典を「模倣した」と言うべきであろう.

また,外典のうち教会が公に朗読したりして正典的な地位を一部で論議されたことが判明しているのは,ヘブル人福音書とペテロ福音書とペテロ黙示録くらいのものであった.ヘブル人福音書はマタイの福音書原語版と誤解されて(パピアス?),多くの古代教父に引用された.ペテロ福音書については,ロッソス教会で朗読されていたのを,アンテオケのセラピオン監督(190―211年)が初めは知っていて黙認したことが伝えられている(エウセビオス『教会史』6:12:3‐6).ペテロ黙示録は2世紀末の「ムラトリ正典目録」によって正典とされ,一部の教会では朗読を拒否されると言われていたが,5世紀のパレスチナ教会でも聖金曜日に朗読され続けている(ソゾメノス『教会史』7:19).

特にある種の外典福音書と外典行伝が単に大衆読み物として書かれ愛用されたということは,『聖書外典偽典』(6巻,117,161頁等)で認められている.またパウロ行伝は,「パウロに対する愛の故に著作した」小アジヤの教会の長老の作であった(テルトゥリアヌス『洗礼論』17).

実際に新約外典の多くが,自ら正典と同価値を有すると主張したり正典として信じて従えと明言しているわけではない.ただ形式が正典の福音書や行伝や黙示録と似ているために研究者側でそう受け取っているにすぎない場合や,また正統教会から異端として退けられた派の作品であるために研究者がそう解している場合が多い.しかし,第2エスドラス(第4エズラ)書14章も示した通り,もともと特殊分派の秘蔵本は一般人用正典とは別のものと考えられていたのである.だから,定義を少し別の角度から,古代教会の権力争い・正統争いから離れて組み立てる方がよいだろう.初代教会は少なくとも旧約聖書という正典を持って発足したから,外典が正典に入らなかったのは,決して教会内の派閥抗争によるのではなく,やはり外典には初めから聖書の本筋から見て異質の要素がありすぎたのであろう.

とにかく結果として,旧約外典はヒエロニムスの用語法に従った「正典外」の書という意味で用いられるのに対し,新約外典はアタナシオスやキュリロスの用語法すなわち教会が危険視した異端書や偽典を意味している.

Ⅲ.外典の形式と動機・目的.

1.形式.新約外典は,ディダケーやディダスカリアなど,シリヤとエジプトの教会規程めいた書を除くと,新約正典の4大文学形式(福音書,行伝,書簡,黙示録)に対応して分類することができる.

Ⅱテサ2:2は早くも50年代にパウロ書簡の偽作が出回っていたことを告げており,また批判的な新約研究家の間では新約書簡のおよそ半数が偽作とされてきたのに反し,皮肉なことに新約外典では手紙の形が最も少ない.

福音書の形の外典も,正典福音書と著しく違っている.その違いは,正典福音書がイエスの公生涯と受難週とに集中しているのに対して,公生涯以前の私生活,特に幼児期,あるいは肉体を蔑視したグノーシス主義のゆえに復活後のキリスト顕現とその教えに限っていること,また正典福音書がイエスのわざとことばとの両方を歴史的に収録するのに,外典には抽象的な語録だけのものもあることである.

黙示録にはユダヤ教に多くの偽典黙示文学があるので,特に正典ヨハネの黙示録を模したと見ることはできない.

いろいろな使徒の行伝が最も数も多く,また民衆に愛好された.前述したパウロ行伝のようなはっきりした作者と動機についての伝承は欠けていても,読むだけで大衆娯楽小説たらんとした意図が推測できる.

2.動機・目的.これら多様な形態の外典が大量に生み出された動機も単一ではない.何よりもまず,人の好奇心が旺盛にあって,正典の伝えてくれないキリストや聖家族や使徒たちについてのロマンスを創作した.その際,サムエルの母ハンナの物語をイエスの母マリヤに転じたり,幼児イエスに12歳の少年イエスの知恵のような知恵を演じさせた.コロ4:16はラオデキヤ書簡についての好奇心をかき立て,使15:39はバルナバのその後について知りたいと思わせたであろう.

また,正典が十分に教えていないと思うある特殊な論点をさらに発展させ,ギリシヤ風の思想に合せて論じようとする,教理的動機もあった.これは分派や異端の宣伝文書となった.モンタノス運動は,聖霊の新啓示を主張して無数の経典を生産したが(ヒッポリュトス『全異端反駁論』8:12,エウセビオス『教会史』6:20:3等),それらはほとんど残っていない.また初期グノーシス主義者たちは正典福音書注解の形で自説を主張したが,それらも現存せず,使徒の偽典として生み出したものが残存している.正典福音書自身が,収録しなかった素材は他に多くあると認め(ヨハ20:30,21:25),また使徒の働きも復活の主の教えが多かったことを暗示しているから(使1:3),彼らは復活のキリストの顕現福音書の形で自由に自説をキリストの口から語らせることができたわけである.

理屈としては,同じ根拠から,外典には正典に収録されなかった多くの歴史的情報を記録保存しようとするまじめな目的もあった,ということはできる.パピアスが,努めて生き証人たちから主のことばを聞き集めて『主のことばの注解』5巻を著したのは(エウセビオス『教会史』3:39:1‐7),そうした例であろう.十二使徒たちの伝記については,なおのこと多くの証人たちから情報を得られたはずである.

Ⅳ.新約聖書を学ぶ上での新約外典の意義.

それにもかかわらず,新約外典の聖書研究上の価値は,旧約外典偽典に比して小さい.新約外典は,古代教会についての教会史研究上の価値を持ってはいるが,新約聖書そのものを学ぶ上では,年代が遅すぎるし思想的にも異質のものが多いからである.今日,新約学界に外典がもてはやされているだけに,私たちは大局的に見た新約外典の限界を冷静に見定めておくべきであろう.

しかしまた,新約外典が新約聖書の学びに対して持つ価値を全く無視するのも誤りであろう.その価値はむしろ間接的あるいは消極的である.一つには,2世紀前半から生み出された外典の福音書や行伝は,いかに正典の福音書と使徒の働きが早くから普及し権威を発揮していたか,また正統と異端とを問わず教会の人々にいかに熟読されていたかを証言する.外典福音書は聖書の物語と説話を自由自在に転用しているので,作者の聖書知識を絵にかいたように示してくれる.『トマスによるイエスの幼時物語』はルカ2:41‐49に続けて「それで律法学者とパリサイ人たちは言った.『あなたはこの少年の母ですか』.彼女が,『わたしがそうです』と言うと,彼女に言った」と記し,驚くべきことに彼らのせりふとしてルカ1:42を用いているのである(19:4).

第2に,新約外典は,イエスと使徒たちに関して新しい情報(伝承)を与えるように装いながら,結局,聖書記事の転用に依存しており,イエスと使徒たちに関する信頼すべき情報が正典以外にほとんどなかったという事実を証言する.ルカ1:1‐4やヨハ20:30,21:25などは,抽象的には,正典以外に証人や証言や文書が存在したことを推測させるけれども,2世紀前半の使徒教父文書と新約外典とは,歴史の事実としてはそのような正典外の信頼に足る伝承はほとんどなくなっていたことを証拠立てている.ペテロの従者マルコ(共観福音書)とパウロの同伴者ルカ(使徒の働き)と使徒ヨハネだけが,事実上信頼すべき史的情報の源泉なのである.

第3に,今日の目で新約外典を読むと,中には,どうしてこれが危険な異端書なのか,といぶかるような例もある.つまり,古代教会において,続出する異端と戦い正統信仰を擁護しようとして,正典の尊重と外典の排斥・信条の作成・教会制度組織の強化が進められた過程において,時には,振子が反対に振れすぎたり,論争のための論争に陥ったり,不必要に異端視したりしたこと,逆に正統教理の形成が聖書の言わんとしていたことを越えて論理化されすぎた,という事実をも認めざるを得ない.今日新約聖書を学ぶ教会の人々は,そういう教理を奉じている目で聖書を解釈しているのだということを忘れてはならない.新約外典を虚心坦懐に読み直すことによって,新約聖書を先入観なしに新しく読み直す姿勢を習得させられることであろう.

Ⅴ.おもな新約外典.

1.福音書.

ヘブル人福音書(2世紀前半).

エビオン人福音書(2世紀前半,トランス・ヨルダン地方).

エジプト人福音書(2世紀前半,エジプト禁欲派).

ペテロ福音書(2世紀中葉,シリヤ).

ニコデモ福音書(ピラト行伝+キリストのよみ下り+皇帝クラウディウスあてピラト書簡,という複合作で4世紀?).

ヤコブ原福音書(2世紀).

ナザレ人福音書(2世紀前半,シリヤ).

トマス福音書(114のイエス語録,2世紀,グノーシス派).

2.行伝.

ヨハネ行伝(小アジヤでの使徒ヨハネ,3世紀,グノーシス派).

パウロ行伝(パウロとテクラの行伝+パウロとコリント人との往復書簡+パウロ殉教記,2世紀末).

ペテロ行伝(2世紀末).

ユダ・トマス行伝(3世紀前半,エデッサ,グノーシス派).

アンデレ行伝(2世紀後半―3世紀前半,グノーシス派/エンクラテータイ派).

3.手紙.

コリント人への第3の手紙(パウロ行伝).

使徒たちの手紙(2世紀前半,復活のキリストの教え集).

セネカとパウロの往復書簡(3―4世紀).

ラオデキヤ人への手紙(ラテン語,4世紀?).

4.黙示録.

ペテロ黙示録(2世紀前半).

パウロ黙示録(4世紀末).

エジプトのナグ・ハマディ出土のグノーシス派の作に,上記とは別のパウロ黙示録,ヤコブ黙示録,アダム黙示録がある.

5.その他.

偽クレメンス「説教」.

偽クレメンス「再会」.

合せて「偽クレメンス文書」(3世紀.本辞典「しときょうふぶんしょ」Ⅱ.2.3.を参照)と言うが,その中に散在するペテロの説教と手紙を集めて「ペテロの説教集」とも言う(シリヤ?).

ナグ・ハマディ出土のものに,ヨハネのアポクリフォン(オリーブ山上でキリストが顕現,2世紀),ヤコブのアポクリフォン(復活の主のペテロとヤコブへの説教,2世紀前半)がある.

〔参考文献〕日本聖書学研究所編『聖書外典偽典』6,7,別巻・補遺Ⅱ,教文館,1982; 荒井献「トマスによる福音書」(『聖書の世界』5・新約Ⅰ)講談社,1970; 荒井献編『新約聖書外典』(『聖書の世界』別巻3・新約Ⅰ)講談社,1974;蛭沼寿雄『新約外典概説』新教出版社,1953; 荒井献「トマスによる福音書」「新約聖書外典」(『聖書講座』4)日本基督教団出版部,1965; エヴェレット・F・ハリソン『新約聖書緒論』聖書図書刊行会,1977; 蛭沼寿雄『新約正典のプロセス』山本書店,1972; 榊原康夫『新約聖書の生い立ちと成立』いのちのことば社,1978.

(榊原康夫)

 

Joh 3:3 avpekri,qh VIhsou/j kai. ei=pen auvtw/|( VAmh.n avmh.n le,gw soi( eva.n mh, tij gennhqh/| a;nwqen( ouv du,natai ivdei/n th.n basilei,an tou/ qeou/)

@1# avpokri,nomai avpekri,qh 動)直アオ能欠3単 答える

@2# VIhsou/j VIhsou/j 名)主男単 イエス

@3# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@4# ei=pon ei=pen 動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@5# auvto,j auvtw/|(代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@6# avmh,n VAmh.n 不変 アーメン、まことに、確かに

@7# avmh,n avmh.n 不変 アーメン、まことに、確かに

@8# le,gw le,gw 動)直現能1 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@9# so,j soi(代)与2単 あなたの

@10# eva,n eva.n 接)従位 もし

@11# mh, mh, 不変)否定 ~ない

@12# ti.j tij 不代)主男単 ある人、物、事、誰か、何か

@13# genna,w gennhqh/| 動)仮アオ受3単 生ませる、生む

@14# a;nwqen a;nwqen(副) 上から

@15# ouv ou 不変)否定 ~ない

@16# du,namai du,natai 動)直現能欠3単 できる

@17# ei=don ivdei/n 不定)アオ能 見た

@18# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@19# basilei,a basilei,an名)対女単 王権、支配、王国

@20# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@21# qeo,j qeou/) 名)属男単 神

【口語訳】 Joh 3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。

【新改訳改訂3】 Joh3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

【新共同訳】 Joh 3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

【NKJV】 Joh 3:3 Jesus answered and said to him, “Most assuredly, I say to you, unless one is born again, he cannot see the kingdom of God.”

【TEV】 Joh 3:3 Jesus answered, “I am telling you the truth: no one can see the Kingdom of God without being born again.”

【KJV】 Joh 3:3 Jesus answered and said unto him, Verily, verily, I say unto thee, Except a man be born again, he cannot see the kingdom of God.

【NIV】 Joh 3:3 In reply Jesus declared, “I tell you the truth, no one can see the kingdom of God unless he is born again. {[3] Or <born from above>; also in verse 7}”

【LIB】 Joh 3:3 「そうですか。 でもよく言っておきますが、あなたはもう一度生まれ直さなければ、絶対に神の国へは入れません。」

【塚本訳】 Joh3:3 イエスが答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、(徴を見て信じたのではいけない。)人は新しく生まれなおさなければ、神の国にはいることは出来ない。」

 

Joh 3:4 le,gei pro.j auvto.n @o`# Niko,dhmoj( Pw/j du,natai a;nqrwpoj gennhqh/nai ge,rwn w;n* mh. du,natai eivj th.n koili,an th/j mhtro.j auvtou/ deu,teron eivselqei/n kai. gennhqh/nai*

@1# le,gw le,gei 動)直現能3 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@2# pro,j pro.j 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@3# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# o` @o`# 冠)主男単 冠詞(この、その)

@5# Niko,dhmoj Niko,dhmoj(名)主男単 ニコデモ

@6# pw/j Pw/j 副)疑 なぜ動)直現能欠3単 できる

@8# a;nqrwpoj a;nqrwpoj名)主男 人、人間、この人、(文脈上 男・夫 の意)

@9# genna,w gennhqh/nai 不定)アオ受 生ませる、生む

@10# ge,rwn ge,rwn 名)主男単 老人

@11# eivmi, w;n* 分)現能主男単 ある、~である、~です

@12# mh, mh 不変)疑複 ~ない

@13# du,namai du,natai 動)直現能欠3単 できる

@14# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@15# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@16# koili,a koili,an 名)対女単 腹

@17# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@18# mh,thr mhtro.j 名)属女単 母

@19# auvto,j auvtou/ 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@20# deu,teroj deu,teron 副序) 第二の

@21# eivse,rcomai eivselqei/n 不定)アオ能 入っていく

@22# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@23# genna,w gennhqh/nai* 不定)アオ受 生ませる、生む

【口語訳】 Joh 3:4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。

【新改訳改訂3】 Joh3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」

【新共同訳】 Joh 3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

【NKJV】 Joh 3:4 Nicodemus said to Him, “How can a man be born when he is old? Can he enter a second time into his mother’s womb and be born?”

【TEV】 Joh 3:4 “How can a grown man be born again?” Nicodemus asked. “He certainly cannot enter his mother’s womb and be born a second time!”

【KJV】 Joh 3:4 Nicodemus saith unto him, How can a man be born when he is old? can he enter the second time into his mother’s womb, and be born?

【NIV】 Joh 3:4 “How can a man be born when he is old?” Nicodemus asked. “Surely he cannot enter a second time into his mother’s womb to be born!”

【LIB】 Joh 3:4 ニコデモは、思わず大声で叫びました。 「ええっ、もう一度生まれるのですか! いったい、どういうことですか。 年をとった人間が母親の胎内に戻って、もう一度生まれるんですか。 そんなこと、できっこありませんよ。」

【塚本訳】 Joh3:4 ニコデモがイエスに言う、「(このように)年を取った者が、どうして生まれなおすことが出来ましょう。まさかもう一度母の胎内に入って、生まれなおすわけにゆかないではありませんか。」

 

Joh 3:5 avpekri,qh VIhsou/j( VAmh.n avmh.n le,gw soi( eva.n mh, tij gennhqh/| evx u[datoj kai. pneu,matoj( ouv du,natai eivselqei/n eivj th.n basilei,an tou/ qeou/)

@1# avpokri,nomai avpekri,qh 動)直アオ能欠3単 答える

@2# VIhsou/j VIhsou/j(名)主男単 イエス

@3# avmh,n VAmh.n 不変 アーメン、まことに、確かに

@4# avmh,n avmh.n 不変 アーメン、まことに、確かに

@5# le,gw le,gw 動)直現能1 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@6# so,j soi(代)与2単 あなたの

@7# eva,n eva.n 接)従位 もし

@8# mh, mh 不変)否定 ~ない

@9# ti.j tij 不代)主男単 ある人、物、事、誰か、何か

@10# genna,w gennhqh/| 動)仮アオ受3単 生ませる、生む

@11# evk evx 前)属 から、によって、で

@12# u[dwr u[dato 名)属中単 水

@13# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@14# pneu/ma pneu,matoj(名)属中単 霊

@15# ouv ouv 不変)否定 ~ない

@16# du,namai du,natai 動)直現能欠3単 できる

@17# eivse,rcomai eivselqei/n 不定)アオ能 入っていく

@18# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@19# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@20# basilei,a basilei,an 名)対女単 王権、支配、王国

@21# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@22# qeo,j qeou/) 名)属男単 神

【口語】Joh 3:5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。

【新改訳改訂3】 Joh3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。

【新共同】Joh 3:5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

【NKJV】 Joh 3:5 Jesus answered, “Most assuredly, I say to you, unless one is born of water and the Spirit, he cannot enter the kingdom of God.

【TEV】 Joh 3:5 “I am telling you the truth,” replied Jesus, “that no one can enter the Kingdom of God without being born of water and the Spirit.

【KJV】 Joh 3:5 Jesus answered, Verily, verily, I say unto thee, Except a man be born of water and of the Spirit, he cannot enter into the kingdom of God.

【NIV】 Joh 3:5 Jesus answered, “I tell you the truth, no one can enter the kingdom of God unless he is born of water and the Spirit.

【LIB】 Joh 3:5 「よく言っておきますが、だれでも水と御霊によって生まれなければ、神の国へは入れません。

【塚本】Joh3:5 イエスは答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。

 

Joh 3:6 to. gegennhme,non evk th/j sarko.j sa,rx evstin( kai. to. gegennhme,non evk tou/ pneu,matoj pneu/ma, evstin)

@1# o` to 冠)主中単 冠詞(この、その)

@2# genna,w gegennhme,non 分)完了受主中単 生ませる、生む

@3# evk evk 前)属 から、によって、で

@4# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@5# sa,rx sarko.j 名)属女単 人間、肉体、身体、血のつながり

@6# sa,rx sa,rx 名)主女単 人間、肉体、身体、血のつながり

@7# eivmi, evstin(動)直現能3単 ある、~である、~です

@8# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@9# o` to 冠)主中単 冠詞(この、その)

@10# genna,w gegennhme,non 分)完了受主中単 生ませる、生む

@11# evk evk 前)属 から、によって、で

@12# o` tou 冠)属中単 冠詞(この、その)

@13# pneu/ma pneu,matoj 名)属中単 霊

@14# pneu/ma pneu/ma, 名)主中単 霊

@15# eivmi, evstin) 動)直現能3単 ある、~である、~です

【口語訳】 Joh 3:6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。

【新改訳改訂3】 Joh3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

【新共同訳】 Joh 3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

【NKJV】 Joh 3:6 “That which is born of the flesh is flesh, and that which is born of the Spirit is spirit.

【TEV】 Joh 3:6 A person is born physically of human parents, but is born spiritually of the Spirit.

【KJV】 Joh 3:6 That which is born of the flesh is flesh; and that which is born of the Spirit is spirit.

【NIV】 Joh 3:6 Flesh gives birth to flesh, but the Spirit {[6] Or <but spirit>} gives birth to spirit.

【LIB】 Joh 3:6 人間からは人間のいのちが生まれるだけです。 けれども聖霊は、天からの、全く新しいいのちを下さるのです。

【塚本訳】 Joh3:6 肉によって生まれたものは肉であり、霊によって生まれたものだけが霊である(から)。

 

Joh 3:12 eiv ta. evpi,geia ei=pon u`mi/n kai. ouv pisteu,ete( pw/j eva.n ei;pw u`mi/n ta. evpoura,nia pisteu,sete*

@1# eiv ei 接)従位 もし、もしも、~かどうか

@2# o` ta 冠)対中複 冠詞(この、その)

@3# evpi,geioj evpi,geia 形)対中複 地上の

@4# ei=pon ei=pon 動)直アオ能1 言った、言う、~と呼ぶ

@5# su, u`mi/n 代)与2複 あなた

@6# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@7# ouv ou 不変)否定 ~ない

@8# pisteu,w pisteu,ete 動)直現能2複 信じる

@9# pw/j pw/ 副)疑 なぜ

@10# eva,n eva.n 接)従位 もし

@11# ei=pon ei;pw 動)仮アオ能1 言った、言う、~と呼ぶ

@12# su, u`mi/n 代)与2複 あなた

@13# o` ta. 冠)対中複 冠詞(この、その)

@14# evpoura,nioj evpoura,nia 形)対中複 天上の

@15# pisteu,w pisteu,sete* 動)直未来能2複 信じる

【口語訳】 Joh 3:12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。

【新改訳改訂3】 Joh3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

【新共同訳】 Joh 3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

【NKJV】 Joh 3:12 “If I have told you earthly things and you do not believe, how will you believe if I tell you heavenly things?

【TEV】 Joh 3:12 You do not believe me when I tell you about the things of this world; how will you ever believe me, then, when I tell you about the things of heaven?

【KJV】 Joh 3:12 If I have told you earthly things, and ye believe not, how shall ye believe, if I tell you of heavenly things?

【NIV】 Joh 3:12 I have spoken to you of earthly things and you do not believe; how then will you believe if I speak of heavenly things?

【LIB】 Joh 3:12 人間の世界で現に起こっていることなのですよ。 それも信じられないくらいなら、天で起こることなど、話したところで、とても信じられないでしょう。

【塚本訳】 Joh3:12 わたしが(いま)地上のことを言うのに、それを信じないから、天上のことを言うとき、どうして信じることができよう。

 

Joh 3:13 kai. ouvdei.j avnabe,bhken eivj to.n ouvrano.n eiv mh. o` evk tou/ ouvranou/ kataba,j( o` ui`o.j tou/ avnqrw,pou)

@1# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@2# ouvdei,j ouvdei.j 数)主男単 何も~ない

@3# avnabai,nw avnabe,bhken 動)直完了能3単 上がる、登る、成長する

@4# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@5# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@6# ouvrano,j ouvrano.n 名)対男単 天

@7# eiv eiv 接)従位 もし、もしも、~かどうか

@8# mh, mh 不変)否定 ~ない

@9# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@10# evk evk 前)属 から、によって、で

@11# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@12# ouvrano,j ouvranou 名)属男単 天

@13# katabai,nw kataba,j(分)アオ能主男単 下る、降る、落ちる

@14# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@15# ui`o,j ui`o.j 名)主男 息子、子、子孫

@16# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@17# a;nqrwpoj avnqrw,pou) 名)属男 人、人間、この人、(文脈上 男・夫 の意)

 

【口語訳】 Joh 3:13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。

【新改訳改訂3】 Joh3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

【新共同訳】 Joh 3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。

【NKJV】 Joh 3:13 “No one has ascended to heaven but He who came down from heaven, that is, the Son of Man who is in heaven.

【TEV】 Joh 3:13 And no one has ever gone up to heaven except the Son of Man, who came down from heaven.”

【KJV】 Joh 3:13 And no man hath ascended up to heaven, but he that came down from heaven, even the Son of man which is in heaven.

【NIV】 Joh 3:13 No one has ever gone into heaven except the one who came from heaven–the Son of Man. {[13] Some manuscripts <Man, who is in heaven>}

【LIB】 Joh 3:13 メシヤ(救い主)のわたしだけが、この地上に下って来て、また天に帰るのです。

【塚本訳】 Joh3:13 しかも天から下ってきた者、すなわち人の子(わたし)のほかには、だれ一人天に上った者はない。(また天上のことを知っている者はない。)

 

Joh 3:14 kai. kaqw.j Mwu?sh/j u[ywsen to.n o;fin evn th/| evrh,mw|( ou[twj u`ywqh/nai dei/ to.n ui`o.n tou/ avnqrw,pou(

@1# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@2# kaqw,j kaqw.j 接)従位 ちょうど~のように、~のゆえに

@3# Mwu?sh/j Mwu?sh/j 名)主男単 モーセ

@4# u`yo,w u[ywsen 動)直アオ能3単 高い所に上げられる、高める

@5# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@6# o;fij o;fin名)対男単 蛇

@7# evn evn 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@8# o` th 冠)与女単 冠詞(この、その)

@9# e;rhmoj evrh,mw|(形)与女単 荒野の、孤独な

@10# ou[tw ou[twj 副 次のように、このように、それ程に

@11# u`yo,w u`ywqh/nai 不定)アオ受 高い所に上げられる、高める

@12# dei/ dei/ 動)直現能3単 必要である

@13# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@14# ui`o,j ui`o.n 名)対男 息子、子、子孫

@15# o` tou/ 冠)属男単 冠詞(この、その)

@16# a;nqrwpoj avnqrw,pou(名)属男 人、人間、この人、(文脈上 男・夫 の意)

【口語訳】 Joh 3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。

【新改訳改訂3】 Joh3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

【新共同訳】 Joh 3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。

【NKJV】 Joh 3:14 “And as Moses lifted up the serpent in the wilderness, even so must the Son of Man be lifted up,

【TEV】 Joh 3:14 As Moses lifted up the bronze snake on a pole in the desert, in the same way the Son of Man must be lifted up,

【KJV】 Joh 3:14 And as Moses lifted up the serpent in the wilderness, even so must the Son of man be lifted up:

【NIV】 Joh 3:14 Just as Moses lifted up the snake in the desert, so the Son of Man must be lifted up,

【LIB】 Joh 3:14 モーセが荒野で、青銅で作った蛇を、さおの先に掲げたように、わたしも木の上に上げられなければなりません。

【塚本訳】 Joh3:14 そして、ちょうどモーセが荒野で(銅の)蛇を(竿の先に)挙げたように、人の子(わたしも十字架に)挙げられ(て天に上ら)ねばならない。

 

Joh 3:15 i[na pa/j o` pisteu,wn evn auvtw/| e;ch| zwh.n aivw,nion)

@1# i[na i[na 接)従 ために、する事を、~ので、という事は

@2# pa/j pa/j 形)主 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@3# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# pisteu,w pisteu,wn 分)現能主男単 信じる

@5# evn evn 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@6# auvto,j auvtw代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@7# e;cw e;ch| 動)仮現能3単 持つ、保つ、できる、~である

@8# zwh, zwh.n 名)対女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@9# aivw,nioj aivw,nion) 形)対中単 永遠の

【口語訳】 Joh 3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。

【新改訳改訂3】 Joh3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

【新共同訳】 Joh 3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

【NKJV】 Joh 3:15 “that whoever believes in Him should not perish but have eternal life.

【TEV】 Joh 3:15 so that everyone who believes in him may have eternal life.

【KJV】 Joh 3:15 That whosoever believeth in him should not perish, but have eternal life.

【NIV】Joh 3:15 that everyone who believes in him may have eternal life. {[15] Or <believes may have eternal life in him>}

【LIB】 Joh 3:15 わたしを信じる人はだれでも、永遠のいのちを持つためです。」

【塚本訳】 Joh3:15 それは、(蛇にかまれた者がその銅の蛇を仰いで命を救われたように、)信ずる者が皆(天に上った人の子を仰いで、)彼にあって永遠の命を持つためである。

 

Joh 3:16 Ou[twj ga.r hvga,phsen o` qeo.j to.n ko,smon( w[ste to.n ui`o.n to.n monogenh/ e;dwken( i[na pa/j o` pisteu,wn eivj auvto.n mh. avpo,lhtai avllV e;ch| zwh.n aivw,nion)

@1# ou[tw Ou[twj 副 次のように、このように、それ程に

@2# ga,r ga.r 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@3# avgapa,w hvga,phsen 動)直アオ能3単 愛する

@4# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@5# qeo,j qeo.j 名)主男単 神

@6# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@7# ko,smoj ko,smon(名)対男単 世

@8# w[ste w[ste 接)完等 それゆえ、それで、~するため

@9# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@10# ui`o,j ui`o.n 名)対男 息子、子、子孫

@11# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@12# monogenh,j monogenh 形)対男 唯一の、独りの、独り(子・息子・娘)

@13# di,dwmi e;dwken(動)直アオ能3単 与える、~させる

@14# i[na i[na 接)従 ために、する事を、~ので、という事は

@15# pa/j pa/j 形)主 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@16# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@17# pisteu,w pisteu,wn 分)現能主男単 信じる

@18# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@19# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@20# mh, mh 不変)否定 ~ない

@21# avpo,llumi avpo,lhtai 動)仮アオ中3単 滅ぼす、殺す

@22# avlla, avllV 接)完 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@23# e;cw e;ch 動)仮現能3単 持つ、保つ、できる、~である

@24# zwh, zwh.n 名)対女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@25# aivw,nioj aivw,nion)

【口語訳】 Joh 3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

【新改訳改訂3】 Joh3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

【新共同訳】 Joh 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

【NKJV】 Joh 3:16 “For God so loved the world that He gave His only begotten Son, that whoever believes in Him should not perish but have everlasting life.

【TEV】 Joh 3:16 For God loved the world so much that he gave his only Son, so that everyone who believes in him may not die but have eternal life.

【KJV】 Joh 3:16 For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life.

【NIV】 Joh 3:16 “For God so loved the world that he gave his one and only Son, {[16] Or <his only begotten Son>} that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.

【LIB】 Joh 3:16 実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、世を愛してくださいました。 それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです。

【塚本訳】 Joh3:16 そのゆえは、神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛されたのである。これはその独り子を信ずる者が一人も滅びず、永遠の命を持つことができるためである。

 

Joh 3:17 ouv ga.r avpe,steilen o` qeo.j to.n ui`o.n eivj to.n ko,smon i[na to.n ko,smon( avllV i[na swqh/| o` ko,smoj diV auvtou/)

@1# ouv ou 不変)否定 ~ない

@2# ga,r ga.r 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@3# avposte,llw avpe,steilen 動)直アオ能3単 遣わす、送り出す

@4# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@5# qeo,j qeo.j 名)主男単 神

@6# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@7# ui`o,j ui`o.n 名)対男 息子、子、子孫

@8# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@9# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@10# ko,smoj ko,smon 名)対男単 世

@11# i[na i[na 接)従 ために、する事を、~ので、という事は

@12# kri,nw kri,nh 動)仮アオ能3単/現 告訴する、さばく

@13# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@14# ko,smoj ko,smon(名)対男単 世

@15# avlla, avllV 接)完 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@16# i[na i[na 接)従 ために、する事を、~ので、という事は

@17# sw,|zw swqh 動)仮アオ受3単 救う、直す

@18# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@19# ko,smoj ko,smoj 名)主男単 世

@20# dia, diV前)属 ~を通って、~の故に、~のために

@21# auvto,j auvtou/)代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

【口語訳】 Joh 3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

【新改訳改訂3】 Joh3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

【新共同訳】 Joh 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

【NKJV】 Joh 3:17 “For God did not send His Son into the world to condemn the world, but that the world through Him might be saved.

【TEV】 Joh 3:17 For God did not send his Son into the world to be its judge, but to be its savior.

【KJV】 Joh 3:17 For God sent not his Son into the world to condemn the world; but that the world through him might be saved.

【NIV】 Joh 3:17 For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him.

【LIB】 Joh 3:17 神がご自分の御子を世にお遣わしになったのは、世に有罪判決を下すためではありません。 救うためです。

【塚本訳】 Joh3:17 神は世を罰するためにその子を世に遣わされたのではなく、子によって世を救うためである。

 

Joh 3:18 o` pisteu,wn eivj auvto.n ouv kri,netai\ o` de. mh. pisteu,wn h;dh ke,kritai( o[ti mh. pepi,steuken eivj to. o;noma tou/ monogenou/j ui`ou/ tou/ qeou/)

@1# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@2# pisteu,w pisteu,wn 分)現能主男単 信じる

@3# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@4# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@5# ouv ouv 不変)否定 ~ない

@6# kri,nw kri,netai 動)直現受3単 告訴する、さばく

@7# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@8# de, de 接)完等 さて、そして、次に、しかし

@9# mh, mh 不変)否定 ~ない

@10# pisteu,w pisteu,wn 分)現能主男単 信じる

@11# h;dh h;dh 副) すでに、いまや

@12# kri,nw ke,kritai(動)直完了受3単 告訴する、さばく

@13# o[ti o[ti 接)従 ~と、なぜなら

@14# mh, mh 不変)否定 ~ない

@15# pisteu,w pepi,steuken 動)直完了能3単 信じる

@16# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@17# o` to. 冠)対中単 冠詞(この、その)

@18# o;noma o;noma 名)対中単 名

@19# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@20# monogenh,j monogenou/j 形)属男 唯一の、独りの、独り(子・息子・娘)

@21# ui`o,j ui`ou 名)属男 息子、子、子孫

@22# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@23# qeo,j qeou/) 名)属男単 神

【口語訳】 Joh 3:18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

【新改訳改訂3】 Joh3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

【新共同訳】 Joh 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

【NKJV】 Joh 3:18 “He who believes in Him is not condemned; but he who does not believe is condemned already, because he has not believed in the name of the only begotten Son of God.

【TEV】 Joh 3:18 Those who believe in the Son are not judged; but those who do not believe have already been judged, because they have not believed in God’s only Son.

【KJV】 Joh 3:18 He that believeth on him is not condemned: but he that believeth not is condemned already, because he hath not believed in the name of the only begotten Son of God.

【NIV】 Joh 3:18 Whoever believes in him is not condemned, but whoever does not believe stands condemned already because he has not believed in the name of God’s one and only Son. {[18] Or <God’s only begotten Son>}

【LIB】 Joh 3:18 この神の子に救っていただけると信じ、何もかもお任せする者は、永遠の滅びを免れます。 しかし、お任せしない者は、神のひとり子を信じなかったのですから、すでにさばかれ、有罪判決を下されたのです。

【塚本訳】 Joh3:18 彼を信ずる者は罰されない。信じない者は(今)すでに罰されている。彼を神の独り子として信じていないからである。

 

Joh 3:19 au[th de, evstin h` kri,sij o[ti to. fw/j evlh,luqen eivj to.n ko,smon kai. hvga,phsan oi` a;nqrwpoi ma/llon to. sko,toj h’ to. fw/j\ h=n ga.r auvtw/n ponhra. ta. e;rga)

@1# ou-toj au[th 指示)主女単 このこと

@2# de, de, 接)等位 さて、そして、次に、しかし

@3# eivmi, evstin 動)直現能3単 ある、~である、~です

@4# o` h` 冠)主女単 冠詞(この、その)

@5# kri,sij kri,sij 名)主女単 さばき

@6# o[ti o[ti 関代)/接)従 ~と、なぜなら

@7# o` to 冠)主中単 冠詞(この、その)

@8# fw/j fw/j 名)主中単 光

@9# e;rcomai evlh,luqen 動)直完了能3単 来る、行く

@10# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@11# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@12# ko,smoj ko,smon 名)対男単 世

@13# kai, kai 接)完 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@14# avgapa,w hvga,phsan 動)直アオ能3複 愛する

@15# o` oi` 冠)主男複 冠詞(この、その)

@16# a;nqrwpoj a;nqrwpoi 名)主男 人、人間、この人、(文脈上 男・夫 の意)

@17# ma/llon ma/llon 副)比較 (~より)もっと

@18# o` to. 冠)対中単 冠詞(この、その)

@19# sko,toj sko,toj 名)対中単 暗やみ、暗黒

@20# h; h’ 接)従位 あるいは、それとも、よりも

@21# o` to 冠)対中単 冠詞(この、その)

@22# fw/j fw/j 名)対中単 光

@23# eivmi, h=n 動)直未完能3単 ある、~である、~です

@24# ga,r ga.r 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@25# auvto,j auvtw/n 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@26# ponhro,j ponhra形)与中複 悪い

@27# o` ta 冠)主中複 冠詞(この、その)

@28# e;rgon e;rga 名)主中複 行い、仕事、労働

【口語】Joh 3:19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。

【新改訳改訂3】 Joh3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

【新共同訳】 Joh 3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。

【NKJV】 Joh 3:19 “And this is the condemnation, that the light has come into the world, and men loved darkness rather than light, because their deeds were evil.

【TEV】 Joh 3:19 This is how the judgment works: the light has come into the world, but people love the darkness rather than the light, because their deeds are evil.

【KJV】 Joh 3:19 And this is the condemnation, that light is come into the world, and men loved darkness rather than light, because their deeds were evil.

【NIV】 Joh 3:19 This is the verdict: Light has come into the world, but men loved darkness instead of light because their deeds were evil.

【LIB】 Joh 3:19 そのような判決が下ったわけは、こうです。 天からの光が世に来ているのに、彼らは、自分の行ないが悪かったため、光よりも暗やみを愛したのです。

【塚本訳】 Joh3:19 すなわち、光が世に来たのに、人々は自分たちの行いが悪いので、光よりも暗さの方を愛したこと、それが罰である。

 

Joh 3:22 Meta. tau/ta h=lqen o` VIhsou/j kai. oi` maqhtai. auvtou/ eivj th.n VIoudai,an gh/n kai. evkei/ die,triben metV auvtw/n kai. evba,ptizen)

@1# meta, Meta 前 [属]共に、対して、[対]~の後に、~の後ろに

@2# ou-toj tau/ta 指示)対中複 このこと

@3# e;rcomai h=lqen動)直アオ能3単 来る、行く

@4# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@5# VIhsou/j VIhsou/j 名)主男単 イエス

@6# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@7# o` oi` 冠)主男複 冠詞(この、その)

@8# maqhth,j maqhtai. 名)主男複 弟子

@9# auvto,j auvtou/ 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@10# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@11# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@12# VIoudai/oj VIoudai,an 形)対女単 ユダヤ人の

@13# gh/ gh/n 名)対女単 地、土地

@14# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@15# evkei/ evkei/ 副) そこに、そこで

@16# diatri,bw die,triben 動)直未完能3単 滞在する

@17# meta, metV 前 [属]共に、対して、[対]~の後に、~の後ろに

@18# auvto,j auvtw/n 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@19# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@20# bapti,zw evba,ptizen) 動)直未完能3単 バプテスマを授ける

【口語訳】 Joh 3:22 こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

【新改訳改訂3】 Joh3:22 その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

【新共同訳】 Joh 3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。

【NKJV】 Joh 3:22 After these things Jesus and His disciples came into the land of Judea, and there He remained with them and baptized.

【TEV】 Joh 3:22 After this, Jesus and his disciples went to the province of Judea, where he spent some time with them and baptized.

【KJV】 Joh 3:22 After these things came Jesus and his disciples into the land of Judaea; and there he tarried with them, and baptized.

【NIV】 Joh 3:22 After this, Jesus and his disciples went out into the Judean countryside, where he spent some time with them, and baptized.

【LIB】 Joh 3:22 その後、イエスと弟子たちは、エルサレムを去り、しばらくユダヤに滞在し、バプテスマ(洗礼)を授けていました。 ◆ヨハネとイエスの役割

【塚本訳】

Joh3:22 そののち、イエスは弟子たちと(エルサレムを去って)ユダヤの地方に行き、一しょにそこに滞在して、洗礼を授けておられた。

 

キリストを着る洗礼

Rom 6:3 h’ avgnoei/te o[ti( o[soi evbapti,sqhmen eivj Cristo.n VIhsou/n( eivj to.n qa,naton auvtou/ evbapti,sqhmen*

@1# h; h’ 接)等位 あるいは、それとも、よりも

@2# avgnoe,w avgnoei/te 動)直現能2複 知らない、無知である、理解できない

@3# o[ti o[ti(接)等 ~と、なぜなら

@4# o[soj o[soi 関代)主男1複 何事でも

@5# bapti,zw evbapti,sqhmen 動)直アオ受1複 バプテスマを授ける

@6# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@7# Cristo,j Cristo.n 名)対男単 キリスト

@8# VIhsou/j VIhsou/n(名)対男単 イエス

@9# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@10# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@11# qa,natoj qa,naton 名)対男 死

@12# auvto,j auvtou/ 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@13# bapti,zw evbapti,sqhmen* 動)直アオ受1複 バプテスマを授ける

【口語訳】 Rom 6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。

【新改訳改訂3】 Rom6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

【新共同訳】 Rom 6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

【NKJV】 Rom 6:3 Or do you not know that as many of us as were baptized into Christ Jesus were baptized into His death?

【TEV】 Rom 6:3 For surely you know that when we were baptized into union with Christ Jesus, we were baptized into union with his death.

【KJV】 Rom 6:3 Know ye not, that so many of us as were baptized into Jesus Christ were baptized into his death?

【NIV】 Rom 6:3 Or don’t you know that all of us who were baptized into Christ Jesus were baptized into his death?

【塚本訳】 Rom6:3 それともあなた達は知らないのか、キリスト・イエスへと洗礼を受けたわたし達はみな(彼のものになって、)彼の死へと洗礼を受けたのである。

 

Rom 6:4 suneta,fhmen ou=n auvtw/| dia. tou/ bapti,smatoj eivj to.n qa,naton( i[na w[sper hvge,rqh Cristo.j evk nekrw/n dia. th/j do,xhj tou/ patro,j( ou[twj kai. h`mei/j evn kaino,thti zwh/j peripath,swmen)

@1# sunqa,ptw suneta,fhmen 動)直アオ受1複 ともに葬る

@2# ou=n ou=n接)完等 それで

@3# auvto,j auvtw/| 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# dia, dia 前)属 ~を通って、~の故に、~のために

@5# o` tou 冠)属中単 冠詞(この、その)

@6# ba,ptisma bapti,smatoj 名)属中単 【バプテスマ,洗礼(新共同訳)】

@7# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@8# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@9# qa,natoj qa,naton(名)対男 死

@10# i[na i[na 接)従 ために、する事を、~ので、という事は

@11# w[sper w[sper 接)従位 のように、ちょうど~のように

@12# evgei,rw hvge,rqh 動)直アオ受3単 目を覚ます、よみがえる、起きる

@13# Cristo,j Cristo.j 名)主男単 キリスト

@14# evk evk 前)属 から、によって、で

@15# nekro,j nekrw/n 形)属男複 死んでいる

@16# dia, dia 前)属 ~を通って、~の故に、~のために

@17# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@18# do,xa do,xhj 名)属女単 栄光、栄華、好評、名誉

@19# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@20# path,r patro,j(名)属男単 父

@21# ou[tw ou[twj 副 次のように、このように、それ程に

@22# kai, kai 副 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@23# evgw, h`mei/j 代)主1複 私、わたし

@24# evn evn 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@25# kaino,thj kaino,thti 名)与女単 新しさ、新鮮さ

@26# zwh, zwh/j 名)属女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@27# peripate,w peripath,swmen) 動)仮アオ能1複 歩く

【口語訳】 Rom 6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

【新改訳改訂3】 Rom6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

【新共同訳】 Rom 6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

【NKJV】 Rom 6:4 Therefore we were buried with Him through baptism into death, that just as Christ was raised from the dead by the glory of the Father, even so we also should walk in newness of life.

【TEV】 Rom 6:4 By our baptism, then, we were buried with him and shared his death, in order that, just as Christ was raised from death by the glorious power of the Father, so also we might live a new life.

【KJV】 Rom 6:4 Therefore we are buried with him by baptism into death: that like as Christ was raised up from the dead by the glory of the Father, even so we also should walk in newness of life.

【NIV】 Rom 6:4 We were therefore buried with him through baptism into death in order that, just as Christ was raised from the dead through the glory of the Father, we too may live a new life.

【LIB】 Rom 6:4 罪を愛する古い性質は、キリスト様が死なれた時、バプテスマによって、キリスト様と共に葬り去られました。 そして、父なる神が、栄光の力でキリスト様を復活させてくださった時、あなたがたは、キリスト様のすばらしい新しいいのちを与えられ、そのいのちに生きる者となりました。

【塚本訳】 Rom6:4 だからこの死への洗礼によって、彼とい一しょに(死んで一しょに)葬られたのである。これはキリストが父上の栄光によって死人の中から復活されたように、わたし達も(復活して)新しい命をもって歩くためである。

 

Rom 6:5 eiv ga.r su,mfutoi gego,namen tw/| o`moiw,mati tou/ qana,tou auvtou/( avlla. kai. th/j avnasta,sewj evso,meqa\

@1# eiv eiv 接)従位 もし、もしも、~かどうか

@2# ga,r ga.r 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@3# su,mfutoj su,mfutoi 形)主男複 つぎ合わされ、共に成長して

@4# gi,nomai gego,namen 動)直完了能1複 なる、生じる、現れる

@5# o` tw 冠)与中単 冠詞(この、その)

@6# o`moi,wma o`moiw,mati 名)与中単 似た物

@7# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@8# qa,natoj qana,tou 名)属男 死

@9# auvto,j auvtou/ 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@10# avlla, avlla 接)等 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@11# kai, kai 副 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@12# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@13# avna,stasij avnasta,sewj 名)属女単 立ち上がること、復活

@14# eivmi, evso,meqa 動)直未来能欠1複 ある、~である、~です

【口語訳】 Rom 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

【新改訳改訂3】 Rom6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

【新共同訳】 Rom 6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

【NKJV】 Rom 6:5 For if we have been united together in the likeness of His death, certainly we also shall be in the likeness of His resurrection,

【TEV】 Rom 6:5 For since we have become one with him in dying as he did, in the same way we shall be one with him by being raised to life as he was.

