「礼拝説教」カテゴリーアーカイブ

2021年5月30日「聖なる公同のキリスト教会と聖徒の交わり」 磯部理一郎 牧師

 

2021.5.30.小金井西ノ台教会 聖霊降臨第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答53~56

「第二部 人間の救いについて ―使徒信条―

聖霊なる神について⑵ ―公同教会の信仰― 」

(修正版)

 

問53 (司式者)

「『聖霊』について、あなたは何を信じるか。」

答え (会衆)

「先ず、聖霊は、御父と御子と共に、永遠の同一本質なる神です。

次に、聖霊はまた、私たちのために与えられており、

わたしのために、真(まこと)の信仰を通して、キリストにあずからせ、

キリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださり、

わたしを慰め、わたしの傍らに永遠(とこしえ)までも共にいてくださるのです。」

 

問54 (司式者)

「『聖なる公同のキリスト教会』について、あなたは何を信じるか。」

答え (会衆)

「神の御子は、全人類からご自身のために選び抜かれた民の共同体を、永遠の生命に向けて、

御子のみ霊とみ言葉を通して、真の信仰の一致において、世の初めから終わりに至るまで、

召し集め、創設し、そして守り抜かれます。

しかも、わたしは、その生命(いのち)あふれる共同体の一肢体(ひとえだ)であり、

永遠に(その肢体として)生き続けます。」

 

2021.5. 30 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第2主日礼拝

『ハイデルベルク信仰問答』問答54~56 聖霊なる神について(2)

ハイデルベルク信仰問答講解説教69

説教 「聖なる公同のキリスト教会と聖徒の交わり」

聖書 コリントの信徒への手紙一12章1~31節

エフェソの信徒への手紙4章1~16節

 

はじめに. 三位一体の神のホモウシオス信仰から、ホモウシオスの聖霊に与る

本日をもちまして、ハイデルベルク信仰問答の解き明かしは終了いたします。問答の取り扱いの配置が「教会暦」を考慮した配置となりましたので、「聖霊なる神」についての項目は「ペンテコステ」礼拝に当てられておりました。ハイデルベルク信仰問答の神学的特徴は、父と子と聖霊という三位一体の神を「使徒信条」に基づいて告白する、という構成になっています。しかもその使徒信条による三位一体の神をニケア信条によって解釈して解き明かす、という神学方法を用います。いわば、使徒信条をニケア信条によって補完し解釈するという方法で、ハイデルベルク信仰問答は「三位一体の神」を確保し継承しようとしている、ということになるのではないか、と考えられます。本日は、その聖霊の働きについて、最後の解き明かしとなります。先週の問答53に引き続きまして、本日は問答54~56の告白により、「聖霊なる神」について学びます。問答53では、まず「聖霊の本質」について、「聖霊は御父と御子と共に永遠の同一本質なる神です」と告白して、ニケア信条にの「ホモウシオス」に基づいて、使徒信条の「聖霊なる神」が解き明かされていたことを確認したところです。教会が「聖霊」を語るとき、否、「神」そのものを語るとき、どうしても教会が前提にすべき教理は、ニケア信条の「ホモウシオス」、すなわち父・子・聖霊の3位格(ペルソナまたプロソーポン)が共に同一本質である(ホモウシオス)、という教理です。なぜならキリスト教は教理的な意味で、まさにこの一点に、そのすべての存立がかかっているからです。それなのに、日本の教会ではまだ十分に成熟した信仰認識に至らないまま、教理については未成熟のままに、いまだに情緒的で感傷的な人情を基盤にしており、教会は神の教会という次元から人間集団ものとして誤解されてしまうのです。教会について、決定的に大事なのは、この三位一体の神にしっかり立つ信仰にあって、そこで、教会ははじめて教会として立つことができるのです。そして聖霊なる神は、この三位一体の神として、まさに三一体の神を背負って、私たちのもとに降臨し私たちのうちに宿り、私たちを神の教会として造り変えてくださるのであります。

宗教改革者たちは、特にハイデルベルク信仰問答は、カトリック教会に対して教会改革を進める中で、まず、徹底的に立つべき場として、ニケア信条の上に立って教会改革を断行した、と言えます。これは、宗教改革のもう一つの重大な特徴として、とても大切なことであります。宗教改革が「聖書」に基づいて断行されたことは、よく言われることですが、しかしそれに勝るとも劣らず、東西分裂前の古カトリック教会の生み出した基本信条に基づいて進められていることは、忘れてはならない、とても重要な意味を持っています。ローマで成立し長い時間をかけて西方教会で熟成された使徒信条さえも、ニケア信条によって補完解釈されてこそ、いよいよその真価を発揮することが可能となるのです。それを見事に実証したのが、宗教改革時代に生み出された数多くの信仰告白です。宗教改革は、必ずしも形式的な使徒の継承制度をもちませんが、東西を超えて分裂以前の古カトリック教会に堅く立つことを通して、教会信仰の普遍性を担保している、と見なすこともできるのではないでしょうか。その意味で、ハイデルベルク信仰問答は、聖霊の本質的な賜物とは何かを問い直しつつ、改めて教会の公同性または普遍性を確保している、と言ってもよいのではないでしょうか。

ローマ教会は、ローマ教皇制度に基づいて、わざわざ自分たちの教会を「ローマ・カトリック」という用語を用いて、その本質を言い表しています。聖公会も、その名の示す通り「アングロ・カトリック」と自ら呼んで、教会としての本質を表しました。ニケア信条や使徒信条は「教会」を「唯一の、聖なる、公同普遍なる、使徒による(una, sancta, catholica, apostolica)」教会と呼び、定義しています。ニケア信条は、まず「三位一体の神」を「ホモウシオス」(父子霊は同一本質である)において、教会の「普遍性または公同性」(catholicity)を確保します。第二に「ホモウシオス」(神と同一本質である)において、三位一体の神としての「聖霊の神」を確保しつつ、その聖霊なる神の降臨において、使徒たちが福音の証言者として立てられ、世界宣教へと遣わされたことを言い表します。つまりホモウシオスの聖霊の神に基づて「使徒の」(apostoica)教会は、その普遍性と公同性(catholica)を確保することができるのであります。この三位一体の神の教理と使徒的教会はさらに徹底して、三位一体の神の名による「洗礼執行」の普遍性にまで及びます。なぜなら使徒に与えられた世界宣教の中心は、三位一体の神の名における「洗礼」執行を通してホモウシオスの「聖霊」に与らせる、という使命にあるからです。「使徒による」「使徒の」とは、その本質において、ホモウシオスの聖霊に共に与る、という聖霊のもとに、教会の普遍性は確保されていることになります。使徒による教会の継承という点で、本質的にさらに重要な点は、「聖霊」の賜物を教会の本質として継承する、という点にあります。ローマ教会や聖公会を批判するために、形式と本質を分離分解してその歴史的継承の意義を否定する、というのは、決してよいやり方ではないと思いますが、ただ「ホモウシオスの聖霊に与る」という本質を失えば、教会の全ては空洞化してしまいます。その意味で、私たちひとりひとりが教会の普遍的価値を受け継ぐには、聖霊の賜物を本質的に受け継ぐのでなければならないと思うのです。洗礼を通してホモウシオスの聖霊に与ることは、ホモウシオスの御子に与ることであり、ついにはホモウシオスの三位一体の神に与ることを意味するからです。

 

1.キリストにあずかる

少々前後しますが、問答54は後に譲り、まずは問答55について、先に触れておきたいと思います。問答55は「『聖徒の交わり』について、あなたは何と理解するか。」と問いまして、「まず、信徒は、その誰もが皆、主キリストの肢体(えだ)としてキリストにあずかり、そのあらゆる富と共同体の恵みにあずかります。次に、いかなる者も、その賜物を、ほかの肢体(えだ)の救いや利益に役立てるように、自から進み喜びをもって心がけるべきであり、自分にはその責任があることを弁え知るべきです。」と告白します。そこでまず第一に、聖霊の決定的な恵みの働きとして、聖霊は、主キリストご自身にあずからせ、キリストの身体の肢体として、私たちを造り変えてくださるのだ、と告白します。前回学びました問答53では、冒頭で申しましたように、聖霊をホモウシオスの神として明記した上で、次いで聖霊の働きについて「わたしのために、真の信仰を通して、キリストにあずからせキリストのあらゆる恩恵を受けさせてくださり、わたしの傍らに永遠に共にいてくださいます」と告白していました。先週の問答53の聖霊の本質と働きを受けて、本日の問答55でも「まず、信徒は、その誰もが皆主キリストの肢体(えだ)としてキリストにあずかりそのあらゆる富と共同体の恵みにあずかります。」と告白しています。つまり聖霊の働きの中核は何か、という点で言えば、問答53では「わたしのために、真の信仰を通して、キリストにあずからせる」こと、そして問答55では「信徒は、その誰もが皆、主キリストの肢体(えだ)としてキリストにあずかる」ことであります。

まずここでしっかり押さえておきたいことは、この問答54の「キリストにあずかる」という意味です。ドイツ語原典では、前置詞anと動詞habenで表されています。単純に言えば、キリストと隙間なく密着結合している、という意味になります。英訳ではtake a part inという表現で、キリストの一部となって参与している、ということになります。問答53では、聖霊はただキリストに密着結合させるだけではなく、常にそして永遠に「わたしの傍らに共にいてくださる」と告白して、聖霊もまたキリストと共に、私たちと永遠に密着結合している、と告白しています。先ほど、神のホモウシオス、つまり父と子と聖霊の三位格は常にそして永遠に同一本質であり一体である、というニケア信条の原点について触れましたが、ここでもまた同じように、ただ単にキリストとの密着結合を言うのではなくて、聖霊も私たちと共に一体になって、しかも常に永遠に密着結合して、しかも聖霊は永遠に私たちをキリストに密着結合させている、ということになります。言い換えれば、聖霊みずからが私たちと密着結合することで、私たちを聖霊と同一本質であるキリストもまた密着結合させてくださる、ということになるのではないでしょうか。そうでなければ、すなわち聖霊が宿り、私たちに与えられて、永遠に私たちと密着結合することで、聖霊と同一本質であるキリストご自身に密着結合させてくださる、そういうことではないでしょうか。そうでなければ、キリストと私たちとは一体になることはできないのです。この聖霊の密着結合の働きにより、キリストの身体としても一体の身体として密着結合することが可能となったのです。つまり私たちに宿り内住する聖霊の働きにより、私たちはキリストの身体と一体に成り切った存在として、このわたしはあり続けるのであります。それが、キリストに与らせる、ということではないでしょうか。しかもその上で、生命体としてのキリストの身体をさらに生命にあふれる命の共同体の一員として、このわたしは有り続けると捉えます。

 

2.神の民の共同体としての教会

キリストの身体である「教会」と、またそれを共有する「信徒」を意味する用語として、ドイツ語ではKircheとGemeinde, 英語ではChurchとCommunityなどがあるようです。問答54のドイツ語原典ではein auserwählte Gemeine (神によって選び抜かれた一つの共同体の民)と表現されています。Gemeineは、Gemeindeを意味する古い方言です。また問答55でもGemeinschaft(家族体、共同社会)という字が用いらます。こうした用語の背景には、ルターの新しい教会論が反映されているようにも思われます。特にルターの「万民祭司」という考え方を意識した表現になっているのかも知れません。ここで問題になるのは、形式的な意味から制度的に教会全体を取り扱おうとする立場と、もう一つの新しい立場、即ち教会を共有し共に教会を構成する「神の民」としての信仰共同体の一員である「信徒」や「教会員」の立場から見る教会観です。宗教改革以前には、この教会を構成する信徒という概念はまだ確立していなかったからです。教会を担い構成する主体は信徒ではなくて、監督を中心とする聖職者たちのものだったからです。ホモウシオスの神である聖霊に与る人々は、教会の構成員として定義されていなかったからです。同じ神の本質を信仰において共有するキリストの共同体として、そして生けるキリストの身体の肢体として、改めてひとりひとりのレベルで「信徒」とは何か、そのひとりひとりの「信徒の本質」を、神の恵みの光のもとで、見直して、確保するのです。その時、聖霊の力ある働きとして決定的な意味を持つ働きが、「主キリストに与らせる」ということです。問答は、わざわざ「主キリストに」an dem Herrn Chiristoと表記して、キリストを「主」とするキリストの共同体を構成する一員、ということになります。それは、聖霊の恵み豊かな働きのもとで、説教を聞き、洗礼を受け、聖餐に与る、というキリストの制定された神の力あるみことばを通して、信仰において、実現します。誰もが皆、キリストの身体の肢体とされているのです。そこではさらに、そのキリストの身体の一肢体となった、その民ひとりひとりの本質やその在り方が根源から見直されるのです。皆それぞれが、例外なく、ホモウシオスの聖霊を宿すことにより、キリストの身体と永遠に結合された完全な一生命体であって、その命を永遠に共有し続けている。それが教会共同体の根源的本質なのだ、と言っているわけです。言い換えれば、聖霊の恵みにおいて、神の御子と「同一の血肉」に与り、その同じ身体を共有する神の家族であります。したがって、その兄弟姉妹に当たる教会員同士については「いかなる者も、その賜物をほかの肢体(えだ)の救いや利益に役立てるように、自から進み喜びをもって心がけるべきであり、自分にはその責任があることを弁え知るべきです。」という新しい愛の掟が、その互いに役立つよう仕え合う、という信仰的自覚に基づいて、新しい教会における倫理が生じて来きます。これを可能にし、また実現してくださるお方こそ、「聖霊なる神」であり、聖霊による力ある働きとみことばによるのであります。

 

3.聖霊の働きと教会の形成とその生命の営み

しかし聖霊の働きについて、さらに重要な点は、どのようにして、わたしたちはキリストの身体にあずかり、キリストの身体の一肢体(えだ)となることができるのか、その聖霊の恵みとしての「実際の働き」が大事ではないでしょうか。それが問答54に告白されます。問答54はまず「『聖なる公同のキリスト教会』について、あなたは何を信じるか。」と、教会とは何か、その本質を問いまして、「神の御子は、全人類からご自身のために選び抜かれた民の共同体を永遠の生命に向けて御子のみ霊とみ言葉を通して真の信仰の一致において世の初めから終わりに至るまで召し集め創設し、そして守り抜かれます。しかも、わたしは、その生命(いのち)あふれる共同体の一肢体(ひとえだ)であり永遠に(その肢体として)生き続けます。」と答えます。本日の問答54の訳は、昨年お配りした訳を改めて直訳に近い形に修正しましたが、言い表わす意味は全く変わりません。

まず「聖徒の交わり」について一言申しますと、使徒信条では「(われは)聖霊を信ず、聖なる公同の教会を、聖徒の交わりを(Credo in Spiritum Sanctum, sanctam Ecclesiam catholicam, sanctorum communionem)。」となります。「聖徒」と呼ばれるのは、聖霊を信じ、その聖なる公同の教会を信じるゆえに、「聖」とされた者たちと考えられます。聖霊を信ずることも、聖霊によって導かれた聖なる公同教会を信ずることもなければ、そこには「聖徒」は存在しないのではないでしょうか。したがって人間同士の交わりを指すものではないようです。むしろ、キリストの身体に共に与り共有するというキリストの身体の肢体としての交わりであり、また聖霊を信じ聖霊を共に宿し聖霊を共有する交わりという意味であり、したがって、私たちが聖なのではなくて、共に与り共有する聖霊とキリストの身体である教会が「聖」なのであります。私たちは、あくまでも教会につながることで、「聖なる交わり」にあずかる者なのです。

もう一つ重要な点は「神によって選び抜かれた」auserwählteということです。問答の言葉で言えば「全人類から選び抜かれた」民の共同体である、ということが明記されます。つまり人間の意志や求めには全く基づいていないのです。私たちは自分で教会を選ぶ、と考えがちですが、それでは自分のことは見てはいても、神の恵みとして聖霊がどのように働いたか、「聖霊の働き」を見ていないことになってしまいます。聖霊なる神が、わたしのために働いてくださる聖霊の恵みは見失われます。聖霊が主導する働きの中でしっかりと聖霊の恵みを認めて受け入れる、ということを通して、私たちははじめて、神は今どのように自分をお選びになろうとしておれるのか、神の御心とその選びに、自分の心の目を向けることができます。そこで本当の神の愛と恵みと力を知るのです。生まれて来るときには、私たちは自分の親や国籍を選ぶことはできませんでした。それを認め受け入れる所から、生きるという旅立ちが始まるのです。教会に招かれ選ばれるのも、自分があれこれをしたいと求める自分の欲求の中で選ぶという意識を捨てて、今、神がどのような意味と目的でわたしをこの教会に招きお選びになられたのか、神さまのご意志とご計画を日々深く思い続け、その深い意義に気付き、そこに導かれる愛と力を認め受け入れられるようになる、ということこそ、信仰の生活です。自我欲求に隷従して、教会をえり好みして渡り歩くようでは、本当の意味で神の御心も信仰の本質も見えないまま一生過ぎ去ります。自分は自由に自覚的に選んで生きている、とうぬぼれてみても、結局は全く神から離れた所で、この世を生きているにすぎないのです。このことにできるだけ早く気付けることが大事です。まず神を知り、神の愛や恵みを知る。神の御心やご意志を知るには、どうしても、自我欲求から解放されて、こうした神のご主権に基づいた信仰に立つ必要があるのです。ルターの言うように、ただひたすらにキリストのみを主とする自由を得るのです。

