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2022年6月5日「足を洗う」 磯部理一郎 牧師

 

2022.6.5 小金井西ノ台教会 ペンテコステ礼拝

ヨハネによる福音書講解説教52

説教「足を洗う」

聖書 詩編41編1~14節

ヨハネによる福音書13章1~20節

 

 

聖書

13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て神のもとに帰ろうとしていることを悟り、13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

 

13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

 

13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたこと分かるか。13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。13:17 このことが分かりそのとおりに実行するなら、幸いである。13:18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。13:19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはあるということをあなたがたが信じるようになるためである。

 

 

説教

はじめに 主イエスは、十字架における栄光の時を迎え、弟子の足を洗う

本日の13章1~20節を三つの段落に区切り、お話を進めて参ります。先ず1~5節では、イエスの栄光のとき、即ちイスカリオテのユダの裏切りによって、ついに十字架における死の栄光の時を迎える時であり、御子を世にお遣わしになられた父なる神のみもとにお帰りになられる日を迎えたことを告げます。地上との別れを覚悟され、地上に残す弟子たちと別れを告げるのですが、その際に、主イエスは、弟子を深く愛する愛の奉仕者として、奴隷となって、弟子たちの足を洗い始めます。

第二段落の6~10節では、弟子の足を洗い始めた主イエスに対する弟子たちの反応です。特にペトロは、主イエスが、愛の奉仕者として弟子の足を洗う、その意味を理解することが出来ません。ペトロは、イエスさまに足を洗っていただくなど、決して有ってはならないことだ、と拒絶しますが、主イエスは、弟子の足を洗うという愛の奉仕の中に、メシアと人々との本質的な関わりがあることを教えます。

最後の段落11~20節では、イエスさまの十字架の死におけるユダの裏切りと弟子たちの躓きを予告し、改めて、互いに足を洗い合うことを模範とする奉仕の愛をもって、互いに仕え合うべきことこそ、弟子であることの本質であり証明である、と教えます。

 

1.「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」

そこで、主イエスの栄光のときについて、即ち十字架における死の栄光について、改めて振り返りますと、イエスさまは、ラザロを復活させるという誰もが否定できない決定的なメシアのしるしを行われ、ご自身が父なる神から遣わされた神のメシアであることを証明して見せました。12章17節以下に「12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ世をあげてあの男について行ったではないか。」と証言されている通りであり、まさに、主イエスにおける「神」の力は決定的でありました。主イエスにおける「神」の力が証明されたことは、つまり神のメシアであることは、誰の目にも余りにも決定的で明らかになっていたようです。反対に、これはとても皮肉なことなのですが、それが明らかになればなるほど、それを恐れた大祭司を頂点とするユダヤの宗教的権威は、最高法院において、主イエスを殺害する最終決議を断行したのでした。言い換えれば、主イエスご自身が神の子であり、神のメシアであるがゆえに、それがいよいよ真実となったがゆえに、十字架における栄光の死は、イエスさまにとっては避け難い事態となっていたのです。ユダヤの権力者たちは、神の名のもとに、律法を利用して、自分たちの権力支配を保持するためには、確信をもって主イエスを抹殺しなければならないと決断したのです。しかも民族にために神が使われたメシアをローマに売り渡すことで、ローマに対してもユダヤの利権確保を謀ったのです。神に対する背きの中で、これほどの背きは、前例を見ることはできないでありましょう。いわば、最後に残された救いの希望を、最後の究極的な神の背きとして排除してしまったのです。しかも、その通りに、ユダヤの宗教権威は、メシアを「ユダヤの王」として処刑抹殺することを、確信をもって決断し実行したのであります。

こうしたユダヤの権力者たちによる究極の背きの前で、主イエスは、壮絶なご決意をもって、臨まれます。それが、背きの罪で最も汚れている者の足を奴隷の姿となって洗う拭う、という痛ましいほどの愛の奉仕者として、まさに彼らの背きの頂点を成す十字架刑において、ご自身を生贄の小羊として死の奉仕を貫くことを明らかにされるのです。この十字架上の死による愛の奉仕は、徹底的に主イエスが「神」であること、その愛も正義も真理も、全てが権力者たちの背きによって否定され汚され卑しめられているのですが、その全否定を自己否定的な愛の奉仕をもって仕え受け入れ、主イエスはその汚れた足を洗い拭うのであります。

ヨハネはこうした苦難について、詩編41編のダビデの詩によって、描こうとしています。41:2 いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。41:3 主よ、その人を守って命を得させ/この地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。41:4 主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。41:5 わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」41:6 敵はわたしを苦しめようとして言います。「早く死んでその名も消えうせるがよい。」41:7 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが/心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。41:8 わたしを憎む者は皆、集まってささやき/わたしに災いを謀っています。41:9 「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい。」41:10 わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。41:11 主よ、どうかわたしを憐れみ/再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば/彼らを見返すことができます。41:12 そしてわたしは知るでしょう/わたしはあなたの御旨にかなうのだと/敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。41:13 どうか、無垢なわたしを支え/とこしえに、御前に立たせてください。41:14 主をたたえよ、イスラエルの神を/世々とこしえに。アーメン、アーメン。

この詩編41編で預言される祈りは、明らかに愛の奉仕者としてささげられる「苦難の祈り」であり「執り成しの祈り」のように聞こえます。主イエスの十字架における死とは、まさに過越の祭りの前日の出来事として、ユダヤの背きの足を洗うのです。「神」が主イエスにおいて民の背きの罪を洗われたのであり、足を洗われる主イエスは愛のメシアによる奉仕の本質を示している、という強い確信のもとに、ヨハネとその教会の人々は証言したのではないか、と考えられます。しかも単に「愛の奉仕」を倫理的な教訓として語るのではなくて、神のメシアの本質を成す栄光のわざとして証言します。主イエスにおいて、したがってキリスト教全体において、愛とは、神の本質を構成するものであり、奉仕とは神の救いそのものの中核を成すのであります。前にもお話しましたように、絶対である、即ち異質なる他者を自己の内に認め得ない絶対者が、痛みをもって、他者を、しかも究極の背きをもって十字架の死を仕掛けて来るユダヤの民の足を、神ならぬ人類に仕える「奴隷」となって洗い清め、自己の死の犠牲を引き換えにして、自分に背く他者を受け入れて認めるのです。そうした「足を洗う」という愛の奉仕の源泉は、三一体の神の本質から、溢れ出ます。唯一絶対の神という神の本質の内に、父と子は相互に受け入れ合い仕え合う、父は子に全権を委ね全ての栄光を与え、子は父のもとに全存在を尽くして敬い従順に従う、という相互が自己否定的に容認し合い仕え合い献げ合う、こうした三位格の永遠の相互内在的な交わりのうちに、愛の源泉はあり、神の本質が明らかにされ、三位一体という神の本性を示されます。したがってキリスト教は一神教と言われますが、その一つの神は排他的で暴力的な独裁神ではないのです。反対に、他者のためにどこまでも自己を捨てて自ら奴隷となって、他者の足を洗う自己否定的な愛において、その豊かな愛の交わりにおいて、唯一真の神としての本質を明らかにするのです。そうした父と子と聖霊の愛の交わりが本質的な愛の源泉となって、被造物世界にも及び、ついに十字架の死の痛みをもって罪人を受け入れて認めてゆく、それがキリストの愛であり、愛の奉仕であり、汚れた足を洗う主イエスの本質であります。天国とはそういう神の交わりのうちに営まれる愛と命の泉であります。

ヨハネは、主イエスの十字架における死について「この世から父のもとに移る(metabh/| evk tou/ ko,smou tou,tou pro.j to.n pate,ra)」という言葉で言い表します。この「移る」「立ち去る」という動詞は、ヨハネからすれば、ただ単に地から天への物理的移動を意味するだけではなくて、むしろ啓示の本質を明らかにする啓示の意味で用いられています。つまり「移る」とは、神本来の本質を明らかに示して表す啓示用語として用いられています。したがって、神本来の本質を明らかに啓示するとは、まさに神の愛が背きと言う罪に汚れた足を洗うという愛の奉仕のわざとなって、しかも十字架の死に至るまで洗い清めるための自己犠牲として、従順に神に献げる贖罪の生贄奉献として明らかにされるのです。3節に「13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て神のもとに帰ろうとしていることを悟り」とありますように、主イエスにおいて、神の本質は二方向において働く神の啓示として示されています。一つは、父から見た神の働きとして、父がすべてをイエスさまの手に委ねられていること、そして子から見れば、父のもとから来て、父のもとへ帰ることとして啓示されます。さらに付け加えるならば、父と子との関係から、さらに聖霊が別の弁護者として、この世に遣わされるもう一つの派遣として展開します。教理用語で言えば、御子は「父から生まれ」、聖霊は「父から発出する」という表現を用いますが、父から子が主イエスにおいて遣わされて世に降り、そして今度は父から聖霊が主イエスを通して発出し遣わされるのです。このようにして「神」の本当のお姿が、神の本質である愛は、いよいよ愛の奉仕者という姿で世に露に現わされ、啓示されるのであります。イエスさまは、処女マリアから聖霊によって受肉して、イエスとして人間性の全てを背負い担われました。その主イエスにおいて、その人間性の奥深くにおいて、父と子と聖霊なる神はいつも相互に内在し合い愛し合いそして遣わして、神本来の本質を愛の奉仕者として、世に現わして明らかにします。父と子と聖霊とは、常に愛の奉仕者という本質に基づいて、相互に内在共有し合う関係を保ちながら、それぞれの役割を果たすのであります。三位一体の神は、受肉したイエス・キリストというお方において、内在し包まれつつ、外化し現れ、啓示されるのであります。したがって、人間のお身体を持つキリストから父なる神も聖霊も決して切り離されて存在することは有りえないのです。キリストを通して、父と子と聖霊なる神は、常に生き生きと現臨し働き、愛のみわざを行っておられるのではないでしょうか。つまり、イエスさまから、弟子たちが汚れた足を洗っていただいた、という愛の奉仕は、主イエスにおける神の永遠の本質から溢れ出る栄光のわざとして、終末を超えて永遠における天上のわざとして、先取りされて写し出されており、永遠に貫かれてゆくのです。

 

2.「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)

そしてついに主イエスは弟子たちの足を洗います。「13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言った。13:7 イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが後で分かるようになる』と言われた。」と記されています。十字架の死に至るまで徹底される神の愛の奉仕を非常によく象徴する行為ではないでしょうか。単に足を洗うのではなく、赦されるべきでない罪人の罪を完全に償い、赦しを与え、そして死と滅びから永遠の命に復活させる、という栄光へと招き導く、という洗足行為であり、神の救済の本質となる贖罪行為であります。しかしペトロにはその意味が分かりません。ペトロの「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」(6節)「わたしの足など、決して洗わないでください」(8節)という言葉は、一見、イエスさまに対して厳かな敬意を表しているように聞こえますが、残念ながら、全くイエスさまを理解できていない、厳密に言えば、主イエスにおいて現臨する「神」をまだ知らず、受け入れることができていないのです。そうした無理解の弟子に対して、主イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」と諭します。イエスさまとは、いったい誰なのか、正しく理解できていれば、汚れた足を洗ってくださる意味の深さ尊さはよく分かるはずなのですが、しかもそれはどうしてもなくてはならないことなのですが、ペトロを初め弟子たちには、まだイエスさまにおける「神」は見えてはいなかったのです。自分の足を洗われる受肉の「神」を知らないのであります。

本日は、教会暦で申しますと、ペンテコステの聖霊降臨日にあたります。聖霊が天から降り、教会の人々に注がれ、宿ります。とても不思議な出来事ですが、皆さんひとりひとりに、「神」である聖霊が天から降り宿ったということになります。ただ、聖霊派の方々のようにこの聖霊降臨だけを突出させて、イエスさまから切り離して、この断片だけで全てを語り尽くすことはできません。なぜなら、聖霊の降臨は、あくまでもイエスさまの十字架と復活そして昇天という「受肉した御子のお身体」の存在を大前提にしているからです。言い換えれば「教会」という「キリストの身受肉の身体」を前提にして、はじめて展開する神の出来事だからです。熱狂的に聖霊さま聖霊さまと叫び求めて祈る教会もありますが、そうした聖霊派の教会でも、その教会の根本は、イエスさまの十字架と復活と昇天のキリスト、即ち天地を貫いて現臨する主のお身体を前提にしているはずであります。処女マリアから聖霊によって受肉し、地上において人間性の全てを背負って担われ、十字架において死に三日目に復活して天に昇られた、いわば天地にまたがる主イエスの栄光のお身体との深い交わりの中で、引き起こされている神としての聖霊のみわざであります。教会は、そのイエスさまの身体である、ということを前提にして、つまり主イエスおける「神」、すなわち神の御子としての父と聖霊との根源的な交わりの中で、父は子の身体である教会に対して聖霊を遣わすのであります。聖霊降臨の源泉は、三一論的な父と子と聖霊における根源的な相互内在に的な交わりにあり、しかもその三一論的交わりは子において受肉した身体性を内包し、御子の受肉した身体性を写すキリストの身体である教会を用いて、自然万物の世界を大きく包みあげてゆくのです。言えば、聖霊降臨という救済史的出来事は、キリスト論的三一論の展開として生じているのではないでしょうか。世は神の愛と恵みにより、聖霊の賜物をいただき、聖霊に漲り溢れるのであります。父と子と聖霊の豊かな愛と交わりの本質から、当然ながら、生じる神の愛の奉仕であります。そうした神の本質的な愛の奉仕という命の営みのもとに、キリストの身体は天地を貫いて存在しており、そのお身体における豊かな命の交わりを源泉として溢れ出るかのように、聖霊は地上に降り、私たちに宿り、万物に沁みわたり万物を満たすのであります。

そう考えますと、聖霊を受けるとは、元々三一論的な神の大きな愛の本質から生まれたことであり、天地を貫くキリストのお身体全身に漲り溢れる力でもあります。したがって教会生活の全てがこの神の愛の奉仕によってすっぽりと大きく包み込まれていることが分かります。洗礼を受けることや、みことばを聞くこと、聖餐に与ること、日々祈り讃美すること、それは全てイエスさまのお身体において漲り溢れる「神」の力あるみわざそのものではないでしょうか。

イエスさまが、罪に汚れた足を洗うとは、神の愛の奉仕、神本来の愛のみわざ、救いのみわざの全てを象徴する行為であります。であるとすれば、主イエスが十字架の犠牲となって罪を償うことも、聖霊が降って私たちの弁護者となってくださることも、皆、神の愛の奉仕のみわざでもあります。主イエスが、奴隷となって、足を洗うのも、聖霊が天から降りわたしたちの弁護者となって仕えてくださることも、足を洗う神の愛の奉仕そのものでもあります。足を洗うという行為は、奴隷のする仕事でしたが、イエスさまがわたしたちの奴隷のようになって足を洗うという行為を、もう一度、深く、三一論的に読み直すことができるのではないでしょうか。主イエスの十字架の死における栄光のみわざを通して、父と子と聖霊なる神もまた相互に関係し合いながら、愛の本質を果たしておられるのではないでしょうか。「父がすべてを御自分の手にゆだねられた」とは、御子のみわざのうちに、父と子と聖霊なる神は一致して、主イエスにおいて神の愛の本質を現わされた、ということになります。そういう意味からすれば、とても自己犠牲的にご自身を差し出す主イエスのサクラメント的な行為にも見えて来ます。後にペトロが主に「主よ、足だけでなく、手も頭も。」(13:9)と言っていますが、まさに洗礼のようでもあり、しかもこの洗足の行為は、「13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」と記されていた通り、食卓場であり、イスカリオテのユダの裏切りが明らかにされる場でもありました。つまり、主イエスの十字架の死を中核にして、説教がなされ、洗礼と聖餐を包み込むように、奴隷となって汚れた足を洗う愛の奉仕のわざが行われています。ここに三位一体の神の相互内在の本質、神のメシアとしてご自身を啓示する愛の本質、そして神の福音を告知する使徒としての本質と模範の全てが込められ、明らかに現わされ、示されているように思われます。このように、弟子たちは元より、教会もわたくしたちも、いつも主イエスが奴隷となって、汚れた足を洗い拭い続けてくださる洗足のみわざの中に、確かに選ばれて招かれ、包まれて導かれているのではないでしょうか。主は、決して清くない者たちの足を洗って拭い続けられる、その洗足の主こそ、教会の根拠であります。わたしたちが清く正しく強くなることによって担保され保証される教会ではない、ということがよく分かるのではないでしょうか。

 

3.「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになる」

いつもお話しますように、神さまのこと、或いは信仰の世界は、ある意味で、私たち人間に納得のゆく世界ではないように思われます。なぜなら、人間の判断や思考の基準に適うない領域だからです。元々人間には分からないことだから、信じなさいと言われても、それは余りにも乱暴な話です。ですから、やはり分かるようになる、理解し認識できるようになる、そして納得する、ということは、人間としての尊厳においても、決して捨象することはできないのは同然のことであります。主イエスご自身も、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが後で分かるようになる」と教えられ、「模範を示したのである。13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」と仰せになり、弟子たちを諭しておられます。決して、分からなくてもよい、というのではなくて、いずれ、分かるようになる、のです。したがって、神の方から自ら啓示して神の真理を示す神の恵みと、そしてその啓示に心を向けて認識を深めてゆこうとする人間の理解という両方向から関わり合える「交わりの場」が確保されることが大事になります。結論から言えば、聖霊なる神からの助けを受けることのできる場です。聖霊の恵みをいただくことで、「あとで」分かるようになる、ということでもあります。この「後で」とは、明らかに、キリストが天に昇られて、聖霊が遣わされた後で、ということを意味しますが、同時にまた、使徒が立てられ遣わされて、目に見える歴史的な教会が地上に導かれ、その地上の教会を聖霊が助けてくださることを意味しています。であるとすれば、教会の中に、分かる根拠は既に与えられている、ということになるのではないでしょうか。教会に使徒が使われ、福音の宣教が行われ、聖礼典が執行され、その一つ一つのうちを貫くようにして、聖霊が語るように真理を明らかにしてくださるのではないでしょうか。みことばを語りみことばを聞くとはそういうことではないでしょうか。使徒によって伝えられた信条や信仰告白に基づき、一致して、聖書が忠実に解き明かされ、解き明かしが正しく聞き分けられ、聖礼典に与るという営みそのものの中に、全ての真理が貫かれ、啓示され、導かれているのです。こうした聖霊による共同的な教導を信頼し身を委ねる営み全体を通して、信仰的認識は深められます。人間は神になることはできませんが、神との交わりを知るようになり、神との交わりに生きることは出来るようになるのではないかと思います。そして、主イエスが、弟子の足を洗われたように、主の洗足を模範として、互いの足を洗い合うという新しい生に目覚め、新しい生に生きることもできるはずです。

2022年5月29日「世を裁くためではなく、世を救うために」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.29 小金井西ノ台教会 昇天第1主日

ヨハネによる福音書講解説教52

説教「世を裁くためにではなく、世を救うために」

聖書 申命記18章15~22節

ヨハネによる福音書12章36b~50節

 

 

聖書

 

12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 

12:36 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。12:37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。12:40 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず立ち帰らないわたしは彼らをいやさない。」12:41 イザヤはイエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。

12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。12:43 彼らは、神からの誉れよりも人間からの誉れの方を好んだのである。

 

12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が終わりの日にその者を裁く。12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父がわたしの言うべきこと語るべきことをお命じになったからである。12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 

 

説教

はじめに. 「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた」(イザヤ6:10)

ヨハネによる福音書は、12章において、主イエスは神のメシアであることを認めようとはしない「ユダヤの不信仰」を問題にします。主イエスは、いつも「わたしはある/わたしは~である」(エゴー・エイミ)とご自身を名乗り、神ご自身がモーセに啓示されたお名前をそのまま用いて、ご自身をお示しになっておられました。主イエスは、世に遣わされた「神」として、民に永遠の命を与えるために、天から降って来た「命のパン」でありました。ところが、あろうことか、自分たちの救いのために、天から降られたはずの神のメシアである主イエスに対して、律法学者や祭司長などユダヤの宗教的権力者たちは、主イエスを安息日規定の違反者として、また神を名乗る神の冒涜者として、律法に基づいて処刑して抹殺してしまうことを決意したのです。彼らにそれほど激しい怒りと憎悪を齎した原因は、言うまでもなく、一つは「神」ご自身の超越性にあり、もう一つは「神」を測り取ることのできない人間の認識力の限界にありました。神と人との間には、どうしても超えることのできない本質的な違いがあるからです。元々、人間は有限ですから、無限なる神を捉えることは不可能です。したがって、だからこそ、神に対しては「信仰」をもって向かう以外に道はないのですが、人間は自分たちの知恵を神を測る基準として絶対化させたため、その結果として「不信仰」に陥り、「神」を認められず、結局は「神」を人間の世界から抹殺することになってしまったのです。不信仰か、すなわち人間の思いを全てを測る基準として絶対化するか、それとも、只管「信仰」において神を絶対化するか、いずれかの道を選択しなければなりません。

ヨハネは、そうした不信仰の背景について、イザヤの預言に従い「彼らはイエスを信じなかった。12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。『主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。』12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。12:40 『神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされたこうして彼らは目で見ることなく、/心で悟らず立ち帰らないわたしは彼らをいやさない。』12:41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」と、民の不信仰を預言するイザヤの預言をそのように解き明かしています。不信仰の根本原因は、ある意味で、神と人との間にある本質的な問題であり、これはどうしようもないことですが、そもそも有限な被造物である人間に、無限であられる永遠の神を捉えることも、ましてよく分かるように理解することなど、とてもできないことなのです。それゆえ、神を知り、神と出会える唯一残された場は、ただ「神のみことばと啓示を信じる」という信仰において、神を認め受け入れる外にないのです。ですから「神」に対しては「信仰」のみが唯一の救いの道となるのです。それを、ヨハネは、ギリシャ語訳の七十人訳聖書からイザヤ書6章10節の預言を引用して「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」と解き明かしたのではないかと思われます。神の意図と意志で躓かせて不信仰に至らしめた、と神の悪意ゆえに不信仰は生じていると読めそうな表現でありますが、そうした神のご意志に基づいて不信仰は生じた、と考えるのではなくて、むしろ、被造物である人間の本質的な限界の中で、最初から人間が造られる時点から、人間には神に対する「信仰」が大前提とされていたと考えられます。人間とは根源的に神に対しては信仰をもって向き合うように、創造されたとも言えるかも知れません。その信仰に立つことが出来なくなった理由は、人間の罪と堕落による、と考えるべきでありましょう。蛇に誘惑される中で、神のみことばを聴き分けて神を信頼し神に従う選択を放棄してしまった、その結果、人間は自由を神を放棄する選択に用いたため、不信仰に支配され、神に頼らず有限なる自己を全てを測る基準として、自己絶対化してしまいました。このように、極論すれば、人類の根本問題とは、神からの啓示を信じて受け入れるか、それても信仰を拒絶して、自己絶対化の中で全てを測るのか、という点に集約されるのではないでしょうか。

 

1.「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」(43節)

ヨハネは、人間の不信仰の原因について、ヨハネ自身の見解もここで明らかにしています。「12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かったただ会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。12:43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と記しています。恐れ、はばかって、と明記されておりますように、不信仰を生じさせた原因は、神を畏れることを選ばず、人の顔色を選んだことによります。しかもヨハネははっきりと「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」と言っ切っています。「天」に生きる誉れを求めるか、それとも「この世」での誉れを求めて生きるのか、それによって、光と闇の全ての真相は明らかにされるのです。この世での成功を求める以上に、天における成功を喜び求めることです。天における成功とは、人としての破れを知り、罪赦されて、神からの恵みによる祝福を与えられることです。なぜなら、私たちの国籍は天にあるからです。この世で勝利しても、それはこの世限りで終わるものです。天における勝利は、永遠の命に輝き続けます。これを信じ切れるか、ということになります。