【KJV】 Rom 6:5 For if we have been planted together in the likeness of his death, we shall be also in the likeness of his resurrection:

【NIV】 Rom 6:5 If we have been united with him like this in his death, we will certainly also be united with him in his resurrection.

【LIB】 Rom 6:5 あなたがたはキリスト様の体の一部として、キリスト様が死なれた時、いわば、いっしょに死んだのです。 そして今は、キリスト様の新しいいのちをいただいており、やがてキリスト様と同じように復活するのです。

【塚本訳】 Rom6:5 なぜなら、わたし達が(洗礼によって)彼と合体してその死にあやかる者になった以上、復活にもあやかるのは当然だからである。

 

Rom 6:6 tou/to ginw,skontej o[ti o` palaio.j h`mw/n a;nqrwpoj sunestaurw,qh( i[na katarghqh/| to. sw/ma th/j a`marti,aj( tou/ mhke,ti douleu,ein h`ma/j th/| a`marti,a|\

@1# ou-toj tou/to 指示)対中単 このこと

@2# ginw,skw ginw,skontej 分)現能主男1複 知る

@3# o[ti o[ti 関副 ~と、なぜなら

@4# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@5# palaio,j palaio.j 形)主男単 古い

@6# evgw, h`mw/n 代)属1複 私、わたし

@7# a;nqrwpoj a;nqrwpoj 名)主男 人、人間、この人、(文脈上 男・夫 の意)

@8# sustauro,w sunestaurw,qh(動)直アオ受3単 いっしょに十字架につける

@9# i[na i[na 接)従 ために、する事を、~ので、という事は

@10# katarge,w katarghqh/| 動)仮アオ受3単 実を結ばなくさせる、絶やす

@11# o` to 冠)主中単 冠詞(この、その)

@12# sw/ma sw/ma 名)主中単 からだ

@13# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@14# a`marti,a a`marti,aj(名)属女単 罪

@15# o` tou/ 冠)属中単 冠詞(この、その)

@16# mhke,ti mhke,ti 副) もう(二度と~)ない

@17# douleu,w douleu,ein 不定)現能属 仕える

@18# evgw, h`ma/j 代)対1複 私、わたし

@19# o` th/| 冠)与女単 冠詞(この、その)

@20# a`marti,a a`marti,a| 名)与女単 罪

【口語訳】 Rom 6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。

【新改訳改訂3】 Rom6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

【新共同訳】 Rom 6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

【NKJV】 Rom 6:6 knowing this, that our old man was crucified with Him, that the body of sin might be done away with, that we should no longer be slaves of sin.

【TEV】 Rom 6:6 And we know that our old being has been put to death with Christ on his cross, in order that the power of the sinful self might be destroyed, so that we should no longer be the slaves of sin.

【KJV】 Rom 6:6 Knowing this, that our old man is crucified with him, that the body of sin might be destroyed, that henceforth we should not serve sin.

【NIV】 Rom 6:6 For we know that our old self was crucified with him so that the body of sin might be done away with, {[6] Or <be rendered powerless>} that we should no longer be slaves to sin–

【LIB】 Rom 6:6 あなたがたの古い邪悪な欲望は、キリスト様といっしょに十字架につけられました。 罪を愛する部分は、打ち砕かれ、致命傷を負いました。 それは、罪を愛する体が、もはや罪の支配を受けず、二度と罪の奴隷にならないためです。

【塚本訳】 Rom6:6 わたし達はこのことを知っている。──(洗礼は十字架をあらわす。)古いわたし達は(キリストと)一しょに十字架につけられたが、これは罪の体がほろび失せて、わたし達がもう二度と罪の奴隷にならないためであると。

 

Rom 6:7 o` ga.r avpoqanw.n dedikai,wtai avpo. th/j a`marti,aj)

@1# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@2# ga,r ga.r 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@3# avpoqnh,|skw avpoqanw.n 分)アオ能主男単 死にかけている

@4# dikaio,w dedikai,wtai 動)直完了受3単 正しいことを証明する

@5# avpo, avpo 前)属 ~から、のうちの、によって

@6# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@7# a`marti,a a`marti,aj) 名)属女単 罪

【口語訳】 Rom 6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。

【新改訳改訂3】 Rom6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

【新共同訳】 Rom 6:7 死んだ者は、罪から解放されています。

【NKJV】 Rom 6:7 For he who has died has been freed from sin.

【TEV】 Rom 6:7 For when we die, we are set free from the power of sin.

【KJV】 Rom 6:7 For he that is dead is freed from sin.

【NIV】 Rom 6:7 because anyone who has died has been freed from sin.

【LIB】 Rom 6:7 罪に対して死んでしまえば、どんな罪の誘惑や力からも自由にされるはずだからです。

【塚本訳】 Rom6:7 死んだ者は罪から解放されるからである。

 

Joh 3:31 ~O a;nwqen evrco,menoj evpa,nw pa,ntwn evsti,n\ o` w’n evk th/j gh/j evk th/j gh/j evstin kai. evk th/j gh/j lalei/) o` evk tou/ ouvranou/ evrco,menoj @evpa,nw pa,ntwn evsti,n\#

@1# o` ~O 冠)主男単 冠詞(この、その)

@2# a;nwqen a;nwqen 副) 上から

@3# e;rcomai evrco,menoj 分)現能欠主男単 来る、行く

@4# evpa,nw evpa,nw 前)属 の上に、以上に

@5# pa/j pa,ntwn 形)属男複 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@6# eivmi, evsti,n\ 動)直現能3単 ある、~である、~です

@7# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@8# eivmi, w’n 分)現能主男単 ある、~である、~です

@9# evk evk 前)属 から、によって、で

@10# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@11# gh/ gh/j 名)属女単 地、土地

@12# evk evk 前)属 から、によって、で

@13# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@14# gh/ gh/j 名)属女単 地、土地

@15# eivmi, evstin 動)直現能3単 ある、~である、~です

@16# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@17# evk evk 前)属 から、によって、で

@18# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@19# gh/ gh/j名)属女単 地、土地

@20# lale,w lalei/) 動)直現能3単 話す

@21# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@22# evk evk 前)属 から、によって、で

@23# o` tou/ 冠)属男単 冠詞(この、その)

@24# ouvrano,j ouvranou/ 名)属男単 天

@25# e;rcomai evrco,menoj 分)現能欠主男単 来る、行く

@26# evpa,nw @evpa,nw 前)属 の上に、以上に

@27# pa/j pa,ntwn 形)属男複 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@28# eivmi, evsti,n\直現能3単 ある、~である、~です

【口語訳】 Joh 3:31 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。

【新改訳改訂3】 Joh3:31 上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。

【新共同訳】 Joh 3:31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。

【NKJV】 Joh 3:31 “He who comes from above is above all; he who is of the earth is earthly and speaks of the earth. He who comes from heaven is above all.

【TEV】 Joh 3:31 He who comes from above is greater than all. He who is from the earth belongs to the earth and speaks about earthly matters, but he who comes from heaven is above all.

【KJV】 Joh 3:31 He that cometh from above is above all: he that is of the earth is earthly, and speaketh of the earth: he that cometh from heaven is above all.

【NIV】 Joh 3:31 “The one who comes from above is above all; the one who is from the earth belongs to the earth, and speaks as one from the earth. The one who comes from heaven is above all.

【LIB】 Joh 3:31 あの方は天から来られた方。 ほかのだれよりも偉大なお方だ。 私は地から出た者。 地上のことしかわからない。

【塚本訳】 Joh3:31 上から来られる方は、すべての者の上におられる。地から出た者は地上の者で、話すことも地上のことである。天から来られる方は、すべての者の上におられ、

 

Joh 3:32 o] e`w,raken kai. h;kousen tou/to marturei/( kai. th.n marturi,an auvtou/ ouvdei.j lamba,nei)

@1# o[j o 関代)対中単 この~

@2# o`ra,w e`w,raken 動)直完了能3単 見る

@3# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@4# avkou,w h;kousen 動)直アオ能3 聞く、聞き従う、知らせを受ける、耳に入る

@5# ou-toj tou/to 指示)対中単 このこと

@6# marture,w marturei/( 動)直現能3単 証言する

@7# kai, kai.接)完 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@8# o` th.n冠)対女単 冠詞(この、その)

@9# marturi,a marturi,an 名)対女単 証拠

@10# auvto,j auvtou/ 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@11# ouvdei,j ouvdei.j 数)主男単 何も~ない

@12# lamba,nw lamba,nei) 動)直現能3単 取る

【口語訳】 Joh 3:32 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。

【新改訳改訂3】 Joh3:32 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。

【新共同訳】 Joh 3:32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。

【NKJV】 Joh 3:32 “And what He has seen and heard, that He testifies; and no one receives His testimony.

【TEV】 Joh 3:32 He tells what he has seen and heard, yet no one accepts his message.

【KJV】 Joh 3:32 And what he hath seen and heard, that he testifieth; and no man receiveth his testimony.

【NIV】 Joh 3:32 He testifies to what he has seen and heard, but no one accepts his testimony.

【LIB】Joh 3:32 あの方は、見たこと聞いたことをお話しになる。 だが、そのおことばを信じる人はなんと少ないことか……。

【塚本訳】 Joh3:32 天で見聞きしたことを証しされる。(だから遣わされた者のだれ一人、こう言うわたし自身も、あの方に及ばない。)ところがだれもその証しを受けいれない。

 

Joh 3:33 o` labw.n auvtou/ th.n evsfra,gisen o[ti o` qeo.j avlhqh,j evstin)

@1# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@2# lamba,nw labw.n 分)アオ能主男単 取る

@3# auvto,j auvtou 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@5# marturi,a marturi,an 名)対女単 証拠

@6# sfragi,zw evsfra,gisen 動)直アオ能3単 封印する

@7# o[ti o[ti 関代)/接)等 ~と、なぜなら

@8# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@9# qeo,j qeo.j 名)主男単 神

@10# avlhqh,j avlhqh,j 形)主男単 真実な、真の

@11# eivmi, evstin) 動)直現能3単 ある、~である、~です

【口語訳】 Joh 3:33 しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。

【新改訳改訂3】 Joh3:33 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。

【新共同訳】 Joh 3:33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。

【NKJV】 Joh 3:33 “He who has received His testimony has certified that God is true.

【TEV】 Joh 3:33 But whoever accepts his message confirms by this that God is truthful.

【KJV】 Joh 3:33 He that hath received his testimony hath set to his seal that God is true.

【NIV】 Joh 3:33 The man who has accepted it has certified that God is truthful.

【LIB】 Joh 3:33 あの方を信じれば、神様が真理の源だとわかるのに。

【塚本訳】 Joh3:33 (しかし)その証しを受けいれる者は、(受けいれることによって、)神が真実であることを承認したのである。

 

Joh 3:34 o]n ga.r avpe,steilen o` qeo.j ta. r`h,mata tou/ qeou/ lalei/( ouv ga.r evk me,trou di,dwsin to. pneu/ma)

@1# o[j o]n 関代)対男単 この~

@2# ga,r ga.r 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@3# avposte,llw avpe,steilen 動)直アオ能3単 遣わす、送り出す

@4# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@5# qeo,j qeo.j 名)主男単 神

@6# o` ta. 冠)対中複 冠詞(この、その)

@7# r`h/ma r`h,mata 名)対中複 ことば

@8# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@9# qeo,j qeou名)属男単 神

@10# lale,w lalei/( 動)直現能3単 話す

@11# ouv ouv不変)否定 ~ない

@12# ga,r ga.r 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@13# evk evk 前)属 から、によって、で

@14# me,tron me,trou 名)属中単 量り

@15# di,dwmi di,dwsin 動)直現能3単 与える、~させる

@16# o` to 冠)対中単 冠詞(この、その)

@17# pneu/ma pneu/ma) 名)対中単 霊

【口語訳】 Joh 3:34 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。

【新改訳改訂3】 Joh3:34 神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

【新共同訳】 Joh 3:34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。

【NKJV】 Joh 3:34 “For He whom God has sent speaks the words of God, for God does not give the Spirit by measure.

【TEV】 Joh 3:34 The one whom God has sent speaks God’s words, because God gives him the fullness of his Spirit.

【KJV】 Joh 3:34 For he whom God hath sent speaketh the words of God: for God giveth not the Spirit by measure unto him.

【NIV】Joh 3:34For the one whom God has sent speaks the words of God, for God {[34] Greek <he>} gives the Spirit without limit.

【LIB】Joh 3:34神様から遣わされたあの方は、神様のことばをお話しになる。 あの方の上には、神の御霊が無限に注がれているからだ。

【塚本訳】 Joh3:34 神がお遣わしになった方は神の言葉を話される。神は(その方に)いくらでも霊をお与えになるからである。

 

Joh 3:35 o` path.r avgapa/| to.n ui`o,n kai. pa,nta de,dwken evn th/| ceiri. auvtou/)

@1# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@2# path,r path.r 名)主男単 父

@3# avgapa,w avgapa 動)直現能3単 愛する

@4# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@5# ui`o,j ui`o,n 名)対男 息子、子、子孫

@6# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@7# pa/j pa,nta 形)対 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@8# di,dwmi de,dwken 動)直完了能3単 与える、~させる

@9# evn evn 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@10# o` th/| 冠)与女単 冠詞(この、その)

@11# cei,r ceiri 名)与女単 手、神の力

@12# auvto,j auvtou/) 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

【口語訳】 Joh 3:35 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。

【新改訳改訂3】 Joh3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。

【新共同訳】 Joh 3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。

【NKJV】 Joh 3:35 “The Father loves the Son, and has given all things into His hand.

【TEV】 Joh 3:35 The Father loves his Son and has put everything in his power.

【KJV】 Joh 3:35 The Father loveth the Son, and hath given all things into his hand.

【NIV】 Joh 3:35 The Father loves the Son and has placed everything in his hands.

【LIB】 Joh 3:35 父なる神様はこの方を愛し、万物をこの方にお与えになった。

【塚本訳】 Joh3:35 父上は御子を愛して、一切のもの(の支配権)をその手におまかせになった。

 

Joh 3:35 o` path.r avgapa/| to.n ui`o,n kai. pa,nta de,dwken evn th/| ceiri. auvtou/)

@1# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@2# path,r path.r 名)主男単 父

@3# avgapa,w avgapa/| 動)直現能3単 愛する

@4# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@5# ui`o,j ui`o,n 名)対男 息子、子、子孫

@6# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@7# pa/j pa,nta 形)対 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@8# di,dwmi de,dwken 動)直完了能3単 与える、~させる

@9# evn evn 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@10# o` th 冠)与女単 冠詞(この、その)

@11# cei,r ceiri. 名)与女単 手、神の力

@12# auvto,j auvtou/) 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

【口語訳】 Joh 3:35 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。

【新改訳改訂3】 Joh3:35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。

【新共同訳】 Joh 3:35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。

【NKJV】 Joh 3:35 “The Father loves the Son, and has given all things into His hand

【TEV】 Joh 3:35 The Father loves his Son and has put everything in his power.

【KJV】 Joh 3:35 The Father loveth the Son, and hath given all things into his hand.

【NIV】 Joh 3:35 The Father loves the Son and has placed everything in his hands.

【LIB】 Joh 3:35 父なる神様はこの方を愛し、万物をこの方にお与えになった。

【塚本訳】 Joh3:35 父上は御子を愛して、一切のもの(の支配権)をその手におまかせになった。

 

Joh 3:36 o` pisteu,wn eivj to.n ui`o.n e;cei zwh.n aivw,nion\ o` de. avpeiqw/n tw/| ui`w/| ouvk o;yetai zwh,n( avllV h` ovrgh. tou/ qeou/ me,nei evpV auvto,n)

@1# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@2# pisteu,w pisteu,wn分)現能主男単 信じる

@3# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@4# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@5# ui`o,j ui`o.n 名)対男 息子、子、子孫

@6# e;cw e;cei 動)直現能3単 持つ、保つ、できる、~である

@7# zwh, zwh.n 名)対女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@8# aivw,nioj aivw,nion 形)対女単 永遠の

@9# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@10# de, de 接)等位/完等 さて、そして、次に、しかし

@11# avpeiqe,w avpeiqw/n 分)現能主男単 聞き従わない

@12# o` tw 冠)与男単 冠詞(この、その)

@13# ui`o,j ui`w 名)与男 息子、子、子孫

@14# ouv ouvk 不変)否定 ~ない

@15# o`ra,w o;yetai 動)直未来能欠3単 見る

@16# zwh, zwh,n(名)対女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@17# avlla, avllV接)完 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@18# o` h 冠)主女単 冠詞(この、その)

@19# ovrgh, ovrgh.名)主女単 怒り

@20# o` tou/ 冠)属男単 冠詞(この、その)

@21# qeo,j qeou名)属男単 神

@22# me,nw me,nei 動)直現能3単 とどまる

@23# evpi, evpV 前)対 の上に、よって、に向かって、に、を

@24# auvto,j auvto,n) 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

【口語訳】 Joh 3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

【新改訳改訂3】 Joh3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

【新共同訳】 Joh 3:36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

【NKJV】 Joh 3:36 “He who believes in the Son has everlasting life; and he who does not believe the Son shall not see life, but the wrath of God abides on him.”

【TEV】 Joh 3:36 Whoever believes in the Son has eternal life; whoever disobeys the Son will not have life, but will remain under God’s punishment.

【KJV】 Joh 3:36 He that believeth on the Son hath everlasting life: and he that believeth not the Son shall not see life; but the wrath of God abideth on him.

【NIV】 Joh 3:36 Whoever believes in the Son has eternal life, but whoever rejects the Son will not see life, for God’s wrath remains on him.” {[36] Some interpreters end the quotation after verse 30.}

【塚本訳】 Joh3:36 (だから従順に)御子を信ずる者は永遠の命を持つが、御子に不従順な者は命にはいることができないばかりか、神の怒りがその人からはなれない。」

 

Joh 4:49 le,gei pro.j auvto.n o` basiliko,j( Ku,rie( kata,bhqi pri.n avpoqanei/n to. paidi,on mou)

@1# le,gw le,gei 動)直現能3 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@2# pro,j pro.j 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@3# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@5# basiliko,j basiliko,j(形)主男単 王の、王室の

@6# ku,rioj Ku,rie(名)呼男単 主

@7# katabai,nw kata,bhqi 動)命アオ能2単 下る、降る、落ちる

@8# pri,n pri.n 接)従位 以前に

@9# avpoqnh,|skw avpoqanei/n 不定)アオ能 死にかけている

@10# o` to. 冠)対中単 冠詞(この、その)

@11# paidi,on paidi,on 名)対中単 幼子

@12# evgw, mou) 代)属1単 私、わたし

【口語訳】 oh 4:49 この役人はイエスに言った、「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」。

【新改訳改訂3】 Joh4:49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」

【新共同訳】 Joh 4:49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。

【NKJV】 Joh 4:49 The nobleman said to Him, “Sir, come down before my child dies!”

【TEV】 Joh 4:49 “Sir,” replied the official, “come with me before my child dies.”

【KJV】 Joh 4:49 The nobleman saith unto him, Sir, come down ere my child die.

【NIV】 Joh 4:49 The royal official said, “Sir, come down before my child dies.”

【LIB】 Joh 4:49 「先生。 お願いですっ! 子供が死なないうちにおいでください。」

【塚本訳】 Joh4:49 王の役人が、「主よ、子供が死なないうちに(カペナウムに)下ってきてください」と言いつづけると、

 

Joh 4:50 le,gei auvtw/| o` VIhsou/j( Poreu,ou( o` ui`o,j sou zh/|) evpi,steusen o` a;nqrwpoj tw/| lo,gw| o]n ei=pen auvtw/| o` VIhsou/j kai. evporeu,eto)

@1# le,gw le,gei 動)直現能3 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@2# auvto,j auvtw 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@3# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# VIhsou/j VIhsou/j(名)主男単 イエス

@5# poreu,omai Poreu,ou(動)命現能欠2単 行く

@6# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@7# ui`o,j ui`o,j 名)主男 息子、子、子孫

@8# su, sou 代)属2単 あなた

@9# za,w zh/|) 動)直現能3単 生きる、(永遠に)生きる、生活する

@10# pisteu,w evpi,steusen 動)直アオ能3単 信じる

@11# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@12# a;nqrwpoj a;nqrwpoj名)主男 人、人間、この人、(文脈上 男・夫 の意)

@13# o` tw/| 冠)与男単 冠詞(この、その)

@14# lo,goj lo,gw| 名)与男単 ことば、理由

@15# o[j o]n 関代)対男単 この~

@16# ei=pon ei=pen 動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@17# auvto,j auvtw 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@18# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@19# VIhsou/j VIhsou/j 名)主男単 イエス

@20# kai, kai. 接)完 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@21# poreu,omai evporeu,eto) 動)直未完能欠3単 行く

【口語訳】 Joh 4:50 イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。

【新改訳改訂3】 Joh4:50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。

【新共同訳】Joh 4:50イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。

【NKJV】 Joh 4:50 Jesus said to him, “Go your way; your son lives.” So the man believed the word that Jesus spoke to him, and he went his way.

【TEV】 Joh 4:50 Jesus said to him, “Go; your son will live!” /The man believed Jesus’ words and went.

【KJV】 Joh 4:50 Jesus saith unto him, Go thy way; thy son liveth. And the man believed the word that Jesus had spoken unto him, and he went his way.

【NIV】 Joh 4:50 Jesus replied, “You may go. Your son will live.” The man took Jesus at his word and departed.

【LIB】 Joh 4:50 「さあ、家にお帰りなさい。 お子さんは治りました。」 役人は、イエスのことばを信じ、家へ急ぎました。

【塚本訳】 Joh4:50 イエスは言われる、「かえりなさい、息子さんはなおった。」その人はイエスの言われた言葉を信じて、かえっていった。

 

Joh 4:51 h;dh de. auvtou/ katabai,nontoj oi` dou/loi auvtou/ u`ph,nthsan auvtw/| le,gontej o[ti o` pai/j auvtou/ zh/|)

@1# h;dh h;dh 副) すでに、いまや

@2# de, de. 接)等位 さて、そして、次に、しかし

@3# auvto,j auvtou/ 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# katabai,nw katabai,nontoj 分)現能属男単 下る、降る、落ちる

@5# o` oi` 冠)主男複 冠詞(この、その)

@6# dou/loj dou/loi 名)主男複 しもべ、奴隷

@7# auvto,j auvtou 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@8# u`panta,w u`ph,nthsan 動)直アオ能3複 出会う

@9# auvto,j auvtw 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@10# le,gw le,gontej 分)現能主男 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@12# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@13# pai/j pai/j 名)主男単 男の子

@14# auvto,j auvtou/ 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@15# za,w zh/|) 動)直現能3単 生きる、(永遠に)生きる、生活する

【口語訳】 Joh 4:51 その下って行く途中、僕たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。

【新改訳改訂3】 Joh4:51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。

【新共同訳】 Joh 4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。

【NKJV】 Joh 4:51 And as he was now going down, his servants met him and told him, saying, “Your son lives!”

【TEV】 Joh 4:51 On his way home his servants met him with the news, “Your boy is going to live!”

【KJV】 Joh 4:51 And as he was now going down, his servants met him, and told him, saying, Thy son liveth.

【NIV】 Joh 4:51 While he was still on the way, his servants met him with the news that his boy was living.

【LIB】 Joh 4:51 途中、召使たちが迎えに来て、「お坊っちゃまは、すっかりよくなりました」と知らせました。

【塚本訳】 Joh4:51 しかしすでに途中で、僕たちが出迎えて、子供がなおったことを知らせた。

 

Joh 5:18 dia. tou/to ou=n ma/llon evzh,toun auvto.n oi` VIoudai/oi avpoktei/nai( o[ti ouv mo,non e;luen to. sa,bbaton( avlla. kai. pate,ra i;dion e;legen to.n qeo,n i;son e`auto.n poiw/n tw/| qew/|)

@1# dia, dia. 前)対 ~を通って、~の故に、~のために

@2# ou-toj tou/to 指示)対中単 このこと

@3# ou=n ou=n 接)完等 それで

@4# ma/llon ma/llon 副)比較 (~より)もっと

@5# zhte,w evzh,toun 動)直未完能3複 捜し出す、探し求める

@6# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@7# o` oi` 冠)主男複 冠詞(この、その)

@8# VIoudai/oj VIoudai/oi 形)主男複 ユダヤ人の

@9# avpoktei,nw avpoktei/nai(不定)アオ能 殺す

@10# o[ti o[ti 接)従 ~と、なぜなら

@11# ouv ou 不変)否定 ~ない

@12# mo,noj mo,non 副) 一つの

@13# lu,w e;luen 動)直未完能3単 破る

@14# o` to. 冠)対中単 冠詞(この、その)

@15# sa,bbaton sa,bbaton(名)対中単 安息日

@16# avlla, avlla 接)完 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@17# kai, kai. 副 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@18# path,r pate,ra 名)対男単 父

@19# i;dioj i;dion 形)対男単 自分の

@20# le,gw e;legen 動)直未完能3 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@21# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@22# qeo,j qeo,n 名)対男単 神

@23# i;soj i;son 形)対男単 等しい、等しく

@24# e`autou/ e`auto.n 代)対男3単 彼自身、自分自身、

@25# poie,w poiw/n 分)現能主男単 する

@26# o` tw/| 冠)与男単 冠詞(この、その)

@27# qeo,j qew/|) 名)与男単 神

【口語訳】 Joh 5:18 このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。

【新改訳改訂3】 Joh5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

【新共同訳】 Joh 5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

【NKJV】 Joh 5:18 Therefore the Jews sought all the more to kill Him, because He not only broke the Sabbath, but also said that God was His Father, making Himself equal with God.

【TEV】 Joh 5:18 This saying made the Jewish authorities all the more determined to kill him; not only had he broken the Sabbath law, but he had said that God was his own Father and in this way had made himself equal with God.

【KJV】 Joh 5:18 Therefore the Jews sought the more to kill him, because he not only had broken the sabbath, but said also that God was his Father, making himself equal with God.

【NIV】 Joh 5:18 For this reason the Jews tried all the harder to kill him; not only was he breaking the Sabbath, but he was even calling God his own Father, making himself equal with God.

【LIB】 Joh 5:18 これを聞いたユダヤ人の指導者たちは、ますます、イエスを殺そうと思うようになりました。 イエスが安息日のおきてを破ったばかりか、事もあろうに、神を「父」と呼んで、自分を神と等しい者とされたからです。

【塚本訳】 Joh5:18 このためユダヤ人は、いよいよイエスを殺そうと思った。安息日を破るばかりでなく、神を自分の父と言って、自分を神と等しくされたからである。

 

Joh 5:39 evrauna/te ta.j grafa,j( o[ti u`mei/j dokei/te evn auvtai/j zwh.n aivw,nion e;cein\ kai. evkei/nai, eivsin ai` marturou/sai peri. evmou/\

@1# evrauna,w evrauna/te 動)直現能2複/命現 調べる

@2# o` ta.j 冠)対女複 冠詞(この、その)名)対女複 書、聖書

@4# o[ti o[ti接)従 ~と、なぜなら

@5# su, u`mei/j2p 代)主2複 あなた

@6# doke,w dokei/te 動)直現能2複 思う、考える

@7# evn evn前)与 中に、間に、で、よって、に、

@8# auvto,j auvtai/ 代)与女3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@9# zwh, zwh.n 名)対女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@10# aivw,nioj aivw,nion 形)対女単 永遠の

@11# e;cw e;cein 不定)現能 持つ、保つ、できる、~である

@12# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@13# evkei/noj evkei/nai, 指示)主女複 それ、彼、あの、その

@14# eivmi, eivsin 動)直現能3複 ある、~である、~です

@15# o` ai 冠)与女複 冠詞(この、その)

@16# marture,w marturou/sai 分)現能主女複 証言する

@17# peri, peri. 前)属 ~のこと

@18# evmo,j evmou/\ 代)属1単 わたしの、わたしのもの

【口語】Joh 5:39あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

【新改訳改訂3】 Joh5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

【新共同訳】 Joh 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

【NKJV】Joh 5:39 “You search the Scriptures, for in them you think you have eternal life; and these are they which testify of Me.

【TEV】 Joh 5:39 You study the Scriptures, because you think that in them you will find eternal life. And these very Scriptures speak about me!

【KJV】 Joh 5:39 Search the scriptures; for in them ye think ye have eternal life: and they are they which testify of me.

【NIV】 Joh 5:39 You diligently study {[39] Or <Study diligently> (the imperative)} the Scriptures because you think that by them you possess eternal life. These are the Scriptures that testify about me,

【LIB】Joh 5:39あなたがたは、永遠のいのちを見つけようと、熱心に聖書を調べています。 その聖書は、わたしを指し示しているのです。

【塚本訳】 Joh5:39 あなた達は聖書(旧約)をもっていることが永遠の命を持っていることのように思って、それを研究している。ところがこの聖書は、(永遠の命である)このわたしのことを証明しているのに、

 

6章26節以下

Joh 6:26 avpekri,qh auvtoi/j o` VIhsou/j kai. ei=pen( VAmh.n avmh.n le,gw u`mi/n( zhtei/te, me ouvc o[ti ei;dete shmei/a( avllV o[ti evfa,gete evk tw/n a;rtwn kai. evcorta,sqhte)

@1# avpokri,nomai avpekri,qh 動)直アオ能欠3単 答える

@2# auvto,j auvtoi/j 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@3# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# VIhsou/j VIhsou/j 名)主男単 イエス

@5# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@6# ei=pon ei=pen(動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@7# avmh,n VAmh.n 不変 アーメン、まことに、確かに

@8# avmh,n avmh.n 不変 アーメン、まことに、確かに

@9# le,gw le,gw 動)直現能1 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@10# su, u`mi/n(代)与2複 あなた

@11# zhte,w zhtei/te, 動)直現能2複 捜し出す、探し求める

@12# evgw, me 代)対1単 私、わたし

@13# ouv ouvc 不変)否定 ~ない

@14# o[ti o[ti 接)従 ~と、なぜなら

@15# ei=don ei;dete 動)直アオ能2複 見た

@16# shmei/on shmei/a(名)対中複 しるし、合図、前兆、奇跡

@17# avlla, avllV 接)完 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@18# o[ti o[ti 接)従 ~と、なぜなら

@19# evsqi,w evfa,gete 動)直アオ能2複 食べる、食事する、焼き尽くす

@20# evk evk 前)属 から、によって、で

@21# o` tw/n 冠)属男複 冠詞(この、その)

@22# a;rtoj a;rtwn 名)属男複 パン

@23# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@24# corta,zw evcorta,sqhte) 動)直アオ受2複 満ち足りる

【口語訳】 Joh 6:26 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。

【新改訳改訂3】 Joh6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

【新共同訳】 Joh 6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。

【NKJV】 Joh 6:26 Jesus answered them and said, “Most assuredly, I say to you, you seek Me, not because you saw the signs, but because you ate of the loaves and were filled.

【TEV】 Joh 6:26 Jesus answered, “I am telling you the truth: you are looking for me because you ate the bread and had all you wanted, not because you understood my miracles.

【KJV】 Joh 6:26 Jesus answered them and said, Verily, verily, I say unto you, Ye seek me, not because ye saw the miracles, but because ye did eat of the loaves, and were filled.

【NIV】 Joh 6:26 Jesus answered, “I tell you the truth, you are looking for me, not because you saw miraculous signs but because you ate the loaves and had your fill.

【LIB】 Joh 6:26 「いいですか。 あなたがたがわたしのそばにいたがるのは、わたしを信じているからではありません。 パンを食べさせてあげたからですね。

【塚本訳】 Joh6:26 イエスが答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、あなた達がわたしをさがすのは、(パンの奇蹟でわたしが救世主である)徴を見たからでなく、パンを食べて満腹したからである。

 

Joh 6:27 evrga,zesqe mh. th.n brw/sin th.n avpollume,nhn avlla. th.n brw/sin th.n me,nousan eivj zwh.n aivw,nion( h]n o` ui`o.j tou/ avnqrw,pou u`mi/n dw,sei\ tou/ton ga.r o` path.r evsfra,gisen o` qeo,j)

@1# evrga,zomai evrga,zesqe 動)命現能欠2複 働く、行なう、実行する、仕事をする

@2# mh, mh. 不変)否定 ~ない

@3# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@4# brw/sij brw/sin 名)対女単 食べること、さび

@5# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@6# avpo,llumi avpollume,nhn 分)現中対女単 滅ぼす、殺す

@7# avlla, avlla 接)完 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@8# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@9# brw/sij brw/sin 名)対女単 食べること、さび

@10# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@11# me,nw me,nousan 分)現能対女単 とどまる

@12# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@13# zwh, zwh.n名)対女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@14# aivw,nioj aivw,nion 形)対女単 永遠の

@15# o[j h]n関代)対女単 この~

@16# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@17# ui`o,j ui`o.j 名)主男 息子、子、子孫

@18# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@19# a;nqrwpoj avnqrw,pou 名)属男 人、人間、この人、(文脈上 男・夫 の意)

@20# su, u`mi/n代)与2複 あなた

@21# di,dwmi dw,sei 動)直未来能3単 与える、~させる

@22# ou-toj tou/ton 指示)対男単 このこと

@23# ga,r ga.r 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@24# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@25# path,r path.r 名)主男単 父

@26# sfragi,zw evsfra,gisen 動)直アオ能3単 封印する

@27# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@28# qeo,j qeo,j)名)主男単 神

口語訳】 Joh 6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。

【新改訳改訂3】 Joh6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

【新共同訳】 Joh 6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

【NKJV】 Joh 6:27 “Do not labor for the food which perishes, but for the food which endures to everlasting life, which the Son of Man will give you, because God the Father has set His seal on Him.”

【TEV】 Joh 6:27 Do not work for food that spoils; instead, work for the food that lasts for eternal life. This is the food which the Son of Man will give you, because God, the Father, has put his mark of approval on him.”

【KJV】 Joh 6:27 Labour not for the meat which perisheth, but for that meat which endureth unto everlasting life, which the Son of man shall give unto you: for him hath God the Father sealed.

【NIV】 Joh 6:27 Do not work for food that spoils, but for food that endures to eternal life, which the Son of Man will give you. On him God the Father has placed his seal of approval.”

【LIB】 Joh 6:27 食べ物みたいになくなってしまうものに、心を奪われてはいけません。 それよりも、永遠のいのちを手に入れる努力をしなさい。 メシヤ(救い主)のわたしは、それをあげるのです。 そのためにこそ、父なる神は、わたしをお遣わしになったのですから。」

【塚本訳】 Joh6:27 (食べれば)無くなる食べ物のためでなく、いつまでもなくならずに、永遠の命に至らせる食べ物のために働きなさい。これは人の子(わたし)があなた達に与えるのである。神なる父上が、(これを与える)全権を人の子に授けられたのだから。」

 

Joh 6:28 ei=pon ou=n pro.j auvto,n( Ti, poiw/men i[na evrgazw,meqa ta. e;rga tou/ qeou/*

@1# ei=pon ei=pon 動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@2# ou=n ou=n 接)完等 それで

@3# pro,j pro.j 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@4# auvto,j auvto,n(代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@5# ti,j Ti, 形)疑対中単 誰、何、どんな、なぜ、どちら

@6# poie,w poiw/men 動)仮現能1複 する

@7# i[na i[na 接)従 ために、する事を、~ので、という事は

@8# evrga,zomai evrgazw,meqa 動)仮現能欠1複 働く、行なう、実行する、仕事をする

@9# o` ta. 冠)対中複 冠詞(この、その)

@10# e;rgon e;rga 名)対中複 行い、仕事、労働

@11# o` tou/ 冠)属男単 冠詞(この、その)

@12# qeo,j qeou/*名)属男単 神

【口語訳】 Joh 6:28 そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。

【新改訳改訂3】 Joh6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」

【新共同訳】 Joh 6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、

【NKJV】 Joh 6:28 Then they said to Him, “What shall we do, that we may work the works of God?”

【TEV】 Joh 6:28 So they asked him, “What can we do in order to do what God wants us to do?”

【KJV】 Joh 6:28 Then said they unto him, What shall we do, that we might work the works of God?

【NIV】 Joh 6:28 Then they asked him, “What must we do to do the works God requires?”

【LIB】 Joh 6:28 「神様に満足していただくには、どうしたらいいんでしょうか。」

【塚本訳】 Joh6:28 すると人々がたずねた、「(それをいただくために)神の(御心にかなう)業をするには、何をすればよいのでしょうか。」

 

Joh 6:29 avpekri,qh @o`# VIhsou/j kai. ei=pen auvtoi/j( Tou/to, evstin to. e;rgon tou/ qeou/( i[na pisteu,hte eivj o]n avpe,steilen evkei/noj)

@1# avpokri,nomai avpekri,qh 動)直アオ能欠3単 答える

@2# o` @o`# 冠)主男単 冠詞(この、その)

@3# VIhsou/j VIhsou/j 名)主男単 イエス

@4# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@5# ei=pon ei=pen 動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@6# auvto,j auvtoi/j(代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@7# ou-toj Tou/to, 指示)主中単 このこと

@8# eivmi, evstin 動)直現能3単 ある、~である、~です

@9# o` to. 冠)主中単 冠詞(この、その)

@10# e;rgon e;rgon 名)主中単 行い、仕事、労働

@11# o` tou/ 冠)属男単 冠詞(この、その)

@12# qeo,j qeou/(名)属男単 神

@13# i[na i[na 関副 ために、する事を、~ので、という事は

@14# pisteu,w pisteu,hte 動)仮現能2複 信じる

@15# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@16# o[j o]n 関代)対男単 この~

@17# avposte,llw avpe,steilen 動)直アオ能3単 遣わす、送り出す

@18# evkei/noj evkei/noj) 指示)主男単 それ、彼、あの、その

【口語訳】 Joh 6:29 イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。

【新改訳改訂3】 Joh6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

【新共同訳】 Joh 6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

【NKJV】 Joh 6:29 Jesus answered and said to them, “This is the work of God, that you believe in Him whom He sent.”

【TEV】 Joh 6:29 Jesus answered, “What God wants you to do is to believe in the one he sent.”

【KJV】 Joh 6:29 Jesus answered and said unto them, This is the work of God, that ye believe on him whom he hath sent.

【NIV】 Joh 6:29 Jesus answered, “The work of God is this: to believe in the one he has sent.”

【LIB】 Joh 6:29 「神が遣わされた者を信じることです。 それこそ、神が望んでおられることです。」

【塚本訳】 Joh6:29 イエスは答えられた、「神がお遣わしになった者を信ずること、これが(御心にかなうただ一つの)神の業である。」

 

Joh 6:30 ei=pon ou=n auvtw/|( Ti, ou=n poiei/j su. shmei/on( i[na i;dwmen kai. pisteu,swme,n soi* ti, evrga,zh|*

@1# ei=pon ei=pon 動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@2# ou=n ou=n 接)完等 それで

@3# auvto,j auvtw/|(代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# ti,j Ti, 形)疑対中単 誰、何、どんな、なぜ、どちら

@5# ou=n ou=n接)完等 それで

@6# poie,w poiei/j 動)直現能2単 する

@7# su, su. 代)主2単 あなた

@8# shmei/on shmei/on(名)対中単 しるし、合図、前兆、奇跡

@9# i[na i[na接)従 ために、する事を、~ので、という事は

@10# ei=don i;dwmen 動)仮アオ能1複 見た

@11# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@12# pisteu,w pisteu,swme,n 動)仮アオ能1複 信じる

@13# so,j soi* 代)与2単 あなたの

@14# ti,j ti 形)疑対中単 誰、何、どんな、なぜ、どちら

@15# evrga,zomai evrga,zh|* 動)直現能欠2単 働く、行なう、実行する、仕事をする

【口語訳】 Joh 6:30 彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。

【新改訳改訂3】 Joh6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。

【新共同訳】 Joh 6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。

【NKJV】 Joh 6:30 Therefore they said to Him, “What sign will You perform then, that we may see it and believe You? What work will You do?

【TEV】 Joh 6:30 They replied, “What miracle will you perform so that we may see it and believe you? What will you do?

【KJV】 Joh 6:30 They said therefore unto him, What sign shewest thou then, that we may see, and believe thee? what dost thou work?

【NIV】 Joh 6:30 So they asked him, “What miraculous sign then will you give that we may see it and believe you? What will you do?

【LIB】 Joh 6:30 -31「あなた様がメシヤなら、その証拠に、もっといろいろな奇蹟を見せてください。 そう、毎日ただでパンを下さるとか……。 ちょうど先祖たちが荒野を旅した時、毎日パンをもらったようにね。 『モーセは天からのパンを彼らに与えた』と聖書(旧約)に書いてあるでしょう。」

【塚本訳】 Joh6:30 そこで彼らが言った、「ではあなたは、どんな徴をわたし達にして見せて、自分を信じさせようとされるのですか。どんなことをされますか。

 

Joh 6:33 o` ga.r a;rtoj tou/ qeou/ evstin o` katabai,nwn evk tou/ ouvranou/ kai. zwh.n didou.j tw/| ko,smw|)

@1# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@2# ga,r ga.r 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@3# a;rtoj a;rtoj 名)主男単 パン

@4# o` tou/ 冠)属男単 冠詞(この、その)

@5# qeo,j qeou/ 名)属男単 神

@6# eivmi, evstin 動)直現能3単 ある、~である、~です

@7# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@8# katabai,nw katabai,nwn 分)現能主男単 下る、降る、落ちる

@9# evk evk 前)属 から、によって、で

@10# o` tou/ 冠)属男単 冠詞(この、その)

@11# ouvrano,j ouvranou/ 名)属男単 天

@12# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@13# zwh, zwh.n 名)対女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@14# di,dwmi didou.j 分)現能主男単 与える、~させる

@15# o` tw/| 冠)与男単 冠詞(この、その)

@16# ko,smoj ko,smw|) 名)与男単 世

【口語訳】 Joh 6:33 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。

【新改訳改訂3】 Joh6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」

【新共同訳】 Joh 6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

【NKJV】 Joh 6:33 “For the bread of God is He who comes down from heaven and gives life to the world.”

【TEV】 Joh 6:33 For the bread that God gives is he who comes down from heaven and gives life to the world.”

【KJV】 Joh 6:33 For the bread of God is he which cometh down from heaven, and giveth life unto the world.

【NIV】 Joh 6:33 For the bread of God is he who comes down from heaven and gives life to the world.”

【LIB】 Joh 6:33 ほんとうのパンとは、神から遣わされて天から来た、一人の方のことです。 その方が、世の人々にいのちを与えるのです。」

【塚本訳】 Joh6:33 神の(与えられる)パンは天から下ってきて、世に命を与えられるものであるから。」

 

Joh 6:34 Ei=pon ou=n pro.j auvto,n( Ku,rie( pa,ntote do.j h`mi/n to.n a;rton tou/ton)

@1# ei=pon Ei=pon 動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@2# ou=n ou=n 接)完等 それで

@3# pro,j pro.j 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@4# auvto,j auvto,n(代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@5# ku,rioj Ku,rie(名)呼男単 主

@6# pa,ntote pa,ntote 副) いつも

@7# di,dwmi do.j 動)命アオ能2単 与える、~させる

@8# evgw, h`mi/n 代)与1複 私、わたし

@9# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@10# a;rtoj a;rton 名)対男単 パン

@11# ou-toj tou/ton) 形)指示対男単 このこと

【口語訳】 Joh 6:34 彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。

【新改訳改訂3】 Joh6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」

【新共同訳】 Joh 6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、

【NKJV】 Joh 6:34 Then they said to Him, “Lord, give us this bread always.”

【TEV】 Joh 6:34 “Sir,” they asked him, “give us this bread always.”

【KJV】 Joh 6:34 Then said they unto him, Lord, evermore give us this bread.

【NIV】 Joh 6:34 “Sir,” they said, “from now on give us this bread.”

【LIB】 Joh 6:34 「先生。 ぜひそのパンを、一生の間、毎日下さい。」

【塚本訳】 Joh6:34 彼らが言った、「主よ、(もしそうなら、)いつもそのパンを戴かせてください。」

 

Joh 6:35 ei=pen auvtoi/j o` VIhsou/j( VEgw, eivmi o` a;rtoj th/j zwh/j\ o` evrco,menoj pro,j evme. ouv mh. peina,sh|( kai. o` pisteu,wn eivj evme. ouv mh. diyh,sei pw,pote)

@1# ei=pon ei=pen 動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@2# auvto,j auvtoi/j 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@3# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# VIhsou/j VIhsou/j(名)主男単 イエス

@5# evgw, VEgw,代)主1単 私、わたし

@6# eivmi, eivmi動)直現能1単 ある、~である、~です

@7# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@8# a;rtoj a;rtoj名)主男単 パン

@9# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@10# zwh, zwh/j\ 名)属女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@11# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@12# e;rcomai evrco,menoj分)現能欠主男単 来る、行く

@13# pro,j pro,j前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@14# evgw, evme 代)対1単 私、わたし

@15# ouv ouv不変)否定 ~ない

@16# mh, mh. 不変)否定 ~ない

@17# peina,w peina,sh|(動)仮アオ能3単 飢える

@18# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@19# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@20# pisteu,w pisteu,wn 分)現能主男単 信じる

@21# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@22# evgw, evme代)対1単 私、わたし

@23# ouv ou 不変)否定 ~ない

@24# mh, mh 不変)否定 ~ない

@25# diya,w diyh,sei 動)直未来能3単 渇く

@26# pw,pote pw,pote) 副) まだかつて…ない

【口語訳】  6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

【新改訳改訂3】 Joh6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

【新共同訳】 Joh 6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

【NKJV】 Joh 6:35 And Jesus said to them, “I am the bread of life. He who comes to Me shall never hunger, and he who believes in Me shall never thirst.

