2022年5月29日「世を裁くためではなく、世を救うために」 磯部理一郎 牧師

 

2022.5.29 小金井西ノ台教会 昇天第1主日

ヨハネによる福音書講解説教52

説教「世を裁くためにではなく、世を救うために」

聖書 申命記18章15~22節

ヨハネによる福音書12章36b~50節

 

 

聖書

 

12:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 

12:36 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。12:37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。12:40 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず立ち帰らないわたしは彼らをいやさない。」12:41 イザヤはイエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。

12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。12:43 彼らは、神からの誉れよりも人間からの誉れの方を好んだのである。

 

12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が終わりの日にその者を裁く。12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父がわたしの言うべきこと語るべきことをお命じになったからである。12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 

 

説教

はじめに. 「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた」(イザヤ6:10)

ヨハネによる福音書は、12章において、主イエスは神のメシアであることを認めようとはしない「ユダヤの不信仰」を問題にします。主イエスは、いつも「わたしはある/わたしは~である」(エゴー・エイミ)とご自身を名乗り、神ご自身がモーセに啓示されたお名前をそのまま用いて、ご自身をお示しになっておられました。主イエスは、世に遣わされた「神」として、民に永遠の命を与えるために、天から降って来た「命のパン」でありました。ところが、あろうことか、自分たちの救いのために、天から降られたはずの神のメシアである主イエスに対して、律法学者や祭司長などユダヤの宗教的権力者たちは、主イエスを安息日規定の違反者として、また神を名乗る神の冒涜者として、律法に基づいて処刑して抹殺してしまうことを決意したのです。彼らにそれほど激しい怒りと憎悪を齎した原因は、言うまでもなく、一つは「神」ご自身の超越性にあり、もう一つは「神」を測り取ることのできない人間の認識力の限界にありました。神と人との間には、どうしても超えることのできない本質的な違いがあるからです。元々、人間は有限ですから、無限なる神を捉えることは不可能です。したがって、だからこそ、神に対しては「信仰」をもって向かう以外に道はないのですが、人間は自分たちの知恵を神を測る基準として絶対化させたため、その結果として「不信仰」に陥り、「神」を認められず、結局は「神」を人間の世界から抹殺することになってしまったのです。不信仰か、すなわち人間の思いを全てを測る基準として絶対化するか、それとも、只管「信仰」において神を絶対化するか、いずれかの道を選択しなければなりません。

ヨハネは、そうした不信仰の背景について、イザヤの預言に従い「彼らはイエスを信じなかった。12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。『主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。』12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。12:40 『神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされたこうして彼らは目で見ることなく、/心で悟らず立ち帰らないわたしは彼らをいやさない。』12:41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」と、民の不信仰を預言するイザヤの預言をそのように解き明かしています。不信仰の根本原因は、ある意味で、神と人との間にある本質的な問題であり、これはどうしようもないことですが、そもそも有限な被造物である人間に、無限であられる永遠の神を捉えることも、ましてよく分かるように理解することなど、とてもできないことなのです。それゆえ、神を知り、神と出会える唯一残された場は、ただ「神のみことばと啓示を信じる」という信仰において、神を認め受け入れる外にないのです。ですから「神」に対しては「信仰」のみが唯一の救いの道となるのです。それを、ヨハネは、ギリシャ語訳の七十人訳聖書からイザヤ書6章10節の預言を引用して「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」と解き明かしたのではないかと思われます。神の意図と意志で躓かせて不信仰に至らしめた、と神の悪意ゆえに不信仰は生じていると読めそうな表現でありますが、そうした神のご意志に基づいて不信仰は生じた、と考えるのではなくて、むしろ、被造物である人間の本質的な限界の中で、最初から人間が造られる時点から、人間には神に対する「信仰」が大前提とされていたと考えられます。人間とは根源的に神に対しては信仰をもって向き合うように、創造されたとも言えるかも知れません。その信仰に立つことが出来なくなった理由は、人間の罪と堕落による、と考えるべきでありましょう。蛇に誘惑される中で、神のみことばを聴き分けて神を信頼し神に従う選択を放棄してしまった、その結果、人間は自由を神を放棄する選択に用いたため、不信仰に支配され、神に頼らず有限なる自己を全てを測る基準として、自己絶対化してしまいました。このように、極論すれば、人類の根本問題とは、神からの啓示を信じて受け入れるか、それても信仰を拒絶して、自己絶対化の中で全てを測るのか、という点に集約されるのではないでしょうか。

