2022年5月15日「わたしは漁に行く」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.15 小金井西ノ台教会 復活第5主日

ヨハネによる福音書講解説教50

説教「わたしは漁に行く」

聖書 ヨナ書2章1~11節

ヨハネによる福音書20章1~14節

 

 

聖書

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 

 

説教

はじめに.  「信じてイエスの名により命を受けるためである」(20章31節)

ヨハネは、20章をもって福音書を完結させた、と考えられます。20章において、復活した主イエスは、二度に渡り、ご自身のお姿を弟子たちに現し、「平和」と和解の宣言をもって彼らを祝福し、ご自身の息を彼らに吹きかけて「聖霊」を与え、改めて「使徒」として世に遣わしました。そればかりか、第一回目の復活顕現の折に居合わせなかったトマスにも、ご自身の手の釘の跡やわき腹の槍の跡をお示しになり、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と仰せになり、復活の主には、みことばを信じることにおいて出会えること、更には「主イエスはメシアであると信じる」ことにおいて「永遠の命」は与えられる、と諭しました。そして福音書をこう結びました。「20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と。

このように、ヨハネによる福音書の目的とその主眼点は、一貫して「イエスは神の子メシアであると信じ」そして信じたその信仰において「イエスの名により永遠の命を受ける」ために集中しています。言い換えますと、主イエスは、ご自身を「わたしはある(エゴー・エイミ)」と自ら「神」の名を名乗り、主イエスご自身において「唯一真の神」は今ここに現れ、御自身の十字架の死と復活において「神の栄光」を表し、人々に「永遠の命」を与えられること、それを人々はただ信じて受け入れるだけで、神の愛と主イエスの恵みにより、永遠の命を得ることができる、という福音をヨハネはこの福音書を通して宣べ伝えた、と言えましょう。そして今ここに、その福音の物語は完了完結したのです。

問題はではなぜ21章なのか?ということになります。エルサレム郊外の墓の中でマグダラのマリアにご復活のお姿を現した主イエスは、エルサレムの家で弟子たちに姿を現し、同じ家でトマスにも主は復活のお姿を再度顕現しました。そしてヨハネは、最後この福音の物語を書くに至った目的を記して締めくくりました。ところが、その続きとして、さらにつけ加えるかのように第三の復活の復活顕現の物語を、しかも場所はエルサレムの「使徒」として働く弟子たちではなくて、ガリラヤ湖で世俗の「漁師」として働く弟子たちにご復活のお姿をお示しになるという話が、21章として登場します。これは、いったいどういうことなのでしょうか。「聖霊」を受けて聖別され、「使徒」として世に遣わされた弟子たちは、どうしてガリラヤ湖で「世俗の漁師」に戻って、不漁に苦悩する姿を描くのでしょうか。とても不可思議な物語であります。わたしたちは今や、同じヨハネによる福音書ではあるものの、21章という全く新しい形で、第三回目に復活顕現される主イエスと出会うことになります。

内容からも明らかなように、20章とは大きく矛盾する21章は、後のヨハネの「教会」によって付け加えられた物語ではないか、と多くの学者が推測しています。よく内容が似ているためにしばしば比較されるのは、ルカによる福音書5章で、ガリラヤ湖の漁でおびただしい魚が獲れた、とする「大漁の奇跡」の記事です。話の内容から申しますと、ヨハネ福音書の21章においては、ガリラヤ湖での大漁の奇跡といルカ伝承に、更に復活顕現する主イエスの奇跡の物語がさらに二重に重ね合わせられて、大漁という場面での復活顕現が物語られるのであります。確かに、場所も話もとても酷似していますが、実は、語ろうとする内容も意図も、ルカとヨハネとでは、大きくズレ、異なります。ルカによる福音書5章の主眼点は、奇跡であり奇跡を起こすメシアの力に焦点化されて物語られます。いわば、主イエスにおける「力あるわざ」として、メシアを証言するしるしとして、大漁の奇跡が描かれます。確かに、ヨハネも同じように、ガリラヤ湖での大漁という奇跡とそこ働く主イエスの驚くべき力が表されている点では同じですが、ただ根本で大きく異なる点は、論点が、復活の主イエス・キリストに対する後の「教会の信仰」に移り、しかも復活の主は、「みことばと信仰」とにおいて、常に現臨し救いのみわざをいよいよ行われており、教会は復活の主による「みことばと信仰」において導かれている、というメッセージにあります。復活の主が、教会の宣教を導くために、ペトロを中心に弟子たちを使徒職として立て、またその後継者たちにより、教会において「大漁」の喜びが象徴的に証しされるのです。