【TEV】 Joh 6:35 “I am the bread of life,” Jesus told them. “Those who come to me will never be hungry; those who believe in me will never be thirsty.

【KJV】 Joh 6:35 And Jesus said unto them, I am the bread of life: he that cometh to me shall never hunger; and he that believeth on me shall never thirst.

【NIV】 Joh 6:35 Then Jesus declared, “I am the bread of life. He who comes to me will never go hungry, and he who believes in me will never be thirsty.

【LIB】 Joh 6:35 「わたしが、そのいのちのパンなのです。 わたしのところに来る人は、二度と飢えることがありません。 わたしを信じる人は、決して渇くことがありません。

【塚本訳】 Joh6:35 イエスが言われた、「わたしが命のパンである。わたしの所に来る者は決して飢えない。わたしを信ずる者は決して二度と渇かない。

 

Joh 6:36 avllV ei=pon u`mi/n o[ti kai. e`wra,kate, @me# kai. ouv pisteu,ete)

@1# avlla, avllV 接)等 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@2# ei=pon ei=pon 動)直アオ能1 言った、言う、~と呼ぶ

@3# su, u`mi/n 代)与2複 あなた

@4# o[ti o[ti 接)完 ~と、なぜなら

@5# kai, kai 副)/接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@6# o`ra,w e`wra,kate, 動)直完了能2複 見る

@7# evgw, @me# 代)対1単 私、わたし

@8# kai, kai接)等位/完 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@9# ouv ouv不変)否定 ~ない

@10# pisteu,w pisteu,ete) 動)直現能2複 信じる

【口語訳】 Joh 6:36 しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない

【新改訳改訂3】 Joh6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。

【新共同訳】 Joh 6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。

【NKJV】 Joh 6:36 “But I said to you that you have seen Me and yet do not believe.

【TEV】 Joh 6:36 Now, I told you that you have seen me but will not believe.

 

【KJV】 Joh 6:36 But I said unto you, That ye also have seen me, and believe not.

【NIV】 Joh 6:36 But as I told you, you have seen me and still you do not believe.

【LIB】 Joh 6:36 ところがあなたがたときたら、どうでしょう。 前にも言ったように、わたしを見ながら信じないのですから。 全く困った人たちです。

【塚本訳】 Joh6:36 しかしわたしは(前に)『あなた達はわたしを見たのに、信じない』と言った。

 

Joh 6:37 Pa/n o] di,dwsi,n moi o` path.r pro.j evme. h[xei( kai. to.n evrco,menon pro.j evme. ouv mh. evkba,lw e;xw(

@1# pa/j Pa/n 形)主 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@2# o[j o]関代)対中単 この~

@3# di,dwmi di,dwsi,n 動)直現能3単 与える、~させる

@4# evgw, moi代)与1単 私、わたし

@5# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@6# path,r path.r 名)主男単 父

@7# pro,j pro.j 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@8# evgw, evme. 代)対1単 私、わたし

@9# h[kw h[xei(s 動)直未来能3単 来る、来ている

@10# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@11# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@12# e;rcomai evrco,menon 分)現能欠対男単 来る、行く

@13# pro,j pro.j 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@14# evgw, evme 代)対1単 私、わたし

@15# ouv ou 不変)否定 ~ない

@16# mh, mh. 不変)否定 ~ない

@17# evkba,llw evkba,lw 動)仮アオ能1単 投げ出す、追い出す、取り出す

@18# e;xw e;xw(副) 外に

【口語訳】 Joh 6:37 父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。

【新改訳改訂3】 Joh6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

【新共同訳】 Joh 6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。

【NKJV】 Joh 6:37 “All that the Father gives Me will come to Me, and the one who comes to Me I will by no means cast out.

【TEV】 Joh 6:37 Everyone whom my Father gives me will come to me. I will never turn away anyone who comes to me,

【KJV】 Joh 6:37 All that the Father giveth me shall come to me; and him that cometh to me I will in no wise cast out.

【NIV】 Joh 6:37 All that the Father gives me will come to me, and whoever comes to me I will never drive away.

【LIB】 Joh 6:37 けれども、父が与えてくださった人は、わたしのところに来ます。 そういう人を拒むようなことは絶対にしません。

【塚本訳】 Joh6:37 (だが、信じないのは父上の御心である。)父上がわたしに下さるものは皆、わたしの所に来、わたしの所に来る者を、わたしは決して放り出さない。

 

 

Joh 6:38 o[ti katabe,bhka avpo. tou/ ouvranou/ ouvc i[na poiw/ to. qe,lhma to. evmo.n avlla. to. qe,lhma tou/ pe,myanto,j me)

@1# o[ti o[ti 接)従 ~と、なぜなら

@2# katabai,nw katabe,bhka 動)直完了能1単 下る、降る、落ちる

@3# avpo, avpo. 前)属 ~から、のうちの、によって

@4# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@5# ouvrano,j ouvranou/ 名)属男単 天

@6# ouv ouvc 不変)否定 ~ない

@7# i[na i[na 接)従 ために、する事を、~ので、という事は

@8# poie,w poiw 動)仮現能1単 する

@9# o` to. 冠)対中単 冠詞(この、その)

@10# qe,lhma qe,lhma 名)対中単 みこころ、意志

@11# o` to. 冠)対中単 冠詞(この、その)

@12# evmo,j evmo.n 形)対中1単 わたしの、わたしのもの

@13# avlla, avlla. 接)完 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@14# o` to 冠)対中単 冠詞(この、その)

@15# qe,lhma qe,lhma 名)対中単 みこころ、意志

@16# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@17# pe,mpw pe,myanto,j 分)アオ能属男単 送る、遣わす

@18# evgw, me) 代)対1単 私、わたし

【口語訳】 Joh 6:38 わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。

【新改訳改訂3】 Joh6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。

【新共同訳】 Joh 6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。

【NKJV】 Joh 6:38 “For I have come down from heaven, not to do My own will, but the will of Him who sent Me.

【TEV】 Joh 6:38 because I have come down from heaven to do not my own will but the will of him who sent me.

【KJV】 Joh 6:38 For I came down from heaven, not to do mine own will, but the will of him that sent me.

【NIV】 Joh 6:38 For I have come down from heaven not to do my will but to do the will of him who sent me.

【LIB】 Joh 6:38 わたしが天から下って来たのは、自分の思いのままにするためではなく、神の意志どおりに行なうためだからです。

【塚本訳】 Joh6:38 (放り出すわけがない。)わたしは、自分のしたいことをするために天から下ってきたのではない。わたしを遣わされた方の御心を行うためである。

 

Joh 6:39 tou/to de, evstin to. qe,lhma tou/ pe,myanto,j me( i[na pa/n o] de,dwke,n moi mh. avpole,sw evx auvtou/( avlla. avnasth,sw auvto. @evn# th/| evsca,th| h`me,ra|)

@1# ou-toj tou/to 指示)主中単 このこと

@2# de, de, 接)等位 さて、そして、次に、しかし

@3# eivmi, evstin 動)直現能3単 ある、~である、~です

@4# o` to. 冠)主中単 冠詞(この、その)

@5# qe,lhma qe,lhma 名)主中単 みこころ、意志

@6# o` tou/ 冠)属男単 冠詞(この、その)

@7# pe,mpw pe,myanto,j 分)アオ能属男単 送る、遣わす

@8# evgw, me 代)対1単 私、わたし

@9# i[na i[na 関副 ために、する事を、~ので、という事は

@10# pa/j pa/n 形)対 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@11# o[j o 関代)対中単 この~

@12# di,dwmi de,dwke,n 動)直完了能3単 与える、~させる

@13# evgw, moi 代)与1単 私、わたし

@14# mh, mh. 不変)否定 ~ない

@15# avpo,llumi avpole,sw 動)直未来能1単/仮アオ能 滅ぼす、殺す

@16# evk evx 前)属 から、によって、で

@17# auvto,j auvtou/( 代)属中3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@18# avlla, avlla. 接)完 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@19# avni,sthmi avnasth,sw 動)直未来能1単/仮アオ能 立ち上がる、起こす

@20# auvto,j auvto 代)対中3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@21# evn @evn# 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@22# o` th/| 冠)与女単 冠詞(この、その)

@23# e;scatoj evsca,th 形)与女単 最後の、終末の

@24# h`me,ra h`me,ra|) 名)与女単 日、昼、時

【口語訳】 Joh 6:39 わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。

【新改訳改訂3】 Joh6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

【新共同訳】 Joh 6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。

【NKJV】 Joh 6:39 “This is the will of the Father who sent Me, that of all He has given Me I should lose nothing, but should raise it up at the last day.

【TEV】 Joh 6:39 And it is the will of him who sent me that I should not lose any of all those he has given me, but that I should raise them all to life on the last day.

【KJV】 Joh 6:39 And this is the Father’s will which hath sent me, that of all which he hath given me I should lose nothing, but should raise it up again at the last day.

【NIV】 Joh 6:39 And this is the will of him who sent me, that I shall lose none of all that he has given me, but raise them up at the last day

【LIB】 Joh 6:39 神が与えてくださったすべての人を、一人も失わないように守り、終わりの日に永遠のいのちに復活させるのです。

【塚本訳】 Joh6:39 そして、わたしに下さったものを一つも無くさず、最後の日にそれを復活させること、これがわたしを遣わされた方の御心である。

 

Joh 6:40 tou/to ga,r evstin to. qe,lhma tou/ patro,j mou( i[na pa/j o` qewrw/n to.n ui`o.n kai. pisteu,wn eivj auvto.n e;ch| zwh.n aivw,nion( kai. avnasth,sw auvto.n evgw. @evn# th/| evsca,th| h`me,ra|)

@1# ou-toj tou/to指示)主中単 このこと

@2# ga,r ga,r接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@3# eivmi, evstin 動)直現能3単 ある、~である、~です

@4# o` to. 冠)主中単 冠詞(この、その)

@5# qe,lhma qe,lhma 名)主中単 みこころ、意志

@6# o` tou/冠)属男単 冠詞(この、その)

@7# path,r patro,j 名)属男単 父

@8# evgw, mou(代)属1単 私、わたし

@9# i[na i[na 関副 ために、する事を、~ので、という事は

@10# pa/j pa/j 形)主 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@11# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@12# qewre,w qewrw/n 分)現能主男単 ながめる

@13# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@14# ui`o,j ui`o.n 名)対男 息子、子、子孫

@15# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@16# pisteu,w pisteu,wn 分)現能主男単 信じる

@17# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@18# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@19# e;cw e;ch| 動)仮現能3単 持つ、保つ、できる、~である

@20# zwh, zwh.n 名)対女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@21# aivw,nioj aivw,nion(形)対女単 永遠の

@22# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@23# avni,sthmi avnasth,sw 動)直未来能1単 立ち上がる、起こす

@24# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@25# evgw, evgw 代)主1単 私、わたし

@26# evn @evn# 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@27# o` th 冠)与女単 冠詞(この、その)

@28# e;scatoj evsca,th| 形)与女単 最後の、終末の

@29# h`me,ra h`me,ra|) 名)与女単 日、昼、時

【口語訳】 Joh 6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。

【新改訳改訂3】 Joh6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

【新共同訳】 Joh 6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

【NKJV】 Joh 6:40 “And this is the will of Him who sent Me, that everyone who sees the Son and believes in Him may have everlasting life; and I will raise him up at the last day.”

【TEV】 Joh 6:40 For what my Father wants is that all who see the Son and believe in him should have eternal life. And I will raise them to life on the last day.”

【KJV】 Joh 6:40 And this is the will of him that sent me, that every one which seeth the Son, and believeth on him, may have everlasting life: and I will raise him up at the last day.

【NIV】 Joh 6:40 For my Father’s will is that everyone who looks to the Son and believes in him shall have eternal life, and I will raise him up at the last day.”

【LIB】 Joh 6:40 事実、父は、子を信じる者がみな、永遠のいのちを得、終わりの日に、復活することを願っておられるのです。」

【塚本訳】 Joh6:40 子(なるわたし)を見て信ずる者が皆永遠の命を持ち、わたしがその人を最後の日に復活させること、これがわたしの父上の御心であるから。(だから信じない者は、父上がわたしに下さらない人たちである。)」

 

「イエスの時はまだ来ていない」

Joh 7:8 u`mei/j avna,bhte eivj th.n e`orth,n\ evgw. ouvk avnabai,nw eivj th.n e`orth.n tau,thn( o[ti o` evmo.j kairo.j ou;pw peplh,rwtai)

@1# su, u`mei/j 代)主2複 あなた

@2# avnabai,nw avna,bhte 動)命アオ能2複 上がる、登る、成長する

@3# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@4# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@5# e`orth, e`orth,n\ 名)対女単 祭り

@6# evgw, evgw 代)主1単 私、わたし

@7# ouv ouvk 不変)否定 ~ない

@8# avnabai,nw avnabai,nw 動)直現能1単 上がる、登る、成長する

@9# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@10# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@11# e`orth, e`orth.n 名)対女単 祭り

@12# ou-toj tau,thn(形)指示対女単 このこと

@13# o[ti o[ti 接)従 ~と、なぜなら

@14# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@15# evmo,j evmo.j 代)与男1単 わたしの、わたしのもの

@16# kairo,j kairo.j 名)主男単 時期、機会

@17# ou;pw ou;pw 副) まだ~ない

@18# plhro,w peplh,rwtai 動)直完了受3単 成就する

【口語訳】 Joh 7:8 あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。

【新改訳改訂3】 Joh7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」

【新共同訳】 Joh 7:8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」

【NKJV】 Joh 7:8 “You go up to this feast. I am not yet going up to this feast, for My time has not yet fully come.”

【TEV】 Joh 7:8 You go on to the festival. I am not going to this festival, because the right time has not come for me.”

【KJV】 Joh 7:8 Go ye up unto this feast: I go not up yet unto this feast: for my time is not yet full come.

【NIV】 Joh 7:8 You go to the Feast. I am not yet {[8] Some early manuscripts do not have <yet.>} going up to this Feast, because for me the right time has not yet come.”

【LIB】 Joh 7:8 いいから、あなたがただけで行きなさい。 わたしは、行く時が来たら行きますから。」

【塚本訳】 Joh7:8 あなた達は祭りに上ったがよかろう。わたしはこの祭りには上らない。わたしの時はまだ満ちていないのだから。」

 

Joh 7:30 VEzh,toun ou=n auvto.n pia,sai( kai. ouvdei.j evpe,balen evpV auvto.n th.n cei/ra( o[ti ou;pw evlhlu,qei h` w[ra auvtou/)

@1# zhte,w VEzh,toun 動)直未完能3複 捜し出す、探し求める

@2# ou=n ou=n 接)完等 それで

@3# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# pia,zw pia,sai(不定)アオ能 捕える

@5# kai, kai 接)完 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@6# ouvdei,j ouvdei.j 数)主男単 何も~ない

@7# evpiba,llw evpe,balen 動)直アオ能3単 置く、かぶる、(手を)かける、始める

@8# evpi, evpV 前)対 の上に、よって、に向かって、に、を

@9# auvto,j auvto.n 代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@10# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@11# cei,r cei/ra(名)対女単 手、神の力

@12# o[ti o[ti 接)従 ~と、なぜなら

@13# ou;pw ou;pw 副) まだ~ない

@14# e;rcomai evlhlu,qei 動)直大完能3単 来る、行く

@15# o` h` 冠)主女単 冠詞(この、その)

@16# w[ra w[ra 名)主女単 時、時間、時刻

@17# auvto,j auvtou/) 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

【口語訳】 Joh 7:30 そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。

【新改訳改訂3】 Joh7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。

【新共同訳】 Joh 7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

【NKJV】 Joh 7:30 Therefore they sought to take Him; but no one laid a hand on Him, because His hour had not yet come.

【TEV】 Joh 7:30 Then they tried to seize him, but no one laid a hand on him, because his hour had not yet come

【KJV】 Joh 7:30 Then they sought to take him: but no man laid hands on him, because his hour was not yet come.

【NIV】 Joh 7:30 At this they tried to seize him, but no one laid a hand on him, because his time had not yet come.

【LIB】 Joh 7:30 ユダヤ人の指導者たちは、何とかしてイエスを逮捕しようと思いました。 しかし、実際に手を出す者は一人もいません。 まだ、その時ではなかったのです。

【塚本訳】 Joh7:30 そこで(最高法院の)人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はなかった。彼の時がまだ来ていなかったからである。

 

kairo,j

< Joh 7:6 >kairo.j名)主男単~O kairo.j o`

le,gei ou=n auvtoi/j o` VIhsou/j( ~O kairo.j o` evmo.j ou;pw pa,restin( o` de. kairo.j o` u`me,teroj pa,ntote, evstin e[toimojÅ

【口語訳】 Joh 7:6 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。

【新共同訳】 Joh 7:6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。

【新改訳改訂3】 Joh7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。

【NKJV】 Joh 7:6 Then Jesus said to them, “My time has not yet come, but your time is always ready.

【TEV】 Joh 7:6 Jesus said to them, “The right time for me has not yet come. Any time is right for you.

【KJV】 Joh 7:6 Then Jesus said unto them, My time is not yet come: but your time is alway ready.

【NIV】 Joh 7:6 Therefore Jesus told them, “The right time for me has not yet come; for you any time is right.

【リビングバイブル】

Joh 7:6 「今はまだ、その時ではありません。 しかし、あなたがたはいつ行ってもいいし、いつ行こうが、別にかまいません。

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< Joh 7:6 >kairo.j名)主男単de. kairo.j o`

le,gei ou=n auvtoi/j o` VIhsou/j( ~O kairo.j o` evmo.j ou;pw pa,restin( o` de. kairo.j o` u`me,teroj pa,ntote, evstin e[toimojÅ

【口語訳】 Joh 7:6 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。

【新共同訳】 Joh 7:6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。

【新改訳改訂3】 Joh7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。

【NKJV】 Joh 7:6 Then Jesus said to them, “My time has not yet come, but your time is always ready.

【TEV】 Joh 7:6 Jesus said to them, “The right time for me has not yet come. Any time is right for you.

【KJV】 Joh 7:6 Then Jesus said unto them, My time is not yet come: but your time is alway ready.

【NIV】 Joh 7:6 Therefore Jesus told them, “The right time for me has not yet come; for you any time is right.

【リビングバイブル】 Joh 7:6 「今はまだ、その時ではありません。 しかし、あなたがたはいつ行ってもいいし、いつ行こうが、別にかまいません。

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< Joh 7:8 >kairo.j名)主男単evmo.j kairo.j ou;pw

u`mei/j avna,bhte eivj th.n e`orth,n\ evgw. ouvk avnabai,nw eivj th.n e`orth.n tau,thn( o[ti o` evmo.j kairo.j ou;pw peplh,rwtaiÅ

【口語訳】 Joh 7:8 あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。

【新共同訳】 Joh 7:8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」

【新改訳改訂3】 Joh7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」

【NKJV】 Joh 7:8 “You go up to this feast. I am not yet going up to this feast, for My time has not yet fully come.”

【TEV】 Joh 7:8 You go on to the festival. I am not going to this festival, because the right time has not come for me.”

【KJV】 Joh 7:8 Go ye up unto this feast: I go not up yet unto this feast: for my time is not yet full come.

【NIV】 Joh 7:8 You go to the Feast. I am not yet {[8] Some early manuscripts do not have <yet.>} going up to this Feast, because for me the right time has not yet come.”

【リビングバイブル】 Joh 7:8 いいから、あなたがただけで行きなさい。 わたしは、行く時が来たら行きますから。」

 

 

w[ra

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< Joh 1:39 >w[ra名)主女単evkei,nhn\ w[ra h=n

le,gei auvtoi/j( :Ercesqe kai. o;yesqeÅ h=lqan ou=n kai. ei=dan pou/ me,nei kai. parV auvtw/| e;meinan th.n h`me,ran evkei,nhn\ w[ra h=n w`j deka,thÅ

【口語訳】 Joh 1:39 イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。

【新共同訳】 Joh 1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。

【新改訳改訂3】 Joh1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。

 

【NKJV】 Joh 1:39 He said to them, “Come and see.” They came and saw where He was staying, and remained with Him that day (now it was about the tenth hour).

【TEV】 Joh 1:39 “Come and see,” he answered. (It was then about four o’clock in the afternoon.) So they went with him and saw where he lived, and spent the rest of that day with him.

【KJV】 Joh 1:39 He saith unto them, Come and see. They came and saw where he dwelt, and abode with him that day: for it was about the tenth hour.

【NIV】 Joh 1:39 “Come,” he replied, “and you will see.” So they went and saw where he was staying, and spent that day with him. It was about the tenth hour.

【リビングバイブル】 Joh 1:39 「いっしょに来なさい。 すぐにわかりますよ。」こう言われて二人は、イエスの泊まっておられる所までついて行きました。 だいたい午後四時ごろだったでしょうか。 その日は、それからずっと、イエスといっしょにいました。

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< Joh 2:4 >w[ra名)主女単h` w[ra mou)

Îkai.Ð le,gei auvth/| o` VIhsou/j( Ti, evmoi. kai. soi,( gu,naiÈ ou;pw h[kei h` w[ra mouÅ

【口語訳】 Joh 2:4 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。

【新共同訳】 Joh 2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

【新改訳改訂3】 Joh2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

【NKJV】 Joh 2:4 Jesus said to her, “Woman, what does your concern have to do with Me? My hour has not yet come.”

【TEV】 Joh 2:4 “You must not tell me what to do,” Jesus replied. “My time has not yet come.”

【KJV】 Joh 2:4 Jesus saith unto her, Woman, what have I to do with thee? mine hour is not yet come.

【NIV】 Joh 2:4 “Dear woman, why do you involve me?” Jesus replied. “My time has not yet come.”

【リビングバイブル】 Joh 2:4 イエスは、「今はだめですよ、お母さん。 まだ、奇蹟を行なう時ではありませんから」と、お答えになりました。

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< Joh 4:6 >w[ra名)主女単phgh/|\ w[ra h=n

h=n de. evkei/ phgh. tou/ VIakw,bÅ o` ou=n VIhsou/j kekopiakw.j evk th/j o`doipori,aj evkaqe,zeto ou[twj evpi. th/| phgh/|\ w[ra h=n w`j e[kthÅ

【口語訳】 Joh 4:6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。

【新共同訳】 Joh 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

【新改訳改訂3】 Joh4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。

【NKJV】 Joh 4:6 Now Jacob’s well was there. Jesus therefore, being wearied from His journey, sat thus by the well. It was about the sixth hour.

【TEV】 Joh 4:6 Jacob’s well was there, and Jesus, tired out by the trip, sat down by the well. It was about noon.

【KJV】 Joh 4:6 Now Jacob’s well was there. Jesus therefore, being wearied with his journey, sat thus on the well: and it was about the sixth hour.

【NIV】 Joh 4:6 Jacob’s well was there, and Jesus, tired as he was from the journey, sat down by the well. It was about the sixth hour.

【リビングバイブル】 Joh 4:6

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< Joh 4:21 >w[ra名)主女単e;rcetai w[ra o[te

le,gei auvth/| o` VIhsou/j( Pi,steue, moi( gu,nai( o[ti e;rcetai w[ra o[te ou;te evn tw/| o;rei tou,tw| ou;te evn ~Ierosolu,moij proskunh,sete tw/| patri,Å

【口語訳】 Joh 4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

【新共同訳】 Joh 4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

【新改訳改訂3】 Joh4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

【NKJV】 Joh 4:21 Jesus said to her, “Woman, believe Me, the hour is coming when you will neither on this mountain, nor in Jerusalem, worship the Father.

【TEV】 Joh 4:21 Jesus said to her, “Believe me, woman, the time will come when people will not worship the Father either on this mountain or in Jerusalem.

【KJV】 Joh 4:21 Jesus saith unto her, Woman, believe me, the hour cometh, when ye shall neither in this mountain, nor yet at Jerusalem, worship the Father.

【NIV】 Joh 4:21 Jesus declared, “Believe me, woman, a time is coming when you will worship the Father neither on this mountain nor in Jerusalem.

【リビングバイブル】 Joh 4:21 -24「いいですか。 父なる神を礼拝する場所は、この山か、それともエルサレムか、などとこだわる必要のない時が来るのです。 大切なのは、どこで礼拝するかではありません。 どのように礼拝するかです。 霊的な、真心からの礼拝をしているかどうかが問題なのです。 神は霊なるお方だから、正しい礼拝をするには、聖霊の助けが必要です。 神はそのような礼拝をしてほしいのですよ。 あなたがたサマリヤ人は、神のことはほとんど何も知らないで礼拝していますが、私たちユダヤ人はよく知っています。 救いはユダヤ人を通してこの世に来るのですから。」

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< Joh 4:23 >w[ra名)主女単e;rcetai w[ra kai.

avlla. e;rcetai w[ra kai. nu/n evstin( o[te oi` avlhqinoi. proskunhtai. proskunh,sousin tw/| patri. evn pneu,mati kai. avlhqei,a|\ kai. ga.r o` path.r toiou,touj zhtei/ tou.j proskunou/ntaj auvto,nÅ

【口語訳】 Joh 4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

【新共同訳】 Joh 4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

【新改訳改訂3】 Joh4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

【NKJV】 Joh 4:23 “But the hour is coming, and now is, when the true worshipers will worship the Father in spirit and truth; for the Father is seeking such to worship Him.

【TEV】 Joh 4:23 But the time is coming and is already here, when by the power of God’s Spirit people will worship the Father as he really is, offering him the true worship that he wants.

【KJV】 Joh 4:23 But the hour cometh, and now is, when the true worshippers shall worship the Father in spirit and in truth: for the Father seeketh such to worship him.

【NIV】 Joh 4:23 Yet a time is coming and has now come when the true worshipers will worship the Father in spirit and truth, for they are the kind of worshipers the Father seeks.

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< Joh 4:52 >w[ran名)対女単th.n w[ran parV

evpu,qeto ou=n th.n w[ran parV auvtw/n evn h-| komyo,teron e;scen\ ei=pan ou=n auvtw/| o[ti VEcqe.j w[ran e`bdo,mhn avfh/ken auvto.n o` pureto,jÅ

【口語訳】 Joh 4:52 そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。

【新共同訳】 Joh 4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。

【新改訳改訂3】 Joh4:52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。

【NKJV】 Joh 4:52 Then he inquired of them the hour when he got better. And they said to him, “Yesterday at the seventh hour the fever left him.”

【TEV】 Joh 4:52 He asked them what time it was when his son got better, and they answered, “It was one o’clock yesterday afternoon when the fever left him.”

【KJV】 Joh 4:52 Then enquired he of them the hour when he began to amend. And they said unto him, Yesterday at the seventh hour the fever left him.

【NIV】 Joh 4:52 When he inquired as to the time when his son got better, they said to him, “The fever left him yesterday at the seventh hour.”

【リビングバイブル】 Joh 4:52 「えっ! いつからだ。」 「昨日の午後一時ごろでしょうか、急に熱が下がりまして……。」

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< Joh 4:52 >w[ran名)対女単VEcqe.j w[ran e`bdo,mhn

evpu,qeto ou=n th.n w[ran parV auvtw/n evn h-| komyo,teron e;scen\ ei=pan ou=n auvtw/| o[ti VEcqe.j w[ran e`bdo,mhn avfh/ken auvto.n o` pureto,jÅ

【口語訳】 Joh 4:52 そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。

【新共同訳】 Joh 4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。

【新改訳改訂3】 Joh4:52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。

【NKJV】 Joh 4:52 Then he inquired of them the hour when he got better. And they said to him, “Yesterday at the seventh hour the fever left him.”

【TEV】 Joh 4:52 He asked them what time it was when his son got better, and they answered, “It was one o’clock yesterday afternoon when the fever left him.”

【KJV】 Joh 4:52 Then enquired he of them the hour when he began to amend. And they said unto him, Yesterday at the seventh hour the fever left him.

【NIV】 Joh 4:52 When he inquired as to the time when his son got better, they said to him, “The fever left him yesterday at the seventh hour.”

【リビングバイブル】 Joh 4:52 「えっ! いつからだ。」 「昨日の午後一時ごろでしょうか、急に熱が下がりまして……。」

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< Joh 4:53 >w[ra|名)与女単th/| w[ra| evn

e;gnw ou=n o` path.r o[ti ÎevnÐ evkei,nh| th/| w[ra| evn h-| ei=pen auvtw/| o` VIhsou/j( ~O ui`o,j sou zh/|( kai. evpi,steusen auvto.j kai. h` oivki,a auvtou/ o[lhÅ

【口語訳】 Joh 4:53 それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。

【新共同訳】 Joh 4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。

【新改訳改訂3】 Joh4:53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。

【NKJV】 Joh 4:53 So the father knew that it was at the same hour in which Jesus said to him, “Your son lives.” And he himself believed, and his whole household.

【TEV】 Joh 4:53 Then the father remembered that it was at that very hour when Jesus had told him, “Your son will live.” So he and all his family believed.

【KJV】 Joh 4:53 So the father knew that it was at the same hour, in the which Jesus said unto him, Thy son liveth: and himself believed, and his whole house.

【NIV】 Joh 4:53 Then the father realized that this was the exact time at which Jesus had said to him, “Your son will live.” So he and all his household believed.

【リビングバイブル】 Joh 4:53 それはまさに、イエスが「お子さんは治りました」と言われた時刻とぴったり一致していました。 このことがあって、役人と家族全員が、イエスをメシヤ(救い主)だと信じました。

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< Joh 5:25 >w[ra名)主女単e;rcetai w[ra kai.

avmh.n avmh.n le,gw u`mi/n o[ti e;rcetai w[ra kai. nu/n evstin o[te oi` nekroi. avkou,sousin th/j fwnh/j tou/ ui`ou/ tou/ qeou/ kai. oi` avkou,santej zh,sousinÅ

【口語訳】 Joh 5:25 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

【新共同訳】 Joh 5:25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。

【新改訳改訂3】 Joh5:25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

【NKJV】 Joh 5:25 “Most assuredly, I say to you, the hour is coming, and now is, when the dead will hear the voice of the Son of God; and those who hear will live.

【TEV】 Joh 5:25 I am telling you the truth: the time is coming-the time has already come-when the dead will hear the voice of the Son of God, and those who hear it will come to life.

【KJV】 Joh 5:25 Verily, verily, I say unto you, The hour is coming, and now is, when the dead shall hear the voice of the Son of God: and they that hear shall live.

【NIV】 Joh 5:25 I tell you the truth, a time is coming and has now come when the dead will hear the voice of the Son of God and those who hear will live.

【リビングバイブル】 Joh 5:25 はっきり言いましょう。 死人が、神の子であるわたしの声を聞く時が、じきに来ます。 いやもう来ているのです。 そして、聞いた者は生きます。

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< Joh 5:28 >w[ra名)主女単e;rcetai w[ra evn

  1. qauma,zete tou/to( o[ti e;rcetai w[ra evn h-| pa,ntej oi` evn toi/j mnhmei,oij avkou,sousin th/j fwnh/j auvtou/

【口語訳】 Joh 5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、

【新共同訳】 Joh 5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、

【新改訳改訂3】 Joh5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。

【NKJV】 Joh 5:28 “Do not marvel at this; for the hour is coming in which all who are in the graves will hear His voice

【TEV】 Joh 5:28 Do not be surprised at this; the time is coming when all the dead will hear his voice

【KJV】 Joh 5:28 Marvel not at this: for the hour is coming, in the which all that are in the graves shall hear his voice,

【NIV】 Joh 5:28 “Do not be amazed at this, for a time is coming when all who are in their graves will hear his voice

【リビングバイブル】 Joh 5:28 驚いてはいけません。 墓の中の死人がみな、神の子の声を聞く時が来ます。

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< Joh 5:35 >w[ran名)対女単pro.j w[ran evn

evkei/noj h=n o` lu,cnoj o` kaio,menoj kai. fai,nwn( u`mei/j de. hvqelh,sate avgalliaqh/nai pro.j w[ran evn tw/| fwti. auvtou/Å

【口語訳】 Joh 5:35 ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。

【新共同訳】 Joh 5:35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。

【新改訳改訂3】 Joh5:35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。

【NKJV】 Joh 5:35 “He was the burning and shining lamp, and you were willing for a time to rejoice in his light.

【TEV】 Joh 5:35 John was like a lamp, burning and shining, and you were willing for a while to enjoy his light.

【KJV】 Joh 5:35 He was a burning and a shining light: and ye were willing for a season to rejoice in his light.

【NIV】 Joh 5:35 John was a lamp that burned and gave light, and you chose for a time to enjoy his light.

【リビングバイブル】

Joh 5:35 なるほどヨハネはしばらくの間、ひときわ明るく輝き、あなたがたもそれを喜びました。

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< Joh 7:30 >

w[ra

名)主女単

h` w[ra auvtou/)

VEzh,toun ou=n auvto.n pia,sai( kai. ouvdei.j evpe,balen evpV auvto.n th.n cei/ra( o[ti ou;pw evlhlu,qei h` w[ra auvtou/Å

【口語訳】

Joh 7:30 そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。

【新共同訳】

Joh 7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

【新改訳改訂3】

Joh7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。

 

【NKJV】

Joh 7:30 Therefore they sought to take Him; but no one laid a hand on Him, because His hour had not yet come.

【TEV】

Joh 7:30 Then they tried to seize him, but no one laid a hand on him, because his hour had not yet come.

 

【KJV】

Joh 7:30 Then they sought to take him: but no man laid hands on him, because his hour was not yet come.

【NIV】

Joh 7:30 At this they tried to seize him, but no one laid a hand on him, because his time had not yet come.

【リビングバイブル】

Joh 7:30 ユダヤ人の指導者たちは、何とかしてイエスを逮捕しようと思いました。 しかし、実際に手を出す者は一人もいません。 まだ、その時ではなかったのです。

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< Joh 8:20 >

w[ra

名)主女単

h` w[ra auvtou/)

Tau/ta ta. r`h,mata evla,lhsen evn tw/| gazofulaki,w| dida,skwn evn tw/| i`erw/|\ kai. ouvdei.j evpi,asen auvto,n( o[ti ou;pw evlhlu,qei h` w[ra auvtou/Å

【口語訳】

Joh 8:20 イエスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者がなかった。

【新共同訳】

Joh 8:20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

【新改訳改訂3】

Joh8:20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 

【NKJV】

Joh 8:20 These words Jesus spoke in the treasury, as He taught in the temple; and no one laid hands on Him, for His hour had not yet come.

【TEV】

Joh 8:20 Jesus said all this as he taught in the Temple, in the room where the offering boxes were placed. And no one arrested him, because his hour had not come.

 

【KJV】

Joh 8:20 These words spake Jesus in the treasury, as he taught in the temple: and no man laid hands on him; for his hour was not yet come.

【NIV】

Joh 8:20 He spoke these words while teaching in the temple area near the place where the offerings were put. Yet no one seized him, because his time had not yet come.

【リビングバイブル】

Joh 8:20 こうした話がなされたのは、宮の中の献金箱が置いてある所でした。 しかし、だれ一人、イエスを逮捕する者はいません。 まだ、その時ではなかったのです。

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< Joh 11:9 >

w-rai,

名)主女複

dw,deka w-rai, eivsin

avpekri,qh VIhsou/j( Ouvci. dw,deka w-rai, eivsin th/j h`me,rajÈ eva,n tij peripath/| evn th/| h`me,ra|( ouv prosko,ptei( o[ti to. fw/j tou/ ko,smou tou,tou ble,pei\

【口語訳】

Joh 11:9 イエスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。

【新共同訳】

Joh 11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。

【新改訳改訂3】

Joh11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。

 

【NKJV】

Joh 11:9 Jesus answered, “Are there not twelve hours in the day? If anyone walks in the day, he does not stumble, because he sees the light of this world.

【TEV】

Joh 11:9 Jesus said, “A day has twelve hours, doesn’t it? So those who walk in broad daylight do not stumble, for they see the light of this world.

 

【KJV】

Joh 11:9 Jesus answered, Are there not twelve hours in the day? If any man walk in the day, he stumbleth not, because he seeth the light of this world.

【NIV】

Joh 11:9 Jesus answered, “Are there not twelve hours of daylight? A man who walks by day will not stumble, for he sees by this world’s light.

【リビングバイブル】

Joh 11:9 「昼間は十二時間あります。 その間に歩けば、安全で、つまずくこともありません。

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< Joh 12:23 >

w[ra

名)主女単

h` w[ra i[na

o` de. VIhsou/j avpokri,netai auvtoi/j le,gwn( VElh,luqen h` w[ra i[na doxasqh/| o` ui`o.j tou/ avnqrw,pouÅ

【口語訳】

Joh 12:23 すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。

【新共同訳】

Joh 12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。

【新改訳改訂3】

Joh12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

 

【NKJV】

Joh 12:23 But Jesus answered them, saying, “The hour has come that the Son of Man should be glorified.

【TEV】

Joh 12:23 Jesus answered them, “The hour has now come for the Son of Man to receive great glory.

 

【KJV】

Joh 12:23 And Jesus answered them, saying, The hour is come, that the Son of man should be glorified.

【NIV】

Joh 12:23 Jesus replied, “The hour has come for the Son of Man to be glorified.

【リビングバイブル】

Joh 12:23 イエスはお答えになりました。 「いよいよ、わたしが天にある栄光の座に帰る時が来たのです。

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< Joh 12:27 >

w[raj

名)属女単

th/j w[raj tau,thj*

Nu/n h` yuch, mou teta,raktai( kai. ti, ei;pwÈ Pa,ter( sw/so,n me evk th/j w[raj tau,thjÈ avlla. dia. tou/to h=lqon eivj th.n w[ran tau,thnÅ

【口語訳】

Joh 12:27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。

【新共同訳】

Joh 12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

【新改訳改訂3】

Joh12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

 

【NKJV】

Joh 12:27 “Now My soul is troubled, and what shall I say? ‘Father, save Me from this hour’? But for this purpose I came to this hour.

【TEV】

Joh 12:27 “Now my heart is troubled-and what shall I say? Shall I say, “Father, do not let this hour come upon me’? But that is why I came-so that I might go through this hour of suffering.

 

【KJV】

Joh 12:27 Now is my soul troubled; and what shall I say? Father, save me from this hour: but for this cause came I unto this hour.

【NIV】

Joh 12:27 “Now my heart is troubled, and what shall I say? `Father, save me from this hour’? No, it was for this very reason I came to this hour.

【リビングバイブル】

Joh 12:27 だが、今いったい、わたしはどうしたらいいのでしょうか……。 『父よ。 行く手に待ちかまえていることからお救いください』と祈るべきでしょうか。 ああ、だが、このために、このためにこそ、わたしは来たのです……。

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< Joh 12:27 >

w[ran

名)対女単

th.n w[ran tau,thn)

Nu/n h` yuch, mou teta,raktai( kai. ti, ei;pwÈ Pa,ter( sw/so,n me evk th/j w[raj tau,thjÈ avlla. dia. tou/to h=lqon eivj th.n w[ran tau,thnÅ

【口語訳】

Joh 12:27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。

【新共同訳】

Joh 12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

【新改訳改訂3】

Joh12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

 

【NKJV】

Joh 12:27 “Now My soul is troubled, and what shall I say? ‘Father, save Me from this hour’? But for this purpose I came to this hour.

【TEV】

Joh 12:27 “Now my heart is troubled-and what shall I say? Shall I say, “Father, do not let this hour come upon me’? But that is why I came-so that I might go through this hour of suffering.

 

【KJV】

Joh 12:27 Now is my soul troubled; and what shall I say? Father, save me from this hour: but for this cause came I unto this hour.

【NIV】

Joh 12:27 “Now my heart is troubled, and what shall I say? `Father, save me from this hour’? No, it was for this very reason I came to this hour.

【リビングバイブル】

Joh 12:27 だが、今いったい、わたしはどうしたらいいのでしょうか……。 『父よ。 行く手に待ちかまえていることからお救いください』と祈るべきでしょうか。 ああ、だが、このために、このためにこそ、わたしは来たのです……。

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< Joh 13:1 >

w[ra

名)主女単

h` w[ra i[na

Pro. de. th/j e`orth/j tou/ pa,sca eivdw.j o` VIhsou/j o[ti h=lqen auvtou/ h` w[ra i[na metabh/| evk tou/ ko,smou tou,tou pro.j to.n pate,ra( avgaph,saj tou.j ivdi,ouj tou.j evn tw/| ko,smw| eivj te,loj hvga,phsen auvtou,jÅ

【口語訳】

Joh 13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。

【新共同訳】

Joh 13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

【NKJV】

Joh 13:1 Now before the feast of the Passover, when Jesus knew that His hour had come that He should depart from this world to the Father, having loved His own who were in the world, He loved them to the end.

【TEV】

Joh 13:1 It was now the day before the Passover Festival. Jesus knew that the hour had come for him to leave this world and go to the Father. He had always loved those in the world who were his own, and he loved them to the very end.

 

【KJV】

Joh 13:1 Now before the feast of the passover, when Jesus knew that his hour was come that he should depart out of this world unto the Father, having loved his own which were in the world, he loved them unto the end.

【NIV】

Joh 13:1 It was just before the Passover Feast. Jesus knew that the time had come for him to leave this world and go to the Father. Having loved his own who were in the world, he now showed them the full extent of his love. {[1] Or <he loved them to the last>}

【リビングバイブル】

Joh 13:1 過越の祭りの前に、イエスは、いよいよ、この世を去って父のもとに帰る最後の時が来たと覚悟を決め、弟子たちを最後まで徹底的に愛しとおされました。

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< Joh 16:2 >

w[ra

名)主女単

e;rcetai w[ra i[na

avposunagw,gouj poih,sousin u`ma/j\ avllV e;rcetai w[ra i[na pa/j o` avpoktei,naj u`ma/j do,xh| latrei,an prosfe,rein tw/| qew/|Å

【口語訳】

Joh 16:2 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。

【新共同訳】

Joh 16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。

【新改訳改訂3】

Joh16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。

 

【NKJV】

Joh 16:2 “They will put you out of the synagogues; yes, the time is coming that whoever kills you will think that he offers God service.

【TEV】

Joh 16:2 You will be expelled from the synagogues, and the time will come when those who kill you will think that by doing this they are serving God.

 

【KJV】

Joh 16:2 They shall put you out of the synagogues: yea, the time cometh, that whosoever killeth you will think that he doeth God service.

【NIV】

Joh 16:2 They will put you out of the synagogue; in fact, a time is coming when anyone who kills you will think he is offering a service to God.

【リビングバイブル】

Joh 16:2 覚悟しなさい。 会堂から除名され、いのちまでつけねらわれる身になるのですから。 事実、あなたがたを殺すことで、神への奉仕を果たすのだと、人々がとんでもない思い違いをする時が来ます。

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< Joh 16:4 >w[ra名)主女単h` w[ra auvtw/n

avlla. tau/ta lela,lhka u`mi/n i[na o[tan e;lqh| h` w[ra auvtw/n mnhmoneu,hte auvtw/n o[ti evgw. ei=pon u`mi/nÅ Tau/ta de. u`mi/n evx avrch/j ouvk ei=pon( o[ti meqV u`mw/n h;mhnÅ

【口語訳】 Joh 16:4 わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。

【新共同訳】 Joh 16:4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

【新改訳改訂3】 Joh16:4 しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。

【NKJV】 Joh 16:4 “But these things I have told you, that when the time comes, you may remember that I told you of them. And these things I did not say to you at the beginning, because I was with you.

【TEV】 Joh 16:4 But I have told you this, so that when the time comes for them to do these things, you will remember what I told you.

【KJV】 Joh 16:4 But these things have I told you, that when the time shall come, ye may remember that I told you of them. And these things I said not unto you at the beginning, because I was with you.

【NIV】 Joh 16:4 I have told you this, so that when the time comes you will remember that I warned you. I did not tell you this at first because I was with you.

【リビングバイブル】 Joh 16:4 いいですか。 この警告をしっかり心にとめておきなさい。 迫害が現実に起きた時、あわてふためかないですむようにしなさい。 今までこんなことを言わなかったのは、しばらくでも、いっしょにいてあげられたからです。

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< Joh 16:21 >w[ra名)主女単h` w[ra auvth/j\

h` gunh. o[tan ti,kth| lu,phn e;cei( o[ti h=lqen h` w[ra auvth/j\ o[tan de. gennh,sh| to. paidi,on( ouvke,ti mnhmoneu,ei th/j qli,yewj dia. th.n cara.n o[ti evgennh,qh a;nqrwpoj eivj to.n ko,smonÅ

【口語訳】 Joh 16:21 女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。

【新共同訳】 Joh 16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。

【新改訳改訂3】 Joh16:21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。

【NKJV】 Joh 16:21 “A woman, when she is in labor, has sorrow because her hour has come; but as soon as she has given birth to the child, she no longer remembers the anguish, for joy that a human being has been born into the world.

【TEV】 Joh 16:21 When a woman is about to give birth, she is sad because her hour of suffering has come; but when the baby is born, she forgets her suffering, because she is happy that a baby has been born into the world.

【KJV】 Joh 16:21 A woman when she is in travail hath sorrow, because her hour is come: but as soon as she is delivered of the child, she remembereth no more the anguish, for joy that a man is born into the world.

【NIV】 Joh 16:21 A woman giving birth to a child has pain because her time has come; but when her baby is born she forgets the anguish because of her joy that a child is born into the world.

