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2022年3月27日「神の栄光が見られるとき」 磯部理一郎 牧師

 

2011.3.27 小金井西ノ台教会 受難節第4主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教43

説教 「神の栄光が見られるとき」

聖書 ヨブ記2章11節~3章10節

ヨハネによる福音書11章28~44節

 

 

聖書

11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。

 

11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え興奮して、11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。11:35 イエスは涙を流された。11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 

11:38 イエスは再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で石でふさがれていた。11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よわたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」11:43 こう言ってから、「ラザロ出て来なさい」と大声で叫ばれた。11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

 

説教

はじめに.

先週は主に主イエスを迎えに出たマルタと主イエスの問答について聖書を読みました。この主イエスとマルタとの間で交わされた問答の中心となったみことばは「わたしは復活であり命であるわたしを信じる者は死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはないこのことを信じるか。」(ヨハネ11:25~26)という復活の告知にありました。「わたしは復活であり、命である」と啓示されたイエスさまのみことばには、二重の意味がある、と前回お話いたしました。「神」ご自身が自己啓示する神の名前「わたしはある(ハーヤー、エゴー・エイミ)」というみことばですが、これは、その唯一真の「神」が主イエスにおいて到来し現臨していることを啓示する言葉でした。単刀直入に言えば、父と子は一体の「神」として、主イエスにおいて現臨し、今ここに到来し、その結果、神の完全なご支配である神の国は、主イエスにおいて到来したことを告げるみことばす。そして二つ目は、父と子と聖霊の一体の「神」は、主イエスにおいて到来し現臨しているのであるから、したがって、主イエスにおける「神」は、父子霊一体であり一致して、万物の造り主であり、永遠の命を与える命と創造との根源であります。ここでとても大事なことは、主イエスにおいて「神」は到来し民の前に現臨している、という出来事が起こっていることです。この神の事実を、即ち主イエスにおいて「神」は到来し現臨し神の支配をもたらしている、ということを認めて、受け入れいる「信仰」が求められることです。主イエスにおいて神の新しい創造が行われ、永遠の命が与えられることを信じて受け入れ、この信仰において、その永遠の命に与るのです。人間の側からすれば、まさに主イエスを信じて受け入れる信仰を通して神のご支配に入れられる中で、新しい創造と永遠の命に与り生かされるという現実が始まったのです。神さまの側から言えば、主イエスにおける「神」は、永遠無限で全知全能であり創造と命の根源である神として、主イエスを通して、わたしたちのもとに来られ、地上のすべてのもの、すべての被造物のうちに力強く救いの介入しておられる、ということになります。完全なる「永遠」が、主イエスにおいて、未完成の「時」の中に、奥深く介入するのです。ですから、現在・過去・未来という時の流れの全てが、主イエスにおいて、神の永遠性のもとに包まれ支配され、しかも主イエスにおいて現在化されることになります。「命」が死と滅びのただ中に入り込み、万物に介入したのですから、死は永遠の命によって包まれ飲み込まれてしまったのです。そうした主イエスにおける神の決定的な介入が、ついに私たちの中に、始められたのです。この主イエスにおける「神」の完全な介入の中心は、御子の受肉を通して、マリアより受け取られた人間性において、しかも十字架の死に至る罪の償いと従順を貫くことにより、神の義は回復され、命の祝福をもたらし、永遠の命の復活となって結実します。これが、主イエスにおける「神」の到来の中心です。

そういう意味で、主イエスにおける「神」において、永遠の命が与えられる、という神の国が到来したという出来事を前にして、主イエスはマルタに「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と告げました。もう主イエスにおいて「神」は栄光のみわざを行われておられるのですから、当然ながら、それを受け入れるかどうか、厳粛に信仰的決断を迫られたのです。主の命の告知と信仰問いかけを、残念ながら、マルタはまだ正しく理解できなかったようです。それは、ある意味では、仕方のないことだと思います。人間が神さまのみわざを理解するのは、とても難しいことです。常に驚きと戸惑いの中で、神さまのみわざは受け止めざるを得ないからです。イエスさまも、そうした人間が神の啓示をそう容易く理解できないことはよくご存じだったはずであります。だからこそ、主イエスは意図的に、ラザロの訪問を遅らせラザロの死を待って、確実に臭うほど腐敗した死を迎えたラザロの墓を訪れることにしたのではないでしょうか。そうなのです。その人間の曖昧な不信仰を確かな希望に溢れた信仰に招くために、主イエスはラザロを復活させます。

 

1.「墓に泣きに行く」(31節)

本日の聖書は、ついに主イエスがラザロの墓を訪れ、ラザロを死の墓の中から甦らせる、という場面です。主イエスはまだ村には入らず、マルタは出迎えた所で死者の復活をめぐり主と問答を交わした後、戸惑い動揺しつつ、主イエスの問いに応えました。28節に「11:28 マルタは、こう言ってから」とは、そうした主イエスとの信仰問答を背景に、戸惑い困惑して、主の問いから逃れるように、「家に帰って」しまいます。マルタは「姉妹のマリアを呼び」とありますから、自分は主から逃れ、「これを信じるか」とする主の真剣な告知に対する応答については、マリアに委ねてしまうように見えます。わたくしたちもそうですが、いよいよ信仰問題の中心となる話題は避けがちです。こうした信仰問題の回避は、親兄弟夫婦と関係が近くなればなるほど、遠慮しがちとなることがあります。しかし主イエスは、いつものように、愛する人々の永遠の命の救いをかかっていますので、常に誠実にまっすぐに神の真理を告げ知らせるのです。伝道や牧会の難しさもここにありそうです。真剣に福音を伝えようとして、信仰問題を回避してしまう人々にどう語ればよいか、心痛める所でもあります。主イエスは、そんなマルタの信仰のためにも、やはりラザロを復活させて見せる必要をお感じになられたのではないかと思います。

さて、マルタが「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちすると、「11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。」と描かれています。マルタは、主イエスを出迎るようマリアを呼びに家に戻り、マリアは、村の人々と共に、主イエスをお迎えしたのです。主イエスに対する態度で、マルタとマリアの違うようです。主イエスにおける「神」としての真実な告知については、マルタは回避的で迎えてもてなすという人間的な対応に終始しますが、マリアはどちらかと言えば、主イエスにおける「神」と正面から向き合い、語られる真理を聞き分けようと集中してゆきます。

ついにマリアたちは、ラザロの埋葬された墓へと向かいます。31節に「11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った」とありますように、明らかに「死」を悼み悲しむ人々の感情が露わにされ、永遠の別れを嘆き悲しむ悲痛な場面が描かれます。私事で恐縮ですが、思春期の頃、母を癌で亡くし亡骸を荼毘にふす火葬場で、力が抜けて倒れてしまいました。初めて人には「死」あること、「死」の支配の恐ろしさを経験し、その深い絶望と空しさから、立つ力も生きる力も失ってしまいました。「死」と向き合うとは、喪失と絶望、その深く恐ろしい暗い淵に転落して二度と這い上がれず、死の滅びの呪いに完全に飲み込まれてしまいました。問題は、この世にある人間には「死」を乗り越えるどころか、真実な意味で死と向き合うすら出来ない、それほど「死」は人間の全てを根本から喪失させ空虚にしてしまうのです。ですから、「死」は、単に死者が死ぬだけではなく、周囲の人々の生きようとする命までも、生きる尊厳や希望までも奪い去って、絶望と敗北に飲み込んでしまうのです。ある意味で、死とは、死者本人以上に、周囲に生きる人の人格的尊厳や希望そのものまでも、根こそぎ奪い去ってゆきます。「墓に泣きに行く」マリアの姿は、そうした死による余りにも暴力的な掠奪であり、人格そのもの尊厳も希望も生きる力さえも奪い去っていたのです。

 

2.「泣き、憤り、興奮し、涙を流す」(33,34,35節)

ついに主イエスは、マリアたちと共に、ラザロの墓を訪れます。32節以下に「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、11:34 言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。11:35 イエスは涙を流された。11:36 ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。11:37 しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」と記されています。

このくだりで、特徴となる表現が二つあります。ヨハネは先ずここで死に支配されてしまった人々の絶望を描きます。マリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えます。複雑なマリアの感情がよく現われています。複雑な思いとは、一方で、主イエスが早く来て下されば、もしかしたら死なずに済んだかも知れない、という主に対する信頼と期待です。しかしその一方で、ラザロは死んでしまった、という死の現実は最早変えることは決してできない、という変更不能な死に対する無力と絶望が滲み出ており、残念無念という恨み辛みが表白されています。そうした悲痛な「死の現実」、それは死の支配に飲み尽くされた絶望であり無気力とも言えますが、それを共有するマリア、マルタ、そして弔問客も、絶望の涙に訴えています。ラザロの死の事実は、すなわち「死」は、こうした死に敗北し支配された悲惨悲痛な感情により、周囲の人々や或いは人間そのものを人格の根底から尊厳を奪い絶望させ、虚無の奴隷に貶めてしまうことです。「死」ゆえの悲痛な思いは、人々を「絶望と虚無」に転落させ、そして怒りや憎悪そして無限の恐怖となって支配してしまうのです。しかしさらに深刻な点は、死ゆえに絶望が人々を支配することは、その結果、最終的には、死に支配されたゆえの絶望は、主イエスに対する失望と不信に変わるのです。つまり日本の言葉で言えば、神も仏もあるものか、という決定な虚無となって現れます。36節以下に「11:36 ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。11:37 しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」とありますように、一方で確かに主イエスの深い愛情を好感をもって受け入れながら、しかし他方では、それほど深い愛も、死に対しては無力である、と口々にしているように読むことが出来ます。死に対する人間存在の完全な敗北と喪失がはっきりと確認されています。

もう一つ、ヨハネは、死に支配された人々の感情を描いたうえで、今度は「死」に対する主イエスご自身の感情を描いています。これはとても意味深いことではないでしょうか。「11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」と表記しています。死に支配された絶望と悲痛な涙に訴える人々を見て、主イエスも同じように「死」の支配に対して、「心に憤りを覚え興奮して」「涙を流された」と明記されています。「11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」と繰り返しており、ヨハネは徹底して主イエスの悲痛な思いを伝えています。

ここには、とても深い主イエスの「人間性」が表われ出ています。他の誰よりも、主イエスは、先ず「人の子」として、人間の生と尊厳そして深い感情の中で、生きておられたことがよく分かります。御子がマリアより人間性を受け取り受肉した、その「受肉」という出来事それ自体のうちに、人間に対する神の大きな愛と憐れみが込められているように思われます。この受肉した神が人を愛し人を慰め人に希望と力を与えるのです。教理的に言いますと、神人両性におけるキリストの「人間性」の意義と力を物語っています。言わば、人間の痛み悲しみ、特に希望や尊厳が死と滅びの恐怖の中に失われてゆくことに、「人」としての強い同感共感そして強い憤りを深く覚えています。主イエスはご自身の「人間性」の全てを尽くして、丸ごとご自身に背負い、共有し、共に生きておられるがとてもよく分かります。絶望して死の滅びに堕ちてゆく人間の悲惨は、そのまま、主イエスの人間性のうちに、そのお心とお身体全身のうちに、全て余す所なく引き受けられており、共有され、担われて

います。大事な点は、ただ単に神が人を救う、という話ではないのです。そうではなくて、神が「人間」として苦しみ捨てられ絶望して死んでゆく、その十字架の死に至るまで人間として人を救うのであります。主イエスにおける真の「神」は、主イエスにおいて真の「人間」として受肉した神であり、その神の受肉において人間は人間として慰めを受け、希望に勝利するのであります。

 

3.「その石を取りのけなさい」(39節)

そこで主イエスは動き出します。「11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。11:39 イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。」とあります。「再び憤りを覚えて」とありますので、主イエスの御心は激しい憤りとなって死の墓に向けられていることがよく伝わってきます。そこでまず主イエスは、墓の前に立ち、墓を塞ぐ巨大な石を取り除けるよう命じます。ヨハネ福音書の描き方で意味深いのは、「死の墓」に強い憤りを向ける主イエスのお姿を具体的に、言わば生々しく伝えていることです。マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」とまで言っています。腐敗し始めたラザロの死体から、腐敗臭に満ちた死臭が臭って来てあたりを包んでいます。それでも主イエスはそうした死による腐敗という現実の奥深くに入り込んでゆきます。死の本質は、人間の犯した罪の結果であり、罪の代償であります。自我欲求や欲望を餌に誘惑に負けて、神に背き神の義と恵みを投げ捨ててしまった結果、自ら招いた罪の報酬です。主イエスは、ご自身は罪を犯しておられませんが、この堕落して死と滅びに支配された悲惨な人間性全てを、ご自身のお身体の隅々において背負われ、ご自身の全身全霊において神への従順を貫き、全人類の罪を償い、神の義と命の祝福を復活のお身体において回復したのです。残虐な殺戮も醜い呪いや憎しみもその全てをご自身の人間性に引き受けて担い、十字架の死に至るまで人間であることを貫き通しました。使徒信条で「陰府にくだり」と告白しますが、死による腐敗も火で焼かれる悲痛さも、何もかも、全てご自身を開いてご自身の人間性において直かに向き合い、共に引き受け、担われるのです。このように死の腐敗臭がする死体の現実の奥深くにまで入り込んでゆくことは親兄弟でさえもできないことであり、人間には無力なことです。それでも主イエスは、死に対する激しい憤りと共に、そして何よりもラザロを思う深い愛と共感をもって、ご自身の全身全霊において、その現実を受け止め担い尽くします。

そして墓の扉を取り除けます。これはとても象徴的な表現です。主イエスは、ご自身のお身体において、固く閉ざされ何人も立ち入ることを許さない死の扉を取り除けます。言い換えれば、主イエスにおいて、固く閉ざす死の扉は解放されたことを象徴しているようにも見えます。バチカンの聖ペトロ寺院は、コンスタンティヌス帝によってペトロの遺骸の上に立てられた、と言われています。その上にミケランジェロが再建の設計をしたと言われます。墓とは、死の扉によって固く閉ざされた場から、主イエス自らが扉を取り除けて、その奥深く這いこんで、主のお身体のもとに深く扉は開かれ、主が深く介入され共におられる場となったのです。そういう意味で、墓は主の介入する場であり、主の体である教会の場となったと言えましょう。

 

4.「信じるなら、神の栄光が見られる」(40節)

主イエスは、墓の扉を取り除け、死の扉を開いた、ということにとどまりませんでした。「11:40 イエスは、『もし信じるなら神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よわたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』11:43 こう言ってから、『ラザロ出て来なさい』と大声で叫ばれた。11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって行かせなさい』と言われた。」と記して、ついに、主イエスはラザロを復活させたことを証言します。

この段落で、注目すべき所は、先ず何と言っても、「信じるなら、神の栄光が見られる」という宣言です。このみことばは二つのことを約束しています。先ず「死」は、「神の栄光の現わされる」ための場となり、呪いと絶望の場ではなくなった、ということを宣言し約束しています。しかも「神の栄光」のみわざは、信じて受け入れる「信仰」を通して、初めて人々に与えられ共有される「神の恵み」であることです。「信じる」とは、わたくしたち人間の側の主体的な決断行為でもありますが、大事な点は、信じる内容にあります。何を信じて受け入れるか、です。信じるのは、主イエスのおいて「神」が現臨し「神の国」の到来したことです。その「神の栄光」のみわざが、今ここに、主イエスにおいて現され展開していることです。神の永遠のご支配は、過去と現在と未来の全ての時を貫いて、時の中心として主イエスにおいて万物も時も支配し包み込まれるようになったのです。その主イエスにおける「神」と「神のみわざ」と「神の永遠の命」を認め受け入れ、共に「神の栄光」に即ち永遠の命の祝福に与るのです。信じるとは、そういうことです。すると、既に神の永遠の命のみわざは、今ここでこのわたしの内に、力強く実現していることが明らかにとなるのです。終末と完成回復の完全な先取りです。「神の栄光が見られる」とはそういうことでありましょう。

 

5.「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」(41節)

「11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』」と主は祈っておられます。この祈りで、少々不自然と思われるのは、元々は「願う」祈りなのに、「かなえられた」結果が表明され、同時に「感謝」がささげてられていることです。かなったのであれば願う必要はないし、願うなら感謝するの矛盾しています。実は、この祈りの「不自然さ」にこそ、主イエスのご自身の秘密が隠され、表白されています。私たち人間からすれば、「願う」、「かなう」、そして「感謝する」は、それぞれ異なる場面です。通常は「今」願い、それから「未来に」かなえられ、かなえられた結果、最後に感謝するものです。主イエスの祈りは、願うことも、かなうことも、そして感謝することも、皆一つのこととして、同時に実現しています。現在も未来もそして過去も全ての時間は、主イエスにおいて、一つに纏められ包括されており、それぞれの時の一つ一つは皆主イエスの現在において貫通されており、全ての時を主イエスは同時に支配するのです。言わば「神の栄光」のみわざは、主イエスを通して、万物の隅々にそしてあらゆる時の隅々に、染渡るように及んでいます。願いはなされ、かなえられ、感謝がささげられます。「神」は、即ち父と子と聖霊は、一体の「神」として、永遠に同一本質として、常に一致して、永遠に普遍的に万物に及んでいます。「神」は、その一致の全てを、主イエスにおいて、栄光のみわざとして現し啓示したのです。したがって時間を超越した永遠の神として、子が父に願うことは、すなわち父が子にかなえることであり、したがって子が父に感謝することでもあります。もし父と子に分裂があれば、子がいくら願っても、かなうこともあれば、かなわないこともありうることです。それゆえ感謝になるか、呪いになるか、その関係性も不安定です。しかし完全一致であれば、願っても一致ゆえにかなうのであり、感謝でもあります。

明らかに、「ラザロは復活する」という出来事は、これから実現する未来の復活ですが、この「よ、わたしの願い聞き入れてくださって感謝します」とみことばの意味の背景には、主イエスが三位一体の「神」における父と子であることを前提にしたみことばであり、祈りであります。しかしこの「神」の本質的な一致は、人々の目に見えない神の永遠の事実であり、それを主イエスにおいて「見せる」のです。主イエスにおける祈りの力とは、不思議で神秘的な魔術の力ではなくて、「神」の本質から生じる出来事であると言えましょう。それが、聖書は主イエスの奇跡として「見える」形で現わされたのです。ただ、人間の側には、表層で目に見える現象は認めることは可能でも、その本質や根源となる真相はやはり見ることも、理解することもできないのです。したがって「信仰」による外に道はありません。イエスさまが仰せになるように、やはり「信仰」を通して、触れ、出会い、体験する超越の世界なのです。「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と説明されていますように、見せて、しかもその目的はあくまでも「信じさせる」ためであります。そうしてついにラザロを復活させるのであります。

 

6.「ラザロ、出て来なさい」(43節)

主イエスは「11:43 こう言ってから、『ラザロ出て来なさい』と大声で叫ばれた。11:44 すると死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」とヨハネは証言して、主がラザロを復活させた瞬間を描いています。とても興味深い点は、主イエスがラザロを復活させるとき、「ラザロ、出て来なさい」と主が大声で叫ばれたことです。主イエスは、大声でしっかりと「ラザロ」と彼の名を呼んで、「出て来なさい」と命じています。この響き渡る大きなみことばの声を、死んで腐敗してしまったラザロは、不思議にも「ラザロ」と自分の名を呼ぶその声を聞き分けて、しっかり応答するかのように、死の墓の中から出て来たのです。前に10章で、羊飼いが羊の名を呼んで連れ出す、と言われた話を想い起します。稚拙な話になりますが、洗礼を受ける前にここを読んで不思議に思いました。死んで既に腐敗して動けないラザロは、どうして主イエスの声を聞くことができたのか、否、声を聞くどころか、自ら死の墓から出て来たのか、理解に苦しんだことを想い起します。

「復活」とは何なのか、それを考えるヒントがここにありそうです。どうして声を聞き歩いて出て来ることができたのでしょう。既に死んで腐敗してしまったザロは、腐敗はどうなったのでしょうか。先ず主イエスは11節で、ラザロの復活について予め「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言われていました。つまりラザロの「死」について「眠っている(koima,omai kekoi,mhtai)」(11節)と表現されています。しかしその直後に、弟子たちは「ただ眠りについて話されたものと思ったので」、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」(12節)と言って、主がラザロの死をどのようにお考えになっておいでか、その真意を理解することが出来ませんでした。そこで主イエスは、改めて「ラザロは死んだのだ(avpoqnh,|skw avpe,qanen)。」(14節)と言い換えています。主イエスは、既に死者となったラザロを「死から復活させる」という栄光のみわざを予告したのですが、弟子たちは「死から復活させる」主のみわざをよく理解出来なかったようです。弟子たちは「死」を「眠っている」と言われた主イエスの意図を正しく理解できなかったのです。

では、なぜ、二度と目覚めて起きることのない「死」を、わざわざ「眠っている」と言われたのでしょうか。主イエスは、既に「この病気は死で終わるものではない神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)と言われ、その上で「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く(evxupni,zw evxupni,sw 眠りから覚ます)。」(11節)と言い、さらに「あなたの兄弟は復活する(avni,sthmi VAnasth,setai)」(23節)と言い換えられています。つまり主イエスは、眠りから覚ます、倒れ横たわる者を起こして甦らせる、という「神の栄光」のみわざを行い、その復活のわざを通して、「御子の栄光」が現わされる、と予告しています。したがって、主イエスは、最初から「死」(死んだのだ:アオリスト形)を、これから示される「復活する」(未来形)という神の栄光のみわざを前提に、その光のもとで、ラザロの死を見ています。言わば、既に死んでしまったラザロの死を未来の復活から見て、今は「眠っている」と言われたようです。

復活をめぐる誤解がいくつかあります。その大きな誤解の一つは、霊魂不滅説から、死を考えようとする誤解です。魂は永遠不滅であって死んではいないが、ただ肉体だけが死んだのだ、という考え方です。教会の葬儀でも、時々こうした誤解を耳にすることもありますが、死んだら霊魂は天に昇る、という考えるのです。しかしこれは、キリスト教の復活とは似て非なる最悪の誤解です。復活は霊魂の不滅に依存するものでは全くない、ということをしっかり覚えておきたい所です。教理の伝統から言えば、「人は理性を有する霊魂と肉体から成る」(アタナシオス信条37)と規定されていますように、二元論的に霊魂と肉体を分離分割する考え方はありません。パウロは「15:44 自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです(evgei,retai sw/ma pneumatiko,n)。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(Ⅰコリント15:44)と説き、どんな場合でも「体」のもとに人は存在することを告げています。特に復活の体を「霊の体(sw/ma pneumatiko,n)」と表現して、「霊」は「体」と常に一体で分離分割不能あり、「身体」において働くのです。霊が身体において一体として働くとき、「命」となり、それは「復活」となり、永遠の命として生きる身体となるのです。エゼキエル書37章の預言でも、「霊」は「骨や肉」に深く染渡るように宿り一体となって命として働き、生きた大きな群れとなります。確かに霊と分離分割した所で、肉だけが独立して命の存在として立つことはできません。しかし「霊」は「身体」において一体となって、即ち「霊の体」として、永遠の命として復活し活性化するのです。またこの私たちの「霊の体」は、キリストとその復活の身体を根源として、与り獲得されて、与えられます。ちょうどキリストが聖霊によってマリアの胎内に宿って人間性を着たように、キリストは、聖霊の恵みと力のもとに、みことばを通して、ご自身の身体に私たちを与らせて、霊の身体となして、守り支え支配し、永遠の命の身体を「復活の身体」として与えるのです。このように、常に霊と身体(肉)との一体において、人格存在は理解されます。大事なことは、その身体が神の霊から離れてこの世に依存し支配されて朽ちるのか、神の霊に支配されて永遠の命を得て甦るか、ということでありましょう。

「死から復活させる」という神の栄光のみわざは、「死」の滅びに対して「命」に勝利する、という栄光であります。ラザロの復活は、あくまでもキリストの十字架の死における贖罪と復活を先取りして、予め表わされた主イエスの十字架と復活の予兆であり、私たちの将来を象徴的に預言する役割を担っています。ですから、先ずキリストの十字架の死により人類の罪の代償を完全に支払い尽くして、贖われるのでなければなりません。主の十字架の血に与り、罪から贖われた者が義の冠に恵まれ、命の祝福に与ります。ここで重要なことは、キリストの十字架で流された同じ血と裂かれた同じお身体に与り一体とされることです。だから贖われ義と認められ、復活の栄冠に与ることができるのです。このみことば(説教と聖餐)によるキリストの十字架と復活を心から認め、感謝と喜びをもって、また讃美と栄光をもって与るのです。そうした主の十字架と復活の栄光を前提して、それを先取りした形で、それを示すために、主イエスはラザロを復活させたのです。それは、ちょうど聖餐式も同じです。最後の晩餐は、主イエスの十字架の最後を先取りして、主は主の十字架と復活のお身体を差し出して与らせたのえす。終末に迎える未来の復活も同じです。主のご復活と再臨を先取りして、主イエスはわたしたちのためにどんな不条理や絶望の現実に支配されようと、「復活」という永遠の命の喜びのうちに飲み込まれている復活の福音をお示しになられたのではないでしょうか。

キリストにおける福音を先取りして、その勝利の福音の光に照らし出されると、死はキリストにおいて「命」のうちに飲み込まれてしまったものに見えます。新たに永遠の命を与えられることを前提すれば、だから眠っていることと同じではないか、ということになるでしょうか。ラザロの現実は、「死」がすでに支配しているので、その肉体は腐敗臭がしています。しかし主イエスにおける「神」の支配の到来においては、神の栄光のみわざの光のもとでは、同時に永遠の命に溢れて起き上がる、という新しい生が今既に生起しているのです。復活のみわざを待ち望むとは、これから引き起こされる未来の復活を今ここで既に先取りして、「死」を「眠っている」と言われたのではないかと思います。

興味深い点は、それまでのラザロの肉体と人格が再生される形で、復活して、出て来たことです。ちょうど、復活されたイエスさまが、トマスに、ご自身の釘跡や槍跡をお見せになられたように、ラザロも自分の名前をしっかりと呼ばれて、「ラザロ」というたった一人の固有な人格が再生されて与えられる形で、復活したように思われます。しかもその新しく復活した「ラザロ」という名の人物は、その固有な人格を尽くして、起き上がり、歩いて墓から出て来たようです。そのラザロの様子を「11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と記されています。ラザロは、人としての魂と肉体とをもって、しかもそれまでの個性豊かな人格として、復活しています。そこには、時間の経過も動作の経緯もその詳細は全く描かれてはいないのですが、それはまさに、主のみことばに応じて、しかも一瞬の出来事として、復活して死の墓の中から出て来たのです。主イエスは「ほどいてやって、行かせなさい」と言われますが、死と滅びの呪縛から肉体をほどいて解放し、人類が完全に「霊の体」として開放されて立ち上がる瞬間への応援であり、新しい旅路の始まりとして死の墓に勝利したせ宣言であります。

 

2022年3月20日「わたしは復活であり、命である」 磯部理一郎 牧師

 

2022.3.20 小金井西ノ台教会 受難節第3主日

 

ヨハネによる福音書講解説教42

説教 「わたしは復活であり、命である」

聖書 ダニエル書12章1~3節

ヨハネによる福音書11章17~27節

 

 

聖書

11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 

 

11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

 

説教

はじめに.

