2022年4月10日「わたしの葬りのために」 磯部理一郎 牧師

 

2022.4.10 小金井西ノ台教会 棕櫚の主日

ヨハネによる福音書講解説教45

説教 わたしの葬りのために」

聖書 雅歌4章9~16節

ヨハネによる福音書13章1~8節

 

 

聖書

12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 

 

説教

はじめに. 主イエスをまことの神のメシアとして認めれば・・・

ヨハネによる福音書11章によれば、ユダヤの最高法院は、ついに主イエスを捕縛して処刑することを公に確定いたしました。最高法院が最も恐れていたことは、このまま最高法院が公に主イエスが神によって立てられた唯一真の「王」(メシア)であると認めれば、ローマ皇帝を否定し主イエスを神として立て立てることとなり、その結果、メシアを認めれば、ローマ皇帝に対する反逆と見なされてしまい、「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」(ヨハネ11:48)という恐れです。しかも、既に公然たる事実として、主イエスが神のメシアであることは、ラザロの復活のみわざを初め、数々の奇跡としるしによって証明され、誰もが否定できない共通認識としてユダヤ全土で受け入れられていました。そこで、大祭司カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と提案して、ローマからユダヤを守るために、スケープゴートとして、主イエスを抹殺してしまおう、と提案しました。つまり、主イエスは自ら「ユダヤの王」と語る反逆者である、としてローマに差し出し抹殺する陰謀です。それによって、ローマの弾圧を回避し、同時にまた自分たちの支配構造と特権的利害を守ろうとしたのです。こうして主イエスの捕縛と処刑とはユダヤの最高法院において確定したのです。

 

1.平行記事を比較すると・・・

本日より12章に入り、マリアが高価なナルドの香油を主イエスに塗って、主の葬りの備えをする、という記事を読みますが、まさにそうして刻一刻と迫る主のご受難と十字架の死を先取りして、マリアは主イエスをお迎えします。本日は「棕櫚の主日」であり受難週に入りますので、主のご受難を覚えるには、とても相応しい聖書箇所と言えましょう。実は、このナルドの香油のお話は、マルコによる福音書やルカによる福音書でも紹介されています。そこで平行記事を概観しながら、ヨハネによる福音書による伝承の特徴を明らかにしてゆければ、と考えております。そこで、お手元に配布した対観表をご参考に、先ずこの話の全体像を把握してまいりましょう。ヨハネは、この物語の枠組みを「過越祭」という枠組の中に設定して話を始めます(ヨハネ12:1)。マルコによる福音書も、主イエスご自身による三度目の受難予告の直後に、そして過越祭の食事の直前に、この話を置いています。ですから、マルコもヨハネも、主イエスの葬りの塗布として、このナルドの香油を注いでおり、主イエスの十字架の死に対する「事前の葬りの備え」としてなされ(マルコ14:8、ヨハネ12:7)、共通して主イエスご自身のみことばのうちに言明されています。明らかに「葬り」の先取りであることが分かります。ルカによる福音書では、編集上は、過越祭における犠牲としての葬りという枠組みの中からは切り離されており、主イエスの宣教活動の中で生じた一つの出来事として、すなわち主の「宣教」における教えとして紹介されます。どちらかと言えば、主イエスによる「説教」の中での説諭のわざとして組み入れられており、ナルドの香油は、非常に象徴的な形で、主イエスの宣教の働きに対する喜びと感謝の応答として、また信仰の表れとして紹介されます。

さらに興味深い点は、マルコとヨハネの伝承ではベタニア(ヨハネ12:1、マルコ14:3)と記されていますが、ルカではナインという村に続くガリラヤ宣教の流れの中に登場する話です。ここでも、マルコとヨハネは「主の葬り」に集中し焦点化されますが、ルカは「宣教活動」の中に組み込まれています。ヨハネは、マルタ、マリア、ラザロという兄弟姉妹の固有名詞を挙げて、村の人々と食卓を囲んでいます。マルコも同じように、「ベタニア重い皮膚病の人シモンの家」(マルコ14:39と特定して、食卓の場所を明記しています。したがって、明らかに、罪人と呼ばれ、正当なユダヤ共同体からは排除され切り捨てられた人々の集落を想定することができます。主イエスのそうしたユダヤ共同体から排除され切り捨てられた人々の交わりのただ中に、自ら入り込んで、共に食卓を共有していたことが分かります。しかし、ルカでは、「あるファリサイ派の人」(7:37~44)で後に「シモン」(ルカ7:40、44)という名で主イエスは呼びかけておられますように、ここではファリサイ派のシモンの家の食卓ということになります。少々詳細な点では、マルコでは、主イエスの「頭」に香油を注ぎます(マルコ14:3)が、ヨハネとルカでは、「足」に香油を塗り、自分の髪で涙を流して主の「足」を拭っています(ルカ7:38、44~46、ヨハネ12:3)。