【リビングバイブル】 Joh 16:21 苦しんで子供を産む母親の喜びと全く同じです。 今の今までの激しい苦しみは、うれしさのあまり足が地につかないほどの大きな喜びに変わり、痛みも何もかも、まるでうそのように忘れてしまうのです。

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< Joh 16:25 >w[ra名)主女単e;rcetai w[ra o[te

Tau/ta evn paroimi,aij lela,lhka u`mi/n\ e;rcetai w[ra o[te ouvke,ti evn paroimi,aij lalh,sw u`mi/n( avlla. parrhsi,a| peri. tou/ patro.j avpaggelw/ u`mi/nÅ

【口語訳】 Joh 16:25 わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。

【新共同訳】 Joh 16:25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。

【新改訳改訂3】 Joh16:25 これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。

【NKJV】 Joh 16:25 “These things I have spoken to you in figurative language; but the time is coming when I will no longer speak to you in figurative language, but I will tell you plainly about the Father.

【TEV】 Joh 16:25 “I have used figures of speech to tell you these things. But the time will come when I will not use figures of speech, but will speak to you plainly about the Father.

【KJV】 Joh 16:25 These things have I spoken unto you in proverbs: but the time cometh, when I shall no more speak unto you in proverbs, but I shall shew you plainly of the Father.

【NIV】 Joh 16:25 “Though I have been speaking figuratively, a time is coming when I will no longer use this kind of language but will tell you plainly about my Father.

【リビングバイブル】 Joh 16:25 わたしはたとえを使って話しましたが、そんな必要はなくなる時が来ます。 その時には、父のことを何もかもはっきりと話しましょう。

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< Joh 16:32 >w[ra名)主女単e;rcetai w[ra kai.

ivdou. e;rcetai w[ra kai. evlh,luqen i[na skorpisqh/te e[kastoj eivj ta. i;dia kavme. mo,non avfh/te\ kai. ouvk eivmi. mo,noj( o[ti o` path.r metV evmou/ evstinÅ

【口語訳】 Joh 16:32 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。

【新共同訳】 Joh 16:32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。

【新改訳改訂3】 Joh16:32 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。

【NKJV】 Joh 16:32 “Indeed the hour is coming, yes, has now come, that you will be scattered, each to his own, and will leave Me alone. And yet I am not alone, because the Father is with Me.

【TEV】 Joh 16:32 The time is coming, and is already here, when all of you will be scattered, each of you to your own home, and I will be left all alone. But I am not really alone, because the Father is with me.

【KJV】 Joh 16:32 Behold, the hour cometh, yea, is now come, that ye shall be scattered, every man to his own, and shall leave me alone: and yet I am not alone, because the Father is with me.

【NIV】 Joh 16:32 “But a time is coming, and has come, when you will be scattered, each to his own home. You will leave me all alone. Yet I am not alone, for my Father is with me.

【リビングバイブル】 Joh 16:32 ああ、でも時が来れば、あなたがたは、ばらばらに追い散らされます。 わたし一人を残して、見向きもせず、一目散に家に逃げ帰るのです。 いや、その時はもう来ています。 だが、わたしは一人ではありません。 父がついておられます。

#######

< Joh 17:1 >w[ra\名)主女単h` w[ra\ do,xaso,n

Tau/ta evla,lhsen VIhsou/j kai. evpa,raj tou.j ovfqalmou.j auvtou/ eivj to.n ouvrano.n ei=pen( Pa,ter( evlh,luqen h` w[ra\ do,xaso,n sou to.n ui`o,n( i[na o` ui`o.j doxa,sh| se,(

【口語訳】 Joh 17:1 これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。

【新共同訳】 Joh 17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。

【新改訳改訂3】 Joh17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

【NKJV】 Joh 17:1 Jesus spoke these words, lifted up His eyes to heaven, and said: “Father, the hour has come. Glorify Your Son, that Your Son also may glorify You,

【TEV】 Joh 17:1 After Jesus finished saying this, he looked up to heaven and said, “Father, the hour has come. Give glory to your Son, so that the Son may give glory to you.

【KJV】 Joh 17:1 These words spake Jesus, and lifted up his eyes to heaven, and said, Father, the hour is come; glorify thy Son, that thy Son also may glorify thee:

【NIV】 Joh 17:1 After Jesus said this, he looked toward heaven and prayed: “Father, the time has come. Glorify your Son, that your Son may glorify you.

【リビングバイブル】 Joh 17:1 ひとしきり語り終えられると、イエスは天を見上げて言われました。 「父よ。 いよいよ時が来ました。 わたしがあなたに栄光をお返しできるように、わたしの栄光を現わしてください。

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< Joh 19:14 >w[ra名)主女単

h=n de. paraskeuh. tou/ pa,sca( w[ra h=n w`j e[kthÅ kai. le,gei toi/j VIoudai,oij( :Ide o` basileu.j u`mw/nÅ

【口語訳】 Joh 19:14 その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。

【新共同訳】 Joh 19:14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、

【新改訳改訂3】 Joh19:14 その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」

【NKJV】 Joh 19:14 Now it was the Preparation Day of the Passover, and about the sixth hour. And he said to the Jews, “Behold your King!”

【TEV】 Joh 19:14 It was then almost noon of the day before the Passover. Pilate said to the people, “Here is your king!”

【KJV】 Joh 19:14 And it was the preparation of the passover, and about the sixth hour: and he saith unto the Jews, Behold your King!

【NIV】 Joh 19:14 It was the day of Preparation of Passover Week, about the sixth hour. “Here is your king,” Pilate said to the Jews.

【リビングバイブル】 Joh 19:14 ちょうど、過越の祭りの前日、正午ごろのことでした。 「さあ、おまえたちの王だ。」

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< Joh 19:27 >w[raj名)属女単th/j w[raj e;laben

ei=ta le,gei tw/| maqhth/|( :Ide h` mh,thr souÅ kai. avpV evkei,nhj th/j w[raj e;laben o` maqhth.j auvth.n eivj ta. i;diaÅ

【口語訳】 Joh 19:27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。

【新共同訳】 Joh 19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

【新改訳改訂3】 Joh19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

【NKJV】 Joh 19:27 Then He said to the disciple, “Behold your mother!” And from that hour that disciple took her to his own home.

【TEV】 Joh 19:27 Then he said to the disciple, “She is your mother.” From that time the disciple took her to live in his home.

【KJV】 Joh 19:27 Then saith he to the disciple, Behold thy mother! And from that hour that disciple took her unto his own home.

【NIV】 Joh 19:27 and to the disciple, “Here is your mother.” From that time on, this disciple took her into his home.

【リビングバイブル】 Joh 19:27 それから、弟子の私に、「さあ、あなたの母親ですよ」とおっしゃいました。 その時以来、私は先生のお母さんを家に引き取ったのです。

 

 

「それが、わたしである」エゴーエイミ

Joh 4:26 le,gei auvth/| o` VIhsou/j( VEgw, eivmi( o` lalw/n soi)

@1# le,gw le,gei 動)直現能3 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@2# auvto,j auvth/| 代)与女3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@3# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# VIhsou/j VIhsou/j(名)主男単 イエス

@5# evgw, VEgw, 代)主1単 私、わたし

@6# eivmi, eivmi(動)直現能1単 ある、~である、~です

@7# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@8# lale,w lalw/n 分)現能主男単 話す

@9# so,j soi) 代)与2単 あなたの

【口語訳】 Joh 4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

【新改訳改訂3】 Joh4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

【新共同訳】 Joh 4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

【NKJV】 Joh 4:26 Jesus said to her, “I who speak to you am He.”

【TEV】 Joh 4:26 Jesus answered, “I am he, I who am talking with you.”

【KJV】 Joh 4:26 Jesus saith unto her, I that speak unto thee am he.

【NIV】 Joh 4:26 Then Jesus declared, “I who speak to you am he.”

【LIB】 Joh 4:26 「わたしがそのメシヤです。」

【塚本訳】 Joh4:26 イエスは言われる、「あなたと話しているわたしが、それだ。」

 

Joh 6:35 i=pen auvtoi/j o` VIhsou/j( VEgw, eivmi o` a;rtoj th/j zwh/j\ o` evrco,menoj pro,j evme. ouv mh. peina,sh|( kai. o` pisteu,wn eivj evme. ouv mh. diyh,sei pw,pote)

@1# ei=pon ei=pen 動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@2# auvto,j auvtoi/j 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@3# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# VIhsou/j VIhsou/j(名)主男単 イエス

@5# evgw, VEgw, 代)主1単 私、わたし

@6# eivmi, eivmi 動)直現能1単 ある、~である、~です

@7# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@8# a;rtoj a;rtoj名)主男単 パン

@9# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@10# zwh, zwh/j\ 名)属女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@11# o` o冠)主男単 冠詞(この、その)

@12# e;rcomai evrco,menoj 分)現能欠主男単 来る、行く

@13# pro,j pro,j 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@14# evgw, evme代)対1単 私、わたし

@15# ouv ouv 不変)否定 ~ない

@16# mh, mh 不変)否定 ~ない

@17# peina,w peina,sh|(動)仮アオ能3単 飢える

@18# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@19# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@20# pisteu,w pisteu,wn 分)現能主男単 信じる

@21# eivj eivj前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@22# evgw, evme 代)対1単 私、わたし

@23# ouv ou 不変)否定 ~ない

@24# mh, mh.不変)否定 ~ない

@25# diya,w diyh,sei 動)直未来能3単 渇く

@26# pw,pote pw,pote 副) まだかつて…ない

【口語訳】 Joh 6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

【新改訳改訂3】 Joh6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

【新共同訳】 Joh 6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

【NKJV】 Joh 6:35 And Jesus said to them, “I am the bread of life. He who comes to Me shall never hunger, and he who believes in Me shall never thirst.

【TEV】 Joh 6:35 “I am the bread of life,” Jesus told them. “Those who come to me will never be hungry; those who believe in me will never be thirsty.

【KJV】 Joh 6:35 And Jesus said unto them, I am the bread of life: he that cometh to me shall never hunger; and he that believeth on me shall never thirst.

【NIV】 Joh 6:35 Then Jesus declared, “I am the bread of life. He who comes to me will never go hungry, and he who believes in me will never be thirsty.

【LIB】 Joh 6:35 「わたしが、そのいのちのパンなのです。 わたしのところに来る人は、二度と飢えることがありません。 わたしを信じる人は、決して渇くことがありません。

【塚本訳】 Joh6:35 イエスが言われた、「わたしが命のパンである。わたしの所に来る者は決して飢えない。わたしを信ずる者は決して二度と渇かない。

 

Joh 6:41 Ego,gguzon ou=n oi` VIoudai/oi peri. auvtou/ o[ti ei=pen( VEgw, eivmi o` a;rtoj o` kataba.j evk tou/ ouvranou/(

@1# goggu,zw VEgo,gguzon

viia–3p 動)直未完能3複 つぶやく、苦情を言う

@2# ou=n ou=n

ch 接)完等 それで

@3# o` oi`

dnmp 冠)主男複 冠詞(この、その)

@4# VIoudai/oj VIoudai/oi

ap-nm-p 形)主男複 ユダヤ人の

@5# peri, peri.

pg 前)属 ~のこと

@6# auvto,j auvtou/

npgm3s 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@7# o[ti o[ti

cs 接)従 ~と、なぜなら

@8# ei=pon ei=pen(

viaa–3s 動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@9# evgw, VEgw,

npn-1s 代)主1単 私、わたし

@10# eivmi, eivmi

vipa–1s 動)直現能1単 ある、~である、~です

@11# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@12# a;rtoj a;rtoj

n-nm-s 名)主男単 パン

@13# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@14# katabai,nw kataba.j

vpaanm1s 分)アオ能主男1単 下る、降る、落ちる

@15# evk evk

pg 前)属 から、によって、で

@16# o` tou/

dgms 冠)属男単 冠詞(この、その)

@17# ouvrano,j ouvranou/(

n-gm-s 名)属男単 天

【口語訳】 Joh 6:41 ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。

【新改訳改訂3】 Joh6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、イエスについてつぶやいた。

【新共同訳】 Joh 6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、

【NKJV】 Joh 6:41 The Jews then complained about Him, because He said, “I am the bread which came down from heaven.”

【TEV】 Joh 6:41 The people started grumbling about him, because he said, “I am the bread that came down from heaven.”

【KJV】 Joh 6:41 The Jews then murmured at him, because he said, I am the bread which came down from heaven.

【NIV】 Joh 6:41 At this the Jews began to grumble about him because he said, “I am the bread that came down from heaven.”

【LIB】 Joh 6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」とはっきり言われたので、ぶつぶつ文句を言い始めました。

【塚本訳】 Joh6:41 ユダヤ人はイエスが「わたしが天から下ってきたパンである」と言われたので、彼のことをつぶやいて

 

Joh 6:48 vgw, eivmi o` a;rtoj th/j zwh/j)

@1# evgw, evgw,

npn-1s 代)主1単 私、わたし

@2# eivmi, eivmi

vipa–1s 動)直現能1単 ある、~である、~です

@3# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# a;rtoj a;rtoj

n-nm-s 名)主男単 パン

@5# o` th/j

dgfs 冠)属女単 冠詞(この、その)

@6# zwh, zwh/j)

n-gf-s 名)属女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

【口語訳】 Joh 6:48 わたしは命のパンである。

【新改訳改訂3】 Joh6:48 わたしはいのちのパンです。

【新共同訳】 Joh 6:48 わたしは命のパンである。

【NKJV】 Joh 6:48 “I am the bread of life.

【TEV】 Joh 6:48 I am the bread of life.

【KJV】 Joh 6:48 I am that bread of life

【NIV】 Joh 6:48 I am the bread of life.

【LIB】 Joh 6:48 そうです、わたしが、いのちのパンなのです。

【塚本訳】 Joh6:48 わたしが命のパンであるから。

 

Joh 6:51 vgw, eivmi o` a;rtoj o` zw/n o` evk tou/ ouvranou/ kataba,j\ eva,n tij fa,gh| evk tou,tou tou/ a;rtou zh,sei eivj to.n aivw/na( kai. o` a;rtoj de. o]n evgw. dw,sw h` sa,rx mou, evstin u`pe.r th/j tou/ ko,smou zwh/j)

@1# evgw, evgw,

npn-1s 代)主1単 私、わたし

@2# eivmi, eivmi

vipa–1s 動)直現能1単 ある、~である、~です

@3# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# a;rtoj a;rtoj

n-nm-s 名)主男単 パン

@5# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@6# za,w zw/n

vppanm1s 分)現能主男1単 生きる、(永遠に)生きる、生活する

@7# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@8# evk evk

pg 前)属 から、によって、で

@9# o` tou/

dgms 冠)属男単 冠詞(この、その)

@10# ouvrano,j ouvranou/

n-gm-s 名)属男単 天

@11# katabai,nw kataba,j\

vpaanm1s 分)アオ能主男1単 下る、降る、落ちる

@12# eva,n eva,n

cs 接)従位 もし

@13# ti.j tij

apinm-s 不代)主男単 ある人、物、事、誰か、何か

@14# evsqi,w fa,gh|

vsaa–3s 動)仮アオ能3単 食べる、食事する、焼き尽くす

@15# evk evk

pg 前)属 から、によって、で

@16# ou-toj tou,tou

a-dgm-s 形)指示属男単 このこと

@17# o` tou/

dgms 冠)属男単 冠詞(この、その)

@18# a;rtoj a;rtou

n-gm-s 名)属男単 パン

@19# za,w zh,sei

vifa–3s 動)直未来能3単 生きる、(永遠に)生きる、生活する

@20# eivj eivj

pa 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@21# o` to.n

dams 冠)対男単 冠詞(この、その)

@22# aivw,n aivw/na(

n-am-s 名)対男 世代、時代、世、長い時、永遠、世界

@23# kai, kai.

ab 副 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@24# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@25# a;rtoj a;rtoj

n-nm-s 名)主男単 パン

@26# de, de.

cc 接)等位 さて、そして、次に、しかし

@27# o[j o]n

apram-s 関代)対男単 この~

@28# evgw, evgw.

npn-1s 代)主1単 私、わたし

@29# di,dwmi dw,sw

vifa–1s 動)直未来能1単 与える、~させる

@30# o` h`

dnfs 冠)主女単 冠詞(この、その)

@31# sa,rx sa,rx

n-nf-s 名)主女単 人間、肉体、身体、血のつながり

@32# evgw, mou,

npg-1s 代)属1単 私、わたし

@33# eivmi, evstin

vipa–3s 動)直現能3単 ある、~である、~です

@34# u`pe,r u`pe.r

pg 前)属 のために

@35# o` th/j

dgfs 冠)属女単 冠詞(この、その)

@36# o` tou/

dgms 冠)属男単 冠詞(この、その)

@37# ko,smoj ko,smou

n-gm-s 名)属男単 世

@38# zwh, zwh/j)

              n-gf-s 名)属女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

【口語訳】 Joh 6:51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

【新改訳改訂3】 Joh6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

【新共同訳】 Joh 6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

【NKJV】 Joh 6:51 “I am the living bread which came down from heaven. If anyone eats of this bread, he will live forever; and the bread that I shall give is My flesh, which I shall give for the life of the world.”

【TEV】 Joh 6:51 I am the living bread that came down from heaven. If you eat this bread, you will live forever. The bread that I will give you is my flesh, which I give so that the world may live.”

【KJV】 Joh 6:51 I am the living bread which came down from heaven: if any man eat of this bread, he shall live for ever: and the bread that I will give is my flesh, which I will give for the life of the world.

【NIV】 Joh 6:51 I am the living bread that came down from heaven. If anyone eats of this bread, he will live forever. This bread is my flesh, which I will give for the life of the world.”

【LIB】 Joh 6:51 わたしが、その、天から下って来た、いのちのパンです。 このパンを食べる人はだれでも、永遠に生きます。 このパンは、人類の救いのためにささげる、わたしの体なのです。」

【塚本訳】 Joh6:51 わたしが天から下ってきた、生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、わたしの肉である。世を生かすために、わたしはこれを(世に)与える。」

 

Joh 8:12Pa,lin ou=n auvtoi/j evla,lhsen o` VIhsou/j le,gwn( VEgw, eivmi to. fw/j tou/ ko,smou\ o` avkolouqw/n evmoi. ouv mh. peripath,sh| evn th/| skoti,a|( avllV e[xei to. fw/j th/j zwh/j)

@1# pa,lin Pa,lin

ab 副) ~とも(また)

@2# ou=n ou=n

cc/ch 接)等位/完等 それで

@3# auvto,j auvtoi/j

npdm3p 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# lale,w evla,lhsen

viaa–3s 動)直アオ能3単 話す

@5# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@6# VIhsou/j VIhsou/j

n-nm-s 名)主男単 イエス

@7# le,gw le,gwn(

vppanm-s 分)現能主男 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@8# evgw, VEgw,

npn-1s 代)主1単 私、わたし

@9# eivmi, eivmi

vipa–1s 動)直現能1単 ある、~である、~です

@10# o` to.

dnns 冠)主中単 冠詞(この、その)

@11# fw/j fw/j

n-nn-s 名)主中単 光

@12# o` tou/

dgms 冠)属男単 冠詞(この、その)

@13# ko,smoj ko,smou\

n-gm-s 名)属男単 世

@14# o` o`

dnms+ 冠)主男単 冠詞(この、その)

@15# avkolouqe,w avkolouqw/n

vppanm-s 分)現能主男単 従う、同行する

@16# evgw, evmoi.

npd-1s 代)与1単 私、わたし

@17# ouv ouv

qn 不変)否定 ~ない

@18# mh, mh.

qn 不変)否定 ~ない

@19# peripate,w peripath,sh|

vsaa–3s 動)仮アオ能3単 歩く

@20# evn evn

pd 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@21# o` th/|

ddfs 冠)与女単 冠詞(この、その)

@22# skoti,a skoti,a|(

n-df-s 名)与女単 暗やみ、暗黒

@23# avlla, avllV

ch 接)完 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@24# e;cw e[xei

vifa–3s 動)直未来能3単 持つ、保つ、できる、~である

@25# o` to.

dans 冠)対中単 冠詞(この、その)

@26# fw/j fw/j

n-an-s 名)対中単 光

dgfs 冠)属女単 冠詞(この、その)

@28# zwh, zwh/j)

n-gf-s 名)属女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

口語訳】 Joh 8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

【新改訳改訂3】 Joh8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

【新共同訳】 Joh 8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

【NKJV】 Joh 8:12 Then Jesus spoke to them again, saying, “I am the light of the world. He who follows Me shall not walk in darkness, but have the light of life.”

【TEV】 Joh 8:12 Jesus spoke to the Pharisees again. “I am the light of the world,” he said. “Whoever follows me will have the light of life and will never walk in darkness.”

【KJV】 Joh 8:12 Then spake Jesus again unto them, saying, I am the light of the world: he that followeth me shall not walk in darkness, but shall have the light of life.

【NIV】 Joh 8:12 When Jesus spoke again to the people, he said, “I am the light of the world. Whoever follows me will never walk in darkness, but will have the light of life.”

【LIB】 Joh 8:12 そのあとで、イエスは人々にお話しになりました。 「わたしは世の光です。 わたしに従って来れば、暗やみでつまずくことはありません。 いのちの光が、あなたがたの進む道をあかあかと照らすからです。」

【塚本訳】 Joh8:12 (同じ大祭の日に、)イエスはまた人々に語られた、「わたしが世の光である。わたしに従う者は、決して暗やみを歩かない。そればかりか、命への光を持つことができる。」

 

Joh 10:14 Egw, eivmi o` poimh.n o` kalo,j kai. ginw,skw ta. evma. kai. ginw,skousi, me ta. evma,(

@1# evgw, VEgw,

npn-1s 代)主1単 私、わたし

@2# eivmi, eivmi

vipa–1s 動)直現能1単 ある、~である、~です

@3# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# poimh,n poimh.n

n-nm-s 名)主男単 羊飼い

@5# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@6# kalo,j kalo,j

a–nm-s 形)主男単 よい、よろしい、美しい

@7# kai, kai.

cc/cc+ 接)等位/従 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@8# ginw,skw ginw,skw

vipa–1s 動)直現能1単 知る

@9# o` ta.

danp 冠)対中複 冠詞(この、その)

@10# evmo,j evma.

ap-an1p 形)対中1複 わたしの、わたしのもの

@11# kai, kai.

cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@12# ginw,skw ginw,skousi,

vipa–3p 動)直現能3複 知る

@13# evgw, me

npa-1s 代)対1単 私、わたし

@14# o` ta.

dnnp 冠)主中複 冠詞(この、その)

@15# evmo,j evma,(

a–nn1p 形)主中1複 わたしの、わたしのもの

【口語訳】 Joh 10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。

【新改訳改訂3】 Joh10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

【新共同訳】 Joh 10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

【NKJV】 Joh 10:14 “I am the good shepherd; and I know My sheep, and am known by My own.

【TEV】 Joh 10:14 -15 I am the good shepherd. As the Father knows me and I know the Father, in the same way I know my sheep and they know me. And I am willing to die for them.

【KJV】 Joh 10:14 I am the good shepherd, and know my sheep, and am known of mine.

【NIV】 Joh 10:14 “I am the good shepherd; I know my sheep and my sheep know me–

【LIB】 Joh 10:14 わたしは良い羊飼いであり、自分の羊を知っています。 また羊もわたしを知っています。

【塚本訳】 Joh10:14 わたしが良い羊飼である。わたしはわたしの羊を知っており、わたしの羊もわたしを知っている。

 

oh 11:25ei=pen auvth/| o` VIhsou/j( VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,\ o` pisteu,wn eivj evme. ka’n avpoqa,nh| zh,setai(

@1# ei=pon ei=pen

viaa–3s 動)直アオ能3 言った、言う、~と呼ぶ

@2# auvto,j auvth/|

npdf3s 代)与女3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@3# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# VIhsou/j VIhsou/j(

n-nm-s 名)主男単 イエス

@5# evgw, VEgw,

npn-1s 代)主1単 私、わたし

@6# eivmi, eivmi

vipa–1s 動)直現能1単 ある、~である、~です

@7# o` h`

dnfs 冠)主女単 冠詞(この、その)

@8# avna,stasij avna,stasij

n-nf-s 名)主女単 立ち上がること、復活

@9# kai, kai.

cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@10# o` h`

dnfs 冠)主女単 冠詞(この、その)

@11# zwh, zwh,\

n-nf-s 名)主女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@12# o` o`

dnms+ 冠)主男単 冠詞(この、その)

@13# pisteu,w pisteu,wn

vppanm-s 分)現能主男単 信じる

@14# eivj eivj

pa 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@15# evgw, evme.

npa-1s 代)対1単 私、わたし

@16# ka;n ka’n

ab&cs 副)&接)従位 またもし、たとえ

@17# avpoqnh,|skw avpoqa,nh|

vsaa–3s 動)仮アオ能3単 死にかけている

@18# za,w zh,setai(

vifm–3s 動)直未来中3単 生きる、(永遠に)生きる、生活する

【口語訳】 Joh 11:25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。

【新改訳改訂3】 Joh11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

【新共同訳】 Joh 11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

【NKJV】 Joh 11:25 Jesus said to her, “I am the resurrection and the life. He who believes in Me, though he may die, he shall live.

【TEV】 Joh 11:25 Jesus said to her, “I am the resurrection and the life. Those who believe in me will live, even though they die;

【KJV】 Joh 11:25 Jesus said unto her, I am the resurrection, and the life: he that believeth in me, though he were dead, yet shall he live:

【NIV】 Joh 11:25 Jesus said to her, “I am the resurrection and the life. He who believes in me will live, even though he dies;

【LIB】 Joh 11:25 「このわたしが、死人を生き返らせ、もう一度いのちを与えるのです。 わたしを信じる者は、たといほかの人と同じように死んでも、また生きるのです。

【塚本訳】 Joh11:25 イエスがマルタに言われた、「わたしが復活だ、命だ。(だから)私を信じている者は、死んでも生きている。

 

Joh 14:6 e,gei auvtw/| @o`# VIhsou/j( VEgw, eivmi h` o`do.j kai. h` avlh,qeia kai. h` zwh,\ ouvdei.j e;rcetai pro.j to.n pate,ra eiv mh. diV evmou/)

@1# le,gw le,gei

vipa–3s 動)直現能3 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@2# auvto,j auvtw/|

npdm3s 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@3# o` @o`#

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@4# VIhsou/j VIhsou/j(

n-nm-s 名)主男単 イエス

@5# evgw, VEgw,

npn-1s 代)主1単 私、わたし

@6# eivmi, eivmi

vipa–1s 動)直現能1単 ある、~である、~です

@7# o` h`

dnfs 冠)主女単 冠詞(この、その)

@8# o`do,j o`do.j

n-nf-s 名)主女単 道

@9# kai, kai.

cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@10# o` h`

dnfs 冠)主女単 冠詞(この、その)

@11# avlh,qeia avlh,qeia

n-nf-s 名)主女 真理、真実

@12# kai, kai.

cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@13# o` h`

dnfs 冠)主女単 冠詞(この、その)

@14# zwh, zwh,\

n-nf-s 名)主女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@15# ouvdei,j ouvdei.j

apcnm-s 数)主男単 何も~ない

@16# e;rcomai e;rcetai

vipn–3s 動)直現能欠3単 来る、行く

@17# pro,j pro.j

pa 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@18# o` to.n

dams 冠)対男単 冠詞(この、その)

@19# path,r pate,ra

n-am-s 名)対男単 父

@20# eiv eiv

cs 接)従位 もし、もしも、~かどうか

@21# mh, mh.

qn 不変)否定 ~ない

@22# dia, diV

pg 前)属 ~を通って、~の故に、~のために

@23# evmo,j evmou/) 代)属1単 わたしの、わたしのもの

【口語訳】 Joh 14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

【新改訳改訂3】 Joh14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

【新共同訳】 Joh 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

【NKJV】 Joh 14:6 Jesus said to him, “I am the way, the truth, and the life. No one comes to the Father except through Me.

【TEV】 Joh 14:6 Jesus answered him, “I am the way, the truth, and the life; no one goes to the Father except by me.

【KJV】 Joh 14:6 Jesus saith unto him, I am the way, the truth, and the life: no man cometh unto the Father, but by me.

【NIV】 Joh 14:6 Jesus answered, “I am the way and the truth and the life. No one comes to the Father except through me.

【LIB】 Joh 14:6 イエスはトマスにおっしゃいました。 「いいですか。 わたしが道です。 そして真理でもあり、いのちでもあります。 わたしを通らなければ、だれ一人、父のところへは行けません。

【塚本訳】 Joh14:6 イエスは言われる、「わたしが道である。また真理であり、命である。(手段であると同時に目的であるから。)わたしを通らずには、だれも父上の所に行くことはできない。

 

Joh 15:1 Egw, eivmi h` a;mpeloj h` avlhqinh,( kai. o` path,r mou o` gewrgo,j evstin)

<文法解析ノート> Joh 15:1

 

@1# evgw, VEgw,

npn-1s 代)主1単 私、わたし

@2# eivmi, eivmi

vipa–1s 動)直現能1単 ある、~である、~です

@3# o` h`

dnfs 冠)主女単 冠詞(この、その)

@4# a;mpeloj a;mpeloj

n-nf-s 名)主女単 ぶどうの木

@5# o` h`

dnfs 冠)主女単 冠詞(この、その)

@6# avlhqino,j avlhqinh,(

a–nf-s 形)主女単 まことの

@7# kai, kai.

cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@8# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@9# path,r path,r

n-nm-s 名)主男単 父

@10# evgw, mou

npg-1s 代)属1単 私、わたし

@11# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@12# gewrgo,j gewrgo,j 名)主男単 農夫

@13# eivmi, evstin) 動)直現能3単 ある、~である、~です

【口語訳】 Joh 15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

【新改訳改訂3】 Joh15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

【新共同訳】 Joh 15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

【NKJV】 Joh 15:1 “I am the true vine, and My Father is the vinedresser.

【TEV】 Joh 15:1 “I am the real vine, and my Father is the gardener.

【KJV】 Joh 15:1 I am the true vine, and my Father is the husbandman.

【NIV】 Joh 15:1 “I am the true vine, and my Father is the gardener.

【LIB】 Joh 15:1 わたしはほんとうのぶどうの木、わたしの父はぶどう園の農夫です。

【塚本訳】 Joh15:1 わたしがまことの葡萄の木、父上は栽培人である。

 

Joh 15:5 vgw, eivmi h` a;mpeloj( u`mei/j ta. klh,mata) o` me,nwn evn evmoi. kavgw. evn auvtw/| ou-toj fe,rei karpo.n polu,n( o[ti cwri.j evmou/ ouv du,nasqe poiei/n ouvde,n)

@1# evgw, evgw,代)主1単 私、わたし

@2# eivmi, eivmi 動)直現能1単 ある、~である、~です

@3# o` h 冠)主女単 冠詞(この、その)

@4# a;mpeloj a;mpeloj(名)主女単 ぶどうの木

@5# su, u`mei/j 代)主2複 あなた

@6# o` ta. 冠)主中複 冠詞(この、その)

@7# klh/ma klh,mata)名)主中複 枝

@8# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@9# me,nw me,nwns 分)現能主男単 とどまる

@10# evn evn 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@11# evgw, evmoi. 代)与1単 私、わたし

@12# kavgw, kavgw 接)等位&代)主1単 そして私は、私もまた

@13# evn evn 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@14# auvto,j auvtw 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@15# ou-toj ou-toj 指示)主男単 このこと

@16# fe,rw fe,rei 動)直現能3単 持って行く、運ぶ、出す、述べる、行く

@17# karpo,j karpo.n 名)対男単 木の実、果実、実、成果、益

@18# polu,j polu,n(形)対男単 大きい、激しい

@19# o[ti o[ti接)従 ~と、なぜなら

@20# cwri,j cwri.j 前)属 離れて、~なしで

@21# evmo,j evmou 代)属1単 わたしの、わたしのもの

@22# ouv ouv 不変)否定 ~ない

@23# du,namai du,nasqe 動)直現能欠2複 できる

@24# poie,w poiei/n 不定)現能 する

@25# ouvdei,j ouvde,n) 数)対中単 何も~ない

【口語訳】 Joh 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

【新改訳改訂3】 Joh15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

【新共同訳】 Joh 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

【NKJV】 oh 15:5 “I am the vine, you are the branches. He who abides in Me, and I in him, bears much fruit; for without Me you can do nothing.

【TEV】 Joh 15:5 “I am the vine, and you are the branches. Those who remain in me, and I in them, will bear much fruit; for you can do nothing without me.

【KJV】 Joh 15:5 I am the vine, ye are the branches: He that abideth in me, and I in him, the same bringeth forth much fruit: for without me ye can do nothing.

【NIV】 Joh 15:5 “I am the vine; you are the branches. If a man remains in me and I in him, he will bear much fruit; apart from me you can do nothing.

【LIB】 Joh 15:5 そうです。 わたしがぶどうの木で、あなたがたはその枝なのです。 人がわたしのうちに生き、わたしもその人のうちに生きていれば、その人は実をいっぱい結びます。 わたしを離れては何もできません。

【塚本訳】 Joh15:5 わたしが葡萄の木、あなた達は蔓である。わたしに留っており、わたしもその人に留っている人だけが、多くの実を結ぶのである。あなた達はわたしを離れては、何一つすることは出来ないのだから。

 

 

Joh 8:6 tou/to de. e;legon peira,zontej auvto,n( i[na e;cwsin kathgorei/n auvtou/) o` de. VIhsou/j ka,tw ku,yaj tw/| daktu,lw| kate,grafen eivj th.n gh/n)

@1# ou-toj tou/to 指示)対中単 このこと

@2# de, de 接)従位 さて、そして、次に、しかし

@3# le,gw e;legon 動)直未完能3 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@4# peira,zw peira,zontej 分)現能主男複 試みる

@5# auvto,j auvto,n(代)対男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@6# i[na i[na 接)従 ために、する事を、~ので、という事は

@7# e;cw e;cwsin 動)仮現能3複 持つ、保つ、できる、~である

@8# kathgore,w kathgorei/n 不定)現能 告訴する、訴える

@9# auvto,j auvtou/) 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@10# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@11# de, de接)完等 さて、そして、次に、しかし

@12# VIhsou/j VIhsou/j 名)主男単 イエス

@13# ka,tw ka,tw副) 下へ

@14# ku,ptw ku,yaj 分)アオ能主男単 かがむ

@15# o` tw/| 冠)与男単 冠詞(この、その)

@16# da,ktuloj daktu,lw 名)与男単 指

@17# katagra,fw kate,grafen 動)直未完能3単 書く、描く

@18# eivj eivj 前)対 ~へ、まで、のために、に対して

@19# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@20# gh/ gh/n) 名)対女単 地、土地

【口語訳】 Joh 8:6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。

【新改訳改訂3】 Joh8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

【共同】 Joh 8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。

【NKJV】 Joh 8:6 This they said, testing Him, that they might have something of which to accuse Him. But Jesus stooped down and wrote on the ground with His finger, as though He did not hear.

【TEV】 Joh 8:6 They said this to trap Jesus, so that they could accuse him. But he bent over and wrote on the ground with his finger.

【KJV】 Joh 8:6 This they said, tempting him, that they might have to accuse him. But Jesus stooped down, and with his finger wrote on the ground, as though he heard them not.

【NIV】 Joh 8:6 They were using this question as a trap, in order to have a basis for accusing him. But Jesus bent down and started to write on the ground with his finger.

【LIB】 Joh 8:6 こう言ったのは、何かことばじりをとらえて、訴えてやろうという魂胆があったからです。 ところがイエスは、体をかがめ、指で地面に何か書いておられるだけです。

【塚本訳】 Joh8:6 こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。

 

Joh 8:12 a,lin ou=n auvtoi/j evla,lhsen o` VIhsou/j le,gwn( VEgw, eivmi to. fw/j tou/ ko,smou\ o` avkolouqw/n evmoi. ouv mh. peripath,sh| evn th/| skoti,a|( avllV e[xei to. fw/j th/j zwh/j)

@1# pa,lin Pa,lin 副) ~とも(また)

@2# ou=n ou=n 接)等位/完等 それで

@3# auvto,j auvtoi/j 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# lale,w evla,lhsen 動)直アオ能3単 話す

@5# o` o 冠)主男単 冠詞(この、その)

@6# VIhsou/j VIhsou/j 名)主男単 イエス

@7# le,gw le,gwn(分)現能主男 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@8# evgw, VEgw, 代)主1単 私、わたし

@9# eivmi, eivmi 動)直現能1単 ある、~である、~です

@10# o` to. 冠)主中単 冠詞(この、その)

@11# fw/j fw/j 名)主中単 光

@12# o` tou冠)属男単 冠詞(この、その)

@13# ko,smoj ko,smou\名)属男単 世

@14# o` o` 冠)主男単 冠詞(この、その)

@15# avkolouqe,w avkolouqw/n 分)現能主男単 従う、同行する

@16# evgw, evmoi. 代)与1単 私、わたし

@17# ouv ouv 不変)否定 ~ない

@18# mh, mh不変)否定 ~ない

@19# peripate,w peripath,sh|動)仮アオ能3単 歩く

@20# evn evn前)与 中に、間に、で、よって、に、

@21# o` th冠)与女単 冠詞(この、その)

@22# skoti,a skoti,a|( 名)与女単 暗やみ、暗黒

@23# avlla, avllV 接)完 けれども、しかし、かえって、むしろ、以外に

@24# e;cw e[xei 動)直未来能3単 持つ、保つ、できる、~である

@25# o` to. 冠)対中単 冠詞(この、その)

@26# fw/j fw/j 名)対中単 光

@27# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@28# zwh, zwh/j) 名)属女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

【口語訳】 Joh 8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

【新改訳改訂3】 Joh8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

【新共同訳】 Joh 8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

【NKJV】 Joh 8:12 Then Jesus spoke to them again, saying, “I am the light of the world. He who follows Me shall not walk in darkness, but have the light of life.”

【TEV】 Joh 8:12 Jesus spoke to the Pharisees again. “I am the light of the world,” he said. “Whoever follows me will have the light of life and will never walk in darkness.”

【KJV】 Joh 8:12 Then spake Jesus again unto them, saying, I am the light of the world: he that followeth me shall not walk in darkness, but shall have the light of life.

【NIV】 Joh 8:12 When Jesus spoke again to the people, he said, “I am the light of the world. Whoever follows me will never walk in darkness, but will have the light of life.”

【LIB】 Joh 8:12 そのあとで、イエスは人々にお話しになりました。 「わたしは世の光です。 わたしに従って来れば、暗やみでつまずくことはありません。 いのちの光が、あなたがたの進む道をあかあかと照らすからです。」

【塚本訳】 Joh8:12 (同じ大祭の日に、)イエスはまた人々に語られた、「わたしが世の光である。わたしに従う者は、決して暗やみを歩かない。そればかりか、命への光を持つことができる。」

 

Joh 8:23 ai. e;legen auvtoi/j( ~Umei/j evk tw/n ka,tw evste,( evgw. evk tw/n a;nw eivmi,\ u`mei/j evk tou,tou tou/ ko,smou evste,( evgw. ouvk eivmi. evk tou/ ko,smou tou,tou)

@1# kai, kai 接)完 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@2# le,gw e;legen 動)直未完能3 告げる、言う、呼ぶ、命ずる

@3# auvto,j auvtoi/j(代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# su, ~Umei/j 代)主2複 あなた

@5# evk evk 前)属 から、によって、で

@6# o` tw/n 冠)属男複/中 冠詞(この、その)

@7# ka,tw ka,tw 副) 下へ

@8# eivmi, evste,( 動)直現能2複 ある、~である、~です

@9# evgw, evgw 代)主1単 私、わたし

@10# evk evk 前)属 から、によって、で

@11# o` tw/n冠)属男複/中 冠詞(この、その)

@12# a;nw a;nw 副) 上へ、上に、上で

@13# eivmi, eivmi,\ 動)直現能1単 ある、~である、~です

@14# su, u`mei/j 代)主2複 あなた

@15# evk evk 前)属 から、によって、で

@16# ou-toj tou,tou 形)指示属男単 このこと

@17# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@18# ko,smoj ko,smou 名)属男単 世

@19# eivmi, evste,(動)直現能2複 ある、~である、~です

@20# evgw, evgw 代)主1単 私、わたし

@21# ouv ouvk 不変)否定 ~ない

@22# eivmi, eivmi. 動)直現能1単 ある、~である、~です

@23# evk evk 前)属 から、によって、で

@24# o` tou 冠)属男単 冠詞(この、その)

@25# ko,smoj ko,smou名)属男単 世

@26# ou-toj tou,tou 形)指示属男単 このこと

【口語訳】 Joh 8:23 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。

【新改訳改訂3】 Joh8:23 それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。

【新共同訳】 Joh 8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。

【NKJV】 Joh 8:23 And He said to them, “You are from beneath; I am from above. You are of this world; I am not of this world.

【TEV】 Joh 8:23 Jesus answered, “You belong to this world here below, but I come from above. You are from this world, but I am not from this world.

【KJV】 Joh 8:23 And he said unto them, Ye are from beneath; I am from above: ye are of this world; I am not of this world.

【NIV】 Joh 8:23 But he continued, “You are from below; I am from above. You are of this world; I am not of this world.

【LIB】 Joh 8:23 そこでイエスは、言われました。 「いいですか。 あなたがたは地上に生まれた者ですが、わたしは天から来た者です。 あなたがたはこの世の者ですが、わたしは違います。

【塚本訳】 Joh8:23 彼らに言われた、「あなた達は下から出た者であるが、わたしは上から出た者である。あなた達は(罪の)この世から出た者であるが、わたしはこの世から出た者ではない。

 

Joh 8:24 i=pon ou=n u`mi/n o[ti avpoqanei/sqe evn tai/j a`marti,aij u`mw/n\ eva.n ga.r mh. pisteu,shte o[ti evgw, eivmi( avpoqanei/sqe evn tai/j a`marti,aij u`mw/n)

@1# ei=pon ei=pon 動)直アオ能1 言った、言う、~と呼ぶ

@2# ou=n ou=n 接)完等 それで

@3# su, u`mi/n 代)与2複 あなた

@4# o[ti o[ti 接)完 ~と、なぜなら

@5# avpoqnh,|skw avpoqanei/sqe 動)直未来能欠2複 死にかけている

@6# evn evn前)与 中に、間に、で、よって、に、

@7# o` tai/j 冠)与女複 冠詞(この、その)

@8# a`marti,a a`marti,aij 名)与女複 罪

@9# su, u`mw/n\ 代)属2複 あなた

@10# eva,n eva.n 接)従位 もし

@11# ga,r ga.r 接)従 なぜなら、というのは、すなわち、だから

@12# mh, mh不変)否定 ~ない

@13# pisteu,w pisteu,shte 動)仮アオ能2複 信じる

@14# o[ti o[ti 接)等 ~と、なぜなら

@15# evgw, evgw, 代)主1単 私、わたし

@16# eivmi, eivmi(動)直現能1単 ある、~である、~です

@17# avpoqnh,|skw avpoqanei/sqe動)直未来能欠2複 死にかけている

@18# evn evn 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@19# o` tai/j 冠)与女複 冠詞(この、その)

@20# a`marti,a a`marti,aij 名)与女複 罪

@21# su, u`mw/n 代)属2複 あなた

【口語訳】 Joh 8:24 だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」。

【新改訳改訂3】 Joh8:24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」

【新共同訳】 Joh 8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

【NKJV】 Joh 8:24 “Therefore I said to you that you will die in your sins; for if you do not believe that I am He, you will die in your sins.”

【TEV】 Joh 8:24 That is why I told you that you will die in your sins. And you will die in your sins if you do not believe that “I Am Who I Am’.”

【KJV】 Joh 8:24 I said therefore unto you, that ye shall die in your sins: for if ye believe not that I am he, ye shall die in your sins.

【NIV】 oh 8:24 I told you that you would die in your sins; if you do not believe that I am [the one I claim to be], {[24] Or <I am he>; also in verse 28} you will indeed die in your sins.”

【LIB】 Joh 8:24 だから、『あなたがたは罪が赦されないまま死ぬ』と言ったのです。 わたしが神の子、メシヤ(救い主)であることを信じなければ、罪ののろいの下で、死ぬしかないからです。」

【塚本訳】 Joh8:24 だから『あなた達は自分の罪のうちに死ぬであろう』と言ったのだ。あなた達は、わたしがそれ(救世主)であることを信じなければ、自分の罪のうちに死ぬからである。」

 

Joh 8:38 a] evgw. e`w,raka para. tw/| patri. lalw/\ kai. u`mei/j ou=n a] hvkou,sate para. tou/ patro.j poiei/te)

@1# o[j a 関代)対中複 この~

@2# evgw, evgw. 代)主1単 私、わたし

@3# o`ra,w e`w,raka 動)直完了能1単 見る

@4# para, para 前)与 ~から

@5# o` tw 冠)与男単 冠詞(この、その)

@6# path,r patri. 名)与男単 父

@7# lale,w lalw/\ 動)直現能1単 話す

@8# kai, kai.  副 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@9# su, u`mei/j 代)主2複 あなた

@10# ou=n ou=n 接)等位 それで

@11# o[j a] 関代)対中複 この~

@12# avkou,w hvkou,sate 動)直アオ能2 聞く、聞き従う、知らせを受ける、耳に入る

@13# para, para. 前)属 ~から

@14# o` tou/ 冠)属男単 冠詞(この、その)

@15# path,r patro.j 名)属男単 父

@16# poie,w poiei/te) 動)直現能2複 する

【口語訳】 Joh 8:38 わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」。

【新改訳改訂3】 Joh8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです。」

【新共同訳】 Joh 8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

【NKJV】 Joh 8:38 “I speak what I have seen with My Father, and you do what you have seen with your father.”