ついに主イエスと弟子たちはベタニアの村に入ります。「1:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。」(18節)と、ベタニアの村についての説明がなされています。18節の「ベタニア」(Bethania悩みの家、貧困の家の意)は、エルサレムから、ケデロンの谷を挟んで、僅か3キロメートル足らず(十五スタディオン=185mx15=2775m)で、オリーブ山の麓にある村です。マルタ、マリア、ラザロの兄弟が住む「重い皮膚病の人シモンの家」(マタイ26:6)があり、主イエスもこの家からエルサレム神殿に通い、ユダヤの伝道拠点とした村です。ついに主イエスはヨルダン川東側のベタニアから西側のベタニアに戻り、弟子たちと共にエルサレムに向かう最後の決意を固めます。

 

1.「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」(17節)

主イエスとその一行は「ラザロの死」と直面します。17節以下に「ラザロは墓に葬られて(e;conta evn tw/| mnhmei,w|))既に四日も(te,ssaraj h;dh h`me,raj)たっていた」(17節)と、はっきりとラザロの「完全なる死」が告知されています。先週「この病気は死で終わるものではない(ouvk e;stin pro.j qa,naton)。神の栄光のためであるu`pe.r th/j do,xhj tou/ qeou/)。神の子がそれによって栄光を受ける。」と弟子たちに主イエスは告げましたが、弟子たちはその死を正しく受け止めることができませんでしたので、主イエスは改めて「ラザロは死んだのだ。」とはっきりと伝えたうえで、さらに「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」(11章14, 15節)「わたしはラザロを起こしに行く(poreu,omai i[na evxupni,sw auvto,n)。」(11節)と仰せになり、葬られて既に死後4日も経過したラザロのもとに、弟子たちを伴い、向かいました。それは、完全な「死者」となったラザロの葬りであり、もはやラザロは「人格」とは呼べず、死体となった塵に過ぎない物体がそこに横たわるばかりの墓をめざしたのです。疑いえない「死」に支配されたラザロの遺骸を収めた墓に赴くことは出来ても、二度とラザロと会うことは出来ないのです。しかしそれは同時に、ついに主が意図しておられた最大の奇跡、地上における最後で最大のしるしを行う、その瞬間でもありました。人間の本質が「死」の滅びから「復活」による永遠の命に転換する瞬間であります。

父と子は同じ一つ神の本質であり、その一体の父から子に全権を委ねられて、地上に降り受肉した主イエスは、まさにこの「復活の命」を与えるという栄光のみわざを示すために、最大の天のしるしとしてラザロを復活させ、まさに「神の子がそれによって栄光を受ける」(14節)その時を迎えます。「父が死者を復活させて命をお与えになる(o` path.r evgei,rei tou.j nekrou.j kai. zw|opoiei)ように、子も、与えたいと思う者に(o` ui`o.j ou]j qe,lei)命を与える(zw|opoiei)。」(5:21)と、主イエスが以前からみ言葉によって約束した通り「復活の命」は、今ここにラザロという死者における神の栄光のみわざを行われるのです。

 

2.「兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」(19節)

「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。」(19, 20節)とありますように、ラザロの死を悼んで、ラザロの葬りのために多くの弔問客があったようです。マルタとマリアは、ラザロの葬りのために訪れた弔問客の応対に追われていました。通常はラビが取り行う葬儀は7日近く続いた、と伝えられており、マルタは、主イエスをお迎えに、そしてマリアは家で弔問の応対にあたっていたことが想像できそうです。恐らく、主イエスの弟子としての関係性から推し量りますと、律法学者のラビを呼ぶことはしていなかったのではないでしょうか。シモンとの関係から言えば、汚れた罪人の家との関わりで、やはり律法学者のラビを招くことは出来なかったかと推測されます。否、マリアもマルタも、律法学者のラビではなく、真のメシアである主イエスを最初からはっきりと求めていたに違いないと思います。どんなに多忙でも、姉のマルタらしく長女として恩師を出迎える礼節を果たしていました。

そこで、所謂「葬儀」についてですが、葬儀の目的は何か、よくよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。そこで人々に求められることとは、どのような行為であり、またどのような祈りがささげられるべきでしょうか。葬りをめぐり、主イエスはどのようにお考えになっていたかをたいへんよく示す意味深い話が、ルカによる福音書にありまます。主イエスは、主のもとに集まったある弟子の一人に対して、こんなことを言われています。「9:59 そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず父を葬りに行かせてください』と言った。9:60 イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』9:61 また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』9:62 イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」という主の教えです。ここで、是非注目したいのは、葬りの視点が大きく変わっていることです。一般の常識で言えば、葬りの中心は「死」であり「死者の葬り」です。漢字でも草の下に、即ち地中深く死者を埋め塵に返す儀式です。この死者を土の塵に返す葬りを、ましてや肉親の死の葬りを人類はこれまで全てに優先すべき祭儀と考えて来たのではないでしょうか。ある弟子は「主よ、先ず父を葬りに」と言って、厳かに父を葬る儀式を最優先にすべきと考えていたのですが、驚いたことに、主イエスは、それは後回しにして、それよりも優先すべきことは「わたしに従いなさい」、ときっぱりと命じます。その理由は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」ということであり、また「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」からだ、ということになります。優先順位が大きく変わるのです。その優先順位の転換は、視点の転換が起こっているからです。「福音」という視点、即ち主イエスにおいて「神の国は到来ている」という新しい視点に立ち直すことで、見えて来る景色は全く異なるからです。神の国とは、神の支配ですが、神の完全にご支配のうちに、しかも主イエスにおける神のご支配のうちに、既に「死者」さえも包まれているではないか、という視点を意味します。死について、使徒パウロは「15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきもの死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」(Ⅰコリント15:54~55)と告げます。主イエスにおける神の国の到来において、「死は勝利に飲み込まれてしまった」という新しい福音の視点であり、同時にまた「15:56 死のとげはであり、罪の力は律法です。」(同56節)と、罪の裁きは主イエスによる十字架の贖いにより、既に律法の支配とそれによる罪の裁きからは完全に解放されてしまった、と宣言しています。主イエスは弟子に、「死」によって拘束され支配され敗北を認める葬りから解放されて、新しい福音、神の国において与えられる永遠の命を認め、命の祝福に与り、本当の生きる道を見つめよ、とお教えになられました。そしてラザロを復活させて、新しい命の祝福の到来を示すのであります。

 

3.「わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)

間に合わずに、心でから4日以上も遅れて到着した主イエスに対して、マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(21, 22節)と言って、主イエスをお迎えしました。この言葉は、矛盾しており、錯綜したマルタの複雑な感情をよく言い表しているように思います。マルタは主イエスを迎えるとすぐに「わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ouvk a’n avpe,qanen o` avdelfo,j mou)と言って、「仮定法」を示す用語で感情を露わにし、主イエスを咎め、深い絶望と悲嘆を訴えます。しかしその後で、それでも、微かな期待を主イエスに求め、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(nu/n oi=da o[ti o[sa a’n aivth,sh| to.n qeo.n dw,sei soi o` qeo,j)と言い換えます。マルタの言葉は、一見、マルタの信仰告白のようにも読めそうですが、これは非常に曖昧な表現だと言わなければなりません。先ず「今は知っています、今だから分かります」という主文ですが、これは一定の意味をよく示しているように思われます。「今でも承知しています」「今も分かる」、と言葉では言っているのですが、いったいどんなことが分かり、知っているのか、その内容が問題です。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」と言っています。原文から申しますと、「神」には定冠詞が付けられていますので、明らかに「父なる神」であり、全能の造り主なる「神」を指していると思われます。その神にあなたが、即ち主イエスがお願いすることができる、という意味になります。ただし、願いを実現しかなえてくださるのは、主イエスご自身ではなくて、「神」なのです。ところが、主イエスはご自身からご自分のことを「エゴー・エイミ」(わたしはある)という神の名を用いて名乗り、ご自身がモーセに啓示された「神」であることを、繰り返し自己啓示しておられました。言わば、ユダヤの人々に、文字を通して律法として、言い伝えられてきた神ではなく、現実に生きて働く「神」と出会うのであるとすれば、それは、ただ独り主イエスにおいて現臨する「神」のほかにはおられない、と主イエスはいつも告げておられたはずです。少し意地悪く読めば、マルタの中で、まだ、「神」は主イエスのうちにはおられないのです。主イエスは、ただ祈り願うことは出来る、そしてそれを神は聞き入れてくださるかも知れない。主イエスと神とは、一体ではなく、まだ大きく切り離された所で理解しているようです。マルタのこの信仰告白には、まだ、そうした曖昧さが残存しています。

しかしそれでもマルタの一定の「信仰告白」として評価できる点もあります。主イエスは、祈りを通して「神」は聞き入れてくださって病気を癒していただける、そんな特別な「力」が主イエスにある、と信じていたことは確かです。だからこそ、姉妹たちは、主イエスの祈りとその特別な力に期待を寄せて、イエスのもとに人をやって「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた(11:3)と考えられます。厳密に言えば、22節で「あなたが神にお願いになる(aivth,sh| to.n qeo.n)」と「神はかなえてくださる(dw,sei soi o` qeo,j)」とは別の事柄なのです。新改訳聖書の改訂3版の訳では「神はあなたにお与えになります」となっておりますが、その方が原典に近いと思います。主イエスが求め、神がお与えになるのです。イエスの「祈りの力」が神を動かして、神が奇跡を実現される、と考えたようです。つまり「奇跡」とは、ある意味で主イエスの特別な「祈りの力」にある、と理解していたようです。それでも、主イエスの病気を治す「祈りの力」に、強い信頼を寄せていたことはよく分かります。少し難しい表現ですが、まだ彼女の信仰告白には、キリスト論がはっきりしていなかった、と言えます。救いの信仰において、この明確なキリスト告白を持つということは決定的な意味を持つのですが、マルタはまだ十分に主イエスの本質を理解するには至っていなかったのです。こうした事例は、3章のニコデモや4章のサマリアの女とよく似ているのではないでしょうか。そして主イエスとの対話を通して、その解き明かしの中で、少しずつ、主イエスにおける「神」を正しく知り、信じ受け入れることが出来るように導かれるのです。すなわち、主イエスは、その本質において、三一体の神である、と知るのです。

 

4.「あなたの兄弟は復活する」(23節)

さて、いよいよ主イエスとマルタとの問答は、復活とそれを成し遂げるメシアの到来をめぐる根本問題に発展します。主イエスが「あなたの兄弟は復活する(VAnasth,setai o` avdelfo,j sou)」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活すること存じております」と言った(23, 24節)と書かれています。主とマルタとの問答の主題は、主イエスが神にお願いをして、それを神がかなえるという脇役の次元の話から、直接主イエスがらラザロを復活させて「命を与える」主人公として、話は進んでゆきます。ここに、ヨハネ福音書の核心があります。

まず主イエスは「あなたの兄弟は復活する(VAnasth,setai o` avdelfo,j sou)」と「未来形」(avni,sthmi VAnasth,setai)でラザロの復活を告げます。欽定訳聖書は “Jesus saith unto her, Thy brother shall rise again.”と「意志未来」で訳して、主イエスの強いご意志を表しています。大事なのは、ラザロを復活させるのは、終始一貫主イエスご自身であり、主イエスのご意志です。したがって「神」のご意志は、即ち主イエスのご意志として一体なのです。そこでマルタは「終わりの日の復活の時に復活すること(o[ti avnasth,setai evn th/| avnasta,sei evn th/| evsca,th| h`me,ra|)]は存じております、と応答します。「復活」をめぐり、両者が共に共有する理解は「終末にはやがて復活はあるであろう」とする<未来形の甦り(avnasth,setai)>です。ここでの復活とは、今現在からは遠くかけ離れた曖昧な<未来への期待>に過ぎません。実はこうした世の終わりの時に、その遠い未来に、起こりうるであろうとされる「未来形の復活」は、ユダヤ人たちの間でも、ファリサイ派を初めエッセネ派、クムラン教団でも共有されていた復活の期待でありました。こうした復活信仰は、当然ながらファリサイ派も含めて、ユダヤでも共に共有し受け継いでいたと考えられます。マルタはその期待を述べたのです。ただ、ラザロは既に死んでしまったので、いつか甦るだろうという期待は絵にかいた餅に過ぎず、だれもどうしようもないことです。その意味からすれば、復活はまだ「現実の出来事」ではなくて、あくまでも架空の「未来の期待」に過ぎません。こうしたマルタの復活観には、ある致命的で決定的な問題によって、貫かれています。それは、主イエスにおいてこの未来の復活は既に現在化されて到来しており、未来も過去も主イエスの時の支配の中に包まれ統合されているのです。主イエスにおける「神の国」の到来により、主イエスにおける「神」の永遠の支配力は全ての時を支配するに至ったのです。終末時に期待される復活の出来事が、今ここで、主イエスにおいて現在化しており、すべての時を包み、すべての時間の中心となった、それがメシアの到来であるということを、まだ認められずにいたのです。主イエスにおける「神」の支配は、あらゆる時を貫いて、今この現実として、無限の愛と意志をもって万物を贖われるのです。それが「神の国」の到来なのですが、それはまだ彼女にはとても受け入れ難い現実だったのです。復活の出来事は、終末時の未来にやがて起こるであろう、とただ期待するに過ぎないことだったのです。主イエスにおける現実として今既に生起していることとしてまだ分かりませんでした。

 

5.「わたしは復活であり、命である。」(25節)

そこで主イエスは、単刀直入にマルタに告げます。「11:25『わたしは復活であり命であるわたしを信じる者は死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』11:27 マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』」と、主イエスによる復活の告知に対して、マルタは「メシアであるとわたしは信じております」と答えて、締めくくられます。この「わたしは復活であり、命である」という主のみことばには、二重の意味が込められています。一つは、「わたしはある」という言葉で、主イエスにおける「神」を自己啓示しています。主イエスご自身は、モーセに啓示したあの「神」そのものである、という「神」の啓示です。そしてもう一つは、「命」であると言われ、主イエスご自身が「命」の根源であり、その命を与える与え主であることを明らかにしています。ヨハネ福音書の冒頭の言葉で、「1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった命は人間を照らす光であった。」と讃美告白された言の命です。「言葉の内に命があった」とありますように、「言」は、命の源泉であり命の賦与者であり、万物の創造主でもあります。この「言」としての神こそ、即ち「御子」としての神が人の子として受肉したお姿こそ、主イエス・キリストの本質であります。

用語の使い方で申しますと、「わたしは復活であり、命である(VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)。」は、『わたしはある(VEgw, eivmi)』という神の名に、「復活と命(h` avna,stasij kai. h` zwh,)」を連結させた「エゴー・エイミ構文」で構成されています。「混沌」(カオス)から万物を創造し、「土の塵」(アダマ)から人間を形づくり「命の息吹」(ルーアッハ)を鼻に吹き入れ、「生きた者」(創世記2:7)として人間を創造された創造主なる「神」は、またモーセに「わたしはある」という名でご自身を啓示した「神」(出エジプト記3:14)であります。「わたしはある」は、ヘブライ語の神名「ヤハウェ」の語源ハーヤーで、それを3世紀の七十人訳聖書は「わたしはある」(VEgw, eivmi)とギリシャ語訳した言葉です。その神の名「わたしはある(VEgw, eivmi)」を主イエスは自ら名乗り、さらにご自身が「神」であることを自己啓示し、イエスという受肉した「神」として「神」の栄光のみわざを行うために、今ここに人々の前に現れたのです。まさに「神」とは、父においても、子においても、そして聖霊においても、同一の本質を共有する「神」であることを示したのです。主イエスにおける「わたしはある」神は、そのまま民の痛みを知り、降り、導き上る神として、しかも「わたしは復活であり、命である(VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)」神として、世の人々に「神の国」の到来を告知したのです。だから「命と復活」の到来であり「世の光」であり「真理」なのです。終末時に生起する未来の復活は、まさに今ここで、主イエスにおいて先取りされ現在化され既に実現した出来事として世の人々の前に差し出されたのです。つまりキリストは、命と復活を与える神であるばかりか、ご自身が「命」そのものの根源であり復活そのものであるとして、人々の救いと命に与る源泉としてご自身を差し出されるのです。

ヨハネによる福音書の特徴の一つとして、未来の終末が先取りされて現在化されている、という特徴が挙げられます。しかもその未来を先取りする現在化は、説教と聖餐のみことばにおいて、鮮明にされます。ご自身の十字架と復活によるお身体を先取りして、最後の晩餐で弟子たちに差し出される主のお姿は、聖餐式で朗読される「聖餐制定語」に見出すことができます。主の食卓において、主は弟子たちに「取って食べなさい(La,bete fa,gete)。これはわたしの体である(tou/to, evstin to. sw/ma, mou)。」(マタイ26:26)と命じられました。これから迎える十字架の死による贖罪と復活による永遠の命を、今ここに先取りして、弟子たちに主の栄光のお身体に共に与らせ、分かち与えています。またパウロの聖餐制定語では、さらに「これは、あなたがたのためのわたしの体である(Tou/to, mou, evstin to. sw/ma to. u`pe.r u`mw/n)。」と言われ、「わたしの体」は「あなたがたのための」ものであり、「あなたがた」のために制定した聖餐において共に与る主の体であることをと明らかにしています。また「これを行いなさい(tou/to poiei/te):新改訳:わたしを覚えてこれを行いなさい。塚本訳:わたしを記念するためにこのことを行ないなさい(tou/to poiei/te eivj th.n evmh.n avna,mnhsin)。」(Ⅰコリント11:24)とお命じになり、聖餐のパンと葡萄酒とは十字架と復活を先取りする主のお身体であることを明示し、ご自身のお身体をあなたがたのために与え、与ることができるように制定した恵みの座であることを明らかにします。つまりわたくしたちは、今ここで、このみことばの座において、主の十字架の死による贖罪の恵みと復活による永遠の命の恵みに与ることができるようにしてくださいました。

ここで、是非とも覚えておきたい大切な言葉は、まず主が「取って食べなさい(La,bete fa,gete)。これはわたしの体である(tou/to, evstin to. sw/ma, mou)。」(マタイ26:26)と言われ、聖餐のパンと葡萄酒において、ご自身を差し出されています。これは、主ご自身が「わたしは復活であり、命である(VEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)」と告知したご自身の命の身体であります。さらに大切なことは、「このように」と口語訳や新共同訳が誤訳していますが、先ほど触れましたように、原典は「これを(対格で「このことを」ou-toj tou/to)行え」とお命じになりました。「これを行う(tou/to poiei/te)」とは、これから経験しようとする十字架と復活のお身体を、この聖なる晩餐において主は「先取り」して、「現在」の出来事として今ここで受けるように、と主の十字架と復活のお身体を現在化した「しるし」として「パンとブドウ酒」を弟子たちに差し出し分け与えておられます。言わば「わたしを思い起す(eivj th.n evmh.n avna,mnhsin)」ただ中で、その記念想起の場において、み言葉を通して導かれた共同体は、未来に復活するという出来事とその命を、今ここに現在化され現実化された出来事として、共に与り体験するのです。決して誤解してはならないのは、聖餐は、ただ過去の過ぎ去ったことを記念して想い起す記念式典ではなく、その約束のみことばが語られ、招かれ、導かれる中で、主のお約束を「想い起す」(記念する)ことにより、終末は先取りされ、今ここに主のお身体が現在化され現臨するのです。むしろ過去・現在・未来のすべての時の中心として、そしてあらゆる場を全て包み込む中心として、全てを今ここに一つに収斂させて、ただ一度の現在のこととして、今ここに共に「覚え」て「与る」のです。したがって聖餐においては、終末未来の復活と命は、主の現臨と語られるみことばの恵みと力により、記念と想起の行為を通して、わたしたちのうちに現在化され現実化された永遠の完成の恵みとなるのです。わたくしたちの礼拝の意味と力は全て、このみことばによる終末の現在化と現実化にかかっている、と言わなければなりません。復活と命は、主が現臨し主が語られるみことばにおいて、未来形の期待は既に引き起こされる現在形の出来事として実現し、キリストご自身のみ言葉を通して、わたくしたちに差し出されるのです。

 

6.「わたしを信じる者は、死んで生きる。」(25節)

終わりに、ヨハネ福音書の中核を成すメッセージの終結部に触れておきたいと思います。主イエスはマルタに復活による永遠の命を告知し、主のみことばに対する信頼と承認を求めて、「このことを信じるか(pisteu,eij tou/to)」と、マルタの信仰を問い糾します。なぜなら「わたしを信じる者は死んで生きる(o` pisteu,wn eivj evme. ka’n avpoqa,nh| zh,setai)。生きていてわたしを信じる者はだれも(pa/j o` zw/n kai. pisteu,wn eivj evme.)、決して死ぬことはない(ouv mh. avpoqa,nh| eivj to.n aivw/na)。」(25, 26節)からです。文字通り「信じるか」と、マルタには信仰的決断がここで求められます。ヨハネのもう一つの重要な主題はこの「信仰的決断」です。主は「わたしは復活であり、命であるVEgw, eivmi h` avna,stasij kai. h` zwh,)。」(25節)とご自身を自己啓示しました。その啓示を受け入れることで、主の命はわたしたちの光となって実現します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない信じない者は既に裁かれている神の独り子の名を信じていないから」(ヨハネ3章16~18 節)です。先ほど申しましたように、終末的未来の復活と最後の審判は、主の啓示のみ言葉を通して、人々の前に、今ここに、差し出されています。それはまさに全ての時の中心に立つことになりますです。明日の約束は今、信仰による決断として、力強く先取りされて、現在化して現実の出来事となって迫ります。わたくしたちも、信仰において、永遠の喜びを今ここに生きるのです。

 

2022年3月13日「この病気は死で終わるものではない」 磯部理一郎 牧師

 

2022.3.13 小金井西ノ台教会 受難節第2主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教41

説教 「この病気は死で終わるものではない」

聖書 ダニエル書2章17~23節

ヨハネによる福音書11章1~16節

 

 

聖書

11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。11:2 このマリアは主に香油を塗り髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された

11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けばつまずくことはない。この世の光を見ているからだ。11:10 しかし、歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 

 

 

説教

はじめに. ラザロの復活

10章では、主イエスはご自身を「良い羊飼い」に、神の民を「羊」に喩えて、良い羊飼いは、羊のために命を捨てる、そして羊に命を与える(10:10,28)とお約束なさいました。11章では、主イエスは、ご自身がとても愛しておられたラザロを墓の中からよみがえらせる、という主のご生涯で最大かつ最後の奇跡を行われます。主イエスには、人々に永遠の命を与える力があること、その栄光のみわざを、このラザロの復活の奇蹟を通して、現します。神のメシアである主イエスの栄光のみわざは、十字架の死において人々の罪をご自身の命の代価を支払って贖い、人々を復活させ永遠の命を与えることです。その栄光のわざを、ご自身における十字架の死と復活によって現すのですが、そのご自身における栄光のわざの予兆として、ラザロを死の墓の中から復活させて見せるのです。

主イエスと永遠の命の関係について言えば、ヨハネによる福音書の冒頭で「1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と讃美告白されておりましたように、先在の言(ロゴス)であり、神の御子である主イエスのうちに永遠で根源的な命はあります。ヨハネによる福音書の中心テーマは、この御子における命が御子を信じることにより、信じる者に分け与えられる(ヨハネ3:15,16,36,5:24,26,40,6:27,35,40,47,48,51,53,54,68,10:28,11:25,14:6,17:2,3,20:31)ということにあります。これは、聖書の基本原理ですが、「命」とは、そもそも「神」のうちにその源泉を有しており、神から創造の恵みとして、神から分け与えられる神の賜物であります。単純な基本原理ですが、それでも、私たち人間にはきちんと受け止められないことでもあります。わたしたちはいつも親子兄弟などの家族の命を心にかけて心配し、無事を祈ります。しかし決定的な点は、そのすべての命は皆、神のものである、という点です。神から戴くことで命は実現しているのです。自分たちのものではないのです。そうであれば、神を受け入れ、神の命の恵みへの感謝こそ、生活の中心になるはずです。しかし残念ながら、そのために神を礼拝し神に感謝する人は余りにも少ないのです。家族の命を思うと言いながら、神からの命ではなく、自分の手の中の命ばかりを考えてしまうのです。元々、命は御子のうちにあり、御子はそれを信じる者に永遠の命として与えることが出来る、と主イエスは啓示します。ラザロの復活は、それをしるしとして証明して見せるために行われます。