おそらくマルコは、受難予告を始め、徹底的に主イエスの十字架の死という贖罪の神の小羊による犠牲に集中する枠組みの中に、その葬りの備えのわざとして、この話が基礎づけられているように思われます。またヨハネも、マルコほどにはご受難と十字架の死という贖罪死の枠組みの中に集中してはいないのですが、それでも、明確に過越の小羊による犠牲の死を指し示す葬りを明らかにしています。しかしルカは、どちらかと言えば、ファリサイ派に対する警告的教説として、律法主義的儀礼や形式を超えて、魂の根底から生じる感謝と喜びを明らかに教えているように思われます。

最後に、主イエスと深刻な対話相手となる人物が登場します。注目されるのは、300デナリオンという価値の値と尊さです。1デナリオンは一日分の労働賃金と言われますが、月給30万であれば、1万円で300万円になるでしょうか。1リトラは327.45gと言われますので、500mlのペットボトルを想像していただければ、どれほどの量か、お分かりいただけるのではないかと思います。その高価な価値は、全て「主イエスの死」とそれによる「罪の赦し」のために献げられましたが、それに対して、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」(ヨハネ12:4~6)が、マルコでは「そこにいた人の何人か」(マルコ14:4)が、その論争点として、「貧しい人々の施す」(ヨハネ12:4、マルコ14:5)ということに向けられます。ルカでは「罪を赦された」(ルカ7:47)その深さ尊さ大きさに向けられますが、「ファリサイ派の人シモン」はその価値を認識できないことが明らかにされます。こうしたことから、主イエスとは誰なのか、すなわち主イエスのうちに、何を見出しているか、その信仰の告白が深く根底から問われる場面でもあります。ヨハネでは、「十字架の死」における神としての栄光に対して、全身全霊を込めて讃美して栄光を帰する人間の信仰として、言わば信仰者と教会の代表者のようにマリアが登場します。マルコでは、「十字架の死」において生贄の小羊として流される血と裂かれる肉体の聖別としてこの行為は示されます。ルカでは、無論「十字架の死」に贖罪を前提にしつつも、宣教的説諭として教えられ、罪を赦された「罪人の感謝」と喜びが余す所なく表現されています。そしてマルコやヨハネでは「貧しい人々に施す」ことを論点した人々は、主イエスのうちに「贖罪の犠牲」によって実現される神との和解は意識されず、また貧しい人に施すという名目のもとに、貧しい人々や数多くの民衆に認められ支持されたい、という承認欲求や支配欲を窺い知ることができるのではないでしょうか。主イエスに従うことは、主イエスのメシアとして王として獲得される権力支配とそれによって生じる利害を欲しがる欲望が見えて来ます。しかしそこには、真実な意味で、主イエス・キリストはおられないのです。

 

2.「過越祭の六日前に」(12:1)

過越祭の六日前に(pro. e]x h`merw/n tou/ pa,sca)」(ヨハネ12:1)とあります。「過越祭」(パスカpa,sca)の語源のヘブライ語「ペサフ」(xsP[, pacach paw-sakh’)は「過ぎ越す」「足を引きずって歩く」「飛び回る」「立ち止る」等を意味します。旧約聖書に7回登場し、出エジプト記12章に3回、サムエル記下1回、列王記上2回、イザヤ1回と其々用いられています。前1250年頃のエジプト脱出の際に、神はファラオに対して、モーセとアロンを遣わして、ユダヤの民の解放を求めました。神は頑なファラオに災いを起こします。災いは、血・蛙・蚋(ぶよ)・虻(あぶ)・疫病・腫れもの・雹(ひょう)・蝗(いなご)・暗闇の災いと続き、ついに最後の災いを示します。出エジプト記に「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。」(出エジプト記11:4~6)と記されています。他方、イスラエルの民に対しては、「それ(傷のない一歳の雄の小羊)は、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(出エジプト記12:5~14)と、エジプトとは反対に、イスラエルの民に対しては、小羊の血ゆえに、神による死の裁きは過ぎ越されました。

