「礼拝説教」カテゴリーアーカイブ

説教:2020年10月11日 動画 「神の愛と恵みへの感謝」 磯部理一郎 牧師

 

マタイによる福音書:6章19節~24節

コリントの信徒への手紙一:6章12~20節

ハイデルベルグ信仰問答:86~87

ハイデルベルク信仰問答講解説教:36

 

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第20主日礼拝

信仰告白「ハイデルベルク信仰問答」問答86~87

感謝について(感謝の生活1)

問86 (司式者)

「私たちは、自分のどんな悲惨からも、自分の一切の功績によらず、キリストの恵みによって、

救い出されているのであれば、なぜ、私たちはなおも善き行いをなすべきなのか。」

答え (会衆)

「それについて(はこうです)。すでにキリストは、ご自身の血をもって

犠牲を払い私たちを贖ってくださったのですから、

次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通して

ご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます

このキリストの恩恵に対して、私たちは自らの全生涯を尽くして神に感謝を言い表し

そうして、神は私たちを通して褒め讃えられるのです。

私たちは自分の信仰が確かであることをその実りから自分で確信し、

神を畏れる敬虔な生活態度をもって、私たちの隣人たちをキリストのもとに勝ち取るのです。」

 

問87 (司式者)

「ならば、自分から進んで感謝しない人々、

また神に向かって回心しようとしないで生活態度に悔い改めない人々は、

天国の祝福にあずかることはできないのか。」

答え (会衆)

「(天国の祝福にあずかることは)断じてできません。なぜなら、聖書が証言するからです。

すなわち『みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、

人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。』」

 

2020.10.11 小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第20主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教36 (問答86~87)

説教「神の愛と恵みへの感謝」

聖書 マタイによる福音書6章19~24節

コリントの信徒への手紙一6章12~20節

 

神が救いをお示しくださる啓示のみことばに導かれ、その救いのみ言葉を聞き分けて正しく認識して、神を信じ受け入れる信仰が生まれます。つまり、神の選びと救いの恵みに対して、それを心から受け入れ、感謝と讃美をもって応えしたい、と願うようになると、そこに信仰は生まれます。そうした応答としての信仰は、まさに神とその恵みに対する心からの感謝と言えます。このように、私どもは、神の救いの恵みや選びに対して、確かな信頼と心から深い感謝をもって、今度は神さまに応えしようと、それにふさわしい生活が与えられます。それが、キリストの身体とされた者の生活であり、身も心も新しくされた教会における信仰生活です。そうした神の救いの恵みに対して、その信仰による応答の生活を通して、わたくしたちの救いは導かれています。

 

聖書のみ言葉で申しますと、前回ご紹介しましたが、ヨハネによる福音書10章のみ言葉から、「10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く羊はその声を知っているのでついて行く。10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」とありますように、キリストである羊飼いは、罪人の名である羊の名を、そのひとりひとりの名を呼んでくださり、みことばをもって、滅びの世から天国へと連れ出してくださるのであります。しかも、常にキリストはわたくしども罪人の先頭に立って、私たちを導かれます。そのキリストの救いの御声を羊たちは皆よく聞き分けて、キリストの導きをいよいよ深く豊かに知るようになります。罪人である羊は、キリストの声をいよいよ正しく聞き分けて、安心と信頼を深めて、ひたすらキリストについてしたがってゆきます。そういうキリストのみ声をいよいよ正しく聞き分ける心が養われ、自分からキリストに着いてゆき従うという新しい生活が養われます。そこに教会における信仰生活が生まれるのです。

使徒言行録2章で言えば、「使徒の教え」を守る教会の交わりの生活です。

 