問答54は「神の御子は、全人類からご自身のために選び抜かれた民の共同体を、永遠の生命に向けて御子のみ霊とみ言葉を通して真の信仰の一致において世の初めから終わりに至るまで、召し集め、創設し、そして守り抜かれます。」と告白します。意味深い点は、「御子のみ霊とみ言葉を通して真の信仰の一致において世の初めから終わりに至るまで」と告白して、三つの条件のもとにある「神の選び」を受け入れています。神から徹底的に招かれ選び抜かれる中で、教会員として「キリストにあずかる」ことを告白しています。

第一の限定は「御子の御霊とみ言葉を通して」です。自分の意志や欲求ではなくて、純粋に御子の御霊に導かれて、御子のみ言葉に聴き従うことが求められます。ここでは近代現代の言う「自我の原理」は通用しません。自分のうちに聖霊の主権を認め、さらに主イエスの教えに聴き従うのです。第二の制約は「真の信仰の一致において」初めてキリストに与ることができる、と宣言します。日本のプロテスタント教会の致命傷は、この真の信仰の継承と一致が曖昧になり失われて、信仰の内容が空洞化してしまう点にあります。しかもその空洞化した所に人間の欲求が入り込んで、信仰が神のものから人間のものにすり替わってしまうのです。一言で言えば、信仰告白や信条のもつ重要な意味と役割が認識できないまま、外見は教会に見えて、実態は教会とはおよそ似て非なるものです。そうした教会や牧師が余りにも多く、一見した所、どちらが真の信仰の上に立つ教会であるかどうか、よく分からないのです。神学や信条を自我欲求の道具に利用して、権力支配を求めることは歴史が示す通りであります。その結果、この世の問題や自我欲求に振り回されて、教会を貶めてしまうのです。牧師でさえも、きちんとした信仰をもたないと、生涯、教会をつまみ食いをして歩き回ることになります。これは、個人を責めるよりも、日本のプロテスタント教会の歴史的貧困によるものです。第三の決定的な制約は「世の初めから終わりまで」とありますように、教会の所属は「永遠の選びによる」ということです。言い換えれば、今ここから、そのまま「永遠の選び」に直結するのです。言い換えれば、神の選びは永遠不動である、という神の完全な恵みを表白しています。ここにしっかり立つのです。あちこちの教会をつまみ食いしえり好みして歩き回っているうちに、教会を通して行われる「神の永遠の選び」を失ってしまうことになりかねないのです。そして結局、自分の手元の残るはただ自我欲求の信仰破綻であります。日本のプロテスタント教会の「危うさ」は、常にここにあります。十分注意したい所でありましょう。聖霊を宿し、内に住む聖霊の導きに生き、みことばに聴き従いながら生きる、それが地上を彷徨う教会員の命の本質を決定づけるのです。

 

4.聖霊を受ける

さらに聖霊の力ある働き、聖霊の人知を超えた働きとして、注目すべきことは、問答54にありましたように「御子のみ霊とみ言葉を通して」教会に選ばれることです。先ほどは「御霊に導かれて」、「み言葉に聴き従うことを通して選び抜かれる」という限定条件について触れました。それをさらに踏み込んで申しますと、聖霊に「導かれる」ということ、しかもみことばに「聞き従う」ことができる、ということの実態、実質を改めて考えてみます。信仰と教会における生活の主導権はすべて「聖霊」にあります。「自分」や「自分の考え」ではありません。聖霊を認め信じるとは、聖霊の働きを信じてよく知り受け入れ従う、ということです。聖書の学者になることと、真の信仰の継承と一致において永遠に教会に選ばれることとは、本質的に異なります。前者の本質は自分頼みであり、その主導権は人間にあります。後者の本質は神頼みでありその主導権は神にあります。つまり、御子のみことばのうちに、常に神のご主権を認めて聴き従う、ということになります。聖霊の働きの一番大きな恵みと力、私たちの魂のうちに、みことばにおいて神のご主権をお立てくださり、みことばに聴き従えるように造り変えてくださることにあります。

そうして次に見えて来る重要なこと、それが「真の信仰における一致」であります。問題は、真の信仰における「一致」をどのように考え、地上の教会において確保するか、ということです。この一致を教会として担保する仕組みが教会制度です。教理の決定的権限は、即ち鍵の権能は「教皇」にあり、その一致は教皇が保証する制度が教皇制度です。同じように監督が信仰の一致を保証する監督制度、段階的な会議に基づいて長老会議が信仰の一致を保証する長老制度、そして会衆ひとりひとりが合議により一致を保証する会衆制度、しかし会衆制度でも場合によっては一致した信仰告白を確保継承しないこともよくあるようです。会員ひとりひとりの自由に任せてしまうのです。そして信仰の一致を決定しない無制度の集まりもあります。どこまで「教会」という定義が可能なのか、判然としないのです。宗教改革以降、同じプロテスタント教会でも、聖公会やメソジスト教会などは監督制度を維持し、ルターは領邦教会制度を導入し、カルヴァンは長老制度を新たに導入しました。バプテスト教会や組合教会では会衆制度を導入しました。教会を厳密に定義する学者によっては、Kirche(教会),Gruppe(グループ), Sekte(派)と類別します。

ハイデルベルク信仰問答では「教会」Kircheという字の他に、「共同体」Gemeine (英訳ではa chosen communion)という字を使って、ルターの「万民祭司」の考え方を反映しようとしたのではないか、と申しました。ルターは教会を新たに「万民祭司」による共同体として神学的に説明し改革しようとしました。誤解を恐れつつも、それは短絡した意味で、教会制度による制度的一致を否定して、平等民主主義や個人の信仰の自由に任せることを求めたわけではありません。ましてや受洗の有無を超えて、信仰の有無の境を超えて平等民主主義を教会に取り込むことを教会の改革としたわけではありません。むしろその反対に、教会とその民を、よりその「本質」において捉え直し説明しようとした、と言えます。むしろ「信仰の本質」を厳粛に覚えてより徹底することで、教会とその民である信徒ひとりひとりの意義を明らかにした、というべきではないかと思います。父なる神から聖霊なる神が地上に降り、ひとりひとりのうちに宿り、信徒のうちに深く内住して、そうした内面の出来事に基づいて「キリストの福音」を、皆其々が、証言し自覚的に感謝と喜びをもって自分の救い主となられた主キリストを告白した、その結果、真の信仰の一致という形で信仰告白が生まれた。こうして聖霊に導かれた信仰の一致において、キリストの救いの証言告白は実現した、と思われます。本質的に人間の予想を超えた聖霊の神の働きにおける一致の結果として生じた「真の信仰の一致」でありました。

使徒言行録によれば、聖霊降臨の様子をこう伝えています。「2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ一人一人の上にとどまった。2:4 すると一同は聖霊に満たされ“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:1~4)と記したうえで、ペトロが12使徒を代表して説教を始めます。「2:14 するとペトロ十一人と共に立って声を張り上げ話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。』」(使徒2:14)と言って、一致した信仰証言として、メシア(キリスト)の十字架と復活を説教したことが記されます。聖書の中に、原始教会の「ケリュグマ」として、随所に信仰告白が残されています(その典型はパウロのケリュグマでⅠコリント15:3b~5)。こうした聖書証言からは、信仰告白を廃棄することも、教皇が信仰を決定をする仕組みも、どちらも決して出て来ないはずです。後の教会の形成発展の結果として「教皇」を中心とする制度の登場は、教会の教理発展としてニューマンは理解できたようですが、聖書証言からは、直接に教皇制度を主張することは不可能です。どちらかと言えば、聖書は「2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ一人一人の上にとどまった。2:4 すると一同聖霊に満たされ“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とありますように、聖霊は、ひとりひとりの上に降り、ひとりひとりに与えられ、そしてひとりひとりのうちにとどまり、その聖霊に満たされることにより、人々はその聖霊によって語り出した、と理解できます。であれば、教皇が垂直的に支配する一致というよりも、本質的に会衆における「聖霊による一致」ではないでしょうか。パウロは「4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、4:3 平和のきずなで結ばれて霊による一致を保つように努めなさい。4:4 体は一つ霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。4:5 主は一人信仰は一つ洗礼は一つ、4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働きすべてのものの内におられます。」(エフェソ4:1~5)と告げます。こうしたすべてのものの内に力強く働く神、言わばホモウシオス(同一本質)の三位一体の神が、ホモウシオスの聖霊において、「神の主権」をひとりひとりの内に打ち立て、そのご支配のもとで信仰と讃美の一致が生まれているのではないでしょうか。このホモウシオスの聖霊は、洗礼というサクラメントを通してキリストの身体である教会に結び合わせ、教会員ひとりひとりを「聖徒の交わり」の中へと招き入れ、同じ一つのキリストの身体その肢体(えだ)として一つの信仰における一致へと導くのです。そう考えると、聖霊は一つであるゆえに、聖霊を宿した万民における信仰の一致を生み出し、キリストの身体における一致として、キリストの共同体を地上に明らかにしているのではないでしょうか。ルターの万民祭司の根拠は、このように「御子のみ霊とみ言葉を通して」実現される交わりの普遍的一体性であり、その支配のもとで生まれた一致であり、こうして神の民として同じ本質を共有する、そこに信徒の普遍的一致を見出したはずです。ですからキリストの身体における霊と言葉によるご支配のもと、万民が皆、同じ聖霊によって福音の証言者として立てられ、聖霊によって福音証言を司る祭司として任じられることになります。したがってそれはあくまでも、一つの聖霊と一つのみ言葉を共有することで実現する、一つの身体となる働きです。聖霊に恵まれ聖霊を宿すのであれば、当然ながら信仰の一致は明らかであり、キリストの肢体としての自覚も生じるはずです。「いかなる者も、その賜物をほかの肢体(えだ)の救いや利益に役立てるように、自から進み喜びをもって心がけるべきであり、自分にはその責任があることを弁え知るべきです。」と告白される通りです。反対に、自分の自我欲求のために教会に心配をかけるようでは誠に残念です。

 

5.罪の赦し

最後に、問答56は「『罪の赦し』について、あなたは何を信じるか。」と問い、「キリストの贖罪のゆえにわたしの全罪過にも、またわたしが全生涯を尽くして苦闘すべき罪の本質にも神は二度と心に留めることはありません。それどころか、わたしに対して、神はキリストの義憐れみによりお与えくださり、二度と裁きを受けることのないようにしてくださるのです。」と告白します。最後に、聖霊の最も重要な働きは、罪を告げ知らせると同時に、御子のみ言葉を通して「罪の赦し」を宣言して与えることにあります。「罪の赦し」において最も重要な働きを担うのは、聖霊であり、しかもみことばによる「罪の赦し」の宣言です。福音の説教が「福音」である根拠は、まさに唯一「みことば」のみが、全世界と全会衆に向かって、あなたの罪は赦された、と宣言し、罪の赦しを明らかにすることができるからです。そういう意味で、赦しの体験は決して個人的で主観的な体験ではなく、聖霊による教会の交わりに基礎を置くものであります。御子のみ霊とみ言葉によって、共同体全体が一つとなって、世界に対して、あなたの罪は赦された、と宣言するからです。ルターは最後まで告解と罪の赦しの宣言に深くこだわり続けた意味も、ここにあったと思われます。いかに、聖霊による聖徒の交わりが豊かで力強い福音であったを知ることができます。

2021年5月23日「われは、聖霊なる神を信ず」 磯部理一郎 牧師

2021.5.23 小金井西ノ台教会 聖霊降臨日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答53

聖霊なる神について(1)

 

 

問53 (司式者)

「『聖霊』について、あなたは何を信じるか。」

答え (会衆)

「先ず、聖霊は、御父と御子と共に、永遠の同一本質なる神です。

次に、聖霊はまた、私たちのために与えられており、

わたしのために、真(まこと)の信仰を通して、キリストにあずからせ、

キリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださり、

わたしを慰め、わたしの傍らに永遠(とこしえ)までも共にいてくださるのです。」

 

2021. 5. 23 小金井西ノ台教会 聖霊降臨日礼拝

ハイデルベルク信仰問答53 「聖霊なる神について」(1)

ハイデルベルク信仰問答講解説教68

説教 「われは、聖霊なる神を信ず」

聖書 ヨハネによる福音書14章15~17節

コリントの信徒への手紙一2章1~16節

 

はじめに. 聖霊のご降臨をお迎えして、新しい救いの段階に入る

本日は、主イエスが天の父のみもとへお帰りなられ、聖霊なる神さまを別の助け主として遣わされた、「聖霊降臨日」です。教会はこの新しい救いの段階をお迎えしたことを大きな喜びとして教会暦に覚え、また記念して「聖霊降臨日」礼拝、またはユダヤの暦で申しますと「ペンテコステ(五旬節)」となります。イエスさまは、四十日に渡り、「栄光の復活のお身体」をもって、弟子たちと寝食を共になさり、そしてついにその栄光のお身体と共に天に昇ってゆかれ、代わって五旬節に「聖霊」をお送りくださったのです。

使徒言行録によれば、「1:8 『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、1:11 言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」(使徒言行録1:8~11)と伝えています。

ここから、救いのご計画は、さらに新たな段階を迎えることになります。神さまがこの歴史上で展開なされる救いの歴史を「救済史」と申しますが、その救済史は、旧約聖書から新約聖書の記述に基づいて、つまり神さまが歴史上にそのみわざを示された数多くの歴史的証言と証しに基づいています。まず神さまは、「創造主」なる神さまとして万物を創造を創造され、万物を神さまのご配慮と摂理のもとにおかれました。中でも人間は、神の特別なご恩寵のもと神に似せて造られ、「神の像(かたち)」として、しかも直接「神の息」を人間の鼻の中に吹き入れて創造されましたので、神は人間を尊重して万物の統治をご委託なさいました。しかし人間は「蛇の誘惑」に負けて、堕落し、神に背き、罪を犯してしまい、神の祝福を失い、死と滅びの中を彷徨うことになってしまいました。そこで神は人を深く愛し憐れんで、罪による死と滅びから人類を救い出すために、神の独り子をイエス・「キリスト」(救い主)として、聖霊によって処女マリアの胎内に宿らせて、肉体をもった受肉のキリストとして、世にお遣わしなられました。イエス・キリストは、人間に代わって人間を罪とその裁きから解放するために、ご自身の命と身体を贖罪の生贄として、十字架に献げて、人間に代わって罪を償い、十字架の死に至るまで徹底して神への従順を尽くして、死んでゆかれました。それゆえ神は、キリストを死からその肉体と共に三日目に復活させて命の祝福をお与えになられました。そればかりか、神はついに主キリストのご復活をもって、人類の復活再生の約束となったのです。こうして、罪と滅びに支配されていた人間は、神の御子であるキリストによって、完全に罪を償われ、永遠の命へと贖われた(買い戻された)のであります。神は、神のご計画に基づいて、天にいます神のみもとへと帰り右におられるキリストに代わる助け主として、新たに「聖霊」を遣わして、残された弟子たちを終末の完成に至るまで守り導くのであります。それが「聖霊の降臨」です。こうして神は、今や、「キリスト」に代わり「聖霊」によって、人類をはじめとする万物を完全なる救いの完成へと導くのです。「創造」から、神と人との関係回復する、すなわちキリストの贖罪による「和解」を経て、今や、万物は完全な完成に至る段階、すなわち「救贖」という新しい救いの段階を迎えたのです。

「聖霊」が遣わされたことで、「使徒」が立てられ「福音の証人」として世界宣教のために派遣されます。そしてキリストによる救いを証言する「神のみことば」によって福音宣教が開始されました。「神のみことばを伝える」ことを通して、すなわち「キリストご自身」を証し、キリストの語られた「説教」を告げ知らせ、キリストの制定されたサクラメント(洗礼と聖餐)を行うことを通して、「キリストの霊と身体の交わり」を実現して、そこに天のキリストをかしらとする「地上のキリストの身体」すなわち「教会」をたて、人々を悔い改めと信仰を通して招き集め、神の民、神の家族とする時代を迎えたのです。そのような意味で、まさに、私たちは「教会」による救いの最終段階にあります。

 

1. 聖霊は、御父と御子と共に、永遠の同一本質なる神です

ハイデルベルク信仰問答53によりますと、聖霊なる神について、こう告白します。「『聖霊』について、あなたは何を信じるか。」と問いまして、「先ず、聖霊は御父と御子と共に永遠の同一本質なる神です。次に、聖霊はまた、私たちのために与えられており、わたしのために、真(まこと)の信仰を通して、キリストにあずからせキリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださり、わたしを慰め、わたしの傍らに永遠(とこしえ)までも共にいてくださるのです。」と告白します。聖書における啓示の根幹が、まず第一に表白されます。キリスト教信仰がよって立つ基盤であり土台であります。この信仰がはっきりしないと、絶対にキリスト教にはならない、ニケア信条の教理が厳粛に受け継がれ、告白されています。すなわち「聖霊は御父と御子と共に永遠の同一本質なる神です」と告白します。何と言っても、聖霊はその本質において「神」であって造られた被造物ではないのです。したがって当然のことながら、父と子と並んで、礼拝で拝むべき対象とならなければなりません。私たちの教会はスコットランド教会式文に倣って、教会暦を聖霊降臨後第〇主日と表しています。これは本来の古い教会の伝統にしたがえば、三位一体の主日となります。つまり私たちキリスト教の礼拝は、「父・子・聖霊」の3位格を同時に「一体の神」として、礼拝し拝むのです。なぜなら、御父と御子と聖霊は共に「永遠の同一本質なる神」だから、そのように三位格を一体の神として礼拝いたします。ですから、週報の暦は、来週からはクリスマスや十字架と復活のキリストに加えて、聖霊が地上に降臨したのですから、神を三位一体の神を神として礼拝する主日となります。