【TEV】 Joh 8:38 I talk about what my Father has shown me, but you do what your father has told you.”

【KJV】 Joh 8:38 I speak that which I have seen with my Father: and ye do that which ye have seen with your father.

【NIV】 Joh 8:38 I am telling you what I have seen in the Father’s presence, and you do what you have heard from your father. {[38] Or <presence. Therefore do what you have heard from the Father.>}”

【LIB】 Joh 8:38 せっかく、わたしの父といっしょにいた時に見たことを話してあげても、あなたがたは、自分の父の言いつけに従っているだけです。」

【塚本訳】 Joh8:38 わたしは父上のところで見たことを語り、あなた達も同じく(自分の)父から聞いたことをする。」

 

 

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Joh 1:1

VEn avrch/| h=n o` lo,goj( kai. o` lo,goj h=n pro.j to.n qeo,n( kai. qeo.j h=n o` lo,goj)

<文法解析ノート> Joh 1:1

 

@1# evn VEn

pd 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@2# avrch, avrch/|

n-df-s 名)与女単 支配、支配者、初め

@3# eivmi, h=n

viia–3s 動)直未完能3単 ある、~である、~です

@4# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@5# lo,goj lo,goj(

n-nm-s 名)主男単 ことば、理由

@6# kai, kai.

cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@7# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@8# lo,goj lo,goj

n-nm-s 名)主男単 ことば、理由

@9# eivmi, h=n

viia–3s 動)直未完能3単 ある、~である、~です

@10# pro,j pro.j

pa 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@11# o` to.n

dams 冠)対男単 冠詞(この、その)

@12# qeo,j qeo,n(

n-am-s 名)対男単 神

@13# kai, kai.

cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@14# qeo,j qeo.j

n-nm-s 名)主男単 神

@15# eivmi, h=n

viia–3s 動)直未完能3単 ある、~である、~です

@16# o` o`

dnms 冠)主男単 冠詞(この、その)

@17# lo,goj lo,goj)

n-nm-s 名)主男単 ことば、理由

【口語訳】 Joh 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

【新改訳改訂3】 Joh1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

【新共同訳】 Joh 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

【NKJV】 Joh 1:1 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

【TEV】 Joh 1:1 In the beginning the Word already existed; the Word was with God, and the Word was God.

【KJV】 Joh 1:1 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

【NIV】 Joh 1:1 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

【LIB】 Joh 1:1 -2まだ何もない時、キリストは神と共におられました。 キリストは、いつの時代にも生きておられます。 キリストは神なのです。

【塚本訳】 Joh1:1 (世の)始めに、(すでに)言葉はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。

 

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Joh 1:2

ou-toj h=n evn avrch/| pro.j to.n qeo,n)

<文法解析ノート> Joh 1:2

 

@1# ou-toj ou-toj

apdnm-s 指示)主男単 このこと

@2# eivmi, h=n

viia–3s 動)直未完能3単 ある、~である、~です

@3# evn evn

pd 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@4# avrch, avrch/|

n-df-s 名)与女単 支配、支配者、初め

@5# pro,j pro.j

pa 前) のところへ、の近くに、のために、に対して、について

@6# o` to.n

dams 冠)対男単 冠詞(この、その)

@7# qeo,j qeo,n)

n-am-s 名)対男単 神

【口語訳】 Joh 1:2 この言は初めに神と共にあった。

【新改訳改訂3】 Joh1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

【新共同訳】 Joh 1:2 この言は、初めに神と共にあった。

【NKJV】 Joh 1:2 He was in the beginning with God.

【TEV】 Joh 1:2 From the very beginning the Word was with God.

【KJV】 Joh 1:2 The same was in the beginning with God.

【NIV】 Joh 1:2 He was with God in the beginning.

【LIB】 連節データと考えられます。前後の節をご覧ください。

【塚本訳】 Joh1:2 この方は(世の)始めに神とともにおられた。

 

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Joh 1:3

pa,nta diV auvtou/ evge,neto( kai. cwri.j auvtou/ evge,neto ouvde. e[n) o] ge,gonen

<文法解析ノート> Joh 1:3

 

@1# pa/j pa,nta

ap-nn-p 形)主 全部で、すべての、どんな~でも、あらゆる、あらんかぎりの、1つも欠けが無い

@2# dia, diV

pg 前)属 ~を通って、~の故に、~のために

@3# auvto,j auvtou/

npgm3s 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@4# gi,nomai evge,neto(

viad–3s 動)直アオ能欠3単 なる、生じる、現れる

@5# kai, kai.

cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@6# cwri,j cwri.j

pg 前)属 離れて、~なしで

@7# auvto,j auvtou/

npgm3s 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@8# gi,nomai evge,neto

viad–3s 動)直アオ能欠3単 なる、生じる、現れる

@9# ouvde, ouvde.

ab 副) また~ない

@10# ei-j e[n)

apcnn-s 数)主中単 1

@11# o[j o]

-aprnn-s!aprnn-s 関代)主中単 この~

@12# gi,nomai ge,gonen

vira–3s 動)直完了能3単 なる、生じる、現れる

【口語訳】 Joh 1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

【新改訳改訂3】 Joh1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

【新共同訳】 Joh 1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

【NKJV】 Joh 1:3 All things were made through Him, and without Him nothing was made that was made.

【TEV】 Joh 1:3 Through him God made all things; not one thing in all creation was made without him.

【KJV】 Joh 1:3 All things were made by him; and without him was not any thing made that was made.

【NIV】 Joh 1:3 Through him all things were made; without him nothing was made that has been made.

【LIB】 Joh 1:3 このキリストが、すべてのものをお造りになりました。 そうでないものは一つもありません。

【塚本訳】 Joh1:3 一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの一つもない。

 

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Joh 1:4

evn auvtw/| zwh. h=n( kai. h` zwh. h=n to. fw/j tw/n avnqrw,pwn\

<文法解析ノート> Joh 1:4

 

@1# evn evn

pd 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@2# auvto,j auvtw/|

npdm3s 代)与男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@3# zwh, zwh.

n-nf-s 名)主女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@4# eivmi, h=n(

viia–3s 動)直未完能3単 ある、~である、~です

@5# kai, kai.

cc 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@6# o` h`

dnfs 冠)主女単 冠詞(この、その)

@7# zwh, zwh.

n-nf-s 名)主女 いのち、生存、(永遠の・神の)いのち

@8# eivmi, h=n

viia–3s 動)直未完能3単 ある、~である、~です

@9# o` to.

dnns 冠)主中単 冠詞(この、その)

@10# fw/j fw/j

n-nn-s 名)主中単 光

@11# o` tw/n

dgmp 冠)属男複 冠詞(この、その)

@12# a;nqrwpoj avnqrw,pwn\

n-gm-p 名)属男 人、人間、この人、(文脈上 男・夫 の意)

【口語訳】 Joh 1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

【新改訳改訂3】 Joh1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

【新共同訳】 Joh 1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

【NKJV】 Joh 1:4 In Him was life, and the life was the light of men.

【TEV】 Joh 1:4 The Word was the source of life, and this life brought light to people.

【KJV】 Joh 1:4 In him was life; and the life was the light of men.

【NIV】 Joh 1:4 In him was life, and that life was the light of men.

【LIB】 Joh 1:4 キリストには永遠のいのちがあります。 全人類に光を与えるいのちです。

【塚本訳】 Joh1:4 この方は命をもち、この命が人の光であった。

 

Joh 1:5 kai. to. fw/j evn th/| skoti,a| fai,nei( kai. h` skoti,a auvto. ouv kate,laben)

@1# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@2# o` to.冠)主中単 冠詞(この、その)

@3# fw/j fw/j 名)主中単 光

@4# evn evn 前)与 中に、間に、で、よって、に、

@5# o` th 冠)与女単 冠詞(この、その)

@6# skoti,a skoti,a名)与女単 暗やみ、暗黒

@7# fai,nw fai,nei(動)直現能3単 現われる、出現する、照らす、輝く

@8# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@9# o` h` 冠)主女単 冠詞(この、その)

@10# skoti,a skoti,a 名)主女単 暗やみ、暗黒

@11# auvto,j auvto. 代)対中3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@12# ouv ouv 不変)否定 ~ない

@13# katalamba,nw kate,laben) 動)直アオ能3単 捕える、襲う、理解する、わかる

【口語訳】 Joh 1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

【新改訳改訂3】 Joh1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

【新共同訳】 Joh 1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

【NKJV】 Joh 1:5 And the light shines in the darkness, and the darkness did not comprehend it.

【TEV】 Joh 1:5 The light shines in the darkness, and the darkness has never put it out.

【KJV】 Joh 1:5 And the light shineth in darkness; and the darkness comprehended it not.

【NIV】 Joh 1:5 The light shines in the darkness, but the darkness has not understood {[5] Or <darkness, and the darkness has not overcome>} it.

【LIB】 Joh 1:5 そのいのちは、暗やみの中でさんぜんと輝き、どんな暗やみも、この光を消すことはできません。

【塚本訳】 Joh1:5 この光は(いつも)暗闇の中に輝いている。しかし暗闇(のこの世の人々)は、これを理解しなかった。

 

Joh 1:14Kai. o` lo,goj sa.rx evge,neto kai. evskh,nwsen evn h`mi/n( kai. evqeasa,meqa th.n do,xan auvtou/( do,xan w`j monogenou/j para. patro,j( plh,rhj ca,ritoj kai. avlhqei,aj)

@1# kai, Kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@2# o` o`冠)主男単 冠詞(この、その)

@3# lo,goj lo,goj名)主男単 ことば、理由

@4# sa,rx sa.rx 名)主女単 人間、肉体、身体、血のつながり

@5# gi,nomai evge,neto 動)直アオ能欠3単 なる、生じる、現れる

@6# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@7# skhno,w evskh,nwsen 動)直アオ能3単 住む、天幕生活をする

@8# evn evn前)与 中に、間に、で、よって、に、

@9# evgw, h`mi/n(代)与1複 私、わたし

@10# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@11# qea,omai evqeasa,meqa 動)直アオ能欠1複 見せる

@12# o` th.n 冠)対女単 冠詞(この、その)

@13# do,xa do,xan 名)対女単 栄光、栄華、好評、名誉

@14# auvto,j auvtou/( 代)属男3 彼・それ(三人称の代名詞)、自身(強調用法)、同じ、まさに

@15# do,xa do,xan 名)対女単 栄光、栄華、好評、名誉

@16# w`j w`j 接)従位 ~のように、~なので、の時

@17# monogenh,j monogenou/j属男 唯一の、独りの、独り(子・息子・娘)

@18# para, para前)属 ~から

@19# path,r patro,j(名)属男単 父

@20# plh,rhj plh,rhj形)対男単/属/主 いっぱい

@21# ca,rij ca,ritoj 名)属 恵み、優しさ、好意、感謝、愛らしさ、恩恵の行為、の利益のために、の理由により

@22# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@23# avlh,qeia avlhqei,aj)名)属女 真理、真実

【口語訳】 Joh 1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

【新改訳改訂3】 Joh1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

【新共同訳】 Joh 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

【NKJV】 Joh 1:14 And the Word became flesh and dwelt among us, and we beheld His glory, the glory as of the only begotten of the Father, full of grace and truth.

【TEV】 Joh 1:14 The Word became a human being and, full of grace and truth, lived among us. We saw his glory, the glory which he received as the Father’s only Son.

【KJV】 Joh 1:14 And the Word was made flesh, and dwelt among us, (and we beheld his glory, the glory as of the only begotten of the Father,) full of grace and truth.

【NIV】 Joh 1:14 The Word became flesh and made his dwelling among us. We have seen his glory, the glory of the One and Only, {[14] Or <the Only Begotten>} who came from the Father, full of grace and truth.

【LIB】 Joh 1:14 キリストは人間となり、この地上で私たちと共に生活なさいました。 彼は恵みと真実の方でした。 私たちはこの方の栄光を目のあたりにしました。 それは天の父のひとり子としての栄光でした。

【塚本訳】 Joh1:14 この言葉は肉体となって、(しばらく)わたし達の間に住んでおられた。(これが主イエス・キリストである。)わたし達はその栄光を見た。いかにも父上の独り子らしい栄光で、恩恵と真理とに満ちておられた。

 

Mar 12:30 kai. avgaph,seij ku,rion to.n qeo,n sou evx o[lhj th/j kardi,aj sou kai. evx o[lhj th/j yuch/j sou kai. evx o[lhj th/j dianoi,aj sou kai. evx o[lhj th/j ivscu,oj sou)

@1# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@2# avgapa,w avgaph,seij 動)直未来能2単/命現 愛する

@3# ku,rioj ku,rion 名)対男単 主

@4# o` to.n 冠)対男単 冠詞(この、その)

@5# qeo,j qeo,n 名)対男単 神

@6# su, sou 代)属2単 あなた

@7# evk evx前)属 から、によって、で

@8# o[loj o[lhj 形)属女単 すべての

@9# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@10# kardi,a kardi,aj 名)属女単 心

@11# su, sou代)属2単 あなた

@12# kai, kai接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@13# evk evx前)属 から、によって、で

@14# o[loj o[lhj 形)属女単 すべての

@15# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@16# yuch, yuch/j 名)属女単 たましい、いのち、息、心

@17# su, sou 代)属2単 あなた

@18# kai, kai 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@19# evk evx前)属 から、によって、で

@20# o[loj o[lhj 形)属女単 すべての

@21# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@22# dia,noia dianoi,aj名)属女単 知力

@23# su, sou 代)属2単 あなた

@24# kai, kai. 接)等 そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば

@25# evk evx 前)属 から、によって、で

@26# o[loj o[lhj 形)属女単 すべての

@27# o` th/j 冠)属女単 冠詞(この、その)

@28# ivscu,j ivscu,oj 名)属女単 力

@29# su, sou) 代)属2単 あなた

【口語訳】 Mar 12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

【新改訳改訂3】 Mar12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

【新共同訳】 Mar 12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

【NKJV】 Mar 12:30 ‘And you shall love the Lord your God with all your heart, with all your soul, with all your mind, and with all your strength.’ This is the first commandment.

【TEV】 Mar 12:30 Love the Lord your God with all your heart, with all your soul, with all your mind, and with all your strength.’

【KJV】 Mar 12:30 And thou shalt love the Lord thy God with all thy heart, and with all thy soul, and with all thy mind, and with all thy strength: this is the first commandment.

【NIV】 Mar 12:30 Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind and with all your strength.’ {[30] Deut. 6:4,5}

【LIB】 Mar 12:30 心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主を愛しなさい。』これが最も重要な戒めです。

【塚本訳】 Mar12:30 心のかぎり、精神のかぎり、』思いのかぎり、『力のかぎり、あなたの神なる主を愛せよ。』

 

 

 

 

 

2021年12月19日「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 磯部理一郎 牧師

 

2021.12.19 小金井西ノ台教会 待降節第4主日(クリスマス)礼拝

ヨハネによる福音書講解説教29

説教 「言は肉となって、わたしたちの間に宿った」

聖書 ルカによる福音書1章26~38節

ヨハネによる福音書1章14~18節

 

 

聖書

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 

 

説教

はじめに. 「伝統」を謙遜に覚えつつ、相応しく神の御子を宿すクリスマスを迎えましょう

神の御子、主イエス・キリストのご降誕を迎えました。クリスマスの礼拝であります。私ども日本のプロテスタント教会でのクリスマス礼拝は、教会によって異なりますが、この小金井西ノ台教会のように、待降節第4主日の日曜日にクリスマス礼拝を行うと定めて、クリスマス礼拝を実施する教会が多いようです。本来、クリスマス礼拝では、三重の誕生の喜びを覚えて礼拝がささげられます。ご案内の通り、伝統的な教会の典礼規定では、クリスマスは12月25日と定められております。25日と申しましても、キリスト教では一日の始まりを「闇」から「光」へと数えますので、クリスマス礼拝は24日日没に始まり、神の御子の永遠の誕生を覚え礼拝します。次いで25日0時の真夜中に、永遠の神の御子が聖霊により処女マリアの胎内に受肉し人の子として生まれた御子イエス・キリストの誕生を覚え礼拝します。そして25日明け方になると、受肉し世に到来した神の御子イエス・キリストを迎えた世界が新しい世界として生まれ変わったことを覚え、荘厳にそして高らかに、教会の鐘を鳴らして喜び祝います。

このような伝統的なクリスマス礼拝を振り返りますと、改めてクリスマスの意義を学び直すことができます。礼拝のかたちそのものが、日没の礼拝では、「三位一体の神」の一位格(persona)として神の御子が永遠のもとに生まれていることが、はっきりと指し示されています。さらに真夜中の礼拝では、永遠の神の御子が聖霊により処女マリアから「受肉した人の子」としてこの地上に誕生したことが宣言され、神の御子イエス・キリストは「真の神」でありかつ「真の人間」であることを明らかにしています。「神人両性のキリスト」の信仰を告白して受肉のキリストに礼拝がさささげられています。そして夜明けを迎え、受肉した御子イエス・キリストの贖罪と復活によって、人類を初め世界万物が新しく生まれ変わったことを覚えて祝い、御子の栄光と勝利の讃美の鐘が高らかに世界中に響き渡ります。こうしてクリスマスの礼拝を通して、神の救いが、新しい万物の誕生と新生の完成として、高らかに宣言されるのです。このようにクリスマス礼拝の形は、そのままニケア信条の三一神やカルケドン信条のキリスト両性論などの信仰の基本原理を鮮やかに映し出していることがよく分かります。つまり礼拝の形から、私たちは信仰の基本を受け取ることが出来るのです。

教会の古い言葉に、“Lex orandi, Lex credendi”「祈りの法則、信仰の法則」という言葉がありますが、これは、礼拝の形式と信仰の定義の関係を言い表わす定式と言われています。元々は「恩寵の先行」を著した書物(Prosper de Aquitania; Indiculus de gratia Dei『恩寵論』)に依るのですが、やがて礼拝の伝承形式は、言語化され定義される教理や信仰よりも先行しており、礼拝の形から神学教理は示唆される、とする礼拝学上の定式を表す言葉となりました。まさにクリスマス礼拝は、受肉のキリストを中心にして、ニケア信条の三位一体論やカルケドン信条のキリストの神人両性論を、とてもよく映し出しているように見えます。礼拝を「形」として正しく守る、ということは、すなわち信仰を「教理」として正しく受け継ぐことでもあるのです。したがって礼拝の「形」が曖昧になり恣意的になって崩れますと、当然ながら、正しい「信仰」の筋も崩れてしまうことになる、という警鐘でもあります。クリスマス礼拝を「形」として正しく守るということは、クリスマスの信仰と喜びを正しく受け継ぐということでもあり、とても意味深い、大切なことだと言えます。

待降節に入り、4本の蝋燭の火を一本一本と灯しながら主の日を迎えるごとに、悔い改めをいよいよ深くし、いよいよクリスマスの喜びと信仰を鮮やかにして、24日の日没を迎える、ということには、信仰を相応しく整え備えてゆく大切な道筋が示されているように思われます。礼拝を重ねてゆくごとに、信仰の火は灯され、神の真理も明らかにされてゆくからです。わたしどもプロテスタント教会の特徴は、神秘主義的分派は別として、言語化された「信仰」を厳密かつ純粋に、特に聖書に記された言葉を堅く守ろうとする所に、その特徴があります。それは、聖書原理・信仰義認・万民祭司という宗教改革の原理が生きているからです。しかしそれが余りにも行き過ぎて「主観化」し「独善化」しますと、いつの間にか、信仰は「自己」中心の解釈に偏重してしまい、ついには、本来は神の信仰であるはずの信仰が「自己主張」や「自己正当化」を満たすための道具に変質してゆき、ついには宗教を利用した「自己絶対化」を引き起こしてしまいます。いわゆる主観と独善の偏重は、本来の神を見失い、自己絶対化の偶像になってしまいます。そういう意味から言って、伝統に従うという謙遜の中で礼拝の形を守り、聖書の言葉を従順に読み聞く、ということはとても意味深いことです。プロテスタントという大きな広がりの中では、極端な場合は礼拝の形や教会の制度や教理がなくても「自分の信仰」だけでよい、とするグループもあるようですが、そうなると、最早キリスト教の定義が失われ、偽キリスト教となってしまうのではないでしょうか。或いは、万民祭司論を誤解して、自己中心の個人主義に傾く余り、自分の信仰に合わないから、教会を変える、ということにもなります。いったいのその基準は何なのでしょうか。そうした意味で、伝統伝承を謙遜に受け継ぐことの意義を先ずここでは覚えておきたいと思います。それが、クリスマスを正しく迎える一つの備えになるのではないでしょうか。

クリスマスの礼拝で、一番中心となること、それは、永遠の神の御子を、マリアから受肉したキリストとして、わたしたちのうちに、相応しくそして正しく信仰において、迎え入れることにあります。大切なのは、あくまでも、永遠の神の御子を受肉のキリストとしてお迎えすることにあります。当たり前のことですが、誰々さんに久しぶりに会える、お食事会のご奉仕や会食が楽しめる、自分を認めてもらえる場がある、ということは、あくまでも副次的なことであって、礼拝の目的ではありません。礼拝者のひとりひとりが確実に御子を迎え、御子を受肉のキリストとして信仰によって自分のうちに宿すことにあります。

 

1.「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」

先週の待降節礼拝では、ヨハネによる福音書から「1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とのみとばを聴きました。神さまは、神の御子を「世を照らす光」として、世に遣わされましたが、いったい、どのようにして、私たち人類を照らそうとなさるのでしょうか。今日は「世に来てすべての人を照らす」という救いの道筋について、みことばをお聴きしてまいります。ヨハネによる福音書は「世に来てすべての人を照らす」という9節の言葉を、14節では「1:14 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」と言い表しています。同じ14節をリビングバイブルで紹介しますと「1:14 キリストは人間となりこの地上で私たちと共に生活なさいました。彼は恵みと真実の方でした。私たちはこの方の栄光を目のあたりにしました。それは天の父のひとり子としての栄光でした。」と訳しています。新共同訳との違いは、「言」を「キリスト」と、はっきり言い換えており、また「肉」を「人間となる」と言い、「宿られた」を「この地上で私たちと共に生活なさいました」と訳しています。つまり、神の「言」が、世界の救世主万民の王である「キリスト」として遣わされ、しかも、それは「人間」となられることによるのであり、わたしたちの世に来られ共に生活なさった、という訳です。神さまの御心からすれば、私たち人類と共に、この地上で「死老病生」の生活をしなければ、ただ生と申しまして実態は「生」ではなく、生まれた時から「死と滅び」を本質とする生でありますが、神の救いとはまさに私たち人類を宿命的に支配する死老病生から根源的に開放するご決意をなさった、ということでありましょう。クリスマスの本当の趣旨は、神の言が人間となり、人間のただ中に入り込み、人間の本性を中枢から支配する宿命的な死老病生の全てを背負い尽くしてくださる、という神のみわざにあります。天にいます神の言がキリストとして地上に降り「人間になる」のでなければ、私たち人間を根本から救う救いは実現できない、とお考えになられたのです。したがってクリスマスの出来事は、神の人類救済のわざそのものである、ということになります。つまりクリスマスは、永遠の神の御子が徹底的に人間になり、人間と共に日々の暮らし中におられ宿られたとする「神の受肉」に集中する出来事です。神はどこにおられるか、と言えば、天であると言いたい所ですが、そうではなく、実は日々日常の人間生活の中にこそ「神」がおられるのです。しかも神はこの地上で私たちを救う愛の「神」として共に暮らしておられるのです。神の御子が処女マリアの胎内から受肉して、人間本性の全てを引き受けて担い、共に生き暮らすのです。私たちが宿命的に背負う死老病死という肉の中に、この肉体の中に、永遠の神の御子が「キリスト」(救い主)として共に生活しておられる、そこにクリスマスを迎える急所があります。

よく「神」と出会う、という言い方をしますが、それはいったいどういう意味でしょうか。本来、神は「無限」であり、人間は「有限」でありますから、有限である人間は、絶対に未来永劫、無限である神を捕らえて包むということは出来ないはずです。つまり、神が真の神であればある程、神は超越であり無限であって、人間の手に届く存在ではないはずです。それなのに、わたしたちは神と出会い、神の言葉を聞き、神の子であるキリストの身体とされる、と言われるのは、どういう意味なのでしょうか。最も中心にあるはっきりした要は、神が人になられ、私たちの間に宿られ、共に生活をなさった、ということです。つまり神が受肉して、人の子となって、この世に来られ、共に人間の本質を担うからです。だから神に出会うことが出来るのです。厳密かつ正確に言うならば「言が肉となって、私たちの間に宿られた」だけでは、神に出会うことは出来ません。重要なのは、さらに人間本性を宿命的な罪と死の支配による死と滅びから解放されるのでなければなりません。クリスマスの本当のは、この罪と死の問題を解決する根本問題の解決において、初めて人を照らす光となることができるのではないでしょうか。したがって、クリスマスの光は、徹底的に十字架を照らし出すはずです。その意味からすれば、やはり罪を照らし出して、死と滅びを照らすのであり、暗闇も照らす光でもあります。人間の闇を根源から照らす光となるとは、まさに十字架と復活による新しい人間創造でなければならないはずであります。御子の受肉による十字架と復活を齎すクリスマスがなければ、この世には神も救いも光もなく、ただ死と滅びの暗闇だけであります。この御子の受肉による十字架と復活こそ、神の啓示の中心であり、救いの福音の中核を成す出来事であります。ヨハネはそれを、命と真理の光が、暗闇の中で燦然と輝き、どんな暗闇もこの光を消し去ることはできない、と言い表しました。真の神は、私たちの中にあり、私たちと共にあり、私たちの生活と共に過ごす神となられたばかりではなく、私たちの肉の身体を贖う贖罪の神となられたのです。だから、私たちは「神」に出会うことが出来るのです。神は遠く天におられるのではなくて、私たちの間に、私たちのただ中に、私たちと共に、生活の中に共に、しかも身体と命を贖う贖罪の神として、受肉して共に暮らす神となられたのです。悲しめばその悲しみの涙の中に、喜べばその笑顔の中に、まさにその生活の中におられるのです。クリスマスにより、私たち人類はこの暮らしの中で、生きて働く「神」と出会うのであります。

 

2.神の啓示の光射すところ、「信仰」において、神と人格の根源で出会う

旧約聖書の時代の人々は、直接「神を見る」ことはできませんでした。神の使者が民に遣わされ、「預言」として神のことばが語り伝えれました。ヨハネは「1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と言っています。言わば、神と人との間柄で、その関係性は、完全に断絶しており、直接的には連続できない限界を告げます。神は神の子以外に知らないのです。そして人は神を知ることは出来ないし、見たこともできないのです。神を知り、神を見て、神のことばを聞き、神と人格的に出会えるのは、18節後半の言う通り「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示される」外に、道はないからであり、即ちイエス・キリストというお方、ただお独りにおいて、神を示すことが可能です。確かに「1:17 律法はモーセを通して与えられた」のですが、しかし神の「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」のであって、それがまさに「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」からであり、その恵みゆえに「わたしたちはその栄光を見」ることが出来るのだ、と言っています。つまり、神ご自身による完全なる自己啓示において、すなわちイエス・キリストという神の御子ただお独りの受肉において、人々は初めて神と人格的に出会うことができるようになったのであります。

さらに踏み込んで、神との人格的な出会いについて、思いを深めますと、わたしたち人類は、イエス・キリストという神の自己啓示そのものにおいて、初めて神を見る、神のことばを聞く、そして神と共に生きるという人格的出会いを経験します。まさにその神の自己啓示そのものであるイエス・キリストと私たち自身の人格とが深く出会い一体となる場こそ、「信仰」という場においてです。そのキリストを信じ信頼して認める、主イエスにおける神の受肉を受け入れ、そして主を深く豊かに知る、という人間精神の中枢において、また人格の根源的な経験として神と出会い神を経験することになります。神ご自身による自己啓示である主イエスの受肉について考えますと、人としておいでになられて、人のうちに宿られたということは、わたしたちの霊や魂そして精神や肉体を引き受けて担われた、ということになります。それは、キリストの受肉のおかげで、神が人間の肉の中に入るという神の恵みのわざを通して、私たちはこの人間本性のまま、その中枢を占める霊魂や精神において、また身体や肉体において、神と深く人格的に出会い一体となって生き死にすることができるようになった、ということを意味するのではないでしょうか。ですから、私たちはこの死老病生の魂と身体の中で、そのまま神と共に生きるのです。否、この魂と身体のままで神と出会うのです。なぜなら「神」が「肉となって」、私たちの間に宿られたからです。私たちは、まさにこの身体で、即ちこの病やこの死の中で「神」と出会い「神」と共に生き死にすることが許された、と言わねばなりません。しかも、主イエス・キリストの受肉の目的は、十字架の死に至る「贖罪の死」であり、「身体の復活」による永遠の命の賦与であります。したがって、わたしたちの肉体そのものが、神と出会う場として、キリストの十字架と復活を受けて、既にキリストの身体の一部として出会い、この死の身体において聖別されているのです。キリストを通して精神も肉体も人間存在の全てがキリストの身体として、十字架と復活の身体とされた、ということを意味します。それが、受肉の本当の意味と目的であり、神の啓示の内容であります。言が肉となって、私たちの間に宿られたとは、そういうことではないでしょうか。

このように、人は、ただ一つ神の受肉の啓示において、つまりイエス・キリストというお方においてのみ、神を知ることができるようになるのであります。ヨハネは、神の側から言えば、この神による自己啓示において、神と出会でるようになった、その栄光を見た、と告げます。そしてもう一方で、人間の側から言えば、ただ一つ、この神の自己啓示を信じて受け入れることで、即ちイエス・キリストを自分の心の内に、わが神、わが主、わが王と認めることで、信仰において神と出会うことができる、と語ります。待降節の準備とは、この信仰において神の御子と出会うために、聖別された期間であったことがよく分かるのではないでしょうか。問題は、どのようにして、心のうちに、御子を迎える備えとするか、どうすれば神の子キリストを、私たちのうちに、お迎えすることができるか、にあります。

 

3.新しい人間性に目覚める

今、私たちの「うちに」御子をお迎えする、と申しましたが、私たちの「うちに」お迎えするとは、果たして「どこ」に、どのようにお迎えすることを意味するのでしょうか。勿論、それは、「信仰」において、御子をお迎えする、ということであり、当然ながら、私たち自身の魂と身体のうちに、お迎えすることであります。創世記1章26節によれば、「1:26我々にかたどり我々に似せて、人を造ろう。1:27 神は御自分にかたどって人を創造された神にかたどって創造された男と女に創造された。」と、神は言われます。それゆえ、神さまは私たち人間を神の肖像ように「神の象り」或いは「似像」として造られた、と考えられます。まさに人間が神と根源的に出会い交わる交流の場です。つまり神を写す「神の像」に人格の本質があるとすれば、御子をお迎えする場とはこの「神の像」においてこそ最も相応しい場である、ということになります。この神の肖像においてこそ、神と出会う最も相応しい場であり、神をお迎えする最も尊厳豊かな場であると考えられます。神は三位一体の神として「我々にかたどり、我々に似せて」、或いは「神にかたどって創造され」、しかも「男と女とに創造された」とは、どういうことでしょうか。こうした神に最も近い場、神と出会える場は、まさに神の創造の祝福と賜物を最も豊かに受けた「聖なる恵みの場」であり、言い換えれば、内的な「礼拝の場」であり、神を正しくお迎えできる場ではないかと思われます。本来人間は、その人間性の本質と根源に神をお迎えして、礼拝すべき聖なる場を持っていた、と考えられます。しかしまことに残念ながら、人間の自我欲求により悪魔に誘惑される中で神に背き、この聖なる恵みの場を汚し、堕落の罪により腐敗させてしまいました。その結果、人間の本質は、神をお迎えして神の祝福に与る場から、罪と滅びが支配する場に変質してしまいました。したがって大切なことは、神の肖像のように神を写し神をお迎えするに相応しい場を回復する必要があります。つまり人間本性が新しく造り変えられて、神の新しい肖像をわがうちにいただく必要があるのです。そうでなければ、御子をうちにお迎えすることは出来ません。

クリスマスの出来事を通して、神の御子キリストは、処女マリアの胎から人の子としてお生まれになりました。それは、人間の全てを神がご自身のお身体とされ、神の御子は、その人間のお身体において、人間本性を新たに造り直してくださるためです。御子のお身体は、聖霊によって処女マリアの胎内に宿る肉体であり、長じて洗礼を受け「わたしの愛する子」との天からのみ声のもとに鳩のように降る聖霊を宿すお身体となり、そして十字架の死に至るまで従順に罪を償い尽くした肉と血の肉体となり、ついには栄光の復活を遂げ永遠の命に溢れた身体であり、永遠に神の右に座す天のお身体でもあります。主は、この受肉から栄光の座に至る主の身体を、取って食べなさい、これはあなたがたのために与えるわたしの身体であると仰せになり、わたしたち一人一人にご自身のお身体を差し出してお与えくださったのであります。礼拝でみことばに与り洗礼や聖餐を受けるとは、この御子の受肉の身体に与ることであり、キリスト教会は全て、この身体の授与と受領という一点にのみ全てを集中します。御子は、こうしてご自身の受肉とそのお身体において、人類の魂と身体とを新しく造り変えてくださるのです。キリストの受肉した身体であり、聖霊を宿したこの身体において、人類は新しい人間性を新たに受け取り、キリストの身体とされるのです。これが救いの秘義であります。受肉とは、キリストが人間本性を背負い引き受けることですが、それと同時にまた、キリストがご自身の身体において、人類を新しい人間本性に造り変えられる場でもあります。キリストの身体となった新しい人間本性は、魂においても肉体においても、人格の全てが新しい栄光の身体へと生まれ変わったのです。したがって、私たちは、キリストの受肉の恵みを通して、この身体と魂で神をお迎えし神と出会うことが出来るようになったのです。新しいキリストの身体として生まれ変わった人間性に目覚めるのです。

 

4.「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」

主イエスは、律法学者たちとの論争の中で、「12:30 心を尽くし精神を尽くし思いを尽くし力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」教えられました。神を愛する時は、あなたの心全てから(evx o[lhj th/j kardi,aj sou)、あなたの命(魂、命、息、心)全てから(.evx o[lhj th/j yuch/j sou)、あなたの知力全てから(evx o[lhj th/j dianoi,aj sou)、そしてあなたの力全てから(evx o[lhj th/j ivscu,oj sou)、神を愛しなさい、と教えます。つまり、人格存在としての人間の根源である「命の息または魂知性・人としての総力」を尽くして愛しなさい、と教え、そこに人間としての本質があることを明記しています。神は、神の前に出て、神を愛し、神と向き合う時は、人間としての総力、即ち心と命の息または魂そして知恵のそのすべてを完全に尽くすことを求めています。しかし、私たちは、これを「旧い律法」として聞くのではなくて、教会からは「新しい福音」として聞き直すのです。なぜなら罪に汚れ腐敗した人間性のもとで聞くのではなく、御子の受肉の身体と共に御子のお身体としてこの教えを聞くからであります。主イエスのお身体において、それを破綻と絶望に導く「律法」としてではなく、新しい喜びと希望の中で「福音」として聴くことが出来るようになったからです。

私たちの「うちに」御子をお迎えするに、最も相応しいみことばではないでしょうか。全人格を尽くして、新しく生まれ変わったキリストの身体として、この教えをもって神の御子をお迎えするのであります。神の愛と恵みは、御子のお身体を通して、私たちの魂と身体の隅々において、命の息または魂も、心も精神も、思慮や知恵の隅々にいよいよ深く、そして全身に漲り溢れるように、恵みとして働くからであります。私たち自身の人格全体において、神を信じて受け入れ相応しく応答できるように、聖霊の恵みとみことばを通して、有効に働くのです。これは、とても重要なことです。神は、私たちひとりひとりの人間としての存在を無視したり、捨象することはなさらないのです。人としての自由な心や意志の深く覚えて養い、非人格的存在としては決して扱うことはなさらないのです。確かに、信仰や応答は個人個人の個性において多様ではあるにしても、その人ひとりひとりの人格の根源に神は働き、その人格の根源を尽くした決断と応答を求められるのではないでしょうか。ヨハネは、そうした信仰による決断、または神に感謝し神を愛するという応答に注目するのです。それこそが「生きた人格」であり、そこでこそ、神はご自身の愛や恵みの力を最も確かなものとして発揮される場となるのではないでしょうか。

 

2021年12月12日「すべての人を照らす光」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 12.12 小金井西ノ台教会 待降節第3主日

ヨハネによる福音書講解説教28

説教 「すべての人を照らす光」

聖書 マラキ書3章1~5節

ヨハネによる福音書1章6~13節

 

 

聖書

1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。1:9 その光はまことの光で世に来てすべての人を照らすのである。

1:10 言は世にあった世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 

 

説教

はじめに. 心のうちに、御子をお迎えする祈りと信仰の決断を!

本日の聖書のみことばは、大きく二つに分けて、読んでまいります。一つは、1章6節~9節までの「洗礼者ヨハネ」について紹介する記事です。もう一つは、神の「言」(ことば、ロゴス)であるイエス・キリストを信じて受け入れることの出来ない人々と信じて受け入れた人々の「信仰」についての言及です。ヨハネによる福音書の決定的な特徴は、主イエスにおける「自己啓示」を証言しながら、同時にまた御子の自己啓示と並行して、それを聞いた人々が信じて受け入れるかどうか、という「信仰」の決断を常に問題にする点にあります。勿論、聖書はすべての箇所で例外なく「信仰」について語っていますので、信仰を問題しているゆえにヨハネ福音書は特別である、と言えないのですが、ヨハネの特徴は、みことばを聴く人々に信仰的決断を迫りつつ、信仰の決断において終末時の「最後の審判」が現在にまで引き寄せられ、今まさに決断した信仰により、光と闇、命と死、赦しと裁きという未来の最後の審判が、未来への時間的猶予を与えられず、否応なく、言わば神の最終的審判となって働いてしまうのです。ヨハネの福音告知の特色は、まさに主イエスにおいて「神の自己啓示」告知がなされ同時に聴く人々に「信仰を迫る」福音告知にあると言えます。「福音の語り方」というよりも、どちらかと言えば、「信仰を迫る」福音の語り方と表現した方が相応しいかも知れません。主のみことばが、私たちの信仰的決断の有無を迫り、信仰の有無が最後の審判を齎すのです。なぜなら、どんな大きな神の恵みや愛であっても、それを信じて受け入れる限りにおいて、福音のみことばはその人のうちに深く働き、神の真実な愛と御心は力強く発揮され、人格の中枢に宿り根源から信じる者を造り変えてくれるからです。反対に、信じて受け入れることが出来なければ、神の真実な力がどれほど力強く現存し働いているとしても、拒絶の中で神と人との関係性は排除されてしまい、その実りは成熟することなく、失われてしまうことになります。アドベント(待降節)の4本の蝋燭の火は、まさにキリストを迎えるための光であり、私たち人類が、魂のすべてを尽くして、わたしたち人格の中枢に、御子をお迎えすることが出来るように、と祈りを照らす光でもあります。この世界を救う真の救い主として、主イエス・キリストを迎え入れられるように、私たちは心と信仰における相応しい備えとあり方を整えてまいりたいと願っております。

 

1.「光」について証しする洗礼者ヨハネの派遣

さて、神は、神の御子を世にお遣わしになる前に、人々の信仰の「備え」ために、洗礼者ヨハネを世に遣わしました。福音書は1章6節以下で「1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。1:9 その光はまことの光で世に来てすべての人を照らすのである。」と告げます。本日はこのテキストを、「待降節」という教会の礼拝というコンテキストの中で、読むことになります。ここで言われている「光」(to. fw/j)とは、旧約聖書のヘブライ語では「オール」、新約聖書のギリシャ語では「フォース」となりますが、「悲しみに対する慰めの喜び敵意に対する和解の祝福死に対する永遠の命」を意味する言葉として使われます。このヨハネによる福音書やパウロの手紙では「救い主であるキリスト」を直接指しています。洗礼者ヨハネはキリストの到来を告げ知らす「預言者」、またはメシア到来を証言する「証言者」として遣わされた、ということになります。洗礼者ヨハネは「メシア到来」を神の福音として告げ知らせるのですが、その結果、中心となる課題は、メシアの到来を告げられた「民の応答」にあります。メシア到来という神の福音に対して、神の民は正しくかつ相応しく応えるのでなければなりません。その相応しい民の応答として、自己中心から神中心に心の方向転換をして悔い改め、信仰に固く立って生活を御子に向けて整え直し、メシアを「わが主、わが神、わが王」として迎え入れる準備をすることにあります。「すべての人が彼によって信じるようになるためである」とありますように、洗礼者ヨハネの宣教は、民が自分たちの心を支配する「王」として、自分や自分の欲求を据えるのではなくて、ただ御子イエス・キリストお独りを「わが主、わが神、わが王とする」ということを意味します。

先週『リビングバイブル』をご紹介しましたが、それによれば、「光」は「言」であり、「言」と「キリスト」と言い換えて訳していました。洗礼者ヨハネは「キリスト」の到来を預言し告げ知らせますが、「1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と記されていました。洗礼者ヨハネは「光」そのものではなく、あくまでも永遠の命の光であるキリストの到来を告げ知らせる「預言者」であります。聖書は「キリスト」を「光」に喩えて語っていますが、「その光」は、9節で「世に来てすべての人を照らす」とあります。キリストは「光」として、しかも永遠の「命」の光として、世の人々の暗闇を照らすのです。「光」であり神の「言」である「キリスト」は、世の人々を死と滅びという宿命的な暗闇から新しい永遠の命の光のうちに招き入れ、死と滅びの裁きから愛と恵みの救いに導いて、人々の暗闇を明るく照らす救いの光です。人類は皆、アダム以来、神のみことばに従わずに、自我欲求を餌に悪魔の誘惑により捕らわれてしまい、神に背いて神から離反してしまい、神からの命と真理の光を失い、ついに死と滅びの闇夜の中に堕落してしまいました。その堕落の闇の中に捕らえられた人々とその世界を、神の永遠の命と真理の光のもとに、救い出してくださるお方、それが神の「言」であり「光」である「イエス・キリスト」であります。神は御子を世にお遣わしになり、御子は聖霊の働きにより処女マリアの胎内に宿り、堕落の罪により腐敗し切った人間本性を、その根元からご自身のお身体として自ら引き受けられ、人の子として世に生まれイエスと名付けられ、成長するに及んで、罪に支配された人間本性をいよいよ背負い担われ、十字架と復活に向かわれるのです。そしてつついに十字架における贖罪の死と犠牲によって、罪に腐敗した死の身体である人間本性を滅ぼして、復活という神の永遠の命をもって新しい人間性に新生させるのです。それゆえイエスはキリストであり救い主であり、永遠の命の光であり、救いの啓示そのものなのです。この命の光、真理の光であるキリストにおいて、私たちは暗闇から解放されて自由となることができるす。洗礼者ヨハネの使命は、この神のメシアとはヨセフとマリアの子イエスであるとする宣教を通して、世の人々がイエスを主として正しく相応しく信仰をもって迎え入れるように信仰の準備させることでした。洗礼者ヨハネの宣教に対する民の信仰的応答の形が「悔い改めのバプテスマ」を受けることでありました。マルコによる福音書は、この洗礼者ヨハネについて、1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼宣べ伝えた。1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。1:6 ハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」と記して、洗礼者ヨハネは、人々が罪を告白して悔い改めて、御心にかなって相応しくそして正しくイエス・キリストを主として迎え入れるべく宣べ伝えた、と証言されています。

 

2.「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

クリスマスを迎えるに至る前に、「待降節」をもって、4本の蝋燭の光を灯して、主イエスをお迎えするにふさわしい「備え」となすのは、なぜなのでしょうか。「待降節」が教会に設けられた意味について、繰り返し触れて来ましたが、その理由は明らかで、ヨハネによる福音書の記す通りです。「1:10 言は世にあった世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11 言は自分の民のところへ来たが民は受け入れなかった。」と証言します。民は「言を認めない」「言を受け入れない」と断言するように、神の「言」を頑なに徹底して拒絶し排除する人間の心の実態を告げ、世の人々の心を神の背きに支配された暗闇であって光はない、と言い切っています。神の「言」は、即ちキリストは厳然とこの世に到来して現存し、神殿でも民衆の前でも、みことばを語り続けます。しかも主イエスは常に人々の傍らに寄り添い寝食を共にしておられるのに、人々は頑なにこの神の「言」の存在を認めなかったのです。「暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)のです。「神」を失った人類に、神は御子を世に遣わして、神ご自身の存在と愛と救いのご計画を告げ知らせる「自己啓示」そのものとして、イエス・キリスト世に遣わしたのですが、人々はいよいよ拒絶し抹殺した、と証言します。したがって世は神を認めず、神がお遣わしになられた御子であり言である「光」までも、排除したのです。それはまさに神もなき、真理もなき、愛も命もない不信仰の「暗闇」であります。

 

3.「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」

しかしそれでもヨハネは、9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」と証言します。「人を照らす」とは、どういうことなのでしょうか。先ほど、人を救うことであり、神であり命であり真理である光を失った暗闇に、神が自ら世を救う光となって到来し、世を死と滅びから命へと導き出すのです。人間は、本来、神の言に従ってエデンの楽園で永遠の命に生きることを喜びとしていたはずです。しかし自我欲求を餌に悪魔に誘惑され、恰も自分が神のようになれるかのように自己絶対してしまい、悪魔の誘惑に敗北し、神に背き神から離反し罪の支配に堕落してしまい、その結果、死と滅びの宿命を背負いました。それが「暗闇」の実態です。「光」は、人々を暗闇から解放して、人間の新しい永遠の命を与えて輝かせるのです。ここで問題となるのは、どうすれば、人を照らすことができるか、本当の意味で人を救うことが実現できるのか、ということです。