ユダヤの宗教権力者たちは、神の掟である律法を用いまた宗教組織を利用して、民を支配し、自分たちの支配権を確立しました。最も悪質な点は、神の名を用いて律法の名のもとに、政治や世俗の物質的利権を独占したことです。彼らの独占と支配欲求は、律法の規定を口実にして、神殿税という名目で金銀を民からをかすめ取り、神殿で奉献される生贄の売り買いにより莫大な収益が得られるように、神の名のもとに宗教共同体として構造化されていたのです。実に悲しいことですが、こうした実態は、わたくしたちの教会も含めまして、いつの世でもまたどんな宗教においても、決して否定し難い現実のように思われます。この世の宗教団体においては、まさに例外なく、常に立身出世による名声や蓄財、そして独占と支配欲求が大きく宗教の本質を歪め汚してしまうのです。宗教団体内の権力闘争や、場合によって教理論争の背景にさえも、こうした私利私欲を隠して独占支配を求め合う争奪戦が見え隠れします。情けないことですが、そうしたほんの僅かな利害や場が欲しくて、驚くほどの勢いで、多くの人々がその奪い合いの群れに集まるのです。「人々を恐れ」「はばかる」のは、自分の小さなしかし手にした利害を失うことを恐れ、隷属したからでした。ヨハネは「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」と言い切って、この世の「宗教」の現実を断罪すると共に、ここで非常に厳しく糾弾しようとしたのではないでしょうか。

そして最も罪深いと言える点は、彼らは、いつもこの独占支配の欲求から、神の名を利用することに止まらず、「神」とその真理を完全に抹殺する図り、実際にそれを断行してしまったことです。マタイ福音書によれば、ヘロデは、王としての支配権を守るために、神のメシアであるイエスさまを抹殺しようとしました。「2:16 ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。」と証言しています。ヘロデばかりか、何と、大祭司がその先頭に立ち、主イエスを十字架刑に処する陰謀を断行してゆきます。宗教を守る第一人者が「神」を殺しているのです。宗教の本質から問われる点は、ここにあります。「神」の服従者の宗教権威は、絶えず、「神殺し」の当事者であり続けるのです。それは「世からの誉れを好んだ」からだ、とヨハネは糾弾したのです。こうした所から見ると、必ずしも目に見える宗教集団が「神」を誠実に信じて守る集団ではない、ということがよく分かりますし、それどころか、神の暗殺者そのものであったことが見えて来ます。まさに主イエスが十字架につけられた場所は、神殿があるエルサレムであり、日々聖書の言葉をもって祈り続けるユダヤ人の中で殺されました。言葉にできないほど、何と悲しく痛ましく、そして絶望的なことなのでしょうか。ここでヨハネの叫びが聞こえて来るようです。わたしたちが信じるのは宗教団体や宗教的権力者では決してない、わたしたちは、徹頭徹尾ただ「神」お独りとその啓示だけを信じるのだ、と叫んでいるようです。

 

2.「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(36節)

だからこそ、主イエスが人々に説いたメッセージは、ただ「信仰」に生きる道の意義でした。35節以下で「12:35 イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに光を信じなさい。』」と教えています。光、即ち主イエスと主イエスの教えのみことばを信じることです。先ほど、宗教的権力者のお話をいたしました。神という名も、ユダヤ教という宗教的枠組み全体をも、全て皆、自分たちの独占と支配欲求を満たすために利用する道具として、ユダヤ教を構造化していたのです。それが、サンヘドリンという権威の仕組みでした。そして多くのユダヤの人々は、この宗教的利害を求めて群れをなし、律法支配のもとに隷属し集うたのです。

しかし、ユダヤの宗教は、そうした権力支配がすべてではありませんでした。決して忘れてはならない人々が聖書の主人公として登場します。それは「罪人」と呼ばれた人々の存在です。罪人とは、律法規定を根拠に、この宗教的利害の共同体から完全に排除され、社会生活や暮らしの場を奪われ、捨てられた人々です。そしてこの罪人と呼ばれる人たちの殆どは、病人であり、障害を余儀なくされた人々であって、強盗や政治犯は僅かであったと考えられます。ほんの僅かな命の隙間を求めて、地を這うように、荒れ野を彷徨う人々でありました。飢えと渇きの中で、罪人たちは、ほんの僅かながら共に助け合い慰め合い、定められたお互いの死を看取り合うばかりの人生でありました。権力欲や支配欲どころか、この時代はまだ生活保護制度も健康保険制度もなく、反対に共同体から排除抹殺されて、今日一日さえも生きることが許されない人々が多くいたようであります。マルコは、主イエスとファリサイ派との問答をこう記します。「2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。2:17 イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マルコ2:16~17)。このように、イエスさまが、みことばを語り福音を告げ、食卓を共に囲んだ人々とは、まさにこうした「罪人」と呼ばれる人々でありました。それでもなお、主イエスは食卓を共に囲み、天国の福音のみことばを語り、生きるべき「光」を彼らに与えられました。その光は、今、ここでから直ちに、罪赦され、神の愛と祝福のうちに永遠の命に生かされる道であります。それは、ただ主のみことばを信じて受け入れることで、今ここで共に与り与えられる希望の光であり、永遠の命であり、神のいつくしみ豊かな慰めでありました。世の誉から排除された人々には、その貴い意味と力が伝わったようです。なぜなら既に彼らは、この世に生きることを奪われていたからでした。

最近、わたくし自身も年を取るようになりまして、体力も気力も失われ、死を少しずつ考えるようになりました。問題は、定められた「死」とどのように向き合い、「終わり」を迎えるか、「人間の幸い」とは何であるのか、とよく考えます。やはり平和で穏やかに過ごす日々こそ幸いだとしみじみ思います。そして何よりも、神さまの愛と恵みに包まれてこの身をお委ねできる「平安」こそ、何と大きな慰めであり安息であろう、と思います。ただ、ここでお慰めの話をしようというのではないのです。そうではなくて、主イエスは、そのみことばを通して、「神」がおられることを知り、「神の法廷」に招かれて立つことの意義を知るのです。そこで、人格の本質となる「愛」を知り、「義」を知り、「命」を知るのです。そこに真実な意味で、本来の尊厳ある人格として立つ場があり、失うこともなく色あせることもない永遠の命に輝く場があるからです。こうした現実は、ただ「信仰」において得られる世界であり、しかし同時に確かに「信仰」において現実に生きる喜びを知ることもできるはずです。なぜなら、死んだら全てが終わる世界はこの世ですが、死んでからいよいよ始まり、永遠の命が実証される世界に生きることができるようになるからです。

 

3.「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」(44節)

12章44節を読みますと、誠にありがたいことですが、主イエスはさらにこう教えます。「12:44 イエスは叫んで、こう言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。12:45 わたしを見る者はわたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。』」(ヨハネ21:44~47)。主イエスは「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」と言われており、単に人間イエスを信じる、或いは単に人間イエスの姿を見、言葉を聞いているのではなくて、それは即ち「わたしを遣わされた方」である父なる神を信じ、神を見、神の言葉を聞いている現実そのものであることを明らかにします。これは、神から遠く離反して、神を信じることに絶望したこの世の人々にとっては、最も意味深い教えです。なぜなら、このみことばにおいてそしてこの方ご自身において、わたくしたちは直接に「神」そのものによる神の審判の法廷に招かれ、立たされることになるからです。今、わたくしたちは、共に聖書に記された主イエスのみことばを聴き、それによって示された主の霊的なお姿を見ていますが、それが直ちにそのまま、ただ主観的に聞いて信じているという行為にとどまるのではなくて、それは信じる信仰を貫いて、「神」そのものに到達し直結している、という教えです。それが、主イエスにおいて、主イエスのみことばにおいて、引き起こされているのです。それを信じて受け入れることで、神の審判の法廷に直ちに引き出され立たされ、神と直面するのです。しかもその法廷は、裁きではなく、救いの法廷となって実現している、というのです。イエスさまは、ご自身のことを「わたしはある(エゴー・エイミ)」という神の名を用いてお示しになりましたが、それはまさに、ご自身において「神」が現臨して、神がご自身をお遣わしになっておられ、ご自身の言葉を通して、神が命の法廷にわたくしたちひとりひとりを立たせて、救いの裁定をなさる、ということになります。この神の法廷では、御子イエス・キリストが、人間の全ての罪を背負い、完全に罪を償い、十字架の死に至るまで従順を貫き、完全な神の義が果たされ、復活という勝利と祝福の命が明らかにされます。まさに神の贖罪の法廷です。その法廷に立ち、その贖罪という愛の裁きを向き合うのです。そしてそこに、神の愛による赦しと恵みを認めますか、感謝と讃美をもって受け入れますか、と問われるのです。そして「はい、主よ、信じます」と答えることで、神の法廷は結審します。大事な点は、信仰においてここまで徹底貫通することです。「12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」という神のご計画のもとに、人々罪は赦され、救いは実現します。

 

4.「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(48節)

突き抜ける、直結する、という言葉を、わたくしはよく用います。それには、どうしてお伝えしたい信仰の意味があるからです。天国とは、この世を超越した、全く切り離された世界です。いわばこの世からは、決して届かないし、見ることもできないし、捉えることもできません。したがってこの世の人々は何とかして、天の世界に触れたい、思いを寄せようと、偶像を造り拝みます。こうした偶像崇拝は、人間の欲求の投影でもありますが、それ以上に、天への憧れや欲求が偶像を造り、さまざまな宗教が生まれます。神さまから造られた人間ですから、いわば、生まれた所を本能的に探し求めているからでしょうか。しかし罪ゆえに堕落し壊れた人間本性は、正しく生まれた場所を思い起せないので、結局は、自分の都合のよいような偶像によってしか、それを求めることはできなくなってしまいました。

ところが、主イエス・キリストは、天から「神」ご自身が人間という形態のもとに地上に降られて、人々にご自身のうちにある「神」を直に啓示しました。それゆえ、人々は主イエスにおいて「神」と出会うのです。そこには、最早、何一つとして媒介すべき偶像は必要としないのです。そしてわたしたちは、主イエスのみことばにおいて直接「神」に出会います。確かに、わたしたちは教会において、儀礼的媒体として、教会の礼拝やサクラメントを通して「神」に与ります。しかし、誤解してはならないのは、サクラメントの本質とは、聖書に記されたキリストの啓示の言葉そのものと同一の本質であり、生けるキリストご自身と連続直結しています。大事なのは、こうしたさまざまな媒体を突き抜けて、「神」と直結する体験に至ります。先ほど、主のみことばにおいて、神の法廷に立たされる、という言い方をいたしましたが、まさにそれこそ、既に現在において、終末の最後の審判を先取りする場なのです。今ここで今、世の息を引き取ろうとする罪人、世に捨てられ、律法によってユダヤ全体から裁かれて排除と罵りの中で、掛け替えのない生涯を終えようとする人々に、主イエスは、いつも彼らの傍らに寄り添い、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と語り、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」と赦しを告知したのです。こうして、罪人は、神と共に死を迎え、しかし神と共に永遠の命に生かされるのです。反対に、宗教権力者たちは、神の名を自我欲求の道具に変質さえてしまったので、そこには真の神はおられず、神の啓示のことばもなく、ただ自らにおいて終わりの裁きを迎えるばかりであります。「12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」と仰せになられる通りであります。

主イエスご自身におけるみことばと信仰において、生ける「神」と直面させられ、神の審判の法廷に立たされ、そこで改めて主イエスの愛と贖罪のみことばが響くのです。「12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」と。

2022年5月22日「わたしを愛するか」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.22 小金井西ノ台教会 復活第6主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教51

説教「わたしを愛するか」

聖書 詩編23編1~6節

ヨハネによる福音書21章15~25節

 

 

聖書

 

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい

21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 

 

説教

はじめに. 使徒たちの任職と派遣からペトロの任職と派遣へ

イエスさまが、人類の全ての罪を償い永遠の命を齎すために、贖罪の生贄となって十字架につけられて死に、墓に葬られたのは、A.D.30年の4月7日金曜日午後3時頃だった、と言われています。そしてその三日目に、復活してそのお姿を弟子たちに現わされました。主イエスの復活顕現をめぐり、これまで聖書に即して、お話をしてまいりましたが、パウロがA.D.50年頃に第2回伝道旅行で訪れたコリントの教会宛に書かれた手紙によれば「15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、15:5 ケファに現れその後十二人に現れたことです。15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(コリントの信徒への手紙一15章3~7節)と、とても確かな伝承として伝えられています。パウロ自身も「15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」と自ら証言しています。こうした弟子たちによるキリストの証言は、「新約聖書」という形で、「旧約聖書」と共に、「聖書」正典として教会を支える証言として残され、今皆さんのお手元にまで届けられている通りです。キリストの復活を体験し証言した弟子たちの証言によって、キリスト教会は立てられ導かれており、この証言は、2000年の過去から現在を貫き、さらには終末に至るまで、宣べ伝えられます。

今日は、そのご復活なさったイエスさまが、弟子たちの前に現れて、宣教という全権を弟子たちに「使徒」として委ね、福音の宣教と牧会のために、世にお遣わしになる、という話です。そしてその弟子たちの中心に、今日の話に登場する人物こそ、ペトロでありヨハネであります。ヨハネによる福音書21章15節以下の記事は、「ペトロの宣誓と任職」が主題ですが、共観福音書で言えばは、マタイによる福音書16章17~19節の記事にあたります。「16:17 すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』」とありますように、イエスさまは、ペトロを祝福して、教会を担う岩礎として、お立てになります。ヨハネの20章では、復活の主イエス・キリストが、弟子たち全員にご自身の息を吹きかけて、「聖霊」を与え、弟子たちを「使徒」として聖別して、復活のキリストを証言する証人として世界にお遣わしになります。そしてヨハネの21章では、20章の使徒の任職に付け加えて、ペトロの誓約と任職が三度に渡って繰り返され、福音書の著者であるヨハネがその権威を受け継いだことを示唆され完結します。21章1節以下にありましたように、網の中の魚「153匹」が象徴しますように、教会は、全世界に渡る普公教会としてあらゆる民族や時代を超えて包み込み、拡がりましたが、その網いっぱいに満たした153匹の魚に象徴される全世界の教会を引き揚げる使徒こそ、このペトロであります。

 

1.「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)

ヨハネによる福音書21章15~25節は、18節で二つの段落に区切って読むことができます。17節までは、ヨハネとその教会が受け継いだ伝承であり、その内容はいわばマタイ福音書16章18、19節に対応しており、主イエスが教会の宣教と牧会の全権を使徒ペトロに委任し教会の岩礎とした、という伝承です。そして教会をペトロに委任したとする元々あった伝承につけ加えて、18節以降では使徒としての使命のためにペトロが殉教して死ぬという話が続けられ、ペトロの殉教の後に、福音書記者のヨハネがその宣教を担う使徒としてその生涯を全うし教会の責任を受け継いだことを示唆して終わります。

さて、21章15~17節ですが「1:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。21:16 二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。21:17 三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『「わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。」という記事を記しまして、ヨハネは、ペトロの誓約と任職をめぐる伝承を紹介します。

この記事で、注目すべきことが三つあります。一つは、先ず主イエスご自身からペトロは直接に、「ヨハネの子、シモン」と名を呼ばれて「この人たち以上にわたしを愛しているか」と誓約を求められていることです。二つ目は、ペトロは、その応答として「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えることで、誓約を果たそうとしていることです。そして三つ目は、この「わたしを愛しているか」「はい、主よ、あなたがご存知です」という誓約と、「わたしの羊を飼いなさい」という任職が、完全絶対を意味する三度に渡って繰り返されていることです。

そこで、最初に「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」(17節)という所からお話したいと思います。復活した主イエスが、ペトロに対して、直接「わたしを愛するか」と言って、ペトロに誓約をお求めになり、ペトロの誓約に基づいて「わたしの羊を飼いなさい」と言って、羊飼いとしての任職をします。この誓約と任職は三度に渡って繰り返されます。三度とは、所謂「完全絶対」を象徴する行為です。不変の誓約であり永遠の任職を意味します。この三度に渡る誓約でとても意味伸長と申しますか、ある意味でそれはトリッキーな問いに聞こえます。主イエスは「わたしを愛するか」とお尋ねになるのですが、その際に「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」とお尋ねになり、「この人たち以上に」と他の弟子たちとの比較において問われています。比較された「この人たち」とは、21章2節に「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエルゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」と名簿が紹介されています。言うなれば、イスカリオテのユダを除いた12使徒全員が想定できそうです。12使徒全体の誰よりも、あなたはわたしを愛するか、と主イエスは問うたのです。明らかに12使徒其々を比べ、その誰よりも、あなたはわたしを愛しているか、と言うのです。これに対して、ペトロははっきりとイエスさまに答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え、ペトロは非常に明確に自分の愛を告白しています。このペトロの応答に、新たに生まれ変わったペトロの姿を見ることができるように思われます。新しいペトロの生まれ変わった人間性がそこには見て取ることができるのではないでしょうか。なぜなら、先ほど、主イエスは、他の弟子たちとの比較で「わたしを愛するか」と問われましたが、ペトロはその比較に対して、はっきりと「あなたがご存じです」と答えたからです。言い換えれば、それを判断する権限も能力も最早「わたし」にはありません。自分を判断評価する権限はすべて「あなた」にあるのですから、とペトロは言い切って、自分についての判断や評価はただただ主イエスご自身にお委ねしており、自分の能力や評価、幸不幸も全てを判断しお決めになられるお方は、ただお独り主イエスご自身の御心によります、と言って、主イエスに対する全幅の信頼に、全てを委ねした所に、自分の愛も喜びもあります、と答えたからです。ペトロは、明らかに、完全に自己自身を放棄して、全て主イエスにその判断評価を任せたのです。神の御子主イエスに、全ての評価判断はあり、この方こそ裁き主ではないか、と告白したのです。この態度は、後に主イエスが「21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と、ペトロについて言われたことにも通じることです。全ては御手の内にあり、全ては御手によることであり、それゆえ、全ては御手にお委ねするのです。御心の通りに成りますように、御心のままに生かしてください、と祈るばかりであります。

こうしたペトロの答えとイエスさまの問いには、あるいきさつがありました。それは、マタイによる福音書を読みますと、ペトロの言動をめぐり、こんなやり取りと経験があったからです。マタイの26章31~35節に(26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいてもわたしは決してつまずきません」と言った。26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなってもあなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。)という、こんな経緯(いきさつ)が紹介されています。ペトロは、かつて、明らかに、他の弟子たちとは違って自分は絶対につまずかない、イエスさまを裏切らない、と断言しましたが、その舌の根も乾かぬうちに、ペトロは三度に渡り、主イエスを知らないと言って、主との関係を否定した経験がありました。主イエスが、わざわざここで、ペトロに三度も度重なる誓約と任職を繰り返された背景には、ペトロ自身がかつて実際に主イエスを三度に渡って否定していたからではないでしょうか。ペトロは完全に自己に破れ果て、自分をより頼む虚しさを完全に知ったのです。そうした三度に渡る完全な自己破綻から、改めて主イエスに対する自己放棄を決断していたのではないでしょうか。自分においては、完全な自己の「放棄」と言うべきですが、主イエスに対しては、完全な自己の「委託」です。全てを主のご主権にお委ねしたのです。そして主イエスはこうしたペトロの全てを赦して、彼の全人格を受け入れ包み込んだのです。それが「わたしを愛するか」と問うて、ペトロを三度に渡り完全にペトロを赦す主イエスご自身の愛でありました。

 

2. 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15節)

こうしたイエスさまの深い愛と赦しに包まれる中で、ペトロは、ある意味深い新しい信仰認識に至っていたのではないか、と想像できます。それは、自分の力や人を頼りにしないで、全て神さまの御心お委ねしお任せする決意です。周りの人々との比較からは、何一つとして本当のことは分からない、という新しい認識です。ふつうは、周りの人々と比較して、どちらが有能なのか、或いは、どちらが幸せなのか、自分を評価します。しかしペトロは、そんな人間同士の比較からでは、本当の真理は見えてはこない、と気付いていたのです。人には、元々、生まれついた時からの個性があります。それはオンリーワンの、たった一つの命の輝きであり宝です。それを、周囲との比較から良し悪しを評価して、自分の尊厳を卑しめてしまう必要はないのです。ひとりひとりが皆、だれもが、地球よりも重く尊い、たった一つの神からの恵みであり贈りものだからです。あなたには、あなたしか生きることのできない幸せがあり、わたしにも同じようにわたしだから生きることのできる幸せがあるはずです。自分の本質を、自分の次元ではなく、神さまの恵みという次元で、見つめ直すことができるようになった、と言えましょう。

このように、自分の本質を神さまの恵みという次元から認めて受け入れられるようになると、不思議なことですが、比較の対象であった他者一人一人をも、排他的な意味での他者の次元から、神から与えられた恵みの他者として、今度は愛の対象として認めて受け入れることも可能になるのではないでしょうか。決して誤解してはならないのは、自己を絶対化して、独り善がりでよい、と言うのではありません。ある意味で、確かに周囲の人々と比較する中で、お互いの違いや特質をよく知る、ということはとても大切なことです。そしてそうした違いや、あるもの、ないものを認め合い、助け合うことの大切さを深く知ることはいよいよ貴いことです。そうした賢明な比較の中で互いの違いと多様性の豊かさを認め合い、評価し合い、助け合い、仕え合う、そうした人格的な交わりに入るのです。問題はその次です。そこで、改めて「自分」も「他者」も、其々の本質と尊厳は、神さまからそれぞれに与えられたオンリーワンの尊さに気付き、より深く知り、互いを感謝をもって喜び合うことです。

その時に、とても重要な鍵となることは、自分をお造りくださった神さまに対する全幅の信頼です。神さまを信頼する確信から、初めて自分のオンリーワンの意義も、他者の意味ある本質も、共に見えて来るからです。かつてペトロは、他の弟子たちと比較して、自分は特別で絶対的な存在であるのだから、そうでなければならない、と誤解していたからです。大事なのは、周りとの比較で自己を絶対化するのではなくて、神さまの信頼から、そして神さまからの愛と恵みを知る所から、自分の意味や価値を深く知ることが出来るようになることにあります。こうした自分の本質とその意味をいよいよ知る、自分探求の旅路は、神の御手の内深くに有って、神を信頼する信仰のもとに永遠に続けられるのです。おそらく、ペトロは、自分の本当の意味や真理は、神さまを信じる信頼を根拠にして、しかも神さまの愛や恵みを根拠にして、神の愛と恵みという次元に委ね、そこから、未知なる自分を推し量るという終末論的な自己理解を獲得したのではないでしょうか。

後から仲間に加わったパウロは、異邦人の宣教を担い、ギリシャやローマの異邦人に福音を宣べ伝え、多くの異邦人教会を立て、新約聖書の中核を構成するたくさんの牧会書簡を残しました。そして若いヨハネは、後に第四福音書を書き残しました。しかしペトロには、実際に教会を立てたという話もなければ、福音書を書き残したという話もなく、殉教してしまいました。しかし重要なことは、「イエスさまの羊を飼う」という羊飼いとしての使命が、イエスさまからペトロには与えられて、その使命に全生涯を献げて殉じたのです。それは世界の全ての歴史的教会の岩礎となる職務でした。ペトロは、神さまのご主権のもとに、神さまの愛と御心を信じる信頼のもとに、自分にしか与えられない恵みと喜びを知り、自分に生かされた生涯を生きることを知ったのです。その根拠は、自分の力に頼ることの虚しさを知り、この世の力に頼ることの不確かを経験したからでした。何よりもペトロは神を愛し神を信頼し神にお委ねすることの尊さを知ったからであります。比較と相対の中で生きる虚しさを知り、神と向き合う絶対の中で生まれ変わったのです。悔い改めとは、そういうことではないでしょうか。

 

3.「わたしの小羊を飼いなさい、わたしの羊の世話をしなさい」(15、16節)