この父と子と霊の三位一体の神について、しかも聖霊なる神について、ニケア信条は「聖霊は、命を与える主であり、父と子から発出し(evkporeuo,menon)、父と子と共にともに礼拝され(sumproskunou,menon)あがめられ(sundoxazo,menon)、預言者を通して語られました。」と告白しています。またヨハネによる福音書は「14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ14:16, 17)と証言しています。つまり神は聖霊を遣わされることで、そして私たちは聖霊を信じ、聖霊を受け入れ宿すことで、聖霊においてそっくりそのまま三一体の神と永遠に共にいることになる、というのであります。キリストは天におられるので、地上にはおられないと考えるのは、人間だけに偏った余りにも物理的で合理主義的な考えにすぎません。神を信じ、神に従うという信仰に立つのであれば、合理主義や物理主義に偏るよりも、聖霊の神としての恵みと働きにおいて、私たちは永遠に三位一体の神のすべてと共にあることに、確かさと喜びを覚えるべきであります。本質的に神は「三位一体の神」であるからです。

 

2.聖霊は、真の信仰を通してキリストにあずからせ、キリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださる

問答53は次いで「聖霊は、私たちのために、真(まこと)の信仰を通して、キリストにあずからせキリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださる」と告白します。その直前では「聖霊はまた、私たちのために与えられており」とあります。このように、父なる神や子なる神と大きく異なる「聖霊」の神の特徴は、私たちに与えられるという形で、私たちのうちに現存してくださる神である、ということにあります。これは、とても意味の深いことです。キリストは処女マリアから私たち人間の肉体を取り、ご自身も人類として人間性のうちに過ごし、人間性そのものを背負って、十字架の死に至るまで罪を償い従順を尽くして、神の義を人間のもとに回復してくださいました。それによって私たち罪人である人間は救われ、永遠の命のもとに集められたのですが、今度は、「聖霊」が私たちのうちに内在内住することで、私たちを完全な完成へと守り導いてくださるのです。キリストはそのお身体をもって神との和解を果たしてくださいましたが、聖霊は私たちのうちに与えられ、私たちの内に住み、私たち自身を成長させ聖化させて永遠の命へと守り導きます。それが、聖霊による聖化であり、救贖のわざであります。

聖霊のさらに大切な恵みある働きは、キリストと一体に働くことです。キリストと全く別な所で、別な仕方で、聖霊は決して単独で働くのではないのです。聖霊の信仰で間違い易い点は、何か聖霊だけで神がかるように考えてしまいがちですが、そうではないのです。聖霊は、むしろ益々「キリストの身体」として、益々「キリストの恵み」を私たちのうちに実現してくささるのです。言わば、キリストと私たちとを繋ぎ合わせてくださるのです。

パウロは「聖霊」についてこう証言しています。「3:11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。3:14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、3:15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように救われます。3:16 あなたがたは自分が神の神殿であり神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(Ⅰコリント3:11~17)。このみ言葉は、とても意味深い、そしてとても解釈の難しい所でもあります。文面からすると、明らかに、私たちは「キリストの土台」の上に立てられた神の神殿であり、終末における審判の燃え盛る火に、どれほど激しく厳しく吟味されようとも、その裁きの火をくぐり抜けた者のように、救われる、とまず「キリストの身体」としての私たちは燃え尽きない、裁かれても耐えうる、と言い切っています。しかも前後の文脈は、飛躍しますが、間違いなく、聖霊は私たちの内に住んで、自らそうした神の神殿として、即ちキリストの身体として、私たちを造り上げてくださる、と説いています。つまり、ハイデルベルク信仰問答53では「キリストにあずからせキリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださる」と告白していました。パウロは、それをさらに「あなたがたは、自分が神の神殿であり神の霊が自分たちの内に住んでいる」からである、と告白しています。ここで問答の最も注目すべき点は「キリストにあずからせる」Christi theilhaftig macht (makes partaker of Christ)ということです。つまり罪に汚れた私たちが、聖なるキリストを受け取ることができるように整えて、さらには実際に「キリストの身体」そのものに結び付け、ついには、栄光勝利の「キリストの身体」に与らせ、その身体と一体なるように、聖霊は徹底して私たちが「キリストの身体」に成り尽くすように、守り導くのです。そうして聖霊が私たちのうちにあって、私たちのうちに実現し成し遂げてくださった「キリストの身体」を、パウロは「神の神殿」と呼んでいます。死の中を、しかも紅蓮の炎に焼かれる陰府にもくだりつつも、三日目には栄光の勝利の復活を遂げられたキリストのお身体そのものとして、聖霊は最後まで私たちを育み育てるのです。したがって問答53の告白する通り「キリストのあらゆる恩恵にもあずからせてくださる」ということになります。聖霊は、私たちを「キリストの身体」として、造り変えてくださった、だから、パウロは「神の神殿」と呼んだのでありましょう。キリストの贖罪の死と栄光の復活の身体として、新しい身体を新しい人間性を神の神殿として、二度と滅びない神の神殿として、聖霊は、私たちを立て直してくださるのであります。だからこそ、裁きの火に焼かれても、救われて、燃え尽きることはないのです。

私事で誠に恐縮ですが、わたしは思春期に母を末期癌で失いました。そして冷たくなった物言わぬ死体を抱え続けたことを忘れられません。父もその50年後に亡くなりました。ただ、そうした両親の死で、最も辛く堪え得なかったのは、燃え盛る火をもってその遺体を焼き尽くすことでした。結局、枯れ木と塵のように変わり果てた姿を呆然と見つめるばかりでした。これからの私自身も、愛する妻や子供たちも、全く同じように、燃え尽きてしまうのでありましょう。しかし聖霊は、キリストのお身体として、母の身体も父の身体も新しく立て直してくださるのであれば、それこそそれは大きな慰めであり希望であります。そうであれば、キリストの身体としての新しい身体をもっと大事にして、これからは生きよう、と強く思います。私たちは、「キリストの身体」として、永遠に共に生きるからです。こうして聖霊は、私たちのために、私たちのうちに現臨し内住し、私たちを復活の身体へと造り変えてくださるのであります。

 

3.聖霊は、わたしを慰め、わたしの傍らに永遠まで共にいてくださる

皆さんは、ご自分の一番の幸せはどこにあるか、一番の慰めとは何なのか、お考えなったことがあるでしょうか。何が、本当の、しかも人生最大の、「慰め」であり「幸い」なのでしょうか。私たちの罪ある所は、いつもこうした慰めや幸せを、キリストと切り離して、神さまから切り離して求める所に生じます。言い換えれば、神から離れキリストを無視した所で、自分の欲望を中心にして、自分勝手に幸せや慰めを求める傾向にあります。だから、本当の慰めや人生最大の喜びや幸せが分からなくなってしまうのです。大事なことは、キリストと出会い、神を知ったことが、人生最大の恵みであり喜びである、ということがいよいよ正しく深く、分かるようになることが、信仰生活においては大事な課題ではないでしょうか。

問答53は、最後に「キリストのあらゆる恩恵をうけさせてくださり、わたしを慰めわたしの傍らに永遠(とこしえ)までも共にいてくださる」と告白します。キリストの恩恵とは何でしょうか。しかもあらゆる恩恵です。問答は、その中心となる一つとして、慰めて元気づけてくださる(trösten, comfort)と言っています。ハイデルベルク信仰問答1の冒頭の問い「生きるときも死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何か」という問いをすぐに想い起すのではないでしょうか。そして答えで、「わたしは、生きている時もまた死ぬ時さえも、わたしの身体(からだ)と魂のすべてが、自分のものではなく、わたしの真実(まこと)の救い主イエス・キリストのものである、ということです。主キリストは、貴(とうと)き血潮(ちしお)をもってわたしの一切の罪のために完全に償(つぐな)ってくださり悪魔のあらゆる力からわたしを救い出し今も守っていてくださいます。それゆえ、天の父の御心(みこころ)によらなければ、わたしの頭から髪の毛一本も落ちることはできないのです。そして万事が、わたしの祝福として必ず役立つようになるのです。したがって主キリストはまた、その御霊(みたま)によってわたしに永遠(えいえん)の命を保証してくださり、今から後も、わたしが心から喜んで主キリストのために生きることができるようにしてくださるのです。」と答えいます。本当の慰めとは、たった一つの慰めしかないのです。中でも、信仰を通して、初めて知りうる「慰め」である「キリスト」というお方を本当に知らなければ、決して言い表すことのできない慰めです。それが「生きている時もまた死ぬ時さえも、わたしの身体(からだ)と魂のすべてが、自分のものではなく、わたしの真実(まこと)の救い主イエス・キリストのものである、ということです」。多くの方々が、自分は自分のものであって、他人のものではない、と考えると思います。それなのに、敢えて「わたしはキリストのものである」と言い切って、そこに本当の慰めがある、と言えるのは、明らかに、キリストを知りキリストと共に暮らす中で初めて知る経験です。本当の信仰生活ゆえに、与えられた真実の慰めではないでしょうか。

先ほどの問答53にありましたように、「慰め」という字は、英訳ではcomfortという字を使います。語源は「要塞」を意味します。つまり強力な軍隊が自分の内に常駐している、という字です。それによって守られ元気づけられ慰められる、という意味です。ですから大事なのは、強靭で堅固な軍隊が常駐している、という強い要塞の中で自分は守られている、という確かな現実実態がある、ということです。したがって、それは決して「気休め」に終わることではありません。先ほどの紅蓮の火で焼かれても、それをくぐり抜けるほどの、堅固な要塞によって常に自分は守られている、そういう「確かさ」です。神は「わが盾」「わが櫓」と申しますが、まさに「わが要塞」です。それが「慰め」という言葉の意味です。

それには、確かな根拠があります。問答1は、その慰めの確かな根拠として、「主キリストは、貴(とうと)き血潮(ちしお)をもってわたしの一切の罪のために完全に償(つぐな)ってくださる」と、実際にキリストが降って来られ、十字架で血を流して死んだではないか、と告白します。自分のために血を流し、自分のために死死んでくださった方がおられる。自分のあらゆる罪過を償い尽くし、命を尽くしてくださるキリストがおられる。そんなことは、血肉を分けた家族でも親子でもできないことです。しかも「悪魔のあらゆる力からわたしを救い出し今も守っていてくださる」のです。あらゆる力からの救いと守りがいつも自分にはあるのです。特に最も恐るべき力は、自分を罪と死と滅びに引きずり込んでゆく悪魔の力です。まさに、ここにはあらゆる力からの完全な解放がここにあります。聖霊は、まさにこの慰めを、その力強く堅固な要塞を、私たちの内に築いてくださるのです。人間が人間であることの、本当の尊厳を満たす喜びと誇りは、いったい、どういう所に見出すことができるでしょうか。問答はわざわざ「生きている時もまた死ぬ時さえも、わたしの身体(からだ)魂のすべてが」と言っています。「わたしのすべてが」しかもそれは「肉体」においても「魂」のすべてにおいても、キリストのものである、取っています。肉体においても、そして魂においても、人には、死もあれば、老いもあれば、また病もあります。心の辛酸も肉体の苦痛も付きまといます。「キリストのもの」という元の字は、クリスティアーノスという文法的にはキリストの所有格を表す字から生まれた新約聖書の言葉です。しかし所有格というように文法的に読むよりも、もっと人格的な意味に読むべきです。それを示すのが、問答53の「わたしを慰め、わたしの傍らに永遠(とこしえ)までも共にいてくださる」という信仰告白です。所有関係よりも、わたしの傍らで共に暮らし、共に泣き共に苦しみ、そして共に喜ぶのです。キリストに所属するとはどういうことなのでしょうか。キリストは十字架の死に至るまで、私たちの人間性を捨てませんでした。最後まで痛み苦しみました。それはすなわち、私たち人間の傍らにとこしえまでも共におられるためでありました。私たちは、洗礼を受けて、新しく生まれ、教会の伝統によって新しい名前が付けられて、クリスチャン(キリストの者)として、十字架の死と復活の命を新たに着た生涯を始めます。そして説教と聖餐を通して、私たちは肉体においても魂においてもすべてが「キリストの身体」としてまた「キリストの霊」をもって養われ、復活体という身体と霊における永遠の命を完成するに至ります。キリストのものになるとはそういうことであります。まことの人間性がそこに完成するのです。それを成し遂げてくださるもう一人の助け主こそ、聖霊なる神であります。

2021年5月16日「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」 磯部理一郎 牧師

 

2021.5.16 小金井西ノ台教会 復活第7主日礼拝

『ハイデルベルク信仰問答』問答127~129「主の祈り」(6)

ハイデルベルク信仰問答講解説教67

説教 「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」

聖書 歴代誌上29章10~17節

エフェソの信徒への手紙3章14~21節

 

はじめに. まことの栄光讃美とは

本日の説教の主題は「神への栄光讃美」です。主の祈りの最後の祈り「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」は、言うまでもなく、神への徹底した栄光と讃美の祈りをもって、主の祈り全体を締めくくり結びます。この神の栄光讃美の結びは、「聖書比較プリント」にお示ししましたように、聖書の記述にはありません。ただ、少し後になると、新しい聖書の写本では、マタイによる福音書に登場します。「主の祈り」全文が纏まって登場しますのは、1世紀末か2世紀初頭に、シリア、パレスティナで成立したと『ディダケ―(十二使徒の教訓)』に登場します。おそらく元々は六項目から成る「主の祈り」全体を締めくくる「神の栄光讃美」または「頌栄」として、この第七の祈りは、付け加えられたと考えられます。こうした栄光讃美の祈りをもって纏め上げ締めくくるという形は、ユダヤの伝統に従う慣習でした。共同体の祈りを纏めて締めくくる時に、よくなされました。。

その典型事例の一つが、ダビデ王の祈りです。「29:10 ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。『わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。29:11 偉大さ光輝威光栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。29:12 富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。29:13 わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し輝かしい御名を賛美します。』」(歴代誌上29:10~13)。

キリストの共同体は、このように、あらゆる点で神の栄光と力を褒め讃える栄光讃美をもって「主の祈り」をて纏め上げ、言わば「公同の祈り」として典礼化されると共に、各家庭で日々祈るべき祈りとして規定されて、受け継いで来ました。前述の歴代誌上にあるダビデ王の祈りの背景には、ダビデ、ソロモンを中心としたイスラエル国家全体をあげての神殿建設がありました。「神殿建設」という形で、国を挙げて神への栄光讃美をささげようとしたのです。神の栄光を讃美し、御名を褒め讃え、頌栄を捧げる、その神の民の共同体の祈りと礼拝が、そこにはありました。主の祈りの第七の祈りは、こうした厳粛な伝統を受け継いだと考えられます。

しかし、ハイデルベルク信仰問答には、弟子たちがどのようにその伝統を受け継ごうとしたか、そこに決定的な意味と、そしてまた伝統とは本質的に異なる大きな意味を見出だしています。ダビデの栄光讃美には、国家をあげての神殿建設がありましたが、主の祈りを受け継ぐ主の共同体の背景には、単なるユダヤ教の歴史伝統の継承ではなく、新しく成立した「キリストの教会」があった、ということであります。決して単純な意味でユダヤの伝統にしたがって祈りを締めくくろうとした、というわけではないのです。大事な点は、ダビデやソロモンを中心とするイスラエル国家は、「神殿建築」を通して、神にのみすべての栄光と讃美を捧げようとしたのですが、その時、その時代の誰もまだ神の栄光を本当に現す出来事を知りませんでした。神の栄光がどのようにしてあらわされるのか、全く予想できなかったはずです。まさか、神は、「イエス・キリスト」というお方において、神の独り子が人間の肉体において受肉し、罪人や異邦人までも「神の民」として「神の国」へ招き、しかも十字架において「贖罪の死」を成し遂げることによって、神の栄光を現わす、ということは心にも及ばないことでした。人類は「キリスト」の到来において、初めて本当の「神の栄光のお姿」と出会い、その栄光が何たるかを知ることになったのです。神殿建築をさらに超えて、キリストにおける神の愛と赦しを深く認識して、信仰によって受け入れ、キリストにおいて神の永遠の栄光を褒め讃え、キリストを通して神に感謝し、讃美をもって崇めること、それこそが、最も相応しい神への栄光讃美となる、という新しい共同体の栄光讃美がここにはっきりと見ることができます。厳密に言えば、私たちが神に栄光讃美をささげる、というよりも、主イエス・キリストの十字架と復活を通して、主イエスにおいて、そしてその信仰において、歴史上初めて、私たち人類は相応しい神への栄光讃美をおささげすることができるようになったのです。

 

1.最も相応しい神への栄光讃美は、神の独り子であるメシア(キリスト)による

ハイデルベルク信仰問答128は、「どのようにあなたはこの祈りを締めくくるか。」と問いまして、「『国と力と栄えとはなんじのものなればなり』(と締めくくります)。それはすなわち、私たちがあなたにそのようなものをすべて請い願うのは、あなたこそ、私たちの王として、またあらゆることにおいて大いなる方として、善きものはすべて、私たちに、御心と御力をもってお与えくださるからです。しかもこれによって、私たちではなく、

