2022年4月3日「彼らはイエスを殺そうと企んだ」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4.3. 小金井西ノ台教会 受難節第5主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教44

説教 「彼らはイエスを殺そうと企んだ」

聖書 イザヤ書49章7~13節

ヨハネによる福音書11章45~57節

 

 

聖書

11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。11:50 一人の人間が民の代わりに死に国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言してイエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。

11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ

11:54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。

11:55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。11:56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

 

 

説教

はじめに. 「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った」(47節)

いよいよ、主イエスの捕縛と殺害の時は迫ってきました。主イエスは、最大で最後のしるしとして、死んだラザロを死の墓から復活させました。ラザロの復活のしるしを見て、人々は、主イエスにおけるメシアの到来は、誰も否定できない決定的な事実として、受け入れ認められるようになります。ヨハネは、そうしたユダヤの人々の心の動きを45節以下で「11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くはイエスを信じた。」と記してします。「11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。11:47 そこで祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。』」と伝えています。「イエスのなさったことを目撃して」とは、ラザロの復活ですが、それを見て、ユダヤ人たちは皆、イエスをメシアであると信じるようになりました。主イエスの行う奇跡のしるしを見て、多くの人々が主イエスを信じるようになることを、最早、誰も止められなくなっていました。それどころか、復活のしるしを行った主イエスに、ユダヤの最高権力者たち自身も、果たしてどう向き合うべきか、追い詰められたゆきます。「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して」とありますように、ついに公に最終決断を下すことになります。その結果、ユダヤ全土は「11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」とありますように、ユダヤの最高権威は、主イエスの捕縛命令、即ち捕縛して処刑する命を発したのです。

ここで、ヨハネの伝承によれば、最高法院を初めユダヤ全土は、明らかに、主イエスにおいて神のメシアが到来したことを、否が応でも、認めざるを得ない状態に追い込まれてしまったと言えます。これまでお話して来たように、単純な意味での「不信仰」や「無理解」、言わば止むを得ざる無理解というレベルではなくなってしまったのです。宗教権威を筆頭にユダヤ全土は、全民族を挙げて、公然と、主イエスにおける「神」の到来を知り、認めたのです。その事実を無理解ゆえに斥ける、という単純な意味での「不信仰」の段階を既に超えてしまったのです。イエスにおける「神」の到来は、ラザロの復活の出来事を目撃したことで、最高法院を筆頭にユダヤ全土を尽くして、意図的に確信的にしかも公然と、二度と否定できず、認めざるを得ない所まで、追い詰められており、ついに主イエスにおける「神」の到来を概ね認めた、と言えましょう。キリスト教の教理のように「三位一体の神」として「神」が主イエスにおいて現臨し到来したという厳密な神認識はないにしても、モーセに啓示した「わたしはある」という「神」が主イエスにおいておられ働いている、という厳粛な事実は、受け止めたはずです。このように、主イエスにおいて「神」が到来し働き始めた、その厳粛かつ緊張した事態に、ユダヤ全土が立ち至っている、という非常に緊張した共通認識に立たされたことは否めない事実であります。本日の説教は、そうした主イエスにおける「神」の到来を、ユダヤ全土が公に認知しなければならない切羽詰まった状況の中で、ユダヤ人たちは、本当の意味で確信的な「不信仰」と「背き」に、足をいよいよ深く踏み入れてゆくことになります。主イエスにおける「神」を抹殺してしまうという不信仰と反逆は、宗教権力者たちによっていよいよ確信的に集中的にユダヤ全土において徹底されてゆくことになります。その象徴的存在として、登場する人物こそ「大祭司カイアファ」であります。

カイアファ(Kaiaphas)とは、実際の名はヨセフと言ったようですが、紀元18年にピラトの前任シリア総督グラトゥスにより大祭司に任命され、36年に総督ヴィテリウスによる解任まで、大祭司を務めました。カイアファは、前任の大祭司アンナス(Hannas)の婿(ヨハネ18:13)でもあり、両者は非常に緊密な協力関係にありました。アンナスは、紀元6年にクレニオにより大祭司に任命され15年に退位しています。大祭司の退職は、単にローマ人による任命や退任であって、ユダヤの伝統からすれば大祭司の職務は終身職です。カイアファの家の中庭で主イエスを捕えて殺す策略を練った(マタイ26:3~5)と記され、捕縛された主イエスはアンナスのもとに連行され、それからカイアファのもとに送られています(ヨハネ18:24)。そしてローマ帝国シリア総督ピラトに送致され(ヨハネ18:28)、ローマの極刑である十字架刑に処せらます。カイアファはその後も、エルサレム教会の迫害に関与します(使徒言行録4:6)ので、反キリストとしてその生涯を貫いています。

 

