2022年5月22日「わたしを愛するか」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.22 小金井西ノ台教会 復活第6主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教51

説教「わたしを愛するか」

聖書 詩編23編1~6節

ヨハネによる福音書21章15~25節

 

 

聖書

 

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい

21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 

 

説教

はじめに. 使徒たちの任職と派遣からペトロの任職と派遣へ

イエスさまが、人類の全ての罪を償い永遠の命を齎すために、贖罪の生贄となって十字架につけられて死に、墓に葬られたのは、A.D.30年の4月7日金曜日午後3時頃だった、と言われています。そしてその三日目に、復活してそのお姿を弟子たちに現わされました。主イエスの復活顕現をめぐり、これまで聖書に即して、お話をしてまいりましたが、パウロがA.D.50年頃に第2回伝道旅行で訪れたコリントの教会宛に書かれた手紙によれば「15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、15:5 ケファに現れその後十二人に現れたことです。15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(コリントの信徒への手紙一15章3~7節)と、とても確かな伝承として伝えられています。パウロ自身も「15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」と自ら証言しています。こうした弟子たちによるキリストの証言は、「新約聖書」という形で、「旧約聖書」と共に、「聖書」正典として教会を支える証言として残され、今皆さんのお手元にまで届けられている通りです。キリストの復活を体験し証言した弟子たちの証言によって、キリスト教会は立てられ導かれており、この証言は、2000年の過去から現在を貫き、さらには終末に至るまで、宣べ伝えられます。

今日は、そのご復活なさったイエスさまが、弟子たちの前に現れて、宣教という全権を弟子たちに「使徒」として委ね、福音の宣教と牧会のために、世にお遣わしになる、という話です。そしてその弟子たちの中心に、今日の話に登場する人物こそ、ペトロでありヨハネであります。ヨハネによる福音書21章15節以下の記事は、「ペトロの宣誓と任職」が主題ですが、共観福音書で言えばは、マタイによる福音書16章17~19節の記事にあたります。「16:17 すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。』」とありますように、イエスさまは、ペトロを祝福して、教会を担う岩礎として、お立てになります。ヨハネの20章では、復活の主イエス・キリストが、弟子たち全員にご自身の息を吹きかけて、「聖霊」を与え、弟子たちを「使徒」として聖別して、復活のキリストを証言する証人として世界にお遣わしになります。そしてヨハネの21章では、20章の使徒の任職に付け加えて、ペトロの誓約と任職が三度に渡って繰り返され、福音書の著者であるヨハネがその権威を受け継いだことを示唆され完結します。21章1節以下にありましたように、網の中の魚「153匹」が象徴しますように、教会は、全世界に渡る普公教会としてあらゆる民族や時代を超えて包み込み、拡がりましたが、その網いっぱいに満たした153匹の魚に象徴される全世界の教会を引き揚げる使徒こそ、このペトロであります。

 

1.「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)

ヨハネによる福音書21章15~25節は、18節で二つの段落に区切って読むことができます。17節までは、ヨハネとその教会が受け継いだ伝承であり、その内容はいわばマタイ福音書16章18、19節に対応しており、主イエスが教会の宣教と牧会の全権を使徒ペトロに委任し教会の岩礎とした、という伝承です。そして教会をペトロに委任したとする元々あった伝承につけ加えて、18節以降では使徒としての使命のためにペトロが殉教して死ぬという話が続けられ、ペトロの殉教の後に、福音書記者のヨハネがその宣教を担う使徒としてその生涯を全うし教会の責任を受け継いだことを示唆して終わります。

さて、21章15~17節ですが「1:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。21:16 二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。21:17 三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『「わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。」という記事を記しまして、ヨハネは、ペトロの誓約と任職をめぐる伝承を紹介します。

この記事で、注目すべきことが三つあります。一つは、先ず主イエスご自身からペトロは直接に、「ヨハネの子、シモン」と名を呼ばれて「この人たち以上にわたしを愛しているか」と誓約を求められていることです。二つ目は、ペトロは、その応答として「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えることで、誓約を果たそうとしていることです。そして三つ目は、この「わたしを愛しているか」「はい、主よ、あなたがご存知です」という誓約と、「わたしの羊を飼いなさい」という任職が、完全絶対を意味する三度に渡って繰り返されていることです。