主イエスはペトロに「わたしを愛しているか」とお尋ねになりました。なぜ「愛しているか」と尋ねたのでしょうか。「愛」について、改めてその根本原理から、振り返る必要がありそうです。言うまでもないことですが、「独り」という絶対の世界では「愛」は成立しません。愛の根源は「他者」にあります。他者があって愛という世界は成立するのが愛の根本原理です。愛は、独りでは決して実現するとのできない行為です。愛とは、他者との関係性の中から、生まれます。そのためには、唯我独尊の自分以外に、他者の存在と場を認め、自分の内に受け入れたとき、初めて愛は生まれます。そして新たな課題として、その存在と場を自分の内に受け入れて認めた他者存在と、果たして自分はどのようにかかわればよいのか、という問題が生じます。そこで、初めて「愛する」(反対は憎み妬むということになるでしょうか)という新しい課題が生まれます。相手のために、自分はどうかかわり、何をすればよいのか、相手のために役立ち喜んでもらうには何が必要なのか、「愛する」という関係形成の主題のもとで、自分の生き方が新しく造り変えられるようになります。他者を認め、受け入れた時、他者を愛するという課題と営みの中で、初めて他者と共に生きようとする、新しい他所と共同する人生が始まるのです。

ヨハネは手紙の中で「4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(ヨハネの手紙一4章16節)と教えました。そもそも愛とは、神そのものであり、神の内にある、と言っています。したがって愛は単なる倫理の範疇に属するものではなく、神そのものにその根源と本質を有しています。それは、三位一体の神そのものであります。父はご自身の内に子の存在を認めて栄光のうちに遣わし、子もご自身の内に父の存在を認めて従順をもって仕えます。聖霊も同じように、父と子と聖霊は、三位格其々のうちにかつ相互のうちに、其々の存在を認め合い栄光のうちに仕えておられます。古い東方ギリシャの神学で申しますと、三位格の相互内在性(ペリコレーシス)という三位一体の神の教義です。いわば三位一体の神ご自身の本質に、しかも唯一真の神であるとする神の本質に、父はご自身の内に子を他者として子を認め栄光のうちにお遣わしになり、子もご自身のうちに父に従順を尽くてお仕えする、そこに神の本質が示されます。自分の内に他者を受け入れること、それはある意味で、自己否定、自己譲渡を前提にしなければ実現できない行為です。極論すれば、神の本質は「自己否定」を媒介にして成立しているのです。それが「愛」の根源的な原理です。その父と子と聖霊における相互に自己否定を媒介にした神の本質を、主イエス・キリストを通して、今度は私たち人類に注がれた神の愛として、私たちは知るに至ったのです。ヨハネは、そのことを「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、神は愛です」と告白し、したがって「愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と教えることができたのではないでしょうか。

ここで一つ意味深い点は、イエスさまから「わたしの羊を飼いなさい」と、羊飼いとして、ペトロは任職されます。主イエスは「わたしの小羊」または「わたしの羊」と言っています。ご自身が命にかえて一番大事にしておられる「子羊」をペトロに分け与えられたのです。「わたしはよい羊飼い」である、と主イエスは教えておられました。つまり主イエス御ご自身だけの羊飼いという場を、ご自身から切り裂いて、ペトロに分け与えられています。神の国であり天国を支配する牧会の権限をペトロに分け与えたと言えましょう。そしてこれは、ペトロだけのことではありません。実は、わたくしたちひとりひとりに、その名を呼んで招き、神の内側に場を認め分け与えられたのです。「14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネによる福音書14章2~3節)と仰せになられた、あの主イエスのみことばを思い起します。これが、まさに神であり、神の愛であります。

こうして主イエスは、ペトロを選び、ペトロを羊飼いとして任職し、教会のためにお遣わしになられました。まさにそれは神が自己否定の愛を媒介にして、御ご自身をペトロのために差し出し分け与える天における生きる場でありました。ペトロは、生涯を尽くして生きる場を、神から与えられたのです。まさにルターの言う「天職」を与えられたのです。天に生きる使命を知り、使命を与えられ、使命に生かされたのです。自分の本当の生きるべき場と役割を与えられました。教会の中でも、家族の中でも、また職場の中でありましても、そして人生のすべてにおいて、本当の自分の生きるべき場所が天から与えられており、自分の果たすべき役割が与えられること、それほど意味深いことはないと思います。愛し合うという関係の中で、お互いがお互いのかけがえのない役割と場を認め合い、相互に分かち合い、喜び合うのです。

 

4.「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)

最後に、非常に重く深いこととして、ペトロは「殉教」を言い渡されます。「『21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』21:19 ペトロがどのような死に方で神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」と記されています。確かに、ペトロは「わたしの羊を飼いなさい」と命じられ、羊飼いとしての任職を受けたのですが、それに加えて、その務めを果たすべき責任と犠牲もまた求めらたのです。イエスさまは、神のメシアとしての務めを与えられ、その務めを十字架の死に至るまで従順を尽くしてお果たしになられました。同じようにペトロも羊飼いとしての職務を殉教という犠牲をもって貫くことになります。

このことは、わたくしたちが人生を生きる中で、ヒロイズムやナルシストとしてではなくて、心から謙遜かつ従順に、自分の犠牲を喜び誇りとすることができる、ということを意味してはいないでしょうか。人間にはどうしても周りを見るにつれば、納得できないことや、時には恨み辛みが生じるものです。なぜ、自分がここで、こんな役割を背負わされ、罵られ蔑められて、死ななければならないのか、と。多くの人々は、世の称賛を期待して立身出世は図り、極力貧乏くじは引かないようにしたがるものです。もしかしたら、牧師や教会の人々の中にも、そうした方々はたくさんいることでしょう。しかし、主イエスは、人々のために十字架の犠牲となられたのですが、その多くの人々から卑しめられ罵られて、極刑を受ける犯罪者として、死の淵へと落ちて行かれました。そればかりか、そうした人々のために「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:32)と執り成しの祈りをしながら、息を引き取られました。この十字架の主を仰ぎ見れば見るほど、主のもとに近くあることの意味を覚えます。愛ゆえに赦しゆえに犠牲を余儀なくされた主は、本当の意味での勝利を遂げ、栄光のうちに父と共にあり、永遠の命をうちに甦りました。そこに溢れるものは、愛であり赦しであり犠牲でありました。ペトロはそのただ中に招かれたのです。

 

5.「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」

ヨハネは、ペトロの任職を厳粛に伝えながら、少々興味深く、ペトロと自分との関係を描いています。ヨハネ自身が記したというよりも、ヨハネの後継者が記したことでしょうか。ペトロは殉教を受け入れましたが、やはり隣りのヨハネの行く末が気にかかったのでしょうか。21節以下に「21:21 ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。21:22 イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるかあなたはわたしに従いなさい。』と、そのエピソードが紹介されています。前にお話したペトロの覚悟と、少々矛盾するような話ですが、ペトロは、ヨハネのことが気がかりで、思わず、その人間感情を表白してしまったようです。その結果、主イエスに「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」と諭されます。ヨハネ側からすれば、少々自慢げで、ペトロ側からすれば、少々言い訳したい所でしょうか。しかしここで、やはり記者が強調したかったことは、いずれにせよ、どのような運命であり、「あなたは、わたしに従いなさい」という主のご命令です。其々が、其々の人生を尽くして、主を信頼する確信のもと、感謝と讃美をもって、オンリーワンとして、其々の使命を果たすことです。

2022年5月15日「わたしは漁に行く」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.15 小金井西ノ台教会 復活第5主日

ヨハネによる福音書講解説教50

説教「わたしは漁に行く」

聖書 ヨナ書2章1~11節

ヨハネによる福音書20章1~14節

 

 

聖書

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 

 

説教

はじめに.  「信じてイエスの名により命を受けるためである」(20章31節)

ヨハネは、20章をもって福音書を完結させた、と考えられます。20章において、復活した主イエスは、二度に渡り、ご自身のお姿を弟子たちに現し、「平和」と和解の宣言をもって彼らを祝福し、ご自身の息を彼らに吹きかけて「聖霊」を与え、改めて「使徒」として世に遣わしました。そればかりか、第一回目の復活顕現の折に居合わせなかったトマスにも、ご自身の手の釘の跡やわき腹の槍の跡をお示しになり、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と仰せになり、復活の主には、みことばを信じることにおいて出会えること、更には「主イエスはメシアであると信じる」ことにおいて「永遠の命」は与えられる、と諭しました。そして福音書をこう結びました。「20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と。

このように、ヨハネによる福音書の目的とその主眼点は、一貫して「イエスは神の子メシアであると信じ」そして信じたその信仰において「イエスの名により永遠の命を受ける」ために集中しています。言い換えますと、主イエスは、ご自身を「わたしはある(エゴー・エイミ)」と自ら「神」の名を名乗り、主イエスご自身において「唯一真の神」は今ここに現れ、御自身の十字架の死と復活において「神の栄光」を表し、人々に「永遠の命」を与えられること、それを人々はただ信じて受け入れるだけで、神の愛と主イエスの恵みにより、永遠の命を得ることができる、という福音をヨハネはこの福音書を通して宣べ伝えた、と言えましょう。そして今ここに、その福音の物語は完了完結したのです。

問題はではなぜ21章なのか?ということになります。エルサレム郊外の墓の中でマグダラのマリアにご復活のお姿を現した主イエスは、エルサレムの家で弟子たちに姿を現し、同じ家でトマスにも主は復活のお姿を再度顕現しました。そしてヨハネは、最後この福音の物語を書くに至った目的を記して締めくくりました。ところが、その続きとして、さらにつけ加えるかのように第三の復活の復活顕現の物語を、しかも場所はエルサレムの「使徒」として働く弟子たちではなくて、ガリラヤ湖で世俗の「漁師」として働く弟子たちにご復活のお姿をお示しになるという話が、21章として登場します。これは、いったいどういうことなのでしょうか。「聖霊」を受けて聖別され、「使徒」として世に遣わされた弟子たちは、どうしてガリラヤ湖で「世俗の漁師」に戻って、不漁に苦悩する姿を描くのでしょうか。とても不可思議な物語であります。わたしたちは今や、同じヨハネによる福音書ではあるものの、21章という全く新しい形で、第三回目に復活顕現される主イエスと出会うことになります。

内容からも明らかなように、20章とは大きく矛盾する21章は、後のヨハネの「教会」によって付け加えられた物語ではないか、と多くの学者が推測しています。よく内容が似ているためにしばしば比較されるのは、ルカによる福音書5章で、ガリラヤ湖の漁でおびただしい魚が獲れた、とする「大漁の奇跡」の記事です。話の内容から申しますと、ヨハネ福音書の21章においては、ガリラヤ湖での大漁の奇跡といルカ伝承に、更に復活顕現する主イエスの奇跡の物語がさらに二重に重ね合わせられて、大漁という場面での復活顕現が物語られるのであります。確かに、場所も話もとても酷似していますが、実は、語ろうとする内容も意図も、ルカとヨハネとでは、大きくズレ、異なります。ルカによる福音書5章の主眼点は、奇跡であり奇跡を起こすメシアの力に焦点化されて物語られます。いわば、主イエスにおける「力あるわざ」として、メシアを証言するしるしとして、大漁の奇跡が描かれます。確かに、ヨハネも同じように、ガリラヤ湖での大漁という奇跡とそこ働く主イエスの驚くべき力が表されている点では同じですが、ただ根本で大きく異なる点は、論点が、復活の主イエス・キリストに対する後の「教会の信仰」に移り、しかも復活の主は、「みことばと信仰」とにおいて、常に現臨し救いのみわざをいよいよ行われており、教会は復活の主による「みことばと信仰」において導かれている、というメッセージにあります。復活の主が、教会の宣教を導くために、ペトロを中心に弟子たちを使徒職として立て、またその後継者たちにより、教会において「大漁」の喜びが象徴的に証しされるのです。

 

1.「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」(4節)

21章での主イエスの復活顕現は、20章のようにエルサレムではなくて、「ティペリアス湖畔」とありましたようにガリラヤ湖畔です。故郷のガリラヤ湖で「魚をとる漁師」として、弟子たちは登場します。やはり弟子たちの行動の中心的に担う人物は「ペトロ」でした。聖書は「21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。21:4 既に夜が明けたころイエスが岸に立っておられただが弟子たちはそれがイエスだとは分からなかった。」と、出来事の発端と事情について描き出しています。なぜ、21章が後に付け加えられたのか、その真相を示す鍵語が、既に4節で「21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」という言葉によく示されています。先ず決定的な問題は、復活の主イエスがおられるのに、復活した主イエスが分からない、その存在を認めることができない、という現実認識です。復活して現臨する主イエスを受け入れることができないまま、曖昧で不安定な状態のまま故郷に帰り、魚を獲る漁師に逆戻りしてしまった弟子たちの生活が描かれます。復活した主イエスがそこに立っておられたのに、それをイエスだとは分からない、という弟子たちの「不信仰」が浮き彫りにされます。厳然と主イエスは彼らの傍らに現臨しておられるのに、それが主イエスだと分からない、そういう空しい実態が問題となって掲げられています。彼らの生活の実態は最早「信仰」生活とは言えず、とても空虚な生活です。既にそこに、主が立っておられるのに、です。前の20章29節で「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と、主イエスがトマスに語った、あの決定的的なメッセージが、ここでは既に失われています。信じることの意義と幸いの本当の意味は見失われ、それどころか、既に見えなくなって久しいご復活の主イエスの存在もすっかり失われてしまっていたようです。まさに復活の主不在、神不在、命不在の、実に空虚な信仰生活であります。

同じことは、わたくしたちにも言えそうです。日々の生活の、その時その時において、復活と栄光勝利の主は傍らに寄り添い立っておられるのに、わたしたちはそれが主イエスだと分からないのです。いわば、ヨハネの21章の主題は、教会と信仰の生活だと言いながら、実際は「生ける神不在」の生活を空しく偽善的に過ごしているのではないか、そんな生きて力あるわざを行っておられる「神」不在の生活を問うているのです。「使徒」であるはずの弟子たちは、単なる「世俗」の漁師に終わっていないのか。生きて力強く働く神は少なくておも彼らの意識の中には居られず働きもしていないのではないか、という空虚な墓のような信仰生活を問い質します。

「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」とありました。そこには何一つ収穫と言える、心に燃える、生き生きとした命溢れる霊的な生活実態はありませんでした。そうした喪失した弟子たちの心の風景が、ここにはよく映し出されています。もしかしたら、ヨハネの教会は、後の時代になって、教会の中心となって共同体とその信仰を支えていた本当の意味での使徒職を失い、信仰共同体としての本来の意義と目的を喪失する危機に直面していたのではないか、とさえ危惧してしまいます。そして教会は、そうした信仰喪失の危機に対して、復活の勝利と栄光の信仰をもって改めて立ち向かって闘う決意をしたのではないでしょうか。それが、この21章を書く必要であり目的であったのではないか、と思われます。現代のわたくしたちの教会でも、本当の意味での「信仰」の実質や形式でも教理信条が失われ、信仰が空洞化する中で、生ける神の不在となり、結局は世俗生活に溺れて死ぬ他に行き(生き)場を失い、教会と信仰に残された残骸は、薄ぺらなヒューマニズムだけ、ということに尽きてしまうのでしょうか。

 

2.「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(6節)

ペトロもパウロもそしてヨハネも、使徒たちは迫害の中で世を去ります。後に世に残された教会は、迫害やさまざまな試練の中で、使徒職と神不在という信仰不安のまま、生ける主イエスの栄光と勝利を喪失してしまう危機に陥った、と考えらえます。信仰生活の実態はいつの世でも常に「闘い」であり「苦悩」です。そこには、実際に何一つ希望も喜びをも得ることのできない、弾圧と抑圧、排除と差別の悲痛な日々が続きます。そうした絶望寸前の中で、ペトロを初めとする使徒職の継承者たちは、改めて、主イエスの「みことば」のうちに、神の啓示を聴き直そうとします。そしてついに、教会は復活のキリストの身体として、天地を貫く信仰の共同体験という形で、復活の主イエスは試練の中の教会に寄り添いいつも共におられる、ということを知るのです。復活の主は、信仰とその共同体である教会の真ん中に来て立ち、ご自身のみことばをもって働き、命と栄光のみわざを行っておられたのです。見たから信じるのではなく、見ないで信じる者は幸いであるとは、そういうことでした。復活の主イエスは、教会とその信仰において現臨し、みことばをもって、信徒一人ひとりに直接語りかけ、永遠の命を与えておられたのです。神不在ではなく神はわたくしたちのうちに現臨し生きて働いておられたのです。主イエスは弟子たちに「21:5 『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。」と語りかけます。この「食べ物」(prosfa,gion prosfa,gion)という字は、パンに添えて食べる「魚」を指しており、言い換えれば、主イエスは「魚は獲れないのか」と尋ねたのです。ですからリビングバイブルはこれを「『おーい。 魚はとれたかーい。』その人が声をかけてきました。『いやー、全然だめだよー。』」と訳しています。信仰共同体の中核を構成する弟子たちの生活には何一つのその信仰による収穫は得られていない、とそう思い込んでいたようです。そればかりか、復活の主イエスがおられることも分からなくなっていました。「魚」とは、そうした日常の生活を根源から支えて力づける「命」そのもの、救いの命を象徴的に表しています。「魚」という字は、ヘブライ語で「ダーグ」と言うそうですが、その語根「ダーガー」は「増えて増殖する」(創48:16)という意味のようです。また初代教会では「魚の絵」は「救いの象徴」として用いられ、ギリシャ語の「魚(ivcqu,jイクスュース)」(ヨハネ21:11)の文字は、「エス・リストは、世主(VIhsou/j Cristo.j Qeou/ U`ioj Swth,r)」という其々の単語の頭文字で構成された言葉であり、教会の最も短い信仰告白でありました。そうしたことから、無限の神の恵みであり命を象徴し、また「イエス・キリストは神の子救い主」という信仰そのものを象徴するものとして、この物語でも用いられたのではないでしょうか。ペトロやヨハネの後継者たちは、教会において、その命と力の拠り所を失い、「ありません」と答えるしか外に道はなかったというのです。

ガリラヤで世俗の漁師に戻った使徒たちとは、ユダヤ人やローマ人からによる迫害から逃避逃亡する中で、絶望するキリスト教共同体を象徴しているかのようです。「使徒」として立てられ、世に「福音の宣教」のために、遣わされたという自覚はおろか、世に敗北し埋没しそうな弟子たちの不安が、故郷に帰り漁師に戻る姿に映し出されているようにも見えて来ます。そればかりか、キリスト者と言っても、これが世に支配されたわたしたちの日常生活の実態ではないのかと厳しく指摘されているようにも見えます。

そうした生きた信仰の喪失という空虚な生活のただ中に向かって、ついに、主イエスは、突入して来られるかのようにその真ん中に来て立ち、みことばを告げ、みわざを行われ、救いを実現されるのです。聖書は「21:6 イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさいそうすればとれるはずだ。』そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」と記します。主イエスが彼らの日常生活のただ中に突入して来られ真ん中に立ち、主のみことばが語られるもとで、網を投げるように宣教と奉仕に励んでみると、確かにそこにはおびただしい信仰による命の魚が、またその福音という命の救いに導き入れられる多くの信仰者が与えられ、宣教活動の網にはいっぱいに溢れていた、という象徴的な出来事が物語られます。この出来事は、弟子たちとその教会に、とても大きな力と励ましを与え、確信に導いたことでありましょう。弟子たちは、この世の漁師として漁をするのですが、そうではなくて、言わばこの世での宣教も働きも全ては皆、主イエスの語られたみことばの示す所に導かれており、天国という大きな網の中で、ぴちぴちと飛び跳ねる大漁の魚のように、地上の教会でもあっても天上には大漁の収穫を得ているのです。主イエスのみことばにしたがって、営む生活の全てを尽くして、みことばのもとに投げ入れるのであります。すると、不思議なことに、そこにはたくさんの魚がぴちぴちと跳ね上がって大漁となっていたのです。主イエスの語られたみことばのもとで、初めて獲得し経験された大漁の奇跡でした。

 

3.「ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった」(11節)

そのように、弟子たちの生活のただ中に立ち、みことばを告げる復活の主に、真っ先に反応した人物が、あのペトロでした。ペトロやヨハネが弟子たちの集団の中でとても意味深い役割を担っており、その役割を十分に果たしています。それは、共同体の行動規範です。先ず「21:3 シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」とありますように、ペトロが真っ先に、弟子たちの集団を率いて舟に乗り込み、漁に向かって出て行きます。あたかも教会という舟に真っ先に乗り込んで人を漁る漁師として、宣教に向かってゆくとても勇ましいリーダーとして登場しています。さらに「シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。」と描かれます。ここでも、弟子たちの中で、最も早く弟子たちの真ん中に立ち現臨する復活の主イエスに対して反応して驚き、「上着をまとって湖に飛び込んだ」のです。ペトロは真っ先に、弟子たちの中で最も純粋で鋭敏に応答する礼拝者としてまた祈り手として登場します。しかも聖書はさらにペトロについて、「21:11 シモン・ペトロ舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」と記しています。153匹の「魚」(ivcqu,j ivcqu,wn)であっても、一見か弱く小さく見える投網でも、どんな大漁にも応え得る一つの網として、破れず機能していたのです。「153」とは、何の数を象徴しているのか、不明です。教会数か、神の恵みの数か、あるいは民族や都市なのか、分かりませんが、いずれにしても、ひとつの信仰による一つの教会における救いは、破れることなく無限に広がり、揺るぎなく普遍に働くのであります。注目すべき点は、仮りに「舟」を教会の譬えとして読み、「網」を教会の宣教として解釈し、さらには「大きな魚」を獲得した信徒や新たな教会群として理解すると、そこには、ペトロを初めとする使徒たちの後継者による宣教が、広くあらゆる国々や人種にまたがるように、一つの公同普遍の世界教会を形成しているように見えて来ます。歴史的な使徒ペトロというよりも、ペトロのように使徒の務めによって導かれ、拡がる世界の教会の姿です。後にニケア信条で告白される「一つの、聖なる、公同の、使徒の教会」です。そして復活の主イエスがその世界教会の真ん中に立ち、みことばを語り、世界は主のみことばのもとに、宣教という網を投じると、その網の中は大きな魚が生きて跳ね上がり大漁となって、夥しい新しい民族と教会が収穫されているのです。しかもその網は「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」とありますように、教会も宣教も、揺らがず壊れず破れず、いよいよ堅固に守られ導かれるのです。こうした表現から、ペトロを中心とした使徒たちとその後継者たちに教導され、さまざまな国々の民族を全て包み込むように、唯一の聖なる公同の使徒的教会は形成されてゆくのです。しかも、そうした世界の教会形成のただ中には、何と言っても、主イエスが十字架と復活の栄光のお身体をもって現臨し、力あるみことばを語りかけ、みことばにより命と救いの食卓に招き、ご自身の勝利と栄光のお身体を分かち与えるのです。こうして「神不在」としか見えない迫害や試練の中にあっても、教会は勝利の希望と永遠の命に溢れ、主と共に確信に満ちたて歩み始めることが出来るのです。

 

4.「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(9節)

復活の主が弟子たちを招き、弟子たちに与えたもの、それは「朝の食事」でした。朝の礼拝と言ってもよいかも知れません。「21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚(ovya,rion ovya,rion)がのせてありパンもあった。21:10 イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。」と記されています。少々、不思議な表現になっています。既に炭火のうえに魚はのせてあり、パンもあったのに、なぜわざわざ主イエスは「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われたのでしょうか。とても不思議な印象を受けます。既に炭の上にのせてある魚と、今とった魚とは、どこがどのように違うのでしょうか。原典から厳密に言えば、そこに差し出され横たわっている「魚」(ovya,rion ovya,rion)も「パン」(a;rtoj a;rton)も、文法的に言えば、共に無冠詞単数の形で書かれており「たった一つの魚とパン」です。どちらかと言えば、数より「質」を意味しており、キリストによって用意された唯一普遍的な魚とパンであり、そればかりか「今とった魚(tw/n ovyari,wn w-n evpia,sate nu/n複数形で冠詞)を何匹か持って来なさい」というみことばは、あの5千人の給食を彷彿とさせます。しかしさらに不思議なことに、12節以下で「イエスは、『さあ、来て朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった主であることを知っていたからである。21:13 イエスは来てパンを取って弟子たちに与えられた魚も同じようにされた。」とあります。こうして主イエスから既に用意されていた唯一の魚とパンは、弟子たちひとりひとりに与えられます。ここで、弟子たち一人ひとりに差し出され手渡されたパン(to.n a;rton)も、そして魚(to. ovya,rion)も共に冠詞付単数形です。敢えて数にこだわって深読みすれば、主イエスによって既に用意された唯一の普遍的なパンと魚から、さらに収穫された数々の魚へと広げられ、最後に冠詞付複数形という形で、全ての神の救いの恵み全体を天地を貫いて包み込むように、教会と宣教は大漁として描かれ、救いの喜びを纏め上げているかのようです。一つの普遍的で大きなパンと魚となって現れた、ということでしょうか。まさにこれはキリストの身体としての救いが大きく広がる現実を象徴しているかのようです。

このみことばで、さらに注目すべき点は、弟子たちにおける大漁という状況の変化と共に、弟子たちの意識も大きく変化していることです。その場の空気は全く異質な世界に一変します。その空気を象徴する言葉は、「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった」という言葉です。最初は「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(14節)と明記されていましたように、弟子たちの意識や信仰は、明らかに主イエス不在という「不信仰」と夜通し網を打ち続けても不漁という「絶望」に支配されていました。ましてや復活された主イエスの栄光と勝利は、彼らのうちにはなかったのです。ところが、主イエスのみことばのもとで、舟に乗り網を打ちますと、思いを超える大漁を共に体験したのです。何と岸辺では、主イエスは既に彼らのために、パンと炭の上に魚を用意しており、彼らは主の食卓に招かれ与るのです。みことばのもとで、復活した主イエスが、ご自身の十字架と復活のお身体をもって共同体の真ん中に来て共にたち、永遠の命に溢れる勝利の食卓を備えてくださっているのです。最早、誰もそれを疑う者はいないのです。復活の主を知り、それが復活の主だとわかるようになったのです。そしてそれはついに教会共同体の核心(確信)となります。弟子たちは、信仰共同体という教会生活を営む中に、懸命に伝道という網を打ち続けて働く中で、天地を貫き世界に広がる救いの恵みを収穫し続けていたのです。主がパンと魚とをもって日々の食卓を備え、命と生活の共同体を支えてくださるのです。天地を貫き世界全体に渡って日々展開され永遠の命による交わりの生活であります。そうしたさまざまな恵み豊かな営みの中で、復活の主を見る信仰の目は、増々確かに養い育てられていくのではないでしょうか。神は元々人間には捉えることのできない永遠普遍の存在ですから、わたしたち人間は、心身を尽くし信仰を尽くして教会生活に励む中で、初めて、受肉と復活の神に出会う喜びに導かれるのです。歴史を貫き、復活の主イエスは、教会において現臨し給い、救いのみわざは途切れることなく行われているのです。

2022年5月8日「わが主よ、わが神よ」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.9 小金井西ノ台教会 復活第4主日

ヨハネによる福音書講解説教49

説教「わが主よ、わが神よ」

聖書 詩編22編25~32節

ヨハネによる福音書20章24~31節

 

 

聖書

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

 

説教

はじめに. 主イエスとは誰か、どのようなお方なのか?