 

1.「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」(4節)

21章での主イエスの復活顕現は、20章のようにエルサレムではなくて、「ティペリアス湖畔」とありましたようにガリラヤ湖畔です。故郷のガリラヤ湖で「魚をとる漁師」として、弟子たちは登場します。やはり弟子たちの行動の中心的に担う人物は「ペトロ」でした。聖書は「21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。21:4 既に夜が明けたころイエスが岸に立っておられただが弟子たちはそれがイエスだとは分からなかった。」と、出来事の発端と事情について描き出しています。なぜ、21章が後に付け加えられたのか、その真相を示す鍵語が、既に4節で「21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」という言葉によく示されています。先ず決定的な問題は、復活の主イエスがおられるのに、復活した主イエスが分からない、その存在を認めることができない、という現実認識です。復活して現臨する主イエスを受け入れることができないまま、曖昧で不安定な状態のまま故郷に帰り、魚を獲る漁師に逆戻りしてしまった弟子たちの生活が描かれます。復活した主イエスがそこに立っておられたのに、それをイエスだとは分からない、という弟子たちの「不信仰」が浮き彫りにされます。厳然と主イエスは彼らの傍らに現臨しておられるのに、それが主イエスだと分からない、そういう空しい実態が問題となって掲げられています。彼らの生活の実態は最早「信仰」生活とは言えず、とても空虚な生活です。既にそこに、主が立っておられるのに、です。前の20章29節で「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と、主イエスがトマスに語った、あの決定的的なメッセージが、ここでは既に失われています。信じることの意義と幸いの本当の意味は見失われ、それどころか、既に見えなくなって久しいご復活の主イエスの存在もすっかり失われてしまっていたようです。まさに復活の主不在、神不在、命不在の、実に空虚な信仰生活であります。

同じことは、わたくしたちにも言えそうです。日々の生活の、その時その時において、復活と栄光勝利の主は傍らに寄り添い立っておられるのに、わたしたちはそれが主イエスだと分からないのです。いわば、ヨハネの21章の主題は、教会と信仰の生活だと言いながら、実際は「生ける神不在」の生活を空しく偽善的に過ごしているのではないか、そんな生きて力あるわざを行っておられる「神」不在の生活を問うているのです。「使徒」であるはずの弟子たちは、単なる「世俗」の漁師に終わっていないのか。生きて力強く働く神は少なくておも彼らの意識の中には居られず働きもしていないのではないか、という空虚な墓のような信仰生活を問い質します。

「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」とありました。そこには何一つ収穫と言える、心に燃える、生き生きとした命溢れる霊的な生活実態はありませんでした。そうした喪失した弟子たちの心の風景が、ここにはよく映し出されています。もしかしたら、ヨハネの教会は、後の時代になって、教会の中心となって共同体とその信仰を支えていた本当の意味での使徒職を失い、信仰共同体としての本来の意義と目的を喪失する危機に直面していたのではないか、とさえ危惧してしまいます。そして教会は、そうした信仰喪失の危機に対して、復活の勝利と栄光の信仰をもって改めて立ち向かって闘う決意をしたのではないでしょうか。それが、この21章を書く必要であり目的であったのではないか、と思われます。現代のわたくしたちの教会でも、本当の意味での「信仰」の実質や形式でも教理信条が失われ、信仰が空洞化する中で、生ける神の不在となり、結局は世俗生活に溺れて死ぬ他に行き(生き)場を失い、教会と信仰に残された残骸は、薄ぺらなヒューマニズムだけ、ということに尽きてしまうのでしょうか。

 

2.「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(6節)