あなたの聖なる御名が永遠に褒め讃えられるようになるからです。」と答えます。まず問いで「締めくくるか」と明記して、六項目の祈り全体を纏めて締めくくるという役割を明らかにしたうえで、答えでは徹底して「神への栄光讃美」をもって貫いています。

前に「祈りの本質」とは「生ける神と出会う場」であり「神の恵みに与る通路」であると申しました。祈りの意味と力は、まさにこの神との出会い、神の恵みに与る所にあります。言い換えれば、生ける神と出会い、生ける神の愛に触れ、生ける神の命と力に与ることができる、そこに「祈りの確かさ」があります。しかしさらに多事なことは、この「祈りを確かさ」を誰が保証することができるのか、という祈りの根拠にあります。「祈りの根拠」となり、祈りを根元から保証できるお方はただ独り、主イエス・キリストご自身であります。

イザヤは「彼らが呼びかけるより先にわたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける」(イザヤ65:24)と預言し、神のお約束を告げました。この預言は、明らかに、メシア・キリストにおける救いのご計画に基づいて、御子イエス・キリストの派遣を前提にした預言であり、約束である、と言えましょう。この「祈りの場」そして「約束の場」が、天地を貫きかつまた時間軸を超えて永遠の神に至る「神の恵みの通路」となる保証と根拠は、まさに「主イエス・キリスト」ご自身において、実現した保証であります。確かに、ダビデもソロモンも国をあげての神殿建設をもって、すべての栄光を神に帰そうとした、神殿礼拝こそが唯一真の神による恵みの通路と考えたました。それは間違いではなかったのですが、残念ながら、彼らはまだその本当の保証を得てはいませんでした。当然ながら、人間の手で建造した神殿にはその保証の力はなく、やがて神殿は崩壊し、イスラエルは滅亡してしまいました。結局、ユダヤの民は、根本から「神の栄光」を見失い、今もなお、見失ったままのよに思われます。

しかし、主イエスの到来において、新たに選ばれ招かれたこの祈りの共同体は、初めてイエス・キリストというお方において、生ける神と出会い、生ける神の命と力に与る「恵みの通路」の保証を得たのです。言い換えますと、完全な神の栄光讃美は、ただキリストお独りにおいて、実現可能なことであります。十字架に死に至るまで従順を貫いて神の御心を完全にかつ純粋に実現したお方、神の栄光を余すところなく完全にご自身の受肉においてしかもその十字架の死と復活において現わされたお方、したがって神の栄光の本質を完全に実現された主イエスにおいてのみ、初めて可能な栄光讃美であります。キリストにおいて、キリストを通して、キリストと共に、はじめて地上から天上へと永遠の神に届く栄光讃美であります。人間の罪に汚れた手で造ったこの世の神殿では、どれほどそれが壮大堅固であったとしても、結局、真実な意味で「神への栄光讃美」にはならないのです。これは、今の私たちの教会についても、ある意味で言えることではないでしょうか。教会の「本質」は、建物や数、財力の大きさにはないのです。教会の本質は、ただキリストにおいてあり、キリストの愛と恵みによるものであることを、教会信徒は十分に認識しておく必要があります。譬え一人二人であろうと、そこにキリストがおられる、それが「キリストの身体」である、という一点にのみ、教会の本質はあるからです。現代の教会は、このことをいよいよ深く覚えるべきでありましょう。

 

2.「新しい神殿」における神への栄光讃美

さて、改めて六つの祈りの特徴を振り返ってみますと、何と言ってもまず「神」を「われらの父」と呼び掛ける祈りである、ということにあります。神を「父」と呼ぶなどということは前代未聞であり、ユダヤの伝統では決して考えられず、あり得なかったことです。しかし敢えて唯一永遠の創造主なる神を「われらの父」とお呼びすることで、「主の祈り」は、それによって初めて、真実な祈りとして、成立するのであります。ここに、決定的な主の祈りの特徴があります。主の祈りは、神を「われらの父」と呼ぶのでなければ、絶対に成立しない祈りなのです。そしてこの祈りの主題は、1「御名の崇拝」、2「御国の到来」、3「御心の成就」、4「日毎の命の糧」、5「罪の赦し」、6「誘惑と悪からの救い」と続きますが、御名も、御国も、御心も、命の糧も、罪の赦しも、そして誘惑も、そのすべてにおける栄光と勝利は、ただ主イエス・キリストお独りにおいて、実現し完成成就した出来事ばかりです。ダビデやソロモンは、人の手で造り上げた神殿によって、神に栄光と讃美をささげましたが、この主の祈りにおいては、人の手ではなく「キリストのお身体」を通して、実現された神の栄光のみわざを褒め讃えて、讃美をささげるのであります。

主イエスはこう弟子たちに語りました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコ13:2)と、主は仰せになり神殿崩壊を予告しました。さらに「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2:19)「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」(マタイ26:61)と、宣言なさいました。主イエスは、ご自身のお身体をもって、神への栄光讃美の場としたのです。ここで言われる「三日で」とは、即ち「20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」(マタイ20:19)とされる、主イエスの「十字架の死」と「復活」のお身体を示して言われたことは言うまでもありません。

わたくしたち人間は、常に神に背き続ける、傲慢と無知が支配しています。何をどうしようとも、私たちには神を正しく拝むことができないのです。たとえどんな立派な神殿を建てて荘厳な礼拝を行ったとしても、結局は、ダビデやソロモンがそうであったように、その荘厳な神殿礼拝の中で、罪を宿し罪を抱えてしまうのです。何と悲しいことでしょうか。私たち人間が何をどうしようと、偽善や見せ掛けではなく、本当の意味で、神に栄光を帰する讃美礼拝にはならないことを、主イエスはよくご存じでありました。主イエス・キリストただ独りが、ご自身のお身体を通して、主の十字架の死に至るまで父なる神に従順を尽くし、ご自身のお身体をもって肉を裂き血を流してご自身のすべてを贖罪の生贄として献げ、それによって、ついに神のご主権を守り抜き、神の義とご支配を正しく示し、唯一真の神の存在を世に啓示したのであります。しかもそれは、愛と救いの神として、唯一真の神をご自身の受肉したお身体をもって啓示したのでした。「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とヨハネが証言する通りであります。「主の祈り」は、その根源根底から、純粋かつ完全に神に栄光と讃美を捧げるためには、奉献されたキリストの身体そのものを前提にしており、主の身体を土台として建てられた祈りであることがよく分かります。それがまさに神を「われらの父」と呼ぶことでしか、成立しない主の祈りの本質であります。

 

3.「キリストの身体」における真の栄光讃美

主の祈りの冒頭で、私たちは「天にましますわれらの父よ」と祈りますが、ここには、決定的に重要な意味が明らかにされています。天にいます神を「われらの父」と呼ぶのですが、神を「父」とお呼びになられたのは、ただお独り、主イエス・キリストだけです。それは、事実、主イエスだけが神の永遠の独り子であられるからです。神の唯一永遠の神の独り子であるキリストだけが、神を「父」と呼ぶことができる、その特権を、私たち罪人集団にもキリストは与え、罪人集団に神を「われらの父よ」と呼ぶことをお許しになられたのです。なぜ、主イエスに、それができたのでしょうか。なぜ、父なる神は御子にそれをお許しになり、お認めになったのでしょうか。元々私たちは汚れた罪びとです。神のみ前に立つことすらできないはずです。神に背き続ける罪びとが神の御前に立ち、神を「父」と呼ぶことができる理由は、ただ一つ、それは、私たちの罪を償うために、キリストが「生贄としての血」を流して、「贖罪の生贄」としてご自身を神にささげられたから、に外なりません。

最初の人類であるアダムとエバは、「蛇の誘惑」に破れて、堕落して神に背き、神の義と祝福を失いました(創世記3章)。そしてその直後には、人類最初に生まれた子どもは妬みにより弟を殺すという世界最初の殺人を、しかも兄弟殺人を犯すのであります。それ以来、全人類は常にかつ普遍的に「罪」に支配され、死と滅びの中を彷徨い続けて来ました。しかし主イエスは、私たちを罪と死から解放するために、十字架の贖罪と復活の祝福をもって、神の愛と義と命を、その根源的な祝福を取り戻してくだいました。しかも主は、十字架において、ご自身のすべてを「贖罪の生贄」として献げてくださったのです。しかもその十字架奉献の直前に、裏切り者のイスカリオテのユダも含めまして、弟子たちを皆「最後の晩餐」にお招きになられ、十字架で贖罪の生贄となさるご自身の「お身体」を弟子たちに分かち与えられました。そうしてキリストは、ご自身のお身体を、私たちのために与える「贖罪のお身体」となさって十字架の死において献げ、三日目には「栄光の身体」として復活をもって、永遠の命の祝福となさったのです。キリストは、私たちに分け与えてくださったご自身のお身体に、ご自身の霊と命を注ぎ込んで、「贖罪の生贄の身体」と「栄光の復活の身体」となさったのであります。簡潔に言えば、神の唯一永遠の独り子であるキリストは、私たちを選び、ご自身の十字架と復活のもとに招き、そして洗礼と聖餐を通して、ご自身の贖罪と復活のお身体を私たちに分かち与え、まさに文字通り血肉を分けた兄弟として神を「われらの父」としてくださったのです。主キリストは、ご自身のお身体を私たちに与えることで、私たちを本当の「神の子」となし、したがって「御国の相続者」としてくださったのです。それゆえ、洗礼と聖餐というサクラメントを通して、私たちは「キリストの身体」を確かに着るのであり、キリストの身体を確かに着ることを通して、神は私たちの「父」となり私たちは神を「父」を呼び、そして主の祈りを祈るたびごとに、そこで、私たちは「神の子」として守られ養われるのであります。大切なのは、私たち自身が「キリストの身体」そのものとされている、その大きな恵みの中で、私たちは「われらの父よ」と言って、主の祈りを捧げている、そういう栄光讃美なのだ、ということにあります。締めくくりの栄光讃美と申しますが、まさにその栄光讃美を真実な意味で可能とする根拠は、ただ一つ十字架と復活を通して神の栄光を現わしたキリストの受肉にありそのお身体にある、しかも私たちはそのキリストの身体である、ということにあります。

 

4.終末を待ち望む教会の祈りの力と感謝と讃美の応答

私たちは、キリストをかしらとする「キリストの身体」を分かち合い共有することで、キリストの全存在を受け継ぎ、神を「父」と呼び、「神の子」とされ、「御国の相続人」とされました。ここから、決定的な私たちの存在の本質も明らかになります。主の祈りにおいて、私たちは紛れもなく既に「神の子」であり「御国の相続人」であります。これは二度と揺るぐことはありません。主の祈りを祈ることを通して既に確定している神の事実であります。それは、私たちは既に「キリストの身体」とされ、キリストの身体を着た存在であるからです。私たちは、「神の子」としての自覚と信仰に堅く立って、主において神にお応えするのでなければなりません。したがって、主の祈りにおけるこの結びは、「キリストの身体」としての応答でもあります。すなわち「教会」としての普遍なる応答でもあります。この教会の民として応答する自覚について、パウロはフィリピの手紙で教えます。「3:20わたしたちの本国は天にありますそこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ3:20)。パウロはまず私たちの国籍は天国であることを宣言します。しかし同時に天国に所属するものの、その天からキリストが再臨されるのを待つ身でもあることを告げます。この自覚には二重性があるように思われます。一つは、本質的で永遠不動の真実として「われらの国籍は天にあり」と告白します。もう一つは、時間的制約の中にあって「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と告白して、「待ち望む」共同体としての自覚を表白します。しかしその待つ間も、「あなたこそ、私たちの王として、またあらゆることにおいて大いなる方として、善きものはすべて、私たちに、御心と御力をもってお与えくださる」とハイデルベルク信仰問答128は告白しています。

そして、パウロは私たちの基本的な生活の在り方としてこう教えています。「12:1自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかわきまえるようになりなさい。12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマ12:1b~3)。

一言で言えば、正しく神を信じ、その信仰によって謙遜に生きる、ということでありましょう。その信仰の源泉として、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げる」ことを明記しています。ただ、これは私たち自分の力ではできない行為であり生き方です。唯一可能なのは、キリストの贖罪の死と復活における神の恵みを知り、そのキリストの十字架と復活のお身体としていただく、という大きな恵みの中に絶えず新たに生まれ生かされることにあります。キリストの霊とみことばによって魂は常に新しく養われ、キリストご自身が聖なる生贄としてお献げになられたキリストのお身体を日々分かち与えられて、キリストの身体として養われることの外にありません。まさに私たちの生き死には、キリストと共に、キリストの身体のうちに、キリストの身体として、日々新たにされ養い続ける中にあります。そうした日々の謙遜で、感謝と喜びに溢れた信仰の生活にこそ、私たちの唯一真なる神への栄光と讃美はあるのではないでしょうか。

2021年5月9日「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.5.9、16 小金井西ノ台教会 復活第7主日

『ハイデルベルク信仰問答』問答127~129

主の祈り(6)

 

 

問127 (司式者)

「第六の祈願は何か。」

答え  (会衆)

「『我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ』です。それはすなわち、

私たちは、自分では一時(いっとき)も保ち得ないほど、脆く弱い存在であり、

それゆえ、悪魔、この世のもの、そして自分自身の肉体に至るまで、

私たちを待ち構えて付き纏って止まない敵どもは、

私たちを絶えず試みては、私たちに激しい攻撃を加えます。

どうか、あなたの聖なる御霊の力によって、私たちを守り、強めてください、

そして、これらの敵に対して、絶えず堅く立ち続けて、この霊の戦いで敗れることなく、

最後は、完全な勝利におさめさせてください(という祈願です)。

 

 

問128 (司式者)

「どのようにあなたはこの祈りを締めくくるか。」

答え  (会衆)

「『国と力と栄えとはなんじのものなればなり』(と締めくくります)。

それはすなわち、私たちがあなたにそのようなものをすべて請い願うのは、

あなたこそ、私たちの王として、またあらゆることにおいて大いなる方として、

善きものはすべて、私たちに、御心と御力をもってお与えくださるからです。

しかもこれによって、私たちではなく、

あなたの聖なる御名が、永遠に褒め讃えられるようになるからです。」

 

 

問129 (司式者)

「『アーメン』という短い言葉は、何を意味するか。」

答え  (会衆)

「『アーメン』とは、すなわち、真実で確かであることを意味します。

なぜなら、わたしの祈りは、わたしが自分の心の中でそれらを神に求めていると感じるよりも、

遥かに確かなこととして、神によって聞かれているからです。」

 

2021.5.9 小金井西ノ台教会 復活第6主日礼拝

『ハイデルベルク信仰問答』問答127~129 主の祈り(6)

ハイデルベルク信仰問答講解説教66

説教 「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」

聖書 創世記3章1~7節、マタイによる福音書4章1~11節

マタイによる福音書26章69~75節、エフェソの信徒への手紙6章10~20節

 

はじめに. マタイ(誘惑と悪い者)とルカ(誘惑)

本日の説教は、主の祈りの第六の祈り「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」についての解き明かしとなります。マタイによる福音書は「6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず(kai. mh. eivsene,gkh|j h`ma/j eivj peirasmo,n)、悪い者から救ってください(avlla. r`u/sai h`ma/j avpo. ponhrou/)。」と記し、ルカによる福音書は「わたしたちを誘惑に遭わせないでください(kai. mh. eivsene,gkh|j h`ma/j eivj peirasmo,n)。」と記します。マタイの「悪い者から救ってください」という項目はマタイだけで、ルカにはない項目です。その理由については定かではありませんが、元々「主の祈り」は、厳格な律法規定のように、また教会典礼として文言が確定されて、伝承された祈りではなかったからです。主イエスは、弟子たちの祈りの訓練として、その基本となる祈りの形を提供したのであって、弟子たちはそれを柔軟に活用していたと考えられます。やがて弟子たちが世を去るようになると、改めて「教会共同体の祈り」として纏め直されて伝えられたと考えられます。教会の中核を成した使徒たちが世を去り、新世代のリーダーたちを迎える中で、教会共同体は、「使徒たちの教え」を伝承する重要文書の一つとして纏められ保存されます。聖書に記録される段階では、使徒たちが其々に責任を担う教会の形成において、その事情にふさわしい柔軟な形で、「主の祈り」として伝えていたものが福音書に保存されましたが、やがて教会全体に通用する、いわば公同の祈りの形で「ディダケ―」の一つとして纏められ伝承され、現在、私たちが祈る「主の祈り」の形となった、と考えられます。本日の「誘惑」にあわせないように、という第六の祈りは、マタイとルカにあり、「悪い者」からの救いは、マタイだけの祈りとなっていますが、教会は、改めて「主の祈り」として確定し纏め直したのです。

 

1.「わたしたちを誘惑に遭わせず悪い者から救ってください」

さて本日の祈りの主題は「誘惑」です。「誘惑」とは、いったい何でしょうか。誰が、何のために、私たちを試み、誘惑し、試練を与えるのでしょうか。「誘惑」と書かれた字は、ギリシャ語名詞で「ペイラスモス(peirasmo,j)」という字で、①試み、試験、実験、試練、②誘惑、試誘を意味します。新約聖書に21回登場します。その動詞は「ペイラゾー(peira,zw)」で、①試みる、試してみる、②試験する、吟味する、試練する、③誘惑する、誘う、誘惑に陥り失敗するか試すという意味です。新約聖書に31回使われます。名詞も動詞も、新約聖書では殆どが「誘惑」(英temptation)、「誘惑する」(英tempt)という意味で用いられています。