主イエスのご復活を、ヨハネとその教会は、どのように受け止めたのか、という視点から、主イエスのご復活について、お話をして来ました。前回は、ただ単に「肉体が生き返った」という不思議な奇跡を丸のみするように信じた、決してそれがヨハネの言う復活の「信仰」ではなかった、という話をいたしました。肉体が生き返る奇跡以上に、大事なこととしてヨハネが注目していたことは、「イエス」というおお方のご人格そのものでした。イエスさまのご人格全体と人格的に出会い交わることにありました。イエスさまは、いつも神さまがモーセに啓示した「わたしはある(エゴー・エイミ)」というそのままのお名前で、ご自身の本質をお示しになっておられました。しかも、ある時には、ご自身のうちに一体の交わりにある「神」さまを「父」と呼び、自らを「子」と呼ばれました。むずかしくて理解しがたい意味深長な表現ですが、ヨハネはそうしたイエスさまの中に、「子」を世に遣わす「父」なる神と、「父」に遣わされた「子」なる神が本質的に一つであり一致した交わりから、ご自身を見て、ご自身を啓示しお示しになれいました。つまり、ヨハネにとって、肉体が生き返ったかどうか、ということより、イエスさまとはどのようなお方であったか、そしてイエスさまとは、御子が人として受肉した「神」であった、その御子が受肉して人間性を背負い、世に栄光の勝利をした、それが「復活」というお姿であった、ということなのです。ヨハネは、福音書の冒頭で、使徒時代の古い讃美歌を引用して、イエスさまにおける「神(わたしはある)」について、「1:1 初めにがあった。言は神と共にあった言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と讃美告白して、主イエスとはだれであるか、イエスとは神のロゴスであり、永遠の神そのものであったことを讃美告白して、福音書を書き始めています。復活とは何か、というその真相と真実、実は主イエスとは誰であったか、ということの中に、全ての意味も根拠もある、とヨハネは気づいたのです。十字架の死も、復活も、そしてクリスマスの処女懐胎による受肉も、全てのことはどれもこれも、主イエスとはどのようなお方なのか、という主イエスのご人格の中から現れた出来事であります。そしてヨハネは、その主イエスとはいったい誰なのか、どのようなお方なのか、という根本問題において、永遠から神と共に存在し、万物の造り主である「神の言」(ロゴス)であり、と讃美告白して、福音書を書き始め、それから「1:14 言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵み真理とに満ちていた。」と総括し、主イエスにおいて受肉した神であると言い表しました。神の栄光は全て、この主イエスという神の受肉者に現れ、それは完全な恵みとして人々に与えられ、万物を照らす真理の光である、という信仰告白です。ヨハネは、この主イエスご自身から、ご自身の真相を自ら語るみことばとして、「わたしはある」(ハーヤー、ヤハウェ、エゴー・エイミ)という神の名を用い、ご自身の本質を啓示し表しました。主イエスのうちに「わたしはある」と啓示した「神」は、まさに父と同一本質であり一体の交わりのうちにある子であり、神のロゴスであり、神の栄光と人類救済のために父より世に遣わされ子であり、父は子の派遣において栄光を受け、子は天から降り受肉したお身体において、十字架の死を遂げ、人類の罪を償い、神の義を貫き、そしてその受肉のお身体において、復活を果たし、人類の救済と万物の創造的回復と完成を成し遂げて、栄光を受けるのです。この受肉した神の子のお身体においてこそ、被造物全体は創造の回復と完成は貫かれるのです。これを神の栄光としてヨハネは証ししました。したがって、復活を信じるということは、主イエスをどのようなお方として信じ受け入れるか、という信仰の本質から初めて見えて来る神の真理なのです。ヨハネとその教会は、まさに主イエスにおける「神」こそ、即ち神として同一本質を共有する父と子と聖霊こそが、神としての栄光のみわざを世に啓示し、世において実現し成就するのですが、主イエスこそ、そうした三位一体の「神」の栄光を人となって露わに啓示する「神」ご自身であり、神の啓示者ご本人なのです。そうした栄光のみわざのうちに、御子の受肉も十字架の死もそして復活もまた、すべてのすくいのみわざを統合的に基礎づけた、それがヨハネの福音書です。したがってただ単に霊ではなく肉の身体が生き返る、という不思議な奇跡を主張するような、そんな単純なことではなかったのです。ヨハネの根本問題は、イエスさまのうちに力強くする神の栄光のみわざであり、神の本質が現される場こそ、主イエスの復活のお身体でありました。

 

1.「わたしたちは主を見た」(25節)

弟子たちは、トマスに「わたしたちは主を見た」と証言しました。ここで言う「見た」とは、単純な意味で、生き返った死体を見た、という物理的な目撃証言ではなかったようです。前回もお話しましたように、弟子たちは、「あなたがたに平和があるように」という神による平和と和解の宣言を受けました。そして神の平和と和解の宣言のもとで、つまり主イエスの十字架の贖罪によって齎された神の平和のもとで、改めて弟子たちは「使徒」として世に遣わされ、その使徒としての派遣には、人々の罪を完全に赦す「赦罪の全権委託」が与えられていたからです。したがって、正確に言えば「主を見た」という経験の中には、ただ単に主が生き返ったことを見たという物理的な狭い意味だけではなく、復活した主イエスとの全人格的な出会いを経験し、その交わりの中で、神の平和と和解のうちに入れられ、そこから新たに「使徒」としての使命を受け、さらには神の平和と和解へと人々を導くために、罪を赦す全権を与えられ、さらには、その保証として「聖霊」を吹きかけれられて、世に遣わされています。復活の主イエスを見た、という体験の中で、もっと意味深いことは、イエスさまは決して十字架の死において世に敗北し滅ぼされたのではない、という主の栄光と勝利を確認したことです。敗北どころか、かえって反対に、イエスさまの本質は、人として受肉した「神」であって、その人として受肉した「神」の栄光は、「人」として受肉したご自身の人間性において、十字架の死に至るまで神の義と栄光は貫き、罪と死と滅びとに打ち勝って、永遠の命をもって栄光の勝利を成し遂げられたことにあります。その栄光と勝利の現れこそ、復活のお身体において現わされ、明らかに示された、と言えましょう。「わたしたちは主を見た」とは、それを知った、それを信じ受け入れた、その真理を認識することが出来た、ということになります。主イエスの栄光と勝利において、主イエスにおける「神」は、十字架の死に至るまで従順に神の義を貫き、死と死者となって罪を償い尽くしたその人間性を義と認め、祝福と栄光のもとに甦らせたのです。復活の主を見たとは、主イエスの人間の身体のうちに現わされた神の栄光と救いのみわざを、しっかりと見届け体験したことに他ならないのです。こうして、主イエスの受肉した身体において、その生死(いきしに)を通して、神の愛と憐れみは完全に現わされ、全人類の罪は主イエスの背負う人間性において償われ赦され、復活のお身体をもって新しい永遠の命が吹き入れられたのであります。この絶大な神の栄光のわざのもとで、即ちまさに神による平和と和解のもとで、罪と死と滅びの恐れから解放されて、しかも神の完全な赦しと和解の宣言のもとで、弟子たちは主イエスと出会い、主イエスを見て、主イエスから「罪を赦す」全権を与えられ、世に「平和の使徒」として世に遣わされたのです。

しかし、こうした「主を見た」という喜びと祝福溢れる新しい創造世界の体験について、弟子たちはトマスに告げたのですが、トマスはそうした他の弟子たちの「体験」を理解できませんでした。言わば、弟子たちが「主を見た」という体験は、ただ単に復活証言者としての体験を遥かに超えて、それは「使徒」として「召命と派遣」を受けた体験であり、そして何よりも、主イエスによって与えられた永遠完全なる平和の和解の体験であり、罪と死と滅びからの解放という貴い体験だったのですが、残念ながら、トマスはその体験の場から外れていたのです。なぜトマスはこの弟子たちの共同体験から外れてしまったのでしょうか。単純に言えば、たまたまその場に居合わせていなかったのでありましょう。しかし深読みすれば、それだけではなく、トマスの考え方にその原因があったのではないか、とも憶測可能です。なぜなら、彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言っておりますように、非常に強烈な物理的実証を求めていたからです。人間の認識の尺度を遥かに超えた神の栄光のわざを、信仰という新しい恵みの尺度によってではなく、余りにも小さな人間の尺度から理解し納得しようとしていたからではないでしょうか。主イエスのご復活は、「神」のわざであり、しかも「神」の完全な「栄光」のみわざの現れであります。それは、人間の認識尺度を遥かに超える出来事です。神を「信じる」という新しい尺度のもとで、初めて正しく獲得できる神の出来事であります。

 

2.「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ」(25節)

しかし、このトマスの言葉には、示唆に富んだ重要な意味があります。いろいろな意味に解釈できそうですが、一つは、何と言っても、物理的実証という観点から、実際に甦った主イエスを「肉の身体」という形で見て触れる経験をもって、確認することを願ったことです。真実の基準は、肉体的な身体による判定を求めたのです。それは、実際に「人間」そのものとして、主イエスが復活したどうかを問題にしていたからではないか、と思われます。わたくしは、このトマスの願いは、徹底して肯定されるべきであって、決して否定的に非難されるべきではないと思います。なぜなら、事実、主イエスのご復活は、物理的に肉体をもった復活であり、主のお身体における永遠の命の発現であり復活であったからです。なぜなら「肉体」或いは「身体」こそ、キリスト教の人類救済の中核となって現れる場であるからです。キリスト教の救いは、肉体や身体を捨象して、単に精神や霊だけの救済ではないからです。大切なのは、復活とは、「身体」や「肉体」の救済であり、その栄光と勝利こそ復活の本質でもあるからであります。言い換えれば、それがそのまま失われた「人間性」の本質的回復となるからです。身体のない所に人間は絶対に存在できないのです。それが人間だからです。それでは、最早人間ではなくて幽霊や亡霊にすぎません。人間としての本当の健全さや生きている証しと喜びは、生き生きとした身体の営みを謳歌できること、そこに人としての人らしい在り方があります。だからこそ、生き返る、復活とは、身体の、即ち人間性そのものの復活であり、甦りであり、生き返りなのです。この意味で、トマスは正しい、と言わねばなりません。

もう一つ更に重要なことは、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」とありますように、あの方の「手に釘の跡」「そのわき腹」とはっきりと言っている点です。主イエスの両手の釘跡とは、十字架の上に掲げられた「ユダヤの王」という罪状書きのもとに、十字架に釘付けられた両手の釘跡であり、主イエスのわき腹とは、主の十字架における死を実現したトドメの槍による傷跡であります。つまり両手の釘跡と脇腹の槍の傷跡とは、主が確かに「死んだ」ことを証明する傷跡ですが、それ以上に大事な点は、それらの傷跡はただ単に「死んだ」証拠である以上に、十字架刑という主が「死んだ」意味と目的を指し示しています。主イエスの十字架の死とは、ユダヤの民を救う「ユダヤの王」として、即ち「神のメシア」として、民の救いのために死んだ「メシアとしての死」を表しており、ただ「死んだ」という事実に加えて、「メシアの死」を表しているからです。主イエスが死んだのは、自分たち罪人の「罪の償い」のための犠牲の死であり、民を罪から贖うのために贖罪の死の生贄であり、神の義のために献げされた「神の小羊」である、という神聖で厳粛な意味と目的をもった「メシアによる贖罪の死」であった、ということです。主イエスの十字架における贖罪の死こそ、神による平和と和解の根源となり、救いの証明となるはずの死でした。だからこそ、主イエスご自身も、死んでも生きる、と教えておられたはずです。したがって、トマスが自分の目で見ようとした主の手の釘跡は、そしてトマス自身がその手で触れようとした主イエスの槍の傷跡は、トマス自身の罪が御子を傷つけ死に至らしめた自分の傷跡そのものでした。その時、その傷跡のうちに、トマスは、主イエスが痛み苦しみ、死に至るまで、自分の罪の贖い、命を神に献げ尽くしてくださった主の愛を見ていたのではないでしょうか。しかもトドメの死ですから、最後の死の極致まで、人間として人間の罪を背負い贖罪と従順を尽くしたことを表します。

そしてここで最も重大となる問題は、主イエスの十字架よる「死」は、世の権力者たちによるメシア抹殺であり、神の御子の敗北として終わる死であったのか、という点です。復活はメシアの勝利であり、十字架の死の勝利であり、神による平和と和解の勝利ではないのか、という問題であります。トマスからすれば、主イエスにおける復活のお身体に、十字架の死のお姿を見て確認することで、十字架の死が意味ある救いとして、神によって認められ、神の祝福のうちに新しい世界創造の始まりとなるはずだ、と期待したかも知れません。そうしたユダヤの王として、神のメシアとして、贖罪の神の小羊として、ご自身に受肉した人間としての命のすべてを尽くして罪を償い、人類の全てを担い尽くして死んだ、そういう「十字架の死」の意味が、神において受け入れられ認められたのか、という問題です。主イエスは神のもとに罪と死と滅びに勝利したのではないのか。それとも、神のメシアは、罪状書きにあるように「ユダヤの王」として、政治的反逆者として、世の権力者たちによって処刑され、世から抹殺され、完全敗北に終わってしまったのか。主の敗北による絶望と恐怖の中で、自分たちもまた、最早生きる意味は完全に失われ、死ぬ外ない、とトマスを初め多くの弟子たちは思い詰めていた、とも考えることができるかも知れません。主の十字架の釘跡と槍の傷跡は、メシアの敗北を意味するしるしなのか、それとも、釘跡と槍跡を背負うお身体の復活は、贖罪のメシアの神における勝利と栄光なのか、という根本問題です。したがって、この点においても、トマスの主張は、まことに正しい問いであった、と言えるのではないでしょうか。

 

3.「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(27節)

そこに、主イエスはご自身の復活のお姿を弟子たちに再び現わします。「20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」と記されています。これは、明らかに他の弟子たちがした復活の主の共同体験そのものの再現です。トマスも、他の弟子たちと共に全く同じ共同体験に至ります。やはりその体験の中心は「あなたがたに平和があるように」というみことばを語り、神の平和と和解とを宣言する主イエスとの再会であります。それから、主イエスは、トマスに「20:27『あなたの指ここに当ててわたしの手を見なさい。また、あなたの手伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。』」と言われました。この主のみことばも、とても意味深い表現ですが、これもいくつかの意味に解釈できるのではないでしょうか。主イエスは、明らかにトマスのために、釘跡のあるご自身の手をトマスに差し出して、触れさせています。同じように、死の極致に至るトドメを刺された脇腹をトマスのために差し出して、ご自身自らトマスの手を取って誘うように、死のトドメとなった脇腹の傷跡に触れさせています。いわば、主イエスはトマスのためにご自身の手の傷跡をトマスにも与えて彼と共に共有しているのです。そして同じ死のトドメの傷跡のある脇腹もまた、同じようにトマスに共有させるのです。これはまさに、主イエスはトマスにご自身の十字架の死を与え共有させているかのように見えます。ただ生き返った身体を「見せた」だけではなく、トマスの手を通して、主のお身体の釘跡槍跡とそして主の十字架の死そのものを、同じ人間の「身体」において「共体験」させているのです。主イエスは、ここで主とトマスの同じ「人間の身体」において、主のご人格からトマスの人格の奥深くに至るまで、その全身全霊において、「十字架の死」を「共体験」として、写しているのではないでしょうか。まさにトマスは、自分の手で主の十字架のお身体に触れて、十字架で贖罪のために死んだお身体に今ここで与っているのです。そうした意味からすれば、これは、わたしたちが聖餐において差し出された主の十字架の死のお身体に与る、というまさにその原型ではないでしょうか。

 

4. 「わたしの主、わたしの神よ」

このトマスの言葉は、決定的な意義を持ちます。それはただ単にトマスの信仰告白というだけではなくて、人類を初め世界万物の信仰告白であり、最も簡潔な応答讃美となる言葉です。主イエスの復活の身体のうちに、全ての神の真理とその勝利が明らかにされ啓示され、トマスは、今そこで、その復活のお身体を自分の目で実際に自分の手で実際に触れているのです。しかもその主の復活のお身体には、両手には痛ましい釘跡がくっきりと残され、わき腹には鋭く突き刺された槍の傷跡が残されており、十字架の死において完全なる贖罪を果たされ、人間性の全てを背負おわれた主の命溢れるお身体に、トマスはその血の通う暖かなお身体に今まさに触れているのです。まさしく主イエスは、神のメシアとして、栄光と勝利のうちに、命溢れて復活し、今ここに立っておられるのです。トマスが見て触れた主イエスの復活のお身体は、まさに神の平和と和解、人類を初めとする被造物全体の勝利であり、新しい創造そのものを指し示していたのです。

 

5.「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

主の復活のお身体、それはまさに十字架の死から復活した主のお身体に触れて、まったく新しい神の創造的な勝利と平和を実感したトマスに、主イエスはとても意味深いことを告げます。「『信じない者ではなく信じる者になりなさい。』20:28 トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」と教えます。これは、とてもヨハネらしい証言の仕方ではないかと思います。最もヨハネ的で、したがってその意味を理解するには、とても難しい教えです。つまりヨハネとその教会が、主イエスのご復活から受け継いだ信仰と神学がここによく現わされているように思われるのです。その特徴は二つあるように思われます。一つは「見た」という物理的な認識と並んで「聴く」ということによる認識方法が考えられます。主イエスは度々弟子たちを羊に譬えて、「10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているのでついて行く。10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」・・・10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分けるこうして羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる。」と教えておられました。「一つの群れ」とは、神の民であり、神の教会を指しています。その羊飼いである主イエスと、教会とを繋ぐ唯一の絆は、羊飼いは自分の羊の名を呼んで(羊を)連れ出し、羊はその声を知っているので、ついて行く」という結びつきにあります。具体的に言えば、みことばを語りみことばを聞くということになります。みことばにおいて神はご自身のみわざを示し、みことばにおいて教会の神のみわざに与る、ということになるでありましょう。

もう一つ重要なことを忘れてはなりません。それは、ヨハネは主イエスの復活を、父と子と聖霊の三位一体の神の栄光のわざとして証言していることです。共観福音書は、どちらかと言えば、復活昇天ののち、聖霊が降臨して、教会が誕生する、という仕方で、救いの展開を描きますが、ヨハネは、主イエスにおいて、父と子と聖霊なる神は一体の形で、救いの真理は啓示されます。ですから、復活の主がそのまま復活のお姿を示し、その復活のお姿のもとに、弟子たちに聖霊を授け、使徒として世に派遣します。そうした復活の主は、聖霊に満ち溢れており、聖霊そのものを弟子たちに与えられるお方として直に弟子たちに向き合っています。言い換えれば、復活した主イエスにおける聖霊の働きを認めることができます。もしかしたら、主イエスは、ご自身の復活のお身体を物理的に見せて示す以上に、聖霊の力によって復活の勝利をお示しになっておられたのではないでしょうか。だからこそ、先ず「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスに告げて、釘跡や槍の傷跡をお示しになったのではないでしょうか。そして今度は、トマスだけではなく、トマスを超えて、言わば「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる。」と仰せになられた教会を想定して、教会は物理的に見ることに神の救いの根拠を置かず、告知されるみことばに神の真理の根拠を置くことを教えておられるのではないでしょうか。つまり聖霊を与え、聖霊の恵みと力を通して、教会はみことばを聞き分け、主について行くのです。そうした聖霊に導かれる教会を祝福して言われたのではないかと思われます。

前にもお話しましたように、ヨハネはこの福音書の冒頭で彼の教会が受け継いだ讃美歌を引用しています。その「ロゴス賛歌」と呼ばれる讃美歌には「1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とあり、本来、父なる神によるわざである万物の創造が、御子であるロゴス(言)と共有されており、ロゴス(言)のみわざとして讃美されています。このように、「父」による創造のみわざは、同時に「子」と共に、場合によっては「聖霊」と共に、本質的に一致して共有する「神」のわざとして考えられます。ヨハネの「神」とは、そういう父と子と聖霊が相互に一致し共有し合う「神」であり、それが「三一体の神」としての本質である、と考えられているように思われます。であるとすれば、復活の主イエスにおいて、「神」としては父も子も一致して一体に働き、栄光のみわざは常に一致して共有されるのです。父と子と同じように、子と聖霊も、復活の主イエスにおいて、栄光のみわざとして一致して一体に働き、御子と御霊の一致において、使徒を派遣し教会をつくるわざとしても常に一致して働き、そのみわざは共有されているはずであります。