このように、救いの福音の説教が語られると、説教をより正しくそして深く聞き分けて、豊かに受け入れる信仰が聖霊の賜物として与えられます。聖書のみ言葉をより深くそしてより正しく聞き分けられるようになると、しかも自分勝手に自己中心に聞くのではなく、聖霊の恵みとして聞き分けられるようになると、救いにふさわしい信仰と生活が内側から、心身共に新しく引き起こされ、生き方が大きく変えられるようになるのです。ここに、ハイデルベルク信仰問答の特徴とする「鍵」の役割があります。問答83によりますと、「鍵の務めとは何か。」と問い、「(鍵の務めとは)聖なる福音の説教キリストの戒規です。この一対にある両者(の鍵の務め)を通して、天国は、信仰のある者に開かれ、信仰のない者には鍵をかけて閉ざされます。」と宣言告白しています。つまり、神が、福音の説教を通して、救いの恵みを告知して、一匹一匹の羊の名を呼び、羊をキリストのもとにキリストの十字架と復活のもとに、教会として呼び集めるのです。そして天国に向かうための新しい生活の道が開かれるのです。以前に学びましたハイデルベルク信仰問答65では、「ただ信仰のみゆえに、私たちはキリストのあらゆる善きわざの恩恵にあずかります。そうであれば、そのような信仰はどこから来るのか。」と、信仰の由来を問い直して、さらに答えでは「聖霊は聖なる福音の説教を通して信仰を私たちの心のうちに引き起こしてくださり、(聖靈は)また聖礼典の慣行を通して信仰に確証を与えてくださる」と告白していました。キリストの霊である聖霊は、福音の説教を通して、私たちの心の内に働き、その賜物として信仰と信仰による新しい生活が与えられるのです。そしてそこに教会として呼び集められた羊たちの群れが生まれ、「福音の説教」と共に、今度は「洗礼」や「聖餐」という、もう一つの神の言葉を通して、罪と死のからだは心身共にいよいよ復活という新しい身体に造り変え、天の新しい命として養ってくださることになります。目に見えない神のことばである「福音の説教」と、そして目に見えるもう一つの神のことばである「聖礼典」(洗礼と聖餐)とが、神のことばとして一体となって、わたしたちの名を呼び続け、救いへと導き続けるのです。キリストの霊、神の霊である聖霊は、キリストをわたしたちの教会の頭とし、説教と聖餐というみ言葉を通して、徹底的に働いて、キリストの身体である私たちを永遠の命に養い育ててくださるのであります。こうして、天国の鍵は、み言葉によって完全に開かれるのです。

 

こうして羊は、其々各々で、主の御声を正しく聞き分けること、正しい信仰による認識をもって神とその救いを受け入れて知ること、そして神の愛と恵みに対してふさわしい生活態度を身に着けること、が求められます。つまり、神さまへの応答として、正しい信仰をもって、ふさわしい感謝と讃美をささげる、ということが、教会生活の根本命題、或いは中心課題となります。「戒規」は「福音の説教」と共に天国の鍵として働いて、羊たちを神の救いに相応しい生活に導く役割を担うものです。前回、既に説明しましたが、「戒規」とは、ドイツ語原典から言えばの用語で「悔い改めと贖罪に導くための規則」という意味の、特別な用語が用いられています。英語版ではdisciplineと訳され、「弟子を教え訓練するための規律」という意味の用語で訳されています。内容としては、教会が担う「牧会」を指しています。ハイデルベルク信仰問答は「天国へと導くための愛の規律」とその道筋を明確に規定した、と言えましょう。問答85では、この福音に対する信仰による応答としての、新しい教会生活について、すなわち「戒規」という鍵の務めについて、こう説明します。「どのようにして天国は、キリストの戒規によって、開かれまた閉ざされるのか。」と問い、「このように(です)。キリストの命令にしたがって、天国から閉め出されます。すなわち、キリスト者の名の下にありながら、キリストに反する教えや言動を行い、後に幾度か兄弟としての勧告を受けても、その過ちや悪から離れず、それに対して教会または然るべき職務にある者から戒告を受けても、なおも訓戒に心を留めず改めない人々です。こうした人々は、教会の職務による聖礼典の禁止をもって、キリスト共同体の交わりから閉め出され、また神ご自身によっても、キリストの御国から閉め出されます。しかし、ここで最も重要な点は、真実の改心を誓い表明するのであれば、キリストの身体の肢体(えだ)としてまた教会の一員として、再び受け入れられます。」と答えています。一言で言えば、戒規とは、迷い出てしまう羊のために設けられた、徹底した教会による「愛の配慮」であり、教導のための牧会である、と言ってもよいのです。この内容を正しく理解すれば、「鍵」とは、天国に鍵をかけて締め出す、ということが目的ではなく、反対に、天国へと羊を守り導くための、愛の鍵であります。一見、厳しい表現が用いられていますが、実は、罪と迷いの中にある羊を、教会は責任をもって、「戒規」を用いて、神さまのもとに連れ戻そうとする慈しみに満ちた配慮なのです。救いから零れ落ちないように、愛と責任をもって何とかしよう。そのためには、教会はどう責任をもって対処すべきか、その教会としての愛に基づく責任的配慮に溢れた牧会を、問答85は明確に示唆しています。どうすれば、正しい純粋な信仰による応答を導き出すことができるのか、ハイデルベルク信仰問答は大変真摯にこうした教会の牧会責任と向き合っているように思われます。そして神の愛と恵みに対して、いよいよ誠実にお応えする道は何か、正しく真実で純粋な信仰的応答とは何か、非常に真剣に探り求めるいるようにも思われます。