そこで、最初に「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」(17節)という所からお話したいと思います。復活した主イエスが、ペトロに対して、直接「わたしを愛するか」と言って、ペトロに誓約をお求めになり、ペトロの誓約に基づいて「わたしの羊を飼いなさい」と言って、羊飼いとしての任職をします。この誓約と任職は三度に渡って繰り返されます。三度とは、所謂「完全絶対」を象徴する行為です。不変の誓約であり永遠の任職を意味します。この三度に渡る誓約でとても意味伸長と申しますか、ある意味でそれはトリッキーな問いに聞こえます。主イエスは「わたしを愛するか」とお尋ねになるのですが、その際に「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」とお尋ねになり、「この人たち以上に」と他の弟子たちとの比較において問われています。比較された「この人たち」とは、21章2節に「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエルゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」と名簿が紹介されています。言うなれば、イスカリオテのユダを除いた12使徒全員が想定できそうです。12使徒全体の誰よりも、あなたはわたしを愛するか、と主イエスは問うたのです。明らかに12使徒其々を比べ、その誰よりも、あなたはわたしを愛しているか、と言うのです。これに対して、ペトロははっきりとイエスさまに答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え、ペトロは非常に明確に自分の愛を告白しています。このペトロの応答に、新たに生まれ変わったペトロの姿を見ることができるように思われます。新しいペトロの生まれ変わった人間性がそこには見て取ることができるのではないでしょうか。なぜなら、先ほど、主イエスは、他の弟子たちとの比較で「わたしを愛するか」と問われましたが、ペトロはその比較に対して、はっきりと「あなたがご存じです」と答えたからです。言い換えれば、それを判断する権限も能力も最早「わたし」にはありません。自分を判断評価する権限はすべて「あなた」にあるのですから、とペトロは言い切って、自分についての判断や評価はただただ主イエスご自身にお委ねしており、自分の能力や評価、幸不幸も全てを判断しお決めになられるお方は、ただお独り主イエスご自身の御心によります、と言って、主イエスに対する全幅の信頼に、全てを委ねした所に、自分の愛も喜びもあります、と答えたからです。ペトロは、明らかに、完全に自己自身を放棄して、全て主イエスにその判断評価を任せたのです。神の御子主イエスに、全ての評価判断はあり、この方こそ裁き主ではないか、と告白したのです。この態度は、後に主イエスが「21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と、ペトロについて言われたことにも通じることです。全ては御手の内にあり、全ては御手によることであり、それゆえ、全ては御手にお委ねするのです。御心の通りに成りますように、御心のままに生かしてください、と祈るばかりであります。

こうしたペトロの答えとイエスさまの問いには、あるいきさつがありました。それは、マタイによる福音書を読みますと、ペトロの言動をめぐり、こんなやり取りと経験があったからです。マタイの26章31~35節に(26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいてもわたしは決してつまずきません」と言った。26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなってもあなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。)という、こんな経緯(いきさつ)が紹介されています。ペトロは、かつて、明らかに、他の弟子たちとは違って自分は絶対につまずかない、イエスさまを裏切らない、と断言しましたが、その舌の根も乾かぬうちに、ペトロは三度に渡り、主イエスを知らないと言って、主との関係を否定した経験がありました。主イエスが、わざわざここで、ペトロに三度も度重なる誓約と任職を繰り返された背景には、ペトロ自身がかつて実際に主イエスを三度に渡って否定していたからではないでしょうか。ペトロは完全に自己に破れ果て、自分をより頼む虚しさを完全に知ったのです。そうした三度に渡る完全な自己破綻から、改めて主イエスに対する自己放棄を決断していたのではないでしょうか。自分においては、完全な自己の「放棄」と言うべきですが、主イエスに対しては、完全な自己の「委託」です。全てを主のご主権にお委ねしたのです。そして主イエスはこうしたペトロの全てを赦して、彼の全人格を受け入れ包み込んだのです。それが「わたしを愛するか」と問うて、ペトロを三度に渡り完全にペトロを赦す主イエスご自身の愛でありました。