ツヴィングリは、ルターとの聖餐論争において、キリストの身体は「天」に昇られたゆえに、「地」には現存しない、と主張しましたが、確かに、主の復活と昇天を聖書証言に基づく神の経綸として救済史的に見れば、しかも三位格其々の救済史的役割から見れば、キリストの昇天の後、聖霊降臨を記述することはその通りですが、主イエスにおいて、神の内在論的な相互交流という点から見れば、父と子と聖霊が同質一体である神としての働きは一致し共有されているはずです。ヨハネは、聖霊の伝授や使徒の派遣のわざにおいても、働きにおいて一体に共有し合う父と子と聖霊という三位一体の「神」を見ていたように思われます。東方神学におけるペリコレーシス(三位格の相互内在性)という教理から見れば、まさにヨハネの神学と信仰は、そうしたダイナミックな「神」の栄光のわざとして、復活顕現された主を描き、復活の信仰を言い表そうとしているのではないでしょうか。

 

 

6.「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

主イエスは、トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言って、諭しています。このみことばの意味は、「入って来て、見て、信じた」というあの言葉にも通じるみことばのようにも思われます。肉体を「見た」ゆえに「信じる」ことができたという意味で、見たことが信じる根拠となっている、と解釈することもできます。或いは「見た」という次元だけにとどまらずに、さらにそこから「信じる」というより神に近づく次元に至らなければならない、という意味にも解釈できそうです。どうしても人間的な常識からすれば、信じるという次元は、見たという次元に比べると曖昧で不確かなことと考えがちですが、どうもヨハネは反対で、神の真理については、見たという次元よりも、信じるという次元の方がより確かでより包括的で深い認識に至る、と考えているように思われます。主イエスご自身がトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである。」と仰せになっておられるように、明らかに主イエスや聖書の観点からは、「信じる」ことの方が、より確かであり、より幸いなことだ、と教えます。どうして「見る」より「信じる」方が、より確かで、より幸いなのでしょうか。

その一つは、やはり「人格」として相互に出会う、ということが背景にあるからではないかと思われます。単に物理的にしかも部分的に見たという次元を超えて、目には見えない、未来のことのように今の段階では何一つ検証できないこと、或いは時間を超えて向き合うべきこと、更には「人間の尺度」を超えた測り尽くせない領域に至るまで、より確かにより深くそしてより豊かに知り出会うことで、与えられる大きな幸いがあるのです。よく申し上げることですが、未来を見ることは誰にもできません。では未来はない、と言い切れるでしょうか。未来を信じて未来に向かって生きた者だけが、未来を現在に見た者となることができるのです。愛も同じです。自分は誰に愛されているか、最初から見えるわけではありません。その人の中に愛を信じてその人を愛した者だけが、愛を見て、愛を体験し、愛を生きることが出来るのです。しかもこうした未来や愛は、人間性における最も意義あることであり、人間性と命の「質」を決定づける事柄です。未来を見失った命も、愛を見失った命も、本当に生きている、という質の高い命と言えるでしょうか。肉も四肢もそれらは皆、このより意義のある「命の身体」のために仕え、構成し、形成する生命体の要素です。人間らしく生きる、いよいよ奥深い人間の存在や意味を考えますと、どうでしょうか。やはり見ることより信じることの方が遥かにその意味を知ることができるのではないでしょうか。ましてや、復活の主イエスは、単に肉体だけを見ることでは、その「生命体」全体を捉えることはできないのです。神として生きておられる無限性や永遠性、そして神の命や愛や自由に満ち満ちた全知全能の「神」を測る知ることは出来ないことです。したがって、信じて生きてみなければ、見ることも触れることもできないはずです。このように、見える世界が全てではなく、見えない所でこそ、本当の生きるべき世界もあり、無限の真理もあるのです。そうである以上、それに辿り着く唯一の道は「信じる」ことであります。無限の可能性は、「信じる」という一本の道にしか開かれてはいないのです。見えないと言って、信じることを捨ててしまえば、可能性の道は失われてしまいます。特に永遠の神を知り、出会い、共に生きることでは、信仰は決定的な意味を持つのです。

もう一つ、「信じる」ということを決定的に意味づけたこと、すなわち弟子たちの教会共同体として学び経験した「神の恵み」があります。「聖霊」の伝授です。「信じる」という幸い豊かな尺度は、実は「聖霊」による恵み豊かな賜物である、ということです。使徒たちは、そして信じた信仰共同体としての教会は、この復活の主より吹きかけられた「聖霊」を受けたのです。その「聖霊」による豊かな賜物として、信仰を引き起こして与え、信仰を助け信仰を導き、救いの真理に至らしめる、神の完成へと導く恵みであります。「見ないのに信じる人は、幸いである。」と告知された主の教えは、ヨハネとその教会において、全てを決定づける決定的な教えとなったのではないでしょうか。最早、トマスのように、生きた主イエスを「見る」よりも、「聖霊」の賜物として「信じる」共同体であることが、より大きな意味を持つのです。極論すれば、ヨハネとその共同体のように「信じる」共同体は、最早、主イエスを見る必要もないのです。なぜなら、既にこの福音の告知である主イエスのみことばそのものを信じることにおいてすべては完全に成就しているからであります。主のみことばの約束とその信仰において、教会は既に神の愛と永遠の命の内にあるからです。まさに神は、神のことばにおいて、最早、見ずとも、完全に現存し全てを差し出しお与えくださっているのです。そしてその元々の神の言葉である神の「言(ロゴス)」は、教会の宣教の言葉として、目に見える神の言葉であり目に見えない神の言葉として、現在しご自身を差し出して、共におられるのです。

このように、「見ないのに信じる人は、幸いである。」とは、そうした三一体の神としての一致し共有し合う神のみわざの中に展開する救いを、見えない聖霊の恵みのもとに、みことばによって導かれ、信仰によって形成される教会の幸いを示して、言われたことではないでしょうか。ヨハネはこの20章を「20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアである信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と締めくくり、福音書を記した主たる目的を明らかにしています。

2022年5月1日「あなたがたに平和があるように」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.1 小金井西ノ台教会 復活3主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教48

説教「あなたがたに平和があるように」

聖書 創世記2章1~9節

ヨハネによる福音書20章19~23節

 

 

聖書

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

 

説教

はじめに

主イエスは、マグダラのマリアに、復活したご自身のお姿を現して、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」、そう命じました。主の仰せに従って、「20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」(ヨハネ20:18)のです。しかし、主の復活を知らされた弟子たちは、それがどういうことか、どうも腑に落ちなかったようです。いったい何が起こっているのか、よく理解できなかったのです。マルコによる福音書も、同じように、「16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。16:11 しかし彼らはイエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても信じなかった。〕」と明記していますので、弟子たちが主の復活を受け入れず、認めなかったことは明らかであります。

先週の説教で触れましたように、ヨハネも、「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハネ20:8~9)と、晩年に至るまでいよいよ洞察を深める中で、突然、振り返るかのようにここにあらわれて、理解が不充分であったと自らも回想する言葉のように思われます。弟子たちは、最初は、全くと言ってよい程、主イエスのご復活を受け入れることは出来なかったようです。が、しかし後になってから、主イエスの復活とはどういうことだったのか、振り返り、「入って来た、見た、信じた」(ヨハネ20:8)という三重の人格的な行為を経て、初めて主の復活という出来事を認識できるようになった、と思われます。そこに、ヨハネが言わんとする復活の伝承が、ここに、現れて来るのです。それは、「来て、見た」だけで復活が分かったのではなくて、復活したお方の存在を、生きた人格として、自分の心の中心に認めて受け入れるのでなければ、復活の主とはであうことは出来なかった、ということではないかと思います。そのお方が、自分の心の中心に存在することを受け入れ認めて、初めて人間として、愛し信じお仕えできるのです。それが、人間らしい人格的な交わりのあり方であり、生きた人を人として認める認め方です。復活したご人格として、主イエスを自分の最も人らしい中心で信じる、そういう霊と魂の働きが中心にあって、初めて復活の主と出会うことが出来た、という経験です。どんな人物でも、その方の人格を心の中心で受け止められた時、初めてその方に私たちは信頼を置き、共に生きることができるようになります。肉体を見ただけで、人としての出会いは生まれないのです。しかもここで言う、復活されたイエスさまのご人格を、自分の心の中心で受け入れて認める「信仰」とは、ただ単に肉体ではなくて、人の子のうちに受肉した「神」(エゴー・エイミ、わたしはある)と自ら啓示したお方なのです。主イエスというお方のうちに確かに「神」(「わたしはある」)の現存を認めて、主イエスにおいてこそ「神」の存在を認めて受け入れることが出来て、その「信仰」において、初めて主イエスの復活の本当の意味内容が、復活という出来事の真相が分かって来るのです。ただ「見た」だけでは分からいことなのです。ここで重要な点は、主イエスの復活を、ただ死んで動かなくなった肉体がもう一度動き出した、という単純な「肉の再起・再現」として「見た」ことにあるのではないのです。それ以上に根源的で奥深い「人格」即ち「受肉の神」として、私たちの心の中枢において、「信仰」として受容されることに、ヨハネの復活証言の意義があります。言い換えれば、私たちの最も人間らしい尊厳を担う魂の中心で、このお方をそのまま「受肉の神」として受け入れのです。ファリサイ派の人々も、復活はある、と信じていました。しかしファリサイ派のように、ただ人が生き返る、というのではなく、ヨハネは、主イエスの復活とは、その決定的で本質的な意味において、主イエスにおける「神」の現存とそのわざによる出来事である、としたのです。先取りして言えば、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神という三位一体の神による力あるわざとその栄光の現れであり、しかも復活の大前提として、神の御子が人の子イエスとして受肉し、その御子の背負う人間性における十字架の死であり復活である、としたのです。復活はあくまでも、主イエスにおける「神」による力あるみわざであり、主イエスにおける「神」である御子、主イエスにおける先在のロゴスが、常に同じ一つの神である父と共にあり、また聖霊と共にあって、同一本質の神として、主イエスにおいて働き栄光あるわざをその背負われた人間性のうえに現わした、と言えましょう。

ヨハネは、復活の主に対するマリアの信仰的覚醒について、こう告げています。「20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。20:15 イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』20:16 イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」(ヨハネ20:14~16)。ここで是非注目したい点は、マリアは復活の主から、自分の名前を呼ばれ、語りかけられます。この主イエスからマリアの魂の中枢に向かって呼びかける御声こそ、マリアが復活の主であると気付き、復活の主を認め、自分の心の中に深く受け入れて、そのお方に対して人格の全てを開いて明け渡す、という出会いの引き金となります。「マリア」と自分の名を呼ばれるその呼びかけで、そのみことばを通して、或いは、マリアの魂のうち深く響き渡るその呼びかけにおいて、二人は人格として深く出会い、認め合い、交わりに至るのです。そこで初めて今ここに「主イエスは生きておられる」ことが分かるようになり、そのお方の現存の認識を深め、さらに新しい生を共に生きてゆくことになりまます。このように、単なる肉や動く肉体の再現ではなくて、自分の罪と死のために犠牲となって下さったお方として、即ちそれによって主の最も深い愛と憐れみのうちにあり、その主が、今ここにそしていつも永遠に、わたしの救い主として目の前に立ち共にお導きくださるのだ、と分かったのです。復活の認知は、ただ単純に肉の眼だけ見る物理的な肉体によって理解できる、ということではなかったのです。そこには生きて現存する人格として、十字架によって自分の罪から命を贖われた救い主として、そして今は復活という永遠の命のもとにある救い主として、自分を深く愛し、自分の名を呼び語りかけてくださる受肉の神として、「イエスさま」は目の前に現存し、みことばを通して、語りかけておられるのです。このように、生きて働く主イエスにおける「神」と、みことばにおいて、深く人格的に出会い交わる中で、ヨハネは、確かに「入って来て見た信じた」と証言したのではないでしょうか。確かに、物理的な存在や肉体における主のご復活を前提にしつつ、しかしそれ以上に、みことばにおいて、生き生きとした人格の深みにおいて、魂の交わりに導かれていた、と言えます。主のご復活を理解して受け入れられるようになるには、このように、主はみことばにおいてご自身を現わしておられ、主のみことばによる呼びかけの中で、私たちは最も人間らしい魂の中心でそれを聞き、みことばを通して現臨するお方の存在に心を向け、ついにはそのお方の現存を、しかも魂の奥深い根源を刺し貫くように現存してくださる主と出会うのです。人格として相互に認め合い出会うとは、ある意味で、肉体的である以上に、人格の中枢にまで至る、肉体を超える人間としての言わば「霊」的な領域にまで及ぶ認識であります。したがって、先ず人格として現存することに気付き、その現存を認めて、受け入れられるようになること、こちら側の人格の全てを尽くして信頼と尊敬をもって、主からの呼びかけを聞き分けることで、初めて「生きておられる」という本当の意味が分かるのではないでしょうか。しかも、そうした復活の主と出会いとその気づきの根源は、主イエスにおける「神(わたしはある)」による啓示の力であり、名を呼んで呼びかけ語りかける御声の力であって、ただ生き返ったという肉体を根拠にするものではないのです。主イエスにおける「神」を信じ認め、そこで復活させられた主イエスにおける「人」とも出会い、気づかされるのではないでしょうか。主イエスにおける「神」は、死体をも生き返らせる、という奇跡的な現象を遥かに超えて、愛と力に満ちた「神」のみことばによる力が、私たちの魂のうちに、「信仰」の体験として引き起こし、甦ってここにおられる、という人格的な出会いとなって証言されていると言えましょう。

 

1.「あなたがたに平和があるように」(19節)

本日は、ついに主ご自身から、弟子たちのただ中に入り込んで来て、復活したご自身のお姿を現し、みことばを告げられます。「20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたそこへイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」とヨハネは証言しています。意味深いことがいくつかここでは伝えられています。それは、何と言っても、復活の顕現は、圧倒的に、主イエスご自身からの主導によることです。復活の主との出会いは、人間の側からは全く無力なことで完全に受け身です。主ご自身からご自身のお姿を現して、ご自身のみことばをもって語りかけ、弟子たちの人格の中枢に飛び込んで来られ、弟子たちの魂を平和と安息のうちに誘います。そうした主イエスから、人々の魂の奥深くへの突入によって、復活顕現は明らかな出来事として体験されます。ヨハネはそうした様子を「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへイエスが来て真ん中に立ち(h=lqen o` VIhsou/j kai. e;sth eivj to. me,son)、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(ヨハネ20:19~20)と証言します。迫害とそれによる死の恐れに支配され、堅く家の戸に鍵をかけて全てに対して閉ざす中、その扉をすり抜けて、徹底的に恐怖に飲み尽くされていた、そのただ中に、復活の主は突入して来られたのです。あたかも霊のように、そこへ、即ち恐怖に震える弟子たちひとりひとりの魂のただ中に突入するかのように入り込んで来て、部屋の真ん中に来てお立ちになって、ご自身の復活して生きておられるお姿をお見せになります。新共同訳聖書も「イエスが来て真ん中に立ち」と、とても勢いのある訳をつけていますが、リビングバイブルも「その時、突然、全く突然に、イエスが一同の中にお立ちになったのです。」と訳して、まさに弟子たちの真ん中に突入して来られお立ちになった復活の主イエスを描いています。意味深いのは、聖書ははっきりと「手とわき腹とをお見せになった」(20節)と証言しており、主イエスの復活を、決してただ単に「霊」や「風」のように顕現してはいないことです。しかし同時にその一方で、単に「生き返った肉体」だけを示そうとするものでもないのです。主は、弟子たちの真ん中に立ち、先ずご自身のみことばをもって語りかけ、弟子たちに平和の挨拶をします。しかしこの挨拶の言葉は通常の日常的な平和の挨拶にとどまらず、もっと本質的な意味があります。すなわち、神が、あなたがた生きた人間である魂の中心から、平和と安息のご支配がもたらせられるように、否、もう既にそのご支配は実現した、と宣言します。言い換えれば、人類に対する神からの和解と赦しの宣言であり、神の栄光勝利のもとに、人々は完全に罪赦され、死と滅びの呪いから解放された、という福音の宣言であります。主イエスは、ご自身の受肉を通して、「人間性」を受け取ることで、人類すべてにその人間性をご自身のうちに引き受けて背負い、担い続け、人間性をそのまま背負ったままで、十字架の死に至るまで神の義と従順を貫き、罪を償い、その結果、主イエスにおいて神との和解は果たされ、神の義は貫かれ、人類のための贖罪は完全に成し遂げられました。こうした主イエスの受肉を通して主イエスに背負われた「人間性」は、そのままの肉体と人間性において、「神」の力とその栄光のもとで、ついに罪と死に勝利して、永遠の命をもって死者から復活し、今ここに、神と人類との平和と和解を、そして永遠の命による復活勝利を祝福豊かに告げ知らせるに至ったのです。それが、復活顕現の福音的本質であります。「あなたがたに平和があるように」とは、まさにそうした救いの宣言でありました。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」という表現は、天と地を貫いて、神の国の到来と神のご支配を完全に分かち合う平和であり一致であり、それはまた、復活の主、栄光勝利の主による新しい契約共同体の誕生であり、それこそ、キリストの身体としての教会の本質を写すものであります。神による平和と和解は、先ずこうした「信仰」において、主イエスの復活勝利に気づくことから、その本質的な働きは始まったのであります。

 

2.「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)

「20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった弟子たちは主を見て喜んだ。」とあります。意味深いのは、「弟子たちは、主を見て喜んだ(oi` maqhtai. ivdo,ntej to.n ku,rion)」と記しています。単に、手と脇腹を見て、喜んだ、のではないのです。大事なのは、「手とわき腹をお見せになった(e;deixen ta.j cei/raj kai. th.n pleura.n auvtoi/j)」、その結果、それからさらにもっと大事なこととして、「イエスさま」だ、ということが分かったのです。この気づきは弟子たちの方から気付いたのではなくて、主イエスの方から、ご自身の両手と脇腹を差し出し弟子たちにお見せになることで、ご復活の主の現存をお示しになったのです。言うまでもなく、これは、主イエスを十字架に打ちつけて罪人として処刑した痛みと屈辱の釘傷であり、主イエスの脇腹を刺し貫いて、トドメを刺して「死」に至らしめたあの槍の傷跡であります。この記述は、単に肉体としての存在を証明しようとしているのではないのです。肉体を示す以上に大事な意味は、自分たちの罪と死のために、十字架において贖罪の死を遂げて葬られたお方の傷であり、自分たちの贖いのために十字架の死において傷ついたお方のお身体がここにあり、しかもその十字架の死は敗北ではなくて、栄光勝利の復活体として、今ここに甦って立っておられるのです。主イエスは、今もなお、あの十字架で死んだ同じお身体をそのまま背負い担って、死に勝利して、復活体としてご自身の十字架のお身体を示しつつ、ここに立っておられる、ということであります。主の十字架が神によって勝利した、という喜びでもあります。確かに、弟子たちは復活の主として再会したのですが、それは、自分の罪のために十字架で贖いの死を果たされたその贖罪と復活のお身体をもって、弟子たちにそのお姿を現し、弟子たちはそのお身体をもった「受肉の神」と再会したのです。しかもそれは、死と敗北のまま終わった死の身体、死に支配され呪われた人間性ではなくて、栄光の復活という勝利のお姿で、しかも十字架における贖罪の勝利した新しい人間性として神に受け入れら祝福されたのです。主イエスがお見せになられたのは、両手と脇腹ですが、ですから、わざわざヨハネは、「主」を見て喜んだ、と書くのであります。これはまさに十字架の勝利者としての主であり、主イエスにおける「神」の勝利をいよいよ確かに知って、そうだったんだ、と喜んだのではないでしょうか。復活とは、主イエスの復活であり、十字架の死からの復活であり、ですから、単に肉体が復帰したという不思議な幻想ではなくて、十字架に死んで葬られた主イエスにおける人類救済の勝利の凱旋であり、主イエスにおける「神」が、即ち神の御子が、その受肉したお身体と人間性を支配する罪に神の従順を尽くして勝利し、愛と憐れみをもって罪から贖い、永遠の命をもって復活という新しい人間性を実現してくださった、ということに他らなりません。その新しい復活の人間性のもとに、弟子たちは初めて本当の平和と安息を分かち与えられたのです。したがって、復活の主が最初に発したみことばは「あなたがたに平和があるように」という和解と平和のみことばでありました。

 

3.「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)

主イエスの十字架の死における贖罪の人類救済は、主イエスのお身体の復活という勝利と栄光の凱旋となって、弟子たちに顕現されました。主イエスは「あなたがたに平和があるように。」重ねて言われた(21a節)とありますように、人間を根源から支配していた罪と死と滅びの呪いに対して、主イエスの十字架と復活のお身体において、即ち主イエスの全身全霊を尽くした人間性において、完全の神のご支配と勝利を実現し、天地を貫く天地一体の和解と平和をもたらしました。主イエスによる神の平和は、新しい創造における存在の義として隅々に沁みわたり、人類は元より万物の隅々に至るまで神の和解と平和による命の支配は実現したのです。この福音が繰り返し平和の挨拶として宣言されています。このように、主の復活における万物の平和と和解の挨拶が、重ねて宣言されていることはとても意味深いことです。

主のご復活の挨拶のもとに、即ち、この神の和解と平和の勝利宣言のもとに、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と主は仰せになり、弟子たちを「使徒」として派遣します。弟子たちは皆、ここで改めて、「聖霊」によってと言うよりも、「復活勝利の主イエス」から直接に、「使徒」として、全地に遣わされます。「遣わす、送り出す(avposte,llw avpe,stalke,n)」という字は、「使徒」という字の動詞で、完了形と現在形で二度用いられます。父による子の派遣と、子である主イエスによる使徒の派遣は、同じ「遣わす」という動詞を用いることで、「使徒の派遣」というわざの本質は、父子一体の交わりにあるわざであることを暗示しているようです。受肉の神として天地を貫く主イエスの栄光勝利とそのご主権のもと、その栄光勝利とご支配をそのまま受けて、弟子たちは、天へと導神の平和と和解の「使徒」として、神から天地を貫く働きを担い遣わされたのです。

ヨハネによれば、この弟子の派遣は、復活顕現の主イエスにおいて、聖霊の伝授と共に、同時に統合的な一つのわざとして、行われています。ルカによる福音書は、明らかに時間による経過と段階を経て、主イエスの復活顕現から昇天、そして主の昇天を受けて、初めて聖霊が弟子たちに降り、その聖霊を受けて弟子たちは世に遣わされます。ルカによる福音書24章45節以下によれば、24:45イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めがその名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。24:49 わたしは父が約束されたものをあなたがたに送る高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と記されています。そして使徒言行録1章3節以下によれば、「1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい。1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と記しています。

しかしヨハネによる福音書20章19節以下によれば、「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった」という復活顕現の出来事も、そして「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」という弟子を使徒として世に派遣することも、さらには「20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ赦されないまま残る」とする聖霊の伝授も、同一の場で同時に与えられる一つの出来事として、行われています。それは、同じ場所で同じ時に行われただけではなく、さらに其々のみわざの内容が相互に深く関わり合う同じ一つの神の出来事として語られます。ちょうど、三位一体の父と子と聖霊の「三位格」が、其々「一体」に相互に内在するように、御子の復活顕現も、聖霊の伝授も、そして弟子の派遣と教会共同体の形成も、皆一つの統合された神の出来事として、明らかにされるのです。こうした一体の神による統合された出来事として福音を証言する、という点に、ヨハネとその教会の持つ神学的特徴があると言えます。こうしたヨハネの神学は、東方教会の神学の根幹を担っているようにも思われます。

 

4.「聖霊を受けなさい」(22節)