そのためには、どうしても、きちんと人間とは何か、ということを知る必要があります。自分の本当の姿を知る必要があるのです。そこで、ヨハネによる福音書1章3節によれば「1:3 万物は言によって成った成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった命は人間を照らす光であった。」と記しています。このみことばの決定的な急所は「万物が言によって成った」という所です。しかも「言の内に命があった」という所です。「命」の源は「言」の内にある、と言っていますから、「命」を得るには、キリストの内に入れられること、言によって命が与えられ、言のうちに言と共に生き、言に養われる必要があります。みことばを「聴く」ということは実はそういうことなのですが、その神の言であるキリストの命の光によって、万物は存在するように照らされて創造され、生きとし生けるものすべての生命の息吹は皆、キリストの光に照らされて、生きるものとなることができるのです。光あるうちに光の中を歩め(「 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」エフェソ5:8)と勧められるように、神の言であるキリストのうちに生まれて生き養われるのです。キリストの内から無限に溢れ出る永遠の命に照らされ与る、そこに、人類ひとりひとりの、また生きとし生けるもの、存在と命の「本性・本質」があるのです。これが神の創造です。神の息吹を吹き入れられ生きる者となる、ということは、そういう神の言の命と計らいによる創造であります。しかし人類は、この神の言であり命であり真理の光であるキリストを、アダム以来、悪魔に自我欲求を餌に誘惑され敗北し、神の「言」を失い、死と滅びの中に破綻したのです。そのため、人類は皆、命の光と真理を輝かせる光を失い、最終的に死と滅びと絶望の暗闇のうちに転落したのです。ここにもう一つの深刻の人間の根本問題があります。問題は、どうすれば、人はこの闇から救われるのか。解決は明白で、私たちが、神の言であり永遠の命と真理の光を、自分の魂と身体の内に、日々の現実において取り戻す外に、救いはありません。いったいだれが、どのようにして、この死と滅び、悪の支配と破れから、人間を解放してくれるのでしょうか。キリストの外にないのです。キリスト抜きにしてこの地上に救いはあり得ないのです。キリストという光なくして、暗闇を明るく照らすことはできないのです。

理想としては、自然に人間社会や科学技術が進歩すれば、その知恵と技術によって、人類は皆解放される、と願い所ですが、果たしてそれは可能なのでしょうか。いくら科学技術が進歩しても、或いはどれほどの人類進化を期待したとしても、悪の支配は、人類の自我欲求を餌にする悪魔の誘惑は、益々、より一層深刻かつ悲惨な争いと滅びに導くことは予測できることです。それは、あの原爆投下の悲惨からも、分かることではないでしょうか。近代現代という時代の中で、近代国家による植民地の争奪戦争も、二度に渡る原爆投下も、ヒトラーによるアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)も全て、実はキリスト教国によるものであり、世界大戦その自体がキリスト教国同士の巨大な殺戮そのものであったことは、余りにも胸が痛む、世界史的事実であります。人口がどれほど増えても、僅か7%以下の人々が世界の富を独占しており、世界の人々の豊かな祝福には至らず、貧困と悲惨そして格差はますます広がるばかりで、人類の苦悩は深まるばかりです。進歩と言われる恩恵はほんの僅かな人々が独占して奪い去るのです。いよいよ世界を根源から永遠に照らす光が求められているのではないでしょうか。10節で「1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」とありますように、神を認めて「わが主、わが神」と仰ぐのではなくて、反対に自分が神に代わって世界を支配しようとする、或いは自分の王国の王として自己を絶対化しようとする、そうした支配欲や自我欲求による驕りと偽善の中で、神の律法さえも、そしてキリスト教も含めてあらゆる宗教の名のもとに、自分の欲のために利用してしまうのです。確かに、宗教団体として教会制度が形式的に外見上の宗教として形成され整えられることは評価すべきことですが、それだからこそそこで却って本当に大切なことは、人間ひとりひとりの心の中枢において、確かに神の言がわが主・わが神・わが王として宿り、そして真実で堅固なる信仰が形成されることです。悪魔は常に自我欲求を餌にして魂を誘惑しており、神の言から我々を離反させて、宗教や信仰さえも偽善に変質させ腐敗させてしまうからです。近代現代における人間解放の中心は、自我欲求の解放であり自我の実現にあります。健全な自我欲求の解放には、神の言であり永遠の命と真理の光であるイエス・キリストを正しく受け入れ、罪に支配された人間性に死に永遠の命と愛によって生まれ変わり、キリストの身体として養われる神の祝福の祝福が必要なのです。死の病におかされた自我とその欲求は、どんな宗教やいかなる信仰であっても、偽善と虚偽に腐敗させてしまうのです。ヨハネは、徹底的に神の「言」ご自身がこの世に現れて、みことばを語り、私たちの間に宿り、日々共に暮らす中で、真実な信仰を私たちの人格の中枢に形成されることを求めて迫るのは、ユダヤの律法主義から、既にそうした実態を体験し学んでいたからではないでしょうか。だからこそ、人々の魂の奥深くを貫いて照らす真実で誠実な「信仰」を強く求めたのではないでしょうか。そうでなければ、最早、救いはこの世にはなく、それはまさに最後の審判である裁きが今ここに迫っていることになるのだ、と考えたはずであります。

 

4.「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」

先週、リビングバイブルの訳から、もう一つ、重要な訳を紹介いたしました。それは1章5節の「暗闇は光を理解しなかった」と新共同訳は訳しましたが、リビングバイブルは「1:5 そのいのちは暗やみの中でさんぜんと輝きどんな暗やみもこの光を消すことはできません。」という訳でした。以前の口語訳聖書では「暗闇は勝たなかった」と訳していました。こうした訳し方の違いは、元の字「カタランバノー」(katalamba,nw kate,laben)の意味の取り方にあります。その主たる意味は多様で、しっかりと掴んで捕えて自分のものにする、襲いかかって征服する、理解して悟る、という意味です。その中から、新共同訳は「理解して悟る」という意味を取り、口語訳やリビングバイブルは「襲いかかって征服する」という意味の方を選んだようです。しかも時制ではアオリスト形という過去形で真理や事実を言い表す文法が用いられていることで、不変の真理として、この命の光を征服するはことはあり得ない、という現在形で訳したと考えられます。文法はどうであれ、その意味は、命の光は永遠に燦然と輝き続けており、しかもどんな暗闇でもその命の光を絶対に消すことはできないのです。人間がどれほど愚かな戦争を続け、どれほど巨大な軍事力で押す潰そうとしても、真の命の光を消すことは絶対にできないのです。そういう神がおられるのです。それどころか、この命の光は燦然と永遠に向かって輝き続けるのであります。そういう永遠の命の光であるキリストと共に、わたしたちはこの世を生きているのであり、そういうキリストをこの身体のうちに私たちは宿したのであります。ヨハネはこの命の光を宿す信仰についてさらに語ります。「1:12 しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」と語り、「神によって生まれた」と堂々と表明しています。これは明らかに、神の永遠の命と真理の光は燦然と輝き続け、決して消し去ることはできない、という光の勝利と共に、この光を信じて受け入れた者も、同じように決して消し去られることはない、という二重の意味での勝利宣言ではないでしょうか。私たちは信仰を通して、神によって生まれ、永遠の命の光のもとに生きることができる、と言うのであります。まさに信仰によって現在に引き寄せられた終末的勝利の確信であります。言い換えれば、明らかに「この世」という枠組みを超えて、「永遠の命」の中に包まれて生きることの出来る新しい世界の到来を告げる福音であります。言わば、私たちは信仰を通して「この世」を越えて「永遠の命の国」即ち神の国に生きるのです。その不思議な超越を、信仰によって実現する、信仰を通して与えられる、というわけです。「1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と、神の言葉である聖書がそう証しし、私たちのためにそう表明し約束しているのです。永遠の命の光であるキリストを信じて受け入れるという信仰を通して、永遠の命は今ここに現在化して、今ここに、このわたしの命の光となるのであります。永遠の命の光であり神の言が自ら、神の愛と恵みとして、私たちに其々の信仰を通して無償で永遠の命を与えるのです。信仰に生きるということは、まさにこの世に行きながら、この世の破れを背負いながら、この世に死んでも、それでもなお神の恵みにより無償で与えられる永遠の命に復活して、平安と愛と喜びのついに生き続けることが出来る、ということではないでしょうか。

2021年12月5日「言葉は神と共にあった」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 12.5 小金井西ノ台教会 待降節第2主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教27

説教 「言葉は神と共にあった」

聖書 創世記1章1~5節

ヨハネによる福音書1章1~5節

 

 

聖書

「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 

 

説教

はじめに.クリスマスを待ち望む

待降節を迎えました。クリスマスを迎える直前まで、一本ずつの蝋燭の火をともしながら、4つの主日を辿り、クリスマスを迎えます。このクリスマス直前までの、約4週間は、教会が「待降節」として公に定め設けた準備の期間であります。単純な考えからすれば、そのまますぐにクリスマスを迎えれば、それでよいのですが、すぐにクリスマスを迎えずに、4週間にも渡る「待降節」が用意されたのは、いったいなぜなのでしょうか。それには大きな理由と意味があります。ヨハネによる福音書1章5節には「1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。確かにそして実際に「光は暗闇の中で輝いている」のです。これは、動かすことの出来ない神の事実であり、真理の出来事なのです。しかし、光がどれほど燦然と輝いていても、「暗闇は光を理解しなかった」というのです。言い換えれば、神は厳然と現存し、人類に愛と命を齎そうとしても、人々は一向に神を認めず、神の愛と命に生きようとはしないのです。神が、いくらクリスマスに御子による救いを実現しても、人々はそれを受け入れようとはしないのです。ルカによる福音書は御子の誕生の次第をこう記します。「2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:6~7)と述べ、御子をには産まれるためのべ場所がなかったことを証言しています。人々は、メシアを迎えるべき場所を用意しようとはしなかったのです。またマタイによる福音書は「2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。」(マタイ2:16)と証言しています。二歳以下の幼児全てを虐殺してまでも、メシアの誕生を認めることはできなかったのです。人間の自我が、御子のための場を、自分のうちに認めることができなかったのです。言い換えれば、神の御子を「わが主、わが神」として、迎え入れることができなかったのです。いくら神がおられ、福音と共に到来しても、それを受け入れることができなければ、人は神なき世界を生きることになります。そこで教会は、蝋燭の火を一本また一本と灯すようにして、神という光、神の恵みと真理の光を心のうちに輝かせて、わがうちに神の光とすることを、クリスマスを迎える前の信仰生活に求めたのではないでしょうか。そして4本の蝋燭全てに光が燈る頃、私たちの魂のうちに、神をお迎えするにふさわし場が用意されることを求めたのではないでしょうか。そうでなければ、本当の意味で、クリスマスを迎えることは出来ないからです。私たちの心の内に、神がお出でになれる隙間を用意するのであります。心を開いて、私たちの魂の全てを神に明け渡すのであります。

 

1.クリスマス礼拝の意義

クリスマスの礼拝は12月25日と公に教会で定められています。正確には、24日の日没から25日夜明けにかけて、クリスマス礼拝は夜通しに行われます。24日の日没を迎えますと、「イブの礼拝」と呼ばれ、先ず神の御子が神のもとで永遠に生まれたことを覚えて、「永遠の神の御子」の礼拝が行われます。キリスト教の神の定義は、父と子と聖霊の三位一体の神の教理によりますが、言うまでもなく、父も子も聖霊も同一本質の「神」であります。御子は「神」として「永遠」において神の御子であり、聖霊もまた「神」として「永遠」において聖霊の神であり、しかも父と子と聖霊は相互に同等同質である、と規定したニケア信条により、キリスト教会の「神」は根本教義として定義されます。クリスマスの意義は、何よりも先ず、この御子が永遠の「神」であることを覚え、宣言する礼拝であり祭りであります。伝統的な教義では、「子」は父から永遠に「生まれ」、「聖霊」は父から永遠に「発出する」と言われて来ました。かつてはこの教理から逸脱しますと、直ちに「異端」として弾劾されました。

クリスマスの礼拝において、さらに一つ重要なことは、日没のイブの礼拝に続く「真夜中の礼拝」へと進み、クリスマス礼拝は頂点に達するのですが、そこでは、永遠の神である御子が、聖霊の働きと共に、処女マリアの胎内において人間本性を受けて受肉し、この世に人の子として誕生したことを覚える礼拝です。つまり、神である御子が「人の子」として受肉したことを宣言し祝う礼拝です。神が人の本性の中に入る、或いは、神が人の本性を背負うのです。その瞬間に、人の本性は「神」と共にあり一体となった神の身体となることを意味します。完全に本質が異なり、しかも無限に超越する神が、人間本性に深く根源から介入するのです。これによって、人間本性は根源からの神の介入を受けて、根本的に新しく神によって造り変えられ、新しく生まれ変わるのです。教理として言えば、カルケドン信条によりますが、キリストという神の御子のうちに、「神」の本性と「人」の本性の二つの本性が同時に実現していることを意味し、しかもその神と人との本性は非分離非混合である、と宣言されますこの受肉して人間本性を引き受け背負うキリストは、罪と死と滅びに堕落した人間本性の新しい創造の原型となります。人間本性は神になることはできませんが、キリストの恵みにより、神の根元的な介入と祝福を受けて、限りなくキリストと同じ姿へと導かれてゆくことになります。

そうした人間本性と世界の新たなる誕生と喜びは、「夜明けの礼拝」において、全世界に告げ知らされ、クリスマス礼拝は完結します。したがって、クリスマスの礼拝には、キリスト教の神学と信仰の全てが込められ、現され、宣言されていることになります。

 

2.「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

このようにクリスマスの神学の基礎は、東方ギリシャ神学におけるロゴス・キリスト論に由来し、しかもその東方神学の形成の基となったのは、ヨハネによる福音書における御子イエス・キリストの教えであります。ヨハネはその福音書の冒頭で、真っ先に、先在の「ロゴス(言)」について、宣言します。「1:1 初めにがあった。言は神と共にあった言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と記して、全ての始まりは「言」から始まった、とを宣言します。原典では定冠詞が付けられており、特定の人格的存在として、「ロゴス(言)」の存在が想定されているように思われます。しかも「ロゴス(言)」は、人格的存在が想定されると共に、そのお方の力強い意志や豊かな知恵の働きもまたそこに認めることができそうです。3節に「1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とありますように、万物の生成の根源には、神の意志と知恵が働き、神は意志と知恵に基づいて創造されたことが予測されます。ただし、ここではっきりと区別しておくべきことは、グノーシス主義の言う「流出説」のように、神の言がそのまま流出して万物の生成がなったのではない、ということです。万物は「無」からの創造を受けて成った、と解釈すべきであります。それはちょうど「1:1 初めに、神は天地を創造された。1:2 地は混沌であって闇が深淵の面にあり神の霊が水の面を動いていた。1:3 神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」と創世記1章1節以下が示す通りです。神の人格的な強い意志と知恵をうかがい知ることができるのではないでしょうか。

次いで、リビングバイブルが、とても興味深い訳をしていますので、ご紹介しますと、「1:1 -2まだ何もない時キリストは神と共におられました。 キリストはいつの時代にも生きておられますキリストは神なのです。1:3 このキリストがすべてのものをお造りになりましたそうでないものは一つもありません。1:4 キリストには永遠のいのちがあります 全人類に光を与えるいのちです。1:5 そのいのちは、暗やみの中でさんぜんと輝き、どんな暗やみもこの光を消すことはできません。」と、非常に分かり易く、そして意味もしっかり通った訳になっています。まずはっきりしている所は、ロゴス(言)を、はっきりと「キリスト」と訳し切っています。さらに「はじめに」という言葉を、より明瞭に「まだ何もない時」と意訳しています。しかも、時と共に消滅する存在ではなく、キリストはいつの時代も生きておられます、と訳して、明確にキリストが永遠の「神なのです」と宣言しており、さらには、いよいよはっきりと「このキリストがすべてのものをお造りになりました」と訳しています。しかも4節と5節でも、「1:4 キリストには永遠のいのちがあります全人類に光を与えるいのちです。1:5 そのいのちは、暗やみの中でさんぜんと輝き、どんな暗やみもこの光を消すことはできません。」とありますように、クリスマスが何であるか、非常に分かり易く示しているのではないか、と思います。いわば、クリスマスの福音を言い尽くしているように思える聖句であり、また名訳です。ヨハネによる福音書の冒頭は、決してクリスマスのために書かれたわけではありませんが、クリスマスの礼拝の意義もその神学や教理も、完全に言い尽くしているのではないでしょうか。

 

3.「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」

ヨハネは、御子について、「1:14 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と伝えます。キリストの受肉であり、神の言であるキリストが、聖霊の働きと共に処女マリアの胎に宿り、人の子としてこの世に誕生したことを告げ知らせています。真夜中のクリスマス礼拝では、永遠の神の御子が処女マリアより誕生したことを喜び祝いますが、まさに、「キリストの受肉」を深く覚え、高らかに宣言し祝うのです。言い換えれば、神の御子が、私たちの人間本性を根元から引き受け背負われた、と言ってもよいでありましょう。つまりキリストが処女マリアから肉を受け人間性を纏い、人の子として誕生した、その時点から、私たち人類は、完全に神に担われ背負わたのです。キリストが人間の身元引受人となったのです。

クリスマス・シーズンになりますと、巷の演奏会でも、よくヨハン・セバスティアン・バッハの「クリスマスオラトリオ」BWV248が演奏されます。当時と違って、今では教会の礼拝の中で用いられず、もっぱら演奏会の場でしか聞くことはできないようです。しかしそれでもそれを聞く度に、いつも感慨を深くいたしますのは、その中では「如何にして我は汝を迎えまつり」(Choral “Wie soll ich dich empfangen”)と、クリスマスを迎える会衆讃美のコラールがさがささげられます。そしてとても意味深長な点は、そのコラールの旋律が、受難曲のコラール「血潮滴る主の御頭」(『讃美歌』136番)にも用いられる同一の旋律ではありませんか。いかにしてあなたをお迎えするか、という祈りの讃美は、同時にまた、血潮滴る主の御頭を仰ぐ祈りの讃美と同一線上で直結して捉えられ、歌われているのです。キリストをお迎えすることは、即ちキリストの血潮滴る御頭を仰ぐことなしには、為し得ないことである、と歌っているように聞こえて来るのです。クリスマスの御子を迎えるには、受難節のキリストの十字架のお姿を仰ぐほかに、迎える方法を見出すことができないのです。ですから謝罪と悔い改めをもって胸を深く抉るように打ちながら、罪の赦しを求めるのです。それが待降節の過ごし方であります。真夜中のクリスマス礼拝で共に覚える御子の誕生、即ち受肉のキリストを迎えることは、受難節に私たちの罪の償いのために十字架の上で血を流すキリストのお姿を仰ぐことを意味しているのです。何のために、マリアの肉を受け受肉し人の子としてお生まれにならなければならなかったのか、それは人間本性を引き受け背負うことであり、その罪に堕落し、死と滅びに腐敗した人間本性を担い背負うことであり、さらには十字架における贖罪の死の犠牲を通して、人間本性における罪を完全に償い、義の祝福のもとに、新しい人間本性に造り変えるためであります。したがってクリスマスを迎える、御子のマリアからの誕生をお迎えすることは、その本質において、御子の十字架の死の贖罪をお迎えすることになります。受胎受肉は受難受苦に本質的に直結するのです。

こうして神は、キリストのご降誕において、人類を引き受け背負うたのです。しかもキリストの十字架の贖罪の死により、自ら引き受け背負った人間本性の根源から罪を償い、復活において、新しい永遠の命を人間本性に与え、人類を根本から新生させたのです。この新しい命の光、この神の真実溢れる真理の光は、まさにキリストの受肉と降誕において、暗闇の中であっても燦然と光輝き続けるのであります。先ほど、リビングバイブルの訳を紹介いたしましたが、4節5節で「1:4 キリストには永遠のいのちがあります。 全人類に光を与えるいのちです。1:5 そのいのちは暗やみの中でさんぜんと輝きどんな暗やみもこの光を消すことはできません。」と訳されていました。ここには、キリストを迎え入れた者の、非常に堅固でゆるぎない確信が、よく表されているように思われます。神は、キリストの受肉において、完全に人間本性を引き受け背負われただけでなく、その人間本性における罪と死を根源から引き受けて贖う(十字架の死の代価を支払って新しい人間性を買い戻す)のです。だからこそ、「全人類に光を与えるいのち」なのであります。そしてこの翻訳で何よりも意味深い所は「どんな暗やみもこの光を消すことはできません。」と勝利の宣言に至る所です。「暗闇は光を理解しなかった」という新共同訳聖書から、さらに前に突き進んで「どんな暗やみも、このひかりを消すことはできない」と、神の栄光溢れる勝利は永遠に不動の勝利である、と宣言します。

遠藤周作の小説に『沈黙』という小説がありますが、それは、キリスト像を刻んだ踏み絵を踏んで、キリスト教信仰を棄教した転びキリシタンを描いた小説ですが、私見ではありますが、仮に転んで踏み絵を幾度も踏んだとしても、わたしはあなたを引き受け背負い続け、あなたの罪の償いと命の贖いのために死んだ事実は永遠に消えることはないのです、と語りかける神の不動の恩寵を描いた作品ではないか、と思います。リビングバイブルの訳の「どんな暗やみもこのひかりを消すことはできない」とは、そうした神の不変不動の贖罪と愛の勝利を宣言したに違いないように思います。こうした神の完全で無限の恩寵に背負われ、或いは包まれて、世界は全く新しい命の光のうちに生まれ変わるのであります。同じ遠藤周作の『深い河』でも、解釈は分かれる所でありましょうが、ガンジスの川面に多くの人々が聖なる場を求めて集いますが、そうした異教徒の集う聖なる川面の深き底にこそ、実はキリストの十字架において引き受け背負う神の贖罪と愛が豊かに湧き溢れているのだ、ということを意図しているのではないでしょうか。いずれにしても、クリスマスの本質は何か、ということです。まさにクリスマスの本質は、キリストの受肉とその十字架と復活において、神は人類全ての人間本性を根源から愛し憐れみ贖い、永遠の命に新生させた、ということにあります。そしてこの神による愛と命の出来事は永遠に変わることもなければ、消し去ることも出来ない、ということにあります。人類はまさに、クリスマスの出来事を通して、神の絶対恩寵のただ中に包まれているのです。言い換えれば、人類は自分の存在の根底にそして人間本性の本質に「神」を迎え入れ、「永遠」を持ったのです。この命の光を、この神の真実なる光を、誰も消し去ることは出来ないのです。

 

4.「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」

ヨハネによる福音書の中核は、神に遣わされた人の子イエスにおける神の啓示であり、永遠の神の子による自己啓示にあります。そしてヨハネは、その神の子の自己啓示を、つまり人となった神の子の啓示を、前共観福音書伝承に基づいて、受難物語として展開します。しかし最もヨハネらしい展開は、信仰は光であり、不信仰は闇であり、信仰は命であり、不信仰は直ちに裁きであり死であるとして展開される所にあるように思われます。ヨハネによる福音書のゴールデン・テキストと言われる3章16節にはこう記します。「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と記して、神の子の自己啓示を信じて受け入れることが、決定的な意味を持つことになります。御子の啓示を、すなわち、クリスマスにおいて、神の子が、聖霊の働きと共に処女マリアより受肉し人の子として世に到来したこと、そしてその受肉して自ら背負われた人間性において、人類の罪を完全に十字架の死の犠牲において償い、人類を贖われたことを感謝と喜びをもって信じ受け入れるのです。この啓示の信じ受け入れることで、人々は新しい命の福音に招かれて生まれ変わるのであります。

夜明けのクリスマス礼拝では、あのバッハもクリスマス・オラトリオのコラールで暗示したように、十字架と復活において、既に新しい永遠の命に導かれた人類の新生を喜び祝い、高らかな栄光讃美と勝利の喜びにおいて、世界へと散らされて行くことになります。神の愛と命のわざは、無論、不変不動であって、どんな暗闇の消し去ることはできない永遠の救いでありますが、問題は、その恩寵を受け入れ、恩寵の上に固く立ち尽くして、私たち自身が新しく生まれる変わることにあります。神の啓示が不動の真実であればあるほど、人はその受け入れるべき信仰的決断がいよいよ深刻に問われるのです。人は、神に似せて神の像として、いわば、神のような人格存在として、創造されました。不完全で破綻しつつも、神は、キリストにおける贖罪と復活のわざの恵みを通して、また聖霊降臨における救贖と完成のわざの働きを通して、そしてその無限の恵みを心から受け入れて生きることを通して、私たち人類が本来の意志と自由と正義に立ち帰ることができるように、新しい人間性に造り変えてくださるのであります。人類は、キリストの十字架と復活のおかげで、罪と死の支配に勝利しました。そのキリストの恵みに、信仰においてさらにわがうちにおいて勝利するのであります。

2021年11月28日「わたしは神のもとから来て、ここにいる」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 11. 28 小金井西ノ台教会 待降節第1主日

ヨハネによる福音書講解説教26

説教 「わたしは神のもとから来て、ここにいる」

聖書 イザヤ書64章1~11節

ヨハネによる福音書8章39~47節

 

 

聖書

8:39 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。8:40 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。8:41 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」

そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、8:42 イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来てここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。8:43 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。

8:44 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。8:45 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。8:46 あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。8:47 神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」

 

 

説教

はじめに.  アブラハムの子孫の担うべきつとめは、神の啓示の真理を証しすることではないか

先週の説教で、真理だけが、ただ一つ、あなたがたを自由にする、というイエスさまのみことばを聴きました。イエスさまのみことばにとどまり、イエスさまの弟子となり、みことばを信じて受け入れる。そうして真理を知る者だけが自由になることができる、という教えでした。そして「真理」とは何かと言えば、それこそただ一つ、神は神の独り子である主イエス・キリストをメシアとして世に遣わし、御子は処女マリアから受肉して生まれ、神の子でありながら「人の子」として、人々の罪を償うために十字架において贖罪の死を遂げる。それこそが、神の御心であり、救いのご計画であり、神の啓示の真理であります。この十字架の救いのみに、神の真理があり、この十字架にこそ、決して枯渇することのない真実なる神の愛と憐れみが溢れており、このように主の十字架における神の愛こそが、ただ一つの真理である、ということになります。

しかし、ユダヤの人々は、特にその宗教的権力者たちは、神の真理を担うイエスさまを殺そうと計画します。主イエスは反対に「わたしたちの父はアブラハムです」と主張するユダヤの権力者たちに対して、父であるアブラハムが受けた唯一の真理とは何であるかを考え直すように、なぜあなたがたはそのアブラハムが受けた啓示の真理を正しく理解できないのか、と反論しています。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。8:40 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを殺そうとしているアブラハムはそんなことはしなかった。」と反論して、主イエスは、改めてアブラハムの子であれば、同じように、神の真理を信じて受け入れて、真理に従うべきではないか、しかも神の真理を直接に語る主イエスを認められないはずはない、とユダヤ人たちの矛盾を指摘し、彼らの真意を問い糾してゆきます。神の真理を共に分かち合うべき所で一致できないのはなぜか、なぜその真理を否定して、真理を語るわたしを殺そうとするのか、と問い糾します。問題は、「アブラハムと同じ業をする」とは、アブラハムのように、行き先を知らなくても神のみことばを信じてみことばに従う、ということであり、そこに神の祝福の源がある、ということです。アブラハムは、そして子孫であるユダヤ人たちは、いったい何のために神に選ばれ、どうして神の祝福を担う民となったのか、神は何のためにユダヤ人たちをお立てになり、選ばれたのか、その意味と役割を問うのです。それは、ただ一つ、神の真理を証言して証しするため、ではなかったのか、というわけです。それなのに、神の真理を正しく担うことなく、ましてや神の真理そのものである神のメシアまでも抹殺してしまおうとするのは、なぜなのか、と問い糾します。

 

1.あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。

そしてついに主イエスは「8:41 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」と言い切って、ユダヤ人の罪を指摘します。つまり神の真理に従ってアブラハムの信仰を受け継ぐのではなくて、神の真理に背いた肉の父であるアダムによる原罪の法則に従い、人の肉の欲によって神の霊的な真理を歪めて汚してしまい、完全に神の御心に背いている、と断定したのです。ユダヤ人たちは、神の選びと祝福の契約において、何一つ制約されることはなく神の前で自由であるというその自由と特権を、いつの間にか、「人間の欲」にすり替えて、背きと偽りに腐らせてしまったのです。「アブラハムの子である」という特別な身分を利用して、自分たちの支配欲を押し立てて正当化し、ついには自己の支配欲を絶対化してしまったのです。その結果、その最大の障壁として立ちはだかる主イエスが邪魔になり殺して排除する、という決断に至ったと考えられます。

イエスさまの福音の教えの本当の意味は、そうだからこそ、かえってその罪を赦し罪から解放されて、初めて人は闇から光を得て真理を知り、罪の奴隷から自由となることができると教えるのです。だからこそ、そのあなたがたに代わって、わたしがあなたがたの罪を完全に償い尽くすために、今ここに贖罪の生贄として遣わされているのです、と主イエスは教え続けます。しかしながら、ユダヤの人々は結局、神の前でも、支配欲ゆえの律法主義的支配を正当化し、その言い訳に、だってわれわれはアブラハムの子だから、と主張したのです。言い換えますと、アブラハムにおける祝福を口実にして、しかもその約束の言葉じりだけで、自分たちの律法主義支配を正当化したのです。問題は、その律法主義的ユダヤ支配の背後に潜む「欲望」にあり、神の真理から離反して、支配欲や権力欲の奴隷に堕落してしまったことにあります。アブラハムはただ純粋に従順に、ただ神のみことばだけを信じて、行き先さえ知らぬままに、自分を捨てて、従順に神に従って旅立ちました。そこには、ただ神のご主権のみが立てられ、アブラハムは神のみことばにもとに空しく全てを神に明け渡して、神のみことばの示す祝福の国を信じて、旅立ったのでありました。ユダヤ人たちは、反対に、悪魔の誘惑に支配されて、自分の欲求と欲望の奴隷に堕落し、神との契約の言葉を自我欲求のために悪用して、自我欲求の実現に突き進んだのです。「アブラハムの子」という神の祝福のみことばが、権力者たちによる律法主義的ユダヤ支配に、巧みに利用され、その欲望や支配欲のために、神や宗教を利用し、民を支配し、資産を独占したのです。こうしたことは、この地上の世界では、たとえ宗教の世界であっても該当する事例であるかも知れません。そこは、宗教の世界でありながら、神の真理も愛も空しく失われゆく、人間としては甚だ醜く、悲しく哀れな現実であります。

 

2.自分で作り上げた神ではなく、真の絶対他者としての神を失うと・・・

いよいよ主イエスとユダヤ人との問答は、深刻な対立論争となり、単に見解の相違で終わることのできない事態に至ります。もはやイエスさまとユダヤ人との論争は、単なる見解の相違として処理できない、深刻な事態に発展して、ついに主イエスを殺す決断にまで至り、ユダヤ人たちの罪は非常に厳しく追い詰められてゆきます。主イエスを認めるか、殺すかの二者択一にまで追い詰められます。なぜなら、ちょうど徴税人のザアカイやレビのように、自分の権力や資産の全てを放棄し貧しい人々に施し、主イエスを受け入れ、主イエスと共に歩むか、それとも、主イエスを否定し抹殺してしまうか、いよいよ信仰的決断が迫られ、深刻に追い詰められてゆきます。今の権力支配をそのまま握りしめたまま、イエスさまに従う、ということはできないからです。根源から「あなたの真と偽」が鋭く問われるのです。

ヨハネによる福音書は8章41節以下で、そうした人間の魂の中枢で、何が起こっているか、こう描きます。ユダヤ人たちが「『わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です』と言うと、8:42 イエスは言われた。『神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来てここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。8:43 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。』」。このユダヤ人たちの発言から、彼らはユダヤを支配したいという欲求のために律法を利用しており、さらにそうした偽善を正当化するために、ついに自分たちの「神」を語り出したのです。ユダヤ人たちは、ここで神を「父」と呼んでいます。ここに致命的な「矛盾」が生じています。それは、一方で、神を父とする者が、同時にまた他方で、神を殺害しようと決断するのです。しかも民を救うために神がお遣わしになられたメシアである神の御子を殺すのです。神を殺すとは、神を殺すことで自己が神になることを意味します。神に成り上がってしまい、支配者となるのです。ここには誤った信仰の形がよく描かれているように思われます。悪魔は、人々の魂の最も奥深い所に潜んで、人々の魂を根源から操って誘惑します。悪魔の誘惑の虜の中で、人々は知らず知らずのうちに無自覚に欲望と欲求の餌につられて罠に嵌り、ついに人々の人格全体は欲望の罠に嵌り欲望の奴隷となります。その結果、支配欲などの自我欲求を餌に悪魔に誘惑され操られながら、結局は「神」を殺して、悪魔の乗り移った自我が神の座につくことになります。こうして人々は、自我欲求の意に沿うように自分の手で造り上げた捏造の神を語り出すのです。神とは、本当の意味からすれば、絶対の他者であって、入れ替わることはできないはずですが、「神」を殺して自我が神となり、本当の「神」を失うことになります。「神」を失えば、当然ながら、人々の心の中から真の審判者が失われ、その結果、謙遜の心は奪い去られて傲慢に代わり、自分は神を語り、律法主義の審判者となって他者を裁き始めるようになります。もうそこには「他者」を尊敬し認め合う余地はなく、ただ裁いて排除する排他主義と傲慢が残るのです。こうして、人々の心から謙遜も愛も失われ、傲慢と支配欲だけが支配するのです。他者を愛せない、他者を裁き始める、それは自己の謙遜を失った証拠であり、その本当の問題は、自分の魂のうちに生ける神を失ってしまった証拠でもあります。真実な意味で「愛」を失い、生ける「神」を失った世界で引き起こされる悲惨はすべてここにあると言えます。人は、人として、どこまでも絶対他者である、つまり決して取って代わることのできない絶対者である「神」の正義と憐れみを求め続けてこそ、初めて人であることができる、のではないでしょうか。「神」という真の審判者であり主権者を自分の中に認め、神の愛と憐れみに触れることで、人は初めて希望を知り、愛し合い助け合う尊さを知るものです。「良心」とはそういうものであります。それなのに、真の審判者である「神」を抹殺して、自分が神のようになって、神を語り、自己を絶対化することで、人は人でなくなるのです。私たちの心の中から愛の審判者である「神」が抹殺され失われると、良心は忽ち「悪魔の奴隷」「偽善者」に変貌してゆくのです。人殺しはそうした神殺しから生まれるものであります。ユダヤ人たちは、ここで「アブラハムの神」も殺し、「キリストにおける神」も殺し、ついに自分たちの支配欲を神に押し立てて、事実上、神なき世界を捏造してしまったのではないでしょうか。主イエスはさらに彼らに対して、峻厳極まる言葉をもって弾劾します。「8:44 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている自分が偽り者であり、その父だからである。」と言って、彼らの人間の本質を抉るように厳しく糾弾しておられます。人殺しは神殺しから生まれるのですが、その神殺しは、悪魔の支配の誘惑から、自我欲求と自己絶対化によって生まれます。当然ながら、そこには絶対に「神の真理」はないのです。神のない所に真理もないからです。いつも、権力欲や奪い合いの中では常にこうした魂の腐敗と人格の死に至る病が進行しています。恐ろしいのは、それが、「神殿」を舞台にした宗教界の中枢で引き起こされていることであります。

こうして自己絶対化して神になってゆく人々に対して、主イエスはさらにこう仰せになります。「8:43 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ」と。ここには非常に深い警告が込められているように思われます。一つは「分からない」という闇の現実の自覚です。欲望と傲慢の余り、真理の光を失い、真理が分からなくなってしまうのです。単に倫理的な善悪の認知機能を失うのではなくて、人間として本質を喪失しており、人間が人間ではなくなってしまって、野獣以下に転落するのです。こうして人殺しは生まれます。それを取り戻すには、どうしても真の人間性を根元から回復するしか方法はないのです。その破綻し尽くした喪失してしまった真の人間性を根元から回復するために、まさに主イエス・キリストは、処女マリアの胎の中から受肉して人となり、そのご自身の人間本性において新しく回復してくださるのであります。これが、人類を根元から救うメシアの救いです。しかしもう一つ、重要でさらに深刻なことは、その真の人間性を回復してくださるお方を「救い主」として正しく知り、受け入れ、実際に出会うことです。そのためには、そのお方のみことばを聴いて深く学び、「救い主」として正しく認識する必要があるのです。みことばにおけるメシアの啓示を信じる信仰が求められるのです。みことばを聴きいれない所で、救い主に決して出会うことはできないからです。救い主と出会うことがなければ、決して真の人間性の回復はあり得ないのです。

 

3.神に属する者は神の言葉を聞く

このように、主イエスはユダヤ人たちに対して「8:44 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」と、彼らの病んだ、罪に支配される魂の姿を鋭く、しかもはっきりと断罪した通りです。つまり、ユダヤ人たちの心は、完全に悪魔を父として、悪魔からその本性が生まれている、と言い切っています。これが、闇の構図であり罪の真相であります。その闇のただ中に、その闇を照らして、死と滅びを命に造り変えるために、神の御子である主イエスは、この世に遣わされ、お出でになられたのです。それなのに、その真理を認め、受け入れることは出来ない、という二重の罪と悲劇を、彼らは背負ってしまっているのであります。主イエスは、皮肉にも、彼らに対して改めて諭します。「8:45 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。8:46 あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。8:47 神に属する者は神の言葉を聞くあなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」と教えて、決定的な方向転換を迫ります。

本日より、待降節を迎えました。クリスマス礼拝は、既に古くから公に太陽暦の12月25日と教会で定められており、ただし一日は日没の闇より始まるとする旧約聖書以来の伝統により、正確には24日の日没から25の明け方に至るまでクリスマスの礼拝は行われ、日没には先ず「永遠の御子」の誕生を覚え、次いで真夜中には処女マリアから「受肉のキリスト」として誕生した御子を拝み、そして明け方には「キリストを迎えた世界」の新しい誕生を三重に喜び祝います。待降節は、そのクリスマスを迎えるまでの4つの主の日を辿り、4本の蝋燭に一本ずつ火を灯しながら、キリストをお迎えする備えをなします。しっかり今日覚えておきたい大切なことは、なぜ「待降節」が「クリスマス」の前に設けられたのか、ということです。4週間にも渡る期間の意味は何のためにあるのでしょうか。本来ならば、ただクリスマスを祝い、キリストをお迎えすればそれでいいはずです。それなのに、教会はわざわざ、その前に待降節をおき、それを必要としたのは何のためでしょうか。神はキリストとして地上に、この世界史のただ中に到来したのです。これは変わりのないことです。しかし問題は、その福音の真理を受け入れることができない人間にあります。メシアを受け入れるように、人々の魂を大きく開いて、心の世界を天に向かって解放して、神の御子が到来する「心の場」を用意するのです。自分の人生の神であり主は、自分ではなくて、「神」を、「キリスト」を、わが主としてお迎えできるように、心の全てを、人生の全てを、そして生活の全てを、主権者であり救い主である神の御子に明け渡すのであります。アドベントの期間を通して、神の御子に明け渡すための備えであり、心を天に向けて開く祈りが教会に求められているのです。ユダヤの人々に対して、洗礼者ヨハネがメシアの到来のために準備の洗礼を授けたように、わたくしたちもまた、この4週間を尽くして、心を開いて、御子イエス・キリストのために、すべてを明け渡してお迎えしてゆくのであります。そこに、唯一、救いと命の光、暗闇と絶望を照らす唯一の心の光が燈るのです。4本の蝋燭は、私たちの闇の心を照らす真理の光です。一本、一本ごとに、心を開いて神に明け渡し、4本目に火が燈るとき、私たちの心は、神をお迎えする神の国となるのです。

2021年11月21日「あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする」 磯部理一郎 牧師

 

2021.11. 21 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第27主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教25

説教

2021.11. 21 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第27主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教25

説教「あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする」

聖書 ネヘミヤ記9章26~31節

ヨハネによる福音書8章31~38節

 

 

聖書

8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り真理はあなたたちを自由にする。」8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる

8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れないからである。8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 

 

説教

はじめに. あなたは本当に自由なのか?