 

1.「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」(43節)

ヨハネは、人間の不信仰の原因について、ヨハネ自身の見解もここで明らかにしています。「12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かったただ会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。12:43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と記しています。恐れ、はばかって、と明記されておりますように、不信仰を生じさせた原因は、神を畏れることを選ばず、人の顔色を選んだことによります。しかもヨハネははっきりと「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」と言っ切っています。「天」に生きる誉れを求めるか、それとも「この世」での誉れを求めて生きるのか、それによって、光と闇の全ての真相は明らかにされるのです。この世での成功を求める以上に、天における成功を喜び求めることです。天における成功とは、人としての破れを知り、罪赦されて、神からの恵みによる祝福を与えられることです。なぜなら、私たちの国籍は天にあるからです。この世で勝利しても、それはこの世限りで終わるものです。天における勝利は、永遠の命に輝き続けます。これを信じ切れるか、ということになります。

ユダヤの宗教権力者たちは、神の掟である律法を用いまた宗教組織を利用して、民を支配し、自分たちの支配権を確立しました。最も悪質な点は、神の名を用いて律法の名のもとに、政治や世俗の物質的利権を独占したことです。彼らの独占と支配欲求は、律法の規定を口実にして、神殿税という名目で金銀を民からをかすめ取り、神殿で奉献される生贄の売り買いにより莫大な収益が得られるように、神の名のもとに宗教共同体として構造化されていたのです。実に悲しいことですが、こうした実態は、わたくしたちの教会も含めまして、いつの世でもまたどんな宗教においても、決して否定し難い現実のように思われます。この世の宗教団体においては、まさに例外なく、常に立身出世による名声や蓄財、そして独占と支配欲求が大きく宗教の本質を歪め汚してしまうのです。宗教団体内の権力闘争や、場合によって教理論争の背景にさえも、こうした私利私欲を隠して独占支配を求め合う争奪戦が見え隠れします。情けないことですが、そうしたほんの僅かな利害や場が欲しくて、驚くほどの勢いで、多くの人々がその奪い合いの群れに集まるのです。「人々を恐れ」「はばかる」のは、自分の小さなしかし手にした利害を失うことを恐れ、隷属したからでした。ヨハネは「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」と言い切って、この世の「宗教」の現実を断罪すると共に、ここで非常に厳しく糾弾しようとしたのではないでしょうか。

そして最も罪深いと言える点は、彼らは、いつもこの独占支配の欲求から、神の名を利用することに止まらず、「神」とその真理を完全に抹殺する図り、実際にそれを断行してしまったことです。マタイ福音書によれば、ヘロデは、王としての支配権を守るために、神のメシアであるイエスさまを抹殺しようとしました。「2:16 ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。」と証言しています。ヘロデばかりか、何と、大祭司がその先頭に立ち、主イエスを十字架刑に処する陰謀を断行してゆきます。宗教を守る第一人者が「神」を殺しているのです。宗教の本質から問われる点は、ここにあります。「神」の服従者の宗教権威は、絶えず、「神殺し」の当事者であり続けるのです。それは「世からの誉れを好んだ」からだ、とヨハネは糾弾したのです。こうした所から見ると、必ずしも目に見える宗教集団が「神」を誠実に信じて守る集団ではない、ということがよく分かりますし、それどころか、神の暗殺者そのものであったことが見えて来ます。まさに主イエスが十字架につけられた場所は、神殿があるエルサレムであり、日々聖書の言葉をもって祈り続けるユダヤ人の中で殺されました。言葉にできないほど、何と悲しく痛ましく、そして絶望的なことなのでしょうか。ここでヨハネの叫びが聞こえて来るようです。わたしたちが信じるのは宗教団体や宗教的権力者では決してない、わたしたちは、徹頭徹尾ただ「神」お独りとその啓示だけを信じるのだ、と叫んでいるようです。

 

2.「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(36節)