ペトロもパウロもそしてヨハネも、使徒たちは迫害の中で世を去ります。後に世に残された教会は、迫害やさまざまな試練の中で、使徒職と神不在という信仰不安のまま、生ける主イエスの栄光と勝利を喪失してしまう危機に陥った、と考えらえます。信仰生活の実態はいつの世でも常に「闘い」であり「苦悩」です。そこには、実際に何一つ希望も喜びをも得ることのできない、弾圧と抑圧、排除と差別の悲痛な日々が続きます。そうした絶望寸前の中で、ペトロを初めとする使徒職の継承者たちは、改めて、主イエスの「みことば」のうちに、神の啓示を聴き直そうとします。そしてついに、教会は復活のキリストの身体として、天地を貫く信仰の共同体験という形で、復活の主イエスは試練の中の教会に寄り添いいつも共におられる、ということを知るのです。復活の主は、信仰とその共同体である教会の真ん中に来て立ち、ご自身のみことばをもって働き、命と栄光のみわざを行っておられたのです。見たから信じるのではなく、見ないで信じる者は幸いであるとは、そういうことでした。復活の主イエスは、教会とその信仰において現臨し、みことばをもって、信徒一人ひとりに直接語りかけ、永遠の命を与えておられたのです。神不在ではなく神はわたくしたちのうちに現臨し生きて働いておられたのです。主イエスは弟子たちに「21:5 『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。」と語りかけます。この「食べ物」(prosfa,gion prosfa,gion)という字は、パンに添えて食べる「魚」を指しており、言い換えれば、主イエスは「魚は獲れないのか」と尋ねたのです。ですからリビングバイブルはこれを「『おーい。 魚はとれたかーい。』その人が声をかけてきました。『いやー、全然だめだよー。』」と訳しています。信仰共同体の中核を構成する弟子たちの生活には何一つのその信仰による収穫は得られていない、とそう思い込んでいたようです。そればかりか、復活の主イエスがおられることも分からなくなっていました。「魚」とは、そうした日常の生活を根源から支えて力づける「命」そのもの、救いの命を象徴的に表しています。「魚」という字は、ヘブライ語で「ダーグ」と言うそうですが、その語根「ダーガー」は「増えて増殖する」(創48:16)という意味のようです。また初代教会では「魚の絵」は「救いの象徴」として用いられ、ギリシャ語の「魚(ivcqu,jイクスュース)」(ヨハネ21:11)の文字は、「エス・リストは、世主(VIhsou/j Cristo.j Qeou/ U`ioj Swth,r)」という其々の単語の頭文字で構成された言葉であり、教会の最も短い信仰告白でありました。そうしたことから、無限の神の恵みであり命を象徴し、また「イエス・キリストは神の子救い主」という信仰そのものを象徴するものとして、この物語でも用いられたのではないでしょうか。ペトロやヨハネの後継者たちは、教会において、その命と力の拠り所を失い、「ありません」と答えるしか外に道はなかったというのです。

ガリラヤで世俗の漁師に戻った使徒たちとは、ユダヤ人やローマ人からによる迫害から逃避逃亡する中で、絶望するキリスト教共同体を象徴しているかのようです。「使徒」として立てられ、世に「福音の宣教」のために、遣わされたという自覚はおろか、世に敗北し埋没しそうな弟子たちの不安が、故郷に帰り漁師に戻る姿に映し出されているようにも見えて来ます。そればかりか、キリスト者と言っても、これが世に支配されたわたしたちの日常生活の実態ではないのかと厳しく指摘されているようにも見えます。