 

1.登場人物、マリア(1~3節)

さて11章には、マリア、その姉妹マルタ、そしてその兄弟ラザロという三人の兄弟姉妹が登場します。先ずマリアという人物についてご紹介しますと、マリアとマルタは、この11~12章以外でルカによる福音書10章に、その名前が挙げらるだけです。ベタニヤ近くにある墓から、マリア,マルタ,ラザロの名が記されたものが発見された、という話を聞きます。この家族について詳細情報は殆どありませんが、ヨハネによれば、主イエスは彼らをとても深くいつくしんでいたことが記されています(3,5,36節)。

マリア(Maria, Mariam)という名は、ギリシヤ語で「マリア、マリアム」と言われますが、ヘブライ語では「ミルヤーム」で、そのギリシヤ語音訳音写になります。アラマイ語方言では「マルヤーム」となりますでしょうか。旧約聖書の出エジプト記の記述によれば「15:20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。15:21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。」とあります。モーセの姉ミリアム(出15:20‐21,民12:1,ミカ6:4)に由来する、と考えらえます。新約聖書には、マリアという名の人物は六人登場しますが、ここに登場するマリアは「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身」とありますから「ベタニヤのマリア」ということになります。ベタニヤは、エルサレムから約3キロほどの所で、オリーブ山の東南の斜面にある村と考えらえます。ベタニヤのマリヤは、姉のマルタと兄弟のラザロと共に、このオリーブ山の斜面の村で暮らしていたようです。主イエスとの出会いは、主イエスがユダヤ伝道の折りにこの村を訪れ、一家と親しく交わるようになり親交を深めたのではないか、と考えられます(ヨハネ11:5)。主イエスは、神殿に詣でる際に、彼らをしばしば訪ね、その家で食卓を囲みみことばを語られたようです。その際、マリヤはイエスの足もとに座り、主のみことばに聞き入りますが、姉マルタはイエスのもてなしのために忙しく働きます。主イエスの宣教は、いつも罪人と共に食卓を囲み、み言葉を語りましたので、食卓のために忙しく働くことはとても意味ある奉仕でしたが、マルタは自分だけが準備で忙しくしている、と不満を主イエスに訴えますが、主イエスは、マリアの行為は最も意義あるとしてマリアを妨げてはならない、と諭します(ルカ10:41~42)。来週触れますが、ラザロを復活させる奇跡を主イエスは行われます(11:1~46)。その時「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と告げています。言わば、主イエスがラザロを復活させる出来事につなげる役割を果たしています。最もマリアらしい行動は、イエスの最後の過越の祭の準備の時のことです。マリアは300デナリもする高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、涙と共に、自分の髪の毛でぬぐったことが記されています(12:1~8)。こうしたマリアの行為は、イスカリオテのユダなどは、浪費で愚かな行為として、非難しますが、主イエスはかえって彼女の愛の行為を感謝するばかりか、葬りの備えとした彼女の信仰を高く評価しています。(マタイ26:10,マルコ14:6)。

 

2.マルタとラザロ

マルタ(Martha)は「婦人」を意味するアラマイ語から派生した名前のようです。新約聖書では、ルカ10:38~41,ヨハネ11:1,5,19~39,12:2に登場します。先ほどの、イエスの死の準備に香油を注いだマリア(ヨハネ12:3)の姉として、そして主イエスが死人のうちからよみがえらせたラザロの姉として登場します。マタイによる福音書やによれば「26:6イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」とあり、またマルコによる福音書によれば「14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来てそれを壊し香油をイエスの頭に注ぎかけた。」とありますように、この香油を注いだ女がマリアであれば、「思い皮膚病の人シモン」の家にいたとする一人の女とは、マリアでありその姉がマルタ、或いはラザロもいた可能性もありうることではないか、と推測されます。つまりマリア、マルタ、ラザロは、重い皮膚病のシモンの家の家族または関係者であったと思われます。言い換えれば、深刻な汚れた罪人と断罪された人物の家族関係者であることが分かります。したがって、やはり主イエスは、罪人のもとに自ら訪れ、罪人を招き、罪人と共に食卓を分かち合い、みことばを語る、という宣教活動を常としていたようです。その宣教活動のただ中で、同じ罪人の家族であるラザロを主イエスは復活させて、新しい命に罪人を招くのであります。

ラザロという名の人物も、聖書には複数登場しますが、ここでは「ベタニヤのラザロ」です。主イエスの親しい友人であり、マルタとマリヤ(ルカ10:38~42)の兄弟です。そして場合によっては、重い皮膚病のシモンの関係者と言えましょう。それ以上の記述はありません。ただ、ここで、ラザロは、その性格や人間性に何か特別な意義があるからというのではなく、ラザロの役割は、あの生まれつき目が見えなかった人が目を開けられた人と全く同じように、神の栄光のみわざが主イエスによって行われる「栄光の場」として、象徴的に登場している点にあります。そうした主の栄光が現れる場としての役割を担っているように思われます。

 

3.「この病気は死で終わるものではない」(4節)

人物紹介はこれまでといたしまして、早速本論に入りますと、ラザロ復活の発端として、ラザロの病気が姉妹から主イエスのもとに伝えられます。ヨハネは「その兄弟ラザロが病気であった。11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。11:4 イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」と記しています。

この対話の中には、病気に対する一つの重要な見方が示されています。この味方はとても信仰生活には重要な考え方です。しかしそれと同時に、私たち人間の感情からすれば、非常に驚くべき考え方でもありますから、ある意味で躓きのもとにもなりそうです。信仰とは、どんなことでもそうですが、信じる者には福音であっても、正しく信じられない者には、いつも躓きとなります。主イエスはラザロの病気について「病気は死で終わるものではない(ouvk e;stin pro.j qa,naton)」と断言しました。直訳すれば、死に至るものではない、となります。つまり「死」に至らしめる「病気」などはなく、病気は「死」に至らしめるものではない、ということでしょうか。或いは、今や、病気は「死」に至らしめるものではなくなった、ということを意味するのでしょうか。場合によっては、今や、「死」はなくなったのだ、それゆえ、病気さえも恐れることはないのだ、という意味にもとれます。今、わたしたちは、非常に難しい感染症で苦しめられております。人類の歴史は、病気との闘いでもありました。誠に悲しいことですが、多くの犠牲者を出してきました。誰もが心を深く痛めるばかりか、いつかは自分も感染したら、と非常に恐れています。わたくしも母の病死が人生を変えました。そうした病いに対する恐れや痛み悲しみこそ、わたしたち人間に共通する感情であります。だからこそ「11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた」とありますように、早急な癒しを主に求めたはずです。先ほども紹介しましたが、後に間に合わずに死んでしまったラザロの悲しみとその無念さから、「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたらわたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った」のです。死んでしまった者は、もう二度と生き返ることはない。それが「死」であります。しかし主イエスは、病気は「死」をもたらしはしない、と言い切っています。では病気による死とは何なのでしょうか。主イエスは「死」を二重に見ているのでしょうか。一つは、完全な死滅や永遠の滅びという根源や本質における死と、時間の中で現象として生じる死の状態とを区別して見ておられるのでしょうか。11節で「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言われています。用語では「眠ってしまっている」(koima,omai kekoi,mhtai)という現実として完了形で表し、だから「眠りから呼び覚ます」(evxupni,zw evxupni,sw)と仮定法過去(アオリスト)で表しています。

したがって、ここには明確な「ある視点」に立って病気を見つめる主イエスのお姿が見えて来ます。ある特別な視点から、「死」を見つめている、と言ってもよいでありましょう。それは、主イエス・キリストご自身による視点から見えて来る、「死」の本質であります。主イエス・キリストにおいて「神」の到来を認めて受け入れた信仰の視点から見れば、「死」の本質は「眠ること」であり、確かに病気によって眠らされてしまったが、「死」という終焉を滅びとして迎えているわけではない、というのであります。したがって、病気が死に誘い至らしめるそのただ中に、福音の光が射し込んでいると言えましょう。なぜなら、そこに、主イエスにおける「神」の現臨は、直ちに「神の国」(神の支配)の到来を意味するからです。神の永遠のご支配が病気の中に介入されるからであります。主イエスにおける「神」のみわざは、主イエスによる十字架と復活のみわざであり、それこそが、まさに「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受ける」場となるからであります。主イエスにおいて真実に生きて働く「神」は、今この地上に到来し、このわたしたちの生活の隅々に降り、主イエスの十字架と復活において、永遠の命はこの地上に突き刺さるように介入したのです。その明確の視点に立つとき、はじめて病気は決して死で終わるものではない、否、死そのものに勝利するという希望の光が、病気という悲惨な闇に光射すのです。

 

4.「夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

主イエスは弟子たちに「昼のうちに歩けばつまずくことはない。この世の光を見ているからだ。11:10 しかし、歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」と教えています。「昼」には「光」があり、「夜」とは暗闇の象徴ですが、暗闇は「光」を失った不信仰を意味します。つまり「光」とは、主イエスご自身であり主ご自身が現臨して今ここにおられること、そして主イエスにおいて現臨する神を信じる信仰であります。この光すなわち信仰こそ、世界のすべての現象とその真相を見分ける明確な「視点」となります。明確な信仰という視点をもって、キリストにおける「神」の到来という光のもとで照らし出される世界の真相を見分けるのです。「その人の内に光がない」とは、キリストにおける神のご支配を福音として信じ受け入れることができない不信仰を言い表したのでありましょう。主イエスの十字架と復活を通して与えられる神の恵みから見れば、病気は、確かに悲痛な現実であることは変わりはありませんが、そこでもう一つの真実が、すなわちキリストを通して到来する「神の支配」という光の介入です。病気に苦しみ悶えつつも、わたしたちは「神」と共に病気と向き合い、そして病気を乗り越えて、死に勝利するのです。こうして病気は、わたしたちを永遠の死へと至らしめるものではない、という真実を知ります。病気は痛ましい病気のままであり続けることはなく、キリストの十字架と復活を通して、「神の栄光」が現れる場となり、私たち自身からすれば、だからこそ、その希望の光のもとで、神の栄光を現わす場として積極的に受け止め直すことができるようになるのではないでしょうか。苦しみも悲しみも、確かに痛み悲しみの現実は変わりませんが、キリストの十字架と復活を通して働く神の栄光のみわざを知れば、それは敗北と絶望の場ではなく、その痛み苦しみの場こそ、希望に生きる場であり、本当の意味で命に勝利する場となるのではないでしょうか。ようやくホスピス病棟が我が国でも受け入れられるようになりましたが、それはただ医療の敗北から仕方なく容認せざるを得ない、というのであってはならないと思います。むしろ永遠の命に向かう尊厳と希望に溢れた、言わば本当の意味で生き抜こうとする過程であり場であります。したがって、ホスピス病棟を根底から支えるものは、主イエスにおける「神」の到来と現臨であり、主の十字架と復活を通して実現した贖罪と復活の恵みであり、その信仰であります。

 

5.

主イエスが「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と仰せになり、一行はベタニアに向かって出発するのですが、それに対して、弟子たちは根本的な誤解をしてしまうのです。12節以下に「11:12 弟子たちは、『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう』と言った。11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。」と記されています。主のみことばを誤解した弟子たちには、「死」という究極的なその本質はおろか、ラザロが実際に死んだ、ということさえ、誤解しており、ただしく受け止められてはいなかったです。「11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。』」と改めて、主イエスは現実のこととしてラザロの死を告げ直して、本当の意味で、ラザロを死から復活させる出来事を暗示します。しかしそれでも、「11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った。」とありますように、死と復活の意味はさらに二重に誤解されてしまいました。しかし、これがわたくしたち人間の実情でありましょう。主イエスのみことばをその場で正しく聞き分け理解することは至難と言わなければなりません。この福音書を書き記したヨハネ自身もそうだったと思われます。だからこそ、ヨハネは死の直前まで、繰り返し繰り返し主の言われた言葉、主のなされたみわざを反芻するように、想起しつつ、その意味を問い続け、ようやくこの福音書を書くに至ったのでありましょう。

以前にも少し触れましたが、「牧会」の目的は「信仰」の助けとなることにありますが、その本質を言えば、キリストご自身の御声そのものが、羊の名を呼び、羊を連れ出して、天国の門を通り抜けて、永遠の命の囲いの中に導くこと、それが牧会の本質です。したがって、ひとりひとりが、羊飼いである主イエスのみことばの声を聞き分ける、その一点に牧会は生じるのではないでしょうか。この場面での弟子たちは、まだ羊飼いの御声を正しく聞き分ける段階には至らなかったようです。わたくしたちも同じで、長い牧会という信仰の旅と訓練の中で、絶えず自分の名前を呼ばれ、引き戻され連れ出されつつ、門を通り抜けてゆくことになります。

 

2022年3月6日「わたしは永遠の命を与える」 磯部理一郎 牧師

 

2022.3.6 小金井西ノ台教会 受難節第1主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教40

説教 「わたしは永遠の命を与える」

聖書 詩編23編1~6節

ヨハネによる福音書10章22~42節

 

 

聖書

10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。

 

10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」

 

10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。10:32 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」10:33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは人間なのに自分を神としているからだ。」10:34 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。10:35 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。10:36 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。10:37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられわたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」10:39 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

 

10:40 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。10:41 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」10:42 そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 

 

説教

はじめに. 主イエスは、ご自身における「神」を、自己啓示した

我慢ができなくなったユダヤ人たちは、神殿で主イエスを見つけ出して、「あなたは、人間なのに、自分を神としている」(34節)と言って、問い詰めます。聖書はその様子を「10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。』」と伝えています。神殿奉献記念祭とは、ペルシャ王クロスの帰国許可によりバビロン捕囚(前586~539年)からエルサレム帰還を許された人々は、直ちに「律法」の編纂と「神殿」の再建にとりかかり、紀元前520年には神殿再建を果たします。その神殿奉献式について、エズラ記は「6:16 イスラエルの人々、祭司、レビ人、残りの捕囚の子らは、喜び祝いつつその神殿の奉献を行った。6:17 この神殿の奉献のために雄牛百頭、雄羊二百匹、小羊四百匹をささげ、また全イスラエルのために贖罪の献げ物としてイスラエルの部族の数に従って雄山羊十二匹をささげた。6:18 そしてモーセの書に書き記されているとおり、エルサレムにおける神への奉仕のために、祭司たちをその担当の務めによって、レビ人をその組分けによって任務に就かせた。」と記しています。神殿の至聖所には十戒を記した石板二枚を収めた契約の箱が設置され、そこに神が現臨され、ユダヤの人々を「神の民」とする契約締結がなされる場でありました。神殿は、神が生きて臨在し働く場で、祭司たちは犠牲祭儀を繰り返し執り行い、神の民として新たな契約更新がなされました。神殿は、祭司による犠牲祭儀を通して神と民との契約更新がなされる、言わば、ユダヤ共同体存立の原点であり、要となる場と言えます。

しかしそうした荘厳な犠牲祭儀が祭司たちによって神殿で行われる一方で、これは実に皮肉な話ですが、その同じで神殿において、主イエスは、ご自身こそ生きて働く神の神殿である、と説いて、ご自身を民のための贖罪の犠牲の神の小羊として血を流されるのです。実際に、十字架における贖罪の犠牲により、民を罪から贖い、神の新しい命の祝福を齎します。律法に基づく神殿での犠牲祭儀が、これほどまでに権威ある宗教儀礼として守り抜かれている反面、実際の現実に生きて働く神からは、余りにも遠く離れてしまっていたのです。唯一真実で意味ある犠牲祭儀は、人間の手による権威主義的宗教儀礼にではなく、生ける神の御子である主イエスのお身体において実現するからです。

何度もお伝えした通り、主イエスは「エゴー・エイミ(わたしはある/わたしは…である)」とご自身を名乗りました。これは、紀元前1250年頃に遡りますが、「神」がモーセにご自身を「わたしはあるハイヤーエゴー・エイミ)」(出エジプト記3章14節)と自己啓示した神の名です。「わたしはある」(ハーヤー)は、神「ヤハウェ」の語源であり、神の自己啓示を象徴する神の名ですが、その伝統にしたがって、主イエスはご自身こそ「わたしはある」神であり、アブラハムが生まれる遥か前から、永遠に存在していた、と自己啓示したのです。主イエスは、徹頭徹尾首尾一貫して、ご自身における「神」の本性を啓示します。6:48「わたしはある [命のパン] (evgw, eivmi o` a;rtoj th/j zwh/j)。」、8:12「わたしはある [世の光]  (VEgw, eivmi to. fw/j tou/ ko,smou)」、9:5「わたしはある [世の光] (fw/j eivmi tou/ ko,smou))」、10:7「わたしはある [羊の] (evgw, eivmi h` qu,ra tw/n proba,twn)」、10:9「わたしはある [門] (evgw, eivmi h` qu,ra)」、14:6「わたしはある [道] [真理] [命] (VEgw, eivmi h` o`do.j kai. h` avlh,qeia kai. h` zwh,\)わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」、15:1「わたしはある [まことのぶどうの木] (VEgw, eivmi h` a;mpeloj h` avlhqinh,)」、15:4「わたしはある [ぶどうの木] (evgw, eivmi h` a;mpeloj)」というように、主イエスは、「わたしはある(エゴー・エイミ)」(出エジプト3章14節)という神であることを自己啓示しつつ、しかもその神名「エゴー・エイミ」の直後に並列して、メシアとしての働きを象徴する「光」「命」「パン」「道」「門」「羊飼い」「ブドウの木」を加え、ご自身のお姿を言い表します。この一連の自己啓示を、ユダヤ人たちは「神の冒涜」だと言って、断罪し、激しく敵視したのです。

 

1.「イエスを殺そうとする」(31節)ユダヤ人たち

それゆえ「5:18ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで御自身を神と等しい者とされたからである。8:59ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。10:39ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。」と繰り返し記されます。

こうしたユダヤ人たちの敵意の源は、明らかに「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは人間なのに自分を神としているからだ。」(33節)と明記されています。一層深刻な問題の所在は、どうしてもユダヤ人たちには主イエスにおける「神」(エゴー・エイミ)を認めることが出来ない、という無理解と誤解、不信仰から生じていることです。その不信仰と無理解が原因となって、憎悪や敵意を引き起こして「殺そうとする」所にまで、彼らを駆り立ててしまうのです。「不信仰」は益々彼らを「神殺し」へと追い詰めてゆきます。とても悲しいことですが、ユダヤ人たちは、律法という聖書を命がけで守り続けていたのに、イエスは神のメシアである認められない分からない聞き分けられない悟れないために、神の御子である主イエスを殺そうとします。主イエスが言われる通り「わたしの声を聞き分ける」ことが出来ないがゆえに、「10:25わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」のです。その結果、ユダヤ人たちは、その不信仰ゆえに、主イエスを「冒涜者」と誤認し、主イエスを憎み、主イエスを殺そうします。神の正義は、このように人間の不信仰において激しく逆転変質して真実の神を失い、十字架という極刑によって抹殺してしまうのです。愛国心は、無理解ゆえに変質すると、他国の人々を虐殺する正義に変貌するどころか、愛する母国をも破壊してしまうように、ユダヤの信仰熱心は、誤解と変質の中で、神までも殺してしまう深刻な冒涜へと変貌するのです。悲しいと同時に、何と恐ろしいことでしょうか。正しい信仰と謙遜が失われると、敵視や憎しみは嵐のように人々を虜にしてしまうのです。

 

2.「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」(26節)

こうしたユダヤ人の「不信仰」という根本は、そもそも、律法の中に書かれた神は認めても、実際に主イエスのうちに働く「生きた神」を認め受け入れることが出来ない、という不信仰にあり、非常に事態は複雑です。真実に生きて働く神を排除してしまう不信仰を生み出した背景には、やはり宗教的権威主義や権力支配に対する強い欲求が働いており、それが信仰の目を曇らせ歪めてしまったようです。それでも主イエスは諦めずにこう諭します。「10:26 しかし、あなたたちは信じないわたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである」。生きて働く神を正しく見分け、神の言葉を正しく聞き分けなさい、と教えます。主イエスの態度は一貫して真っすぐに神の真理を証し啓示し続けます。これ以上変えようもない、他に言いようもない、それが啓示の言葉です。神の真理は神の真理であって、それを人間がどんな感情で受け止めようと、足すことも引くこともなく、そのまま、歪めず伝える外にないのです。それが神の啓示の本質であり、神の言葉を語るとはそういうことでありましょう。教会の宣教の在り方もそうあるべきでありましょう。

この26~30節は、主イエスの最後の説教の結びですが、ユダヤ人が主イエスを神を冒涜する者だと非難する、その非難に対しての最終弁論です。ここで、主イエスは、どうしても取りあげなければならない重大問題に言及します。それは「信仰」の源泉について、つまり「信仰」はいったいどこから来るのか?という根源的な問題です。なぜユダヤ人たちはキリストを信じなかったのか?という問いです。少し極端な表現ですが、聖書を読み教会に通う環境さえあれば、必ず誰も皆「主イエスを信じる」ようになれるのか?という根本問題です。主イエスは、はっきりと、ユダヤ人たちに「10:26 しかし、あなたたちは信じないわたしの羊ではないからである。」と断言します。ユダヤ人たちは、最初から主イエスの羊ではなかった、だから信じないのだ、と言っているように聞こえます。他方「わたしの羊は、わたしの声を聞き分けるわたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」と告げます。とても意味深長な言い方です。不信仰の原因は、ユダヤ人にあるが、しかしその根元をさらに問えば、それは「神の定め」にあるからだ、と読めそうな箇所です。

この27~30節のみことばは、信仰の源泉について、二つのことに言及しています。一つは、27節「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とありますので、主イエスを受け入れる信仰は、羊自身の主体的な選択と決断から、生じると考えられます。つまり信仰は羊側の責任です。もう一つの意味深い表現は、「わたしの羊」は元々「わたしの父がわたしにくださったもの」(29節)と言われ、父が子にお与えになったがゆえに、「わたしの羊」となり、したがってわたしの羊であるから「わたしの声を聞き分ける」ことができる。つまり、信仰の源泉は、羊自身の主体的な選択と決断の前に、既に「わたしの羊」であり、「父が子にお与えになったもの」である、という神の決定に基づくことである、ということになります。言わば、父なる神による永遠の選びの決定です。しかも、この神による永遠の選びの決定は、10節「わたしと父とは一つである」とありますように、父も子も共に「神」という本質は一つであるので、父子共に一致した永遠不変の決定である、ということになります。これは、ヨハネによる福音書の「予定」論と言えます。つまり、ヨハネは、一方で羊における主体的実存的選択を言い、しかしその前提に、三一の神による永遠の選びが現存する、というわけです。この父なる神が子なる神へと与えられた羊だけが、子なる神の御声を聞き分け、羊飼いに連れ出されて、天国の門を通り抜け遠の命の囲いの中に至るということになります。

このみことばから、羊による信仰の源泉となる「わたしの声を聞き分ける」行為の前提に、神の見えざる御手が見えて来ます。それは「羊」という存在の決定は「父が子に与えたもの」であり、しかも「父と子は一つである」がゆえに、「羊」という本性は父と子によって決定づけられており、そのおかげで、永遠の命を与えられる、というのです。「父が子に与えたもの」、それが羊の本質だからです。であるがゆえに、父が子に与えた羊は、子の声を聞き分ける、子に従いついてゆくことが出来る、というのです。言い換えれば、羊が主イエスのみ声を聞き分けついてゆくのは、最初から「父が子に与えられたもの」「父がわたしにくださったもの」だからだ、という意味になります。それゆえ羊の信仰的決断は、元々羊自身にあるのですが、その決断を可能している根拠は、父が子に与えたもの」だから、子は羊として導き羊は子について行くのだ、と読めます。明らかにこれは、一種のヨハネによる「予定」論が展開されているのではないかと思われます。神の永遠の選びと切り離した所で、羊の信仰的決断はあり得ない、ということになり、羊が御声を聞き分けついて行くことが出来るのは、羊が御声を聞き分ける前に、すなわち「信仰」を決断する前に、既にその前提となる「神の選び」があった、ということになりそうです。信仰は、その「結果」であり、その「追認行為」にすぎず、それ以上でもそれ以下でもないと言えましょう。

 

3.「わたしと父とは一つである」(30節)

「10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」と告げ、ついに「羊」の本質を明らかにします。羊とは、父が子である主イエスに元々与えられていたものである、予定論的な意味で、羊の本質が表明されます。そしてこの「わたしの父がわたしにくださった」ものにおいて、「わたしと父は一つである」から、完全に一致している、と宣言して終わります。羊が羊として選ばれる根源に、「父が子に与えられたもの」であるという前提があります。それは「父とわたしは一つである」という「神の本質」基づく選びであり、神の永遠の選びとなります。「神」という同一の本質を共有する「父」と「子」の共同の、永遠に一致した愛と決断のもとに、羊は主イエスのもとに与えられている、ということなります。