だからこそ、主イエスが人々に説いたメッセージは、ただ「信仰」に生きる道の意義でした。35節以下で「12:35 イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに光を信じなさい。』」と教えています。光、即ち主イエスと主イエスの教えのみことばを信じることです。先ほど、宗教的権力者のお話をいたしました。神という名も、ユダヤ教という宗教的枠組み全体をも、全て皆、自分たちの独占と支配欲求を満たすために利用する道具として、ユダヤ教を構造化していたのです。それが、サンヘドリンという権威の仕組みでした。そして多くのユダヤの人々は、この宗教的利害を求めて群れをなし、律法支配のもとに隷属し集うたのです。

しかし、ユダヤの宗教は、そうした権力支配がすべてではありませんでした。決して忘れてはならない人々が聖書の主人公として登場します。それは「罪人」と呼ばれた人々の存在です。罪人とは、律法規定を根拠に、この宗教的利害の共同体から完全に排除され、社会生活や暮らしの場を奪われ、捨てられた人々です。そしてこの罪人と呼ばれる人たちの殆どは、病人であり、障害を余儀なくされた人々であって、強盗や政治犯は僅かであったと考えられます。ほんの僅かな命の隙間を求めて、地を這うように、荒れ野を彷徨う人々でありました。飢えと渇きの中で、罪人たちは、ほんの僅かながら共に助け合い慰め合い、定められたお互いの死を看取り合うばかりの人生でありました。権力欲や支配欲どころか、この時代はまだ生活保護制度も健康保険制度もなく、反対に共同体から排除抹殺されて、今日一日さえも生きることが許されない人々が多くいたようであります。マルコは、主イエスとファリサイ派との問答をこう記します。「2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。2:17 イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マルコ2:16~17)。このように、イエスさまが、みことばを語り福音を告げ、食卓を共に囲んだ人々とは、まさにこうした「罪人」と呼ばれる人々でありました。それでもなお、主イエスは食卓を共に囲み、天国の福音のみことばを語り、生きるべき「光」を彼らに与えられました。その光は、今、ここでから直ちに、罪赦され、神の愛と祝福のうちに永遠の命に生かされる道であります。それは、ただ主のみことばを信じて受け入れることで、今ここで共に与り与えられる希望の光であり、永遠の命であり、神のいつくしみ豊かな慰めでありました。世の誉から排除された人々には、その貴い意味と力が伝わったようです。なぜなら既に彼らは、この世に生きることを奪われていたからでした。

最近、わたくし自身も年を取るようになりまして、体力も気力も失われ、死を少しずつ考えるようになりました。問題は、定められた「死」とどのように向き合い、「終わり」を迎えるか、「人間の幸い」とは何であるのか、とよく考えます。やはり平和で穏やかに過ごす日々こそ幸いだとしみじみ思います。そして何よりも、神さまの愛と恵みに包まれてこの身をお委ねできる「平安」こそ、何と大きな慰めであり安息であろう、と思います。ただ、ここでお慰めの話をしようというのではないのです。そうではなくて、主イエスは、そのみことばを通して、「神」がおられることを知り、「神の法廷」に招かれて立つことの意義を知るのです。そこで、人格の本質となる「愛」を知り、「義」を知り、「命」を知るのです。そこに真実な意味で、本来の尊厳ある人格として立つ場があり、失うこともなく色あせることもない永遠の命に輝く場があるからです。こうした現実は、ただ「信仰」において得られる世界であり、しかし同時に確かに「信仰」において現実に生きる喜びを知ることもできるはずです。なぜなら、死んだら全てが終わる世界はこの世ですが、死んでからいよいよ始まり、永遠の命が実証される世界に生きることができるようになるからです。

 

3.「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」(44節)