そうした生きた信仰の喪失という空虚な生活のただ中に向かって、ついに、主イエスは、突入して来られるかのようにその真ん中に来て立ち、みことばを告げ、みわざを行われ、救いを実現されるのです。聖書は「21:6 イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさいそうすればとれるはずだ。』そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」と記します。主イエスが彼らの日常生活のただ中に突入して来られ真ん中に立ち、主のみことばが語られるもとで、網を投げるように宣教と奉仕に励んでみると、確かにそこにはおびただしい信仰による命の魚が、またその福音という命の救いに導き入れられる多くの信仰者が与えられ、宣教活動の網にはいっぱいに溢れていた、という象徴的な出来事が物語られます。この出来事は、弟子たちとその教会に、とても大きな力と励ましを与え、確信に導いたことでありましょう。弟子たちは、この世の漁師として漁をするのですが、そうではなくて、言わばこの世での宣教も働きも全ては皆、主イエスの語られたみことばの示す所に導かれており、天国という大きな網の中で、ぴちぴちと飛び跳ねる大漁の魚のように、地上の教会でもあっても天上には大漁の収穫を得ているのです。主イエスのみことばにしたがって、営む生活の全てを尽くして、みことばのもとに投げ入れるのであります。すると、不思議なことに、そこにはたくさんの魚がぴちぴちと跳ね上がって大漁となっていたのです。主イエスの語られたみことばのもとで、初めて獲得し経験された大漁の奇跡でした。

 

3.「ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった」(11節)

そのように、弟子たちの生活のただ中に立ち、みことばを告げる復活の主に、真っ先に反応した人物が、あのペトロでした。ペトロやヨハネが弟子たちの集団の中でとても意味深い役割を担っており、その役割を十分に果たしています。それは、共同体の行動規範です。先ず「21:3 シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」とありますように、ペトロが真っ先に、弟子たちの集団を率いて舟に乗り込み、漁に向かって出て行きます。あたかも教会という舟に真っ先に乗り込んで人を漁る漁師として、宣教に向かってゆくとても勇ましいリーダーとして登場しています。さらに「シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。」と描かれます。ここでも、弟子たちの中で、最も早く弟子たちの真ん中に立ち現臨する復活の主イエスに対して反応して驚き、「上着をまとって湖に飛び込んだ」のです。ペトロは真っ先に、弟子たちの中で最も純粋で鋭敏に応答する礼拝者としてまた祈り手として登場します。しかも聖書はさらにペトロについて、「21:11 シモン・ペトロ舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」と記しています。153匹の「魚」(ivcqu,j ivcqu,wn)であっても、一見か弱く小さく見える投網でも、どんな大漁にも応え得る一つの網として、破れず機能していたのです。「153」とは、何の数を象徴しているのか、不明です。教会数か、神の恵みの数か、あるいは民族や都市なのか、分かりませんが、いずれにしても、ひとつの信仰による一つの教会における救いは、破れることなく無限に広がり、揺るぎなく普遍に働くのであります。注目すべき点は、仮りに「舟」を教会の譬えとして読み、「網」を教会の宣教として解釈し、さらには「大きな魚」を獲得した信徒や新たな教会群として理解すると、そこには、ペトロを初めとする使徒たちの後継者による宣教が、広くあらゆる国々や人種にまたがるように、一つの公同普遍の世界教会を形成しているように見えて来ます。歴史的な使徒ペトロというよりも、ペトロのように使徒の務めによって導かれ、拡がる世界の教会の姿です。後にニケア信条で告白される「一つの、聖なる、公同の、使徒の教会」です。そして復活の主イエスがその世界教会の真ん中に立ち、みことばを語り、世界は主のみことばのもとに、宣教という網を投じると、その網の中は大きな魚が生きて跳ね上がり大漁となって、夥しい新しい民族と教会が収穫されているのです。しかもその網は「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」とありますように、教会も宣教も、揺らがず壊れず破れず、いよいよ堅固に守られ導かれるのです。こうした表現から、ペトロを中心とした使徒たちとその後継者たちに教導され、さまざまな国々の民族を全て包み込むように、唯一の聖なる公同の使徒的教会は形成されてゆくのです。しかも、そうした世界の教会形成のただ中には、何と言っても、主イエスが十字架と復活の栄光のお身体をもって現臨し、力あるみことばを語りかけ、みことばにより命と救いの食卓に招き、ご自身の勝利と栄光のお身体を分かち与えるのです。こうして「神不在」としか見えない迫害や試練の中にあっても、教会は勝利の希望と永遠の命に溢れ、主と共に確信に満ちたて歩み始めることが出来るのです。

 

4.「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(9節)