先ほど、誘惑とは何か、誰がどんな目的で行うのか、と申しましたが、よく誤解されることで、「試み」のすべては、神が意図し神が行うものだ、と不用意に思い込んでいる方々がおられます。病気も事故も災害も、すべては「神」が造り出したもので、神による禍いであると考えるのです。神は禍いを起こして私たちを試しているのだ、と考えるのです。自分が病気をしたのも、事故にあったのも、神が神の意志によってそうなさったからだ、と考えるのです。しかしそれは、実は、大きな誤解であり、とんでもない考え違いである、と言わなければなりません。誘惑するのも、悪い者も、決して神さまではないからです。確かに、この世にあって私たちは多くの試練を受けて生きていることは事実ですが、病気も災害も事故も、決して神が意図的に引き起こしているわけではありません。聖書はこう断言します。「ヤコブ1:12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。1:13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」ときっぱりと、神は誘惑するお方ではない、と断言しています。その上でさらに誘惑の原因についてこう告げます。「1:14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ唆されて誘惑に陥るのです。1:15 そして、欲望ははらんで罪を生み罪が熟して死を生みます。1:16 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。」(ヤコブ1:13~16)。繰り返し申しますが、神が試練をお造りになることは決してないのです。その根は、神にではなく、むしろ私たち自身、自分自身の中に、しかも自分の欲望に唆されて、誘惑は生じるのであり、その結果、私たちは誘惑に陥り、罪を犯すのであります。

マタイとその教会は、この「誘惑」について、ルカにはない仕方で、さらに突っ込んで「誘惑に遭わせず、悪い者から(avpo. tou/ ponhrou/)救ってください」と付け加えて、祈っています。したがって、明らかに、マタイの「主の祈り」は、誘惑の向こう側に、或いは誘惑の中心に「悪い者」が必ず存在することを想定した祈りとなっています。この世は「悪い者」に支配されているため「誘惑」に満ちている、と考えていたと推測することもできます。聖書で「悪」または「悪い者」を表すギリシャ語は「ポネーロス」という字ですが、これは、元々「労苦や苦痛による圧迫」を意味していたようです。しかし、ヘブライの表現として用いられるようになり、具体的に人格化されて「悪い者」或いは「サタン」を意味するようになったようです。新改訳聖書は「悪」と抽象名詞で訳し、どちらかと言えば、悪いことを暗示しますが、新共同訳や口語訳の邦訳聖書は、「悪しき者」「悪い者」として、わざわさ「者」をつけて訳して、背後にはある特定の人格存在があることを暗示します。つまりマタイとマタイの教会は、明らかに、誘惑の背後にサタンの存在を認めていた、と推測することができます。いわば、マタイの教会は、誘惑の中で、決定的な或いは宿命的な悪魔との闘いを非常に強く意識していたのではないでしょうか。しかもその霊的な闘いにおいては、「主の祈り」による覚悟をもって挑み、終末をめざして生きようとしていたと考えられます。だからこそ、単に「誘惑」からではなく、「悪魔」の支配や誘惑からの解放を祈り求めたのではないかと思います。

 

2.悪魔の誘惑に敗北した罪びと

さて、誘惑する者、悪い者、すなわち悪魔ですが、ヘブライ表現でのサタンや悪魔は、新約聖書では多くの場合、「ディアボロス」と表記されますが、その語源に「誹謗中傷する者」という意味があります。神を誹謗中傷して、自分の都合のいいように神の御心やみことばを歪めてしまい、人間や世界から神に対する信頼を奪い取り、神のご支配とご主権を抜き取り、神に取って代わって虚偽が人間の心や世界を支配するように呪縛してしまうのです。人は、本来、徹頭徹尾「神の愛と恵み」によってはじめて生かされ生きるものです。悪魔は、その神のご主権を、愛と恵みのご配慮を、巧みに人間の感情や欲求を利用して人から奪い去るのです。食欲と空腹の不安を利用して石をパンに変える、という虚偽と幻想によって誘惑し、神からの分離を謀り、そして神への背きへと唆すのです。

誘惑を受ける典型的事例が、エデンの園のアダムとエバです。創世記3章はこう告げています。「3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』3:2 女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない触れてもいけない死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』3:4 蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。3:5 それを食べると目が開け神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(創世記3:1~6)。この女と蛇との対話に注目しますと、興味深い所は、蛇との対話により、女の心の中で神のみことばが大きく揺らき始めます。蛇と女の間で大きく食い違い揺らぐ点は、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」という蛇の問いかけに、女は「、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない触れてもいけない死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えます。ところが、蛇は「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると目が開け神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と誘惑します。「どの木からも」に対して「中央に生えている木だけ」と答えながら、ついに「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る」と唆す蛇の狂言の言葉に騙されて、しかも「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け賢くなるように唆していた」とありますように、女の欲望はもはや制御できずに、ついに一線を越えて、神に背いてしまいます。女の心の中に、みことばを通して働く神のご支配が失われた瞬間であります。神との霊とみ言葉における支配は、人間の中から失われるとき、人間は命の源を失うことになります。死と滅びを彷徨うさだめを、人は自ら一線を越えて選び取ってしまったのです。この敗北を決定づけたのは、神のご主権によるご支配を排除して、代わって自分の欲望の支配に身を委ねた所にあるようです。女は、神のご支配を自分の中から放棄してしまい、結局は欲望にすり替えて、神に背き、堕落して、蛇の誘惑に敗北したのです。ここで最も重要なことは、みことばを通して働く神のご主権を讃美と感謝をもって受け入れることができるかどうか、その一点にあります。

ここで蛇の誘惑に敗北した原因について考えますと、敗北を決定づけたのは、言うまでもなく「園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」という神のみことばを選び取ることができず、蛇の誘惑の言葉「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると目が開け神のように善悪を知るものとなる」に負けたためです。なぜ負けたか、と言えば、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け賢くなるように唆していた」からであり、自分の欲望や欲求に隷属するように支配され、その結果、神のことばを捻じ曲げてしまったためです。ここに最も深刻な誘惑の形が明らかにされます。それは即ち、聖書のみことば、神のことばを、自分や人間の考えや欲求のために、従わせ、捻じ曲げ、利用することです。正しく謙遜にそして何よりも従順に、神のことばのうちに働く神のご主権とご支配を選び取らずに、人間の欲望や都合にしたがって、みことばを変質させ利用することです。言い換えれば、神のみことばから、神のご主権とその支配を抜き取ってしまい、自分の欲望支配を入れ替えてしまうのです。これは、まさに自我欲求の神格化偶像化を意味します。聖書の言葉通り、恰も「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る」者になったような幻想の支配に、身を委ねることになります。誘惑の一番に恐ろしい所は、自分の欲求を満たすために、みことばを用い利用してしまうことにあります。神のご支配に従順に従うのではなく、自分の欲求を満たすために、聖書や教会を利用して、神に背くのです。十二分に注意したい、大罪に陥る誘惑は、まさに教会の職務や地位を用いて、或いは聖書の言葉や神学を利用して、人々の信仰を欲望と自己実現の道具にして、支配しようとすることです。そしてついには神の名を用いて、自我欲求の満足を図るのであります。認めて欲しいという自我の承認欲求や立身出世願望のために、教会やその役職を利用することは決して許されることではありません。

ハイデルベルク信仰問答127は「第六の祈願は何か。」と問い、「『我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ』です。それは、私たちは、自分では一時(いっとき)も保ち得ないほど脆く弱い存在です。それゆえ、悪魔、この世のもの、そして自分自身の肉体に至るまで、私たちを待ち構えて付き纏って止まない敵どもは私たちを絶えず試みては私たちに激しい攻撃を加えます。どうか、あなたの聖なる御霊の力によって、私たちを守り、強めてください、そして、これらの敵に対して、絶えず堅く立ち続けて、この霊の戦いで敗れることなく、最後は、完全な勝利におさめさせてください(という祈願です)。」と告白します。ここでしっかり認識すべき点は、自己を正しく理解することです。自分は一時も保ち得ないほど脆く弱い、という徹底した自己理解です。しかも、何に対して自分は脆く弱いのか、と言うと、悪魔を初めとするあらゆる敵の誘惑において、脆く弱いと告白しています。言い換えますと、みことばに従う信仰において神の主権はすでに勝利しているのですが、そのみことばにおける神のご主権という所で、つまりみことばのうちに神のご支配を認めるという信仰において、人間はまことに脆弱である、ということを意味するのではないでしょうか。そこでは、牧師も神学者も、誰であっても、無力であります。そしてただ謙遜で従順であること以外に、なす術はないのです。神のみことばを聴き分ける信仰において、神のご支配が勝利することを祈るばかりです。それはもはや人間の力では不可能なことであり、聖霊の助けと導きを祈る他に方法はないようにも思われるのです。

 

3.世界は「悪魔の誘惑」のただ中にある

人間は、蛇の誘惑のもとに、自ら堕落して、神に背き、神の創造の恵みを失い、死と滅びの中を迷走し続けています。しかし、悲しいかな、神はその人間を深く信頼して、人間の自由な意思を認め、世界と万物の統治を委託します。創世記1章28節によれば、「1:28産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と、神は宣言し、世界の管理責任とその統治を人間に委託します。したがって万物世界の営みは、自然それ自体の営みの原理に基づきつつも、その一方で、人間がしかも堕落の罪を背負った人間が被造物世界の管理運営に大きく関与する権限を得たことになります。ここにさらに深刻な「二次被害」が生じます。罪は人間本性を蝕むだけでなく、堕落した人間本性のもとで世界の管理責任を担うことで、世界万物もまた罪によって蝕まれるのです。人間は、万物から神のご主権を抜き取って、そればかりか、自然万物の自然原理までも蝕んで、万物のすべてを欲望支配のための道具にしてしまおうとする「自我の原理」に益々堕落してゆきました。グローバルな都市化と工業化による環境破壊や温暖化は、人間の意志と欲望によるものですが、それによって地球は大きく痛み病んで深いうめきの中にあります。神による創造の主権的統治とその愛と恵みによる秩序が、人間の罪と背きのもとで大きく歪められ、傷つき痛んでいるのです。人間が汚した大地の痛みは、そのまま自然原理を伴いつつ、天地に響き渡る慟哭となって、人間に覆いかぶさり戻って来るはずです。文明や都市化の中で、自己中心になり傲慢になった人間は、そうした自然の痛みを、恰も神による禍いであるかのように責任転嫁するのです。そうした意味において、誘惑における霊的な敗北の結果、人類は、人間の歴史を中心として世界史全体も大きく罪に堕落し神に背き、死と滅びという悲惨の中にある、と言えるかも知れません。この第六の祈り、誘惑に対して神の勝利を願い求める祈りは、世界全体、万物すべての祈りでもあります。神の創造の恵みのもとに、神の義と平和のもとに、人間は本来の人間性を回復し、万物は人間の堕落支配から神の主権のもとへと回復される必要があるのです。いわば、神の創造の恵みのもとに、神と和解し、神との平和のもとに、人も世界も回復されるのでなければ、誘惑に翻弄され、空しく死と滅びに向かってただ彷徨うばかりであります。人類の文化文明の大きな課題は、世界を誠実に背負いつつ、悪魔の誘惑から脱却して、神との和解を果たすことにあります。

 

4.悪魔の誘惑と闘い、みことばにおいて勝利した主の祈り

主イエスは、悪魔の誘惑において、その決定的な霊的闘いにおいて、きっぱりと「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言い切って、虚偽と幻想に満ちた悪魔「ディアボロス」の誘惑を斥けました。しかも、みことばにおける神のご主権とその支配を完全に全うなさったのであります。その勝利は、まさしく「メシア(キリスト)」としての意味ある勝利でありました。その典型的事例は、何と言っても、荒れ野での誘惑です。マタイによる福音書4章はこう伝えます。「4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4:1~4)。ここから読み取れる誘惑は、非常に意味深い、またとても複雑な状況の中で、進められています。まず聖書によれば、「悪魔から誘惑を受ける」(peirasqh/nai u`po. tou/ diabo,lou)と、誘惑する首謀者とは、明らかに「悪魔」であります。

しかし同時に「“霊”に導かれて」(avnh,cqh eivj th.n e;rhmon u`po. tou/ pneu,matoj)とありますように、そこには「聖霊」が伴われていたことが分かります。直訳しますと、「聖霊によって彼は荒れ野の中に導かれた」となります。つまり、主イエスは、聖霊と共に、メシア(キリスト)として、悪魔の誘惑のただ中に向かったのです。確かに「ディアボロス(悪魔)」が主イエスを誘惑するのですが、しかしその悪魔も誘惑行為もすべては、「聖霊」の働きのもとに、既におかれていたことが分かります。「3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。3:17 そのとき、『これはわたしの愛する子わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:16、17)とありますように、神は御子イエスにおいて神のご主権とご支配を実現なさるのであります。言い換えれば、主イエスは、「聖霊」のご支配のもとで、或いは聖霊と共に、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8章3節)みことばをもって、悪魔の誘惑に打ち勝った、ということになります。神が語る一つ一つの言葉で生きるとは、すなわち、みことばを通して神のご意志と御心に与ることであり、神のご主権とご支配のもとでこそ、人は命の祝福に与り初めて生きることができる、ということになります。踏み込んで言えば、私たち人間の命も生涯もすべては、神のご主権とご支配のもとにある、と宣言したことを意味します。しかも、聖霊の導きの中で、主イエスにおいて、みことばを通して働く「神のご主権」の勝利が明らかに宣言され、確かにされたのです。

主の祈りを祈るその中心で、主ご自身が私たちのメシアとして悪魔の誘惑と闘い、すでに確かな勝利をおさめられているのです。み言葉を通して働く神の支配とそのご主権は、聖霊がすべてを包むような聖なる働きとその導きの中で、主イエスにおいて完全勝利したのであります。これは、単にイエスさまだけの勝利に終わるものではありません。イエスさまを「救い主(メシア・キリスト)」として「教会のかしら」とする、「主の祈り」を祈る共同体の勝利でもあります。すなわち弟子たちの教会の勝利でもあります。主イエスはご自身のためである以上に、ご自身が召し集められた「教会」のために、悪魔の誘惑に対して勝利を収めてくださったのではないでしょうか。しかも、みことばにおける神のご主権とご支配とを完全に全うすることにおいて、悪魔に勝利したことは、とても意味深いことです。なぜなら、「教会」においてこそ、礼拝で聞かれる神のみことばの中にこそ、「神のご主権とご支配」を見出すからであります。そこに、教会の全き希望と生命の望みがかかっているからです。

 

5.神の勝利を先取りし、神のご支配を現在化する祈り

前に、祈りの特質として、祈りには普遍的に終末論的な本質がある、とお話いたしました。祈りとは、天と地とを垂直に行き来する聖なる神の恵みの通路であり、過去・現在・未来を串刺しにして、永遠を確保する恵みの場であり、聖なる神の場である、と申しました。ですから、私たちが、たとえどんな場所にいようと、どんな時にあろうと、祈りにおいては、私たちは「永遠の完成」を先取りすることができるのです。まだ未完成の時の中にあろうとも、すでに実現された完成の時を、今ここに、私たちのもとに現在化することができるのです。それは、祈りという場において、聖霊の働きに包まれつつ、主イエスのお身体において、みととばを通して働く神のご支配とご主権が勝利しているからです。そしてその勝利は常に私たちのために確保され、実現しているからであります。聖霊は、キリストの十字架と復活のお身体とその勝利を、そのまま、私たちのうちにもたらして、私たちをキリストの身体に与らせ、キリストの霊と身体と同じ一つの体にしてくださり、永遠の天における神の御国の勝利へと導いてくださいます。聖霊は、みことばの説教を通して、主キリストを私たちの「かしら」としてくださり、また主キリストは、聖霊に働きとみことばを通して、ご自身が制定された洗礼と聖餐に私たちを与せ、私たちをキリストの十字架と復活の身体としてくださいます。その意味で、私たちは、神によるサクラメンタルな方法で、根源的に「キリストの身体」であり、キリストと共に悪魔の誘惑と闘い、キリストの十字架の死に至るまでの従順においてすでに悪魔に勝利し、神の義を獲得しキリストと共に永遠の命に復活した喜びと完成の中にあります。どこにいようと、どんな時であろうと、私たちはキリストの身体なのです。キリストは、荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝ちましたが、「アッバ、父よあなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)と祈り、十字架の死に至るまで、一方で父なる神の御心を貫き、他方で人間の罪を償い贖ったのです。このキリストをかしらとして、わたしたちはキリストの身体として、キリストの教えられた祈りをささげます。「どうか、あなたの聖なる御霊の力によって、私たちを守り、強めてください。そして、これらの敵に対して、絶えず堅く立ち続けて、この霊の戦いで敗れることなく、最後は完全な勝利におさめさせてください。」と祈るハイデルベルク信仰問答127の祈りは、正に「教会」の祈りそのものであります。聖霊の働きの中で、キリストにおいて、神の主権は完全に勝利し、神のご支配は打ち立てられているのです。

 