 

2. 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15節)

こうしたイエスさまの深い愛と赦しに包まれる中で、ペトロは、ある意味深い新しい信仰認識に至っていたのではないか、と想像できます。それは、自分の力や人を頼りにしないで、全て神さまの御心お委ねしお任せする決意です。周りの人々との比較からは、何一つとして本当のことは分からない、という新しい認識です。ふつうは、周りの人々と比較して、どちらが有能なのか、或いは、どちらが幸せなのか、自分を評価します。しかしペトロは、そんな人間同士の比較からでは、本当の真理は見えてはこない、と気付いていたのです。人には、元々、生まれついた時からの個性があります。それはオンリーワンの、たった一つの命の輝きであり宝です。それを、周囲との比較から良し悪しを評価して、自分の尊厳を卑しめてしまう必要はないのです。ひとりひとりが皆、だれもが、地球よりも重く尊い、たった一つの神からの恵みであり贈りものだからです。あなたには、あなたしか生きることのできない幸せがあり、わたしにも同じようにわたしだから生きることのできる幸せがあるはずです。自分の本質を、自分の次元ではなく、神さまの恵みという次元で、見つめ直すことができるようになった、と言えましょう。

このように、自分の本質を神さまの恵みという次元から認めて受け入れられるようになると、不思議なことですが、比較の対象であった他者一人一人をも、排他的な意味での他者の次元から、神から与えられた恵みの他者として、今度は愛の対象として認めて受け入れることも可能になるのではないでしょうか。決して誤解してはならないのは、自己を絶対化して、独り善がりでよい、と言うのではありません。ある意味で、確かに周囲の人々と比較する中で、お互いの違いや特質をよく知る、ということはとても大切なことです。そしてそうした違いや、あるもの、ないものを認め合い、助け合うことの大切さを深く知ることはいよいよ貴いことです。そうした賢明な比較の中で互いの違いと多様性の豊かさを認め合い、評価し合い、助け合い、仕え合う、そうした人格的な交わりに入るのです。問題はその次です。そこで、改めて「自分」も「他者」も、其々の本質と尊厳は、神さまからそれぞれに与えられたオンリーワンの尊さに気付き、より深く知り、互いを感謝をもって喜び合うことです。

その時に、とても重要な鍵となることは、自分をお造りくださった神さまに対する全幅の信頼です。神さまを信頼する確信から、初めて自分のオンリーワンの意義も、他者の意味ある本質も、共に見えて来るからです。かつてペトロは、他の弟子たちと比較して、自分は特別で絶対的な存在であるのだから、そうでなければならない、と誤解していたからです。大事なのは、周りとの比較で自己を絶対化するのではなくて、神さまの信頼から、そして神さまからの愛と恵みを知る所から、自分の意味や価値を深く知ることが出来るようになることにあります。こうした自分の本質とその意味をいよいよ知る、自分探求の旅路は、神の御手の内深くに有って、神を信頼する信仰のもとに永遠に続けられるのです。おそらく、ペトロは、自分の本当の意味や真理は、神さまを信じる信頼を根拠にして、しかも神さまの愛や恵みを根拠にして、神の愛と恵みという次元に委ね、そこから、未知なる自分を推し量るという終末論的な自己理解を獲得したのではないでしょうか。

後から仲間に加わったパウロは、異邦人の宣教を担い、ギリシャやローマの異邦人に福音を宣べ伝え、多くの異邦人教会を立て、新約聖書の中核を構成するたくさんの牧会書簡を残しました。そして若いヨハネは、後に第四福音書を書き残しました。しかしペトロには、実際に教会を立てたという話もなければ、福音書を書き残したという話もなく、殉教してしまいました。しかし重要なことは、「イエスさまの羊を飼う」という羊飼いとしての使命が、イエスさまからペトロには与えられて、その使命に全生涯を献げて殉じたのです。それは世界の全ての歴史的教会の岩礎となる職務でした。ペトロは、神さまのご主権のもとに、神さまの愛と御心を信じる信頼のもとに、自分にしか与えられない恵みと喜びを知り、自分に生かされた生涯を生きることを知ったのです。その根拠は、自分の力に頼ることの虚しさを知り、この世の力に頼ることの不確かを経験したからでした。何よりもペトロは神を愛し神を信頼し神にお委ねすることの尊さを知ったからであります。比較と相対の中で生きる虚しさを知り、神と向き合う絶対の中で生まれ変わったのです。悔い改めとは、そういうことではないでしょうか。