見落としてはならないとても重要なことが一つあります。それは「永遠」における父と子の一致した愛と決断です。「神」の本質において一致した永遠不変のご計画がある、と言ってもよいかもしれません。この神の救いのご計画という大きな枠組みの中に、神の選びは備えられ与えられていることになります。三一論的本質とその一致から神の選びは設定されているということになります。言い換えますと、神の人類救済の中心点は、言うまでもなく、御子イエス・キリストの十字架における死の贖罪と永遠の命の復活にあります。したがって「選び」の中心もまた、この主イエスの十字架と復活に深く参与し収斂されているのではないでしょうか。そして人類救済の中核を成す主イエスの十字架は、永遠の「神」の本質によって貫かれ担われていますが、それと同時に、この世における時の中心となる受肉した「人の子」の犠牲として実現しています。主の十字架における死の贖罪と罪の赦しは、神の選びの実現完成の場であり、同時にまた、この世の時間の中で、人間のうちに生じる永遠の選びが「応答」として実現する場でもあります。十字架という永遠と時が重なり合う中心において、永遠神の選びと人間にうちに生起する信仰的決断は、永遠と時間という全く異質な概念の二次元が二重に重複し同時進行してゆくのです。一方で、神の永遠の選びが実現し、他方で、この世における人間の応答行為としての信仰による選びが実現しているからです。

主イエスにおいて、永遠の「神の御子」が、同時に、この世に受肉した「人の子」として、十字架と復活の栄光は実現しており、この時点において、永遠の神の神の選びの一致は今この「時間」の中に突入し実現しており、人間のうちに生まれる信仰的決断は、十字架ゆえに十字架の前に立つからこそ、その応答として引き起こされる決断であります。永遠の神の選びは時間に覆われており、それは信仰的決断のうちに現れつつも、やはり隠されたままであります。終末論的に言えば、神の救いの出来事は神の側の事実として完全ですが、この世の側の現実としては覆われ隠されており、未完成のようにしか見えないのです。言わば、永遠の選びは、時間の中では、羊において先取りされ現れされた、と言えるかも知れません。神において永遠に羊として選ばれた者は、今この時間の中で、御声を聞き分ける、という信仰的決断として先取りされて現れ、隠されつつも永遠の選びを現わすことになります。言い換えれば、主イエスを受け入れるという信仰的決断は、時間の中のことであり、終末以前のことですが、既に終末を超え時間を乗り越えて、御声を聞き分ける信仰においては、永遠の命に至る領域に及んでいるのです。なぜならこの世に受肉した主イエスは、同時にまた永遠の神であり父と一つであり、神という本質的一致によって貫徹されるからです。こう理解しますと、神の「永遠」の羊としての選びは、主イエスにおける「今」の羊の選びと一つにつながっていることになります。強いて言えば、こうした永遠の神の選びの予定は、本来、三一の神という本質を一つにする父と受肉のイエスの関係そのものから生じていると言えます。

 

4.「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」(38節)

主イエスは最後に、「10:37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられわたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」と告げて、その場を去ります。残念ながら、結局、ユダヤ人たちは主イエスを認め受け入れることが出来ないのです。しかし、主イエスを認められなくても、神は認めるはずなので、神が、どこでどのように、どんなみわざを行われるのか、それだけは目を離さずに見ていなさい、と諭しているように思われます。その神のみわざ、しるしによって、真理を悟ることができるようになるはずだ、と猶予を与えた、とも受け取れます。いわば、ユダヤ人の信仰を先送りした発言として聞くことも出来そうです。実際に、ユダヤ人たちの間に対立が生じて、主イエスを「神」と認めて、主イエスのみことばを聴き分け、受け入れて従う人々と、反対に、律法違反を口実に、主イエスを殺してしまおうとする背きの人々とに分裂してゆきます。本来、ユダヤの人々は、アブラハムの子孫として「神の祝福」に入れられ、モーセの律法のもとに「神の民」として選ばれていたはずです。厳密に言えば、永遠の選びの恵みに与っているはずです。歴史的に重大な神の選びの中にありながら、律法を守るために聖書を学び続けるユダヤの人々の中に、どうしてこのような「背きと躓き」が生じるのでしょうか。ユダヤ人たちの選びは無効になったしまったからでしょうか。

こうした神の選びの中で、最も苦悩した人物がパウロではないでしょうか。パウロは『ローマの信徒への手紙』で悲痛な思いを露わにしつつ、こう述べます。「11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせその幾人かでも救いたいのです。11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」と述べて、実は、異邦人の選びのために、ユダヤ人が選ばれたのだ、と説明しています。ヨハネの言葉で言えば、「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と言及されていた、あの「この囲いに入っていないほかの羊」と呼ばれる人々のことです。ここで主イエスが説教をしている相手は皆ユダヤ人です。主イエスの十字架に立ち会うのも、その当事者はユダヤ人です。しかしそのために、12使徒が立てられ、ついにはパウロも使徒として立てられ、異邦人を導くことになります。したがって、神の深いと愛と憐れみそしてその豊かな配慮からすれば、永遠の選びは、決して「切り捨てる」取捨選択の選びではなくて、その反対の「すべてのために活かし用いる」選びであったことが分かります。パウロの言葉で言えば「世界の和解」に至るための選びであります。そのために先ず、神の御子であるキリストご自身が自ら犠牲となります。主イエスの十字架と復活において、ユダヤ人も異邦人も、その区別差別はなく、すべての人々は神の愛のうちに選び取られ、救い獲られています。

 

5.「人格」としての人間の完成は、「信仰」において、実現する

ただし、不信仰の問題は、その神の救いと選びを認めて、自分のうちに生きた働く真の神を受け入れることが出来ないことです。文字の神を知る次元と、生きて働く神と共に生きる次元は、全く異なる次元ではないでしょうか。神に背き続ける「不信仰」は、滅びるまで「人格」の中枢において、根源から問題にされて、問われ、裁かれ続けるからです。すでに選ばれているはずなのに、どうして「背き」を続けるのか、ということになります。やはり「悔い改め」が求められます。パウロは同じ『ローマの信徒への手紙』で「3:21 ところが今や律法とは関係なくしかも律法と預言者によって立証されて神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。3:25 神はこのキリストを立てその血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ3:21~25)と教えています。ここで注目すべき点は、明らかに「律法とは関係なくしかも律法と預言者によって立証された」と述べています。確かに旧約聖書の律法や預言を通して与えられる選びと救いは、キリストによって与えられる救いとは、その本質においては、違いはないのですが、今は新たに「キリストを信じる」信仰において、律法とは無関係に、あるいは律法を越えて、神の義が啓示された、と述べています。したがって、「3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。3:25 神はこのキリストを立てその血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」とパウロが説くように、「律法」によって選ばれる道と、「信仰」によって選ばれる道を告げます。律法を遵守するユダヤ人の律法主義を想定しつつも、律法を遵守できない「罪人」や「異邦人」にまで、選びの対象を拡大させて、律法を通して選ぶ道ではなく、キリストの恵みを信じる道を通して選びを受ける恵みを、すなわち「わたしの声を聞き分け」、キリストの福音を受け入れる信仰の道を教えています。「律法を守る」選びと「キリストを信じる」選びは、選びの本質は同じですが、今や「信仰」による選びが新たに示され、後に「旧約」聖書に対して「新約」聖書が位置付けられるようになったと言えましょう。律法を守ることによる選びと、キリストを信じる信仰による選び、その決定的な分岐点は、言うまでもなく、主イエス・キリストの十字架における死の贖罪と復活における永遠の命が、人類の前に差し出されたことです。

だからこそ、主イエスは、このキリストの十字架による永遠の神の選びと愛を証言し伝えるために、信仰による選びの道を告げ知らせるために、「使徒」たちを福音の証言者としてお立てになり、お遣わしなられたのであります。つまり律法とは別に、完全な和解と贖罪を担う主イエスの十字架の死において、事実上、全ての人は既に選ばれ救われたのであり、神の絶対恩寵の恵みと選びに与っている、ということ宣教させたのです。

選びは、ただ神の決定という次元にとどまらずに、人格の中枢における自由な選択的決断として、「信仰」による選びの道がわたしたちのうちに与えられ残されたことは、とても意味深いことだと思います。神の教えを人間の力で守り抜く律法主義とは、本質的に異なる意義が「信仰」における選びにはあるからです。なぜなら、人間とは、人間性の本質において、本来、自分の心と魂をもって自由に自立して生きる人格として、神に似せて創造された神の像であるはずです。神に背いて、罪に堕落し、死と滅びに転落するような存在ではなかったはずです。この罪を償い罪の支配から解放され、キリストのように愛と従順の心をもって神に仕え、互いに支え合える人格存在を根源から回復することにこそ、本当の人間の生と生きる意味があります。したがって主イエスの十字架と復活で贖罪のわざが完了する、その本当の目的は、すなわち、最後の救いの完成とは、人間本性の中枢に、神に対してそして人間相互に対して、愛と従順を回復し、自由な人格存在として立つことにあるのではないでしょうか。ルターは、キリスト者の自由とは神への自由である、と説きましたが、まさにそのように、自立した人格の根源において、感謝と喜びに溢れて、純粋に神に向かう人格的自由を回復することであります。そうした真の人格的解放は、「信仰」おいて、初めて生まれ導かれそして育まれる人格的自由であります。それゆえ神は、その自由の完成のために、わたしたちのうちに、一方で別の助け主として「聖霊」を降臨させ、ご自身の身体を基とする教会を立てて、使徒を遣わし、福音のみことばを語り、目に見えることばの洗礼と聖餐を設定し、人々を招き、人類の信仰的決断を迫り、「信仰」による選びにおいて、永遠の命と品格に満ちた新しい人間性を回復して導くのであります。こうした意味からすれば、ヨハネの予定論はいよいよ実存的であり、「信仰」においてこそ、その力を発揮するのではないでしょうか。

 

 

 

2022年2月27日「羊はその声を聞き分ける」 磯部理一郎 牧師

2022.2.27 小金井西ノ台教会 公現第8主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教39

説教 「羊はその声を聞き分ける」

聖書 エレミヤ書23章1~6節

ヨハネによる福音書10章1~21節

 

 

聖書

10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。10:2 門から入る者が羊飼いである。10:3 門番は羊飼いには門を開き羊はその声を聞き分ける羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。10:9 わたしは門であるわたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。10:11 わたしは良い羊飼いである良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。10:14 わたしは良い羊飼いであるわたしは自分の羊を知っており羊もわたしを知っている。10:15 それは、父がわたしを知っておられわたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。10:16 わたしには、この囲い入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならないその羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる。10:17 わたしは命を再び受けるために捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てるわたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

10:19 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。10:20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」10:21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」

 

 

説教

はじめに.主イエスにおける「神」を認め、神のメシアを受け入れるか

本日からヨハネによる福音書10章に入ります。皆さんもよくご存じの「羊飼いと羊」の譬え話です。イエスさまは、ご自身を「良い羊飼い」に喩え、そして選ばれた信仰者たちを「羊」に、或いは、教会を「羊の群れ」に喩えられました。この譬え話で、最も重要なことは、「良い羊飼い」と「羊」の「関わり方」が明確に言い表されていることです。「羊飼い」とは、「羊」に対してどう関わるのか、また「羊」は「羊飼い」に対してどのように応えるのか、両者を繋ぎ結び合わせるものは何か、分かり易く説かれています。

そこでまず、終わりの19~21節の段落から触れますと、この19~21節は、どうも前章の9章の「まとめ」として編集されたのではないか、と考えられます。「10:19 この話をめぐってユダヤ人たちの間にまた対立が生じた(9:16 ファリサイ派の人々の中には、『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない』と言う者もいれば、『どうして罪のある人間がこんなしるしを行うことができるだろうか』と言う者もいた。こうして、彼らの間意見が分かれた。10:20 多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。』10:21 ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。』」とあります。安息日に主イエスが生まれつき目の見えない盲人の目を開けた、という癒しのみわざをめぐり、ユダヤ人の間に混乱と分裂が生じていました。問題は、果たしてそれは「奇跡」かどうか、という奇跡として認定するにとどまらず、さらに奇跡であれば、奇跡を行える人は「神から来られた者」である、すなわち神のメシアの可能性を秘めた人物だ、ということになります。つまり主イエスは果たして神のメシアなのか、というユダヤ全体をひっくり返してしまう大問題となっていたのです。ユダヤ人たちは、特に時の権力者たちは、大きく動揺したはずです。そこで、律法学者たちは、イエスを安息日規定の違反者であるとして、また神を冒涜する極悪非道の罪人として、断罪処刑を決断したのですが、中には慎重派もあって、ユダヤ人たちの間に「対立」が生じていた、というのです。

この対立問題を克服するために残された道はただ一つ、主イエスにおいて生きて働く「神」を、そして奇跡として働く神の栄光の力を認めて、神のメシアとして、受け入れるか、それとも、イエスにおける「神」を否定するか、そのどちらかを自分たちの意志で決断し選び取る外に道はありませんでした。主イエスを「神のメシア」として受け入れる「信仰」に至るか、それとも主イエスにおける「神」を否定して、主イエスを排除する「不信仰」に至るか、その二者択一の選択によってのみ、この対立は解決できる問題と言えましょう。ここでユダヤ人たちに迫られた逃れることの出来ない決断は、自分の意志と責任において「神」を選び取るか、反対に、自分から「神」を抹殺するか、という自分自身による信仰の決断であります。つまり「信仰」に従うか、それとも「不信仰」によってイエスにおける「神」を否定するか、自分たちの決断をもって、選び取ることです。この決断の結末は、カヤファやピラトに受け継がれ、イエスを十字架刑に処罰するという、神の選びの民でありながら神殺しの罪を犯すことになり、パウロが『ローマの信徒への手紙』で明らかにしたように、ユダヤ人のイスラエルから、異邦人のイスラエルとして、大きく神の民は転換してゆきます。

この19~21節の纏めの句は、後の10章22~26節のまとめの句とも連携して働いて、この信仰の決断を迫る役割を担う句でもあります。両者は共に、信仰と不信仰の決断を迫るヨハネの使信の中核とも言えます。それはまさに、主イエスが「わたしはある(わたしは…である)」と自ら自己啓示した神のみことばそのものを受け入れて信じるか、という神の問いと神に対する応答の前に、全ての人類を引き出します。ヨハネはここでまさに主イエスにおける「神」を人類に突きつけ、決断を迫る決定的な問いを提示しているのです。先週読みましたように、主に目を開けていただいた盲人のように、「わたしはある」という名前でご自身をモーセに啓示した「神」は、主イエスにおいて受肉し現臨し生きて働き栄光のみわざを行われている、と認めて、主ご自身が言われる通り「神の独り子」は主イエスにおいて受肉した、と信じて、主イエスをわが主わが神として讃美告白し、ひれ伏して礼拝する者となるか、それとも、ユダヤの権力者のように、私物化した既得権限を守るために、律法を利用して、主イエスを処刑し主イエスにおける「神」を抹殺してしまうのか、そういう致命的な信仰的決断の前に、わたしたち全人類は引き出され、立たされるのであります。そうした緊張と対立の中で、いよいよ主イエスは、ご自身を「神」として、自己啓示するだけではなくて、その生きて働く「神」は、「羊のために命を捨てる、良い羊飼い」として神の栄光を現わすのだ、と啓示したのです。それが10章の主題でありましょう。

 

1.「羊飼い」と「羊」

主イエスは、<羊飼い>のたとえを用いて、ご自身がどなたであるか、さらに具体的に分かり易く教えます。先ず主イエスは「良い羊飼い」として、神の民である「羊の群れ」を導いて連れ出し、天国の門を通り抜けて、「神の国」という新しい永遠の命の囲いの中に招き入れるお方であることを宣言します。そして主イエスの「羊飼い」としての本質を明らかにします。聖書から引用しますと、「羊飼い」は、自分の羊の名を呼んで連れ出す(3節)、先頭に立って行く(4節)、羊が命を受ける(10節)、羊のために命を捨てる(11節)、自分の羊を知っており羊もわたしを知っている(14節)、羊のために命を捨てる(15節)、囲いの外のほかの羊も導く(16節)、羊は(羊飼いに)導かれ一つの群れになる(16節)と教えます。このように、主イエスとは、民である羊を神の国に導く唯一の「良い羊飼い」である、と表明します。

この「良い羊飼い」に対して、ファリサイ派やユダヤの権力者たちは、「盗人」であり「強盗」であり(1, 8, 10節)、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」(10節)と断定しています。6節に「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」と明記されていますので、ファリサイ派を名指しして、偽の羊飼い、羊を捨て去る雇い人、盗人、強盗、と呼び、神の御心に敵対する偽り者である、というように、相当厳しく非難したと思われます。聖書の言葉を具体的に引用しますと、盗んだり屠ったり滅ぼしたりする(10節)、羊を置き去りにして逃げる(12節)、羊を奪いまた追い散らす(12節) 、羊のことを心にかけていない(13節)と表現されています。

次に「羊」の特性について触れますと、「羊」とは、その声を聞き分ける(3節)、羊はその声を知っているのでついて行く(4節)、ほかの者には決してついて行かず逃げ去る(5節)、羊は彼ら(盗人や強盗)の言うことを聞かなかった(8節)、門を出入りして牧草を見つける(9節)、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである(10節)、羊もわたしを知っている(14節)、わたしの声を聞き分け羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる(16節)と表現しています。このような羊の特性を纏めますと、何と言っても、その本質的な特徴は、「羊」は「羊飼い」を正しく明確に知っており、その声を厳密に「聞き分ける」ことができる、という点にあります。しかも羊は羊飼いの声を正しく聞き分けた上で、その声を知っているので、ついて行く(4節)ことができる。ここに羊が羊である重要な本質的特性がある、と言えます。

 

2.「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(3節)

さて、その羊についてですが、「羊」と主イエスが喩える民の本質として「羊はその声を聞き分ける羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(3節)と説いています。この言葉に、さらに注目して読みますと、羊飼いと羊の両者を繋ぐ絆の要は、羊飼いは羊の名を呼んで天国に導くのですが、そのために羊飼いは自分の羊の名を呼びます。そして羊の方はその自分の名を呼び続けてくれる羊飼いの声を自分の耳で聞き分ける必要があります。あるいは「羊はその声を知っているので、ついて行く。」(4節)とありますように、自分に先立って自分を連れ出す羊飼いの声をちゃんと認識していることが求められます。羊は自分からただ羊飼いの声だけを頼りにして声を聞き分けて、羊飼いについてゆかなければ、全く成立しない羊飼いと羊との絆であり関係性です。羊は自分自身から、或いは自分自身の耳に響く羊飼いの「声」にいよいよ集中して、それを自分で「聞き分け」なければならなりません。それゆえ、羊はその声を知っているので、ついて行く(4節)ことが出来るのです。声の違いを聞き分けることが出来るので、したがって、ほかの者には決してついて行かず逃げ去り(5節)、羊は彼ら(盗人や強盗)の言うことを聞かない(8節)のです。つまり、「羊」は、たった一つ「羊飼いの声」だけを頼りに「その声を聞き分け」、それによって羊飼いについてゆくことが出来るのです。ほかの意見や話を聞くのではなく、ただ「自分の名を呼ぶ」お方だけの声を聞き分けて、従いついてゆくのです。これは、信仰生活の本質をよく言い表しています。教会の牧会の本質もそこにあります。神があなたの名を呼んで、あなたご自身の耳で、主のみことばを直接に聞き分けて、その名を呼んで語りかける羊飼いの声に自分から気付いて、それを識別区別して聞き分けるのでなければ、本当の意味で信仰も救いも成立しないのです。自分から謙遜になって「声を聞き分ける」者となる外に、信仰や救いが成立する場は生まれません。当然のことながら、他人を責めて非難しようと、狂気して泣こうが騒ごうが、これはどうしようもないことなのです。「羊」は、ただ一つ「羊飼いの声」だけを「聞き分ける」ことで、羊飼いについてゆくことができ、そして天国の門を抜けて通ることができるのであります。信徒にとって、説教を正しく聴き分けられるようになること、或いは教会においてみことばの訓練を受けること、それは「神のみ声を聞き分ける」ことに外なりません。

皆さんの新共同訳聖書は、わざわざ「聞き分ける」という言葉を用いて意訳しています。元の字は「聞く」というごく普通の字(avkou,w avkou,ei「聞く、聞き従う、知らせを受ける、耳に入る」)で書かれていますが、それをわざわざ「聞き分ける」と訳しました。それはヨハネ自身も、見る、知る、聴く、信じるという動詞を、ある意味で、神の啓示を意味する、いわば啓示用語として特別に用いているからではないかと推測できます。「聞く」とは、ましてやイエスにおける「神」に聞くとは、ただ音として羊飼いの声が肉の耳に物理的に聞こえている、というだけではなくて、他の音との「違い」を聞き分けて、自分の意志で羊飼いの声としてその意味をしっかり理解して、ちゃんと羊飼いについてゆくという行動を選び取っているのです。なぜならその理由は「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあるからです。他の人の名前ではなく「自分」の名前がそこでいつも呼ばれているからです。リビングバイブルや塚本訳では「羊飼いは一匹一匹自分の羊の名を呼んで連れ出す」と訳しています。羊飼いは、今いったい誰の名を呼び続けているのか、羊飼いが一匹一匹の其々の名を呼ぶ声に、耳を澄ませて、「自分の名前が呼ばれる」のをじっと待って、自分がどうすればよいのか、耳を澄まして聞き分けるのです。天国の門を通り抜けて、永遠の命の国に入るためには、これはとても大切なことです。自分の名を呼ぶ羊飼いの声を聞き落したら、その瞬間、羊飼いを見失うことになり、天国の門を抜けて通ることは出来なくなってしまいます。よく聞く話に、羊という動物は、どうも目が余りよく見えないので、耳を頼りにする、と言われる所以です。

ここで注意したいことは、そこには、ちゃんと羊飼いの声を聞き分ける羊として自分がおり、羊としての自分という存在が確かにある、ということです。その自分の名を羊飼いは呼んで連れ出す、という働きの中で、自分の名を呼んでくださる羊飼いの声のおかげで、それに耳を澄ましそれを聞き分ける羊として導かれる「自分」があるのです。これは「牧会の本質」でもあります。カール・バルトの親友トゥルナイゼンは「みことばによる牧会」ということをとても強調しました。人が人の力に頼って人の世話をして導く牧会では、一定の助け合いは可能ですが、天国の門を通り抜けて、永遠の命を得る力にはならないのです。天国の命のために、人を世話し導いて牧会するのは、「神のみことば」それ自身だけなのです。そこで大切なのは、勿論、みことばが宣べ伝えられることですが、その中で、羊飼いがおられ、自分の名を呼び、自分を導き天国の門を抜けて通り、永遠の命の国に連れ出してくださることです。羊が耳を澄ませてみことばを待っている、しかも精一杯自分の力を尽くして心の耳を澄ませて、「その声を聞き分ける」ための準備して待っているのです。そして自分の名を呼んで、みことばが語られると、自分の呼ばれる名前もその意味もちゃんと聞き分けて、従いついてゆくという行動選択ができる、ということです。羊は、自分の名を呼ぶ御声を聞き分けて、自分の名を呼んでくださるという導きの中で、だからこそ自分で間違うことなく正しく羊飼いについてゆくことが出来るのであって、鞭で叩かれ、紐に繋がれて引き摺られて、ついてゆくのではないのです。そこでは、自分の名を呼んでくださる羊飼いの愛と恵みに導かれて、あなた自身の御声を聞き分ける耳と心が大きな意味を持つのです。あくまでも自分の名が呼ばれるその声に、そのその声に溢れる愛と恵みに自分で気づき、自分で御声を聞き分けるのです。そのためには、どうしても、心の底から謙遜になって、主よ、みことばをお語りください、耳を澄ませてあなたの御声をお聴きします、という準備が重要になります。こうして、みことばを謙遜に学ぶ心が養われ、教会の訓練を尊ぶ礼節を知るようになります。

「聞き分ける」と敢えて訳されていましたが、分けて取捨選択することが問われているのです。捨てるべきことを拒否して捨てる、受け取るべきことを感謝と喜びをもって受け取る、そういう取捨選択の耳をつくるのです。自分の聴きたい言葉しか聞かない、という独善が生じることがありますが、聴き分けるべき声をしっかり取捨選択して、選び取るべき声はただ一つ、自分の名を呼んで連れ出す羊飼いの声だけであって、ほかの者には決してついて行かず逃げ去る(5節)、羊は彼ら(盗人や強盗)の言うことを聞かなかった(8節)というのが、羊飼いの言う羊の本質です。自分の名を呼ぶ羊飼いの声とそのみことばを聞き分けることによってのみ、信仰生活は導かれ、天国の門を通り抜けて、永遠の命に至るのです。

 

3.「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10、11節)

聞き分ける、即ち、自分の意志で違いを聞き分けて、羊飼いの声だけを取捨選択する、ということを申しました。大事なのはこの取捨選択です。一方で徹底的に「捨てる」のです。そして一方で「選び取る」のです。10節後半から11節で主イエスは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と言われました。ここで、最も大事なことは、「羊は命を受ける」と言われ、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われる所です。聞き分けて取捨選択をする。自分の名前を呼び続けるキリストの声を聞いて、死と滅びに向かう罪の支配と誘惑を徹底的に捨てるのです。そして自分の名を呼び自分を永遠の命に連れ出す、みことばとみわざを、しっかり選び取り自分の手でもって受け取るのです。「羊のために命を捨てる」十字架の死において、自分の名前が呼ばれているのです。その十字架の中で自分の名を呼ぶ声と、その意味を聞き分けて、自分の命の贖う御声を聞き取り、十字架による死の贖罪によって、自分を名を呼びつつ天国の門を通り抜けて、永遠の命の祝福溢れる囲いの中に連れ出すのです。十字架の死において自分の名が呼ばれ、その声の恩恵により自分は感謝と喜びにあふれてついてゆき、ついには十字架の死による贖罪の恩恵に与り、十字架の門を通り抜けて、天国における永遠の命の祝福に与るのです。そうした神の十字架のみことばによる導きの中で、神の御子は、このわたしのために命を捨てられ、わたしは神の御子からその命を受けたことを知るようになります。羊飼いが羊の名を呼ぶとは、そういうことでありましょう。