6.世界史の重荷を自覚的に担う祈り

祈りは、自分たちのために祈ることも大切ですが、もっと大切なことは、神の栄光が輝くことを喜び祈り、そ世界の贖いのために祈り、そして世界万物とその全歴史を担う祈りとならなければなりません。主イエスをかしらとして、また主イエスの身体として、世界の隣人や万物の贖いを求めて闘い祈る祈りでなければならないはずです。主イエスが、十字架において、私たち罪人のための血を流して悪魔の誘惑と闘われたように、私たちもまたこの祈りを通して、世界の人々のために、悪魔の誘惑と闘うのであります。「8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。8:23 被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」このパウロの言葉における「霊のうめき」は、そのまま、キリスト御自身のうめきであり、またキリストの身体である教会のうめきでもあります。聖霊の働きのもとに、キリストをかしらとする万物が一体となって、祈る祈りではないでしょうか。

 

 

2021年5月2日「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.5.2 小金井西ノ台教会 復活第5主日

「ハイデルベルク信仰問答」問答126

主の祈り(5)

 

 

問答126 (司式者)

「第五の祈願は何か。」

答え   (会衆)

「『我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ』です。それは、

どうか、キリストの御血潮ゆえに、私たち貧しい罪びとのために、

私たちのあらゆる罪業を、そしてなおもまた付きまとう邪悪な悪行を、数え挙げないでください。

このあなたの恵みの証しとして、私たちは、自分自身のうちに、

自分の隣人を心から赦そうとする断固たる決意が与えられていることを、

発見するからです(という祈願です)。」

 

2021.5.2 小金井西ノ台教会 復活第5主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教64

説教「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」

聖書 詩編51篇1~21節

マタイによる福音書6章5~15節

 

はじめに. 罪を犯し、自分の犯した罪を自覚し、自分の罪を償うには、

本日は「主の祈り」の第五の祈り「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」について学びます。「罪の赦し」を神に嘆願する祈りです。神に罪の赦しを願い求めるのは、言うまでもなく、私たちが罪を犯しているからであり、同時にまた、罪を犯していると自覚し認識しているからであります。そればかりか、自分が罪を犯していることを知ってる以上に、罪にいつも苦しんでいるからであります。罪を犯し、自分の罪を知り、自分の罪に苦しむ者でなければ、罪の赦しを願い求めることはないはずです。私たちが、罪の赦しを求めて祈るのは、実際に、自分が罪を犯しており、自分の犯した罪を知っており、そのために深く罪に苦しんでいるからであり、よって罪の支配から解放されることを深刻に求めているから、であります。

 

1.罪の判定基準である「神の律法」、そして「罪の裁き」と「罪の償い」が求められるが・・・

そこで、罪を犯すと申しますが、いったい私たちはどんな罪を犯したのでしょうか。ユダヤの民は、ほかのどの民族よりも、自分たちの罪の犯した罪をよく知っていたと思います。なぜなら、ユダヤの共同体には、とても厳しい神と民との「掟」があって、自分の言動一つ一つの善悪を厳密に測る基準があったからです。人間は皆、自分の都合や自分中心の考えや判断に基づいて善悪を決めます。その点、自分の思いが善悪を決定する判定基準にしているので、そこでは自分を正当化してしまい、善悪の基準は常に自分中心に揺らぎ、基準は失われます。しかしユダヤでは詳細かつ厳密な律法規定があって、律法を基準として全ての言動は判定されていましたので、罪も善悪も一目瞭然でした。言うまでもなく、ユダヤの民にその律法規定を与えたのは、彼らの「神」でありました。神が律法を与え、その神の律法が罪の判定基準となって、民はその罪を測られ、或いは数えられて、裁きを受けたのです。この神の律法について、主イエスはこう教えておられます。マルコ12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。12:30 心を尽くし精神を尽くし思いを尽くし力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』 12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28~31)。つまり、神に対する掟と隣人に対する掟です。言い換えれば、神に対する罪と隣人に対する罪が生じることになります。ここで、私たち人間が根本から問われることは、罪を犯さないこと、言い換えれば、完全に掟を守る責任を果たすことです。責任を完全に果たす、それを怠った場合は、その借りを完全に支払い罪を償い尽くすことになります。

そこで、へりくだって自分のことを謙遜に考えてみますと、神に対しても自分は常に完全であり、隣人に対しても自分は完全であり続けることができる、と言い切れる人は誰もいないのではないか、と思います。すると、明らかに、神に対しても隣人に対しても、私たちには掟を完全に貫徹する責任能力はない、ということに気付きます。であれば、罪を償うほかに道はないのですが、その償いも、償うことができない、という「無力」を知るばかりです。パウロは、罪についてこう告白しています。「ローマ7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:21 それで、善をなそうと思う自分にはいつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(ローマ7:18~21)。このように、パウロは、明らかに、神の律法において破綻した人間本性を告白しています。つまり、私たち人間は、自分が罪を犯したこと、自分の罪を認識できること、そればかりか、ただ単に罪を犯さないという責任能力だけではなくて、その罪を償うことすらできない、という現実を背負っていることになります。したがって、二度と罪を犯しません、ということではなくて、罪を犯さないどころか、犯した罪を償うことさえできないので、どうか、犯した罪を赦し、どうかその償いも償い、どうかこのような負債をあなたが代わって支払ってください、と嘆願するほかに、罪を解決する道はないのであります。

 

2.「どうか、キリストの御血潮ゆえに、数えないでください」

ハイデルベルク信仰問答126は「第五の祈願は何か。」と問い、「『我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ』です。すなわちそれは、どうか、キリストの御血潮ゆえに、私たち貧しい罪びとのために、私たちのあらゆる罪業を、そしてなおもまた付きまとう邪悪な悪行を、数え挙げないでください、このあなたの恵みに対する証しとして、私たち自身のうちに、心を尽くして自分の隣人を赦そうとする断固たる決意があることを、私たちは確かに覚えていますので(という祈願です)。」来週の先取りになってしまいますが、問答127では、はっきりと「私たちは、自分では一時(いっとき)でさえ保ち得ないほど脆く弱い存在です。」と告白します。神に対して「どうか、キリストの御血潮ゆえに、数えないでください」と嘆願しています。ここで、とても大切なことは、自分の「破れ」を知る、罪を犯さないことにおいて、自分は無力である、と深く自覚している、この問答の出発点は、そうした罪びととしての自覚にあります。

福音書の中で、神の律法について「みな、こども時から守って来ました」と答える人物が登場します。この金持ちの青年は「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。そしてわたしに従いなさい。」と主イエスに命じられますが、しかし「悲しみながら立ち去った」のです。まさにパウロと同じように、律法の前で、涙ながらに、完全に破綻してしまったのです。まさに「破れ果てた自分」と向き合った瞬間でした。律法に破綻した私たちが、すなわち罪を犯し自分の罪を知って、しかも自分の犯した罪さえも償わねばならない自分と向かい合う場で、私たちのできることとはたった一つ、「罪の赦しを乞う」だけであります。問答126の文言で言えば「どうか、キリストの御血潮ゆえに、私たち貧しい罪びとのために、私たちのあらゆる罪業を、そしてなおもまた付きまとう邪悪な悪行を、数え挙げないでください」とありますように、すなわち罪を罪と判定しないで、そしてその裁きを行わないようにしてください、と嘆願することになります。この祈りでさらに重要な点は、果たして自分の罪を「誰が赦し誰が償ってくれるのか」ということです。罪が赦されず、罪が償われなければ、自分は永遠に人でなしで終わり、人格としての尊厳ある本質は、その場で失われます。まさに人でなしです。したがって、神と会衆の前で、ただひたすらに「邪悪な罪をも、どうか、キリストの御血潮ゆえに数えないでください。」と嘆願する外に道はありません。

ただ、この嘆願の祈りにおいて、最も大事なことは「キリストの御血潮」において、「罪の償い」とその償いを成し遂げられた「主キリスト」による神の恵みを知っている、ということです。「数えないでください」と敢えて直訳しましたのは、どれほど多くの罪業と悪行とを私たちが積り積もって堆積しているか、神は全知全能であって、その罪業の一つ一つを克明に数え挙げられる、ということをよく知っているからであります。反対に、この祈りは、キリストの十字架の死においては、その裂かれた肉と流された血によって、私たちの罪業の一つ一つ、そのすべてが完全に償いが行われた、ということを知っていて、心からその恵みを受け入れ、感謝をもって認め、そして全幅の信頼をもって信じいるのです。すでに罪の償いがすべて完全に、キリストの十字架において、すっかり完了したのです。だから「罪業や悪行を数える」必要がなくなったのであり、したがって「キリストの御血潮」ゆえに、罪は既に赦されてしまった、のであります。つまりキリストの十字架における贖罪を信仰によって受け入れ認めることで、罪の赦しは深く認識され、人格としての尊厳は罪とその償いから解放されていることになります。そこで新たに生まれる真実な思いは、御子イエス・キリストと御子を私たちの贖罪のためにお与えくださった神への感謝と讃美であります。それゆえ、私たちの精一杯できること、それは、ただひたすらに神に感謝と讃美を捧げることの外になす術は、何一つとして、ありません。罪を犯して深い悔い改めに至ったダヴィデは「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩51:19)と告白しています。この告白は、明らかに、贖罪者であるキリストを待望する預言として、解釈することも可能ではないでしょうか。

 

3.過去と現在を貫く終末論的な祈り

マタイでは「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように(avfh,kamen)」(マタイ6:12)と、アオリストの過去形が用いられています。ただしルカでは「わたしたちも自分に追い目のある人を皆赦します(avfi,omen)から」と、現在形になっています。「過去に赦さのだから、赦してください」と、或いは「今現在、赦しますから、赦してください」と、一見、読むことができます。今この時の中でしかも地上で祈る祈りである、と同時に、時を超えて祈る祈りでもある、という過去・現在・未来という時を超えて、いつの時にも天地を往来しつつ祈る祈りではないかと思います。昨日であろうと、今日であろうと、そして明日という未来であろうと、罪を赦していただき、互いに罪を赦し合うのです。いわば時空を超えて祈る普遍の祈りと言えましょう。その意味から、まさに主の祈りは公同の祈りなのです。

 

4.キリストの十字架の御血潮ゆえに

ここで、とても深刻な問題が生じます。先ほど、問答126で「私たちもまた、心を尽くして自分の隣人を赦しますから」と告白されていましたが、本当にそんなことができるのでしょうか。片時さえも自分で自分を保ち得ない自分なのに、罪を犯さず、悪を行わず、ましてや、正しい意味で、罪の問題を放棄することなく隣人を赦す、などということが果たして人間にできるのでしょうか。特に、ここで大きな問題となるは、人間の「罪の本質」を諦めて空洞化させてしまうことなく「罪の本質」を受け止めつつ、しかも同時に「自分の隣人を赦す」ということです。その点、「主の祈り」では、また隣人の罪を赦すと宣言するハイデルベルク信仰問答126でも、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」とありますように、私たちが、自分に罪を犯した者たちを赦す、とはっきり言い切って、宣言しています。難解な点は、果たして私たちに本当に他者の罪を赦すことができるだろうか、という点です。否、根源的に罪を犯した罪びとに、他人の罪を赦すとか赦さないとか、そんな資格が本当にあるのでしょうか。罪びとが罪びとを云々する資格などないのではないか、と思うのです。それなのに、ここでははっきりと「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と口に出して祈り、また問答126では「心を尽くして自分の隣人を赦しますから」と言い切っています。どういうことなのでしょうか。

ここでは、正直申し上げて、わたくしも自分で十分に理解できていませんので、説教として語り尽くすことはできない難所でもあります。しかし、ただ一つだけ、申し上げることができるのは、この祈りにおいて、徹頭徹尾「キリストの御血潮ゆえに」という決定的な信仰の前提がある、ということです。私たちの前には「キリストの血」が流されている、という現実の前に集められた者の祈りである、ということです。しかもこの主の祈りを祈る者たちは皆、主のながされた血潮の前で、深く悔いくずおれる者たちである、ということです。

先ほどご紹介しましたように、ダヴィデは「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編19節)と祈りました。祈る者の心は「打ち砕かれ悔いる心」です。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と、祈る者たちの心を支配する思いは、つまりこの祈りの大前提は「打ち砕かれ悔いる心」であり、その心の中では大きな心の転換が生じており、それは神の御前で革命的に、いわば奇跡のように引き起こされた出来事であります。罪びととして、神の御前でひれ伏し「沈黙する」ばかりであり、ただただ涙をもって胸を打ちたたいて、自己の罪ゆえに打ち砕かれた「破れ」であり、神に対する「痛悔懺悔」です。しかしその悔い頽れる罪びとの眼前に、まさに「十字架の御血潮ゆえに」新しい出来事が引き起こされるのです。そこでは、神の御子であるキリストが血を流して、私たちのありとあらゆる罪業や悪行のすべてを背負って償い、負債を支払っておられるのです。詩編51編の詩人は「51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。」と祈り、「51:21 そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときにはあなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。」と、この祈りを結びます。背きの罪を脱ぐ去られるそのときを、心から悔い頽れて待ち望んでいます。この「そのとき」を、今ここに、この祈りにおいて、このように私たちはあなたの恵みとして受けている、という決定的な出来事を経験しているのです。

問答126を、もう一度、読み直してみますと、「どうか、キリストの御血潮ゆえに数え挙げないでください。」と祈り求めたうえで、さらに「このあなたの恵みの証しゆえに、私たちは、自分自身のうちに自分の隣人を心から赦そうとする断固たる決意が与えられていることを、見出しているからです」と告白しています。

一見、負い目のある人を赦すことを「交換条件」にして、自分も赦してください、と祈っているように読んでしまいそうですが、忘れてはならないのは、先ほどの「キリストの御血潮ゆえに」という問答126の大前提です。聖書では、マタイは過去形、ルカは現在形と異なりますが、重要なのは、過去であれ現在であれ、またたとえ未来であれ、そこには「キリストの血」が十字架において流されており、その血によって、私たちを背き罪から贖う出来事が既に引き起こされている、という大前提です。たとえどんな罪であれ、如何なる罪びとであろうとも、決してキリストが十字架で流された「贖罪の血潮」から離れたで祈る祈りではない、ということです。キリストの贖罪の血は、私たちの罪を赦すための血は、わたしのためにすでに流されましたが、それは、あなたのためにも、彼らのためにも、そしてすべての人々のためにも流された「贖罪の血」であります。

 

5.「このあなたの恵みの証しとして、隣人の罪を赦す」

ハイデルベルク信仰問答126の中で、意味深い点は、キリストの御血潮ゆえに数え挙げないでください。このあなたの恵みの証しとして、私たち自身のうちに隣人の罪を赦そうとする断固とした決意が与えられていることを私たちは発見するからです」という部分です。鍵語の一つは「このあなたの恵みの証しつまり、隣人の罪を赦すという断固たる決意の根源に、その源泉として、「このあなたの恵みの証し」を自分自身のうちに見出しているからであります。「この」という指示語は、自分に最も近くにあって、言わば手に届き手に触れる所にある、否それ以上に、近くの自分自身の内にある、という現実を指しています。しかもそれは「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と証言される「あなたの恵みの証」です。「あなたの恵みの証しとして」として流された「キリストの血」です。キリストの血が、今ここに、奇跡のように、このように私自身の内にも流れ出すのです。しかもそれが、ついにはわたしの中の証しとして、断固たる決意となって、今ここに溢れ出したのです。その内で起こる出来事を、今ここに、このわたしのうちに、見て感じて体験して、発見して、認めることができる、と告白します。問答126は、文字通り「私たちの内に、見て発見している(finden)」と告白しています。それは、自分の力や意志を超えて、神自らが「神の恵み」の証明として実現した出来事であります。この神の恵みの証明とは、キリストの血ゆえに、神は罪を数えあげなかったこと、罪を赦されたこと、そして復活という永遠の命を私たちのうちに注がれたことです。主の祈りをささげる中で、弟子たちは、正に自分のうちに流れる「キリストの血」を見つめていたのではないでしょうか。自分のうちに泉なって湧き出て溢れ出るキリストの十字架の血を、まさに自分の中に深く覚え、十字架の体験を益々深くしているのではないでしょうか。その結実として、隣人を赦そうとする断固たる決断が心のうちに引き起こされた起こされたことを、キリストの御血潮ゆえに、引き起こされた神の恵みを、自分のうちに発見して、このあなたの恵みの証明として、と告白したのではないでしょうか。

この体験について、この祈りの共同体のど真ん中に立って、パウロはこう告知します。「11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これはあなたがたのためのわたしの体であるわたしの記念としてこのようにこれを行いなさい』と言われました。11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である飲む度にわたしの記念としてこのようにこれを行いなさい』と言われました。11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに主が来られるときまで主の死を告げ知らせるのです。」という聖餐の制定語です。弟子たちとその共同体は皆、毎日家に集まると、この制定語に導かれ、キリストの十字架と復活の身体を分かち合っていました。集会の中心で、このキリストの身体を、特に十字架において贖罪の死を遂げられたキリストの身体を分かち合い、正にこの「主の祈り」は皆でささげられていたはずです。共同体の民は、キストの「飲む度に、このように(これを)記念(想起すること)として行え」とする命令に基づいて、共にパンとしてではなく「キリストの血」として自己のうちに深く覚え、十字架に流された主の血をいよいよ深くそして鮮やかに想起したのです。その「キリストの血」ゆえに、当然ながら、互いに罪を告白し合い、そして互いの罪を赦し合ったはずです。そして復活の身体の約束のもとに、新しい人間の希望のもとに、未来の復活と完全に赦しの祝福を期待したはずであります。ヨハネが証言するよういに、まさに「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と。