 

本日の説教の主題は、「感謝」です。「鍵」の務めとして一対には働く「説教と戒規」について、少し丁寧に振り返りながら、お話してまいりました。それには理由があります。実は「鍵の務め」、特に教会における「戒規」の中心に、神の愛と救いの恵みに対して、その最も真実で相応しい応答の形とはいかなる形なのか、という信仰の根本問題があるからであります。ある方は、社会や多くの人に役立つ働きをすることではないか、と考えるでありましょう。或いはまた、非力でも精一杯隣人を愛することだ、と密かに決意なさる方もおられるでありましょう。ひとりひとりの信仰による応答は、とても幅広く奥も深い、また多様であります。それほど神の恵みは豊かであって、その応答の形もまた、幾重にも広がって豊かとされている、ということではないかと思います。ましてや、新しい時代や多様な文化の営みそしてさまざまな社会形態の中で求められる、「福音の証し」は、信仰に基づいて多種多様に展開されて然るべきでありましょう。政治や経済の分野で、或いは医療や福祉の場で、そして教育や研究の働きの中で、多種多様な応答の形をいよいよ豊かに見ることができます。

 

しかしハイデルベルク信仰問答は、その応答の中核と本質を、扇の要として、明確に「神への感謝」である、と告白宣言します。先ず何よりも、どうであれ、真っ先に神の御前に立つこと、そして悔い改めの痛みと、罪の赦しの感謝と讃美を神にささげることに尽きる、というわけです。社会派か福音派か、あれかこれか、並列的な二者対立の図式ではなく、真の社会奉仕はいよいよ福音の本質によって根底から支持され導かれる、という同一本質の根源となる信仰を改めて深堀りにしています。これまで天国の鍵の役目について語ってきたのですが、より重要な問題は、鍵のもつ本来の任務であり、鍵のめざす目的にあります。繰り返し申しますが、権威主義による処分と締め出しが、「鍵」本来の目的ではありません。「鍵」本来の目的は、正しくそして力強く豊かに、わたしたちの心と生活を神に向け直すことにあります。救いに与っているのであれば、残された唯一つの応答は、心から神に感謝し讃美し、神の栄光をあらわすことになります。日々、常にキリストの十字架と復活の恵みを心から受け入れて、より真実でより深い悔い改めに導かれること、すなわち福音の認識をいよいよ確かにすることであります。そうすることで、改めて、神に対して心からより純粋に感謝とより豊かな讃美を献げることが可能となります。大切なのは、確かに救いに与っているという力強い体験と、そしてそれにふさわしく、神を正しく認識する確かな信仰に導かれるのであれば、当然ながら自然と、神の愛と恵みに相応しい成しうる限りの感謝をささげ、永遠に神を喜び讃美するほかにありません。まさに形式を遥かに超えて、本質的で真実な礼拝がそこに生まれます。

 