よく教会の中で話される話に、「誰もみんな神さまに救われているよ、だからそれだけで十分ですよ。何も分からなくてもいいのですよ。神様がすべてをよくしてくださるから。」といって慰めることがあります。確かに、神さまの絶対恩寵は完全ですから、その通り、救いは無条件であります。しかしそれは往々にして致命的な誤解を引き起こすことがあります。ある意味で分かり易く、優しい耳ざわりのよい言葉です。では、本当に何もなくてよいのでしょうか。確かに神の絶対恩寵を受ける条件としては、「空洞」のように、何もない無条件でよいのですが、しかし神の恵みの実体は、「救いの恵み」の現実として、わたしたちのうちに働き現存します。神の救いの恵みは決して「空洞」ではありません。この神の生きて働き続ける恵みを聞き分けて、自分の名が呼ばれていることを知って、喜びと感謝とをもってそして讃美と告白とをもって、お応えすることはできるはずです。すなわち、常に働く恵みを知って絶えず感謝することは出来ます。それは感謝と喜びに満ちた信仰の生活という実存として現存するのです。決して「何もない」ことでも「空洞」でもありません。力ある喜びと希望に満ちた、生きた現実の信仰生活です。その意味で、わたしたち信仰者の実存は、決して空洞にはなりません。それどころか、いよいよ豊かに新しい永遠の命の満ちた現実がそこにはあるはずです。生まれつき目が見えなかった人が目が見えるようになった、その人のうちに絶大な神の栄光のみわざは働き現わされました。まさにここで、ついに「自分の名が呼ばれた」と言えましょう。神の栄光のみわざは、この人物の全身全霊とその人生の全てにおいて、いっぱいの恵みとなって満たして、「遣わされた者」(シロアム)という新しい命の現実を創造したはずです。その結果、神さまに対する心も、信仰生活として、生活それ自体の内容本質が大変革したのです。こうした「現実」或いは信仰から生まれた信仰者の実存は、信仰生活や教会の至る所で生きて働き現れています。教会の奉仕の仕方も、それは単なる助け合いを遥かに超えて、献金の献げ方に至るまでも、それは単なる会費を遥かに超えて、天国の命に至る喜びの行為であります。また教会の中で交わす「平和の挨拶」は、単なる礼儀の意味と本質的に違って、死と滅びに勝利する平安の共有であるはずです。より深く信仰に基づく意味を理解し、より確かに羊飼いの声と牧会の意味を見分け聞き分けられるようになります。

信仰生活での一番の誤りは、「キリストの恵み」を中心に置かずに、キリストを抜きにして、或いはキリストを優先せずに、自分や人間の感情を優先させて、キリスト不在の教会生活や信仰生活に陥ることです。ほとんど全て、悪気はなく故意にでもなく、結果として陥る罪です。その原因は、自己自身の欲求と人間関係による呪縛です。神との天地の垂直関係が薄らぎ失われて、人間同士の顔を前に、世の水平的利害関係の中に埋没し、キリストの十字架が見えなくなるためです。それは人間関係として、牧師や長老、教会員同士の関係の中に、好き嫌いによる場合も含めて、キリストの恵みによる垂直関係が見失われて、本当の意味で人と人の真実な関係性を実現成立させる根拠はただキリストの血にあることを忘れてしまうからです。親子や兄弟の関係の中でも、キリストの十字架の恵みを抜きにして、直に家族の思いや利害に溺れると、不安定な人間の力だけを頼りにすることになり、疑心暗鬼が生まれ、ついには争いとなります。この世の躓きの多くは、キリストの恵みを抜きにしてしまうことが原因です。キリストを通して(において、によって)今の全てがある、ということを原点に、また常に中核にして現実を見つめ直すことが肝要ではないでしょうか。聞き分けるとは、まさにキリストを全ての中心に据えて選び取ることでもあります。

 

4.「わたしは羊の門である」(7, 9節)「わたしは良い羊飼いである」(11, 14節)

最後に何度もお話して来ましたが、ここでも「わたしは羊の門である」(7, 9節)「わたしは良い羊飼いである」(11, 14節)とありますが、「わたしはある(わたしは…である)エゴー・エイミ」という神ご自身がモーセに啓示した神のお名前が登場します。ギリシャ語原典では「わたしはある」(エゴー・エイミ)という神の自己啓示の名前が先ずあって、同格のように並んで、さらに主イエスの働きを象徴する「門(羊の門)」「良い羊飼い」「世の光」などの用語が併記される構文です。しかもその7、9節の「わたしは羊の門である」をさらに受けて、1,2節のように「門を通らないで」(1節)「門から入る者が羊飼いである」(2節)「門番は羊飼いには門を開き」(3節)と語り、羊飼いのもう一つの役割として「門を開く」働きが告げられます。まさにこの「門」とは、<キリストを通して・キリストにおいて・キリストによって・キリストに結ばれて・キリストと共に>通り抜けて、即ち「神の義」と「贖罪」の門を見事に通過して、永遠の命の祝福を受けることのできる「神の救い」です。天国に至る門は、即ち神の救いは、キリストの十字架と復活の中を<通る>ことで実現します。主イエスは、真の神であり真の人間として、わたしたち人類の罪を背負い、完全に罪の代償を支払い、わたしたち罪人を贖ってくださいました。そればかりか、わたしたちと全く同じ魂と肉体をもって復活し天に昇られました。わたしたちの永遠の身体は、復活と昇天のキリストの身体として、主の約束のうちに存在しています。永遠の命を新たに創造し天国に導くお方、それはただイエス・キリストお独りです。このイエス・キリストを、はっきりと「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)とする信仰告白を通過して、救いは実現します。

先ほど、主イエスとユダヤ人たちとの深刻な対立の句を確認しましたが、その論争の中心は、主イエスにおける「神」を認め、しかも罪から解放するメシアであることを受け入れて信じるか、そういう信仰的決断をするか、それとも拒絶するか、という点にあったことをお話しました。目を開けていただいた盲人は、主イエスにおける「神」を受け入れ、全生涯における「主」として自分のうちに生きて働く「神」として認め、自分を罪と滅びから解放するただ独りの神の子であると、信仰を公に言い表して、ひれ伏し礼拝しました。この信仰を鮮明に告白することで、しかも神として主イエスを礼拝することで、この盲人は主イエスの羊となり、そして主イエスはこの人の羊飼いとして命を捨てる、そういう神とその民との関係を結ぶという所にまで至り、天国の門を通り抜けて、罪の裁きから解放され、新しい永遠の命を与えられる、という決定的な救いに与ったのであります。

イエスさまは、さらにここで、「羊」であることの本質を「羊はわたしの声を聞き分け」さらに「わたしの声を聞き分け」て「一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる」と明確に語り、明らかに、主のみことばを聴き分ける信仰共同体としての新たな教会の形成について語っておられます。平面的に広がる教会であり、垂直的に昇りゆく教会の広がりであり、終末の未来へと広がる教会の展開でもあり、唯一の、聖なる、公同の、使徒による教会でもあります。言い換えれば、救いが成就するための明確な「道筋」があり、そして救われた結果としての明確な「形」が現れるのです。何もないのでも、何も知らなくてよいのでも、そのままでよい、というものでもないのです。新しい命が形成される道筋と形が生まれるのです。具体的には、主イエスという羊飼いの「声を聞き分け」て集う新しい羊の群れが生まれ、主イエスが救い主であるとする「信仰告白」を共有してこの世の旅路を行き、天国の門を通り抜けてゆく羊の群れが続きます。羊飼いが自分の名前が呼び、羊はその声を聞き分けて、羊飼いについて行くという信仰者としての実存が形成されるのですが、それは「個」としての実存形成ではなくて、不断に形成される「群れ」としての信仰的実存でもあります。教会で言えば、キリストをわが救いの主、わが救いの神とする洗礼を受け、教会という羊の群れに加え入れ、教会員としての生活が与えられるのです。キリストというお方の十字架における贖罪を通して、罪赦されて神の国の門を通り抜けるのです。そして、キリストのもとで初めて神の国の民となる、という道筋を通して救いは実現します。「神」が主イエスにおいて、わたしたちのために十字架の死に至るまで従順を尽くして、贖罪の生贄となって罪を償い、新しい復活の命をお与えくださった、ということをアーメンと確かに告白するのです。そこではじめて、「だからこそ、祈りは必ず聞かれる」という本当の意味が分かります。羊飼いが誰で、どんな声で、何を語りかけ、どんなことを行ってくださるのか、羊はよく知っているので、間違えず、ただ独りの羊飼いについてゆくのです。洗礼を受ける際に、また聖餐に与る時にも、「信仰告白」が求められるのは、「神」に与り、神の愛と恵みのみわざに与る、神礼拝の基本です。自分のために血を流されたお方がどなたなのか知らずに、信じ受け入れることはあり得ないことです。ましてや、信仰も問わずに、十字架と復活の食卓に与る、というのは、余りにもおかしな話です。そのためには、まず自分の救い主は「キリスト」ただお独りにあり、礼拝する神は「三位一体の神」である、と聖書のみ言葉から学び知るべきでありましょう。長老教会の最も優れた誇るべき所が仮にあるとすれば、それは徹底的に、主のみことばのもとで謙遜に学び、信仰の訓練し合い、神の愛と恵みを正確に数え上げ、感謝と栄光をただ神にのみ帰する所にあると言えましょう。

 

2022年2月20日「目の見えない者が見えるようになる」 磯部理一郎 牧師

 

2022.2.20 小金井西ノ台教会 公現第7主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教38

説教 「目の見えない者が見えるようになる」

聖書 箴言23章1~6節

ヨハネによる福音書9章35~41節

 

 

聖書

9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ているあなたと話しているのがその人だ。」

9:38 彼が、「主よ信じます」と言って、ひざまずくと、9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る。」

 

 

説教

はじめに.

前回は、ただ神の栄光のみわざとその恵みのみによって生きる生き方について、お話を致しました。わたくしども人間の根本問題は、どんなことであろうと、すべては、本当の意味で神の恵みを知っているかどうか、その一点にかかっています。生まれつき目の見えなかった盲人は、神の栄光のみわざは自分のうちにこそ最も力強く現わされていたことを経験しました。そうした自分のうちに引き起こされた神の栄光のみわざについて、この人は「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方はわたしの目を開けてくださったのに。9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめその御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と、こう証言して告白しました。これまで一度も聞いたことのない神のみわざが、生まれつき目が見えなかった自分の目を開けていただいたという神の栄光のみわざとして、外でもなく、何とこの自分のただ中で起こっていたのです。その現実と向き合い、驚きつつも、はっきりと、神の栄光のみわざが自分のうちに現わされた、とを告白しました。ただ神の栄光のみわざに心の目を向けて、ただただ神の栄光のみわざによって生きる生き方に目覚めた瞬間でした。ただ神の栄光のみわざによって生きる、ということの本当に意味を知り学んだのです。自分の周りの人々を見て、自分と比べて、意地になって自分の欲求や思いを力ずくで押し通す生き方ではなく、ただ自分のうちに働く神のみわざに目を向けて、そして何よりも、偉大な神の栄光の力は自分のうちにこそ最も大きく現わされていたことに気付き、そこで生ける真の神と出会い、そこで生きて働く神の愛と恵みに触れ、ただひたすらにこの神の栄光のわざのもとで、新しい生きたを始めよう、と決意したと言えましょう。信仰生活の尊さと意義はここにあります。他人や社会も大事ですが、先ず自分自身のうちに働く神の栄光のみわざに目を向けて、そこで生きて働く神と出会うのです。そうでなければ、本当の意味で、感謝も讃美も生まれないはずです。教会生活でも、たとえ奉仕をするにしても、意地で推し進める奉仕は、結局、自己弁護や自己崇拝にすぎないのです。いくら讃美歌を上手に歌えても、立派な奉仕をしているように見えても、自分のうちに最も力強く神の栄光の業が働いていることを知らなければ、真実な感謝も生まれず、実は何のための神讃美であるか、とても空しいことになります。なぜなら、そこには、真実な意味での、神の栄光のみわざはないからです。

その一番の問題は「自分」にこだわり続けて固執することです。その結果、心の目は神の栄光のみわざを見出す方向に向かうよりも、自分で造り上げる自己実現や自己評価の方に、意味と価値が偏ってしまいます。その結果、悲しいことに、いつもその力ずく成し得ようとする評価を求めながら、その力ずくの評価に怯えるようになり、それによって極端に自己防衛的となり、最後は自分を破壊してしまうことになります。それでは、自分の力を拝む偶像崇拝と同じことになってしまいます。「悔い改める」とは、「方向を転換する」こと、聖書では特に「神」に向かって回心することを意味する字です。まさに心の目を、神の栄光のみわざに向け直すことです。しかもその絶大な神の栄光のみわざは、この自分のうちに最も強く豊かに働いている、ということを心の底から認めて、それを常に生きるべき命の糧とする所に、信仰生活の本来の出発点があります。意地を張って自分への偏りを自分のうちに残してしまわずに、神の栄光のみわざのうちに、完全に包まれ導かれる新しい自分に目覚め、内なるみわざをいよいよ確かにする訓練こそ、信仰訓練の基本と言えます。パウロは、『コロサイの信徒への手紙』の中でこう勧告をします。「3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。3:2 上にあるものに心を留め地上のものに心を引かれないようにしなさい。3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されているのです。3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。3:6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。」と教えます。死んで復活した、と言っています。洗礼を受けるとは、「自分」に死んで、神の栄光のみわざのうちに新しい自分を見出すことでありましょう。

 

1.「彼が外に出された」(35節)

さて本日の聖書箇所は、この盲人が「外に追い出された」(35節)ことから始まります。「外に出された」とは、単に建物の外に出たということではないようです。戻りますが、9章22節に「9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」と記されています。つまり、目を癒されたこの盲人は、ついに「会堂追放」の処罰を受けたことが分かります。明らかに、癒された盲人が会堂から追放された理由は、先ほど引用した30節で「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたh=n ou-toj para. Qeou 新改訳「あの方は神から出ておられる」)のでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と証言してしまいましたので、彼の証言は、イエスはメシアである、と公に言い表したと見なされ、会堂追放の処罰が断行された、と考えられます。「会堂」とは、単に建物や場所である以上に、律法を唱え、祈りを捧げ、神の臨在に触れる、いわば、地上から天上に至る礼拝の場です。礼拝の場から排除されることは、神との交わりから断たれ、神との関係性が根底からはく奪されたことを意味します。ユダヤ人にとりましては、特に信仰によって生きようとする者であれば、最も恐れる深刻な事態であります。この時点で、この盲人は、ユダヤ社会から排除され捨てられた場で、新たに生きる決断が迫られることになります。所謂ユダヤの宗教共同体の恩恵の中で生きることを断念して、ただ純粋に自分の目を開けてくださった「神の栄光のみわざ」のもとで、生きようとする決断が迫られていたのです。ただ神のみわざのみで生きる新しい生き方を選ぶことになります。

 

2.「そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた」(35節)

この段落で最も意味深いくだりは、35節「そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた」(35節)という主イエスのみことばです。新共同訳聖書は「彼に出会う」と訳しています。ほかの邦訳聖書の訳をご紹介しますと、リビングバイブルは「そのいきさつを伝え聞いたイエスは、男をお捜しになり見つけ出されると、『あなたはメシヤを信じますか』とお聞きになりました。」と訳し、新改訳では「彼を見つけ出して言われた」と訳されています。主イエスはこの盲人を探し求めて見つけ出した(eu`ri,skw eu`rw.n特に努力して探した末に見つけ出す、尋ね出す」の意)のです。偶然たまたま町で出会ったのではなく、イエスさまはとても強いご意志のもとにこの盲人を探し求めておられたのです。「彼に出会う」とは、そうした主イエスのご意志と求めによる出会いでありました。そして、主イエスがこの盲人を探し求めた、その理由は、直接に彼から信仰の告白を求めたからではないか、と考えられます。したがって、明らかに、ここは偶然に出会ったのではなくて、主イエスは意図して追放された盲人を探し求めて、ついに見つけ出して、その信仰の告白を求めた、と読むべきでありましょう。不変不動なる、神の強いご意志のもとで「出会った」のです。

主イエスが彼に求められた信仰の告白とは、明白で、「イエスは人の子である、とあなたは信じているか」と主イエスはお尋ねになっておられる通りです。この問いのために、主イエスは、この人と直に顔と顔とを合わせて、対面する人格を尽くした交わりの中で、信仰を見届ける必要があったのではないでしょうか。生ける神と民とのことばにおける新しい契約の場面となったとも言えます。人格と人格とが真実な意味で根源から出会うとは、そういうことでありましょう。大切なのは、救いのみわざが行われる中枢で、神は徹底的にその人の人格と魂を根源から問題にして問うのです。その人物の魂や人格を根源から問題にしない救いはあり得ないのです。神の恵みが働く場では、常にその恵みを受ける人格の本質が問われるのです。ただ肉眼として眼が開く、というのではなくて、魂と命の目が開くのです。人格存在として全身の目が開くのです。

「人の子」という呼称には、三重の意味が重なり合っていると考えられます。先ず⑴主イエス自ら「ご自身」を指して「人の子」呼んでおられた呼称であり、次に⑵当時の宗教的常識では「終末時に到来する預言者」と考えられており、そして明らかにヨハネ福音書では、⑶神から遣わされた「神のメシア」として告知されています。つまり、主イエスはここで明らかに「あなたは、わたしを<人の子=神のメシア>である、と信じるか」とお聞きになっておられるのではないでしょうか。あなたの中に、今どなたがどんなわざを行っておられるのか、とお尋ねになられたと言えます。そして答えは、神のメシアによる救いのみわざが行われていることに、いよいよこの人物の心を向けようとされたのではないかと思います。単に肉眼の目が開くという不思議なわざにとどまらない、あなた全身の目が開く、霊と魂と人格全体の、新しく与えられる永遠の命が見えるようになる、という神のメシアによる救いを深く問うのです。そして神の栄光のみわざの本質に目を開かれるのであります。

 

3.「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(36節)

盲人は、実に意味深長な応答の仕方をしています。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(36節)と主イエスに答えます。一見すると、この答えは、必ずしも完全な信仰告白による応答とは言えないようです。どちらかと言えば、曖昧で複雑な応答の仕方に聞こえます。この応答で、まず「主よ」(ku,rie)と真っ先にイエスを呼んでおり、これは明らかに「神」に対する呼称とも解釈できます。ちゃんと主イエスを受け入れているようです。しかしその一方で「どんな方ですか」(ti,j evstin)と改めて問い直しています。これはどう解釈すればよいでしょうか。果たして主イエスは、ここで、この盲人に対して完全な信仰告白を求めたのでしょうか。むしろ完全な信仰を求めたというよりも、より完全な信仰の告白に至るように、招き導き誘っているように思われます。永続する不断の神の栄光のみわざの中で、わたしたちの信仰は導かれつつ絶えず形成され続けるものではないかと思われます。したがって、この盲人は、ただ驚愕するばかりで、彼の中では測り知れないことばかりが溢れかえっていたように推測されます。ましてや、主イエスはだれなのか、主イエスにおいて生きて働く「神」はどのようにしておられるのか、神秘に満ち満ちたことばかりであります。イエスという「受肉」した人物を前にして、では本当の永遠の神は、どのようなお方で、どこにおられるのですか、という神の世界の奥深い戸惑いを隠しきれないのです。まさにモーセに語り啓示した「わたしはある」(出エジプト3:14)という神は、主イエスにおいて、どのようにしておられるか、という問いでもあります。少々過大解釈かも知れませんが、三一体の神の前で、人間はその能力の限界の中でそれをどのように受け入れることができるのでしょうか。明らかに、人間能力の尺度を遥かに超える限界値に達していたはずです。主イエスは、既に8章58節で「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と言って、ご自身が「神」(「わたしはある」という神)である、と自己啓示しておられたことを想起します。この主イエスによる神の自己啓示、「わたしはある(ハイヤー、エゴー・エイミ)」とモーセに啓示された神は、即ち、主イエスご自身であるという意味を、どのように理解すればよいのか、まさに一つの「神」として父・子・聖霊なる三つの位格(ペルソナ)がおられる、という神認識にまで至る信仰告白が求められていたのでしょうか。果たしてこの盲人の信仰は、そこでまで及んでいたのでしょうか。そうした神認識での戸惑いと不完全性が、複雑な応答として、現れているように思われます。同時にまた「その方を信じたいのですが」という言葉使いから、是非とも正しい、そして完全な神認識に到達したい、という求道の熱心もよく現れているように思われます。

 

4.「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(37節)

すると、いよいよ驚いたことに、主イエスははっきりと「あなたは、もうその人を見ているあなたと話しているのが、その人だ(Kai. e`w,rakaj auvto.n kai. o` lalw/n meta. sou/ evkei/no,j evstin)。」(37節)とお答えになります。新共同訳聖書は「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」となっていますが、口語訳聖書は「あなたと話をしているこのわたしがそれである」と訳し、新改訳聖書は「あなたと話しているこのわたしがそれです」と訳して、わざわざ「このわたし」という言葉を入れて意訳しています。なぜ口語訳も、新改訳もわざわざ「このわたしが…である」と訳す必要があったのでしょうか。理由は明らかにです。ここは是非とも「わたしは…である」(エゴー・エイミ)という主イエスの自己啓示の持っている本来の趣旨を生かす場面と考えられるからです。このように、主イエスは、あなたはすでにこのイエスにおいてその本当の永遠の「神」そのものを見ており、主イエスにおいてその本当の「神」と直接話しているではないか、と告げたのです。この場面は、あのサマリアの女との場面と全く同じ場面です。4章25節で女が「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と答えると、主イエスは即座に25節で「それは、あなたと話をしているこのわたしである(VEgw, eivmi( o` lalw/n soi)。」と自己における「神」を自己啓示します。こうした直接の対話を通して、主イエスは、ご自身から、みことばを通して、「神」を自己啓示する場面です。まさに主イエス自らによる神の自己啓示です。神はどこか遠くの永遠の世界におられるのではなくて、今まさにここに、人の子である人間イエスとして、また神のメシアとして、あなたの前に立っておられる、と告げます。神を見る、神と語り合う、それは直ちに、イエスを見て、イエスと語り合い、イエスと一体となって共に生きることだったのです。ここに、即ち主イエスにおいて、初めて生ける神は現臨したのです。「神」は「イエス」において到来したのです。しかもこの「見る」は「既に見た」という完了形動詞であり、「話す」という動詞はまさに現在進行している現在形で表記されています。言わば、主イエスにおいてあなたは既に「神」を見たのであり、今まさに話を交わしている、と宣言したのであります。

 

5.「彼が、『主よ、信じます』と言って、ひざまずくと、」(38節)

こうした主イエスの問いに対して、この人は「主よ、信じます」と言って、ひざまずいて」(38節)お答えします。ここで「ひざまずく」と直訳された字は「プロスクネオ―」(proskune,w proseku,nhsen)という字です。語源は「ひざまずく」「ひれ伏す」という意味で、前3世紀にヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳されるときに、早くから「ひざまずき、ひれ伏して(神)を礼拝する」という意味で用いられて来た字です。つまり「イエスを礼拝した」と訳す字です。したがってリビングバイブルは「『主よ信じます。』男はそう言ってイエスを礼拝しました。」と訳していますし、塚本訳も「イエスをおがんだ」と訳しています。両者共に、主イエスを「神」として礼拝した、と訳しています。イエスを主なる「神」とする信仰告白をもって拝む、即ち正しい神認識と信仰告白に基づいて礼拝をした、ということを意味します。この人は、ひざまずく前に、「主よ、信じます」とはっきりと信仰を言い表していますように、正しくイエスを神(主)として礼拝した、ということがよく分かるのではないでしょうか。

聖書の用語で「(神を)礼拝する」という用語について考えますと、ここではモーセに啓示した「わたしはある」という神が主イエスである、ということになります。この信仰は、その後、4世紀のニケア信条で、⑴「キリストは神と同一本質(ホモウシオス)である」という信仰告白となります。こうした明確な神認識をもって神を神とする、という神礼拝を表す言葉が「プロスクネオー」という字です(マタイ28:17)。次いで、⑵たとえば「聖書を朗読する」など具体的な典礼の務めを果たすことで神を礼拝する、という礼拝行為には「レイトゥルギア」(leitourgi,a  leitourge,w)という礼拝用語が用いられます(ルカ1:23、ヘブライ10:11)。最後に、⑶「日々の生活を神への献身としてささげる」など、生活全般を神への献身やささげものとして捉えるときには、「ラトレイア(神への奉仕)」(latrei,a latreu,w)という礼拝用語が使われます(ローマ12:1)。分けても重要な用語は「プロスクネオー」で、正しい神認識の上に立って、真の神を神としてひれ伏して礼拝することを意味します。因みに新約聖書中60回使用されますが、半数以上がヨハネ文書で「神を礼拝する」意味で使用されています。ヨハネの典型的な用例は、「礼拝すべき場所はエルサレム」(4:20)「わたしを信じなさい・・・父を礼拝する」(4:21)「まことの礼拝をする・・・霊と真理をもって父を礼拝する」(4:23)「神は霊であるだから神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(4:24)と、徹底的に、正しい神認識のもとで神を礼拝する神礼拝を意味しています。このように、聖書の翻訳は、ただ言語を辞書的に正確に翻訳することが求められますが、さらに加えて、神学的な意味を深く配慮してなされるなければなりませんので、誠に至難のわざと言えましょう。

こうして、主イエスに目を開けていただいた盲人は、主イエスを「神」であると信仰告白して礼拝する者となり、まさに「遣わされた者」(シロアム)として、福音の証言告白を担う一員として新たに立てられていったと考えられます。少々深読みをすれば、それはヨハネの証言するように、主イエスを受肉の神として、先在のロゴスを神の独り子とする(ヨハネ1:1~4)、三位一体の神として礼拝する信仰へと導かれたと言えるかも知れません。

 

6.「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39節)