復活した主イエスは、その場で、弟子たちを「使徒」として派遣し、同時に同じ場で弟子たちに「使徒」としての聖霊を伝授します。「20:21 イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい(evnefu,shsen kai. le,gei auvtoi/j( La,bete pneu/ma a[gion)。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」と言って、聖霊を弟子たちに聖霊を吹き入れて注がれています。先ほど申しましたように、ヨハネでは、復活の後に昇天があって、それからようやく聖霊が降るペンテコステを迎えるというのではないのです。聖霊の伝授は、復活と同時に同じ一つの統合された出来事として描かれます。しかも復活の主イエスから直接弟子たちに、しかも息を吹き入れるようにして、聖霊は吹き入れられています。「息を吹きかける」(evmfusa,w evnefu,shsen)という字は、創世記2章7節に「2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた(evnefu,shsen eivj to. pro,swpon auvtou/ pnoh.n zwh/j)。人はこうして生きる者となった(evge,neto o` a;nqrwpoj eivj yuch.n zw/san)。」とありますように、生きた人格としての神に依る人間創造の原点を表す場面ですが、七十人訳聖書のギリシャ語と全く同じ字です。ヨハネは、わざわざ「息を吹きかける」という旧約聖書の人間創造の字を用いて、聖霊の伝授を「創造」という視点から描きます。いわば、あたかも聖霊の伝授とは、人間の「再創造」である、と言わんばかりです。否、人間の創造の完全であり完成であると言っているように思われます。しかも、その聖霊を吹きかけて、人間の創造を完成させるのは、復活の主イエスであります。つまり、主イエスにおける「復活」の人間性をそのまま人間に分け与えているのです。聖霊を受けた使徒たちの新しい人間性とは、この主イエスにおける栄光の復活の霊と身体とによる新生であります。ここに、天地を貫いて実現するキリストの復活の身体としての弟子たちの共同体であり、即ち一つの、聖霊なる、公同普遍なる、使徒の教会の本質がここにあります。つまり、教会とはキリストの復活した十字架のお身体であり、贖いのために十字架に死んで復活した主のお身体であります。それを弟子たちとその共同体は、ご復活の主イエスから直接聖霊を受けるという形で与り、分け与えらたと言えましょう。

 

5.「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(23節)

復活の主イエスは「『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」と仰せになり、弟子たちを<使徒>として派遣しますが、その際に、「息を吹きかけて」聖霊を与えます。先ほど、聖霊の伝授は、人間の再創造と創造完成を意味している、と申しましたが、もう一つ重大な意味を持っています。それは「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ赦されないまま残る。」と、主イエスご自身の権威において、「罪を赦す権限」を弟子たちに委ねておられることです。ここに、聖霊伝授によるもう一つの、弟子たちを「使徒」として立て、遣わされた意味が込められています。「聖霊」を主イエスは弁護者(パラクレートス)とお呼びになっておられます。パラクレートスとは、「傍らに絶えず寄り添い助ける者」という意味です。主ご自身の代わり聖霊を弟子たちの傍らに寄り添う助け主として与えたのです。その働きの目的は、「あなたがたが赦せば、その罪は赦される」が「あなたがたが赦さなければ、赦されない」という赦罪の権限の付与でした。「福音を宣べ伝える」という「宣教」の全権委任と、そして「罪を赦す」という赦罪の全権委任が「使徒たち」与えられたのです。これが復活の主から、直接に使徒たちに委ねられた使徒としての権限委託です。「聖霊」はそれを傍らで寄り添いつつ保証する弁護人であり助け手であります。この聖霊伝授に基づく宣教と赦罪の全権委託は、マタイによれば、「ペトロ」(マタイ16:19)を代表者としてつつも「18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ18:18)と言われていますように、「使徒」の其々に対して委ねられた権限委託であったと言えます。

 

2022年4月24日「イエスは必ず死者の中から復活される」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4. 24 小金井西ノ台教会 復活第3主日礼拝

ヨハネによる福音書講解47

説教 「イエスは必ず死者の中から復活される」

聖書 詩編16節1~11節

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

 

聖書

20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」20:16 イエスが、「マリアと言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

説教

はじめに 「主が墓から取り去られました」(13節)

主イエス・キリストが復活した、という復活の根拠は、「空虚な墓」を確認した所から始まりました。「20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られましたどこに置かれているのかわたしたちには分かりません。』20:3 そこでペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。」とヨハネは証言します。ペトロとヨハネは、マグダラのマリアから「主が墓から取り去られました」との報告を受けて、そこで、急いで墓に行き、墓の中に入ると、墓に納められていたはずの主イエスの亡骸は既になく、ただ亜麻布と覆いがそこに残されているだけでした。つまり、墓の中に葬られた主イエスの遺体がない、という既に空虚となった墓を確認したことから、復活の話は始まります。

マルコによる福音書による伝承では、マグダラのマリアとヤコブの母マリアそしてサロメが墓を訪れ「16:5 墓の中に入ると白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」と記されています。つまり「白い長い衣を着た若者」が墓の中にいて、「あの方は復活なさってここにはおられない」と告げ、主イエスは既に復活なさったことを告知します。同じように、ヨハネによる福音書も「20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、20:12 イエスの遺体の置いてあった所に白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。20:13 天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』」と告げ、「白い衣を着た二人の天使」の登場を証言しています。但し、マルコの伝承では「白い長い衣を着た若者」が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と主イエスの復活を告知していますが、ヨハネの伝承では「白い衣を着た二人の天使」は確かに墓の中に登場しますが、復活の告知はそこではなされず、一気にマリアに主ご自身が復活のお姿を現すという展開になっています。他方、マルコの伝承では、〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活してまずマグダラのマリアに御自身を現された。〕と復活顕現が報告されていますが、この16章9~20節の証言は、聖書協会の凡例によれば「後代の加筆と見られている」と紹介されています。マルコの伝承では、先ず「空虚となった墓」が確認され、次いで「白い長い衣を着た若者」が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という主の復活告知がなされるだけで、〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。〕という証言は、後代の加筆と見なされています。ところが、ヨハネによる福音書は、マルコの証言とは全く反対に、主イエスのご復活を、弟子たち自身による目撃体験として、特にマグダラのマリアに復活の主イエスが自らお姿を現して出会った、という復活の体験に基づいた証言を中核にして、主イエスの復活を伝えています。このマリアと復活した主イエスとの出会いこそが、主イエスが復活してその復活のお姿を現した、とする復活証言の中核を構成することになります。

 

1.「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」(14節)

マリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と二人の天使にと迫り、主イエスの亡骸を返して欲しい、と嘆き訴えます。マルコの証言によれば、そこで「長い白い衣を着た若者」が「あの方は復活なさってここにはおられない」と復活を告知することで、答えています。つまり、主イエスの亡骸がここにはないのは、主イエスは復活したからだ、と告げています。復活したから、亡骸はないのだ、ということになります。最初から「復活」は天から降ったかのように、大前提として告知されます。しかしヨハネの伝承では、復活の証言は一歩深く踏み込んで、実際に主イエスご自身が復活したお姿をマリアに直接現わした、だから、亡骸はないのではなくて、今復活してそのお姿は現されているではないか、という証言となります。ヨハネはさらに続けて「20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」と証言しています。ここで、ヨハネは「見えた」とはっきりと断言していますが、その一方で、同時に「分からなかった」ともはっきり言っています。ここで証言される復活の事態は、非常に矛盾した表現で伝えられています。「見えた」なら、「分かる」はずですが、「見えた」のに「分からなかった」とはどういうことなのでしょうか。「イエスの立っておられるのが見えた」と証言し、主イエスの復活のお姿を見たのに、しかし、「それがイエスだとは分からなかった。」とも告白しています。いったいどういうことが起こっていたのでしょうか。

先ずその理由の一つは、本当の意味で「生きた人格存在を知る」ということの、深くて難しい問題がここにはあるように思われます。厳密かつ正しい意味で、「生きた人格を知る」ということの奥深さがあるのではないでしょうか。皆さんは、「自分」のことをどこまで深く確かに知り、分かっているでしょうか。自分がどのような意味と目的で、誰によって命を与えられて、なぜ生まれて来たのか、そして自分の本当の姿や正体は果たして何なのか、どのように生きどのように生涯を完成させてゆくのか、自分のことでもよく分からないのではないでしょうか。それは家族でも同じです。結婚して一緒に暮らす連れ合いでも、どこまでその人を自分は知り理解しているだろうか、全く理解してなかったのではないか。血縁の親子兄弟であっても、本当に知り分かり合うことはとても難しいことです。自分が相手に求め期待する自分勝手なイメージはあっても、本当の所、相手はどのような人なのか、ちゃんと知っているわけではないのです。毎日のように顔を見て、姿形を知っていても、その人を「生きた人格」としてをどこまで本当知り分かっているのでしょうか。それは、姿形を前提にしつつも、魂の奥深い所で、相手の語る言葉を聞き分けて、相手がどのような人格なのか、死ぬまで相手の本当の姿を探り求め続ける必要があるのではないかと思います。夫婦でも、生きて生活と共に年老いてゆく中で、しかも相互の魂の深淵において、お互いの人格を探り求め続けて、時には出会い、時には見失い、そして時に矛盾に満ちた問いの中で、お互いの人格に触れ続けることで、初めて出会い、分かり合えるのではないでしょうか。人生でいろいろな人々と出会いますが、殆どが見ていてもすれ違ってしまいます。確かに物理的に一定の時間を共にして、姿形を見て音声を聞いて、場合によって共同生活するのですが、本当の意味で「人格」として出会い、知り、分かり合えるのでしょうか。見て、場合によっては知っていても、本当は知らずに、何も分からぬままに、すれ違っているのではないかと思います。人が人格存在として他者を知るとは、どういうことになるのでしょうか。

マリアは、「それがイエスだとは分からなかった」のです。目の前に立っておられる主イエス対して、「園丁だと思って」語りかけています。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」とまで言い出します。実に不思議ですが、「イエス」というお方が目の前に立っておられるのに、主イエスの存在を認めていないのです。彼女が認めたのは「園丁」でした。主イエスを認めることができないでいた原因は、「園丁だと思って」いたからです。自分の思いや考えが、現実に目の前にお立ちになって、しかも語りかける主イエスを見ても、抹殺させてしまい、分からなくしていたようです。無理解と誤解は、つまりマリアの考え違いは、マリアの自我とその外側に立つ主イエスとの間に立ちはだかる大きな壁となり、本当の人格としての出会いと二人の交わりを分断していたのです。ここに人間の不完全な限界性があります。どんなに好きになって愛して、やはり完全にその人を知り分かり合えることはできないのではないでしょうか。それが人間です。ましてや、それが人間ではなくて、万物を超越する「神」としての存在を見て知るということでしたら、どうでしょうか。カルヴァンは「有限は無限を包むことができない」と教えています。包む、理解するには、限界があり、結局人は神を知ること、ましてや十字架において死に、死者から復活した「神」を見て理解することは、たとえ見ても、不可能なこと、出来ないことです。しかし理解することができないから、存在しないとは言えません。どうすれば、その存在を確かに捉えられるのか、どう捉えればよいのか、という決定的な問いが、実は聖書の根本命題でもあります。人間関係でも、目の前にいる人を、母ならば母として愛と尊敬と信頼をもってその存在を認めて受け入れる中で、私たちは初めて、「母」と出会うことができるのではないでしょうか。問題は母の姿形だけではないようです。

 

2.「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(8節)

そうした真実な意味で、生きた人格との出会いは「信仰」による、とヨハネは確信したのではないでしょうか。先ほど読んで聖書の中で、とても意味深長な表現がありました。「20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て見て信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と記していますが、この言葉は、前後関係からすれば、少々唐突に組み入れられたヨハネ自身の「注釈」のようにも読めます。ヨハネは「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の真理を理解するには、復活した主イエスを「入って来て見て信じた」という三重の人格的行為を経て、初めて実現することができる、と言い表わしているように思われます。ヨハネは、死を迎える直前まで、イエスさまとは「誰」であったか、主イエスにおいて「啓示された神」(「わたしはある」「エゴー・エイミ」)とはどういうことであり、どのような神であったのか、振り返り反芻し続けて来たと考えられます。主イエスは、ご自身の十字架の死や甦りにおいて、何を弟子たち啓示し示そうとしたのか、ヨハネの別の弁護者と言われた聖霊の導きのもとで、さらに奥深く問い、いよいよ神の真実を探求し続けていたと考えられます。そしてついに確信したことこそ、「来た、見た、そして信じた」という三つの人格的行為を貫くことで、人は神と出会うことができた、と思い至ったのではないでしょうか。主イエスにおいて啓示された「神」とは、まさに「神」であり御子でありそして先在の言であり、しかもそれは「人」として受肉した神であり、であるとすれば、主イエスにおける神人両性において、実現する神の秘儀を確認したのではないでしょうか。その真理に達するには、ただ弟子として来た、従っただけでは、到底理解するには不充分であったはずす。また目の前で事実を「見た」だけでもだめだったのではないでしょうか。どうしても、「入って来て見て信じた」所に至って、それは初めて分かる始めることなのです。教会生活も、入って来ただけでもだめ、教会生活を見ただけでもだめ、結局、あなたの魂の根源から、神のすべてをそのまま従順に信じて、受け入れてこそ、そこで初めて真実に「神」と出会うのです。人格存在との出会いには、どうしても、魂の根源において、その人を認めて受け入れ、そして信じることにおいて、初めてその人を知り出会い分かり合えるようになるのです。つまり、人格存在は皆、実際に自分で、来て、見て、信じる所で、人格の根源と魂を尽くして、声を聞き、初めてその人格としての存在に触れ、出会い、交わることができるのであります。自我を押し付けて、自我によって相手を支配することではないのです。マリアは復活の主を「園丁」にしてしまったように、復活の主との出会いを疎外していた障壁は、まさに「自我」から生じる自分の考え違いにあります。このマリアの自我による勘違い思い違いゆえに、それはとても深刻なほど、二人は引き離し、マリアから何もかもを奪い去り、失わせていたのです。これこそ、生ける神と出会うことができない人間の限界であり、罪であり、悲しい宿命と言えましょう。私たちも、主が目の前に立っておられ語りかけておられるのに、神を園丁にしてしまう、神を世の物にしてしまっているのではないでしょうか。ヨハネは、その限界を突き抜ける決定的な行為として、「信じた」と言ったのではないでしょうか。そこで初めて「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉」を理解したのではないでしょうか。

 

3.「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った」(16節)

こうしたどうしようもない人間の側の限界と障壁を打ち破り、信仰において出会う道を開いたのが、主イエスからのみことばによる呼びかけでした。イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った、とありますように、主からのみことばが、この人間の側の限界を打ち破ったのです。主イエスはマリアの前に立って、「マリア」と彼女の名を呼んで、マリアの目を覚まし心の扉を開いたのです。ただ前に立ってそこにおられるだけではないのです。名前を読んで、言葉を語り、ご自身を開いて、十字架の死において勝利して復活し、永遠の命に漲り溢れるご自身の人格をマリアに対して差し出されます。それは単に名前を呼ぶことで終わらないのです。徹底的に、十字架と復活のご自身をマリアの人格の中枢に向かって差し出し与えるのです。真実な言葉とは、そのように自己自身の人格の全てを開いて相手に差し出し明け渡すことではないでしょうか。すると、マリアも「ラボニ」と同じように、いつも呼んでいた主の呼び名で、応えます。差し出された復活の主イエスご自身に対して、マリアも自己自身の人格の全てを開き明け渡して、主を認め受け入れ、そして全てを信じたのです。「ラボニ」(先生)とは、いろいろと解釈できるでしょうが、先ず、自分の全てを導く師として自己を開き明け渡したと言えましょう。この後で、トマスは「わが主、わが神」と主を呼び、復活の主を受け入れていますが、まさに自分のすべてにおける神として、主として、主イエスを受け入れたことを意味しているのではないでしょうか。

 

4.「わたしにすがりつくのはよしなさい」(17節)

こうしてついに、マリアは復活の主と出会うことができ、喜びと安堵の中で、主を迎え入れようとします。しかし「先生」と言って主に縋り付こうとするマリアに対し、主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と押しとどめます。しかしこのテキストの中心は、即ち主イエスのメッセージの主眼点は、「すがりつくのはよしなさい」と押しとどめることではありません。それに続く、メッセージにあります。「まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」と告げます。マリアとの出会いも大事ですが、それ以上に、神の本質の神の共同体の本質について、啓示するみことばが語られます。主イエスは十字架の死から復活したことを見て信じて理解したマリアに、さらに深い神の啓示を告知したのです。それは「まだ父のもとへ上っていない」というもう一つの新しい主の栄光のみわざです。そればかりにとどまらず、さらにこの新しい栄光のみわざ、即ち、天の父のみもとへと上るという啓示の証言者として、弟子たちのもとにマリアを遣わします。この使命を受けたマリアは、「20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」とありますように、主に命じられた通りに伝えました。

ここで最も重要な、主イエスのメッセージは、父なる神のもとに上る、という栄光のみわざについての告知にあります。「まだ父のもとへ上っていない」(avnabe,bhka pro.j to.n pate,ra)だから「わたしの父のもとへわたしは上る」(VAnabai,nw pro.j to.n pate,ra mou)というメッセージです。これは、いったい何を意味しているのでしょうか。しかも「わたしの父のもと」とは、同格表現を用いて、即ち「あなたがたの父」であり「あなたがたの神」でもある所だと告げています。ここには二重の一体性が暗示されているように思われます。一つは、「上るという」神の栄光のわざは、つまり主イエスの栄光において「神」として父なる神も子なる神(言)も一体の栄光にある、ということを暗示しているのではないでしょうか。教理的な表現をすれば、ヨハネは「父」「子」「聖霊」は神として一体の栄光のうちにあることを言い表わそうとしているのではないか、と考えられます。したがって、ただ単に栄光のうちに天に昇るのではなくて、ヨハネにおいて、主イエスが天に昇るのは、主イエスにおける「神」(わたしはある)は、父・子・聖霊の一体で一致した一つの栄光である、ということを意味します。この天に上るという栄光は、父と子と聖霊とが一体に神としての交わりを相互に共有し合う栄光である、という神の栄光に加えて、ヨハネはさらに、その栄光は「あなたがたの父」の栄光であり、「あなたたがの神」の栄光である、と直ちに同格的に言い表します。主イエスが父のもとに上るとは、実は、わたしたち自身もまた父のもとに上ることを意味しているのです。なぜなら主イエスにおける「神」は同時に主イエスにおいて「人」を一体に背負い担っておられるからです。これ以上の福音は外にあるでしょうか。パウロは「われわれの国籍は天にあり」と告白した通り、まさに、わたしたち人類の本質は、主イエスのうちに担われ背負われて復活して天に上る、その主イエスのお身体のうちに、しかも既に天において存在するのであって、今のわたしたちのこの世での姿は、永遠の天での姿を写す影に過ぎないのではないでしょうか。わたしたちの本体は天にあれ、主イエスのお身体のもとにあるのです。時間的に先取りして言えば、時間と地上にある私たちは、永遠の天上から見れば、少し遅れた天からの影に過ぎないのではないでしょうか。

わたしは、この永遠の天上において父と子と聖霊の一体の神の交わりのもとに、主イエスにおける人性を通して、私たち人類の人間は根源から全て担われ背負われて一体の身体として、同じ命の交わりのうちに共有されている、と信じています。これが「天」であり、「教会」の本体であり、そしてその先取りした招きの場が地上の教会であります。そしてニケア信条に置いて告白される「唯一の、なる、公同普遍の、使徒の、教会」とは、このことを指すものだと思います。地上にある教会の根拠は全てここに収斂されます。唯一性も、聖性も、公同性も、そして使徒性も、其々の概念は相互に内的に融合した概念です。教会が唯一であるから聖であり、或いは教会が普遍的である(カトリック)根拠は使徒によるからです。逆も言えます。使徒的でなければ普遍的な公同教会は存在しないのです。いずれにせよ、こうした教会の根拠根源は天にあって、その天の栄光とは父と子と聖霊の神が一体のうちに共有する栄光であり、その栄光のわざとは、主イエスにおいて受肉・十字架の死・葬り・復活・昇天を貫通する神人両性の一体の交わりであり、その人性のうちに、私たち人類の人間性は担われ背負われ一体の身体として場を得ているのです。この「父のもとへ上る」という栄光のみわざにおいて、全ての救いは実現し全ては完成します。ヨハネは、こうした天のキリストから、すべてを俯瞰するように福音を語ろうとしているのではないでしょうか。

西方のキリスト教の信仰は、どちらかと言えば、このキリストをキリスト論的に焦点化して、贖罪論的な教理を強く展開し、一体性よりも三位格を其々の存在様式において経綸的に記述しようとするようです。しかし、ヨハネを初め、東方のキリスト教の信仰の特徴は、常に、父と子と聖霊は一体のうちに相互内在化しており、父のうちに子はおられ、子のうちに聖霊もおられ、聖霊がおられる所には、父と子の神も一体におられると考え、どちらかと言えば、一体性において相互を同時に語ろうとするように思われます。

2022年4月17日「見よ、お前の王がお出でになる」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4.17 小金井西ノ台教会 復活礼拝

ヨハネによる福音書講解説教46

「見よ、お前の王がお出でになる」

聖書 詩編28編1~9節

ヨハネによる福音書12章12~36節

 

 

聖書

12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。12:17 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。12:18 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。12:19 そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

 

12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命に至る。12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 

12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よわたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。12:28 父よ御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した再び栄光を現そう。」12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。12:34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 

説教

はじめに. 「人の子は上げられなければならない」(32節)

今日、わたしたちは、今ここに、主イエス・キリストのご復活をお迎えいたしました。イースター、おめでとうございます。本日の聖書箇所は「棕櫚の主日」に朗読される場合が一般的ですが、それは、主イエスの受難物語を時間の推移に従って描くという伝統によるものです。特に、共観福音書の構成は、主イエスのご受難の物語を順序よく辿りますが、ヨハネによる福音書は、共観福音書のように受難物語を時間の推移に即して辿りながら、しかし同時にヨハネ独特の時間を超えた啓示証言を組み込んで、主イエスの受難物語を展開しています。本日のみことばでも、イエスさまは、最初から弟子たちに、「わたしは地上から上げられる(u`yo,w u`ywqw/ 高い所に上げられる、高める)」(12:32)とアオリスト受動態で告げておられます。或いは「人の子は上げられなければならない(u`yo,w u`ywqh/nai 高い所に上げられる、高める)」(12:35)と、同じアオリスト受動態不定形で、仰せになっていおられます。この「上げられる」という言葉は、単に主イエスの受難物語を、エルサレム入場、続いてご受難と十字架の死、それから復活という出来事を一つ一つバラバラにして、形式的な時系列で展開して辿るのではなくて、どちらかと言えば、時間による区切りを超えて、主イエスにおける「神の永遠性」という視点から、地上から天上を貫いて、神の御子として父と共におられると同時に、また受肉の神の御子として天ののもとに栄光のうちにお帰りなられる、という栄光の帰還が「上げられる」という表現で言い表わされています。ヨハネは、主イエスの受肉全体を神の栄光の現われとして捉え、受難物語を展開します。いわば、主イエスご自身が天から降り、人の子であるイエスとしてマリアから人間性を受けて受肉して、イエス・キリストとして、即ち神のメシアとして、この地上にお出でなられたこと、そうした永遠の神の御子が人として受肉して到来したこと、即ち主の受肉全体が、そっくりそのまま神の栄光のみわざと言えましょう。この御子の受肉という出来事は、クリスマスという誕生に始まり、十字架と復活において頂点に達し、昇天して父のみもとにお帰りになり、右の座におつきなるという全てを、受肉のお身体において包み込んでいます。その受肉のお身体をもって栄光の帰還を果たすと共に、地上には新たに、聖霊が遣わされ、使徒たちによる教会が誕生する、という出来事をもって完結します。つまり、神の栄光のみわざは、全て、御子の受肉における十字架と復活を中核として展開します。パウロの表現に従えば、神の秘められたご計画は、この受肉におけるご生誕とキリストの十字架における死と復活において、明らかにされるといえます。