 

3.「わたしの小羊を飼いなさい、わたしの羊の世話をしなさい」(15、16節)

主イエスはペトロに「わたしを愛しているか」とお尋ねになりました。なぜ「愛しているか」と尋ねたのでしょうか。「愛」について、改めてその根本原理から、振り返る必要がありそうです。言うまでもないことですが、「独り」という絶対の世界では「愛」は成立しません。愛の根源は「他者」にあります。他者があって愛という世界は成立するのが愛の根本原理です。愛は、独りでは決して実現するとのできない行為です。愛とは、他者との関係性の中から、生まれます。そのためには、唯我独尊の自分以外に、他者の存在と場を認め、自分の内に受け入れたとき、初めて愛は生まれます。そして新たな課題として、その存在と場を自分の内に受け入れて認めた他者存在と、果たして自分はどのようにかかわればよいのか、という問題が生じます。そこで、初めて「愛する」(反対は憎み妬むということになるでしょうか)という新しい課題が生まれます。相手のために、自分はどうかかわり、何をすればよいのか、相手のために役立ち喜んでもらうには何が必要なのか、「愛する」という関係形成の主題のもとで、自分の生き方が新しく造り変えられるようになります。他者を認め、受け入れた時、他者を愛するという課題と営みの中で、初めて他者と共に生きようとする、新しい他所と共同する人生が始まるのです。

ヨハネは手紙の中で「4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(ヨハネの手紙一4章16節)と教えました。そもそも愛とは、神そのものであり、神の内にある、と言っています。したがって愛は単なる倫理の範疇に属するものではなく、神そのものにその根源と本質を有しています。それは、三位一体の神そのものであります。父はご自身の内に子の存在を認めて栄光のうちに遣わし、子もご自身の内に父の存在を認めて従順をもって仕えます。聖霊も同じように、父と子と聖霊は、三位格其々のうちにかつ相互のうちに、其々の存在を認め合い栄光のうちに仕えておられます。古い東方ギリシャの神学で申しますと、三位格の相互内在性(ペリコレーシス)という三位一体の神の教義です。いわば三位一体の神ご自身の本質に、しかも唯一真の神であるとする神の本質に、父はご自身の内に子を他者として子を認め栄光のうちにお遣わしになり、子もご自身のうちに父に従順を尽くてお仕えする、そこに神の本質が示されます。自分の内に他者を受け入れること、それはある意味で、自己否定、自己譲渡を前提にしなければ実現できない行為です。極論すれば、神の本質は「自己否定」を媒介にして成立しているのです。それが「愛」の根源的な原理です。その父と子と聖霊における相互に自己否定を媒介にした神の本質を、主イエス・キリストを通して、今度は私たち人類に注がれた神の愛として、私たちは知るに至ったのです。ヨハネは、そのことを「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、神は愛です」と告白し、したがって「愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と教えることができたのではないでしょうか。

ここで一つ意味深い点は、イエスさまから「わたしの羊を飼いなさい」と、羊飼いとして、ペトロは任職されます。主イエスは「わたしの小羊」または「わたしの羊」と言っています。ご自身が命にかえて一番大事にしておられる「子羊」をペトロに分け与えられたのです。「わたしはよい羊飼い」である、と主イエスは教えておられました。つまり主イエス御ご自身だけの羊飼いという場を、ご自身から切り裂いて、ペトロに分け与えられています。神の国であり天国を支配する牧会の権限をペトロに分け与えたと言えましょう。そしてこれは、ペトロだけのことではありません。実は、わたくしたちひとりひとりに、その名を呼んで招き、神の内側に場を認め分け与えられたのです。「14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネによる福音書14章2~3節)と仰せになられた、あの主イエスのみことばを思い起します。これが、まさに神であり、神の愛であります。