実際に、弟子たちの共同体の中では、互いに隣人を赦し合っていたはずです。例えば、取税人マタイ(レビ)のような罪人との近しい交わりの中で、罪を告白し懺悔する交わりが日常的に行われて、マタイの教会の人々は、皆「赦しましたように、お赦しください」と祈ることができたのではないか、と思います。それは、その交わりの中心で、キリストの血が罪びとのために流されていたからであり、そのキリストの血を互いに分かち合っていたゆえの恵みから生まれたものでありました。キリストの血が流され、それに与ることで、確かに今神の御前で、あなたの罪の償いのために、キリストの贖罪の血が流されて、あなたの罪は赦されました、というその事実と現実を、人々は信仰と感謝をもって、互いに受け入れ、共有したはずであります。そのようにして弟子たちは本当に互いに「赦した」のではないでしょうか。マルコは、ガリラヤで徴税人レビの家でのことを伝えています。「2:14 アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいてイエスに従っていたのである。」(マルコ2:14~15)。元々、主イエスの共同体は、このように罪びと同士の共同体であり、「罪の赦し合い」を前提にして、主イエスは弟子たちを召し集めたことが手に取るようによく分かります。幾度もどんな罪びとであろうと、この共同体は罪を赦し合って来たのです。それが、キリストに従う前提でした。「キリストに従う」ということは、キリストの贖罪の血を受けて罪を赦していただくことに外ならないからです。

否、それ以上に、聖餐の制定というキリストの御心のもとで、すでに弟子たちもまた、キリストの身体としてキリストと共に十字架の死を追体験、共同体験しており、償いの中にあることを、自らのうちに深く覚えている、からであります。主語は「私たち」ですが、それは「キリストの血」のおかげで、「私たち」が主語になることができたのです。したがって意味上の主語、本当の主語は私たちである以上に、私たちを背負う「キリスト」の血であります。「キリスト」が、私たち全人類の罪のために、ご自身の血を流して代価を支払い、罪を償い、赦したのです。どうか、天にいます主なる神よ、私たちの罪をいよいよお赦しください、ということになるのではないかと思います。その中で、人間同士が罪を赦し合うという現実が生まれるのです。

 

6.新しい人間性に生きる希望の中で

十字架の血潮を受け、聖餐に与り、人々はひたすら「罪の赦し」の恵みの中で、互いに罪を告白し懺悔しつつ互いの罪を赦し合って来ました。お互いの間には「キリストの血」という無限の愛と贖罪の泉が溢れていたからです。キリストの血は、キリストの身体としての共同体全体を潤し養います。新しいキリストの身体として、メンバーひとりひとりに、キリストの血はひとりひとりの命と身体に深く隅々に滲み渡り、魂と身体を完全に贖罪し、新しい復活の霊と身体に養うのです。教理的に言えば、キリストによる義認と聖化の中で、新しい人間性が育まれ、復活という完成へと向かいます。その新しい人間性に生きる希望に包まれて、キリストの身体である共同体は、この歴史と時空を貫き、ついには超えて天に至るのです。そこには、過去も現在も未来をもすでに貫通した永遠の希望があります。マタイはアオリストの過去形で、ルカは現在形で「罪を赦す」と告白していました。それは、決して矛盾や混乱ではなく、時の中にしっかりと生き、同時にまた、時を超えて生きる、まさに終末論的な生の現実を物語るものであります。キリストの共同体、キリストの身体である教会は、まさに罪の赦しの恵みのもとに、永遠の完成に至るまで、日々新たにされているのであります。パウロは告白します。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのはもはやわたしではありませんキリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19b~20)。

2021年4月25日「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.4.25 小金井西ノ台教会 復活第4主日

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答125

「主の祈り」(4)

 

 

問125 (司式者)

「第四の祈願は何か。」

答え  (会衆)

「『われらの日用の糧を今日も与えたまえ』です。

それは、身体に必要なものはすべて、私たちにお与えください、ということです。

すなわち、私たちが、それによって、あなたこそ善きものすべての唯一の源であり、

あなたの祝福がなければ、私たちの気遣いや労苦もあなたの賜物さえも、

私たちに繁栄をもたすことはない、ということを知り、

私たちが、あらゆる被造物から私たちの信頼を取り除き、

ただあなただけに、私たちの信頼を置くようにしてください(という祈願です)。」

 

2021.4.25 小金井西ノ台教会 復活第4主日

『ハイデルベルク信仰問答』問答125

ハイデルベルク信仰問答講解説教64

説教 「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」

聖書 詩編145編1~21節

マタイによる福音書4章1~4節

ヨハネによる福音書6章22~59節

 

はじめに. 「人のこと」と「神のこと」

「主の祈り」は、本日より「神のこと」を祈り求める祈りから世にある「人間のこと」に、即ち「パン」のこと、「負債」のこと、そして「誘惑」についてと、祈りの主題は変わります。「主の祈り」の形式は、確かに外見上は前半の三つが「神のこと」、後半の三つが「人間のこと」と分類されますが、決して誤解しないようにしていただきたいのは、「人間のこと」の祈りだからと言って「神のこと」を中心に祈るのではなく、人間のことを中心に祈る、というわけでは決してない、ということです。人間やこの世のことを深く覚え、思いを深くすればするほど、私たちの祈りは、益々「神のこと」に集中してゆくからです。本当の意味で、人のことをより確かにそして豊かに覚える、ということは、実は、いよいよ神をより深く覚えることにかかっているのです。神を確かに知ることにより、人の本当の幸いも確かとなるのです。

ハイデルベルク信仰問答125は、本日の第四の祈り即ち「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」について、「第四の祈願は何か。」と問いまして、答えで「『われらの日用の糧を今日も与えたまえ』です。それは、身体に必要なものはすべて、私たちにお与えください、ということです。すなわち、私たちが、それによって、あなたこそ善きものすべての唯一の源であり、あなたの祝福がなければ、私たちの気遣いや労苦もあなたの賜物さえも、

私たちに繁栄をもたすことはない、ということを知り、私たちが、あらゆる被造物から私たちの信頼を取り除き、

ただあなただけに私たちの信頼を置くようにしてください(という祈願です)」と答えます。ここで、是非しっかり注目しておきたい点は、はっきりと、地上のものにではなく、ただ神お独りに信頼を向ける、ということに私たちの心と祈りの焦点を絞り込んでいます。最初に、善きものすべての唯一の源は神である、次いで、どんな大きな労苦も恵みも、神の祝福のない所では決して繁栄をもたらすことはない、したがって、あらゆる被造物から信頼を取り除き、ただあなただけに私たちの信頼をおくようにしてください、と嘆願しています。つまり、日々の糧を人々が祈り求めることは、ただ神だけを信じて、神のことだけを覚える、ということをなる、というのです。つまり、日々の糧は、ただ神のみから与えられ、しかも繁栄成長に至る賜物はただ神のみによるものである、ということになります。

冒頭で誤解をしないようにと申しましたが、その意図は、多くの場合、肉体やこの世の生活に必要なものは皆、この世から、この世の人々から与えられ得られるものであって、いわば「人」からでないと得ることができない、と多くの方々が考えているからです。仕事がなければ生活できない、仕事を得るには何をしなければならないか、どこに行って誰に頼めばよいか、そのためには・・・と、そう考えますと、学歴や職業であったり、お金や権力であったりと、私たちの思いは益々この世の力に心を奪われてゆきます。今のこどもたちに学校で、何が一番必要か、と尋ねると、多くのこどもたちが、即座に「お金」と声高々に答えます。人はどんどん神から離れ、益々この世の虜となってしまいます。「肉体に必要なもの」となると、やはり医療や介護であり、まずはその蓄えを求めることになります。人間が造り、人間が与え、人間が守ってくれる、生活に必要なものはすべてこの世に求めるしかない、と考えてしまうのです。そこで実生活の本音では、神は幻想であり、絵空事でおとぎ話になってしまうのです。現実の世界に、神はいないのです。ただこの世に行き詰まるや否や、途端に宗教や占いへと走り出す、というわけであります。

 

1.日毎の糧を「今日も」「明日も」そして「毎日」お与えください

マタイとルカとの比較表をご参照いただきますと、マタイは「必要な糧を今日与えてください」(6:11)となっています。ほかの邦訳聖書を比較しますと、「口語訳:わたしたちの日ごとの食物をきょうもお与えください。新改訳改訂3:私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」という訳になります。原典ではルカは「必要な糧を毎日与えてください」(11:3)となっています。ほかの邦訳聖書は「口語訳:わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。新改訳改訂3:私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」と訳しています。マタイの「今日」(sh,meron:sh,meron)と、ルカの「毎日」(kata, kaqV 毎に+ h`me,ra h`me,ran 日、昼、時)とでは、少々意味が異なります。私たちの主の祈りでは、「今日も」与えたまえ、と祈っていますので、マタイのものになります。ハイデルベルク信仰問答も「今日 heute」となっています。興味深い訳には「わたしたちに今日明日のためにわたしたちのパンを与えて下さい」(E・シュヴァイツァー(佐竹明訳)『NTD新約聖書註解マタイによる福音書』1978, 178頁)という訳もあります。つまり、生きるために、日々必要となる食卓を「今日も」そして明日も、「日々毎日」私たちにお与えください、と神に求める祈りです。こうした些細な用語からも、私たち人類が生存するためには、どれほど日々のパンと食卓が重要であり必要なのか、それを主イエスはとても深く理解しておられたことがよく分かります。決して主イエスは、世にある私たちの日毎のパンを軽んじることはなかった、とむしろ強く言わなければなりません。

 

2.命の主権者は神である「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」

人類は、生存するために、命のために、パンを食べ続けることを余儀なくされました。パンは、人類の繁栄ところか、生存そのものを決定づけたのです。そして人類は、食べるために狩猟活動を行い農耕を生み出し、それによって、人類には社会や文化が生まれ、ついに文明社会が歴史に登場します。文明社会とは人類の総力を挙げて作り上げた「パン」を得るための大仕掛けな仕組みである、と言えましょう。今もその基本は全く変わりありません。人類はパンを求め、パンのために文明社会を築いて来たのです。パンを得るための文明社会は、まさに価値ある意義ある偉業でありました。しかし人類はパンのために文明を築くと同時に、またパンのためにその文明を激しく破壊し続けて来たことも事実です。パンのために戦争と掠奪が繰り返され、大量殺戮が行われ、科学文明の総力を尽くして殺し合って来たことも否めない事実であります。「原子爆弾」は正にその象徴です。パンを得るための文明という仕掛けは、常にその背後で、殺戮の道具でもありました。これは、命とパンのために、築かれた文明社会の致命的な大矛盾であり、ここに人類の根源的な悲惨と罪とを見出すことができます。

最近、年を取るにつれて、近づく「死」について、よく考えるようになりました。すると、いつも決まって主イエスのみことばを想い起します。それはルカ福音書の譬えの説教です。ルカ12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建てそこに穀物や財産をみなしまい、12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 12:20 しかし神は、『愚かな者よ今夜お前の命は取り上げられるお前が用意した物はいったいだれのものになるのか』と言われた。」(ルカ12:16~20)という譬え話です。このイエスさまの説教により、私たちはある重大で決定的な事実に、目を覚まさせられるのです。パンを日々得るために、そうした悲惨を背負い続ける人類に対して、主イエスは、ついに譬え話をもって、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と語りかけます。命のパンを得るための文明であるはずなのに、文明は大量殺戮の装置に豹変するのです。そうした文明の矛盾を鋭く突く、とても辛辣な皮肉にも聞こえる譬えではないでしょうか。この譬え話は、「死」という深刻な譬えをもって私たち人類の限界を揶揄するためではなくて、パンは本来「命」のためにあるのであって、パンを得るための仕掛けよりも遥かに大切であることを、私たちに警告して気付かせてくれます。主イエスはこの譬えから、「命」と「死」を決定する命の主権者は、神であって、私たちではない、ということを教えています。ただ単に、パンを得る仕掛けをつくること以上に、「命」そのものこそ大事であり、かつまたその「命の主権者」はただ神お独りである、ということです。それは、私たちに命も身体も、何もかもがすべて、神さまのものであり、すべてが神さまの御心による、という絶対的な事実です。死の訪れによって、私たちは初めて「自分のもの」など、この世には何一つ存在しない、ということに気付き、神は幻想ではなくて、この世の生こそが幻想であることを初めて知ることになります。

さらに主イエスはこう教えられます。「マタイ6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父はこれらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。6:33 何よりもまず神の国と神の義を求めなさいそうすればこれらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:30~33)。このように、パンのこと、お金のこと、日常生活に必要なことで、私たちが思い悩み、心を奪われてしまう時に、主イエスは「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と説いて、私たちの心を目覚ますのです。人は、死を投資手、人間は無限で永遠ではない、そして神ではなく、永遠の神がおられることを思い起こすのであります。したがって、命に直結するパンを、しかも日々の糧として、今日も、明日も、そして毎日、お与えくださいと神に祈り求めるのであります。

 

4.「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

「命の主権者」はただ神お独りである、という事実に、厳粛に思いを向けること、そこに主イエスの教えの中核、祈りの中心があるように思われます。心を神に向けて高く挙げるのです。心を神に向けるとは、ただ一つ、神のみことばに耳を傾けることであります。主イエスは、パンを得る仕掛けを作る煩いについて、こうも警告します。

マタイ4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある(マタイ4:1~4)。

本当に意味の深いみことばではないでしょうか。「断食」とは、「祈り」のための断食であり、「神」に心を向けるために行われます。心を神に向けようとするのですが、空腹のために、その心は神から離れて、神に背き「石ころ」に向かうのです。しかも恰も「石」が「パン」となるかのような幻想の虜となるのです。こうして人類は、パンを求めるとき、悪魔の誘惑に陥るのです。パンを生み出すはずの文明社会が、大仕掛けの殺人道具に豹変するのです。しかしその時こそ、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことを想い起さなければなりません。そうでないと、殺し合いが始まってしまうのです。確かに、人の命を生かし養うパンは大切ですが、そのパンのために、私たち人間はいつでも悪魔に変わることもできるのです。そうした文明社会の悲しいほどに矛盾した罪を、神は深く心を痛め、憐れみ、そして警告のみ言葉を告げられたのではないでしょうか。人類は、パン製造機として文明社会を築きましたが、ただパン製造だけでは生きることはできないのです。もう一度、神の啓示のことばを心深くに回復して、本当の命に直結する命のパンに心を向け直すのでなければならない、と思います。パン製造機として大きな矛盾を背負う文明の力から、真の命と直結するもう一つのパン、すなわち神の啓示のみことばへと心を向け直すのであります。

 

5.荒れ野に降る「マナ」から、永遠の命に至る「命のパン」を

ただ「パン」だけを求めるのではなく、神のことばを求める、ということでありました。キリストが、私たち人類としての人間性のすべてを担い背負う中で、サタンの誘惑を受けながら、パンと命のみことばをめぐり闘いました。パンは「命」に直結する食べ物であることを忘れてはなりませんが、パンは命のためのパンであって、パンのための命ではありません。つまり大切なことは、パンが神の恵みによって与えられるのは、「命」が養われるためです。「命」がいよいよ養われて「永遠の命に至る」ために、人はパンを食べ続け、神はパンを日々私たちにお与えくださるのです。もっとよく言えば、滅びるための命ではなく、「永遠の命」に養われて生きる、そのために与えられる「命のパン」を求める祈りです。私たちを永遠に命に養うパンとは何か、それをしっかり考えるのでなければなりません。

かつてイスラエルの民は、エジプトの奴隷支配から解放されエジプトを脱出して、シンの荒野を彷徨ってしまい飢え渇きを覚えます。民はモーセとアロンに、パンを求めて、不平を言い出すのです。その時、神は「マナ」を降らせて、食物を与えて必要に答えられ、民を養われました。マナは「16:14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた」(出16:14)。それは「コエンドロの種に似て白く蜜の入ったウェファースのような味がした。」(出16:31.参照民11:7)が、彼らは「11:8 民は歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった。」(民11:8)と聖書は伝えています。意味深長な所は「16:19 モーセは彼らに、『だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない』と言ったが、16:20 彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。16:21 そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。」と記されていることです。人間の思いからマナを取り置きして残そうとする者には、マナはすっかり溶けてしまい、失われてしまいました。これは何を意味するのでしょうか。神がお与えくださる範囲において食べる、神の与えられる範囲を超えて、自分の欲望に合わせて取り置いて残そうとすると消えてしまうのであります。ここには、どうしても、人間から神へと生きるべき方向転換が求められます。人間の思い、人間の力や文明の力に依り頼むことから、神の愛と憐れみにすべてを向け直して悔い改め、そして神と共に生きる命の道を探り求めるのであります。

そうした人類に対して、主イエスは人々にみことばを語り、こう啓示します。「6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。6:51 わたしは天から降って来た生きたパンであるこのパンを食べるならばその人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければあなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ6:48~54)。即ち毎日祈り求める「日毎のパン」とは、天からのパンである「キリストご自身」を意味していたのです。「わたし(キリスト)の肉」は、世を生かし、終わりの日に復活させるのです。このパンを日々祈り求めるのであります。