「あなたは、本当に、自由なのか?」 この問いが、本日の説教の主題となります。今日は、「自由になる」とはどういうことなのか、皆さんとご一緒に聖書から学び直す、とてもよい機会になりそうです。イエスさまは、ユダヤ人を初め私たち人間に、「あなたは、本当に自由なのか?」と問います。私たちからの、自分中心の考えや欲求から考える「人間による自由」と、イエスさまが私たちのために教えようとなさる「神による自由」とは、肉の自由と霊の自由という風にも言えるかも知れませんが、それらは本質的に余りにもかけ離れているように思われます。本日の聖書箇所によれば、主イエスの見ておられる自由の世界と、当時のユダヤ人たちが考えていた自由とは、随分、その意味は違っていたようです。ユダヤ人たちの自由はとても誇り高い自由であったようです。とても皮肉なことに、そのユダヤの自由が、イエスさまの眼にはとても惨めで悲しい現実に映っていたようです。私たちの場合でも、自分で求め考える自由と、神さまがお考えになっておられる自由との間に、大きな隔たりがあるかも知れません。無邪気に自由だ!と喜ぶ他人を見て、何と哀れな人々なのだろうと感じることもあります。

ユダヤの人たちは、皆共通する意識として、民族としての強い誇りと尊厳を持っていた、と思われます。特に、聖書の中の発言にもありますように、8章33節によれば、<8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」>と、いかにも確信と誇りに満ちた発言です。ユダヤの人々は「アブラハムの子孫」という気高く誇り高い自負で満たされており、誰もアブラハムの血筋を誰も絶対に消し去ることはできないのだから、この尊厳は誰も傷つけることも出来ないしまた奪い取ることできない。それゆえユダヤの自由と独立は不変であり、何人といえどもこの自由を侵すことはできない、という絶対的な確信に満ちた発言のように聞こえます。それなのに、なぜあなたは、今さら異邦人の奴隷のように「自由になる」などと私たちに言うのか、と言って、ユダヤ人たちは憤慨しています。もうすでに、選びと民族の血筋においては誰も及ばないのだ、ということでありましょう。

「自由」とは、『広辞苑』(第六版)によれば「心のままであること。思う通り。」とあり、さらに哲学的に言えば「一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。」と書かれていました。無限無条件の自由は想定できないので、ある一定の条件のもとで自由は語りうる、ということでしょうか。例えば、信じる自由、表現する自由、行動する自由ということになります。ユダヤ人たちの共通する大前提は「アブラハムの子孫」です。その意味は、神に選ばれた神の選民であり、神の民です。神の前で完全に認められ選ばれた民であるという点では、何の制約も制限もなく完全に認められた自由がある、ということでしょうか。つまり、自分たちはアブラハムの血筋であるから、その限りにおいて、何をするにしても、神の御前においては何一つの障害も制約もなく、完全に選ばれた民であり祝福されている、ということになります。したがって神に選ばれて祝福されるという点で、誰からも制約を受けず、拘束を受けることは一切ないのだ、という理解です。創世記12章に記されておりますように、「祝福の基」としてアブラハムを祝福しその子孫の繁栄を約束された契約に堅く立っての確信でありましょう。

これに対して、主イエスは、32節以下で「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り真理はあなたたちを自由にする。」と教えられました。ユダヤ人たちは旧約聖書の律法契約に基づいてアブラハムの子孫であることを前提にして、自由を確信したいましたが、それに対して、主イエスは新たに「わたしの言葉にとどまる」こと、そして「わたしの弟子である」ことを前提にした、新しい自由について、告げたのです。イエスさまの教える自由で、とても意味深い所は、唯一つ「真理を知る」ということです。「真理を知る」ことで、人は初めて自由になることができる、と断言しています。「真理」から離れた者には決して自由は与えられない、ということになります。では、その「真理を知る」には、と問えば、「わたしの言葉にとどまる」ことであり、「わたしの弟子である」ことが求められる、と説いたのです。

イエスさまが仰せになられた「真理はあなたたちを自由にする」(h` avlh,qeia evleuqerw,sei u`ma/j)とは、未来形で書かれています。自由になるには、ある決定的な前提条件が今ここに突き付けられます。そしてその決定的な条件が「わたしの言葉にとどまる」ことであり、それによって「わたしの弟子になる」ということであります。つまり、今主イエスのみことばを認め受け入れなければ、真理を知ることができず、真理をしらなければ、未来の自由はない、と言うのであります。非常にはっきりした教えです。そこで真理とは何か、ということになります。

 

1.「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」

「真理」とは何でしょうか。つまりイエスさまのみことばに示された「真理」とは何か、イエスさまの「弟子である」ことの真理とは何か、ということです。みことばの中には何が隠されており、弟子であることに中に、何が起こっているのでしょうか。ヨハネによる福音書には、世界史の全てを決定づけるような、ある決定的な問答が登場します。それは、神の子である主イエスと、世界史を支配するローマ皇帝の代理人であるピラトとの問答です。ローマ総督ピラトは十字架刑を宣告する場面で、主イエスを尋問します。この場面は、果たして真の裁き主はどちらなのか、究極の裁き主の姿とはどのようなお姿なのか、その本質を読者の心に深く問う場面です。ヨハネによる福音書18章37節以下で、こうピラトは主イエスにこう尋問します。「18:37 そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしがだとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆わたしの声を聞く。』18:38 ピラトは言った。『真理とは何か。』」というとても意味深長な対話です。

言わば、ピラトはローマ帝国の総督という立場で、この世の力を代表する権力者であり、言わば世俗の王のだ璃人として、最後は主イエス・キリストを裁いて、十字架刑を宣告する審判者として登場しています。したがってピラトの言う「王」とは、あくまでも世界史上のローマ帝国皇帝であります。反対に、主イエスは神の御子であり、神の国を担う「救い主メシア」であり、最後は人類の罪を一身に背負い、神の裁きのもとに自己犠牲のいけにえとして贖罪の死を遂げ、人類の贖い主として自ら十字架にかかり死んでく救い主としての王であります。言わば、「真理とは何か」という問答のもとに、この世の権力者側に立つ「王」の真理と神の国を齎すメシアとしての「王」の真理とが激しくぶつかり合っています。真理とは、一方は暴力的な世俗権力による真理なのか、もう一方では十字架における神の愛と憐れみによる、救いという真理なのか、両者が一つの真理の中で相互に激突し合う場面です。確かにこの世では、力づくの権力や暴力で、いくらでもねじ伏せて、真理を造り出すことも可能かも知れません。一般に、歴史は権力者の記述による、と言われるように、歴史や史実はそうした性格を帯びていることは否めない事実でありましょう。そしてそれがこの世では全てを審判する「真理」と見なされるのでありましょう。しかし神の国では、人々を愛するがゆえに犠牲となることで、「真理」が明らかになります。そのような意味で、聖書の真理を、キリスト教の真理を正しく理解して、受け入れる、ということはとても難しいことであります。イエスさまのみことばにとどまり、イエスさまの弟子として生涯を本当の意味で終える、ということは、決して尋常なことではないように思います。そういう意味で、本当の意味で「クリスチャン」(キリストに属する者たち)がこの世で増えるということも難しいことでありましょう。難しいことではありますが、真理は確かに与えられており、真理に生きることも不可能なことではありません。正しい意味で、真理を知る者として生涯を尽くして生きる、ということも決して不可能なことではないはずです。

 

2.「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」

ただし、そのためには、ある決定的な「自覚」と「認識」が求められます。戻りまして8章34節で主イエスはこう説きます。「8:34 イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。』」と、主イエスはさらに踏み込んで語り、真理に至る道筋をお示しになります。真理を知り真理に至るために、二つのことが明らかにされています。一つは「罪の奴隷である」という自覚です。そしてもう一つは、罪の奴隷から解放されるためには「子」が必要である、即ち「わたしの弟子である」という信仰であります。

先ず「罪」の自覚について申しますと、ユダヤ社会には「罪人」と呼ばれ、ユダヤ人共同体から切り捨てられ排除され軽蔑され憎悪されていた人々と、教師や学者として権威と権力をもってユダヤ人共同体を支配する人々との、二重に分断された群れがありました。どちらに生まれつくか、その生まれによって、全ては運命づけられます。政治の社会でも政治家の子が政治を支配しているようです。宗教の世界でも宗教家の子が宗教を支配しているのでしょうか。お金持ちも相続という形で相変わらずお金持ちです。ところが、そうしたどんな生まれであろうと、その生まれを越えて、あなたがたは人間の普遍的な本質として「罪の奴隷」ではないですか、と主イエスは鋭く指摘したのです。政治家であろうと、宗教家であろうと、お金持ちであろうと、そんなものは、神の前では何の意味もなさないのです。ただ人は皆「罪の奴隷である」のです。罪人であれ、律法学者であれ、祭司であれ、死の審判の前でそして神の審判の前では、何の役にも立たないのです。死と滅びが、あなたがたを縛りあげ虜にして、死の処刑を宣告するのであって、そこに自由などはなく、致命的な罪と死と滅びに隷属する奴隷であるにすぎないではないか、とはっきりと宣告したのです。したがって誰にも同じように神の御子による罪の赦しが必要であり、神の御子による贖罪の恵みに与り、罪の奴隷から解放されるのでなければ、未来に自由はない、というありのままの現実を告知したのです。貧乏の子がお金持ちになれば自由になれるというのは、この世の話であり、権力を掴んで強くなれば自由だというのは、暴力的な力づくの話であります。罪の奴隷であることから救われるには、どうしてもキリストによる贖罪と新しい神の義が必要であり、それはまさに、主イエスの愛により主の犠牲に基づく神の恵みであります。そこで初めて人は、罪の支配による死と滅びから解放され、永遠の命に憩う自由が与えられるのです。問題は、先ず、根本から「神」に背き離反する所で「自我」を得ようとする堕落を自覚することにあり、そしてそのため、根源的に他者を愛することが出来ない破れと罪を知ることであり、神の御前での審判から誰一人として逃れることはできないことを認識すべきであります。

真理とは、ただ一つ。パウロは、フィリピの教会の人々に手紙を書いて、こう教えています。「2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。」と述べて、教会の皆さんに勧告しています。なぜならそれは、「それはキリスト・イエスにもみられるものです。2:6 キリストは、神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」と続けて述べ、キリストの十字架おける愛と謙遜の真理を明らかにしています。

 

3.「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

「真理」とは「愛」と「謙遜」から生まれる賜物であります。「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」と、パウロの言葉に尽きるのではないでしょうか。無限に愛し憐れむがゆえに、徹底的にへりくだって謙遜を尽くす、しかもそれは徹底した神への従順であり人々を憐れむ愛の証明となって露わに現れます。それこそが「真理」ではないでしょうか。神の御子であるイエス・キリストは、愛と謙遜を徹底して、父なる神に従順を尽くされ、人々の救いのために、愛を尽くされました。先ほど、ローマ総督ピラトの尋問において、ピラトは「真理とは何か」という独言のような問答の言葉を持って法廷尋問を終え、主イエスに十字架刑を宣告したのですが、まさに神の真理は、この愛と謙遜を尽くし切る所に、世界史の一切を一身に引き受けて十字架に向かう所に現わされたのです。確かに、私たちが完全に愛と謙遜を実践するには、限界があり不可能なことですが、パウロの教えるように「慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」心がける、ということは出来るはずです。それによって、僅かながらも確実に私たちは自由になることが出来るはずです。十字架に示された御子のお姿から「真の真理」を知り、主の愛と謙遜から深く学び、本当の自由に生きる道を知ることになるのであります。

 

4.「だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」

しかし、ユダヤの人々はアブラハムの血筋を盾に、力づくで自己の正当性を顕示し貫き、ついには自己絶対化に至ります。「8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れないからである。8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」と主イエスは仰せになり、ユダヤの人々は、頑なに血筋を誇り、その高ぶりゆえの暴力的な激情のもとに、自分たちを絶対化しようとする誤った心を咎めます。ヨハネの書き方からその意味を厳密に申しますと、ここでは二つの態度が対立的に対照され語られます。「あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れない」というユダヤ人たちの心を支配し決定づける要因として、「父のもとで見たこと(tw/| patri. lalw)」に基づくのではなくて、「父から聞いたこと(tou/ patro.j poiei/te)」に基づいているからだとして、其々に定冠詞が付けられて、対立する重大要因として対照的に明記されています。言い換えますと、「父のもとで見たこと」とは、直接には「父」である神の真理であり、「神」として父と子が共に共有する真理を指しており、「父から聞いたこと」とは、本当の意味で「父」から聞いたことという意味ではなくて、「律法」を通してユダヤに伝承された律法の言葉や文字を指すのではないかと思います。つまり前者は「律法」に言い表された「真理そのもの」ですが、後者は「律法」として受け継がれた文字や文書であって、その内容は真理からは遠く離れており、自分たちに都合のよいように利用してきた律法主義的材料に過ぎない、というそんな意味に解釈できそうです。なぜなら、ユダヤ人たちは、特にその権力者たちは、律法主義により、自分たちがユダヤを支配するために律法を利用しており、抜き難い偽善と虚偽によって、「律法」の告げる真理を覆い隠し、捻じ曲げて来たからです。律法の預言が本当に実現して本当のメシアが到来すると、一番困るのはこの人たちでありました。本心からメシアを迎え入れることを決して心から望んではいなかったのです。支配者は、常に「自分」でなければならないのであって、「神」のご支配を迎えることは望まなかったのです。その典型はヘロデ大王でした。ヘロデ大王は、メシアの誕生を聞くと、その同年齢の全ての幼児を一気に虐殺してしまいました。そのヘロデは、何と言うことか、ユダヤを支配するために、一方でローマ皇帝に媚びへつらい王の座を手に入れますが、他方ではエルサレム神殿を修復してユダヤ人の尊敬を集めていたのです。私利私欲に支配されて罪の奴隷となった者が、神の御子である本当の王に、世界を明け渡すことなど出来るはずがありません。これと同じようなことは、私たちひとりひとりの生活や心の中でも、常に起こっているのではないでしょうか。自分の都合のよいように、言い訳や解釈をして、決して「神」のもとに「自分の世界」を明け渡そうとはしないで、掠め取ろうするのです。あれやこれや口実をつけては、「神のもの」を「自分のもの」にして、奪い取ってゆくのであります。こうしてついには神を抹殺してしまうのです。こうした罪は、教会の中でもまた教会のさまざまな付属施設でも、常に起こっていることではないでしょうか。そう考えますと、やはり世の終わりは避けられないのかも知れません。「罪の奴隷である」そのままでは、真理の光に照らされた世界を望むことは本当に難しいことであります。キリストによる十字架の贖罪なくしては、決して私たちは真理に対して自由になることはできないようです。

聖書 ネヘミヤ記9章26~31節

ヨハネによる福音書8章31~38節

 

 

聖書

8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り真理はあなたたちを自由にする。」8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる

8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れないからである。8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 

 

説教

はじめに. あなたは本当に自由なのか?

「あなたは、本当に、自由なのか?」 この問いが、本日の説教の主題となります。今日は、「自由になる」とはどういうことなのか、皆さんとご一緒に聖書から学び直す、とてもよい機会になりそうです。イエスさまは、ユダヤ人を初め私たち人間に、「あなたは、本当に自由なのか?」と問います。私たちからの、自分中心の考えや欲求から考える「人間による自由」と、イエスさまが私たちのために教えようとなさる「神による自由」とは、肉の自由と霊の自由という風にも言えるかも知れませんが、それらは本質的に余りにもかけ離れているように思われます。本日の聖書箇所によれば、主イエスの見ておられる自由の世界と、当時のユダヤ人たちが考えていた自由とは、随分、その意味は違っていたようです。ユダヤ人たちの自由はとても誇り高い自由であったようです。とても皮肉なことに、そのユダヤの自由が、イエスさまの眼にはとても惨めで悲しい現実に映っていたようです。私たちの場合でも、自分で求め考える自由と、神さまがお考えになっておられる自由との間に、大きな隔たりがあるかも知れません。無邪気に自由だ!と喜ぶ他人を見て、何と哀れな人々なのだろうと感じることもあります。

ユダヤの人たちは、皆共通する意識として、民族としての強い誇りと尊厳を持っていた、と思われます。特に、聖書の中の発言にもありますように、8章33節によれば、<8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」>と、いかにも確信と誇りに満ちた発言です。ユダヤの人々は「アブラハムの子孫」という気高く誇り高い自負で満たされており、誰もアブラハムの血筋を誰も絶対に消し去ることはできないのだから、この尊厳は誰も傷つけることも出来ないしまた奪い取ることできない。それゆえユダヤの自由と独立は不変であり、何人といえどもこの自由を侵すことはできない、という絶対的な確信に満ちた発言のように聞こえます。それなのに、なぜあなたは、今さら異邦人の奴隷のように「自由になる」などと私たちに言うのか、と言って、ユダヤ人たちは憤慨しています。もうすでに、選びと民族の血筋においては誰も及ばないのだ、ということでありましょう。

「自由」とは、『広辞苑』(第六版)によれば「心のままであること。思う通り。」とあり、さらに哲学的に言えば「一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。」と書かれていました。無限無条件の自由は想定できないので、ある一定の条件のもとで自由は語りうる、ということでしょうか。例えば、信じる自由、表現する自由、行動する自由ということになります。ユダヤ人たちの共通する大前提は「アブラハムの子孫」です。その意味は、神に選ばれた神の選民であり、神の民です。神の前で完全に認められ選ばれた民であるという点では、何の制約も制限もなく完全に認められた自由がある、ということでしょうか。つまり、自分たちはアブラハムの血筋であるから、その限りにおいて、何をするにしても、神の御前においては何一つの障害も制約もなく、完全に選ばれた民であり祝福されている、ということになります。したがって神に選ばれて祝福されるという点で、誰からも制約を受けず、拘束を受けることは一切ないのだ、という理解です。創世記12章に記されておりますように、「祝福の基」としてアブラハムを祝福しその子孫の繁栄を約束された契約に堅く立っての確信でありましょう。

これに対して、主イエスは、32節以下で「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り真理はあなたたちを自由にする。」と教えられました。ユダヤ人たちは旧約聖書の律法契約に基づいてアブラハムの子孫であることを前提にして、自由を確信したいましたが、それに対して、主イエスは新たに「わたしの言葉にとどまる」こと、そして「わたしの弟子である」ことを前提にした、新しい自由について、告げたのです。イエスさまの教える自由で、とても意味深い所は、唯一つ「真理を知る」ということです。「真理を知る」ことで、人は初めて自由になることができる、と断言しています。「真理」から離れた者には決して自由は与えられない、ということになります。では、その「真理を知る」には、と問えば、「わたしの言葉にとどまる」ことであり、「わたしの弟子である」ことが求められる、と説いたのです。

イエスさまが仰せになられた「真理はあなたたちを自由にする」(h` avlh,qeia evleuqerw,sei u`ma/j)とは、未来形で書かれています。自由になるには、ある決定的な前提条件が今ここに突き付けられます。そしてその決定的な条件が「わたしの言葉にとどまる」ことであり、それによって「わたしの弟子になる」ということであります。つまり、今主イエスのみことばを認め受け入れなければ、真理を知ることができず、真理をしらなければ、未来の自由はない、と言うのであります。非常にはっきりした教えです。そこで真理とは何か、ということになります。

 

1.「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」

「真理」とは何でしょうか。つまりイエスさまのみことばに示された「真理」とは何か、イエスさまの「弟子である」ことの真理とは何か、ということです。みことばの中には何が隠されており、弟子であることに中に、何が起こっているのでしょうか。ヨハネによる福音書には、世界史の全てを決定づけるような、ある決定的な問答が登場します。それは、神の子である主イエスと、世界史を支配するローマ皇帝の代理人であるピラトとの問答です。ローマ総督ピラトは十字架刑を宣告する場面で、主イエスを尋問します。この場面は、果たして真の裁き主はどちらなのか、究極の裁き主の姿とはどのようなお姿なのか、その本質を読者の心に深く問う場面です。ヨハネによる福音書18章37節以下で、こうピラトは主イエスにこう尋問します。「18:37 そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしがだとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆わたしの声を聞く。』18:38 ピラトは言った。『真理とは何か。』」というとても意味深長な対話です。

言わば、ピラトはローマ帝国の総督という立場で、この世の力を代表する権力者であり、言わば世俗の王のだ璃人として、最後は主イエス・キリストを裁いて、十字架刑を宣告する審判者として登場しています。したがってピラトの言う「王」とは、あくまでも世界史上のローマ帝国皇帝であります。反対に、主イエスは神の御子であり、神の国を担う「救い主メシア」であり、最後は人類の罪を一身に背負い、神の裁きのもとに自己犠牲のいけにえとして贖罪の死を遂げ、人類の贖い主として自ら十字架にかかり死んでく救い主としての王であります。言わば、「真理とは何か」という問答のもとに、この世の権力者側に立つ「王」の真理と神の国を齎すメシアとしての「王」の真理とが激しくぶつかり合っています。真理とは、一方は暴力的な世俗権力による真理なのか、もう一方では十字架における神の愛と憐れみによる、救いという真理なのか、両者が一つの真理の中で相互に激突し合う場面です。確かにこの世では、力づくの権力や暴力で、いくらでもねじ伏せて、真理を造り出すことも可能かも知れません。一般に、歴史は権力者の記述による、と言われるように、歴史や史実はそうした性格を帯びていることは否めない事実でありましょう。そしてそれがこの世では全てを審判する「真理」と見なされるのでありましょう。しかし神の国では、人々を愛するがゆえに犠牲となることで、「真理」が明らかになります。そのような意味で、聖書の真理を、キリスト教の真理を正しく理解して、受け入れる、ということはとても難しいことであります。イエスさまのみことばにとどまり、イエスさまの弟子として生涯を本当の意味で終える、ということは、決して尋常なことではないように思います。そういう意味で、本当の意味で「クリスチャン」(キリストに属する者たち)がこの世で増えるということも難しいことでありましょう。難しいことではありますが、真理は確かに与えられており、真理に生きることも不可能なことではありません。正しい意味で、真理を知る者として生涯を尽くして生きる、ということも決して不可能なことではないはずです。

 

2.「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」

ただし、そのためには、ある決定的な「自覚」と「認識」が求められます。戻りまして8章34節で主イエスはこう説きます。「8:34 イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。』」と、主イエスはさらに踏み込んで語り、真理に至る道筋をお示しになります。真理を知り真理に至るために、二つのことが明らかにされています。一つは「罪の奴隷である」という自覚です。そしてもう一つは、罪の奴隷から解放されるためには「子」が必要である、即ち「わたしの弟子である」という信仰であります。

先ず「罪」の自覚について申しますと、ユダヤ社会には「罪人」と呼ばれ、ユダヤ人共同体から切り捨てられ排除され軽蔑され憎悪されていた人々と、教師や学者として権威と権力をもってユダヤ人共同体を支配する人々との、二重に分断された群れがありました。どちらに生まれつくか、その生まれによって、全ては運命づけられます。政治の社会でも政治家の子が政治を支配しているようです。宗教の世界でも宗教家の子が宗教を支配しているのでしょうか。お金持ちも相続という形で相変わらずお金持ちです。ところが、そうしたどんな生まれであろうと、その生まれを越えて、あなたがたは人間の普遍的な本質として「罪の奴隷」ではないですか、と主イエスは鋭く指摘したのです。政治家であろうと、宗教家であろうと、お金持ちであろうと、そんなものは、神の前では何の意味もなさないのです。ただ人は皆「罪の奴隷である」のです。罪人であれ、律法学者であれ、祭司であれ、死の審判の前でそして神の審判の前では、何の役にも立たないのです。死と滅びが、あなたがたを縛りあげ虜にして、死の処刑を宣告するのであって、そこに自由などはなく、致命的な罪と死と滅びに隷属する奴隷であるにすぎないではないか、とはっきりと宣告したのです。したがって誰にも同じように神の御子による罪の赦しが必要であり、神の御子による贖罪の恵みに与り、罪の奴隷から解放されるのでなければ、未来に自由はない、というありのままの現実を告知したのです。貧乏の子がお金持ちになれば自由になれるというのは、この世の話であり、権力を掴んで強くなれば自由だというのは、暴力的な力づくの話であります。罪の奴隷であることから救われるには、どうしてもキリストによる贖罪と新しい神の義が必要であり、それはまさに、主イエスの愛により主の犠牲に基づく神の恵みであります。そこで初めて人は、罪の支配による死と滅びから解放され、永遠の命に憩う自由が与えられるのです。問題は、先ず、根本から「神」に背き離反する所で「自我」を得ようとする堕落を自覚することにあり、そしてそのため、根源的に他者を愛することが出来ない破れと罪を知ることであり、神の御前での審判から誰一人として逃れることはできないことを認識すべきであります。

真理とは、ただ一つ。パウロは、フィリピの教会の人々に手紙を書いて、こう教えています。「2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。」と述べて、教会の皆さんに勧告しています。なぜならそれは、「それはキリスト・イエスにもみられるものです。2:6 キリストは、神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」と続けて述べ、キリストの十字架おける愛と謙遜の真理を明らかにしています。

 

3.「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」

「真理」とは「愛」と「謙遜」から生まれる賜物であります。「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」と、パウロの言葉に尽きるのではないでしょうか。無限に愛し憐れむがゆえに、徹底的にへりくだって謙遜を尽くす、しかもそれは徹底した神への従順であり人々を憐れむ愛の証明となって露わに現れます。それこそが「真理」ではないでしょうか。神の御子であるイエス・キリストは、愛と謙遜を徹底して、父なる神に従順を尽くされ、人々の救いのために、愛を尽くされました。先ほど、ローマ総督ピラトの尋問において、ピラトは「真理とは何か」という独言のような問答の言葉を持って法廷尋問を終え、主イエスに十字架刑を宣告したのですが、まさに神の真理は、この愛と謙遜を尽くし切る所に、世界史の一切を一身に引き受けて十字架に向かう所に現わされたのです。確かに、私たちが完全に愛と謙遜を実践するには、限界があり不可能なことですが、パウロの教えるように「慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」心がける、ということは出来るはずです。それによって、僅かながらも確実に私たちは自由になることが出来るはずです。十字架に示された御子のお姿から「真の真理」を知り、主の愛と謙遜から深く学び、本当の自由に生きる道を知ることになるのであります。

 

4.「だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」

しかし、ユダヤの人々はアブラハムの血筋を盾に、力づくで自己の正当性を顕示し貫き、ついには自己絶対化に至ります。「8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れないからである。8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」と主イエスは仰せになり、ユダヤの人々は、頑なに血筋を誇り、その高ぶりゆえの暴力的な激情のもとに、自分たちを絶対化しようとする誤った心を咎めます。ヨハネの書き方からその意味を厳密に申しますと、ここでは二つの態度が対立的に対照され語られます。「あなたたちはわたしを殺そうとしているわたしの言葉を受け入れない」というユダヤ人たちの心を支配し決定づける要因として、「父のもとで見たこと(tw/| patri. lalw)」に基づくのではなくて、「父から聞いたこと(tou/ patro.j poiei/te)」に基づいているからだとして、其々に定冠詞が付けられて、対立する重大要因として対照的に明記されています。言い換えますと、「父のもとで見たこと」とは、直接には「父」である神の真理であり、「神」として父と子が共に共有する真理を指しており、「父から聞いたこと」とは、本当の意味で「父」から聞いたことという意味ではなくて、「律法」を通してユダヤに伝承された律法の言葉や文字を指すのではないかと思います。つまり前者は「律法」に言い表された「真理そのもの」ですが、後者は「律法」として受け継がれた文字や文書であって、その内容は真理からは遠く離れており、自分たちに都合のよいように利用してきた律法主義的材料に過ぎない、というそんな意味に解釈できそうです。なぜなら、ユダヤ人たちは、特にその権力者たちは、律法主義により、自分たちがユダヤを支配するために律法を利用しており、抜き難い偽善と虚偽によって、「律法」の告げる真理を覆い隠し、捻じ曲げて来たからです。律法の預言が本当に実現して本当のメシアが到来すると、一番困るのはこの人たちでありました。本心からメシアを迎え入れることを決して心から望んではいなかったのです。支配者は、常に「自分」でなければならないのであって、「神」のご支配を迎えることは望まなかったのです。その典型はヘロデ大王でした。ヘロデ大王は、メシアの誕生を聞くと、その同年齢の全ての幼児を一気に虐殺してしまいました。そのヘロデは、何と言うことか、ユダヤを支配するために、一方でローマ皇帝に媚びへつらい王の座を手に入れますが、他方ではエルサレム神殿を修復してユダヤ人の尊敬を集めていたのです。私利私欲に支配されて罪の奴隷となった者が、神の御子である本当の王に、世界を明け渡すことなど出来るはずがありません。これと同じようなことは、私たちひとりひとりの生活や心の中でも、常に起こっているのではないでしょうか。自分の都合のよいように、言い訳や解釈をして、決して「神」のもとに「自分の世界」を明け渡そうとはしないで、掠め取ろうするのです。あれやこれや口実をつけては、「神のもの」を「自分のもの」にして、奪い取ってゆくのであります。こうしてついには神を抹殺してしまうのです。こうした罪は、教会の中でもまた教会のさまざまな付属施設でも、常に起こっていることではないでしょうか。そう考えますと、やはり世の終わりは避けられないのかも知れません。「罪の奴隷である」そのままでは、真理の光に照らされた世界を望むことは本当に難しいことであります。キリストによる十字架の贖罪なくしては、決して私たちは真理に対して自由になることはできないようです。

2021年11月14日「わたしは世の光である」 磯部理一郎 牧師

 

  1. 11. 14 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第26主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教24

説教「わたしは世の光である」

聖書 申命記17章8~13節

ヨハネによる福音書8章12~30節

 

聖書

8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光であるわたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」8:13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」8:14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。8:16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。8:17 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。8:18 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」8:19 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」8:20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 

8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所にあなたたちは来ることができない。」8:22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」8:25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。8:26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」8:27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」8:30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

 

 

説教

はじめに. 主イエスにおける「神」の本質を告知する

本日の説教は、ヨハネによる福音書8章12~30節の解き明かしとなります。新共同聖書では、12節から20節の段落と、21節から30節の段落は段落が区切られ、前者には「イエスは世の光」、後者には「わたしの行く所にはあなたたちは来ることができない」というように、其々に小見出しが付けられております。今日はこの二つの段落を一気に読むことになります。と申しますのは、今日のこの二つの段落は共に、主イエスご自身から、主イエスとはいったい誰なのか、という主イエスの「神」としての本質を明らかに証ししている所であります。そう申しますと、実は、ヨハネによる福音書は全体がその何処を取っても、主イエスにおける「神」の本質を語り啓示していますので、特別にこの二つだけを取りあげる、ということではないかもしれません。しかし、前に、主イエスご自身の本当のお姿について触れましたように、いよいよ本格的に主イエスにおける「神」の本質を告知してゆくことにからであります。併せて、私たち人間の「本質」と罪についても言及されることになります。

 

1.「自分について証しをする」

本日の聖書テキストは13節で「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」とユダヤ人たちは非難します。ユダヤ人たちの嘘だとする非難に対して、主イエスは14節で「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。」と応答します。つまり、イエスとはいったい誰なのか、という主イエスの本質をめぐり、ユダヤ人との間で論争になってしまったのです。主イエスは、確かにご自身がヨセフという大工の子であり人の子として世に生まれましたが、しかし主イエスのもう一つの隠された本性本質は「神」の子であり、その真相は、ご自身のうちに「人」と「神」との二つの本性が一体になった受肉の「神」であります。神である父がわたしを遣わされたのである、と主イエスは自ら語り、ご自身について証しをなさいました。しかしそれはユダヤ人には到底信じ難い理解できない話でした。前にもお話したように、人々は主イエスにおける「神」に躓いたのです。したがって人々は唯一真の神の啓示に躓いたことになります。主イエスが自分について証しをすればするほど、即ち主イエスにおいて真の神の姿が啓示されればされるほど、人々はその神に躓き、その結果いよいよ激しい憎悪を増幅させてしまい、深刻な論争となって展開してしまったのです。13節でユダヤ人たちは、イエスが「神」であり「神の子」であって、神はイエスを遣わした、というのは真実だとは到底認められることではなく、主イエスを断罪し裁こうとします。

それに対して、主イエスは自分から語っているのではなく、「神」ご自身が自分について証言しているのであるから、わたしについての証言は真実である、と主張します。先ほども申しましたように、本日のみことばの決定的な問題は、イエスの本質本性は何か、という根本的な神の啓示を人間は理解することができない、ということです。ユダヤ人たちは、イエスの本性は「神」であるはずない、「大工ヨセフの子」にすぎないではないかと決め付け、イエスは神を語り神を冒涜する者だ、と断罪し裁こうとします。さらに主イエスは、ご自身が「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」と反論します。主イエスはこう説いて、ご自身の本質がどこから来てどこにあるか、即ちこの地上の世界を超越した「神」にある、というご自身の「神性」をより明白にお示しになられます。

こうした議論を振り返りますと、主イエスは同じように3章5節以下でもニコデモにこう教えていました。「3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」と教えていました。救いや真の命は、ただ「神」によるのでなれば、人は決して得ることのできないことであります。そんな単純なことなのに、人は「神」を認めることはできないのです。自分の世界から神を排除して考えようとするので、結局、理解できなくなり、躓くことになります。自分の生まれと存在の根元が「霊」から生まれ「霊の本質」によるのか、それとも「肉」から生まれ「肉の本質」だけに終わる本質なのか、ニコデモにもう一度考え直すように「問い」を与えつつ、彼の心を「肉」にではなく「霊」に向け直して考えるように勧めました。決して肉や物質の意義を否定しているわけではないのです。ただ、肉を創造し肉を活かすのは「神」であり、神の「霊」である、という基本原理に立つのでなければ、結局は肉に終始して、物だけに埋没してしまい、本当の真実に至ることはできなくなってしまうからです。肉はもとより、あらゆる物質の全てが、「霊」の働きによって、生まれ存在し活かされている、というのが万物の真相だからです。神(造り主)は、霊(聖霊)の働きと言(御子)の知恵と力によって、「光あれ」と言われ、万物の創造を開始されたことを思い起こします。存在の根源となる本質を「肉」に属するものとするのか、それとも「霊」に属するものとするのか、それによって、「どこから来てどこへ行くのか」、全ての運命は完全に違って来るからです。人生は、肉か霊かの所属によって、完全に決定します。考え方も、何が喜びであり悲しみであるのかその評価も、そして何が希望となり何が絶望となるのか、最終的には「人格」として人生を生きる上で、その本当の質「クオリティ・オブ・ライフ」において、お金や物などの肉に頼るのか、それとも根本においては「神」に求めようとするのか、この根本的な選択と決断によって、人生の本質が大きく変わって来ます。主イエスは、ニコデモに、水と霊とによって新しく生まれて生きる選択を求めたわけですが、残念なことに、その時のニコデモにはその教えの意味が理解出来ませんでした。「律法」の文字に従って生きることは知っていましたが、に本当の意味において、自分の前に現臨して生きて働く「神」において生きる、ということをまだ知らなかったからです。

 

2.「わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいる」

主イエスは、ご自身について、さらに別の表現でこうも証ししています。「8:16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなくわたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」と仰せになり、「裁く」ということと「父と共にいる」という二つのことを結び合わせて、ご自身の証しを立てておられます。言い換えれば、「父」と「子」とが、主イエスにおいて、「一体の神」となって民を裁くのである、という意味になります。共観福音書は、主として父なる神が裁く、という表現で貫かれているように思われますが、ヨハネ福音書では、父と子が一体の神として裁き主となる、否、父は子に裁きの全権を委託した、と証言します。したがって主イエスによる神としての裁きは真実であり、真の権威がある、と示されたのです。当たり前のことですが、父と子であれば、同じ「神」であり、同じ「神」が人を審判し裁くのであります。祭司長や律法学者たちが、どれほど律法を知っていても、律法は律法にすぎません。あくまでも律法に基づいて人を裁くことができるのは、人ではなくて「神」であります。ユダヤ人たちは、余りにおあたり前で基本的な考え違いですが、余りにも大きな見当違いをしていたのです。あたかも律法を拠り所にすれば、自分たちが人を審判して裁くことが出来るかのように、思い上がっていたようです。しかし本当に裁く権威と力がある裁き主は「神」ただ独りしかおられないはずです。その裁きを行いうる唯一の神として、今ここに「わたしがある」と宣言したのです。しかも「父」も「子」と共に「神」として主イエスにおいて現臨しておられるのである、と告知されるのです。

キリスト教会の中でも、こうしたユダヤ律法主義者たちと酷似するような思い上がり、思い違いをすることがしばしばあるようです。恰も自分たちが他者を審判して裁くことができるかのように誤解して、他者をいとも簡単に選別したり、排除したり、裁いてしまうのです。教会や宗教団体の中で人事権や一定の役職のもとに影響力を行使できる立場に就くと、すぐにそういう勘違いをし始めるのです。大変愚しいことです。しかしその一方で、真の裁き主であられる「神」は、それでもそこに確かにそして厳かに現臨し、生きて働いておられるのです。それなのにそこで、真の神を押しのけてしまい、自分が裁き主のように振る舞い、教会や兄弟姉妹を右左しようとすれば、その愚行は結局は破綻に尽きることになります。それどころか、自分に裁きを招くことになるのではないでしょうか。どのような立場であれ、だれであれ、すべての人々の前に、神は審判者として現臨しておられるのです。教会の混乱や破壊、衰退は、そうした深刻な思い上がりと思い違いから生じているように思われます。結果として、教会は偽善や利害によって支配されてしまうのです。それはまさにユダヤ人たちの前に、「わたしはある」という名の神が主イエスにおいて現臨して、みことばを語り続けておられるのに、自分たちが律法を用いる審判者となって「神」を押しのけて、多くの同胞たちを愛によらず利害や欲求によって罪人にしてしまい、裁き続けるようなものでありましょう。ユダヤの社会構造も、教会の社会構造も、人の肉によるものなのか、それとも神のご主権に基づく霊の支配によるものなのか、ここはしっかり見抜き、見極めてゆく霊的な信仰がいよいよ求められる所ではないでしょうか。あくまで真の裁き主は、「主イエス・キリスト」お独りだけ、であります。「人」ではないのです。「8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。8:16 しかし、もしわたしが裁くとすればわたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」と仰せの通り、肉に従って裁くのではなく、裁きはあくまでも「神」が裁くのであります。

 

3.「わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」

このように、主イエスのご自分についての証しとその自己啓示によれば、「わたし」をお遣わしになった「神」は、わたし」と共におられる。つまり「神」はわたしを遣わしわたしと共におり、しかもわたしと共におられるその「神ご自身の現臨」それ自体によって、「わたし」の本質を証してくださっている、というのです。すべては「わたし」における「神」が行っておられることなのす。言わば、びっくり箱のように、あたかも主イエスご自身の中から「神」ご自身が飛び出して来るように、主イエスのすべてを「神」が証ししてお示しくださるのです。しかも「神」は、決して主イエスから離れることなくイエスにおいて一体であり、主イエスにおいて「神」そのものを証ししている、というのであります。

実は、この段落の冒頭の8章12節で、主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と仰せになりました。本日の説教題はこのみことばによるものでありますが、このみことばには、二つの決定的な「救いの道筋」がはっきりと宣言されています。一つは、前半のみことばで「わたしは世の光である。」という主イエスご自身についての証です。救いの真理は、ただ主イエス・キリストお独りにおいてのみ、明らか啓示されしかも実現する、という救い主をめぐる証しです。もう一つは、後半のみことばで「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言われていますように、イエスさまお独りが救い主であるから、したがってイエスさまを信じて受け入れ、そのみことばに聴き従う信仰者たちだけが救われる、という救いの道筋です。

先ず「わたしは世の光である」とは、イエス・キリストおいて「神」ご自身が共におられ、主イエスにおける「神」ご自身が、主イエスだれであるかを証しされ、世に対しては主イエスにおいて隠された神の真理を明かにされる啓示の光となって、世の人々の魂を照らすのです。もう少し聖書原典の用語に忠実に申しますと、「わたしはある 世の光(VEgw, eivmi to. fw/j tou/ ko,smou)」と書かれています。つまり「わたしはある(エゴーエイミ)」という言葉と、「世の光」という二つの言葉とが結合されて成立した表現になっています。「わたしはある」とは、前の説教で触れました出エジプト記3章で、<3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」3:14 神はモーセに、「わたしはあるわたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはあるという方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。>とありますように、神がモーセにご自身を啓示されたときに、神ご自身が名のり、神ご自身を表された神のお名前です。この「わたしはある」という言葉を、ヘブライ語の「ハイヤー」という字を、ギリシャ語の七十人訳旧約聖書では「エゴー・エイミ」という字で訳し、ヨハネによれば、主イエスはその神の名「わたしはある」をそのままご自身に用いられたのです。ですから、このヨハネ8章12節の「わたしはある、世の光」という言葉には、二重の意味が表されています。一つは、主イエスは「神」である、ということと、もう一つは、その主イエスにおける「神」が真の命と真理を照らす「世の光」としてこの世に遣わされた、ということを意味します。したがって「わたしは世の光である」とは、実は主イエスにおける「神」ご自身が、父なる神と一体となって、生きて働く「神」を啓示し、かつ主イエスについて証しするという意味であり、同じ主イエスご自身の真相を明らかにする啓示の言葉と言えます。そしてその主と主の啓示を認めて、信じて受け入れることにより、私たち世の者もまた、真理をうちに持つことができる、ということになります。

主イエスは、も―セに「わたしはある(エゴー・エイミ)」という名でご自身を啓示した「神」と同じ神であり、「わたしはある(エゴー・エイミ)」とモーセにご自身を啓示した「神」は、今度は、主イエスご自身において世の人々に「神」を啓示しているのです。

 

4.「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」

主イエスご自身についての証しのみことばは、21節以下になりますと、いよいよ究極の自己啓示のみことばとなって展開します。まず21節以下で繰り返しこう言われます。  8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになるわたしの行く所にあなたたちは来ることができない。」8:22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している(~Umei/j evk tw/n ka,tw evste,( evgw. evk tw/n a;nw eivmi,)。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない(u`mei/j evk tou,tou tou/ ko,smou evste,( evgw. ouvk eivmi. evk tou/ ko,smou tou,tou)。8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。「下のものに属している」(~Umei/j evk tw/n ka,tw evste,)とは、下のものから生まれた存在であり、ニコデモの話と同じことで、肉に属することをと言い、そして「上のものに属している」(evgw. evk tw/n a;nw eivmi)とは、天上から生まれた者であり、神の霊に属することを意味します。本来はすべてが「霊」によって生まれ存在し生かされているはずなのに、霊から離反して、背きの罪に支配された肉は、霊からの根元的な恵みによる支えを失い、罪の支配により滅びと消滅の死を迎えるのであります。神から離反した所で、人は決して存在することも生きることもできないのです。人は神の霊のもとで、初めて安定した存在と平安と安息に満ちた魂に憩うことができるのです。文字通り霊の恵みにより、安心の命と存在を得ることができるのです。

ここでも主イエスは、「わたしはある(エゴ・エイミ)」という神の名をもって、ご自身についての証しとしています。24節で、<『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる(eva.n ga.r mh. pisteu,shte o[ti evgw, eivmi( avpoqanei/sqe evn tai/j a`marti,aij u`mw/n)。」8:25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。8:26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを世に向かって話している。」8:27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」8:30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。>と語り、主イエスは、十字架における生贄として贖罪の死を遂げて、栄光の満ちた復活をもって、神のみことへと栄光の帰還を果たされることを予告しています。しかし人々はまだこの意味は理解できませんでした。つまり主イエスにおける神の啓示を受け入れない限り、また主イエスにおける完全な審判を認めない限り、十字架の死による罪の赦しに与ることはできず、罪のうちに死ぬことになる、と主イエスは人々に言明しています。原典に即して言いますと、そうでないと、罪の中でこれからいよいよ死んでゆくのだ(avpoqnh,|skw avpoqanei/sqe)という意味になります。

ここには、私たち信仰者が信仰生活において意識的に覚えておくべき意義深い態度が、教えられています。それは、言い方は少々不敬ながら、主イエスにおいて現臨し生きて働く「神」と、十字架に苦しみ殺され復活した主イエスの「肉体」と、そして主が語られた「みことば」とは、「神」も「肉体」も「言葉」も、それらは皆全て「一体存在」のように「串刺し」になって、私たちの前に生きて現臨し力あるわざをもって働いておられる、ということです。つまり私たちは、決して空を打つような言葉の前に座っているわけではない、ということです。なぜなら「みことば」に直結して十字架と復活の「お身体」があり「神」が同時に現臨するからであります。聖書が朗読され、聖霊の光のもとに、聖書のみことばが解き明かされるとき、そこには十字架と復活の主のお身体も、しかも主イエスにおける「神」も、串刺しにするように一体存在となって、現臨し、臨んでおられる、というリアリティーを私たち信仰において日々深く覚えるべきであります。それはまさに聖霊の導きと信仰によるリアリティーでありますが、しかしこの上なき「神のリアリティー」であります。みことばと呼ばれる聖餐と説教の背後に主イエスは十字架と復活のお身体をもって現臨され、その主において「神」は審判者であり、罪を完全に赦す愛の神としていまし給うのであります。主イエス・キリストにおける「わたしはある」とはそういうことではないでしょうか。

さらに加えて申し上げますと、東方正教会の伝統神学に、「ペリコレーシス」という教理がありますが、それが西方教会に入ると、circumincessioという教理になりました。これは、父と子と聖霊という三位一体の神が、相互にかつ永遠に内在し交流し合うという教理です。ヨハネによれば、主イエスご自身における「神」は、常に同時に父においても子においてもそして聖霊においても、永遠にそして常に「神」として相互に内在しておられる、というのです。少々思弁的で難しく聞こえる教理かも知れませんが、そういう風に、神は聖書を通してまた教会の信仰や祈りの生活を通してご自身を啓示し、教会はまた、その神の啓示を伝統的な祈りの体験を通して理解し認識し、常に時を貫いて御前に現臨し生きて働く「神」との命の交わりに与り、永遠の命をいただいて来たのではないでしょうか。

 

2021年11月7日「誰もあなたを罪に定めなかったのか?」 磯部理一郎 牧師

 

2021.11. 7 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第25主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教23

説教「誰もあなたを罪に定めなかったのか?」

聖書 レビ記20章10節

ヨハネによる福音書8章1~11節

 

 

聖書

8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。

8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

 

 

説教

はじめに. 「姦淫の女」の話は、どこから、なにゆえに、ここに持ち込まれたのか

本日のみことばは、皆さまもよくご存じの、姦淫の女の罪を赦すイエスさまのお話です。ただ、この箇所は、シュラッターのような保守的な学者でも、元々『ヨハネによる福音書』の最初の原典の基礎となる写本にはなかった部分であり、後から「ここに付け加えられた部分であることがはっきり分かっている」(シュラッター著 蓮見訳『新約聖書講解4ヨハネによる福音書』1978, 154頁)と指摘されるお話です。同じように、シュルツも出所不明としながらも「共観福音書(ルカ5:29以下、15:1以下、19:1以下)の系統の話に入る」(シュルツ著 松田訳『NTD新約聖書註解 ヨハネによる福音書』1975, 232頁)と想定しています。したがって、この話は後代の人々による挿入で、ヨハネ自身にはあずかり知らない箇所となります。なにゆえ、ここに、この姦淫の女の話が挿入されることになったか、ということについても、その意図も多くの学者は不明としています。

ただ、一つだけ、挿入された意図について、気になる表現があります。それは「8:6 イエスを試して訴える口実を得るために、こう言ったのである。」という言葉です。ここには「試みる」(peira,zw peira,zontej)「告訴する」(kathgore,w kathgorei/n)という字が用いられており、これによって、ユダヤの権力者たちの謀略が、組織的かつ合法的にイエスを抹殺し排除しようと、いよいよ巧妙かつ現実的に着々と進められていたことが分かります。これまでヨハネが伝えるように、主イエスは誠実かつ純粋に神殿で説教し、ご自身における「神」を自ら啓示し、メシアの到来を告知なさいました。しかしユダヤの人々からすれば、その主イエスご自身の啓示それ自体が、主イエスにおける神のメシアの到来それ自体が、ユダヤの人々を躓かせることであり、ついにその躓きも極まり、単に主イエスにおけるメシアを拒否するばかりではなくて、主イエスの排除抹殺を公に合法的に民族共同体全体の決断として実行する所に至っていたことが推察できます。そうした深刻かつ激しく主イエスにおける「神」に躓く人々の、深い「罪」の姿を、ここで改めて想い起し見つめ直したいと考えたのではないか、と考えられます。つまり、もう一度、ユダヤの民衆の心に立ち直して、人々の思いから「自分」たちの犯す罪を見つめ直し、自分たちの罪とはどのような形で現れるのか、省察の時をここに設けたのではないでしょうか。そうした省察の時を提供することで、もう一度、主イエスにおける「罪の赦し」の真実を明らかにし、理解を深める場にしようとしたのではないか、と推測します。言い換えれば、聖書である読者に対して、それぞれの罪について思いを深くし、さらに深められた罪の自覚の中で、主イエスにおける罪の赦しを、自分たち聖書を囲む共同体全体もまた共に深く覚える、という教会的な背景の中からここに持ち込まれたのではないか、と推測できないでしょうか。したがいまして、本日は私たちも皆でそれぞれの罪を深く覚えつつ、もう一つの聖書を共に囲む信仰共同体として主によって罪赦されてゆければと願う次第であります。姦淫の女の姿やその場を去って行かざるを得なかったユダヤ人たちの姿に、私たち自身の姿も重ね合わせながら、主イエスにおける罪の赦しの恵みを共に覚えることが出来ればと思います。

 

1.「姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」

ヨハネによる福音書8章4節で、人々は「この女は姦通をしているときに捕まりました。8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。」と公言して、女を主イエスの前に引き出します。所謂「現行犯逮捕」ですから、弁明の余地はありません。したがって律法に基づき、その場で石打ちの処刑となります。レビ記20章10節によれば「20:10 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」と明記されています。どういう訳か、姦淫した男の方はここには連れてこられず、姦淫した女だけが見せしめにされ、引き回されるように、主イエスの前に連れ出されたのです。ユダヤの首謀者たちの意図は、明らかで、主イエスは決して女を罰することは出来ないという確信のもとに、主イエスはここで必ず律法規定に反逆すると想定して、そこで直ちに主イエスを公に断罪することが出来ると予測していたはずです。主イエスは、日頃いつも、民衆に「わたしは罪人を救うために世に来た」と公言しておられ、そればかりか、いつも罪人たちと共に食卓を囲んでおられました。したがって主イエスが罪人を処刑することは、主イエスの教えと矛盾することになります。律法学者たちからすれば、明らかに、主イエスは罪びとの友であるばかりではなく、律法違反の共犯者であり、律法の破壊者でありました。処刑は、律法学者にとって自分たちの権威や権限を行使する決定的に重要な場となっていましたので、律法に基づく処刑が無視され破壊されることは、詰まる所、神の冒涜者となります。処刑は律法主義者の権威権限を公に顕示する重要な機会でした。そして処刑妨害となれば、その場で主イエスさえも処刑できると考えていたはずであります。これは皆、計画通りのことでした。