39節で「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」と仰せになっておられますが、この「裁くために」という表現に、戸惑いを覚える方もありそうです。なぜなら「ヨハネ3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と言われているからです。では「裁くため」即ち「裁くためにわたしはこの世に来た(Eivj kri,ma evgw. eivj to.n ko,smon tou/ton h=lqon)」とは、どういう意味なのでしょうか。神の御子である主イエスが世に到来したことは、ましてや永遠の神そのものが「人の子」として生まれ、人間イエスのうちに到来し現れ、地上を歩くなど、誰が予測したことでしょうか。人間の常識を覆す出来事であり、神に選ばれ神の律法を知り、神に犠牲をささげ続けて来たユダヤ人でさえも予測できなかったことです。律法に描かれた文書の中の神は知っていても、人間イエスにおいて現臨し、この地上で生きて働く神は、思いも寄らず、信仰や律法の知識や判断を遥かに超えるものでした。そこで求められることは、そこで必要とされることも、そしてそこで唯一有効なことがあるとすれば、それは、イエスを「神」として信じ、イエスの言葉と教えを認めて、イエスを「神」として受け入れるという「信仰」による外に道はありません。いわば人間やこの世に基づく全ての基準はここでは放棄されて、ただイエスの言葉だけを信じて受け入れる信仰のみが、生きて働く神の啓示を受け入れることを可能とします。つまり「裁き」とは、世に基づくあらゆる価値や権威がすべて無力となり放棄されて、ただイエスの信仰だけが「神」への道を開く、という大逆転です。まさに世のすべての権威は、神の真理に対しては無力であり、かつ無効となり、信仰だけが神の真理に対して有効となります。信仰によって認められ受け入られる神の真理ですから、信仰がなければ、神の真理を受け入れ認めることはできなくなりますので、既に裁かれている、ということになってしまいます。

 

7.「見えない者は見えるようになる見える者は見えないようになる」(39節)

最後に、結論として、主イエスの教えが総括されます。「見えなかったのであれば、罪はなかった。『見える』と言っている。だから罪は残る」(41節)と宣言されます。奥深く、重厚な意味を持つ言葉です。肉眼で物理的な事柄を言うのではありません。「見える」とは、最終的に言えば、神の恵みと信仰によって、神の救いに与る、ということではないでしょうか。パウロは『ローマの信徒への手紙』3章21節以下で「3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。3:25 神はこのキリストを立てその血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」と、神が、御子を贖罪の犠牲として、私たちのためにお与えくださった恵みにより、それを受け入れて信じる信仰によって、義とお認めくださる、という神のご計画と真理を伝えています。この神の愛とそのご計画を真理として認め受け入れることができるようになる、それが見えるということになります。ユダヤ人の致命的な点は、その神の恵みを信仰によって認めることが出来ず、その結果、神のご計画の真理が見えないのに、「見える」と言い張って、自分の力に依存して、力ずくで律法を押し通したのです。パウロは、この恵みとしての神の救いをはっきりと「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて神の義が示されました」と見切っています。「見える」という律法主義者たちの価値判断や権威は、自分の力では「見えない」ことを認めて、力ずくの律法主義では成し得ない神の絶対恩寵による救いであることを知り、つまり「見えない」ことを認め、唯々神の憐れみに縋り、御子による十字架の贖罪を受け入れる外に道はない、という信仰による恵みに取って代わる、という逆転劇が、ここには、総括されています。「見えない」神の義は力ずくの律法行使では実現できないという罪の現実は、「見えない」と認めるゆえに、「恵み」を天に求め恵みを必要とするゆえに、神の恵みに与ることで「見える」という罪の赦しの現実へと取って代わるのです。こうして「見える」と「見えない」における本質的な大逆転が、イエスの到来によって引き起こされたことを意味します。主イエスの十字架と復活を受け入れて認める信仰は、罪を赦しと復活へと大逆転する神の恵みの場となったのです。まさに生まれつき目が見えない人において、神の栄光が完全に救いの栄光として現わされる場となったのであります。

2022年2月13日「あの方が神のもとから来られたのでなければ」 磯部理一郎 牧師

 

2022.2.13 小金井西ノ台教会 公現第6主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教37

説教「あの方が神のもとから来られたのでなければ」

聖書 イザヤ書42章10~17節

ヨハネによる福音書9章24~34節

 

 

聖書

9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」9:26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」

9:28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」9:30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

9:34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した

 

 

説教

はじめに.「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人もう一度呼び出して言った。」(24節)

律法学者たちは、主イエスを陥れて処刑するために、必要な証言を執拗に求めて、再び、生まれつき目の見えなかった人を呼び出して、尋問を繰り返します。前の9章13節は、第一回目の連行と尋問について「人々は、前に盲人であった人ファリサイ派の人々のところへ連れて行った。」(13節)と伝え、24節は、二回目に行われた取り調べと尋問について「9:24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」と記しています。「あの者が罪ある人間だ」とありますように、主イエスが罪人である、と最初から断定して尋問しています。これは、明らかに、既に主イエスは神の名を名乗る冒涜者であり、安息日規定を破る律法違反者である、既に決め付けており、処刑するために、群衆の前で証拠となる必要な証言をこの盲人に求めていたことが、この発言からよく分かります。13節では「連れて行った」(a;gw :Agousin)という動詞で、24節では「呼び出した」(fwne,w VEfw,nhsan)という動詞で、ファリサイ派の執拗な取り調べが表現されています。主語も3人称複数形で、ファリサイ派の人々の強い意志と強制力が行使されていることが、文面から推測されます。目が見えるようになった人物は、再度の召喚され、尋問が始まりました。

今日は是非、この尋問の中に、私たちの救いの鍵、そして信仰の鍵となる意味深い態度がたいへんよく示されているように思われます。尋問という形で展開しますが、改めてこれを信仰問答として読み直してみますと、主に目を開けていただいた盲人と、そして追及するファリサイとの両者の根本的な違いが浮き彫りになって来ます。その決定的な分かれ道、分岐点は「神の愛を知る」という点にあります。言い換えれば、神の恵みに与り、心の底から神を知ることができた、ということです。反対に、ただ律法という戒律を通して、神と向き合うのですが、しかし決定的なことは、神の恵みを体験して神の愛に実際に触れていない、ということであり、その結果、律法による「力づく」の生き方が浮き彫りにされてきます。神の愛の恵みに委ねることを知っているか、それとも律法的に力づくで神に認めさせようとするのか、大きく分かれる所です。そしてこれはまさに、神の救い、わたしたちの信仰を決定づける本質的な要因ともなります。

人が他者に食ってかかり、時にはひどく貶めて、非難中傷する背景には、実はこうした、神の恵みに与り神の愛に触れているか、という心の本質が問題となります。わたくしも貧しい人生経験ながら、嘘や誹謗中傷の中で卑しめられ排除と抹殺される経験をして来ました。ちょうどユダヤの権力者たちが、力づくで、その権限を利用して、排除抹殺してしまうようなことは、いつでもどこでも起こることであります。そしてそうした謀略の目的は、明らかに病んだ自我欲求や支配欲、或いは自己顕示欲であり、悲痛にも、自分を認めさせたい、自分を認めて欲しいという強烈な承認欲求が深くかかわっています。そしてその病んだ精神の中核は、悪魔の誘惑のもとで、「罪」の堕落が根強く支配しています。私たちは痛いほどその悲しさを思い知らされます。自分を認めて欲しいとする欲求は、立身出世のための利害や私利私欲、権力欲を呼び起こし、それまで従順に振舞っていても、権力や権限を奪うと、別人のように豹変して、他人を邪魔者にし排除抹殺してしまうのです。カインがアベルを騙し打ちにして殺害したように、底知れぬ悪と妬みの闇を生み出してしまうようです。最も恐ろしいことは、そうした自分を認めさせたいとする病んだ欲求は、他人だけでなく、自分自身に対しても向かってゆくことです。そしてついには、この力づくの生き方は、自分の人生まで力づくで潰してしまうこともあります。人々は、いつもこうした力づくとその強迫という強弱の中で苦悩しています。

神を知り律法を誇りとするユダヤ人でも、そしてわたしたちクリスチャンと雖も、誠に残念なことではありますが、教会や神学校の「教師」と呼ばれ神の務めを担う人々でさえも、こうした強迫の病と罪の現実の中に生きており、それは決して払拭できない現実であり、聖書は絶えずその誘惑を厳しく警告しているようにも思われます。こうした心のうち深く潜む欲求行為はとても執拗かつ強烈であり、何もかもを犠牲にしても求め続けるのです。ユダヤ人たちは、思い通りに証言を得られないと分かると、彼らは「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と罵り、彼を外に追い出してしまいました。こうして自分たちのために到来した神の祝福の事実と現実を、みずから排除抹殺してしまったのです。

 

1.第一の尋問と第二の尋問の内容を比較する(別紙)

尋問する「ファリサイ派」の尋問内容と、答弁する「今見えるようになった人」の証言内容とを詳細に比較するために、比較表を用意しましたので、比較して読んでみます。先ず基本となるのはイザヤのメシア預言です。これが「メシア」問題をめぐる唯一の基本資料であり基準となります。預言者イザヤは「その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ見えるようになる。」(イザヤ29章18節)、また「目の見えない人を導いて知らない道を行かせ通ったことのない道を歩かせる行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ見捨てることはない。」(イザヤ42章16節)と古くから預言しておりました。このイザヤによって告知された、メシア到来と真のイスラエルを回復する時の「しるし」を、ユダヤ人であれば、誰もがよく知っていました。まっすぐに、このメシア預言を受け入れていて、そして主イエスがこの生まれつき目が見えなかった盲人の目を開けた、と言うのであれば、メシアの到来を前提に考えるはずです。この盲人は、まっすぐそのまま、このメシア預言の上に立って、主イエスをメシアであると証言しています。しかしエルサレム当局は、「イエスは罪人であり神の冒涜者である」と既に裁定してしまったため、イエスの賛同者は「会堂から追放する」方策を打ち出していました。こうしたメシア排除は、あのヘロデ大王の幼児虐殺と全く同じであり、その動機は、明らかに、自分たちのユダヤ支配の権限を失いたくない、とする支配欲であり権力欲にありました。

こうして、目をイエスさまに開けていただき、生まれつき目が見えなかった盲人が目が見えるようになった、という実際の体験証言から、有力なメシア証言であることは、明かです。少なくとも、主イエスが神のメシアである、という可能性は否定できません。目を開けていただいたこの証人は、厳しいファリサイ派の尋問の中で、はっきりとメシアの告白証言者として生まれ変わってゆく姿が、非常に鮮明に、際立って見えて来ます。最初は、「9:25ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と事実だけを証言するに止まっていましたが、最後は「9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と証言して、ここでは既に明白にメシアを告白する告白証言者となって、生まれ変わっています。「シロアムの池で洗う」即ち「遣わされた者」(後にアポストロス「使徒」の語源となる)として、魂の根源から洗い清められる洗礼の意義がここには具現化されているようにも思われます。

反対に、ファリサイ派の尋問から、ただ主イエスを罪人して排除抹殺したい、という悲痛な欲求がその原動力となっていることがよく分かります。ファリサイ派も最初は「9:15どうして見えるようになったのか」と奇跡の事実を尋ねていますが、「9:24 ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』」とありますように、主イエスをこの尋問の時点では既に「罪ある人間だ」と断定してしまっています。その結果「9:28ののしって言った。『お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。』」と本音が出てしまいます。「ののしって」とありますように、メシアの到来は、彼らとっては、それが真実であろうとなかろうと憎悪の対象となって現れ始めたのです。なぜなら、我々はあの者の弟子ではなく「モーセの弟子だ」と言い切っていますように、どうであれ、メシアのことよりも、律法主義の原理のもとで律法を利用する特権を持つことで我々の権益権限を守るのだ、ということになるのではないでしょうか。イザヤのメシア預言に基づいてメシア到来を検証すべき律法学者としての本来の任務を放棄してしまっていたのです。ユダヤ社会を権力支配の欲求ゆえに、その利権を守るために、律法学者という名のもとにありながら、律法の本質を見失い、「神」が見えない者となっている実態が暴かれます。そしてついにこの尋問により、神の真理をめぐり、「見える者」と「見えない者」との痛烈な逆転劇が展開されるのです。

 

2.「神の前で正直に答えなさい。」(24節)

ファリサイ派の尋問で、「神の前で正直に答えなさい。」(24節)と神に対する誓約が求められています。直訳すると、「神に栄光を与えよ」(Do.j do,xan tw/| qew/|)という意味で、服従と真実な告白を要請する決まり文句です。塚本訳「本当のことを言いなさい」、口語訳「神に栄光を帰するがよい」、リビングバイブル「イエスなんかじゃなく、神様をあがめなさい。やつは悪党だ。」と其々訳しています。尋問や問答の行われる場は、神の栄光のみわざが現される場であり、その神の真実が「見える」はずの側と「見えない」はずの側とが、実際は大逆転してしまうのです。その結果、見えるはずの律法の専門家たちは、神の栄光を現す道筋まで見失うことになります。「見える」とは、「神」を認め、「神と自分や神と世界の「関係性」が分かるようになることではないでしょうか。神が分かり、神と自分との本当の関係が分かるようになると、自分の神に対する在り方や自分自身に対する在り方も、自ずと見えて来るはずです。それが筋の通った生き方として、自分の生きるべき実存として見えて来るのです。神を造り主、世界を被造物、キリストを救い主、人間を救われた者と言われるのは、そうした神と自分との関係性の本質を言い表しています。そのように神と自分との関係がはっきりと見えるようになると、正しい自己認識も明らかになるのです。生まれて生きる人生の目的も、天地宇宙が存在する目的も、実は皆<神の栄光を写し出す(写し返す)>ためにある、ということが分かるようになります。「神の栄光を現そう」と、ひたすら生きて存在する姿はなんと美しいことでしょうか。『ウエストミンスター小教理問答』問1は、「あなたの生きる目的は何ですか。ただ神を喜び神の栄光を現すことが、わたしの人生の生きる目的です。」と告白しています。反対に、「神を喜ぶ」こと、そして「神の栄光を現す(映し出す)」という人生の目的を失ってしまうと、人間も世界もその存在はなんと惨めで悲しいことになるでしょうか。神の栄光のためにではなく、自我欲求のために、神やみ言葉を利用して、真実に神の栄光を現そうしなくなった姿は、なんと醜くみじめに見えることでしょうか。牧師が神の言葉を語ると称して自己顕示を始めれば、それほど醜いことはないと思います。教師が生徒に仕えることを見失い、生徒を利用して、自我欲求を満たすのでは、なんと哀れなことでしょうか。「仕える」ということは、ある意味で、とても難しいことです。特に神を喜び、神の栄光を現わすために仕えるとは、難しいことであります。なぜなら、私たちはどうしても「神」ではなく「自分」の栄光を求めて自我を現して認めて欲しいと考えるからです。そして自分の思うようにゆかなくなると、事態は一変して、偽善は露わになり、全てが崩れてゆくことになります。そうした所謂「奉仕」が教会の中でも余りにも多く、○○派の○○役というような役職のもとに人事と称してさまざまな利害のやり取りが起こっているのではないでしょうか。ファリサイ派の尋問の様子はこうした「奉仕のゆがみ」までも映し出しています。「神」の栄光を映し、「神」を讃美するための律法が、「ファリサイ派」という名のもとで、或いは「祭司長」や「律法学者」という役職を利用して、実際は「神」を否定して自分が「神」に取って代わるかのように権限を発揮し、自我を顕示し自我の欲求を満たす場に変質させていたのです。

 

3.「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」(29節)

ファリサイ派は「我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」と盲人に語ります(29節)。この言葉は、非常に致命的な自己矛盾を露わにする意味深長な言葉と言えます。なぜなら聖書、即ち神の契約「条文」は知っているが、「神」は知らない、と言っているのと同じことだからです。神がモーセに語られたこと、即ち「十戒」ですが、律法を熟知しその運用にまで長けたファリサイ派ですが、しかし肝心要の「神」を見分ける術は持っていなかったなようです。神の「書」とそれを運用する「権限」は持ちながら、生きた「神」は全く見えないのです。あちこちの教会で起こる教会紛争も全て同じことかも知れません。自我のために、真理の目は曇り「神」が見えない、というよりも、もはや見ようともしないのです。12使徒のペトロさえも、ご受難と三日目の復活は告知されていた(マタイ16:21、マルコ8:31、ルカ9:22)にもかかわらず、結局、主イエスを否定して逃亡してしまいました。とても大事なことですが、「別の弁護者(助け主)」(パラクレートス)の助けと導きによらなければ、即ち聖霊降臨を迎えなければ、12弟子たちも「使徒」として、キリストの証言者として立つ(使徒言行録1:8、2:14~42)ことはできなかったのです。自分の「力」によらず、ただ直接の神の霊の「恵み」とその信仰による以外に、神の真理を見分ける道はほかにありません。読めば分かるのではなくて、神の愛と恵みに豊かに触れて光照らされる中で読まなければ、聖書は分からない、すなわち生ける「神」は分からないのです。それは、生ける神とわたしたち自身との人格関係の中に生かされることであり、命の交わりのうちに招かれて、新たに霊と水とによって生まれ変わるのでなければ、即ち神の恵みを認めて受け入れることを前提とすることだからです。この生きた命の交わりと出会いの体験が、わたしたちを救い、わたしたちに信仰に生きる恵みを与え、聖書を読んで聞き分ける力を与え、そして誠に神を喜び、神の栄光を現わす奉仕の形を生み出すのです。この命の愛と恵みを知らなければ、すなわち感謝と喜びが本当の意味で分からなければ、本当の意味での奉仕も謙遜も分からないのです。結局、力づくの傲慢と強迫の罠に陥ってしまうのです。

 

4.「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方はわたしの目を開けてくださったのに」(30節)

こうしたファリサイ派の錯誤と偽善に対して、はっきりと盲人は、「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議ですあの方はわたしの目を開けてくださったのに」(30節)と証言し告白します。事実上の<メシア告白>と言えます。そして間髪を入れずに「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめその御心を行う人の言うことはお聞きになります。9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ何もおできにならなかったはずです。」と、尋問における証言・告白の閾をさらに超えて、ファリサイ派に対する反駁弁証へと進んでいます。本来律法を解釈する資格を有するファリサイ派と、罪人とののしられた盲人との「役割」が逆転しています。

ここでしっかり読み解いておきたい点は、盲人が「わたしの目開けてくださった」と証言していることです。「他人」ではなく、「自分」の目を開けられるのは「神」だけであり「メシア」だけであります。その「神」が、その「メシア」が「自分」の目を開けてくださった、と言っています。ここでとても意味深い点は「自分」の中に働く「神」を告白している所です。生ける「神」は、ただ単に一般的に、生きて働いておられる、というのではないのです。唯一真の神が最も明白にそして最も力強く愛をもって働いておられるのは、この「わたし」のただ中においてである、という神のリアリティーです。自分の中にこそ、最も神の愛も恵みもが完全に実現している、という歓喜の喜びであり、感謝と栄光讃美であります。

加齢とともに、自分の内側から壊れてゆく実感を覚える今日この頃ですが、死と滅びを間近に迎える中で、その破れて壊れ果ててゆく自分の中にこそ、生きた神の愛と恵みは働いているという体験であり告白であります。自分の中にこそ、真の神は最も力強く働いている、そこに神の愛と栄光のみわざが鮮やかに示されている、ということがよく分かる、それは、とてもありがたいことであります。信仰とはそういう自己における生ける神の体験であり、その恵みによって導かれる実存体験であります。それはただ神の栄光の場であり、それはただ神の恵みの満ち溢れる場であり、愛される喜びに溢れる場であります。そこには恐れも強迫も、自我も欲求も何もありません。ただ感謝に溢れるばかりです。献げるものなど何一つないのですけれども、感謝という喜びを献げるばかりであります。

 

5.「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(25節)

この盲人は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(25節)と、非常にはっきりと、今ここにある現実を言い表します。いろいろ読み方が可能な所だと思いますが、本段落の一番の急所は、ここにあるのではないでしょうか。この「今は見える」という表現は、「神」とその真理が見える、そして神と自分との新しい関係が明らかに実現されたことを暗示します。今ある自分の立ち位置(立脚点)についての自覚であり、自己認識を意味します。主イエスの愛と栄光のみわざに与り、つまり十字架による罪の赦しを知り、復活という永遠の命による新生を受け入れることで、自分の死と滅びのうちに「神」が生きて働き栄光のみわざを行われたことが見えるようになると、今度は新しく生まれ変わる希望の自分も見えるようになったのです。今見えるとは、単に肉の眼ではなくて、信仰の目、魂の目、霊の命の現実でもあります。主イエスの栄光のみわざに与り、自分の本当の生きるべき目的と意味が今見えるようになったのです。「今は見える」という体験の奥行が感じられるのではないでしょうか。世界の真理が全く見えなかったわたしがはっきりと真理が見えるようになったのです。今、何もかもが見えて分かる、というのです。本当の悲しさも喜びも、人生の意味も、この世に生まれ生きる意味も全てが見えるようになったのです。確かに、信仰と言っても、真理が見えると言っても、わたくしたちの信仰は完全ではありません。だからと言って、不完全であることを恐れるのではなくて、むしろ不完全な信仰であることをよく知るべきであります。見えないわたしと、今は見えるようになったわたしとを、しっかり判断できるようになることです。しかしもっと大切なのは、その中心に、自分の中で「神」が生きて働いて栄光のみわざを行ってくださること、この生きて働く神の愛と恵みのもとで、わたしたちは日々見えるようになっているといことです。そのような意味で<学び>は非常に重要です。学びは、見えないわたしを、そしてまだ何が見えていないかを、更に今は何が見えているかを、鮮やかに教えてくれます。しかしそれ以上に、学びとは、わたしの内で神が生きて働き栄光のみわざが行われておれるという愛と恵みである、ということです。そういう「神のみわざ」による恵みの結果であるという意味で、こうした聖書の学びや教理の学びは、とても大切なのです。謙遜に学ぶことから、わたしたちの信仰のすべては始まるのです。ハイデルベルク信仰問答は、「知る」ということをとても大切にしていますが、「今目が見える」とはそういうことも意味しているのではないでしょうか。

 

6.「神の業この人現れるためである。」(3節)

主イエスの「神の業がこの人に現れるためである。」(3節)という教えとみことばを、9章の冒頭に立ち帰りながら改めて考え直してみますと、神のみわざが現れるとは、どういうことか、よく分かるのではないでしょうか。ただ肉の眼が開いて、物が見えるようになった、という物理的な奇跡のことでしょうか。イザヤの預言に「目の見えない人を導いて知らない道を行かせ通ったことのない道を歩かせる行く手の闇を光に変える」(イザヤ42:16)とありましたように、それは、あなたのためにあなたに対して「神」は降り、あなたを救い、あなたを導き上る、ということではないでしょうか。この盲人は、ついに事実上のメシア告白に至ったように、自分の救いのために到来して生きた働く「神が見える」ようになった、しかもその生ける「神」は、主イエスにおいて、自分のうちに最も鮮やかな「栄光のみわざ」を現されたのです。それはただ単に肉の眼が開いただけではなく、人格の根源から暗闇から光の世界へと生まれ変わったことであり、神と敵対する罪の関係から、神の愛と祝福のもとに平和に生きる永遠の命に導かれたことでもあります。神がおられると確信できる、神の御心に思いを向けて寄り添う生き方を知る、神の恵みのみわざを受けている、その恵みを具体的に一つ一つをはっきりと数え上げることができる、常に神と共に生きている、そして神を喜び神の栄光を現すために生きる、という一連の信仰生活に導かれることでもあります。神のご支配とみわざの内に、即ち「神の国(神のご支配)」に招き入れられて、新たに生きる者となったのです。神の愛と憐れみにより、「物」を見る世界を超えて、「神」を見る世界へと招かれ導かれて、新しい生に生きる恵みを与えられたのです。神の業、神の栄光のみわざが現れるとは、そういうことではないでしょうか。究極は、十字架と復活の主イエスに「わたしはある」とモーセに名乗りを上げた神を見た、いうことになるのではないでしょうか。主イエスのみわざにおいて、神の臨在に触れたのです。

 

2022年2月6日「あの方は預言者です」 磯部理一郎 牧師

 

  1. 2. 6 小金井西ノ台教会 公現第5主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教36

説教「あの方は預言者です」

聖書 イザヤ書43章8~15節

ヨハネによる福音書9章13~23節

 

 

聖書

9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。9:14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった

9:15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」9:16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。

9:17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。9:18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、9:19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」9:20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。9:21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」

9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。9:23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

 

 

説教

はじめに. 大きな乖離の中で

主イエスはご自身から「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8:58)と表明され、かつて神がモーセに啓示された「わたしはある」という神の名をそのまま名乗って、ご自身の真相を自己啓示をなさいました。「8:59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」と記されていましたように、明かに、ユダヤ人たちは、主イエスを神の冒涜として石打ちの刑をもって処刑しようとした、と考えられます。しかしニコデモのように、あくまでも律法を公正に適応すべきことを主張する慎重派もあったようです。言わば、ユダヤ人たち、とくに宗教的権力者たちの間が二分されていたのではないかと考えられます。そうした事情が、今日の9章13節以下から窺い知ることができます。先ず「9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。9:14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった」とありますように、律法学者たちは、安息日規定の違反行為と見なしています。一種の安息日における治療行為と判断したのではないでしょうか。ユダヤ人たちの関心は、あくまでも、自分の都合のよいように律法を利用して権力権限を顕示し、自分たちの特権を保持することです。真意は、決して「神」を誠実かつ謙遜に求めることではなく、自分が神の代理者となることでありました。しかしそうは申しましても、やはりユダヤ人の中にも、神を恐れる者もおり、慎重に真相を確かめてから、と考える人々もいたようです。そこで一番気がかりとなった点が、目を開けるというしるしの是非でありました。生まれつき目の見えなかった全盲の人が、本当に目を完全に開けられて目が見えるようになったのか、その真否が問われたのです。そこで、その真否を確認するために、かつて生まれつき盲人であった人物の両親までが呼び出されて尋問を受ける、という場面が、本日の話です。その真否によって、ある重大な問題を解決しなければならなかったからです。即ち、本当に主イエスは「メシア」であり、「神のもとから来た者」であるかどうか、主イエスとはだれなのか、という謎を解くことにありました。ユダヤ人律法主義者たちは、自分たちの権限権力を守るために、律法を利用して、主イエスを犯罪者として抹殺しようとする権力主義者と、しかしそれは慎重に確認したうえでなければならない、とするニコデモのような良識派との分裂を背景にしていたようであります。