本日朗読した聖書箇所は、一般的には、復活を証言する聖書箇所としては用いられませんが、明らかに、先ほどもご紹介しましたように、「わたしは地上から挙げられる」あるいは「人の子はあげられなければならない」と主が仰せの通り、主イエスの栄光あるご帰還に焦点化させて、昇天も、復活も、十字架における死も、そしてマリアにおける受肉も皆、「あげられる」という一連の神の御子の栄光のみわざとして、啓示され、描かれます。極論すれば、主イエスの昇天も復活も十字架もそして降誕も、受肉それ自体が皆、受肉のお身体における神の栄光のみわざの現われとして、描かれます。したがいましては、本日は、先ず、この「高くあげられる」という「神の栄光のわざ」という視点から、ヨハネ福音書の特色ある復活について読み解いてまいりたいと思います。

 

1.「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」(13節)

そのためには先ず「メシア」の意味を改めて見直す必要があります。メシアとは、前にも触れましたように、神に聖別され油塗られて「王」位に立てられた者を意味します。しかし問題は、どういう意味で「王」なのか、ということです。それは先ず主の十字架の上に掲げられた「ユダヤの王」という罪状書きが示す通り、主イエスは「ユダヤの王」という罪状で、十字架刑に処せられ、殺され、この世から抹殺されました。しかも、その十字架における死とは、「過越」における「神の小羊」という犠牲の生贄としての死でありました。「ユダヤの王」となることは、ユダヤの民のために、贖いの小羊として生贄になることを意味しました。「王」位に就くとは、民のために贖罪の死を遂げる王となることでもあったのです。ベタニアで主イエスをお迎えしたマリアは、主イエスの足に高価なナルドの香油を塗り、主をメシア(王)として葬りの儀式を致しました。マリアは、そうした主イエスの「神の小羊」としての死を先取りして、また天の父のもとに帰還するメシアとの別れを意識して、ナルドの香油を塗り、心からの痛みと懺悔、そして涙と共に彼女の全てを尽くして、感謝をささげました。主イエスは、そうしたマリアの葬りを主イエスを受け入れ、「12:7この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と仰せになって、お応えになられました。

本日の聖書箇所の冒頭には「12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ主の名によって来られる方に祝福があるように、/イスラエルの王に。』12:14 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。12:15 『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。』12:16 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」と記されていました。明らかに、これは主イエスを「ホサナ」と呼び、また「主の名によって来られる方」を主を神の使者として迎え入れて祝福し、さらには「イスラエルの王」、「お前の王がおいでになる」と讃えて、主イエスのエルサレム入場を迎えています。「ホサナ」(hosanna)とは、ヘブライ語の「ホーシーアー・ナー」またそのアラム語形の「ホーシャナー」のギリシャ語読みで、「今、救ってください」という意味です。詩編118編25節にありますように「どうか主よ、わたしたちに救いを。」という祈願の祈りです。やがて「ダビデの子にホサナ」とか「ホサナ、いと高き所に」等とマタイで言われるように、神讃美に伴う感嘆詞の慣用表現として用いられるようになりました(マタ21:9,15、マコ11:9~10、ヨハ12:13)。

もう一つ、メシアをめぐる誤解がありました。それは、ヨハネの証言する「高く上げられる」メシアとは、理解が異なるものでした。「人の子は上げられなければならない」「わたしは地上から上げられる」と言われた主イエスに対して、群衆は問います。「12:34わたしたちは律法によってメシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、『人の子は上げられなければならない』とどうして言われるのですか。」と言葉を返します。明らかに、本来、主イエスは地上のお方ではなく、天上のお方、即ち本質は「神」であります。しかし群衆にとってのメシアとは、地上のお方、即ち、神から遣わされ特別な力を持つが、地上の「人」にすぎないのです。ヨハネが、この福音書の冒頭で讃美告白した神の「言」のように、永遠のはじめから神として存在する、万物の創造主でも、また永遠の命でもありませんでした。ユダヤ人たちの「律法」の教えからは、主イエスにおける「神」を知り、導き出すことはできなかったのです。それはただ、主イエスのみことばを信じて受け入れる外に、道はなかったからであります。

ただ問題は、弟子たちさえもまた、メシアの本当の意味を正しく理解することができなかった、という点です。聖書に「祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、12:13 なつめやしの枝を持って迎えに出た」(12、13節)と記されています。この棕櫚の枝を持つ行為は、古くから、熱狂的な民族主義による政治行動を反映する行為でした。しかも「イスラエルの王」と叫ぶ民衆の声は、主イエスを、政治的な意味で、場合によってはローマ帝国から独立しようと武力蜂起する戦いの王という意味で、主イエスを押し立てようとする民衆の熱狂的な期待が込められていたと思われます。前述のように、主イエスの十字架刑の罪状は「ユダヤの王」でした。言わば、ユダヤの宗教権力者の陰謀と唆しにより、ローマ帝国に対する反逆反乱分子として、処刑されたということになります。

しかしヨハネ福音書は、民衆の熱狂的な歓迎を描いた後に、ろばの子に乗られる主イエスのお姿を描き、民衆の期待するメシヤ像を伝えますが、つまりローマからユダヤを解放する王という民衆のメシア像に反して、主イエスは、はっきりと、十字架の死において神の栄光を現わす、と告げます。つまり、死んで或いは殺されて、この世と決別して、天に上げられ、神の栄光を現わすメシアである、と告知します。本当のメシアの救いとは、「12:32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」と告げていますように、地上におけるこの世での救いではなくて、天上に招き入れる神の国への救いを宣言したのです。そして「12:33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」とさらに記して、ヨハネは主イエスの十字架における死の意味について暗示し注釈します。このように、天国への門、救いへの入り口として「十字架の死」があり、それが「メシアの栄光」であって、天国への門戸は主ご自身による「贖罪の死」をもって開かれるのです。そうした主イエスのメシアとしての本当の御心と御姿を弟子たちは理解出来なかった、とヨハネは明記します。例外的にマリアは、主イエスを過越の生贄である神の小羊メシアであるとして、深く痛み悲しみ、そして全身全霊を込めて涙と共に主に感謝をささげたのですが、他の弟子たちは、まだユダヤにおけるもう一人の権力者となるメシアとして、主イエスに期待を寄せていたようです。そうしたメシアの無理解は、単に、銀30枚で主イエスを裏切ったイスカリオテのユダただ一人だけではなかったのです。

 

2.主イエスの十字架における死と葬りそして復活の栄光の身体

このようなメシアとして、つまり政治的にまたローマ帝国と戦って王として世の支配者なる、という政治的メシアとしてではなくて、全人類を支配する罪ゆえの死と滅びに対して勝利するメシアとして、しかもそのためには、過越の生贄である神の小羊として、栄光の贖罪の死を遂げるメシアであるとして、主イエスは神の栄光を明らかにしました。言い換えますと、イエスにおける「神」(「わたしはある」)は、民の痛みのために下り民を率いて上る神のメシアとして、十字架における死によって罪を償い従順の義を尽くして、罪の支配による死と滅びに勝利して、神の栄光を現わすのです。そして父なる神のいます天へと栄光ある帰還を遂げるのです。

こうしたメシアの理解において、最も意味深く重要と思われる点は、天国に招き入れる扉となる十字架の死も復活も、そうした栄光のみわざは全て、主イエスの受肉したお身体において終始一貫して実現し現わされている、ということにあります。主イエスの受肉のお身体とは、処女マリアから受け継いだ私たち人間と全く同一本質から成るお身体であり、肉体であり、人間本性であります。神の栄光のみわざは、この人間本性の全てを担う「身体」において、しかも十字架の死も復活の命もその身体において現わされます。言わば、受肉のキリストにおける「神」(「わたしはある」)は、天から降り、そればかりか人間の身体の隅々に宿る「神」です。この「神」が神の力を栄光のわざとして発揮して現わすのです。それが「十字架の死」であり「復活」という命の勝利です。繰り返し申しますが、神が神としてのご自身の全ての栄光を現す場は、この受肉したキリストのお身体において、であります。言い換えれば、十字架の死の身体においてであり、しかもその十字架の死の身体において、その身体のまま、栄光の復活を遂げられ、そしてそのお身体のまま、栄光の昇天を遂げられるのです。つまりこの身体において、「神」の栄光ある救いのみわざはすべて展開するのです。贖罪の死という贖いのわざも、復活という永遠の命の祝福も、全て徹頭徹尾一貫してこの受肉したキリストのお身体において行われ実現し成就します。この「身体」という所に、キリスト教のメシア(救い主)としての中心的な特徴があります。前回の説教でも触れましたが、マリアが塗ったナルドの香油について「わたしの葬りのために」と主イエスご自身が言われた通り、「葬り」とは「死体」という屍(しかばね)となった「肉体」に香油や防腐剤を塗り布を巻く儀式を言います。死の支配は人間の死体において現れ、死体に現れ支配する死は、香油の香りや防腐剤で抑えることはできません。意味深い点は、その屍となった死体において死に勝利して、永遠の命を吹き入れて、死体から復活体へと造り変えることです。主イエスは、ご自身における「神」の爆発的な力によって、死に支配された死体を永遠の命の宿る復活の身体へと化えるのです。その死に勝利し命に変える根源的な場が、主イエスの受肉したお身体であり、その勝利と栄光の場こそ、十字架の死に至る主のお身体であり、栄光勝利した復活のお身体そのものであります。

 

3.「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(6章53節)

改めて6章で語られた主イエスのみことばを想い起してみましょう。「6:53 イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べわたしの血を飲む者はいつもわたしの内におりわたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』」(ヨハネ6:53~58)と主イエスは教えられました。主のお身体における十字架の死と復活の命という視点から読み直すと、この意味はよく分かるのではないでしょうか。神の完全な愛と救いのみわざは、主イエスのお身体のうちに込められて現わされ実現したのです。「神」はそのお身体に受肉して現臨し、「神」の永遠無限の力を漲り溢れるように発揮しておられるのです。そのお身体において、という点が最も重要なのです。なぜなら、その主のお身体は、わたしたちの身体と全く同じ本質を担う身体であり、わたしたちの人間性そのものであり、身も心も人間であることの全てを担う身体だからです。私たち自身の人生の全てであり、わたしたち自身であるからです。その私たち自身のうちに、神ご自身から降り受肉し現臨して、神の完全栄光なるみわざを持ち込まれたのです。それが、メシアであり、それがキリスト教の救いであります。だから、パウロの表現で言えば、この自分の身体にキリストの身体を着るのです。キリストはこの身体のうちに受肉して、神の栄光のわざを行われるのであります。だからこそ、わたしたちはこの身体において洗礼を受けキリストの身体に一つに結ばれて、キリストの身体の栄光に与るのです。みことばを聴くことも洗礼に与り聖餐に与ることも皆、教会員となることも礼拝に集うことも全て、本質的には「身体」として、現れ実現し成就する点で全く同一のことであります。このキリストの受肉したお身体と身も心も皆が一体に結ばれて、その一体とされたお身体において、そのお身体を通して、人々も万物も神と出会い、神の栄光のみわざに与り、十字架における死の贖罪に与り、復活における永遠の命に与るのです。だからこそ、それを、主イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と言われたのです。したがって、唯一真の神のメシアとは、神の受肉したお身体において、神の全ての栄光を現わし実現し成就したのであります。サクラメントを中核に礼拝も、教会も、そうしたキリストの受肉の身体における栄光を天地を貫いて写し出しています。

 

4.「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)

主イエスのもとにギリシャ人が訪れます。そのギリシャ人の来訪に応えて主イエスは、「人の子栄光を受ける時が来た。12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」と告げます。これは、ご自身のお身体における栄光のみわざが、即ち、死の葬りと永遠の命による復活というわざが、同じ本質的な一つお身体における神の栄光のわざとして、現わされることを指し示しています。なぜなら、人間の本質は「死」であるからです。人間は、元々本質的に永遠存在ではありません。主イエスのお身体に一体に結ばれたわたしたちは、その人間性の本質において、罪の償いは完全に果たされ、しかも神に対する従順は十字架の死に至るまで完全に尽くし貫かれており、「神の義」を実現しています。そして同時に、その神の義の祝福は、豊かな永遠の命の祝福を齎し実を結び完成します。こうして、永遠の命は、わたしたちの身体において、身体の復活という最終的な形で実を結び、新しい人間本性として完成します。確かに、この世においては、わたしたちもいつかはこの肉体のもとで「死」を迎えます。したがって私たちの身体も、その本質は既に「死体」であります。大事なことは、その身体において迎えるべき「死」の支配は、キリストの身体と一つに結ばれることで十字架と復活のお身体とされ、死に至るまでの償いは果たされ、従順という義は貫かれ、罪の支配による敗北と堕落の死はその本質が変わり、新しい永遠の命の勝利と希望のうちに生まれ変わるのです。死の身体は滅びではなくて、死の身体は命の始まり場となるのです。ですから「死体」はこの世においては確かに悲しく空しいことですが、キリストのお身体と一体に結ばれた者には、死に敗北し支配された身体は、永遠の命に勝利し支配される復活の身体となったのです。なぜならその死に支配された人間本性は、十字架の死の場となり、贖罪の死の場となり、従順の勝利に与る身体となり、神の義に与り永遠の命の祝福溢れる身体となるからであります。ここにキリスト教の救いの核心があります。

 

5.「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(28節)

こうして主イエスは祈りをささげます。「『父よ、わたしをこの時から救ってくださいと言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。12:28 父よ御名の栄光を現してください。』」と祈ります。主イエスが天から降り、人の子として受肉した全ては、「この時のため」であることが、明らかにされます。「この時」とは、十字架における死と葬りですが、「天からの声」が全地に響き渡り、全地を包みます。「すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した再び栄光を現そう。』」という天からのみ声でありました。ここで「天から声」として言い表わされる「神」の啓示ですが、まさに父と子が、父も「神」、そして子も同じ一つの「神」として、同一の神の本質からなる三位一体の「神」として、その三一の「神」のご意志とその栄光が、十字架の死と復活の命のお身体の上に、現され示されます。

既に栄光を現わした」とは、また「再びそう」とはどういうことでしょうか。「既に」現した栄光とは、主イエスのお身体における御子の受肉「全体」を指して言われたことではないかと思います。言い換えれば、主イエスにおける「神」の到来のすべてを指して言われたいます。したがって、主イエスにおいて「神」(「わたしはある」)は既に到来したのであり、主イエスにおいて既に完全に啓示されている、と言えましょう。つまり主イエスにおいて「神」は、既に、天から地に降り到来し啓示されたのです。その栄光は、既に、主イエスの受肉したお身体において、クリスマスの降誕の出来事から十字架で受難受苦して死に至るまで罪を償い尽くし、従順の義を全うして葬られ、陰府にくだり、罪による死の呪いの支配に完全勝利し、神の義の勝利のもとに永遠の命の祝福に溢れる復活と昇天に至る身体として、つまり受肉という一連のキリストのお身体における神の栄光のみわざとして予定され現わされています。

「再び」現わされる栄光も同じであります。一方で、「既に」という時を貫き、他方では「再び」という「時」を貫いて、「永遠の栄光」のみわざは、主イエスの受肉のお身体において実現しています。確かに「既に」を、時間の流れに従って推移する、これまで起こった過去から今現在に至る出来事として捉えることも出来ます。また「再び」を、これから起こるべき未来の復活昇天として、其々解釈することもできます。確かに「既に・再び」という表現を、この世の時間の概念に従って時系列的に解釈することも可能ですが、反対に、むしろ時間の概念を打ち破る爆発的な永遠の神の力という視点から、既にも再びも共に貫き包み込むように、徹底一貫した一つの永遠の「神の栄光」のみわざとして理解した方が、ヨハネらしい解釈となるのではないかと思います。受難も復活も昇天も、場合によっては聖霊降臨も、すべての神の栄光は、まさに主イエスの受肉した「身体」において、一つに集約されるのではないでしょうか。わたしたちはそして全地万物は、そのお身体に結ばれて一つの身体となって、神の栄光に与るのです。

2022年4月10日「わたしの葬りのために」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4.10 小金井西ノ台教会 棕櫚の主日

ヨハネによる福音書講解説教45

説教 わたしの葬りのために」

聖書 雅歌4章9~16節

ヨハネによる福音書13章1~8節

 

 

聖書

12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 

 

説教

はじめに. 主イエスをまことの神のメシアとして認めれば・・・

ヨハネによる福音書11章によれば、ユダヤの最高法院は、ついに主イエスを捕縛して処刑することを公に確定いたしました。最高法院が最も恐れていたことは、このまま最高法院が公に主イエスが神によって立てられた唯一真の「王」(メシア)であると認めれば、ローマ皇帝を否定し主イエスを神として立て立てることとなり、その結果、メシアを認めれば、ローマ皇帝に対する反逆と見なされてしまい、「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」(ヨハネ11:48)という恐れです。しかも、既に公然たる事実として、主イエスが神のメシアであることは、ラザロの復活のみわざを初め、数々の奇跡としるしによって証明され、誰もが否定できない共通認識としてユダヤ全土で受け入れられていました。そこで、大祭司カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と提案して、ローマからユダヤを守るために、スケープゴートとして、主イエスを抹殺してしまおう、と提案しました。つまり、主イエスは自ら「ユダヤの王」と語る反逆者である、としてローマに差し出し抹殺する陰謀です。それによって、ローマの弾圧を回避し、同時にまた自分たちの支配構造と特権的利害を守ろうとしたのです。こうして主イエスの捕縛と処刑とはユダヤの最高法院において確定したのです。

 

1.平行記事を比較すると・・・

本日より12章に入り、マリアが高価なナルドの香油を主イエスに塗って、主の葬りの備えをする、という記事を読みますが、まさにそうして刻一刻と迫る主のご受難と十字架の死を先取りして、マリアは主イエスをお迎えします。本日は「棕櫚の主日」であり受難週に入りますので、主のご受難を覚えるには、とても相応しい聖書箇所と言えましょう。実は、このナルドの香油のお話は、マルコによる福音書やルカによる福音書でも紹介されています。そこで平行記事を概観しながら、ヨハネによる福音書による伝承の特徴を明らかにしてゆければ、と考えております。そこで、お手元に配布した対観表をご参考に、先ずこの話の全体像を把握してまいりましょう。ヨハネは、この物語の枠組みを「過越祭」という枠組の中に設定して話を始めます(ヨハネ12:1)。マルコによる福音書も、主イエスご自身による三度目の受難予告の直後に、そして過越祭の食事の直前に、この話を置いています。ですから、マルコもヨハネも、主イエスの葬りの塗布として、このナルドの香油を注いでおり、主イエスの十字架の死に対する「事前の葬りの備え」としてなされ(マルコ14:8、ヨハネ12:7)、共通して主イエスご自身のみことばのうちに言明されています。明らかに「葬り」の先取りであることが分かります。ルカによる福音書では、編集上は、過越祭における犠牲としての葬りという枠組みの中からは切り離されており、主イエスの宣教活動の中で生じた一つの出来事として、すなわち主の「宣教」における教えとして紹介されます。どちらかと言えば、主イエスによる「説教」の中での説諭のわざとして組み入れられており、ナルドの香油は、非常に象徴的な形で、主イエスの宣教の働きに対する喜びと感謝の応答として、また信仰の表れとして紹介されます。

さらに興味深い点は、マルコとヨハネの伝承ではベタニア(ヨハネ12:1、マルコ14:3)と記されていますが、ルカではナインという村に続くガリラヤ宣教の流れの中に登場する話です。ここでも、マルコとヨハネは「主の葬り」に集中し焦点化されますが、ルカは「宣教活動」の中に組み込まれています。ヨハネは、マルタ、マリア、ラザロという兄弟姉妹の固有名詞を挙げて、村の人々と食卓を囲んでいます。マルコも同じように、「ベタニア重い皮膚病の人シモンの家」(マルコ14:39と特定して、食卓の場所を明記しています。したがって、明らかに、罪人と呼ばれ、正当なユダヤ共同体からは排除され切り捨てられた人々の集落を想定することができます。主イエスのそうしたユダヤ共同体から排除され切り捨てられた人々の交わりのただ中に、自ら入り込んで、共に食卓を共有していたことが分かります。しかし、ルカでは、「あるファリサイ派の人」(7:37~44)で後に「シモン」(ルカ7:40、44)という名で主イエスは呼びかけておられますように、ここではファリサイ派のシモンの家の食卓ということになります。少々詳細な点では、マルコでは、主イエスの「頭」に香油を注ぎます(マルコ14:3)が、ヨハネとルカでは、「足」に香油を塗り、自分の髪で涙を流して主の「足」を拭っています(ルカ7:38、44~46、ヨハネ12:3)。

おそらくマルコは、受難予告を始め、徹底的に主イエスの十字架の死という贖罪の神の小羊による犠牲に集中する枠組みの中に、その葬りの備えのわざとして、この話が基礎づけられているように思われます。またヨハネも、マルコほどにはご受難と十字架の死という贖罪死の枠組みの中に集中してはいないのですが、それでも、明確に過越の小羊による犠牲の死を指し示す葬りを明らかにしています。しかしルカは、どちらかと言えば、ファリサイ派に対する警告的教説として、律法主義的儀礼や形式を超えて、魂の根底から生じる感謝と喜びを明らかに教えているように思われます。

最後に、主イエスと深刻な対話相手となる人物が登場します。注目されるのは、300デナリオンという価値の値と尊さです。1デナリオンは一日分の労働賃金と言われますが、月給30万であれば、1万円で300万円になるでしょうか。1リトラは327.45gと言われますので、500mlのペットボトルを想像していただければ、どれほどの量か、お分かりいただけるのではないかと思います。その高価な価値は、全て「主イエスの死」とそれによる「罪の赦し」のために献げられましたが、それに対して、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」(ヨハネ12:4~6)が、マルコでは「そこにいた人の何人か」(マルコ14:4)が、その論争点として、「貧しい人々の施す」(ヨハネ12:4、マルコ14:5)ということに向けられます。ルカでは「罪を赦された」(ルカ7:47)その深さ尊さ大きさに向けられますが、「ファリサイ派の人シモン」はその価値を認識できないことが明らかにされます。こうしたことから、主イエスとは誰なのか、すなわち主イエスのうちに、何を見出しているか、その信仰の告白が深く根底から問われる場面でもあります。ヨハネでは、「十字架の死」における神としての栄光に対して、全身全霊を込めて讃美して栄光を帰する人間の信仰として、言わば信仰者と教会の代表者のようにマリアが登場します。マルコでは、「十字架の死」において生贄の小羊として流される血と裂かれる肉体の聖別としてこの行為は示されます。ルカでは、無論「十字架の死」に贖罪を前提にしつつも、宣教的説諭として教えられ、罪を赦された「罪人の感謝」と喜びが余す所なく表現されています。そしてマルコやヨハネでは「貧しい人々に施す」ことを論点した人々は、主イエスのうちに「贖罪の犠牲」によって実現される神との和解は意識されず、また貧しい人に施すという名目のもとに、貧しい人々や数多くの民衆に認められ支持されたい、という承認欲求や支配欲を窺い知ることができるのではないでしょうか。主イエスに従うことは、主イエスのメシアとして王として獲得される権力支配とそれによって生じる利害を欲しがる欲望が見えて来ます。しかしそこには、真実な意味で、主イエス・キリストはおられないのです。

 

2.「過越祭の六日前に」(12:1)

過越祭の六日前に(pro. e]x h`merw/n tou/ pa,sca)」(ヨハネ12:1)とあります。「過越祭」(パスカpa,sca)の語源のヘブライ語「ペサフ」(xsP[, pacach paw-sakh’)は「過ぎ越す」「足を引きずって歩く」「飛び回る」「立ち止る」等を意味します。旧約聖書に7回登場し、出エジプト記12章に3回、サムエル記下1回、列王記上2回、イザヤ1回と其々用いられています。前1250年頃のエジプト脱出の際に、神はファラオに対して、モーセとアロンを遣わして、ユダヤの民の解放を求めました。神は頑なファラオに災いを起こします。災いは、血・蛙・蚋(ぶよ)・虻(あぶ)・疫病・腫れもの・雹(ひょう)・蝗(いなご)・暗闇の災いと続き、ついに最後の災いを示します。出エジプト記に「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。」(出エジプト記11:4~6)と記されています。他方、イスラエルの民に対しては、「それ(傷のない一歳の雄の小羊)は、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(出エジプト記12:5~14)と、エジプトとは反対に、イスラエルの民に対しては、小羊の血ゆえに、神による死の裁きは過ぎ越されました。