12章44節を読みますと、誠にありがたいことですが、主イエスはさらにこう教えます。「12:44 イエスは叫んで、こう言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。12:45 わたしを見る者はわたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。』」(ヨハネ21:44~47)。主イエスは「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」と言われており、単に人間イエスを信じる、或いは単に人間イエスの姿を見、言葉を聞いているのではなくて、それは即ち「わたしを遣わされた方」である父なる神を信じ、神を見、神の言葉を聞いている現実そのものであることを明らかにします。これは、神から遠く離反して、神を信じることに絶望したこの世の人々にとっては、最も意味深い教えです。なぜなら、このみことばにおいてそしてこの方ご自身において、わたくしたちは直接に「神」そのものによる神の審判の法廷に招かれ、立たされることになるからです。今、わたくしたちは、共に聖書に記された主イエスのみことばを聴き、それによって示された主の霊的なお姿を見ていますが、それが直ちにそのまま、ただ主観的に聞いて信じているという行為にとどまるのではなくて、それは信じる信仰を貫いて、「神」そのものに到達し直結している、という教えです。それが、主イエスにおいて、主イエスのみことばにおいて、引き起こされているのです。それを信じて受け入れることで、神の審判の法廷に直ちに引き出され立たされ、神と直面するのです。しかもその法廷は、裁きではなく、救いの法廷となって実現している、というのです。イエスさまは、ご自身のことを「わたしはある(エゴー・エイミ)」という神の名を用いてお示しになりましたが、それはまさに、ご自身において「神」が現臨して、神がご自身をお遣わしになっておられ、ご自身の言葉を通して、神が命の法廷にわたくしたちひとりひとりを立たせて、救いの裁定をなさる、ということになります。この神の法廷では、御子イエス・キリストが、人間の全ての罪を背負い、完全に罪を償い、十字架の死に至るまで従順を貫き、完全な神の義が果たされ、復活という勝利と祝福の命が明らかにされます。まさに神の贖罪の法廷です。その法廷に立ち、その贖罪という愛の裁きを向き合うのです。そしてそこに、神の愛による赦しと恵みを認めますか、感謝と讃美をもって受け入れますか、と問われるのです。そして「はい、主よ、信じます」と答えることで、神の法廷は結審します。大事な点は、信仰においてここまで徹底貫通することです。「12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」という神のご計画のもとに、人々罪は赦され、救いは実現します。

 

4.「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(48節)

突き抜ける、直結する、という言葉を、わたくしはよく用います。それには、どうしてお伝えしたい信仰の意味があるからです。天国とは、この世を超越した、全く切り離された世界です。いわばこの世からは、決して届かないし、見ることもできないし、捉えることもできません。したがってこの世の人々は何とかして、天の世界に触れたい、思いを寄せようと、偶像を造り拝みます。こうした偶像崇拝は、人間の欲求の投影でもありますが、それ以上に、天への憧れや欲求が偶像を造り、さまざまな宗教が生まれます。神さまから造られた人間ですから、いわば、生まれた所を本能的に探し求めているからでしょうか。しかし罪ゆえに堕落し壊れた人間本性は、正しく生まれた場所を思い起せないので、結局は、自分の都合のよいような偶像によってしか、それを求めることはできなくなってしまいました。

ところが、主イエス・キリストは、天から「神」ご自身が人間という形態のもとに地上に降られて、人々にご自身のうちにある「神」を直に啓示しました。それゆえ、人々は主イエスにおいて「神」と出会うのです。そこには、最早、何一つとして媒介すべき偶像は必要としないのです。そしてわたしたちは、主イエスのみことばにおいて直接「神」に出会います。確かに、わたしたちは教会において、儀礼的媒体として、教会の礼拝やサクラメントを通して「神」に与ります。しかし、誤解してはならないのは、サクラメントの本質とは、聖書に記されたキリストの啓示の言葉そのものと同一の本質であり、生けるキリストご自身と連続直結しています。大事なのは、こうしたさまざまな媒体を突き抜けて、「神」と直結する体験に至ります。先ほど、主のみことばにおいて、神の法廷に立たされる、という言い方をいたしましたが、まさにそれこそ、既に現在において、終末の最後の審判を先取りする場なのです。今ここで今、世の息を引き取ろうとする罪人、世に捨てられ、律法によってユダヤ全体から裁かれて排除と罵りの中で、掛け替えのない生涯を終えようとする人々に、主イエスは、いつも彼らの傍らに寄り添い、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と語り、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」と赦しを告知したのです。こうして、罪人は、神と共に死を迎え、しかし神と共に永遠の命に生かされるのです。反対に、宗教権力者たちは、神の名を自我欲求の道具に変質さえてしまったので、そこには真の神はおられず、神の啓示のことばもなく、ただ自らにおいて終わりの裁きを迎えるばかりであります。「12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」と仰せになられる通りであります。

主イエスご自身におけるみことばと信仰において、生ける「神」と直面させられ、神の審判の法廷に立たされ、そこで改めて主イエスの愛と贖罪のみことばが響くのです。「12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」と。