このように「過越祭」は、出エジプトを記念して春に守る祭で、ユダヤ3大祭り一つです。元来は牧畜の祭、種入れぬパンの祭(除酵祭)と区別されていたようです。その後出エジプトの歴史的意味が加えられ、旧約聖書では「過越の小羊」と「種入れぬパン」が過越祭に用いられました(出34:25、民28:16~17、エゼキエル45:21等)。後にバビロニヤ暦で「ニサン月」(ネヘ2:1、エス3:7)10日に、祭の準備となり、家族の人数に応じ傷のない1歳の雄の小羊を14日の夕暮に屠り(出12:6、レビ23:5)、その血は家の門柱とかもいに塗られ、後に神殿では祭壇とその土台に血が注がれました(Ⅱ歴35:11)。小羊は頭も足も内臓も火で焼かれ(出12:9)、骨を折ることは禁じられ(出12:46)、羊の肉は種入れぬパンと苦菜と共に(出12:8)規定通り食され、翌朝まで残してはならず朝まで残ったものは火で焼かれた(出12:10、34:25)。旧約聖書は「出エジプト」を神の全能の御手による出来事として覚え祝しています(Ⅰサム8:8、Ⅰ列8:53、詩135~136編、イザ10:26、エレ16:14、エゼ20:6、ダニ9:15、ホセ2:15、アモ2:10等)。過越祭は、イスラエル民族の存続を決定づけた出エジプトの出来事として「神の民の救い」を想起する祭りであり、民を奴隷から解放し、神の民として約束の地を与えてくださる「契約の神」を記念する(ミカ6:4~5)神の民の証です。新約聖書の「過越の子羊」「種を入れぬパン」は、全人類を汚れから清め、罪による死と滅びの支配から解放する主イエス・キリストの象徴です(ヨハ6:31‐35,Ⅰコリ5:7)。主イエスは、十字架上でご自身を神の子羊として神に献げ、その流された血潮により、神の怒りと裁きを過ぎ越すための贖いの生贄となさいました。鴨居に塗られた小羊の血と同じように、主イエスの十字架で流された血は人々の罪よる死の裁きを過ぎ越して、新しい命と祝福に入れる贖罪のみわざとなって示されました。

 

3.「イエスの足に塗り」(12:3)

「香油を塗る」行為をめぐり、共観福音書との比較から、マルコ福音書では「香油をイエスの頭にauvtou/ th/j kefalh/j注ぎかけた(katace,w kate,ceen上から注ぎかけた)」(マルコ14:3)、ルカでは「うしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながら(klai,w klai,ousa)その足を涙でぬらし始め/(h;rxato bre,cein tou.j po,daj auvtou)、自分の髪の毛でぬぐい(tai/j qrixi.n th/j kefalh/j auvth/j evxe,massen)、イエスの足に接吻して(katefi,lei tou.j po,daj auvtou/)香油を塗った(h;leifen tw/| mu,rw)」(ルカ7:38)、そしてヨハネ福音書では「イエスの足に塗り(h;leiyen tou.j po,daj tou/ VIhsou/:avlei,fw h;leiyen油を塗る)、自分の髪で(tai/j qrixi.n auvth/j)その足をぬぐった(evxe,maxen tou.j po,daj auvtou:evkma,ssw evxe,maxenぬぐい取る、拭き取る)」(ヨハネ12:3)と其々に描かれます。

前述しましたように、マルコは「頭」に香油を注ぎますが、ヨハネとルカによれば、「足」に香油を塗り、髪で足をぬぐいます。この一連の行為について、⑴メシア(王)告白、⑵愛と献身の告白、⑶感謝と讃美、⑷懺悔と感謝、讃美と献身など、さまざまなマリア(罪深い一人の女)の心情を想定することができます。「キリスト」(油塗られた者)の原意となった「油注ぐ」(cri,w塗る)という動詞は、特殊な用語で、新約聖書で5回使用され、その主語は「神」です。つまり、イエスを「メシア」(王)として油を注いで聖別して、メシア(王)の務めに就けるお方は「神」であり、したがって通常は「神」が主語となって、メシア(王)としての職務にお就けになる厳かな神のみわざです。ところが、ここでは、主語は「マリア」で、彼女がイエスの足に油を注いだ(直接法能動態のアオリスト形の三人称単数)のです。このように「神」ではなく「人」であるマリアが、主イエスに対して、主イエスは神のメシアであるとして油を注ぐ行為は、どうなるのでしょうか。マリアは、高価で一切の混じりけのない純粋なナルドの香油を主イエスの足に注ぎ、それによって、彼女の純粋な信仰告白を言い表したのではないでしょうか。即ち「あなたは、わたしにとって、ただお独り、唯一真の生ける神の子メシアです」と告白して、足元にひれ伏して讃美し、神のメシアを主として礼拝した、と考えられます。しかも、ルカやヨハネは「足」に香油を塗っていますように、本来、神のメシアとして「頭」に油注がれたお方は「神」であるので、マリアは讃美告白者としてひれ伏して「足」に、香油を注ぎ、土の塵で汚れた主の足を感謝と讃美の涙をもって拭い尽くしたのではないか、と思われます。「家は香油の香りでいっぱいになった」とありますように、家は、まさに主イエスを神のメシアとする厳かな信仰に、いっぱいに満たされていたのではないでしょうか。ヨハネにおいて、マリアの役割は、謙遜に主イエスを神のメシアとして讃美告白する礼拝者として、全ての信仰者の模範であり、象徴として登場しているようにも思われます。