ハイデルベルク信仰問答86~91は「感謝」という表題のもとに信仰を言い表しています。もう少し丁寧に言い直しますと、救いの条件として善きわざが求められるのではなくて、善きわざは「感謝と讃美」の喜びから生まれ、自然と内側からその実践を求めるようになります。宗教改革で、ルータ派の教える福音の特徴として、「律法と福音」という言い方をします。つまり律法は福音に導く養育係で、律法から福音に至る道筋を示します。ところが、反対に、改革派の教える福音の特徴は、「福音と律法」という言い方をします。福音と律法の順番が逆なのです。つまり、律法から福音に至る、という救いの前提となる道筋は、変わらないのですが、福音には、その「結実」として、新しい命と生活の展開があるというのであります。神の義である救いは「善きわざの実践」や「律法の遵守」を通して自分で獲得することはできません。律法や行いによらず、ただ「キリストの犠牲」のゆえに罪は完全に償われ、その「キリストの恵み」を信仰として認めて受け入れることで救われます。これが、律法から福音への道です。しかし問題はそれで終わりません。さらに重要な問題は、そのキリストによる救いの恵みに対して、私たちはどう心を尽くしてお答えすればよいのか、という課題が残されています。それが、まさにハイデルベルク信仰問答が、信仰による応答において最も大切なこととして、「感謝」であり「讃美」です。感謝としてまた讃美として、神さまのみこころにしたがって生きれるようにしてください、という願いで祈りであります。新たに神のもとで生かされる新生の喜びをどう言い表して、神の栄光を表すかです。神の豊かな救いの中で感謝と喜びにあふれて生きる生き方は何か、それは、やはり福音に支えられて、感謝と喜びの中で、神の御心である律法に生きようとすることではないか、という点です。律法を守ることができないからと言って、神から罪人として裁かれ見捨てられてしまうのではない。なぜなら、私たちは既に、洗礼によって、キリストの血によって罪を清められ、救いの保証を戴いています。そして聖餐にあずかり、神から贖罪と復活の完全保証を戴いています。そこに求められるのは、真摯な悔い改めと救いの感謝であり、神への賛美です。そしてもう一度、神の御心に適う生き方を求める意欲と誠実な志ではないでしょうか。

問86で、「私たちは、自分のどんな悲惨からも、自分の一切の功績によらず、キリストの恵みによって、救い出されているのであれば、なぜ、私たちはなおも善き行いをなすべきなのか。」と問い、なぜ、なおも善きわざが求められるのか、すでに救いは完成したのであれば、もう他に何も必要ではなくなったはずではないか、と問うています。そして答えにおいて、「それについて(はこうです)。すでにキリストは、ご自身の血をもって犠牲を払い私たちを贖ってくださったのですから、次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通してご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます。このキリストの恩恵に対して、私たちは自らの全生涯を尽くして神に感謝を言い表し、そうして、神は私たちを通して褒め讃えられるのです。私たちは自分の信仰が確かであることをその実りから自分で確信し、神を畏れる敬虔な生活態度をもって、私たちの隣人たちをキリストのもとに勝ち取るのです。」と答えます。パウロは、コリントの信徒への手紙一6章19、20節で「6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」と教えていますが、まさに、私たちのためにキリストの血と言う代価が支払われて、キリストは、キリストの霊である聖霊を遣わして私たちの内に宿してくださり、神の神殿として新たに造り変えられるのです。

 

確かに、キリストの十字架の犠牲において、私たちは完全にキリストの血によって贖われました。この贖いは間違いのないことです。しかし神さまの愛と救いのみわざ、それで終わらずに、いよいよ続くというのです。それが、「すでにキリストは、ご自身の血をもって犠牲を払い私たちを贖ってくださった(完了形)のですから、次いでキリストは、ご自身の聖なる霊を通してご自身の生き写しとなる新しい姿に私たちを造り変えてくださいます(現在形)。」という告白です。罪赦されただけではなく、私たちの人間性のすべてを、キリストと全く同じ人間性に造り変えてくださる、というのです。いわば、いよいよキリストの身体としてくださる、というのです。少々古くて堅い教理の言葉で申しますと、「聖化」と言われていたことになります。キリストによる贖いが「義認」であれば、今度はそれに次いで、聖霊による再創造として「聖化」が行われる、というのです。聖化と申しますと、少々神秘的な意味に誤解されてしまいそうですが、神の恵みをいよいよ深く知り、そしていよいよ相応しい感謝と讃美を献げる生活を通して、私たちの心も身体も神のもとにあって造り変えられてゆく、という教えです。何か、特別に儀式的で神秘的な行為を重ねるという意味ではなくて、ただ単純かつ純粋に、神が聖霊を通してくださる「恵み」をより深く知り、より豊かに数え上げて、神を喜び、相応しく感謝と讃美を神に献げるのです。こうして、わたしたちの信仰は堅固に強くされて、私たちは増々神に向けて造り変えられるのです。本当に神の恵みに与り、救われているのであれば、相応しい救いの認識が生まれ、当然ながら、感謝と讃美をささげざるを得なくなります。冒頭で申しましたように、キリストは羊の名を呼んで導くのですが、同時に羊はキリストの声と導きを聞き分け、ついてしたがってゆきます。常に心をより正確にキリストに向け直す、そうした日々の悔い改めと共に、説教と聖餐に与り、キリストの完全に償いと赦し、そして新しい復活の命の保証を戴くのであります。それを確かに受け入れ認めることができれば、そこには無限の感謝と喜びが生まれ、神を喜び、神を讃美する生活がどれほど愛おしくかけがえのないことであるか、実感として感じられるようになるはずです。しかも、そこにとどまらず、その溢れる神への感謝と讃美は、キリスト者としての新しい生活を築く、力強い原動力となるのです。