1.「そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

さて本日は、そのユダヤの権力中枢を担う大祭司カイアファが果たした役割に注目します。「11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになるそしてローマ人が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」とヨハネは記していますので、多くのユダ人たちが一致して危惧していたことは、驚いたことに、主イエスの不思議な「神の力」ではなかったようです。「神」を恐れることよりも、「ローマ人が来る」ことを恐れたのです。極論すれば「神」などどうでもよかったのです。彼らにとって重要なのは、ユダヤの権力支配とその利害を守ることにあったからです。宗教はそのための方便であり仕組みに過ぎなかったと思われます。ローマ帝国という巨大なこの「世の権力」によって滅ぼされてしまうことを、真っ先に心配し、最も恐れたのです。こうした態度から見ても、明らかに、ユダヤ人の宗教は、神を信じるという信仰の本質からは離反しており、信仰は空洞化しており、この世の権力支配に隷属してでも自分の利害を確保することに集中していたことがよく分かります。彼らにとって宗教とは、最初から「神」に従うための「信仰」による宗教ではなくて、権力支配とその利害を得るためのこの世の方便であり道具に過ぎなかったのです。完全に最初から「神」からの離反は生じており、実質、信仰は空洞化していたようです。ただ「罪人」と呼ばれ、権力支配の利害やその恩恵からは完全に排除され、世から差別され、捨てられた地の民は、主イエスにおける「神」とその愛と憐れみに深い慰めと平和を覚えていたはずです。この世の利害を失うことで、人間の本当の尊さや喜びをより深く知っていたからです。人は財産や身分に依らず、人は愛と命に生きることをよく知っていたのではないかと思います。しかも滅び去る空しい死の命ではなく、永遠の神によって祝福される永遠の命に生きる尊厳と喜びを主イエスの説教から学んでいたように思われます。主イエスは、罪人のただ中に自ら入ってゆき、食卓を共にして、みことばを語られており、そうした主の教えの場は、「重い皮膚病のシモンの家」、すなわちマルタやマリアそしてラザロの家は、そうした主イエスにおける「神」による慰めを深く求める集う人々の教会となっていたと思われます。このように、宗教には、「信仰」による宗教としてこの世に力強く存在する宗教もあれば、全く信仰本質とは全く異なる異質で腐敗した形態として、権力支配やその利害を得るための仕組みや方便として、社会に存在する宗教もあります。しかも難しいのは、同じユダヤ教やキリスト教会の中に、そうした二重の意味での宗教が存在していることであります。これは、当時のユダヤ教も、そして今のキリスト教会も全く変わらないのではないでしょうか。宗教の仕組みを借りて、権力支配とその利害の追求はいよいよ推し進められてゆくのです。

 

2.「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む」

話を戻しまして、「ローマ人が来て我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」とユダヤの権力者たちが考える理由は明らかです。主イエスを信じ認めることは、直ちに「メシア」即ち「ユダヤの王」として立てることであり、それは直ちにローマ皇帝を否定してイエスを王とすることになり、ローマ皇帝に対する反逆罪となります。主イエスが十字架刑に処されたときに、十字架の上に掲げられた罪状書は「ユダヤの王」でした。それはまさに政治的反逆者としての極刑でありました。実に悲しいことですが、主イエスの受難は、神の選びの民であるユダヤ人が真っ先に主イエスにおける「神」を否定し「神」を抹殺する証明の場であり、彼らの言う所のユダヤのために、ローマ総督ピラトを利用してゆくのです。主イエスこそ、神のメシアであり、真の神がお立てになられたユダヤの王であることを一方で認めたがゆえに、彼らの利権や利害に満ちたユダヤの宗教社会を守るために、その宗教を用いて、主イエスをローマに売り渡し処刑させる道を選び取るのです。そうした最高法院の一致した危惧とその解決方法は、神によるユダヤの王を抹殺して消し去ることでした。

そうした権力者たちの欲求を代弁した人物がカイアファです。「11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。11:50 一人の人間が民の代わりに死に国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』」と記されています。ここでとても意味深いのは、カイアファの言い分、彼の論理構成です。ここでは、所謂「スケープゴートscapegoat」論が展開されます。主イエスを「贖罪の山羊」として、ユダヤ共同体全体の危機から救う犠牲にして、何が悪いのか。ユダヤの欲求を満たすと同時にその罪責を逃れるための口実としたのです。主イエスをローマの攻撃の矢面に立て、自分たちの身を守る犠牲にすればよいではないかという提案です。こうして見てみると、明らかに、主イエスの十字架の死とは、明確な意図と確信に満ちた、しかも用意周到周到に入念に練に練られた組織的なユダヤ人による陰謀であった、ということがよく分かります。しかもこの陰謀は、公の最高法院という宗教の最高権威において、成立したものです。大祭司カイアファは、神のメシアを殺すという罪意識から言い逃れる口実に、スケープゴート論を巧みに利用し、結果としてユダヤ民族全体を救済することになるのであるから、最も合理的で正当化できる、と説いたのです。自分たちの強欲な罪とそしてメシア殺しを正当化する手段として、スケープゴートの論理を悪用したのです。

 