 

4.「わたしの葬りのために」(

ところが、イスカリオテのユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(12:5)とありますように、そうしたマリアの礼拝行為を理解することが出来ず、マリアを咎ます。同じようにマルコでも、そこにいた何人かが、「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この交友は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と憤慨して互いに言い合います(マルコ14:4、5)。彼らの怒りの原因は、最も価値ある高価なものを誰にどのように用いるべきか、という点です。それは、マリアのように、「神」に対して、しかも自分の罪のために贖いの犠牲となるメシアのために奉献されるべきものと考えるのか、それとも、彼らが憤るように、「貧しい人々」のために用いられ、その結果として、「自分の尊敬や承認」という報酬となって返ってくることを期待して利用されるべきか、という全く異質な立場がたいへんよく示されているように思われます。一方は、罪に支配された自我に絶望して、罪による死と滅びから解放してくださる神のメシアを待ち望み、その流す血によって償われ浄められ、新しい神の義と祝福のもとに神との和解を果たし、義と祝福に満ちた永遠の命に至る、という神のメシアを讃美告白して礼拝を捧げて、「神」に向かう道です。他方は、絶えず神ではなく「人」に目を向けて、「この世」における人間的な賞賛と評価を期待して、その見返りとして権力支配や利害の独占を求め続ける、という人間として自我欲求を満たす社会行動を尽くして、「人」に向かう道です。同じ宗教集団の中に、マリアの道とユダの道は常に同居しているのです。これは、教会も同じではないでしょうか。同じ牧師や教会集団の中に、マリアの道もあれば、ユダの道もある、そうした異質で対立する緊張の中に、わたしたちは皆置かれているのではないでしょうか。

こうした宗教内における本質的な分裂と対立に対して、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のためにそれを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と仰せになり、ついに主イエスは神の真理を告げるのです。この主のみことばには、マリアの行為の真相について、二つの大事なことが明らかにされていると思われます。マリアの行為が表した真相とは、一つは、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いた」と言われていますように、主イエスご自身の十字架による死を明らかにします。そしてもう一つは、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」という主イエスの栄光ある帰還、即ちこの世からの退去を明らかにしています。これは、ヨハネの伝承の特徴を示す啓示ですが、主イエスの十字架刑による死は、神の栄光のわざであり、そしてそれは即ち、天にいます父なる神のもとに栄光をもって帰還する地上からの退去をも意味します。それゆえ、主イエスに代わる別の弁護者(助け主)である聖霊が、地上の人々のために降るのです。

「わたしの葬りの日のために、それを取って置いた」というみことばですが、とても深い意味が込められています。「葬り」(evntafiasmo,j evntafiasmou)という字の元々の意味は、「死体に香油や防腐剤を塗って布で巻き埋葬の準備をする」(evntafia,zw)ことを意味します。先ほど、マリアが香油を塗るという所では「油を注ぐ」(cri,w塗る)という任職を意味する特別な用語が用いられていました。マリアの行為で「油を注ぐ」は「神の御子が神のメシアとなって遣わされた」というメシア告白と讃美を言い表わしていましたが、ここで主ご自身が言われた「葬り」即ち「死体に香油や防腐剤を塗る」という字は「死」そのものを象徴する字として用いられているように思われます。言い換えれば、主イエスはここで人々に、ご自身がメシアとして遣わされたその務めの中心に、「死体」となって、「死」ただ中に入り込み、「死」そのものをご自身のお身体において背負い担うことにある、と宣言したのではないか、と考えられます。言わば、マリアはメシアを迎え入れたことを油注ぐということで言い表わしたのですが、さらに主イエスは、そのメシアとは「死体」となって「死」を担う神のメシアである、と告げたのです。つまり、主イエスが天から降り、人の子として受肉して、世に使われたその目的は、「死体」となるためであり、「死」の全てをその本質と根源から、主のお身体において、背負い担うためである、ということになります。そしてさらに重要なことは、それこそが、神の栄光のわざである、というのです。これが、主イエスの啓示の中核であります。「死」の世界は、主イエスのお身体において、完全にかつ本質的に根本から「神の命」の世界となるのです。まさに闇から光への転換であります。