しかし他方、主イエスのお立場は、9章4節以下に「9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業をまだ日のあるうちに行わねばならないだれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは世にいる間世の光である。」9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」とありましたように、主イエスご自身は、明らかに、父から委託され遣わされた栄光のみわざを実現すべく、十字架の死に向かって、突き進んでゆかれます。モーセに「わたしはある」(出エジプト3:14)と示されたように、わたしは「わたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。3:8 それゆえ、わたしは降って行き、(中略)彼らを導き上る。」ために、まさに十字架の死における贖罪を通して、民を、しかも罪ある民の罪を赦して、神のもとへ導き上るのであります。

 

1.「ファリサイ派の人々のところへ連れて行った」(9:13)

9章13節に「9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。」と記されています。ファリサイ派のもとに連れて行ったのは、二つの理由が考えられます。一つは、治療が本当に「奇跡「であったかどうか、すなわち<神のみわざによるしるし>なのかどうか、公に奇跡判定を行うためであった、と思われます。もう一つは、治療の経緯はどうであったか、その治療過程に、律法規定に基づいて正しく行われたかどうかということよりも、真意は安息日規定違反を立証するためであった、と思われます。「ファリサイ派」は、まさに安息日の禁止行為にこの治療行為に相当すると、律法に基づいて尋問し証言させたかった、のではないかと思われます。しかしここにはディレンマがあります。本当に奇跡であり神のしるしであれば、主イエスを「神のもとから来た者」として否定できなくなってしまいます。完全に治癒した、即ち、汚れが清められたかどうかは、厳密に言えば「祭司」(コーヘーン/ヒエリュース)の判断によるのですが、完全に癒されたのであれば、祭司が治癒の証明をすることになり、祭司が主イエスをメシアとして認めることになります。一般に祭司は、聖所(「天幕」「契約の箱」「祭壇」と祭儀器具)に仕え、ささげものをするために任職された聖職ですが、祭司はまた、らい病の診断をして、公にそれを宣言する権威を与えられており(レビ13:1‐59)、祭司の宣言は「汚れている」(レビ13:3,8等)か、或いは「きよい」(レビ13:6,7,13等)かであり、「汚れ」は「罪」、「きよい」は「聖」と考えられていました。生まれつき目が見えない人が完全に目が見えるようになったことを確認検証することは、そのように二重に真偽が問われていたのです。

 

2.「土を捏ねて」(14)「捏ねた土を塗り」(15)

この癒しの過程について「土を捏ねて」(14)「捏ねた土を塗り」(15)と詳細に記しています。「土を捏ねる」ことは一種の労働行為と見なされ、安息日規定の禁止行為となり、その結果「その人は、安息日を守らないから、「神のもとから来た者ではない(Ouvk e;stin ou-toj para. qeou/ o` a;nqrwpoj)」と結論づけられます。明らかに、律法違反者であり冒涜者として断罪できることを意味します。

 

3.「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」(16)

しかし他方で、証言通り、生まれつき目の見えない人が目が見えるようになったのであれば、「奇跡」となり、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」(16)という全く反対の立証となります。「しるし(shmei/on shmei/a)」とは、神が目の前で生きて働いておられることを示す象徴または記号となる行為や出来事を意味します。ここでは「複数形」で使用されていますように、主イエスのみわざ全体を、場合によって主イエスご自身の存在そのものをも含めて、語ることばも、為すみわざも皆、「メシアのしるし」と捉えているようです。「しるし」は新約聖書中77回登場しますが、頻度はヨハネ福音書が最も多く17、マタイ13、使徒13、ルカ11、マルコ7、ヨハネ黙示録7、となります。ヨハネ福音書では以下のように使われています。

「ヨハネ2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」「3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています神が共におられるのでなければあなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできないからです。』」「4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。」「6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」「6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」「7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った。」「10:41 多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』」

このように、「しるし」という語は、まさに<メシアの到来>のしるし、あるいは<メシアである>ことの実証として、ヨハネ福音書では共通して用いられているようです。主イエスが、神のメシアとして遣わされメシアのわざをおこなっている、と理解する人も大勢いたと考えられますが、しかしその時は既に、イエスをメシアと認める者は会堂から追放することが決められていました。

 

4.「預言者です」(17節)

その証言を取るために、ユダヤ人たちは執拗に尋問を続けて、「お前はあの人をどう思うのか」と問います。目が見えるようになった人は「預言者です」と答えます。この「預言者です」という答え方は、意味深長です。おそらく内心は、明らかに「メシア」であると信じているはずですが、律法違反の加担者として見なされ追放を恐れた結果、そうは言えないので「預言者」と答えたのではないでしょうか。なぜなら、9章22節でも彼の両親が「ユダヤ人たちを恐れていたから」と明記されていますので、家族全体が内心は「メシア」告白をもちながら、迫害を恐れて「預言者」と答えることにしていたとも想像できそうです。ペトロでさえ、捕縛を恐れて、主イエスを3度否定した(マタイ26:31~35、マルコ14:27~31、ルカ22:31~34、ヨハネ13:36~38 → マタイ26:69~73、マルコ14:66~72、ルカ22:56~62、ヨハネ18:15~18、25~27)のですから、精一杯のメシア証言であり、信仰告白となる可能性を秘めていると言えます。

 

5.「ついに、目が見えるなった人の両親を呼び出して」(18節)

ファリサイ派の人々による尋問は執拗に続けられます。13節「前に盲人であった人をファリサイ派のところへ連れて行った」(15節)「そこで、・・・どうして見えるようになったのかと尋ねた」(17節)「そこで、人々は盲人であった人に再び言った」そして「両親を呼び出して」(18節)「尋ねた。・・・息子で、生まれつき目が見えなかった・・・それが、どうして今は目が見えるのか」(19節)とありますに、徹底した尋問が行わたことが分かります。注目すべき点は、この異常なほどに執拗な尋問の背景です。ファリサイ派をこのように執拗な尋問に駆り立てた事情は、「こうして、彼らの間で意見が分かれた」(16節)からであります。つまりユダヤの権力者たちの間に分裂が生じていたと思われます。たとえば、ニコデモの事例からも分かるように、それでも、夜遅くに人目を忍んで、主イエスを訪ねて、真理を求めたユダヤの教師たちもあった、と考えられます。彼らラビたちの間で、主イエスの権威(神から出た者)をめぐり、大きな混乱が生じており、それが大きな分裂となり始めていたのではないでしょうか。だからこし、中枢の権力者たちは、主イエスの処刑を急ぐ必要があった、と考えられます。主イエスを認め主イエスの処刑に慎重な態度を取る側の論拠は「こんなしるしを行うことができる」(16節)という目の前に起こった厳粛な事実からであり、処刑を一層と急ごうとする側の論拠は「安息日を守らない」(16節)という、言わば律法解釈を超えた、超法規的で大胆な主イエスの行動によるものでした。ユダヤ人たちは、確かに主イエスの力を恐れており、さらに大勢の民衆や罪人たちが主イエスに従って大きな宗教運動のうねりとなっていたこと、それに加えてユダヤの権力者たちやラビの間にも分裂が生じ始めていたこと、最終的にはユダヤの共同体を保持していた律法主義社会が崩壊するのではないか、という二重三重の恐れの中で、イエス問題と向き合ってゆかねばならなかったのではないでしょうか。

 

6.「もう大人ですから、本人にお聞きください」(21、23節)

ユダヤ人たちは、目が見えるようにされた人物の両親にまで、尋問を繰り返しますが、両親は「もう大人ですから、本人にお聞きください」(21、23節)と答えています。奇跡の真相は、当事者でなければ分からないことであり、その本人の意志により真相を確認してください、と両親は答えました。確かにその通りで、当事者でなければ「真相」は分かりません。しかし「9:22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば会堂から追放すると決めていたのである。9:23 両親が、『もう大人ですから、本人にお聞きください』と言ったのは、そのためである。」と明記されていますように、実はその本当の背景には、処罰が怖くて、自分の立場では言い逃れをしていたのです。大切な点は、ユダヤ人たちに対する言い逃れは出来ても、神さまに対する真意はまだ問われ続けるということです。本来は信仰の問題として「自分たち」も深刻な問いの前に立たされていることは否めない事実です。

この言葉から与えられる一つの示唆は、真相を「本人」から聞く、という考え方です。理想を言えば、皆が其々「本人」「当事者」として神の前に自覚的に直面し、神に対して誠実かつ忠実に<神の証言者>として立つべきであります。ルターは『キリスト者の自由』という本で、信仰者の自由とは、キリストへと向かうキリストへの自由である、と説いています。自立した人格の本当の自由とは、キリストに向かう自由である、と言います。確かに、この生まれつき目が見えない人物がキリストによって目が見えるようになったという奇跡の真相は、本人でなければわからないことです。しかし、いよいよ本当のことについては、何が起こっているのか、場合によっては、本人さえもその真相を完全に理解できることはできないのではないでしょうか。神の超越的行為を人が完全に理解して知るということには限界があるからです。人間に理解できる、証言できる、というのはほんの僅かで、しかも主観的な仕方でしかできないことです。自然を超える神の真相究明は至難のわざであります。そこで、人間にさらに求められる態度は、神に対する全幅の「信頼」と、そして自分に対しては「破れ」を認める「謙遜」です。神は全知全能の創造者として全てを知り全てを究めるお方ですが、人間は破れと限界にある被造物としてどこまでも謙遜であり、神を信頼して憐れみを求める外に道はありません。

ルターはまた、人間の「自由意志」に対して「奴隷意志」を説きます。人間の意志には、自らキリストに向かう自由は「罪」ゆえに堕落し破壊されてしまったため、その結果、どれほど自由を求めても「神への背き」になってしまう、というのです。そしてこの罪の奴隷から人間を根源から自由に解放してくださるお方こそ、主イエス・キリストであり、その愛と恵みよる外に、自由と解放はない、と教えます。先週、ヨハネ福音書9章7節「シロアム」という意味についてお話しました。泥で塞がれた目を「シロアム(遣わされた者)」で洗うのです。これは「洗礼」を象徴しているようにも読めないでしょうか。罪と破れに支配された全身全霊を、人間性の本質を、主イエスの十字架における贖罪の愛と力と恵みのもとで洗い尽くし、主イエスの霊と身体に与って、キリストの霊と身体として新たに生まれ変わり、新天新地に立つのです。シロアムで泥を洗った本人だけが、初めて目に見ることのできる新しい命の景色です。同時にまた、洗われて新天新地が見えるようになった本人だけが、新たに遣わされた者(アポステロス「使徒」)として、主の福音とその喜びを伝える全権を委任委託されて立てられ、「神の証人」として真理の証言者となるのです。それは自分の力に頼る自由でも人間の意志によるものでもなく、ただ奴隷のように主に縋る信仰によるばかりであります。このように、自分の破れに沈みつつ、神の愛と恵み豊かな力によってのみ、自由と解放は与えられます。言わば、キリストの十字架における神の愛と恵みのもとでは、私たちはただそれを受けるばかりであり、それは自由と言うよりはむしろただ恵みに浸ることであり、神の愛と恵みの奴隷や神の乞食となることであり、それは最早自由でも意志でもなく、強いて言えば「奴隷的な意志」にすぎないのではないでしょうか。この生まれつき目が見えない盲人の目が見えるようなった奇跡の真相とは、まさに、真実な神の愛と恵みに触れた、ということに尽きるのではないでしょうか。

この人物の両親は、これは自分たちの問題ではなく、「他者」(本人)の問題だとして、この神の愛と恵みの前に自ら立つことを避けているように見えます。よくあることですが、教会員の親が「子の信仰」を問題にするとき、人格として独立した「他者」「本人」の信仰の問題である、と対応する状況とよく似ています。幼児洗礼をめぐり、さまざまな議論があるのは周知の所ですが、自分は自分、他者は他者という態度から、結果として、信仰における「個人」を超えた普遍的な神の愛と恵みを拒否することになり、神の愛と恵みの「普遍性」に対する信頼を失うことになります。<共に神の前に立ち、神の愛と真理の前に一つとなる>という信仰における共同性が失われてしまうのです。神の愛と救いの前に、自己も他者もその区別はないはずです。家族が一致して神の愛を信頼することよりも、其々の人間的意志や判断に重心が移り、その結果、共同の信仰よりも個人の人間が主となる人本主義となり、一致して神の前に立つことはできなくなってしまうのです。こうした近代現代のキリスト教の在り方は、実はルターやカルヴァンのような宗教改革におけるキリスト教とは本質的に変異してしまったことも覚えるべきではないでしょうか。現代の教会は改めて「信仰」を問い直すべきかも知れません。

謙遜と信仰においてのみ、人は神と共に生きる道を見出すことができます。神に向けて心の目が開かれ、心身を神の愛と恵みに明け渡すことを学び覚える信仰訓練の中で、初めて「神の栄光のわざ」は確かな「わたしの救い」という「福音」となって明らかに現れ光輝き始めます。教会での信仰生活は、神の十字架における栄光の奇跡に対する信頼と学びであり、ついに神の栄光のわざは、「みことば」によって働き、わたしたちのうちで日々新たな追体験となり、教会の豊かな共同体験として世に実証されるのです。

2022年1月30日「神のわざがこの人に現れるために」 磯部理一郎 牧師

 

  1. 1. 30  小金井西ノ台教会 公現第4主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教35

説教「神のわざがこの人に現れるために」

聖書 エゼキエル書18章14~20節

ヨハネによる福音書9章1~12節

 

 

聖書

9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない神の業がこの人に現れるためである。

9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

9:8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで行って洗ったら、見えるようになったのです。」

9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 

 

説教

はじめに.「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」

ヨハネによる福音書9章に入りまして、生まれつき眼の見えない盲人が登場します。「9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」とその様子を聖書は告げます。すると、いきなり弟子の一人が、極めて深刻な難問を主に問います。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と、人間の宿命的と言える重篤な病いや障害の原因は、その人の「罪」に原因するものなのか、という問いであります。さらに率直に言えば、病いも障害も、その人の罪に原因するゆえに、それは自業自得なのか、という問いにもなりましょう。弟子の問いの本質は、「生まれつき目が見えないという「障害」と「罪」との「因果関係」を問う、とても深刻で重い問いです。しかも障害は、不治の障害であり「生まれつき」定められた障害ですから、その障害は、生まれる前に「犯した罪」に起因する、ということになり、「それとも「目が見えない」という障害の因果関係は、その親の罪、場合によっては一族郎党という親族共同体全体に起因しているのではないか、と問うています。場合によっては、母の胎内にいた胎児の時に既に罪を犯していたのか、「それとも、両親ですか。」という問いになります。子ではなく親の犯した罪の因果が子に報いた結果なのか、障害の「原因」には「罪」があった、と想定する問いです。

 

しかし仮に「罪」がなかったとすれば、その障害や災禍は、きわめて理不尽かつ不条理であり、そうした理不尽な障害を負わせるのは、いったい誰なのか、と障害の原因をさらに問うことになります。特に聖書の信仰では、神は全知全能であり、聖にして義なる神であり、自由にして愛の神のであると信じられて来ました。世界万物は神によって無から創造されたとする「無からの創造」(creatio ex nihilo)をアウグスティヌスが説きましたように、災禍の原因と想定される「悪」の根源的な実在性については、キリスト教では消極的か、むしろ否定的です。善と悪の二元的対立を想定するのではなくて、限りなく「無」または「混沌」の闇からの創造です。それは創世記が「1:1 初めに、神は天地を創造された。1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。1:3 神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」と告げる通りです。では、このように神の全知全能と神の正義のもとに、どうして障害や災禍は生じるのでしょうか。災禍を引き起こす根源として、多くの人々は「悪魔」や「悪」の存在を想定しました。ヨブ記や詩編73編にも、そうした思想が背後に見え隠れします。こうした問いは、根源的には、罪を初め諸悪の存在は、全能な神の善性と決して矛盾するものでない、ということを明らかにしようとしたライプニッツなどの「弁神論」(théodicée)、或いは「神義論」と深くかかわる問いでもあります。いずれにしても、どうようにして悪や罪は存在したのか、しかもその悪の存在と神はどのように関わられるのか、という悪の根源を問う問いにもなります。無からの創造者である神が、お造りにならなければ、存在できなかったはずではないか、という神の義と悪とは矛盾しないのか、という非常に難しい難問いであります。「悪霊」もしくは「悪魔」の存在もとても気になる所です。

「悪魔」は、確かに、神に敵対する霊的存在として実在する、と聖書において考えられているようです。悪魔、或いは、悪魔の別名として用いられている「サタン」は、ヘブライ語では元々「敵対者」を意味していたようです(マタイ4:10‐11,黙示録12:9)。本来は、神の御使いでありましたが、その虚栄と傲慢ゆえに神から離反して堕落し(イザヤ14:12‐15)、そして悪魔は、エバの虚栄心や欲望を餌に、神の言葉に背くよう誘惑し、人類の始祖の原罪を誘発させ(創3:1‐7)、さらにヨブに対しては、神を呪うよう誘導し(ヨブ1:6‐19,2:1‐7)、神の御子である主イエスに対しても、聖書の言葉をもって誘惑し試みています(マタイ4:1‐11)。そして現在も、信仰者の堕落を誘い(Ⅰペトロ5:8)、その働きは執拗で(ルカ4:13)かつ狡猾(Ⅱコリント11:3,14)であると言われています。

しかし悪魔は、神の創造の秩序と恩寵からの堕落ですから、決して神にまさるものではありません。キリストはこの堕落した悪魔に勝利します(ルカ10:18,黙20:7‐10)。それゆえ信仰者も、主イエスの十字架の勝利のもと、主イエスに背負われ担われた新しい命の身体ゆえに、即ち教会の恵みゆえに、勝利は確かであります(ヤコブ4:7)。決定的に意味する点として、聖書の語る真理は、主イエス・キリストの十字架の栄光における完全な勝利と完成です。荒れ野における誘惑でも、また十字架を回避しようとする誘惑において、主イエスは人間性の全てを背負い、十字架の死に至るまで神への従順を貫き、死をもって人間の罪を償い尽くして贖いを成し遂げ、神の義のもとに永遠の命の勝利と栄光を勝ちとられたのです。どんな秩序からの堕落も、どんな存在の堕落も、キリストの十字架の死に至る贖罪という栄光において、全ては神の愛と祝福溢れる赦しのもとに招き入れられたのです。

 

1.「神の業がこの人に現れるため」

この弟子の深刻な問いに対して、主イエスは即座にきっぱりと答えます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と断言されます。最も注目すべき点は、答えの結語で「神の業がこの人に現れるため(i[na fanerwqh/| ta. e;rga tou/ qeou/ evn auvtw]」とお答えになり、神の創造のみわざを現わす(fanero,w( fanerwqh/|)ために、生まれつき目の見えない人が神に選ばれ、立てられ、用いられるためである、と神の御心と新しい創造のご計画を明らかにされました。弟子の問いは、「生まれつき目が見えない」という障害の原因は、「罪を犯した」(h[marten 動a`marta,nw直アオ能3単)からだ、という罪責にあるのではないか、神のその罪責を問われ、罰をお与えになったのか、と問うていましたが、主イエスは、障害の原因が罪を犯したからではない、とはっきりと否定しました。「生まれつき目が見えない」という彼の障害の場は、最初からそして根源的には、神の栄光のみわざが現われる場となる、と告知しました。意味深い点は、神の栄光の場とするために、その障害の場が用いられ選ばれているという点に、啓示の光が鋭く射し込んでいます。この世の価値や人間の主観的な考えからすれば、確かにそれは宿命的な欠けであり痛みです。しかし主はその場を敢えて選び、用いるのであります。しかもそれを「神の栄光」の場とするのです。まさらにそれこそ「神の国の到来」を告知する場となるのです。永遠の神の栄光のみわざが現れる場として、障害という人間からすれば完全に見捨てられた暗闇の世界は、神の栄光の光に照らされる場として「福音」そのものの場となるのです。主イエスが「わたしは世の光である」と仰せになられた、正に「世の光」の到来したのです。神の栄光が光り輝く場が、この世にあるとすれば、まさにその場所は「理不尽」かつ「不条理」と言うべき場ではないかと思います。弟子を初めわたくしども信仰者にとって最も大切なことは、心の目を神の栄光のみわざに向け直して、神のみわざを認めて受け入れることにあります。すると、人間中心の闇の世界は、神の栄光の光の世界が心の目に見え始め、神の栄光のもとにある「新しさ」を生きるべき場に転換するのです。それは、新たに生きるべき「希望」となります。絶望は希望の光照らす場となるのです。障害の「原因」を問うことから、障害の「目的」へと目覚め、「後ろ向き」から「前向き」へと方向転換をして、「絶望と苦悩」から「希望と喜び」へと生きる場は変わるのです。神の栄光のみわざが実在することを知ると、世界の全ては神のもとにあって、栄光に満ち溢れる場でなるのです。信仰には、そうした全ての意味を転換させる力があるのではないかと思います。シュラッターは、この欠けた姿からはるかに豊かなものを受け取り、重荷によって、神の恵みと栄光を受け取る、と解き明かしています(『ヨハネ福音書註解』178頁)。

 

2.「わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」

「神の業がこの人に現れる」と主イエスが断言できる根拠はどこにあるのでしょうか。それを主イエスは、名によって証明なさるのでしょうか。主イエスは、何よりも先ず、ご自身のうちに現れる栄光のみわざにおいて、証明し保証しその根拠となさるのであります。結論から言えば、ご自身の十字架の死における栄光によって、であります。主イエスは9章4節で「わたしをお遣わしになった方の業をまだ日のあるうちに行わねばならない」と仰せになり、主のみわざをお急ぎになります。「わたしをお遣わしになった方の業(ta. e;rga tou/ pe,myanto,j me)」とは、何でしょうか。「まだ日のあるうち」にとは、いつのことでしょうか。「わたしをわたしをお遣わしになった方」とありますように、この言葉は「わたし」とそして「お遣わしになった方」との関係性を示しています。言わば「父」が「子」を遣わすという神の内在的な関係性に言及しています。父・子・聖霊という神のみわざの特徴から申しますと、父は創造し、子は贖罪と和解を果たし、霊は救贖を完成に導く、と考えられます。したがって「まだ日のあるうちに行う」とは、そうした父と子との関係性において担うべき「子としての救済のわざ」を急ぐことを意味します。それは、「人の子」として受肉して、喜びも悲しみも人間性の全てを受肉のキリストとして背負い、十字架の死において贖いを果たすことであります。父は子をメシアとして遣わし、子はメシアとして贖罪のわざを果たすとき、即ち「十字架の栄光」の時を急ぐのです。ご存知の通り、主イエスの十字架の死ほど、不条理理不尽なことはなかったのではないでしょうか。神であるのに人として貶められ裏切れ、陰謀と偽証の末に極刑を受け、屈辱に満ちた罵りの中で絶命してゆく十字架の死です。しかしその十字架の死こそ、人類の全ての罪を償い新しい永遠の命を与える贖罪の死であります。まさに十字架の死という絶望の場は、永遠の勝利と命に溢れる栄光の場となっているではありませんか。これこそ、生まれつき目が見えない人のうちに働く、神の栄光のみわざではないでしょうか。

だれも働くことのできない夜とは、主イエスが去り、主イエス不在となる夜であり、終わりの裁きを迎える時でもあります。そうなれば、誰も代わって罪から贖えるメシアはおられないのです。ただ裁きを受けるばかりで、もはや何もなす術はありません。ここでヨハネは、主の十字架の死の栄光を証言しつつも、もう一つの重要な主題を語ろうとしているのではないかと思います。それは、十字架の栄光に対する応答としての「信仰」の告白であり、告白証言であります。ここで既にお気づきかと存じますが、前回触れたあの「わたし」と「わたしたち」の重なり合いがこの箇所でも生じています。「9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」とありますように、9章4節冒頭の「わたしたち」と4節と5節の「わたし」です。「わたし」は、受肉キリストとして贖罪のわざを完了してしまう十字架の栄光と、それを信じ受け入れられるようにと、いよいよみことばを語りさまざまな啓示のみわざを行って、人々から「信仰」という収穫を得るのでなければならない、と行動を急がれる主イエスのみことばに、「わたし」に「わたしたち」を重ねて合わせるように、今度はヨハネとその教会が、主の十字架の死の栄光を告白証言するのです。「わたしたち」も、即ちヨハネとその教会も信仰の収穫を今急がねばならないのです。「世の光」である主イエスのおられるうちに主イエスの救いに、主がお導きくださる主のみことばに今こそあずかるのです。主イエスにも定められた「みわざの時」がありますが、実は私たちにも、定められた「信仰の時」があるのではないでしょうか。主イエスには栄光の十字架の時に至るまでが、そして私たちには、みことばが語られ聞かれているうちに、今こそ「信仰の決断」が迫られるのです。どんな迫害や逆境の中に痛み傷つこうとも、その痛み傷づく苦悩こそ、十字架における神の栄光のわざが鮮やかに現れ出る場となるのです。