このように「過越祭」は、出エジプトを記念して春に守る祭で、ユダヤ3大祭り一つです。元来は牧畜の祭、種入れぬパンの祭(除酵祭)と区別されていたようです。その後出エジプトの歴史的意味が加えられ、旧約聖書では「過越の小羊」と「種入れぬパン」が過越祭に用いられました(出34:25、民28:16~17、エゼキエル45:21等)。後にバビロニヤ暦で「ニサン月」(ネヘ2:1、エス3:7)10日に、祭の準備となり、家族の人数に応じ傷のない1歳の雄の小羊を14日の夕暮に屠り(出12:6、レビ23:5)、その血は家の門柱とかもいに塗られ、後に神殿では祭壇とその土台に血が注がれました(Ⅱ歴35:11)。小羊は頭も足も内臓も火で焼かれ(出12:9)、骨を折ることは禁じられ(出12:46)、羊の肉は種入れぬパンと苦菜と共に(出12:8)規定通り食され、翌朝まで残してはならず朝まで残ったものは火で焼かれた(出12:10、34:25)。旧約聖書は「出エジプト」を神の全能の御手による出来事として覚え祝しています(Ⅰサム8:8、Ⅰ列8:53、詩135~136編、イザ10:26、エレ16:14、エゼ20:6、ダニ9:15、ホセ2:15、アモ2:10等)。過越祭は、イスラエル民族の存続を決定づけた出エジプトの出来事として「神の民の救い」を想起する祭りであり、民を奴隷から解放し、神の民として約束の地を与えてくださる「契約の神」を記念する(ミカ6:4~5)神の民の証です。新約聖書の「過越の子羊」「種を入れぬパン」は、全人類を汚れから清め、罪による死と滅びの支配から解放する主イエス・キリストの象徴です(ヨハ6:31‐35,Ⅰコリ5:7)。主イエスは、十字架上でご自身を神の子羊として神に献げ、その流された血潮により、神の怒りと裁きを過ぎ越すための贖いの生贄となさいました。鴨居に塗られた小羊の血と同じように、主イエスの十字架で流された血は人々の罪よる死の裁きを過ぎ越して、新しい命と祝福に入れる贖罪のみわざとなって示されました。

 

3.「イエスの足に塗り」(12:3)

「香油を塗る」行為をめぐり、共観福音書との比較から、マルコ福音書では「香油をイエスの頭にauvtou/ th/j kefalh/j注ぎかけた(katace,w kate,ceen上から注ぎかけた)」(マルコ14:3)、ルカでは「うしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながら(klai,w klai,ousa)その足を涙でぬらし始め/(h;rxato bre,cein tou.j po,daj auvtou)、自分の髪の毛でぬぐい(tai/j qrixi.n th/j kefalh/j auvth/j evxe,massen)、イエスの足に接吻して(katefi,lei tou.j po,daj auvtou/)香油を塗った(h;leifen tw/| mu,rw)」(ルカ7:38)、そしてヨハネ福音書では「イエスの足に塗り(h;leiyen tou.j po,daj tou/ VIhsou/:avlei,fw h;leiyen油を塗る)、自分の髪で(tai/j qrixi.n auvth/j)その足をぬぐった(evxe,maxen tou.j po,daj auvtou:evkma,ssw evxe,maxenぬぐい取る、拭き取る)」(ヨハネ12:3)と其々に描かれます。

前述しましたように、マルコは「頭」に香油を注ぎますが、ヨハネとルカによれば、「足」に香油を塗り、髪で足をぬぐいます。この一連の行為について、⑴メシア(王)告白、⑵愛と献身の告白、⑶感謝と讃美、⑷懺悔と感謝、讃美と献身など、さまざまなマリア(罪深い一人の女)の心情を想定することができます。「キリスト」(油塗られた者)の原意となった「油注ぐ」(cri,w塗る)という動詞は、特殊な用語で、新約聖書で5回使用され、その主語は「神」です。つまり、イエスを「メシア」(王)として油を注いで聖別して、メシア(王)の務めに就けるお方は「神」であり、したがって通常は「神」が主語となって、メシア(王)としての職務にお就けになる厳かな神のみわざです。ところが、ここでは、主語は「マリア」で、彼女がイエスの足に油を注いだ(直接法能動態のアオリスト形の三人称単数)のです。このように「神」ではなく「人」であるマリアが、主イエスに対して、主イエスは神のメシアであるとして油を注ぐ行為は、どうなるのでしょうか。マリアは、高価で一切の混じりけのない純粋なナルドの香油を主イエスの足に注ぎ、それによって、彼女の純粋な信仰告白を言い表したのではないでしょうか。即ち「あなたは、わたしにとって、ただお独り、唯一真の生ける神の子メシアです」と告白して、足元にひれ伏して讃美し、神のメシアを主として礼拝した、と考えられます。しかも、ルカやヨハネは「足」に香油を塗っていますように、本来、神のメシアとして「頭」に油注がれたお方は「神」であるので、マリアは讃美告白者としてひれ伏して「足」に、香油を注ぎ、土の塵で汚れた主の足を感謝と讃美の涙をもって拭い尽くしたのではないか、と思われます。「家は香油の香りでいっぱいになった」とありますように、家は、まさに主イエスを神のメシアとする厳かな信仰に、いっぱいに満たされていたのではないでしょうか。ヨハネにおいて、マリアの役割は、謙遜に主イエスを神のメシアとして讃美告白する礼拝者として、全ての信仰者の模範であり、象徴として登場しているようにも思われます。

 

4.「わたしの葬りのために」(

ところが、イスカリオテのユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(12:5)とありますように、そうしたマリアの礼拝行為を理解することが出来ず、マリアを咎ます。同じようにマルコでも、そこにいた何人かが、「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この交友は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と憤慨して互いに言い合います(マルコ14:4、5)。彼らの怒りの原因は、最も価値ある高価なものを誰にどのように用いるべきか、という点です。それは、マリアのように、「神」に対して、しかも自分の罪のために贖いの犠牲となるメシアのために奉献されるべきものと考えるのか、それとも、彼らが憤るように、「貧しい人々」のために用いられ、その結果として、「自分の尊敬や承認」という報酬となって返ってくることを期待して利用されるべきか、という全く異質な立場がたいへんよく示されているように思われます。一方は、罪に支配された自我に絶望して、罪による死と滅びから解放してくださる神のメシアを待ち望み、その流す血によって償われ浄められ、新しい神の義と祝福のもとに神との和解を果たし、義と祝福に満ちた永遠の命に至る、という神のメシアを讃美告白して礼拝を捧げて、「神」に向かう道です。他方は、絶えず神ではなく「人」に目を向けて、「この世」における人間的な賞賛と評価を期待して、その見返りとして権力支配や利害の独占を求め続ける、という人間として自我欲求を満たす社会行動を尽くして、「人」に向かう道です。同じ宗教集団の中に、マリアの道とユダの道は常に同居しているのです。これは、教会も同じではないでしょうか。同じ牧師や教会集団の中に、マリアの道もあれば、ユダの道もある、そうした異質で対立する緊張の中に、わたしたちは皆置かれているのではないでしょうか。

こうした宗教内における本質的な分裂と対立に対して、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と仰せになり、ついに主イエスは神の真理を告げるのです。この主のみことばには、マリアの行為の真相について、二つの大事なことが明らかにされていると思われます。マリアの行為が表した真相とは、一つは、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いた」と言われていますように、主イエスご自身の十字架による死を明らかにします。そしてもう一つは、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」という主イエスの栄光ある帰還、即ちこの世からの退去を明らかにしています。これは、ヨハネの伝承の特徴を示す啓示ですが、主イエスの十字架刑による死は、神の栄光のわざであり、そしてそれは即ち、天にいます父なる神のもとに栄光をもって帰還する地上からの退去をも意味します。それゆえ、主イエスに代わる別の弁護者(助け主)である聖霊が、地上の人々のために降るのです。

「わたしの葬りの日のために、それを取って置いた」というみことばですが、とても深い意味が込められています。「葬り」(evntafiasmo,j evntafiasmou)という字の元々の意味は、「死体に香油や防腐剤を塗って布で巻き埋葬の準備をする」(evntafia,zw)ことを意味します。先ほど、マリアが香油を塗るという所では「油を注ぐ」(cri,w塗る)という任職を意味する特別な用語が用いられていました。マリアの行為で「油を注ぐ」は「神の御子が神のメシアとなって遣わされた」というメシア告白と讃美を言い表わしていましたが、ここで主ご自身が言われた「葬り」即ち「死体に香油や防腐剤を塗る」という字は「死」そのものを象徴する字として用いられているように思われます。言い換えれば、主イエスはここで人々に、ご自身がメシアとして遣わされたその務めの中心に、「死体」となって、「死」ただ中に入り込み、「死」そのものをご自身のお身体において背負い担うことにある、と宣言したのではないか、と考えられます。言わば、マリアはメシアを迎え入れたことを油注ぐということで言い表わしたのですが、さらに主イエスは、そのメシアとは「死体」となって「死」を担う神のメシアである、と告げたのです。つまり、主イエスが天から降り、人の子として受肉して、世に使われたその目的は、「死体」となるためであり、「死」の全てをその本質と根源から、主のお身体において、背負い担うためである、ということになります。そしてさらに重要なことは、それこそが、神の栄光のわざである、というのです。これが、主イエスの啓示の中核であります。「死」の世界は、主イエスのお身体において、完全にかつ本質的に根本から「神の命」の世界となるのです。まさに闇から光への転換であります。

2022年4月3日「彼らはイエスを殺そうと企んだ」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4.3. 小金井西ノ台教会 受難節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教44

説教 「彼らはイエスを殺そうと企んだ」

聖書 イザヤ書49章7~13節

ヨハネによる福音書11章45~57節

 

 

聖書

11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。11:50 一人の人間が民の代わりに死に国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言してイエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。

11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ

11:54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。

11:55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。11:56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

 

 

説教

はじめに. 「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った」(47節)

いよいよ、主イエスの捕縛と殺害の時は迫ってきました。主イエスは、最大で最後のしるしとして、死んだラザロを死の墓から復活させました。ラザロの復活のしるしを見て、人々は、主イエスにおけるメシアの到来は、誰も否定できない決定的な事実として、受け入れ認められるようになります。ヨハネは、そうしたユダヤの人々の心の動きを45節以下で「11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くはイエスを信じた。」と記してします。「11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。11:47 そこで祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。』」と伝えています。「イエスのなさったことを目撃して」とは、ラザロの復活ですが、それを見て、ユダヤ人たちは皆、イエスをメシアであると信じるようになりました。主イエスの行う奇跡のしるしを見て、多くの人々が主イエスを信じるようになることを、最早、誰も止められなくなっていました。それどころか、復活のしるしを行った主イエスに、ユダヤの最高権力者たち自身も、果たしてどう向き合うべきか、追い詰められたゆきます。「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して」とありますように、ついに公に最終決断を下すことになります。その結果、ユダヤ全土は「11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」とありますように、ユダヤの最高権威は、主イエスの捕縛命令、即ち捕縛して処刑する命を発したのです。

ここで、ヨハネの伝承によれば、最高法院を初めユダヤ全土は、明らかに、主イエスにおいて神のメシアが到来したことを、否が応でも、認めざるを得ない状態に追い込まれてしまったと言えます。これまでお話して来たように、単純な意味での「不信仰」や「無理解」、言わば止むを得ざる無理解というレベルではなくなってしまったのです。宗教権威を筆頭にユダヤ全土は、全民族を挙げて、公然と、主イエスにおける「神」の到来を知り、認めたのです。その事実を無理解ゆえに斥ける、という単純な意味での「不信仰」の段階を既に超えてしまったのです。イエスにおける「神」の到来は、ラザロの復活の出来事を目撃したことで、最高法院を筆頭にユダヤ全土を尽くして、意図的に確信的にしかも公然と、二度と否定できず、認めざるを得ない所まで、追い詰められており、ついに主イエスにおける「神」の到来を概ね認めた、と言えましょう。キリスト教の教理のように「三位一体の神」として「神」が主イエスにおいて現臨し到来したという厳密な神認識はないにしても、モーセに啓示した「わたしはある」という「神」が主イエスにおいておられ働いている、という厳粛な事実は、受け止めたはずです。このように、主イエスにおいて「神」が到来し働き始めた、その厳粛かつ緊張した事態に、ユダヤ全土が立ち至っている、という非常に緊張した共通認識に立たされたことは否めない事実であります。本日の説教は、そうした主イエスにおける「神」の到来を、ユダヤ全土が公に認知しなければならない切羽詰まった状況の中で、ユダヤ人たちは、本当の意味で確信的な「不信仰」と「背き」に、足をいよいよ深く踏み入れてゆくことになります。主イエスにおける「神」を抹殺してしまうという不信仰と反逆は、宗教権力者たちによっていよいよ確信的に集中的にユダヤ全土において徹底されてゆくことになります。その象徴的存在として、登場する人物こそ「大祭司カイアファ」であります。

カイアファ(Kaiaphas)とは、実際の名はヨセフと言ったようですが、紀元18年にピラトの前任シリア総督グラトゥスにより大祭司に任命され、36年に総督ヴィテリウスによる解任まで、大祭司を務めました。カイアファは、前任の大祭司アンナス(Hannas)の婿(ヨハネ18:13)でもあり、両者は非常に緊密な協力関係にありました。アンナスは、紀元6年にクレニオにより大祭司に任命され15年に退位しています。大祭司の退職は、単にローマ人による任命や退任であって、ユダヤの伝統からすれば大祭司の職務は終身職です。カイアファの家の中庭で主イエスを捕えて殺す策略を練った(マタイ26:3~5)と記され、捕縛された主イエスはアンナスのもとに連行され、それからカイアファのもとに送られています(ヨハネ18:24)。そしてローマ帝国シリア総督ピラトに送致され(ヨハネ18:28)、ローマの極刑である十字架刑に処せらます。カイアファはその後も、エルサレム教会の迫害に関与します(使徒言行録4:6)ので、反キリストとしてその生涯を貫いています。

 

1.「そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

さて本日は、そのユダヤの権力中枢を担う大祭司カイアファが果たした役割に注目します。「11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになるそしてローマ人が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」とヨハネは記していますので、多くのユダ人たちが一致して危惧していたことは、驚いたことに、主イエスの不思議な「神の力」ではなかったようです。「神」を恐れることよりも、「ローマ人が来る」ことを恐れたのです。極論すれば「神」などどうでもよかったのです。彼らにとって重要なのは、ユダヤの権力支配とその利害を守ることにあったからです。宗教はそのための方便であり仕組みに過ぎなかったと思われます。ローマ帝国という巨大なこの「世の権力」によって滅ぼされてしまうことを、真っ先に心配し、最も恐れたのです。こうした態度から見ても、明らかに、ユダヤ人の宗教は、神を信じるという信仰の本質からは離反しており、信仰は空洞化しており、この世の権力支配に隷属してでも自分の利害を確保することに集中していたことがよく分かります。彼らにとって宗教とは、最初から「神」に従うための「信仰」による宗教ではなくて、権力支配とその利害を得るためのこの世の方便であり道具に過ぎなかったのです。完全に最初から「神」からの離反は生じており、実質、信仰は空洞化していたようです。ただ「罪人」と呼ばれ、権力支配の利害やその恩恵からは完全に排除され、世から差別され、捨てられた地の民は、主イエスにおける「神」とその愛と憐れみに深い慰めと平和を覚えていたはずです。この世の利害を失うことで、人間の本当の尊さや喜びをより深く知っていたからです。人は財産や身分に依らず、人は愛と命に生きることをよく知っていたのではないかと思います。しかも滅び去る空しい死の命ではなく、永遠の神によって祝福される永遠の命に生きる尊厳と喜びを主イエスの説教から学んでいたように思われます。主イエスは、罪人のただ中に自ら入ってゆき、食卓を共にして、みことばを語られており、そうした主の教えの場は、「重い皮膚病のシモンの家」、すなわちマルタやマリアそしてラザロの家は、そうした主イエスにおける「神」による慰めを深く求める集う人々の教会となっていたと思われます。このように、宗教には、「信仰」による宗教としてこの世に力強く存在する宗教もあれば、全く信仰本質とは全く異なる異質で腐敗した形態として、権力支配やその利害を得るための仕組みや方便として、社会に存在する宗教もあります。しかも難しいのは、同じユダヤ教やキリスト教会の中に、そうした二重の意味での宗教が存在していることであります。これは、当時のユダヤ教も、そして今のキリスト教会も全く変わらないのではないでしょうか。宗教の仕組みを借りて、権力支配とその利害の追求はいよいよ推し進められてゆくのです。

 

2.「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む」

話を戻しまして、「ローマ人が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」とユダヤの権力者たちが考える理由は明らかです。主イエスを信じ認めることは、直ちに「メシア」即ち「ユダヤの王」として立てることであり、それは直ちにローマ皇帝を否定してイエスを王とすることになり、ローマ皇帝に対する反逆罪となります。主イエスが十字架刑に処されたときに、十字架の上に掲げられた罪状書は「ユダヤの王」でした。それはまさに政治的反逆者としての極刑でありました。実に悲しいことですが、主イエスの受難は、神の選びの民であるユダヤ人が真っ先に主イエスにおける「神」を否定し「神」を抹殺する証明の場であり、彼らの言う所のユダヤのために、ローマ総督ピラトを利用してゆくのです。主イエスこそ、神のメシアであり、真の神がお立てになられたユダヤの王であることを一方で認めたがゆえに、彼らの利権や利害に満ちたユダヤの宗教社会を守るために、その宗教を用いて、主イエスをローマに売り渡し処刑させる道を選び取るのです。そうした最高法院の一致した危惧とその解決方法は、神によるユダヤの王を抹殺して消し去ることでした。

そうした権力者たちの欲求を代弁した人物がカイアファです。「11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。11:50 一人の人間が民の代わりに死に国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』」と記されています。ここでとても意味深いのは、カイアファの言い分、彼の論理構成です。ここでは、所謂「スケープゴートscapegoat」論が展開されます。主イエスを「贖罪の山羊」として、ユダヤ共同体全体の危機から救う犠牲にして、何が悪いのか。ユダヤの欲求を満たすと同時にその罪責を逃れるための口実としたのです。主イエスをローマの攻撃の矢面に立て、自分たちの身を守る犠牲にすればよいではないかという提案です。こうして見てみると、明らかに、主イエスの十字架の死とは、明確な意図と確信に満ちた、しかも用意周到周到に入念に練に練られた組織的なユダヤ人による陰謀であった、ということがよく分かります。しかもこの陰謀は、公の最高法院という宗教の最高権威において、成立したものです。大祭司カイアファは、神のメシアを殺すという罪意識から言い逃れる口実に、スケープゴート論を巧みに利用し、結果としてユダヤ民族全体を救済することになるのであるから、最も合理的で正当化できる、と説いたのです。自分たちの強欲な罪とそしてメシア殺しを正当化する手段として、スケープゴートの論理を悪用したのです。

 

3.「これは、預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。

しかしヨハネはさらに興味深い注釈をこれに加えます。ヨハネとその教会は、主イエスの十字架について、ユダヤ人たちによる主イエスの殺害意図を遥かに越えたて、「神の栄光」のみわざを「預言した」という表現で見つめます。ユダヤ人のために、ケープゴートとされる主イエスについてこう言い換えます。「11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言してイエスが国民のために死ぬと言ったのである。11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」と述べています。主イエスの十字架の死とは、カイアファの陰謀の枠組みを超えた神のご計画であるから、したがって、それはカイアファ自身の考えとして生まれたものではなくて、大祭司の職務を通して、予め神が大祭司の務めを用いて彼に「預言」させた、神の栄光みわざであり、「イエスが国民のために死ぬ」という神のご計画を告げて、主イエスの十字架の死によって全世界の散らされた神の子たちを召し集めることになるのだ、というわけです。非常に不思議なことですが、カイアファの言う「スケープゴート」の本当の意味は、実は「預言」であり、したがってそれは「神のご計画」である、とヨハネは註解し告知します。人間の欲望と罪が生み出す組織的な陰謀を遥かに打ち破って、その「スケープゴート」には、神の巨大な憐れみと救い場となるのだ、と言い表したのです。腐敗した宗教権力の中枢の中で練り上げられた陰謀を、その根源から吹っ飛ばしてしまい、神の救いのご計画とその栄光のみわざが遂行される場となるのです。まさに神の栄光のみわざが実現しようとしているのが、あなたたがには見えないのですか、と言わんばかりのヨハネによる見事な註解です。単に人間の謀略によって都合よく造り出したスケープゴートではなくて、主イエスの死は、主イエスにおいて「神」が愛と憐れみによって民を集めて救うご計画であり、人類を救い出すことの出来る唯一の栄光のみわざではないか、と言って、高らかに主の十字架の死による救いを讃美告白しているよう読めるのではないでしょうか。

こうしたヨハネによる「スケープゴート」の注釈は、いくつかの形で、登場します。「1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」「10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」「10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」「10:17 わたしは命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」「17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」という表現に見られます。ヨハネは、主イエス・キリストの十字架における死を、民の贖いとなるための生贄として死んで贖罪の犠牲となられることを言い表しています。

主イエスの十字架の死の意味と信仰は、新約聖書においては、共観福音書を初め、パウロ書簡、そしてヨハネ福音書など、それぞれの教会の信仰や伝承に基づいて、表白されます。例えば、主イエスの十字架の死とは、⑴終末時の神の使者が受けるべき運命的受難として、⑵また神のご意志に従順に従い神との契約を徹底して成就する神のメシアとして、⑶人類のために神の小羊として贖罪の死を遂げる犠牲の生贄として、⑷死と滅びの闇の世に対して、永遠の命の光に勝利する神の栄光のわざを現わす命と光の勝利の場として、というように、さまざまに言い表され告白され伝承されています。ヨハネによる福音書は、民を贖罪する生贄の「神の小羊」として、命を捨てる贖罪のキリストの伝承を受け継ぎながら、さらに人の子として受肉した「神」が十字架において死に勝利して永遠の命の神として栄光を現わし栄光のうちに天の父のもとに帰還する、よいう十字架の死における神の栄光ある帰還として、言い表わします。ユダヤ最高法院は、世の権力を象徴する死と滅びの闇ですが、まさにその死と滅びのただ中に、神の御子は「受肉の神」として地上の闇のうちに到来して、闇の謀略に見える十字架の死において完全な命の勝利を遂げる「栄光の神」を啓示します。死と滅びの謀略は、主イエスの十字架の死において、まさに永遠の命の勝利という神の栄光に輝く場となるのです。

 

4.「散らされている神の子たち一つに集めるためにも死ぬ」

もう一つ最後に、意味深いみことばがヨハネの注釈として語られています。それは「11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たち一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」と説明を加えています。この言葉は10章16節以下で「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいるその羊をも導かなければならないその羊もわたしの声を聞き分けるこうして羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」(ヨハネ10:16~17)と教えられた主の説教を想い起こさせます。これは、明らかに、ユダヤ社会をさらに超えて、世界に大きく広がる異邦人教会を意識した言葉ではないでしょうか。御声を聞き分けて、主イエスを「わが主、わが神」と告白して聞き従う教会は、ユダヤの地域を遥かに超えて、広く全世界に及ぶ永遠普遍の教会の栄光が宣言されているように思われます。言わば、ニケア信条が告白する「一つ、聖霊なる、公同普遍なる、使徒の教会」の栄光とその出現であります。ここには、ユダヤはおろか、欧米さえも遥かに超えた、極東の、わたくしたち日本の教会も含まれているはずです。律法においてではく、主イエスの十字架の死において、全人類の罪は償われ、死と滅びの運命は永遠の命の祝福に溢れるのです。