 

説教:2020年8月16日 動画 「神の民、神の契約共同体に入会する」磯部理一郎 牧師

 

創世記:17章1~8

ヘブライ人への手紙:9章15~22

ハイデルベルク信仰問答講解説教72~74

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第13主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』72~74

洗礼について(2)

 

問72 (司式者)

「では、外側から水による洗い清めは、罪の洗い清めそのものなのか。」

答え (会衆)

「いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊だけが、あらゆる罪から、私たちを洗い清めます。」

 

 

問73 (司式者)

「ではなぜ、聖霊は、洗礼を、『新たに造り変える洗い』また『罪からの洗い清め』と呼ぶのか。」

答え (会衆)

「神がそうお語りになるには、大きな理由があるからです。

すなわち、水を通して、肉体の汚れが取り除かれるように、

キリストの血と霊とをもって、私たちの罪も取り除かれます。

しかし、神は、ただそう教えるだけではなく、だからこそかえって、

この神聖な保証と証印のしるしを通して保証なさるのです。

すなわち、物質的な水によって、私たちが洗い清められるように、

実際に霊魂にある罪からも、私たちは洗い清められるのです。」

 

 

問74 (司式者)

「洗礼は、幼子(おさなご)にも、授けるべきか。」

答え (会衆)

「はい(授けるべきです)。

幼子(おさなご)も、成人と同じように神の契約共同体と神の民のうちに数え入れられています。

幼子(おさなご)に対しても、成人に劣ることなく、

キリストの血における罪からの贖いと、また信仰を引き起こす聖霊は、約束されています。

それゆえ、幼子もまた、契約のしるしである洗礼を通して

キリストの教会のうちにその肢体(えだ)として新たに生まれ信仰なき者とは区別されます。

旧約聖書で割礼が施されるように、新約聖書では、割礼に代わり、洗礼が行われます。」

説教 2020年8月30日 動画 「聖霊と信仰により、主の一つの霊と生命と身体となる」磯部理一郎 牧師

 

マルコによる福音書:10章14~22

コリントの信徒への手紙一:10章14~22

ハイデルベルク信仰問答:75~77

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第13~15主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』75~77(翻訳一部訂正版)

イエス・キリストの聖晩餐について(1)

 

 

問75 (司式者)

「どうしてあなたは、聖晩餐において、キリストによる十字架での唯一つの犠牲奉献の恩恵にあずかり、

またその共同体の交わりの恩恵にあずかる、と確信し断言するのか。」

答え (会衆)

「こう(確信し断言します)。キリストは、わたしとすべての信じる者に、キリストの記念のために、

この裂かれたパンから食べ、この杯から飲め、と命じられそこで約束されました。

それにより明らかなことは、第一に、

キリストの身体が、確かにわたしのために代わって十字架でいけにえとして献げられ砕かれたこと、

キリストの血が、わたしのために代わって流されたことです。

それは、まさにわたしが肉眼で、主のパンがわたしのために砕かれ、

杯がわたしのために分け与えられるのを見るように、確かなことです。

第二に(明らかなことは)、

キリストはご自身から、確かにわたしの魂のために永遠の生命に至るまで、

十字架につけられた身体をもって食べさせ、流された血をもって飲ませてくださることです。

それは、まさにわたしが聖晩餐の奉仕者から、

キリストの身体と血の記念のしるしとして分け与えられたパンと杯とを受けて、

身体として食べて味わうように、それほど確かなことです。」

 

 

問76 (司式者)

「十字架につけられた主キリストの身体を食べ、その流された血を飲むとは、どういうことか。」

答え (会衆)

「ただ単に心からの信仰を通して、キリストのあらゆる苦難と死を受け入れるだけでなく、

むしろそれに加えて、聖霊を通して、キリストの死による罪の赦し永遠の生命あずかり

益々堅く確かに主の祝福された身体に結ばれて一体とされるのです。

聖霊は、キリストの内に住み、同じ時と場を貫いて私たちの内にも住み給うからです。

したがって、主は天におられ、私たちは地にあろうとも、それにもかかわらず、

(一つの霊によって、私たちの手足が一つの身体として支配されるように)