こうして主イエスは、ペトロを選び、ペトロを羊飼いとして任職し、教会のためにお遣わしになられました。まさにそれは神が自己否定の愛を媒介にして、御ご自身をペトロのために差し出し分け与える天における生きる場でありました。ペトロは、生涯を尽くして生きる場を、神から与えられたのです。まさにルターの言う「天職」を与えられたのです。天に生きる使命を知り、使命を与えられ、使命に生かされたのです。自分の本当の生きるべき場と役割を与えられました。教会の中でも、家族の中でも、また職場の中でありましても、そして人生のすべてにおいて、本当の自分の生きるべき場所が天から与えられており、自分の果たすべき役割が与えられること、それほど意味深いことはないと思います。愛し合うという関係の中で、お互いがお互いのかけがえのない役割と場を認め合い、相互に分かち合い、喜び合うのです。

 

4.「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)

最後に、非常に重く深いこととして、ペトロは「殉教」を言い渡されます。「『21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』21:19 ペトロがどのような死に方で神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」と記されています。確かに、ペトロは「わたしの羊を飼いなさい」と命じられ、羊飼いとしての任職を受けたのですが、それに加えて、その務めを果たすべき責任と犠牲もまた求めらたのです。イエスさまは、神のメシアとしての務めを与えられ、その務めを十字架の死に至るまで従順を尽くしてお果たしになられました。同じようにペトロも羊飼いとしての職務を殉教という犠牲をもって貫くことになります。

このことは、わたくしたちが人生を生きる中で、ヒロイズムやナルシストとしてではなくて、心から謙遜かつ従順に、自分の犠牲を喜び誇りとすることができる、ということを意味してはいないでしょうか。人間にはどうしても周りを見るにつれば、納得できないことや、時には恨み辛みが生じるものです。なぜ、自分がここで、こんな役割を背負わされ、罵られ蔑められて、死ななければならないのか、と。多くの人々は、世の称賛を期待して立身出世は図り、極力貧乏くじは引かないようにしたがるものです。もしかしたら、牧師や教会の人々の中にも、そうした方々はたくさんいることでしょう。しかし、主イエスは、人々のために十字架の犠牲となられたのですが、その多くの人々から卑しめられ罵られて、極刑を受ける犯罪者として、死の淵へと落ちて行かれました。そればかりか、そうした人々のために「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:32)と執り成しの祈りをしながら、息を引き取られました。この十字架の主を仰ぎ見れば見るほど、主のもとに近くあることの意味を覚えます。愛ゆえに赦しゆえに犠牲を余儀なくされた主は、本当の意味での勝利を遂げ、栄光のうちに父と共にあり、永遠の命をうちに甦りました。そこに溢れるものは、愛であり赦しであり犠牲でありました。ペトロはそのただ中に招かれたのです。

 

5.「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」

ヨハネは、ペトロの任職を厳粛に伝えながら、少々興味深く、ペトロと自分との関係を描いています。ヨハネ自身が記したというよりも、ヨハネの後継者が記したことでしょうか。ペトロは殉教を受け入れましたが、やはり隣りのヨハネの行く末が気にかかったのでしょうか。21節以下に「21:21 ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。21:22 イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるかあなたはわたしに従いなさい。』と、そのエピソードが紹介されています。前にお話したペトロの覚悟と、少々矛盾するような話ですが、ペトロは、ヨハネのことが気がかりで、思わず、その人間感情を表白してしまったようです。その結果、主イエスに「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」と諭されます。ヨハネ側からすれば、少々自慢げで、ペトロ側からすれば、少々言い訳したい所でしょうか。しかしここで、やはり記者が強調したかったことは、いずれにせよ、どのような運命であり、「あなたは、わたしに従いなさい」という主のご命令です。其々が、其々の人生を尽くして、主を信頼する確信のもと、感謝と讃美をもって、オンリーワンとして、其々の使命を果たすことです。