 

3.「シロアム(遣わされた者)」で洗う

ついに主イエスは、この盲人の目を開けます。「わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」と仰せになって、すぐにこの盲人の目を開けるのです。「9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に(eivj th.n kolumbh,qran tou/ Silwa,m @o] e`rmhneu,etai VApestalme,noj#)行って洗いなさい」と言わます。「そこで彼は行って洗い目が見えるようになって帰って来た」のです。この癒しのみわざ全体は、非常に意味深長で、かつ象徴的に描かれているように思われます。一つは、「遣わされた者」という類似表現を用いることで、「父による子の派遣」と啓示者イエスによる「使徒の派遣」を重ね合わせているようであり、しかもそこでは「神の栄光」が二重に共有されるかのように、主の十字架の栄光とこの盲人の癒しにおける栄光が、一体構造として暗示されているように読めるからです。また「洗って」という洗礼を象徴する表現のもとに、肉の眼よりも信仰の目が開かれて「使徒」として、キリストの告白証言者として新たに立てられ遣わされる、という象徴です。

先ず「『シロアム行って 洗いなさい』と言われました」(11節)が、「シロアム」とは、旧約聖書の「シェラの池」としてネヘミヤ記3章15節に登場します。引用しますと「泉の門を補強したのはミツパ地区の区長コル・ホゼの子シャルンである。彼はそれを築き上げ、屋根を付け、扉と金具とかんぬきを付けた。また王の庭園にあるシェラの池の壁を、ダビデの町から下ってくる階段まで補強した。」とあります。ヨハネや福音書では「シロアム」は「遣わされた者」と解釈されます。元々は「送るもの」すなわち「水道溝」を意味していたようです。エルサレムの南東部の長方形の石造りの池で、長さ17.7メートル、幅5.5メートル、深さ6メートルで、ギホン(処女)の泉水がトンネル水路を通って、この池に注がれていたそうです。歴史背景はそういうことになりますが、「遣わされた者」(avposte,llw VApestalme,noj 遣わす・送り出す)とギリシャ語訳が付された所に、ある特別な意味が込められいます。この用語は、新約聖書では後に「使徒」の語源となる言葉です。神の完全な委託を意味し、その全権を委任されることを意味します。また主イエスご自身は常に「わたしをお遣わしになった方の業(ta. e;rga tou/ pe,myanto,j me)」を行うと仰せになっておられました。主イエスの場合(pe,mpw)とこのシロアムの場合(avposte,llw)とは使用される用語は異なりますので、両者を直結できませんが、主イエスご自身をメシアとして信じて受け入れて、主イエスのもとで癒しを受ける、ということを暗示するように読めそうです。しかし明らかに、シロアムの池に行き洗う、という生まれつき目の見えない人の行為は、神の栄光のわざが現われる場所として、この人が「遣わされた者」として用いられており、主イエスによりこの人物において、神の栄光のわざが全権をもって委託され完全に委任されて、「遣わされた者」としての行為であると言えます。だからこそ、「目が見えるようになって帰って来た」(ヨハネ9:7)とありますように、この人は、主イエスのみことばに従い、「行って、帰って来た」のです。同様に、「20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:23)と、主イエスは宣言し、弟子たちに「罪の赦し」という福音の宣教を全権委託します。のちに教会史においてこの「使徒」職は「監督」職として受け継がれますが、大切なことは、神の栄光が現れる場として選ばれて用いられる、ということにあります。キリストの十字架における栄光のわざが、それを信じ受け入れた告白証言者に体験され、そのうちに投影されて一体かされて、使徒として立てられてゆくのです。神のみことばによって遣わされる者となるとは、そういうことです。この人物は、その通りに、生まれつき目の見えないという現実をそのまま背負いながら、しかし目が開けられて、主イエスのみことばに従い行動しましたが、まさにその行動こそ、遣わされた者の場となって、神の栄光が現わされたのです。

 

4.「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」(6節)

主イエスの癒しのみわざについて詳細に触れますと、安息日規定よれば、唾の利用は安息日禁止事項に抵触する、と解釈されそうです。一種の治療行為とみなされる恐れがあるからです。しかし理解し難いのは、なぜ唾で土を捏ねて、その泥をこの人の目に塗ったのでしょうか。この世の世界も神の真理も「見える」ようにする、というのであれば、清水(聖水)で洗うべきです。それなのに、主イエスは「泥」と「唾」を練り固めて「塗る」とは、いったい何を象徴する行為なのでしょうか。いくら註解書を調べてみても諸説紛々で定かではありません。そこで私見になりますが、第一に、「神の栄光のみわざを現す」とは、神は、人間の理性や論理を遥かに超えて手段を選ばず、あらゆる「もの」や「こと」をお用いになる、ということでしょうか。ですから、病であれ傷であれ、心の病であろうと、泥でも唾でも、神の栄光のみわざの「材料」として用いられ、活かし役立てる、そのような新しい創造のみわざを行われるのではないでしょうか。それは完全で新しい愛と恵みに満ちた創造の秩序となるのです。人間の常識を超える神の超越的創造秩序の体系です。第二、目を開ける行為は、単に肉体の目を開けるということ以上に、神に向かう魂の目を開けるという意味も考えられます。神に対して、生まれつき目をふさぐことも、目に泥を塗り固めていよいよ目を塞いでしまうことも、また反対に、人間とこの世に向けられた眼を塞き、新たに洗うことで神の真理に向かって目を開き、見えるようになることです。そうして神は、ご自身の愛と憐れみに招くのです。ここで描かれる「泥と唾の道」は、ある意味で信仰に至る試練の道であり、準備であるとも考えられます。少々教訓じみた解釈かもしれませんが、より鮮明に真実が見えるようになるには、時には目を塞がれることも、実は役立つこともあるのではないか思います。目の見えない盲人が、恰も見えているかのように、目の見える人よりずっと物事を正しく鋭敏に感じ取ってこともよくあります。塩と餡との関係のように、甘味を深くするには、塩も役立ちますし、苦労することが本当の幸せをより豊かに感じさせることもあります。第三に、土という自然を構成する下位要素、唾という人間の生命かを支える体液、つまり万物を構成する諸要素を根底から、神の栄光のみわざのうちに、御手のご支配のうちに包み込み、神の国、神の栄光をお示しになったのではないでしょうか。皆さんはどうお考えになるでしょうか。

 

5.栄光の神学の逆説的意味を想い起す

かつて神学校時代にユンゲル(Eberhard Jüngel)の三一論とキリスト論を学ぶゼミで、大木英夫先生がよく「逆説のダイナミズム」を深く学びなさい、とおっしゃっておられました。特に「十字架の神学」における神の逆説的栄光について教えてくださったことを記憶しています。またチャペルで、高く飛ぶことも大事だが、低く飛ぶことで、本当の高さを知ることができる、と説教されていたことも思い出されます。その時、何か、目が開かれたように感じたことを今でも覚えています。逆境や絶望にあるとき、その時こそ、神の栄光のわざが現れる恵みの時と考えるようになりました。逆境を喜ぶことは至難のわざで今も出来ませんが、僅かながらも、逆境の中で「神の栄光のみわざが現れる」希望に生きることは分かるようになりました。そのおかげで「遣わされた者」を放棄せずに導かれたと思います。逢坂元吉郎先生は、理不尽な暴力により生涯病いに苦しみましたが、その理不尽な暴力による病いを、キリスト体験の場として、生涯修道の道に励まれました。その痛みの場を、主が聖餐において差し出される十字架のお身体をいただく受領の場としてのです。まさに理不尽な宿命の場は、神の栄光に与る場となったのです。

2022年1月23日「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」 磯部理一郎 牧師

 

 

2022.1.23 小金井西ノ台教会 公現第3主日

ヨハネによる福音書講解説教34

説教「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」

聖書 創世記12章1~8節

ヨハネによる福音書8章48~59節

 

 

聖書

8:48 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、8:49 イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。

8:50 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。8:51 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」8:52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。8:53 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」

8:54 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。8:55 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っておりその言葉を守っている

8:56 あなたたちの父アブラハムはわたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」8:57 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、8:58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

8:59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 

 

説教

はじめに. 「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父」

8章59節に「ユダヤ人たちは石を取り上げイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」とありますように、主イエスは、ここでこの時点で、完全に神の冒涜者の現行犯として断罪されており、既に「即時、石打処刑だ!」ということになっていたようです。その難を逃れるために、主イエスは神殿の境内から逃亡して身を隠します。この時から、主イエスは完全にユダヤ人の敵となり、極刑に処せられるべき極悪犯となりました。宗教的議論や論争の次元を遥かに通り越して、即時処刑を受ける状態に、主のご受難の時は動き始めていた、と考えられます。

その決定的原因は、「わたしはある」という主ご自身のみことばそのものにありました。この「わたしはある」という言葉は、ヨハネによる福音書の中核を成す言葉で、ギリシャ語では「エゴー・エイミ」という字で言い表されています。この「わたしはある」については、後で詳細に論じますが、その前に、主イエスは、ユダヤ人との論争で、ご自身の受けるべき「栄光」について、ヨハネ8章54節以下で「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だと言っている。8:55 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。」と語ります。ここで、主イエスはユダヤの「神」について言及し、ユダヤ人たちが古くから「我々の神」としていた、正にそのユダヤの聖なる「神」を、神の選民であるユダヤ人たちは誰もその「神」を知らないのである、と断定しています。かてて加えて、主イエスはユダヤの神を「わたしの父」と呼び、「わたし」はあなた方の神を「わたしの父」として知っている、と言い切ってしまった場面です。主イエスにおける「栄光」とは、何よりも先ず「わたしの父」である「神」が「子」である主イエスだけにお与えになられる「神」としての栄光である、と宣言します。そしてその「神」としての栄光は、「わたし」即ち主イエスご自身から求めた「栄光」ではなく、「わたしの父」が「子」のわたしに与える「栄光」である、と明らかにしたのです。したがって、主イエスご自身が語る言葉もまた行われるみわざも、主イエスの何もかもその全てが、ユダヤ人たちが「我々の神」と呼んで来た「父」による「栄光」であり、それゆえ、主イエスの教え語るみことばは全て神の意志によることを告知した、と言えましょう。したがって、当然のことながら、「父」である「神」が「子」に与えた栄光の言葉ですから、そのみことばを信じ受け入れて守る者は、その信仰において直ちに神の栄光に与ることとなり、「決して死ぬことはない」と結論づけたのです。そして最後に、主イエスは、ユダヤ人たちの祖先である「アブラハム」に言及して、モーセの律法や預言者たちに先行する始祖アブラハムを取りあげて、父祖「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と宣言し、ご自身が「神」であることを啓示します。

 

1.「わたしはある」と「言」

この「わたしはある」という言葉の始まりは、前にご説明しましたように、紀元前1250年頃のモーセの時代に遡ります。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの子孫たちは、放浪の末、ラムセス二世治下のエジプトにありましたが、その圧政から脱出解放を求めます。その時の指導者モーセに、「神」が啓示した「神」のお名前です。旧約聖書出エジプト記3章13節以下によれば「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」と、モーセは神に尋ねます。すると、神はモーセにお答えになって「『わたしはあるわたしはあるという者だ』と言われ、さらに「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」とお命じになられます。この「わたしはある」という名前はヘブライ語で「ハーヤー」という字ですが、紀元前250年頃、プトレマイオス治下のアレキサンドリアでギリシャ語に訳されたとされる七十人訳聖書は、この「ハーヤー」を「エゴー・エイミ」(わたしはある)と訳しています。ヨハネによる福音書によれば、このモーセに啓示した「わたしはある(エゴー・エイミ)」という神の名を、主イエスはそのまま用いてご自身の名前とした表されたことになります。

さらに「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」とありますように、ユダヤ人たちの父祖であるアブラハムの権威と関連付けて、ユダヤ民族が存在する前に、否、天地万物が創造されるその前から既に先在していた神であり「言(ロゴス)」であると宣言したのです。改めて冒頭の言葉を想い起しますと、「1:1 初めに言(冠詞付き)あった言(冠詞付)は神(冠詞付)と共にあった言(冠詞)は神(無冠詞の述語的表現)であった。1:2 この言(冠詞付)は初めに神(冠詞付)と共にあった。」と謳い、ヨハネ福音書の冒頭では、初めから、万物が創造される前から、冠詞付の「神」と共に先在していた冠詞付「ロゴス(言)」であり、冠詞付「ロゴス(言)」は神であった、として表記されていたお方です。冠詞付きであるのは、独立した一人格的存在を示唆すると想定されます。そしてさらに確定し結論図けるように、「1:3 万物は言によって成った成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と言い表して、言わば福音の本質を示す「言」が先在しており、その「言」によって万物は創造された、とヨハネとヨハネの信仰共同体は、「ロゴス(言)」を讃美歌を歌うように、讃歌しています。

 

2.神のロゴス(言)の「人の子」としての十字架における栄光

「父」なる神が、「子」なる神に、お与えになる「栄光」の本質とは、その根元に、まさにこの主イエスの本質を成す「先在の神のロゴス」にあります。この先在する永遠の神のロゴス(言)はついに「1:14 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と証言されます。「それは父の独り子としての栄光」こそ、主イエスの本質的な栄光ですが、その「父の独り子」として本質的な栄光は、イエスにおける受肉において一層はっきりと示され、最終的には「受難の栄光」として頂点に達して実現します。主イエスにおけるご受難の栄光は、その本質を先在の神のロゴスを栄光の起源としつつ、人類救済のために人の子として受肉して、十字架の死に至るまで神に従順を尽くして人の罪を完全に償い尽くすという「十字架の栄光」において、完全に現される神の栄光であります。神の御子であり先在のロゴスであるお方が、イエスという「人の子」のうちに栄光を実現して、しかも十字架の死における苦難の栄光として、人類の罪の代価を支払って贖い永遠の命を与えて救済する、という「人の子の栄光」として結実し実現するのであります。この「栄光」を主に与え、主に委ねられたお方こそ、まさに父なる神でありました。主ご自身が「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって」と仰せになっておられる通りであります。繰り返し引用する黄金句で「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と言われるのは、まさにこうした「受肉における十字架の栄光」であります。「栄光」という言葉はとても抽象的なので、そのままでは分かりづらいのですが、「栄光」の意味は、先ずその根源で「神」であるということ、神でなければ現わすことの出来ない「力」であり「わざ」であり「知恵」であるということ、そして神の御子、神の言(ロゴス)による受肉でなければ実現できない十字架の栄光であり、この栄光において「神の愛」が完全に示され現れて実現したのです。言い換えれば、受肉して十字架の死に至るキリストにおいて、全ての神の愛と恵みのみわざは「栄光」として露わに啓示され実現している、と言うことが出来ると思います。こうした神の愛も命も知恵もそして神の力もわざも働きも、それらの全ては皆、主イエスの十字架の死において完全に「人の子の栄光」として実現しまた現わされているのです。これが「栄光」の意味になります。

 

3.「わたしはある」という神の名「ヤハウェ」

主イエスご自身から名乗られた「わたしはある」という神の名について、さらに詳しくお話をすべき時が来たように思います。ヨハネによる福音書を正しく読み解くむずかしさは、聖書はどこを取っても読み解くことは至難のわざですが、ヨハネによる福音書はやはりとても難しいというのが実感です。ヨハネ福音書を難しくしている原因の一つは、この「わたしはある」という言葉にあると思われます。逆に言えば、この「わたしはある」というがをきちんと分かりさえすれば、ヨハネ福音書の大部分は理解出来ることになります。そこで本日はもう少し丁寧にこの「わたしはある」という聖書表現について、そしてこの表現を用いたヨハネとその教会共同体についても、併せてお話しいたします。

「わたしはある」という用語は、旧約聖書に登場する「神」のお名前である、と申し上げました。かつて文語訳や口語訳の聖書に登場する神さまのお名前は、「エホバ」(yehowah)として紹介されていました。実は「エホバ」は誤りで、本来は「ヤハウェ」と音読します。その神の名「ヤハウェ」(YHWH)を新共同訳聖書などではこれまでのユダヤ教で読み替える音読習慣に倣って「主」と訳すことがあります。「エホバ」であり「主」であり、と「ヤハウェ」(YHWH)という神の名は複雑に扱われて来ました。聖書を翻訳する時、よく分からないことが多く訳し方に混乱が生じたようです。敬虔篤信なるユダヤ人にとりましては、最も聖なる「神の名」をお呼びすることは、「神の名をみだりに唱えてはならない」と唱える通り、とても厳重厳粛で恐るべきことでした。そのため、神の名「ヤハウェ」が聖書に現れますと、それを直ちに「アドーナーイ(主)」と読み替えて音読するのが通例の規則となったと言われています。そうした慣習が長く続いたために、ヘブライ語では元々母音は表記されず子音だけで表記されますので、母音記号が発明される前までは、子音の文字に自分で母音を補って読みませんと、つまり正しい音読法を覚えていなければ、聖書の朗読は不可能となります。読んでいないと、本来の「ヤハウェ」を「アドーナーイ」と読み替えているうちに、正しい音読法を忘れてしまったようです。ラビも分からなくなってしまったようです。その結果、先ほどの「エホバ」と音読してしまったように、「アドーナーイ」の母音を「ヤハウェ」と音読すべき文字列に強引に嵌め込んで音読するようになり、、結果として間違った読み方が出来てしまった、というわけです。やがて読み方が不明であった「ヤハウェ」という神の名は、後に発見された遺跡の碑文から、碑文にはヘブライ語と母音表記のある外国語との並列評価がなされていたため、その音読法は「ヤハウェ」と読むことが、最近になって分かった次第です。そうした読み替え、読み違いの背景には、十戒に「あなたの神主の名をみだりに唱えてはならないみだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(出エジプト記20:7)という厳格な禁止(タブー)があり、それに基づく律法の根幹として「24:16 主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。神の御名を呪うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる。」(レビ24:16)という規定がなされていたからであります。それゆえユダヤ人たちは、神の名「ヤハウェ」を全く異なる「アドーナーイ」という言葉に読み替えてきたため、この名の由来やもともとの発音までも、失ってしまったわけであります。

出エジプト記3章14節にありますように、この名はヘブル語動詞「ハーヤー(ある)」に由来し神の本質である永遠で不変的な存在を意味しますが、そうした神の本質を哲学的に示す意味よりも、どちらかと言えば、神ご自身の民に対する永遠で不変的な関わり方や関係性を意味するようであります。そうした神のイスラエルに対する関係性は、出エジプト記3章7節以下に示されており、「神」はとても人格的な情愛溢れる神としてご自身を民に啓示されます。神は民の痛みを知るゆえに、降って行動する神としてご自身を現します。神は民との人格的な関係からこう民に呼びかけられます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞きその痛みを知った。3:8 それゆえわたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」と、神はモーセに仰せになり、民の痛みを知りそして地に降る神として、ご自身を示されます。それゆえに、神はモーセにご自身の名を啓示して、民のもとに遣わさす、と仰せになるのです。このように、神は民にご自身の憐れみを啓示する神として、「わたしはある」という者だと仰せになり、神の名をお示しになるのであります。このように「わたしはある」とは、神が民のために痛みを知り地に降る神として「わたしはある」と、ご自身を表明されたのであり、民との人格的な関係において永遠不変にいましたまう神である、としてご自身を名乗られたことになります。

ヘブライ語による出エジプト記が、『七十人訳聖書』としてギリシャ語に翻訳される段階で、ヘブライ語「ハ^ヤー」(ヤハウェの語源)は、ギリシャ語「エゴー・エイミ(わたしはある)」として翻訳されます。したがって、旧約聖書をギリシャ語で読んで来たディアスポラのユダヤ人たちは誰も皆、「わたしはある(エゴー・エイミ)」と聞けば、それは直ちに、モーセの前にご自身の名を啓示し、モーセをイスラエルの民のためにお遣わしになられた神ヤハウェのお名前であるとして鋭敏に反応してしまうはずです。しかも今そこに民の救済のために現臨する「神」そのものを意味することは、ユダヤ人であればだれでもよく知っていたはずです。主イエスは、まさにその通りに、ご自身を「神」として自己啓示して、お示しになったのであります。こうした主イエスによる「神」(「わたしはある」)としての自己啓示に対して、ユダヤ人たちは「神の冒涜である」と解釈して、「24:16 主の御名を呪う者は死刑に処せられる共同体全体が彼を石で打ち殺す。」と定めたレビ記の規定にしたがって、「8:59ユダヤ人たちは、石を取り上げイエスに投げつけようとした。」(ヨハネ8:59)わけであります。

 

4.「わたしはある」と「命のパン、世の光、良い羊飼い、まことのぶどうの木」

ヨハネによる福音書において、主イエスは、このヘブライ語では「ヤハウェ」という、またギリシャ語表現では「わたしはある」という神の名に、さらにいくつかの啓示用語を付け加えて並列させ、神としての自己啓示する定式を発展させて、用いています。たとえば、「わたしはある」という神の名に、冠詞付きの「命のパン」(6:35、41、48、51)、「世の光」(8:12)、「良い羊飼い」(10:1、14)、「道、真理、命」(14:6)、「まことのぶどうの木」(15:1、5)というさらにご自身のお姿を啓示する用語を付け加え、「わたしはある」という神の名と同格併記して、民に対してご自身をより一層明瞭に自己啓示する定式として、主イエスはご自身を示されています。つまり、主イエスは、ただ単に「神」であることを啓示するにとどまるのではなくて、先在のロゴスであり、受肉して、民に対する命のパンとして、光として、或いは良き羊飼いとして、道や真理や命として、ご自身を啓示しておられるのです。

さらにこの表現の特徴を言えば、ギリシャ語やラテン語は、主語をわざわざ書く必要のない言語で、動詞だけでも主格を表すことが出来ます。それなのに、わざわざ「わたし(エゴー)」という一人称主格が加えられますと、「わたし」という主語が強調されることになり、他でもなく、唯一この「わたし」独りだけが、という特別な意味合いが生じます。つまり「『わたし』こそ、唯一真の啓示された『神』である」というように非常に「わたし」が強調された意味になります。つまり、今ここでは、主イエスただお独りにおいてのみ、「神」は民のために現臨し、神としての「栄光」は現わされる、ということになります。だからこそ、主イエスは、民にとって唯一真の命のパンであり、世の光となるのであり、神の真理に導く羊飼いとして現臨して働いておられる、ということになります。

 

4.「わたし」(主イエス)と「わたしたち」(ヨハネとその信仰共同体)

随分前になりますが、「わたし」と「わたしたち」、或いは「あなた」と「あなたたち」という主語が重なり合う現象が、ヨハネによる福音書では随所に起こっていることをお話いたしました。先週の説教でも若干触れた所です。「わたし」と「わたしたち」という重なり合いは、今日読んだ聖書箇所には特に見られませんが、前にあのニコデモとの対話の中で、3章10節以下で「3:10 イエスは答えて言われた。『あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておくわたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。』」とありましたように、この場面は主イエスご自身がニコデモに語っておられるのですから、本来「わたし」のはずが、いつの間にか「わたしたち」になっています。また先週お読みしたナタナエルとの対話でも、1章50節以下で「1:50 イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」とありましたように、「あなた」から「あなたがた」という複数二人称へと変わっています。こうした事例から分かりますように、一人称単数と複数、二人単数と複数が重なり合うのです。それは、主イエスという一人のお方の人格と、主イエスを信じ受け入れた信仰共同体の複数が重なり合うのです。言い換えますと、ヨハネとヨハネの教会が、いつも主イエスと共に一体に寄り添うように、一方では語り、一方では聞いているのではないでしょうか。したがって、ヨハネによる福音書を読む時、是非心得ておきたい重要な点は、ヨハネとその教会は、ただ単に主イエスのみことばを聴く或いは伝える側に立っているのではなくて、聴いて信じて受け入れるという信仰ゆえに一体化されるのです。同じ信仰証言において、今度は自分たちも、主イエスと一体となって、すなわち主イエスの「わたしは」はヨハネとその教会の「わたしたちは」となって、共に同じ一体の告白証言者として、語り出すのです。本日は、このことについて、余り深入りすることは慎みたいと存じますが、事前に少し触れておきたいと思います。特に「はっきり言っておく」という定型句によって、この告白証言における一体化は導かれていきます。この「わたし」と「わたしたち」という重なり合うことの本当の意味は、本来は絶対他者であり唯一の客観的な神の現臨は、信じて受け入れた信仰共同体において、追体験され同じ一つの共同体体験として一体化される、という信仰的実存を意味します。みことばの啓示における神の現臨は、信仰的告白証言を通して、常に実はひとりひとりの実存における神の現臨となって一体化され、いよいよ真実に現実の出来事として生きて働くのであります。神を信じるということは、その信仰を通して、神がわたしのうちに宿ることです。そしてわたしの内に宿った神こそ、真実に現臨して生きて働く神となるのです。ここに、信仰によって生まれるそれぞれの実存的生命と生活が生起するのです。

実は神の名「ヤハウェ」即ち「わたしはある」は、神の永遠不変の存在を意味する以上に、民に対してわたしはあるという「関係性」において永遠不変にわたしはあることを啓示する意味を持つ、と申しましたが、神がイスラエルの民に「わたしはある」という名でご自身を啓示した、ということは、そういう民との関わりの中に現臨することを意味することになりまうs。「わたしはある」(ハーヤー、エゴー・エイミ)と自己啓示する神は、肉となって民のうちに宿る神であり、民のうち宿り民と共にある神であります。であれば、それは即ちわたしたちひとりひとりの内に宿り寄り添い共にある神であり、わたしたちの内においてこそ、つまりわたしたちの生活の内に主体化され主観化される中でこそ、真実なる神として現臨する神ではないでしょうか。そういう意味で、信仰において、わたしたちの実存において、神は真実におられ生きて働いておられるのです。