一つの御霊によって、私たちはキリストの肉の肉キリストの骨の骨とされ

永遠に生き、そして統べ治められるのです。」

 

 

問77 (司式者)

「キリストは、ご自身の裂かれたパンから食べさせ、ご自身の杯から飲ませるように、

それほど確かに信じる者のためにご自身の身体を食べさせ血を飲ませてくださいます。

キリストはそれをどこで約束しておられるか。」

答え (会衆)

「聖なる晩餐の制定において、こう記されます。『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「取って食べなさい。」「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。』

またこの約束は、聖パウロによって、繰り返し語られます。『わたしたちが神を讃美する聖餐の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。』

説教:2020年9月6日 動画 「聖餐に与り、復活のいのちに養われる」磯部理一郎 牧師

 

出エジプト記:24章~3~8

ルカによる福音書:24章28~35

ハイデルベルク信仰問答:75~77

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第13~15主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』75~77(翻訳一部訂正版)

イエス・キリストの聖晩餐について(1)

 

問75 (司式者)

「どうしてあなたは、聖晩餐において、キリストによる十字架での唯一つの犠牲奉献の恩恵にあずかり、

またその共同体の交わりの恩恵にあずかる、と確信し断言するのか。」

答え (会衆)

「こう(確信し断言します)。キリストは、わたしとすべての信じる者に、キリストの記念のために、

この裂かれたパンから食べ、この杯から飲め、と命じられそこで約束されました。

それにより明らかなことは、第一に、

キリストの身体が、確かにわたしのために代わって十字架でいけにえとして献げられ砕かれたこと、

キリストの血が、わたしのために代わって流されたことです。

それは、まさにわたしが肉眼で、主のパンがわたしのために砕かれ、

杯がわたしのために分け与えられるのを見るように、確かなことです。

第二に(明らかなことは)、

キリストはご自身から、確かにわたしの魂のために永遠の生命に至るまで、

十字架につけられた身体をもって食べさせ、流された血をもって飲ませてくださることです。

それは、まさにわたしが聖晩餐の奉仕者から、

キリストの身体と血の記念のしるしとして分け与えられたパンと杯とを受けて、

身体として食べて味わうように、それほど確かなことです。」

 

 

問76 (司式者)

「十字架につけられた主キリストの身体を食べ、その流された血を飲むとは、どういうことか。」

答え (会衆)

「ただ単に心からの信仰を通して、キリストのあらゆる苦難と死を受け入れるだけでなく、

むしろそれに加えて、聖霊を通して、キリストの死による罪の赦し永遠の生命あずかり

益々堅く確かに主の祝福された身体に結ばれて一体とされるのです。

聖霊は、キリストの内に住み、同じ時と場を貫いて私たちの内にも住み給うからです。

したがって、主は天におられ、私たちは地にあろうとも、それにもかかわらず、

(一つの霊によって、私たちの手足が一つの身体として支配されるように)

一つの御霊によって、私たちはキリストの肉の肉キリストの骨の骨とされ

永遠に生き、そして統べ治められるのです。」

 

 

問77 (司式者)

「キリストは、ご自身の裂かれたパンから食べさせ、ご自身の杯から飲ませるように、

それほど確かに信じる者のためにご自身の身体を食べさせ血を飲ませてくださいます。

キリストはそれをどこで約束しておられるか。」

答え (会衆)

「聖なる晩餐の制定において、こう記されます。『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「取って食べなさい。」「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。』

またこの約束は、聖パウロによって、繰り返し語られます。『わたしたちが神を讃美する聖餐の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。』

 

説教:2020年9月20日 動画「パンを食べ・ぶどう酒を飲み、主の真の身体に与る」磯部理一郎 牧師

 

ヨハネによる福音書:6章47~59

コリントの信徒への手紙一:11章16~34

ハイデルベルク信仰問答:78~79

 

小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第17主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』78~79

イエス・キリストの聖晩餐について(2)

 

 

問78 (司式者)

「では、キリストの身体と血の本質は、パンとぶどう酒から生じるのか。」

答え (会衆)