こうした女の処刑を訴える律法学者たちに対して、主イエスは不思議な行動を取られます。8章6節で「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」と記されています。これは明らかに、わたしとあなたがたとは何の関わりもない、わたしの福音の世界とあなたがたの律法による処刑の世界とは本質的に異なる、無言のしぐさで表明しているように見えます。つまり、主イエスにおける神の国とは、あなたがたのような律法主義の国ではなく、わたしは決してそうした世界とは組しない、と公にお示しになったのです。こうした主の表明は、無言の行為であるがゆえに、律法規定に基づく処刑を否定した訳でもなく、また肯定したとも断定できません。神の国とは、律法違反を押し付けて死の処刑を行うための国ではなく、却って罪人を憐れみ、罪を犯した破れにある魂をいとおしんで、罪から解放したいのだ、それが、わたしの思いである、とする主イエスのメッセージを人々は理解できませんでした。

 

2.もう一つの罪の世界へ

そこで、主イエスは、さらに踏み込んで、メッセージを送ります。ユダヤ人たちは、現行犯逮捕した姦淫の女を律法規定通り処刑しようとします。彼らが問題にしているのは、まさしく律法であり、行為として外側に現れた罪sinsです。しかし主イエスは人々の心の眼差しを、外見上の罪sinsからさらに人間本質の奥深くに潜む罪(Sin, The Original Si, The Fallと教理的に言われる次元の罪の本質)という根源的な罪の問題へと誘うのです。主イエスは、何一つ激しく非難がましい言動によらず、不思議にも、彼らが気付かないままに自然に、心の内面に深く眼を向け始め、自分の内面を支配してきた根源的な罪に彼らの思いを導いていったのです。いわば、罪の外側から今度は罪の奥深くに、根のように張り尽くした内面の罪へと彼らの魂を導いたのです。8章7節以下はこう記します。「8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさい。』8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」とありますように、主イエスは、率直にストレートに、ひとりひとりの心の奥底に、文字通り深く飛び込んでゆくかのように、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と仰せになりました。こうした主イエスの態度には、一見、非常に温和で争いを見事に回避しつつ、しかしその本質は、極めて厳しいみことばをもって、彼ら自身に内在する「罪」を糾弾しているように見受けられます。主イエスが直接的に彼らに判決を下して処罰するわけではなく、彼ら自らの意識や記憶からは決して自分の罪を抹消することができないのです。そればかりか、自分で自分の罪を裁くこともできず、ましてや他人の罪までとても裁くことができない、という決定的な罪の自己矛盾に陥っていることに気付き始めたのです。人々は、この時点で判断も思考も行動もすべてを完全停止する外に道はない、と悟ります。完全な機能停止状態です。それどころか、逃げるようにその場から立ち去って消えて無くなる外に、為す術はなかったようです。しかも興味深い所は「8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」とありますように、長く生きて来た年長者ほど、歴然と、これまでの犯し続けて来た多くの罪が自分の前に鮮明に蘇ります。どうしてもそれを否定できず、逃げ出す外はなかったようです。極論すれば、他の誰よりも、年長の者から始まって、次々に、自分自身の内に深く宿る罪を認めざるを得なかったようです。律法の遵守とは、即ち罪を犯し続けた自分を裁くことを意味するのではないか、ならば神はそれをどうご覧になるのだろう、と気づいたのです。

ここには、主イエスのみことばを聴いて、ユダヤ人たちの間に、二つの確かな認識と自覚が明らかに生じているように思われます。この新しい認識と自覚が、ユダヤ人たちの行動変容を引き起こしたのではないか、と考えられます。その自覚の一つは、律法主義者たちも群衆も皆が、何よりもまず、自分たちもまた同じ「罪人」ではないか、という「自分の罪」を内省する深い洞察に導かれたことです。ふつうは、自己絶対化しようとする罪は、さらに自己を正当化して自己を義とする罪を引き起こします。ところが、反対に、自己義認ではなく、驚いたことにまたとても不思議なことですが、あのユダヤの権力者たちまでもが、ここでは自己の内面を奥深く支配する「罪」を自覚し認識したのです。そして律法に基づいて処罰されるべき罪人とは、実は先ず自分自身のはずで、決して他人だけではない、という省察を得たと言えます。そうでなければ、その場を去らずに更なる論争や捕縛行為が行われたと考えられます。主イエスの沈黙の動作は、このように力ある霊的な現象となって、人々の魂に深く滲みるように影響したのではないか、と言えます。

もう一つの認識は、ユダヤと律法主義の「偽善」が鋭く暴かれたことです。律法主義の偽善構造とは、律法と罪との関係です。一方で、原罪という根源的な罪ゆえに、人間としての本質本性において本当は律法を遵守できず、根源から律法を完全破綻していることです。これは永遠に変わらない悲惨な宿命です。しかし他方では、律法主義のゆえに、どこまでも「律法」を遵守して貫こうとするあまり、律法違反者は容赦なく徹底的に処罰処刑されなければならないことです。こうしてここに罪と律法との矛盾が生じます。人間本性における本質からの罪ゆえに絶対に律法を「守れない」のに、しかし律法主義では「守り抜く」という致命的な矛盾が生じます。イエスさまが「7:19 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」と指摘した通りです。当然ながら、守れない律法なのに守っている振りをする、という辻褄合わせが始まりと結局は虚偽と偽善のほかに道はなく、律法主義という虚偽偽善が生じます。しかもその虚偽と偽善を覆い隠すために、いよいよ律法を厳格に守り抜いている振りをしなければならなくなり、今度は権威や権力を隠れ蓑にして悪用し、他者を徹底的に裁いて排除抹殺してゆくことになります。それが、ユダヤの律法主義者たちの姿でありました。しかしそうした偽善に、民衆は気づき始めたのです。すると益々律法主義者たちは、真実を覆い隠そうとして、ついには「神」までも抹殺しようとするのです。こうした二重三重に渡る罪の構造が権力という形式のもとに構築されてゆきます。そしてついに、宗教世界における権威主義は、こうした罪と偽善を隠蔽する道具と化するのです。神が人の罪を赦し認めて人を義とする信仰の世界は破壊されて、人が自ら自分を義とし権威と権力を用いて、いよいよ自分を義と認めさせ他者を支配しようとしたり、他者を排除抹殺しようとすることになります。これは宗教冒涜であり、神を冒涜する世界に変貌するのであります。ただ、こうした深刻な偽善構造は、どこの宗教団体でも起こりうることであり、実際にキリスト教会の中にもみられることです。私たちの中にもこうした病んだ宗教権力構造は認められることです。悲しいことに、こうした中に陥った人々は、自分を義とするために、宗教界に止まらず、この世の力による法廷闘争までも引き起こすことさえ起こります。冒頭でこの姦淫の女の話が、なぜここに挿入されたのか、その意図を推測しましたが、どこの教会においても、こうした宗教的な偽善構造が教会共同体の中にも残存することを警戒したはずです。教会共同体は、日々常に、自らの罪を深く覚え必要があり、神の御前に心から罪を徹底的に懺悔告白して、真の神による罪の赦しを乞い願うことがどれほど意味深く重要なことか、よく知っていたはずす。こうした自分自身の罪に対する深い省察を想起させる場面であります。果たして神の教会の中にあって、いったい何処の誰に、人をえり好みして人を排除し抹殺する資格があるのでしょうか。

 

3.主のみことばの力と光

しばらくして、あたりを見回すと、そこに残されていたのは、主イエスと姦淫の罪で連れて来られた女だけでした。人間の手にある律法ではなくて、神のもとに働く神の霊的な規律の勝利でありました。罪を知る人々は、皆、律法の前から、神の前から逃げて去るほかに道はなかったようです。すべての人々は、律法に固く立って女を処刑するという資格がない、と認めた場面です。ユダヤ人たちの確固たる陰謀では、主イエスは律法に従って女を石打ちの処刑を拒み女を庇うので、イエスも律法違反の同罪人としてその場で処刑できるはずだ、というものでありました。しかしその図り事は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と語られた主イエスのみことばによって完全に吹き飛んでしまいました。主みことばの力を強く思わざるを得ません。あれほど激しい憎しみに燃えていた律法学者たちが、どういうわけか、不思議にも、主のみことばによる深い自己省察が与えられて、自分の罪に気づき、その場を立ち去らざるを得なくなったのです。こうして姦淫の女は、主のみことばによって、石打ちの処刑から免れ救われました。

よく皆さんに、日々日常的に自分に起こる「神さまの恵み」をきちんと具体的に見つけ出して数え上げましょう、と申し上げてまいりました。自分の周囲に引き起こされた神の恵みをきちんと一つ一つ説明することができるということは、とても大事な信仰の恵みではないか、と思うからです。それと同じように、自分のうちに現れる罪もその一つ一つを具体的に数え上げて、それがどのような罪であるか、きちんと説明できる、そしてその一つ一つの罪がどれほど悲しいかを心から嘆き、悔いくずおれて、神に懺悔できる、ということも、信仰の恵みではないか、と思います。そしてそうした心の内に潜む罪を照らし出して罪の赦しの恵みに導く「神の光」こそ、「みことば」であります。みことばを聴くということは、恵みが鮮やかに見えるようになることであり、罪もまた鮮やかに映し出されることでもあります。主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と、みことばを語ることで、彼らの力では到底不可能な心の省察に光を与え、人間本性の根元に渦巻く恐ろしい罪を映し出した、と思われます。しかし誠に残念なことに、彼らの内的省察には「限界」がありました。彼らの内省は、不信仰のゆえに、ここで止まっててしまい、立ち去るという選択に尽き果ててしまいました。実は、ここから本当の救いの段階へと導かれるのでなければ何の意味もないのです。自分の罪を知って絶望した、その絶望から信仰の光は差し込んで来るからです。そこから、心から神の憐れみと赦しを願い求められるように導かれ、「わたしもあなたを罪に定めない」と語りかける主イエスのみことばの意味を悟り、神による根源的な救いを体験することになるからです。そして、主イエスにおける「真の神」に目覚め、主イエスにおける真の神のメシアを発見したとき、初めて彼らの罪の気づきは、神の国に入る気づきとなるのでありましょう。主イエスのもとから立ち去ることの、決定的な喪失を彼らはまだ理解することができなかったようです。

 

4.赦しの宣言「わたしもあなたを罪に定めない」

すると、主イエスは、身を起こして女にこう言われます。「8:10『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』8:11 女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」という「罪の赦しの宣言」で、この段落は締めくくられて終わります。はっきりと主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と赦しの宣言をなさいました。ここで、言外の言を聞き分けることが肝要ではないか、と思います。聖書を読むということの難しさはそこにあるのではないでしょうか。私たちが正しく福音のみことばを語り聴き分けることの難しさは、時に、まさにこうした言外の言を読み解くことにあります。直接は聖書の文字には書かれていなくとも、はっきりと言外の言として宣言されている啓示があります。教会の教理は、「聖霊」がそうした言外の言を鮮明に照らし出すことで、「聖霊の賜物」として生み出されて来たと言えましょう。ここで、主イエスが女に発せられた「赦しの宣言」即ち「わたしもあなたを罪に定めない」というみことばにも、実は言外の言を読み取ることができるように思われます。「わたしもあなたを罪にさだめない」というこの罪の赦しのことばの裏側にある、もう一つの主イエスのみことばを聞き分けることも大事ではないか、と思うのです。それは、わたしがあなたの罪を背負い、あなたの罪を償しますよ、という主の愛と憐れみに満ちた赦しの約束のことばです。しかもそれは、ただイエスというひとりの人間が、あなたを罪に定めない、と言っているのではありません。イエスにおける「神」が、わたしもあなたを罪に定めない、と永遠不変の赦しを宣言したのです。「神」があなたの前に現臨して、「あなた」の罪を赦す、と赦しの宣言を告げたす。もうこれは、神の宣言である以上、二度と誰も変えることはできないのです。そしてもう一つ、重要な点は、主イエスにおける「人間」が、あなたのためにあなたに代わって、「わたしはあなたの罪を背負い完全に償い尽くす」という贖罪の宣言であります。この「贖罪の宣言」を聞き分けるのです。神の御子は、「神」でありながら、マリアより受肉して人の子として、私たちとために私たちの全く同じ「人間本性」を身に纏うて、今ここに立ち語ります。まさにこのように、主イエスご自身における「神」がそして「人間」が共に「わたしもあなたを罪に定めない」と約束されたのです。主イエスにおける「人間」は私たち人間を背負い、「神」に対して十字架の死に至るほどに従順を尽くして、人間の罪を完全に償い尽くして、神への従順と義を貫き、罪と不従順に勝利する、という宣言であります。

2021年10月31日「イエスはだれなのか?」 磯部理一郎 牧師

 

2021.10.31 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第24主日

ヨハネによる福音書講解説教22

説教「イエスはだれなのか?」

聖書 ミカ書5章1~5節

ヨハネによる福音書7章40~53節

 

 

聖書

7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、7:41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。7:44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。

7:45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。7:46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。7:47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。7:48 議員やファリサイ派の人々の中にあの男を信じた者がいるだろうか。7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。7:51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」7:53 人々はおのおの家へ帰って行った。

 

 

説教

はじめに. 「イエスとは誰か」をめぐる問いと論争の中で

本日の説教題は「イエスはだれなのか?」という疑問符付きの題になっています。「イエスとは誰なのか?」という深刻な問いをめぐりまして、ユダヤの人々は、抜き差しならない民族全体の運命にかかわる論争の渦に巻き込まれていました。ユダヤの誰もが皆、同じように「メシア」を待望していたからです。しかし誰にも、果たしてメシアは、いつ・どこに・そしてどのようにして到来するか、全く知らないままでした。逆に、いつ、どこに、どのようにして来られるか、全く分からないということこそメシアのしるしである、とされていたようです。ただ一つだけ、メシアはダビデの末裔として到来する、ということだけは、預言を通して、人々には知らされていました。言わば、莫大な埋蔵金が眼の前にあっても、その金庫を開ける「鍵」は、人々には与えられていなかったのです。それは、その真実の鍵を開ける決定的なことは、ただ一つ、聖書の正しい解き明かしのもとに、ひとりひとりが正しく聖書のみことばの意味を聴き分けて、明確な信仰に立ち、決断する、ということでありました。主イエスは、祭りの間中ずっと、毎日ように神殿に通い、神殿の回廊で聖書を解き明かしておられました。人々は皆、確かに主イエスの説教を聞いたのですが、しかしそれを受け入れ信じるという「信仰」において、イエスにおいてメシアが到来していると認める所までには至らなかったようです。7章40節以下には「7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、7:41 『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。』7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。」と記されていますように、ユダヤの人々は、主イエスの解き明かしが、神秘を解くカギになるどころか、増々混乱してしまったのです。要するに、主イエスの解き明かしをしっかり聞いて、それを真実として信じ受け入れることができないために、つまり不信仰のゆえに、真実な教えを聞けば聞く程、一層人々の混乱と動揺は大きくなってしまったようです。言い換えますと、人々は主イエスご自身が語る聖書の解き明かしの説教に躓いたのです。固く信仰を持ち信仰に立つということが、どれほど人間の言動を、また人間としての本質的な在り方を決定づけ運命づけててしまうのか、こうしたことからも、非常によく分かるのではないでしょうか。信仰を持てず、信仰に立てないということは、こうして人間としての本質的な尊厳までも危機に曝してしまい、本来の人間らしい在り方を失うことになるのです。そしてついに、ユダヤ民族全体が大きく苦難と滅びへと転落してしまうことになります。

 

1.主の「この言葉を聞いて」躓いた人々

40節に「この言葉を聞いて」とありました。人々はまさに「この言葉を聞いて」運命的な決断が深刻に問われることになりました。前にもお話しましたように、一方で深い問いとして、主イエスの聖書の解き明かしとその教えのみことばは、人々の心の奥底まで広がって深刻かつ重要な問題として残りました。ただしそれは、受け入れられず信じることができないがゆえに、常に未解決の大難問として残されたままでした。その結果、ユダヤの権力者たちの中には、イエスを排除抹殺する覚悟を固める者たちも現れて、多くの民衆はいよいよ戸惑うばかりでありました。おそらくニコデモもその渦中の一人であったと思われます。そうした人々の動揺が40節以下にはよく示されています。ここで改めて、いったい人々の心を動揺させているのは何なのか、と立ち止まって考えてみますと、主イエスのみことばの何がそれほどまでに人々を戸惑わせ、躓かせていたのでありましょうか。「この言葉を聞いて」とありましたが、何をどのように聞いたのでしょう。それを指す直近の聖書の言葉は7章37節以下の「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」というみことばがあります。ここで注目すべきことは、主イエスは、主イエスご自身からはっきりと「わたしのところに来て飲む」また「わたしを信じる」と仰せになられ、主イエスご自身に対して信仰を求めおられます。神の永遠の命に与るには、「わたし」即ち主イエスをメシアとして信じ受け入れる「信仰」が強く求められています。まさにここに、主イエスを神のメシアとして認め受け入れるという信仰に、人々は動揺し躓いていたことになります。つまり人々の躓きの原因は、主イエスご自身の説教にあった、説教そのものが人々を躓かせた、ということになります。つまりメシアをめぐる問題で主イエスを信じるということに、人々は躓いたのです。もっと率直に言えば、人々は「イエス」ご自身に躓き、その結果、大きく動揺し混乱した、ということが分かりす。人々は「イエス」に躓き、動揺していたのです。

 

2.なぜ、ユダヤ人は「イエス」に躓いたのか

「躓く」には、言うまでもなく、人を躓かせる「原因」がありますが、なぜ人々は「イエス」に躓いたのでしょうか。信仰の問題を考えますと、結局、多くの人々は主イエスに躓き続けている、というふうに言えるかも知れません。もっとはっきり言えば、人は「神」に躓き続けているのではないでしょうか。それは、主イエスだけではなく、私たちが「神」に躓くのは、なぜなのでしょうか。大抵の場合、私たちは、躓きの原因が何でも「他人」にあるとして、他人のせいにして問題解決を図ろうとします。全て他人が悪い。人や物のせいにできなくなると、最後は「運」が悪い、と言うのです。そしてついに天を呪い神を恨むことになります。ところが私たちは、案外「自分」の問題に気づかないのです。実は躓く原因はいつも「自分」にあることに気付けないのです。躓かせるものが悪い、と誰もが考えてしまうのです。聖書にもそう書いてあるではないか、と言う方もあるかも知れません。確かに躓かせるものが全て悪い、と言って言えないわけではありませんが、しかしそれでもやっぱり「躓く」のは、本当はいつも「自分」なのであります。自分がなければ、躓く者はいないのです。それなのに、あろうことか、人は「神」に躓き「救い主」に躓き、神の愛と真理とそのご計画に躓くです。まさか、これを全て躓かせた「神」が悪い、と言ってしまうのでしょうか。問題は、躓きを引き起こしている原因は「神」ではなく、自分自身にある、ということが自覚できないだけなのです。最近は加齢のせいか、道を歩いていてよく躓きます。躓いて後ろを振り帰り足元を見ますと、決して躓くとは思えないほどの、とても段差とは言えない、ほんの僅か数ミリ程度のことで躓いていたのです。足の爪先が殆ど上がらなくなっているのです。こうして「躓く」のは「自分」の衰えゆえのことであり、あくまでも歩く道が悪いわけではないと悟りました。すると、過信せずに自分が注意すべきで自分の責任であると痛感するようになります。

鎌倉の学校で禅の学びがあり、「脚下照顧せよ」と学びました。自分の足元から躓きは生じるゆえに、先ず足元を照らして顧みよ、という教えのようです。また「他人も自分もない」とも教えられ、そんな「分別」はすべて捨てよ、と教えられました。般若信経に「色即是空」という言葉がありますが、色がある、というのは、色がない、と言うのと全く同じ本質である、という教えでしょうか。自分の中で、色があることもないことも同じ本質であるとして、認識における分別や区別は全て無くしていく訓練のように思い、参禅しておりました。もし仮に躓きが生じるとすれば、それは禅風に言えば、躓く「足」や「自分」があるからであり、自分の足元から生じたものであり、躓く足ならば、そんなものは切って捨ててしまえ、というのです。自分が躓きの素であれば、そんなものは消し去ってしまえ、というわけです。実は「自分がある、自分がない」といのは、それは無用な分別が生み出す迷いであって、自分があるもないも、本質的には「何も無い」ことで同じである、という境涯に立てば、躓くという実態も消滅してしまうように思えました。その後、母の死を契機に参禅は止めておりましたが、20歳を迎え、不思議にもキリスト教に出会い洗礼を受けてからは、お師家さんにはつかず独自で参禅するようになりました。その目的は、自分が少しずつ死んで消滅する心境を覚えたからでした。鎌倉時代に聴いた話ですが、白隠禅師?という方でしょうか、高名な禅僧がおられ、病弱で床に臥すことが多かったようです。しかし白隠禅師は病いで床に臥しながら病それ自体を禅にしておられた、と聴かされました。病気の中でこそ死に逝く中でこそ、本当の参禅なのだ、と教えられました。今になり、その通りだ、と思うようになりました。禅の世界では、そのまま「無」となって、何もなくなってしまうのですが、キリスト教信仰に恵まれてからは、神さまは現臨し永遠無限に生きて働いてておられ、万物を愛と慈しみのうちに守り、無限の祝福をもってお支えくださっておれることがよく分かりました。周りや自分がどうであれ、また境遇が何であれ、そのまま全てをただ神さまにお委ねしてお任せすればよい、と全身で体験することができるからです。その神に向かって、神さまの懐奥深くに自分は静かに消えて無くなってよいのです。実はそこにこそ本当の無限なる平安と安息が生まれるからです。そんな意味から申しますと、もうそれは仏教の禅ではなくて、キリスト教の祈りの禅であり、イグナチオス・ロヨラの霊操にも似て来るようでもあります。祈りには「声」と「ことば」を出して祈る祈りもありますが、「身体」で祈る「全身全霊の祈り」もあることが分かります。そして神の現臨もとに、キリストのお身体のもとに、世の自分は完全に滅び消滅して、キリストの霊と身体に結ばれて一体される、そういう新しいキリストの身体としてある、という身体による祈りの体験を知りました。聖餐において、或いは説教を通して、「取りて食らえ、これはわが身体なり」とは、そういう身体による全身全霊の体験のことではないか、と思うのです。まさに「古き人」は死に、「新しき人」に生まれ生きるのであります。

ユダヤの人々が「神」に躓き「イエス」に躓くのは、ある意味で、どうしようもないこと、であったかも知れません。なぜなら「神」は、人間の能力や本質を遥かに超える「超越の神」であるからです。したがって捕らえようがないのです。理解しようも、認めよと言われて認めようもなく、確かめる術もありません。したがって、先ず主イエスのみことばを受け入れて「聴く」のです。そしてみことばにおいて語る主ご自身の解き明かしに照らされつつ少しずつ真実を認識してゆく、それ以外に方法はないように思います。それのためには、脚下照顧して自分の破れと限界をよくよく知り、「罪の奴隷」にある悲惨を知り認めることであります。そうした「罪」という人間の宿命的な根本問題に気づくことで、死の意味や真の命の恵みも、本来の人間の尊厳や喜びも、それらは皆決して「自分」にはないこと分かり、初めてそれを「神」のうちに求めることができるようになります。神の愛と祝福と恵みにある、という真実が見えて来るようになるはずです。そして新たに、みことばのうちにいよいよ神を求めるという「求道」の道が開かれ、主イエスご自身の内にまたみことばの照らしのもとに現臨する「神」に触れることができるようになります。残念ながら、ユダヤの人々は「律法」を持っていて「律法」に生きているという強烈な自負、過信や傲慢があったのではないでしょうか。みことばである聖書に深く聴き直す前に、既に自分で分かっている、自分がそうしたい欲求から、主イエスとみことばにおいて啓示される「神」を拒否し否定してしまっていたと思われます。そのため、傲慢による権威主義や自己絶対という底なし罪によって、瀕死のように蝕まれている自分の足元を見ようとはせず、そうして自分のもとに到来し現臨する、生きて働く「神」を求めず、ましてや認めて信じ受け入れることなど、到底できないまま躓いていたのではないでしょうか。

 

3.「まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめたうえでなければ」

「イエスはメシアであるのか」をめぐり、果たして律法はどう教えるか、律法学者の間に論争が生じます。ヨハネは7章50節以下で、そうした深刻な躓きの中にあるユダヤ人たちについて、しかもその権力の中枢での、ある興味深いエピソードを伝えています。「7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。7:51 『我々の律法によればまず本人から事情を聞き何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』7:52 彼らは答えて言った。『あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。』」と記されていますように、議員であり律法学者でもあるニコデモは、「我々の律法によればまず本人から事情を聞き何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならない」と主張しています。彼は学者としてとても慎重な態度で真相を究明しようとしています。この背景には主イエスの安息日規定違反があったと考えられますが、それを判定する前に、旧約聖書である「律法」に基づいて、主イエスご本人からの証言を聞き直さなければならない、と発言しています。これは、私たちが信仰生活を健全に進めるうえで、とても意義ある大事な態度ではないか、と思います。

前回の説教でもお話したように、主イエスの本質的な問題の所在は、律法違反や安息日規定違反にはありません。問題の本質は、イエスさまにおける「神」を認め、受け入れることができるかどうか、それが問われており、主イエスはそれを信仰として求めおられるのです。主イエスは、律法学者であれば誰もが知っている、モーセの律法の肝心要を成す言葉「わたしはある」(エゴー・エイミ)という神のお名前を敢えて用いて、ご自身をお示しになられました。ニコデモには、まだそれが果たして真実であるか、理解できず認められないようです。場合によっては、このヨハネを初め12使徒でさえ、同じように理解できていなかった、と思われます。それは、やはり、主イエスの十字架と復活の「栄光」を目撃し、さらには主イエスに代わり「聖霊」が降るまでは実現しないことでありましょう。したがって、この無理解も不信仰も、ある意味ではやむを得ないことでありましょう。律法学者としてニコデモが出来る精一杯のことでありました。そういう意味で、人間は常に限界の中にあるのであって、そのためには常に「神の時」を待たなければなりません。

実は、私たちの信仰生活も全く同じです。常に限界の中にあり、すぐに信仰お全てが明らかになるわけではなくて、あらゆることに常に「時」があり、神さまのお定めになる時である「カイロス」において、初めて明らかになり実現することであり、その時に出会うことで、初めて私たちは理解して分かることが出来るのです。ニコデモがここでとった態度はとても意味深いと思います。「我々の律法に従えば先ず本人から聞いて確かめたうえでなければ、判決を下してはならない」と主張しました。自分たちが判断することは止めて、遅らせて、何よりも「まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければならない」、それが我々の律法に従うということではないか、とニコデモははっきりと言って、明らかに事柄に「優先」順位をつけています。これはとても大事なことです。彼は優先すべき順位を正しく認識していたのです。そしてその最優先すべき順序とは、先ず主イエスご本人のみことばを聴き直す、という聖書である律法の言葉に従おうとする選択していることです。どんなに差し迫り、どんなに緊急で深刻な問題であろうと、自分が先に判断してしまうのではなくて、先ず主イエスのみことばから神の啓示を聴き直そうとしたのです。「神」さまの御心をみことばのうちに求め直したのです。これは宗教改革の精神にも通じる態度ではないかと思います。また私たちの信仰生活の在り方としても、全く同じように、通ずるものであります。余りにも多くのことが理解できず分からない。その時、先ずはとことん神さまの言葉に耳を傾けて、神の啓示とその御心を待つべきではないでしょうか。それが、ニコデモの選んだ態度であり、私たちもまたこのニコデモの態度から学ぶ必要があります。口に出す前に、行動を起こす前に、先ず聖書のみことばに聴き直して、神の御心を待つのであります。

 

4.宗教改革の聖書原理

信仰の拠り所は聖書のみにある、と宣言して、ルターは1517年10月31日『95か条の論題』をもって教会改革を断行しました。ただ只管に聖書のみことばに聴き従うことから信仰は与えられ、それによって、はじめて真の教会は立てられる、ということを明らかにしました。先ほど、ユダヤ人たちが「聖書」を持っていたのに「神」に躓いていた、というお話しましたが、注意したいのは、ユダヤ人だけではなく、私たちキリスト者もまた「聖書」も「教会」も与えられていたのです。それなのに、残虐な宗教戦争に至るまで「神」に躓いたのです。主イエスは、毎日のように神殿に通い、神殿に集うユダヤ人たちのために、聖書の解き明かしをして説教しておられました。それを、おそらくヨハネは晩年になり、福音書を記すにあたり、若き日に体験した主イエスのみことばを振り返っていたのではないでしょうか。「『7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおりその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」と仰せになられた主のみことばを想い起し、さらにこう振り返って述べています。「7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」。ヨハネは、主イエスの十字架と復活の栄光も、聖霊降臨によるみことばの照明も、まだ経験しておらず、神のご計画の意味を全く理解できなかったこと、その無理解を深く反省するかのように振り返っているように見えます。しかし死を目前にしてこの福音書を書き始めた今は、その意味とその力ある恵みが身に染みてよく分かったはずです。今は聖霊ご自身が、主イエスに代わってみことばにおいて語り、主の啓示の意味を一層鮮やかに示しているからです。あの時、神殿でキリストがお語りくださったみことばが、今は明らかに分かるのです。なぜなら、今は別の助け主である聖霊なる神が自分のうちに降り、力強く宿り、主のみことばを解き明かしてくださり、神の永遠の真理を照らし出してくださるからであります。聖霊の力ある恵みのもとに、イエスご自身も今ここに現臨して、みことばを語り、今まさにここで私たちの前で生き生きと働き一度限りの永遠の現在として、十字架の栄光を現在化し、その十字架と復活の栄光にお招きくださり与らせてくださるのです。こうして主イエスは、今は聖霊の恵みのもとに、主のみことばにおいて、ご自身の十字架における贖罪と永遠の命に漲り溢れる復活のお身体を「さあ、取って食べなさい」と差し出し命の食卓にお招きくださり、復活という永遠の栄光の命に与らせてくださるのです。パウロの証言する「主の死を告げ知らせる」とはそういう聖霊の恵みのもとに実現するキリストの共同の出来事であり、一つの命の身体とされる共同の体験でなかったのか、思う次第です。ルターの宗教改革の神学の中核は、神のことばの神学にある、とよく言われます。そしてその神のことばの神学とは、みことばにおいて、主イエスは現臨し生きて働いておられる、という「みことば」の力あるみわざにあります。ニコデモは、そうした所までには至らなかったにしても、分からないながらも、主イエスが語るみことばに「権威」を認め、そのみことばが語りまた啓示する「生きて働く神」と「照らし出される真理」に対して、誠実にそして謙遜に「待つ」ことが出来ました。みことばが真実を語り出すまでは、自分の判断を下そうとはしませんでした。私たち人間は、何もかも分かったうえで、ということはあり得ないことです。みことばにおいて聖霊がみことばの真理を照らし出し、真実に語り出すまで、私たちは常に待たなければなりません。ルターの宗教改革の本質も、何かが分かったからそれが絶対だから改革できるのだ、ということではなかったように思われます。むしろ不確かなことの方が多かったのではないでしょうか。ルターの宗教改革の本質は、自分たち人間の考えを拠り所にすることをきっぱり捨てて、ただ只管にみことばに聴き直すところから、或いはみことばが真理を語り出すまでは只管に謙遜かつ誠実に待ち望むことにあったのではないかと思います。

2021年10月24日「渇いている人は、だれでも、わたしの所に来て飲みなさい」 磯部理一郎 牧師

2021.10.24 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第23主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教21

説教「渇いている人は、だれでも、わたしの所に来て飲みなさい」

聖書 エゼキエル書47書1~12節

ヨハネによる福音書7章37~39節

 

 

聖書

ヨハネ7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。

 

 

説教

はじめに. 「神」を慕い求める飢え渇きの中で

八日間続いた仮庵の祭りの間、おそらく主イエスはずっと神殿に通い、聖書の解き明かしを続けておられた、と思われます。イエスさまは聖書を解き明かして「神の啓示」を語り告げることを祭りが終わるまで決して止めることはありませんでした。ヨハネ福音書7章37節にありますように、主イエスの神殿での説教は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」という、とても強い「呼びかけ」のみことばであり、「神の招き」でありました。「渇いている」とは、どういうことでしょうか。何に、飢え渇いているのでしょうか。言うまでもなく、「神」を慕い求める飢え渇きであります。神の真理に飢え、神の愛と憐れみに渇き、神による命に飢え渇くことであります。先週の説教との関連で言えば、「7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがないわたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」という根源的な神を求める問いであります。聖書を与えられ、骨身になるほど聖書の言葉を覚えているユダヤ人でも、主イエスによる正しい聖書の解き明かしが直接なければ、真の神と出会い、神を知ることは出来なかったのです。このみことばの主題は、あくまでも「神」と出会うための飢え渇きであります。是非注意したいことは、私ども日本人には、どうしても聖書を主観的に感情的に、自分の感情の欲求を満たしたいというだけで、聖書を読もうとする癖があります。つまり自分の感情欲求からこのみことばを聴こうとしてしまうのです。その結果、本来の「神」抜きに、「キリスト」抜きに、主観的な感情に支配されたまま、聖書を読もうとしてしまうのです。そういう自分の感情欲求だけで、聖書をいくら読んでもまた教会に通っても、実は本当の意味で「神」に出会うことはできないのです。なぜなら、神と出会うことと、自分の欲求感情を満たすこととは本質的に異なることだからです。それを「渇く」というと、日本人はすぐに「神」を抜きにして、自分の感情的欲求を中心に渇きを満たそうとするからです。これは所謂「承認欲求」と「信仰義認」と混同してしまう誤解にも通ずることで、常に「神さま抜き」で、神さまのことはわかんない、でも「自分の気持ちや欲求」で、聖書を読み教会に通う、場合によっては、奉仕さえも「神抜き」に求める癖が出てしまうのです。ですから、改めて申しますが、神さま抜きで、自分の感情的欲求を満たすための「渇き」ではない、ということを慎重に覚える必要があるようです。心の中で先ず、真実に神を求め、神を認めて、神を受け入れる渇きであることを分別したうえで、説教をお聞きくださるとよいと思います。あくまでもこれは「神」を捜し求め、「神」を慕い求める者の話なのです。

 

1.エゼキエルの預言から

主イエスの聖書の解き明かしは、詳細は分かりませんが、もしかするとエゼキエル書に触れる説教ではなかったかと思われます。なぜなら、主イエスはわざわざ「聖書に書いてあるとおり」と言われておられるからです。預言者エゼキエルは「47:1 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。47:2 彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。(中略)47:9 川が流れて行く所ではどこでも群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所ではすべてのものが生き返る。」という有名な預言を残しています。エゼキエルは、言わば、神とその命の恵みを、神殿から流れ出る川に喩えて、神による新しい命の祝福を預言した、と考えられます。そしてこの預言はイザヤの希望の預言にも通じており、「12:3 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。」とありますように、神がイスラエルを命の祝福をもって満たす喜びと感謝を表しており、神への栄光と讃美の歌であります。しかも盛大な仮庵の祭りでは、こうした聖歌隊の豊かな讃美の中で、祭司が神殿に湧く水を汲み取る儀式が行われていたようです。したがって仮庵の祭りのただ中で、祭司が神殿の水を、おそらくはシロアムの池の水を汲み取る儀式を背景にしながら、主イエスは聖書の解き明かしを行っておられたのではないか、と推定することが出来ます。問題は、単に祭りの儀式として神殿の水を汲み取ることではなくて、二度と渇くことがないように永遠の命を齎す真の神と出会い、真の神の命の祝福にあずかるのだ、と主イエスは人々をご自身における「神」へとお招きになられたのではないでしょうか。儀式を繰り返すことと、生きて現臨する神の祝福に実際に与ることとは本質的に異なる現実があるのです。ここで、決定的な意義ある働きをするのが、「受肉のキリスト」である主イエスご自身において、「神」は「わたしはある」という名において現臨し、「神」ご自身が「受肉のキリスト」の語るみことばにおいてその真実を啓示し、解き明かしておられることにあります。決定的なことは、このキリストの現臨とその語るみことばにおいて、初めて人々は真の「神」と出会い、真の命の祝福に与ることにあります。

 

2.渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい

主イエスは、愛と憐れみをもって「7:37渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と仰せになって、人々をお招きになりました。ただ、この主イエスが仰せになったみことばの本当の意味をもう少し丁寧に考えてみる必要があります。私たちの欲求が満たされることだ、と短絡的に受け取るのではなくて、むしろ主イエスがお求めになる本当の意味を、正しい理解を主の真意に即して辿り着くことが大事です。既に見て来た通りですが、こうしたイエスさまの憐れみと神への招きは、既にサマリアの女との対話の中で、ご自身が神のメシアであると告げ知らせる啓示の言葉の中に見られます。4章13節以下で「4:13この水を飲む者だれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かないわたしが与える水はその人の内で泉となり永遠の命に至る水がわき出る。」とお教えになり、女を主イエスのもとにお招きになりました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とは、「ヤコブの井戸」から命の水を汲み取ろうとする、即ち「律法の遵守」を通して「神」に出会い、神の命の祝福を受けようとする、所謂「律法」主義のもとにあるユダヤ人たちを指しています。しかし残念ながら、いくら律法の中に救いを求めても、それでは増々罪に破れ、罪を重ね続けことになり、底なしの罪責の中に堕ちるばかりで、真の神の前に祝福を受けることはできない、と主は女に諭しました。すると、女は主イエスに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と応じます。そして最後に、主イエスは女に「4:21婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と説きます。主イエスは、あなたとわたしが共に向き合っている今ここが、もうすでに「真の神」の前に立ち、真の神と出会い、生きた「神」を礼拝している、その時は既に来ている。なぜなら今この「わたし」において、あなたは「神」の前に立ち、既に神に愛と赦しに招かれている、と告げたのです。すると、女は主イエスに「4:25わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と応答しました。その人のうちに湧き溢れ流れ出る永遠の命の水とは、主イエス・キリストにおいて、主イエス・キリストを信じて受け入れることを通して、今ここで汲み取ることが出来る、と主イエスは教えたのです。渇くことのない命の泉から汲み取ること、それは即ち、主イエスにおいてまた主のみことばにおいて「神」の前に立ち、神と出会い、神の生きた命の祝福に与ることを意味したのです。

 

3.わたしがそれである(わたしはある)

主イエスは、このようにご自身が真の「神」のメシアであり、真の神のみこころを実現し行うために「わたし」をお遣わしになれたのだ、という言い方で、主イエスご自身における「神」を女にお示しになられたわけです。そればかりか、主イエスは加えて、神を「父」と呼びご自身を「子」と呼ぶことで、父も子も同じ同一本質の「神」である、と言い表しました。親がライオンであれば子もライオンであるように、父が神であれば、言うまでもなく、子も同じ神であります。主イエスは「わたしをお遣わしになった方」或いは「父」という言い方で、主イエスはご自身における「神性」を、或いは「神」であるご自身の本質を表明されたのですが、もう一つ、さらに重要な言い方で、主イエスはご自身における「神」を言い表します。それは、先ほどの4章26節に既に現れていました。主イエスはサマリアの女にこう仰せになりました。主イエスは「4:26それは、あなたと話をしているこのわたしであるVEgw, eivmi( o` lalw/n soi))。」と告げて、ご自身が神のメシアであることを明らかにしたのです。この主イエスの表明で最も重要なことは「わたしはある、わたしは~である(VEgw, eivmi)」という言い方です。邦訳のように「それ」という文字そのものはギリシャ語原典にはなく、「わたしは(evgw,)」という一人称単数主格と「ある(eivmi)」という能動形一人称単数現在の動詞に、後から「あなたと話しているその人(o` lalw/n soi)」という男性単数主格定冠詞と男性単数主格の直接法能動形現在分詞による句が続きます。直訳しますと「わたしはある、即ちあなたと話しているこの者である」という意味になります。これはギリシャ語の表現ですが、この元となったギリシャ語表現は「七十人訳」旧約聖書に遡ります。それも旧約聖書出エジプト記3章13節に遡る用語であります。それは「神」を言い表す神のお名前の定型表現として現れます。エジプト脱出の折りに、神はモーセを出エジプト脱出の指導者として立てますが、そこでモーセは神にこう尋ねます。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」3:14 神はモーセに、「わたしはあるわたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と記されています。言い換えれば、モーセに対して、「神」ご自身は「わたしはある」というお名前でご自身の存在を現わし啓示された、と言えます。ヘブライ語原典では「ハイヤー」という字ですが、これをギリシャ語の七十人訳旧約聖書は「わたしはある」(VEgw, eivmi)という字で、訳しました。ヨハネによれば、その「わたしはある(VEgw, eivmi:エゴー・エイミ)」という言葉を、そのまま、主イエスご自身は「神」であることを言い表すお名前として用いておられるのです。ヨハネによる福音書によれば「6:35わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」「6:48 わたしは命のパンである。」「6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」「8:12わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」「11:25わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」「14:6わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」「15:1わたしはまことのぶどうの木で(あり)、わたしの父は農夫である。」「15:5 わたしはぶどうの木で(あり)、あなたがたはその枝である。」と主イエスはご自身を言い表しておられます。これらは皆全て「わたしはあるVEgw, eivmi)」という同一の定型句によって貫かれており、主イエスは、ご自身における「神」を自己啓示するための象徴用語としてお使いになっておられます。極論すれば、出エジプト記において、主イエスは、モーセに「神」がご自身を啓示されたその「神」のお名前「わたしはある(VEgw, eivmi)」を、そのまま用いて、ご自身が同じ「神」である、即ち「わたしはある」と自己表明されたことになります。「律法」という文字や規則の中に、いくら生きた真の神を求めても、決して得られるのではなく、「わたし」すなわち主イエスというお方においてこそ、神は初めて求めることが出来るのであり、主イエスにおいてこそ、初めて真の生ける「神」に出会うことが出来、主イエスにおいてこそ、初めて力ある神の救いのわざに与ることが出来る、と告知したのです。7章37節以下にありますように「7:37渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われました。完全な神による命の祝福は、「わたしのところに来て飲む」ことで見出され得られるのです。それは無限に湧く泉のように川となって流れ出すのです。なぜなら、主イエスにおいて、真の「神」は啓示され、しかも主イエスにおいて「神」は生き生きと現臨しその御心を行われるからであります。

 

4.父、子、そして聖霊としての「三位一体の神」

最後に、本日の聖書テキストで、読み解くのに最も困難に覚える箇所が、7章39節の「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」というみことばではないかと思います。これは、おそらくは主イエスが4章23節以下でサマリアの女に告知されたみことばに関連づけられるのではないか、と考えられます。主イエスは「4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と女に啓示しておられました。

これを聞いている人々の側からすれば、主イエスにおいて「神」が到来している、ということさえ、まだ受け入れることができないでいるわけで、しかも、その主イエスが十字架の上で贖罪の死を遂げ栄光の復活をなさり天に昇られる、という主イエスのご自身の「栄光」についても、人々には全く理解することができなかったはずです。それなのに、さらに加えてまた、今度は主イエスに代わる「別の弁護者」として「聖霊」が遣わされ、その聖霊において、「神」は現臨しご自身を啓示されて、いよいよ最後の救いの完成が実現する、ということまでは、到底理解できることではなかったと思います。当然ながら、12人の弟子たちにしても、イエスが「神」であり、しかも神の御子が、マリアから受肉したお身体において、民の贖罪のために十字架でご自身を献げ死んで三日目に復活することさえも、到底受け入れることが出来ない神のご計画であったはずです。ましてや「聖霊」がさらに降るというもう一つの新しい神の現臨の仕方と啓示を信じて受け入れる、などということは全く理解出来なかったのではないかと思われます。おそらくヨハネは、使徒として生涯を尽くし最後までこの真理を理解することに、この啓示の真理を探り求め、葛藤しながら深く苦しみ続け、追いかけて来たのではないかと思われます。そしてヨハネとその教会はついに、神が「父」としてまた「子」としてそしてついに「聖霊」として、すなわち「三位一体の神」として、「神」ご自身を啓示してくださり、自分たちのうちに常に永遠に現臨し続け、しかも永遠の命に至る完成に導き養い続けておられる、という救いの現実を悟るに至ったのではないか、と思います。まさに渇くことなく永遠に湧き出る命の泉は、このわたしの内にこんなにも豊かに流れ出し溢れ出ていることを悟ったと考えられます。それはまさに父と子と聖霊の神において現臨し、父とキリストを通して注がれる聖霊において生きて働く神を体験したからではないでしょうか。そこで、ヨハネはようやく福音書を書くことが出来るようになったと思われます。そうしたヨハネの思いが、この7章39節には滲み出ているように見えます。ヨハネは、主イエスにおける神を探り求め続けながら、主イエスのうちにその本質に触れるまで奥深くまで入り込むようにして、主イエスのみことばにおける神の啓示を探り求め続けていたことがよく分かるのではないかと思います。主イエスのみことばにおいて、いよいよ深く神の本質に迫ろうとするヨハネの熱い信仰の思い、そして聖霊において生きた命の泉が湧き出るように流れ出ている恵みと喜びが伝わって来ます。しかしそれは、私たちも全く同じことではないでしょうか。私たちも日々、主のみことばにおいて、生きて現存する神と深く触れ合い、その生きた交わりの中に、新しい永遠の命を汲み取り続けているからであります。