復活の主が弟子たちを招き、弟子たちに与えたもの、それは「朝の食事」でした。朝の礼拝と言ってもよいかも知れません。「21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚(ovya,rion ovya,rion)がのせてありパンもあった。21:10 イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。」と記されています。少々、不思議な表現になっています。既に炭火のうえに魚はのせてあり、パンもあったのに、なぜわざわざ主イエスは「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われたのでしょうか。とても不思議な印象を受けます。既に炭の上にのせてある魚と、今とった魚とは、どこがどのように違うのでしょうか。原典から厳密に言えば、そこに差し出され横たわっている「魚」(ovya,rion ovya,rion)も「パン」(a;rtoj a;rton)も、文法的に言えば、共に無冠詞単数の形で書かれており「たった一つの魚とパン」です。どちらかと言えば、数より「質」を意味しており、キリストによって用意された唯一普遍的な魚とパンであり、そればかりか「今とった魚(tw/n ovyari,wn w-n evpia,sate nu/n複数形で冠詞)を何匹か持って来なさい」というみことばは、あの5千人の給食を彷彿とさせます。しかしさらに不思議なことに、12節以下で「イエスは、『さあ、来て朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった主であることを知っていたからである。21:13 イエスは来てパンを取って弟子たちに与えられた魚も同じようにされた。」とあります。こうして主イエスから既に用意されていた唯一の魚とパンは、弟子たちひとりひとりに与えられます。ここで、弟子たち一人ひとりに差し出され手渡されたパン(to.n a;rton)も、そして魚(to. ovya,rion)も共に冠詞付単数形です。敢えて数にこだわって深読みすれば、主イエスによって既に用意された唯一の普遍的なパンと魚から、さらに収穫された数々の魚へと広げられ、最後に冠詞付複数形という形で、全ての神の救いの恵み全体を天地を貫いて包み込むように、教会と宣教は大漁として描かれ、救いの喜びを纏め上げているかのようです。一つの普遍的で大きなパンと魚となって現れた、ということでしょうか。まさにこれはキリストの身体としての救いが大きく広がる現実を象徴しているかのようです。

このみことばで、さらに注目すべき点は、弟子たちにおける大漁という状況の変化と共に、弟子たちの意識も大きく変化していることです。その場の空気は全く異質な世界に一変します。その空気を象徴する言葉は、「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった」という言葉です。最初は「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」(14節)と明記されていましたように、弟子たちの意識や信仰は、明らかに主イエス不在という「不信仰」と夜通し網を打ち続けても不漁という「絶望」に支配されていました。ましてや復活された主イエスの栄光と勝利は、彼らのうちにはなかったのです。ところが、主イエスのみことばのもとで、舟に乗り網を打ちますと、思いを超える大漁を共に体験したのです。何と岸辺では、主イエスは既に彼らのために、パンと炭の上に魚を用意しており、彼らは主の食卓に招かれ与るのです。みことばのもとで、復活した主イエスが、ご自身の十字架と復活のお身体をもって共同体の真ん中に来て共にたち、永遠の命に溢れる勝利の食卓を備えてくださっているのです。最早、誰もそれを疑う者はいないのです。復活の主を知り、それが復活の主だとわかるようになったのです。そしてそれはついに教会共同体の核心(確信)となります。弟子たちは、信仰共同体という教会生活を営む中に、懸命に伝道という網を打ち続けて働く中で、天地を貫き世界に広がる救いの恵みを収穫し続けていたのです。主がパンと魚とをもって日々の食卓を備え、命と生活の共同体を支えてくださるのです。天地を貫き世界全体に渡って日々展開され永遠の命による交わりの生活であります。そうしたさまざまな恵み豊かな営みの中で、復活の主を見る信仰の目は、増々確かに養い育てられていくのではないでしょうか。神は元々人間には捉えることのできない永遠普遍の存在ですから、わたしたち人間は、心身を尽くし信仰を尽くして教会生活に励む中で、初めて、受肉と復活の神に出会う喜びに導かれるのです。歴史を貫き、復活の主イエスは、教会において現臨し給い、救いのみわざは途切れることなく行われているのです。