「いいえ。洗礼の水が、キリストの血に変化せず、罪それ自体を洗い流さないように、

それは、ただ神による記念と保証のしるしです。

同じように、聖晩餐で聖別されたパンも、キリストの身体それ自体に変化することはありません。

ただ、それは、聖礼典の性質と慣例に基づいて、キリストの身体である、と言われます。」

 

 

問79 (司式者)

「では、なぜキリストは、パンを『わたしの体』と呼び、

杯を『わたしの血、新しい契約の血』である、と言われたのか。

また、なぜ聖パウロは『キリストの体と血にあずかる』と言ったのか。」

答え (会衆)

「重要な理由があり、キリストは言われるのです。

パンとぶどう酒がこの世の生命を養うように、

十字架につけられたキリストの身体と流された血は、

永遠の生命に至らしめる、私たちの魂の、真(まこと)の食べ物と飲み物だからです。

しかしキリストは、ただそう教えられるだけではないのです。

キリストは、この目に見えるしるしと保証を通して、むしろ確約しておられるのです。

私たちが、肉の口でキリストの記念として、この聖なる記念のしるしを受けるとき、

キリストは、聖霊の働きを通して実際にご自身の真の身体と血とに私たちをあずからせるのです。

それはまさに、私たちが、自分自身の人間性において、ありとあらゆる苦難に悶え苦しみ、

完全に罪の償いを果たし尽くしたかのように、それほど確かに

キリストご自身の苦難と従順のすべてが、私たち自身のものとなるのです。」

説教題:「呼び集めてくださるイエスさま」

旧約聖書:出エジプト記 19章1~6 節
新約聖書:マルコによる福音書 3章13~19節
説教題:「呼び集めてくださるイエスさま」
讃美歌(説教後):讃美歌 1-517番
(説教者:青戸宏史牧師)

イエスさまは、父なる神さまのもとから派遣された方であります。派遣・誕生されることによって。神さまの方から「神は我々と共におられる」という事が実現したのです。そのイエスさまがメシア・救い主として語られた最初の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1・14)と言う宣言、言葉でした。

私たちにとって、今の時は「・・今や、恵の時、今こそ、救いの日。」(コリント二6・2)と言われます。私たちは「救いの到来・実現」の中を歩いて、生活しているのであります。

今朝は、最初の主イエスの弟子・最初の教会と言ってもいいでありましょう。そこに起きた「主の招き」、その使命について、私たちもその招き、使命の中にあることを覚えつつ御言葉に聞きたいと思います。

わたしもそうでありますが、皆さんの中にも経験されたことがあるでしょう。多くの人の中にいながら、誰からも声をかけられることなく、一人ぼっち、孤独の中に置かれて寂しさを味わったことがないでしょう。そんな時、誰かが近づき声をかけ、尚、名前を呼ばれ、話しかけられる時の喜びを思い出される事がないでしょか。

イエスさまというお方は、私たちを友として、たえず御自分の方から尋ね求め下さる方であります。

13節.「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。」とあります。

主イエスは「これと思う人々を呼び寄せられた」のであります。ここには選び、主は御自身の自由に基づいて選ばれるかたでありますます。その選びには特別な「御意志」があるのです。「呼び寄せられた」と言う言葉の意味は「欲した」と言うことであります。主イエスの方から「欲して」選び、御自身の下に、側に招かれたのです。今礼拝している私たちも主に招かれた一人ひとりであります。しかもその「招き」、主の下に呼び寄せられたという出来事は、特別の関係を意味する出来事であります。ギリシャ語には「不定過去(アオリスト)時制」というのがあります。「呼び寄せられた:欲して」がその時制が用いられているのです。主イエスによって起きた出来事は、一回限りの永遠の出来事を示しているのです。一度限りの決してし忘れられない「神との契約」、関係を表しているのです。人間の側では、忘れてしまっても、その関係は真実な神様にとっては、永遠の出来事なのです。

14節で「12人を任命した」と訳されていますが、「任命」と言う言葉は、もともとは「作る」と言う意味の言葉です。翻訳している聖書の中には「メイク」と言う言葉をあてはめています。主イエスは「12人を作った」と、直訳するとそのようになりますが、決して12人人間を造り出したと言うことではありません。しかし、まるでそのように「新しい存在」として、12人をお造りになった。そこには、神の創造の働き、活動は活発になされたことが示されています。「任命する」と言う場合、目的なしに、任命することはありません。必ず、特別な使命と、任命された者が、その使命に相応しい、「新しい存在」になることを期待し、目的とするのです。