3.「これは、預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。

しかしヨハネはさらに興味深い注釈をこれに加えます。ヨハネとその教会は、主イエスの十字架について、ユダヤ人たちによる主イエスの殺害意図を遥かに越えたて、「神の栄光」のみわざを「預言した」という表現で見つめます。ユダヤ人のために、ケープゴートとされる主イエスについてこう言い換えます。「11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言してイエスが国民のために死ぬと言ったのである。11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」と述べています。主イエスの十字架の死とは、カイアファの陰謀の枠組みを超えた神のご計画であるから、したがって、それはカイアファ自身の考えとして生まれたものではなくて、大祭司の職務を通して、予め神が大祭司の務めを用いて彼に「預言」させた、神の栄光みわざであり、「イエスが国民のために死ぬ」という神のご計画を告げて、主イエスの十字架の死によって全世界の散らされた神の子たちを召し集めることになるのだ、というわけです。非常に不思議なことですが、カイアファの言う「スケープゴート」の本当の意味は、実は「預言」であり、したがってそれは「神のご計画」である、とヨハネは註解し告知します。人間の欲望と罪が生み出す組織的な陰謀を遥かに打ち破って、その「スケープゴート」には、神の巨大な憐れみと救い場となるのだ、と言い表したのです。腐敗した宗教権力の中枢の中で練り上げられた陰謀を、その根源から吹っ飛ばしてしまい、神の救いのご計画とその栄光のみわざが遂行される場となるのです。まさに神の栄光のみわざが実現しようとしているのが、あなたたがには見えないのですか、と言わんばかりのヨハネによる見事な註解です。単に人間の謀略によって都合よく造り出したスケープゴートではなくて、主イエスの死は、主イエスにおいて「神」が愛と憐れみによって民を集めて救うご計画であり、人類を救い出すことの出来る唯一の栄光のみわざではないか、と言って、高らかに主の十字架の死による救いを讃美告白しているよう読めるのではないでしょうか。

こうしたヨハネによる「スケープゴート」の注釈は、いくつかの形で、登場します。「1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」「10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」「10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」「10:17 わたしは命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」「17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」という表現に見られます。ヨハネは、主イエス・キリストの十字架における死を、民の贖いとなるための生贄として死んで贖罪の犠牲となられることを言い表しています。

主イエスの十字架の死の意味と信仰は、新約聖書においては、共観福音書を初め、パウロ書簡、そしてヨハネ福音書など、それぞれの教会の信仰や伝承に基づいて、表白されます。例えば、主イエスの十字架の死とは、⑴終末時の神の使者が受けるべき運命的受難として、⑵また神のご意志に従順に従い神との契約を徹底して成就する神のメシアとして、⑶人類のために神の小羊として贖罪の死を遂げる犠牲の生贄として、⑷死と滅びの闇の世に対して、永遠の命の光に勝利する神の栄光のわざを現わす命と光の勝利の場として、というように、さまざまに言い表され告白され伝承されています。ヨハネによる福音書は、民を贖罪する生贄の「神の小羊」として、命を捨てる贖罪のキリストの伝承を受け継ぎながら、さらに人の子として受肉した「神」が十字架において死に勝利して永遠の命の神として栄光を現わし栄光のうちに天の父のもとに帰還する、よいう十字架の死における神の栄光ある帰還として、言い表わします。ユダヤ最高法院は、世の権力を象徴する死と滅びの闇ですが、まさにその死と滅びのただ中に、神の御子は「受肉の神」として地上の闇のうちに到来して、闇の謀略に見える十字架の死において完全な命の勝利を遂げる「栄光の神」を啓示します。死と滅びの謀略は、主イエスの十字架の死において、まさに永遠の命の勝利という神の栄光に輝く場となるのです。

 

4.「散らされている神の子たち一つに集めるためにも死ぬ」

もう一つ最後に、意味深いみことばがヨハネの注釈として語られています。それは「11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たち一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」と説明を加えています。この言葉は10章16節以下で「10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいるその羊をも導かなければならないその羊もわたしの声を聞き分けるこうして羊は一人の羊飼いに導かれ一つの群れになる。10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」(ヨハネ10:16~17)と教えられた主の説教を想い起こさせます。これは、明らかに、ユダヤ社会をさらに超えて、世界に大きく広がる異邦人教会を意識した言葉ではないでしょうか。御声を聞き分けて、主イエスを「わが主、わが神」と告白して聞き従う教会は、ユダヤの地域を遥かに超えて、広く全世界に及ぶ永遠普遍の教会の栄光が宣言されているように思われます。言わば、ニケア信条が告白する「一つ、聖霊なる、公同普遍なる、使徒の教会」の栄光とその出現であります。ここには、ユダヤはおろか、欧米さえも遥かに超えた、極東の、わたくしたち日本の教会も含まれているはずです。律法においてではく、主イエスの十字架の死において、全人類の罪は償われ、死と滅びの運命は永遠の命の祝福に溢れるのです。