新しい、主キリストを中心とする「新しい契約に基づく共同体(教会)」の創造と言えるのではないでしょうか。

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると・・」あります。山は聖書では特別な場所で、「聖なる場所」、「祈りの場所」、「神の御心を聞き、示される」場所であります。出エジブト記19章に、モーセも山の上で神と相対して「新しい使命」を受け止めています。6節「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」とあります。主イエスは「新しい共同体」として、12人を選ばれたのですが、その12と言う数を、モーセに語られた「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」の言葉を背景にして考えますと、モーセが率いていた民、神の民、イスラエル、ユダヤの人々は、12部族から自分たちは成り立っていると考えていました。実際に歴史を見ますと、そういう組織を持っていました。

(祖先アブラハムに始まり、イサク、ヤコブ・3代目のヤコブに子どもが12人いて、この12人の子どもを基礎にして、12部族が生まれてきたのであります。)

主イエスは、父なる神の御心によって、示された約束を実現される方であります。預言の成就者、完成者であられ、「古い契約」を完成され「新しい契約」に生きる群れ・共同体を御造りになるのです。それが、主イエスを入れて13人です。しかし、この小さい13人と言う群れから、大きな神のみ業が始まったのです。神の創造の世界、歴史の中に「新しい救いのみわざ」が始まったのです。「新しい神の民」の誕生、形成が始まったのであります。

主の招き、呼び掛けによって人数は記されていませんが、12人だけと言うのではなく、1~3章までの、主イエスの御働きを見る時、かなりの人たちが、主イエスの呼び掛けの声を聞き、御側に集まったに違いありません。(そこでの人々の思いを創造してきてください)

主イエスは、創造の世界、歴史の中に神の国を実現するのに、主イエス御ひとりで働こうとされるのではなく、御自分の助け、目的の達成を求めて、群れを、新しい群れを御造りになったのであります。そこに何人いたのか分かりませんが、所謂私たちが、選別するような仕方ではなく、13節で「これと思う人々」とありますが、もとの言葉の意味は、「何の理由もない」、と言う意味の言葉です。ただ主がこの人を、と「お考えになった」と言う、それだけの理由であります。主がお望みなって12人を選び「使徒」と名づけられたのであります。「使徒」とは「派遣された者」と言う意味であります。主イエスから・神から、神の使いとして派遣される者たちということであります。「その名の中」に、その目的が示されています。使徒は、主イエスのお使いをするのです。

主イエスのお使いをするのに、どうしても身につけなければならないことがありました。

第一が「彼らを自分のそばに置くため」

第二が「派遣して宣教させる」

第三が「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」

第一は、「主イエスのそばに置いて頂く」ことであります。 主イエスと共に生活することによって、主イエスを一層知るのです。私たちにとって、すべてのキリスト者にとって最も大事なことは、主イエスがそばにいてくださるということであります。呼び集めてくだることによって、主イエスに結ばれて、委ねて歩むことも出来るのです。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・・」(マタイ11章28節参照)

人生に行き詰まった時、主イエスがそばにいてくださるということは大きな、支え、力、励まし・・・新しく歩み始めることが出きる者となるのです。

第二は「派遣して宣教させる」と、言うことであります。

主イエスの側において頂き、使徒として「御言葉を宣べ伝える」ために出て行くのです。

第三が「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」

わたしが力を持って悪霊を追い出すのではなく、主イエスが生きて働いておられることを証しするのです。

12人の使徒に名前をお付けになりました。その中には、よく知っている有名な人、無名なリストだけの人、あだ名をつけられた人、性格で呼ばれた人・・・、そして、あのイスカリオテのユダについて、「このユダがイエスを裏切ったのである。」と、記しています。

「イス」・・は「イーシュ」で・・へブル語の意味は「男」と言うことで、日本的に言えば「匕首(あいくち)を持っている男」と言うことであります。

「裏切った」とは「引き渡した」と言うことです。しかも、主イエスの受難をと関係する言葉であります。

ユダは、使徒として選ばれ、使徒としての使命に生きたのですが、結果として「永遠の選び」が、最悪の事実を招いたのであります。

神の招き、その招きに応えて、常に主の下、側にいることを求められるのです。

(今回初めて、説教を載せてみました。これからも努力いたします。宜しく。)