ここで、主イエスが啓示する真理とは、死と滅びに向かうパンではありません。命と復活を遂げるためのパンです。死と滅びは人類の罪の支配によるものであり、アダムとエヴァの原罪に由来します。この罪を完全に償い尽くして、神の義を回復して、神の祝福のもとで「永遠の命」に復活するのです。その罪に支配された人間性を背負い、キリストは十字架において罪を償い、神への従順を貫き、神の義を人間性の内に回復したのです。その十字架における贖罪により、死と滅びに定められた命は、死から復活するという永遠の命となって現れたのです。その復活の命を、私たち人間の内にもたらしてくださった、まさに「命のパン」こそ、主イエス・キリストであります。

人類は、命のためにパンを求めて、彷徨い続けて来ました。その旅路は、一方で巨大なパン製造機である文明社会を築くという英知の光の中を、しかし、その他方で破壊と殺戮の繰り返すという破れの暗闇の中を彷徨い続けています。文明の力はこの大矛盾の闇と悲惨を克服することはできませんでした。皮肉にも、文明はパンのために文明自身を破壊し続ける歴史でもありました。神は、そうした人類に、神のことばを啓示し、死と滅びの計画を発し、ついに神の御子ご自身が、この地上に降り、人間の肉を纏い、人間の救済を実現します。それが、キリストの受肉であり、キリストを共に分かち合うことで、人類の悲惨は愛と助け合いへと変えられるのです。この永遠の命へと養われる希望によって、人類は天国という新しい未来をめざすのであります。死と滅びのパンではなく、また文明と力づくで得るパンではなく、神の愛と憐れみのもとで「永遠の命」を養う命のパンのために生きる道がここに新たに与えられたのであります。

こうして主の祈りは、どこの家庭においても、必ず食卓の度に祈られるようになりました。それは肉体のためのパンであると同時に永遠の命の身体、復活の身体を養うパンでありました。こうした食卓の習慣は、明らかに、主イエスの時代から守られていたはずです。五千人の給食も、その大がかりな食卓事例でありましょう。また主イエスは、絶えず罪人と共に食卓を親しく囲んでいます。キリストを皆で囲み、キリストを共に分かち合う食卓の様子が彷彿とされます。キリストが昇天されたのちも、12使徒を中心とする食卓は続きました。使徒言行録が「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き喜びと真心をもって一緒に食事をし神を賛美していた」(使徒2:46、47)と記す通りです。まさに神の家族、教会としての家族の食卓であります。このことは、主の祈りが、集会の交わりの中核を成していたこと、そして主の祈りが、キリストを共に覚えるみ言葉や聖餐とは実質的に切り離されたものではないことを物語っています。こうして教会の交わりの生活の中心に、主の祈りと聖餐は一体の形で受け継がれたのです。

2021年4月18日「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.4.18 小金井西ノ台教会 復活第3主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答124主の祈り(3)

 

 

問124 (司式者)

「第三の祈願は何か。」

答え  (会衆)

「『み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ』です。それは、

私たちおよびすべての人々が、自分自身の意志を自ら放棄して、

一切の異議を唱えることなく、ただあなたの善き御心にのみ服従させてください、

すなわち、天において天使たちが務めを果たすように、

誰もが皆、心からの喜びをもって忠実に、自分の職務や職責を成し遂げさせてください

(という祈願です)。」

 

2021.4.18 小金井西ノ台教会 復活第3主日礼拝

『ハイデルベルク信仰問答』問答123 主の祈り(3)

ハイデルベルク信仰問答講解説教63

説教 「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」

聖書 マタイによる福音書16章21~28節

ルカによる福音書22章39~46節

 

はじめに、神の御名、神の御国、そして神の御心の前に立つ

本日は、「主の祈り」の第三の祈り「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」をめぐる説教となります。これまで、神の「御名」、神の「御国」と続きまして、本日は神の「御心」について解き明かしを分かち合います。この第三の祈りは、マタイによる福音書だけに「御心が行われますように(genhqh,tw to. qe,lhma, sou)、天におけるように地の上にも(w`j evn ouvranw/| kai. evpi. gh/j)。」と伝えられる祈りで、ルカによる福音書にはない祈りの項目となります。直訳しますと「あなたの御心が実現しますように、天におけるように地上においても」となります。前にご説明しましたように、なぜマタイにあってルカにないのか、その理由は定かではありませんで、研究者によってその見解は異なっています。したがいまして断定的には説明できませんが、ただ「主の祈り」は、元々一字一句を厳格に守り抜くような形で、律法主義的な教えとして、形式的に確定したものとして伝えられたものではなかった、ということです。弟子たちが、其々の教会で比較的柔軟に活用する形で、受け継いだものではないか、その意味では多様な形で伝承されていたのではないか、と思われます。しかし十二使徒が迫害の中で次々に世を去るようになると、いよいよ教会として共同体全体を正しく守り導くうえで、改めて、さまざまな使徒による伝承や教えを整理して纏める必要が起こります。そうした使徒の伝承を継承する取り組みの中で、教会公式文書として、新約聖書の諸文書は勿論のこと、『使徒教父文書』も纏められ、整頓されるようになります。そのうちの一つとして『ディダケ―』も、シリアまたはパレスチナで1世紀末頃に、成立したのではないか、と推測されます。そうして今の形で「主の祈り」として教会文書として残された、と考えられます。

ただ、神の「御名」「御国」そして「御心」という形で、神に集中する祈りとして、秩序立てて構造化されているという点で、教会の教理的伝承としても、公同の祈りであると同時に、大きな意味を持つのではないか、と考えられます。分けても最も顕著なことは、唯一真の創造主を「われらの父よ」と神の名を呼ぶ呼びかけによって、祈りを始める所は、とても重要です。ユダヤの伝統では、神を「主」と呼ぶ習わしで、ヤッハウェーという神の名を忘れてしまったほどで、ましてや神を「父」などと呼ぶことは決して許されなかったはずです。それなのに、神を「わが父」「われらの父」と呼び掛けて祈る、この祈りの前提には、ユダヤ教とは決定的に異なる神観、神理解があったはずです。特に既に神とは何かを決定づける「キリスト論」が成立していた、と考えられます。つまり「主の祈り」を教えてくださった、主イエス・キリストとは、まさしく「ただ独りの永遠の神の御子である」という主イエスご自身による啓示から教えられ、それを固く信じる共同の信仰に基づいて、祈る教会の祈りであった、ということです。私たちは、信仰者として祈るとき、いつも神の御前にあって、どうすればどうあれば、厳然たる神のご主権のもとで神の御心にかなう祈りをささげられるのか戸惑い、いよいよ思いを深くいたします。それはただ単に、わたし個人の問題ではなくて、キリストの共同体全体が、どうあればまたどう祈れば、正しく神の御前にあることができるかと、とても真摯に願い求めることでありましょう。それは、唯一神の永遠の独り子でなければ、教えることのできない祈りであります。神に向かって何を思うべきか、神に対してどう祈ればよいか、罪と世の欲望に覆われた魂からは余りにも遠くて届かない、見えないことであったはずです。まさに汚れた者が、聖なるお方の前に立つときの、誠に深刻な不安であり恐れです。そのため、ユダヤ共同体は、長い間、数え切れないほどの多くの牛や羊の血を流して、贖罪の儀式を幾重にも重ねたうえ、唯一大祭司ただ独り一年に一度だけ、至聖所に入り、神の現臨する契約の箱の前に立つことが許されました。こうしたことからも、神の御前に立つことの恐れは、私たち日本人には、想像を絶する恐怖があった、と思われます。しかし、神の御前に仲保者としてお立ちくださるのは、十字架において死に至るまで罪を償い従順を尽され、ついに神の義を回復して、復活という永遠の命の祝福をもたらし、新しい契約の道を開いてくださったキリストがお立ちになり、私たち共同体のために執り成して祈る、そのまさに十字架と復活の祈りの中で、私たちもまた「天にましますわれらの父よ」と祈りを始めることができるのであります。この主イエス・キリストの十字架と復活の啓示からのみ、いよいよ見えて来る、正しいそして相応しい神の呼び名であり、神のご支配であり、神の御心であります。

 

1.人間の意志を捨て、神の御心に従う

ハイデルベルク信仰問答124は、この第三の祈りについて、「第三の祈願は何か。」と問い、「『み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ』です。それは、私たちおよびすべての人々が、自分自身の意志を自ら放棄して、一切の異議を唱えることなく、ただあなたの善き御心にのみ服従させてください、すなわち、天において天使たちが果たすように、誰もが皆、心からの喜びをもって忠実に、自分の職務や職責を成し遂げさせてください(という祈願です)。」と答えます。一言で言えば、ただ神にのみに依り頼んで、生きるようになる、ということではないでしょうか。そのために、問答124は、わざわざ「自分自身の意志を自ら放棄する」と言い、しかも「一切の異議を唱えずに、あなたの御心に服従させてください」と祈ります。自分の意志を放棄して、ただ神のみに服従する生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。人間の尊厳である自由意志を捨てて、神に服従することを、なぜ、神は求められるのでしょうか。

竹森満佐一先生は、アメリカのシカゴの新聞投書を例に挙げて、とても興味深い解き明かしをなさっています。新聞の投書によれば、「今日の教会はまちがっている、それは教会が働く人の要求に合わせてプログラムをつくらないからだ、というものでした。すると、数日たって、ある婦人が、同じ新聞に投書しました。この人たちには、信仰の基本が少しも分かっていない、わたしたちが教会に行くのは、魂を神にまで引き上げていただきたいからです。」(竹森満佐一『主の祈り』37頁)という当時の教会批判をめぐる話です。この例話は元々「願わくはみ名をあがめさせたまえ」の説教のものです。このお話で印象深い言葉は「ブログラムをつくる」という言葉です。私たちは、自分の自由な意思でいろいろ考えて、自分の人生や生活のプログラムをつくりあげることで、自分の人生を生きようとします。教会も、福音の説教を果たすうえで、宣教のプログラムを組んで、伝道活動を行います。問題は、そのプログラムを造るのは誰で、誰の意志によるか、ということです。竹森先生の例話では、働く人々が自分の都合に合わせて、教会のプログラムを造るべきだ、と言って、教会を批判したと伝えています。それに対して、自分は、自分の魂を神の御手に委ねている、という婦人の反論でした。同じ自由な意思でも、自ら自分の意志を捨てて、神に服従して生きるために、自分の意志は天の神に預けたのだ、そのために、教会に通っている、というわけです。日本の教会でも、教会のプログラムを自分たちの都合に合わせて造ることは、ごく当たり前のようになっていますが、改めて立ち止まって考え直す必要があります。神を信じると言いながら、結局は、自分中心の欲求のために神や教会を利用しているにすぎないのではないでしょうか。

ここで敢えて、これをご紹介した理由は、もう一つあります。問答124に「天にて天使たちが果たすように、誰もが皆、心からの喜びをもって忠実に、自分の職務や職責を成し遂げさせてください」と祈るように教えられているからです。つまり「役職や職業」(問答のドイツ語原典はAmt und Beruf)をどう考えるか、という問題です。ルターによれば、「職業」は「天の職」である、と考えます。地上の職業を天の職業として考える、否、むしろ、天にある本来の務めを、すなわち神の御心を、地上の職業において写し出す場であり、職業とは神の御心を行うわざである、ということになります。「天において天使が果たすように、地上においても役職や職務を成し遂げさせてください」という祈りの通りです。言い換えれば、地上でなす務めや仕事は、むしろ天上における神の奉仕としても、また神の栄光を表し褒め讃えるえるわざとしても、通じる信仰の働きとなります。したがって、この世での要求に合わせて、教会のプログラムを作るのではなくて、天の神のプログラムにしたがって、この世で働くのであります。

前回も触れましたが、ここでも、宗教改革の信仰は、「天の神」のために天に向ける信仰であり、「教会」のための働く信仰でした。しかし現代の信仰は、「わたしたち」のために天を地に引き下ろす信仰であり、「わたし」のためにある信仰に方向転換し、その目的は、神や教会からこの世や自分のためのものへと、大きく変質してしまいました。まさに現代の信仰の特徴は、熊野義孝先生が近代現代を「自我の原理」と総括なさったように、人間の自我欲求を満たす原理によって、すべてを自分の道具として利用しようとします。しかしよくよく考えてみますと、決してそれは現代に限ったことではなかったように思います。なぜなら、だからこそ問答124はわざわざ「私たちおよびすべての人々が、自分自身の意志を自ら放棄して、一切の異議を唱えることなく、ただあなたの善き御心にのみ服従させてください」と真っ先に祈る必要があることをよく分かったいたからこそ、主イエスは弟子たちにそう教えたのではないでしょうか。すべての人々が、誰も、神に従順に従えないこと、しかも自我欲求を偶像化して神に祭り挙げ欲望崇拝を引き起こすこと、そうした人間の根本的な罪の支配にあることに、神はいつも心を痛めておられたはずです。そう考えますと、私たちは地上から、神の御前に立ち、神の御心に直面するのですが、神は天上から、私たち人間の深い背きと罪とに直面することになります。だからこそ、主イエスは仲保者として、神と私たちとの間に立って、十字架における従順を尽くし、私たちの罪のために償いを果たされるのであります。主の祈りを教えられたことで、キリストはいつも神と私たちの間に、仲保者として、十字架を背負い続けておられるのではないか、と分かってきます。

 

2.御心は、主キリストの十字架のうちに:「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」

ところで「御心が、天になるごとく地上にも、なりますように」と祈るのですが、私たちは神の御心をどのように知ればよいのでしょうか。ただ一つ、それは神が直接人々に啓示した神の啓示の言葉による外にありません。すなわち神のことばとして啓示された聖書の中に、神の御心を読み取る外に、道はないようです。しかし正しく完全に聖書を読み解くことも、人間の力だけでは至難の業と言わなければなりません。率直に答えれば、誰一人として「神の御心」を完全に知ることはできないのではないかと思います。まさに神のみぞ知るです。そう考えますと、大切なことは、決して、私たちが神のように神の御心を完全にわかる、ということにはないようです。確かに、神さまのことを少しずつ分かるようになりますが、しかし完全に知る、ということは不可能でしょう。御心を知ることは確かに大切です。私たちが神の御心をよく知って、理解し、納得することには、大きな意義あります。しかし神さまの本当の御心は、私たちが神を知ること以上に、神の御心を心の底から信頼して、従順に従うことにあるのではないでしょうか。そして神の御心とそのご計画のうちに、私たち自身のすべてをお委ねすることにあるのではないかと思うのです。わたしたちが「プログラムを造る」のではないのです。「神のプログラム」を心から、信じて受け入れる、そしてすべてを神に委ねるのです。神のプログラムというよりも、「神の秘められたご計画」(ミュステリオン)を受け入れるのです。その神のご計画を、秘められて覆い隠されていたとしても、神の御心とご計画を心から信頼して、それが実現することを願い求めて、祈ること、それが最も確かな道であり、公正で間違いない選択ではないかと思います。

その最もはっきりした形を、すなわち「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と最も強く祈り続けておられたのは、他の誰よりも、イエスさまご自身でした。主イエスは、ゲッセマネの園で夜を徹してこう祈られました。「ルカ22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。22:42 『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしの願いではなく御心のままに行ってください。』」(ルカ22:39~42)。この祈りの後に、主イエスは十字架に向かいます。つまり、神のすべての御心は、御子イエス・キリストの十字架における犠牲の死、贖罪のいけにえとして、すなわち、私たちのために独り子の犠牲による贖罪にあった、と言えます。そうです。神の御心が完全に露わに示された場、それが、主イエス・キリストの十字架だったのであります。主の十字架の死のただ中に、神の御心が啓示されたのであります。父なる神は、その永遠の独り子を人間として受肉させ、贖罪の犠牲として、十字架における死をもって、人間すべての罪を償ったのであります。神の御心は、人類を、御子を引き換えにして、救うことにありました。それは、ヨハネが「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16~17)と証言する通りです。御子は、この父なる御心を受けて、罪に支配された人間性を自ら背負い、人間を贖うためにご自身を十字架にお献げになったのです。それはまさに、「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)と告白する通りです。父と子の神の一致した御心が、キリストの十字架という出来事となって、露わに、しかも世界史において示されたのです。

 

3.「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」

さらに、もう一つ、主イエスの十字架でのご最後のお姿に、見ることができます。ルカによる福音書は、とても意味深い証言を続けて重ねています。主イエスがご自身の霊を父なる神にお委ねする場面です。「ルカ23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。23:46 イエスは大声で叫ばれた。『父よわたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。23:47 百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」というルカの証言から、主イエスは、ご自身のすべてを、霊も魂も存在のすべてを、父なる神の御手に委ねて息を引き取ります。わたくしも、このように、臨終を迎えることができれば、よく思うことがあります。

上に掲げた二つの聖書証言には、とても重大な意味が込められているように思われます。まず主イエスは、永遠の神の御子でありながら、私たちのために、「人の子」として、マリアから私たちと全く同じ人間性を受け取って、人間となられ、私たちの人間本性を完全に背負って、ゲッセマネで祈ります。主イエスは「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り、私たち人間本性を完全に担って十字架にかかり、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われ、息を引き取られます。しっかり注目すべきことがここにあります。私たちは、ここで、主イエスがいったい何をなさろうとしているか、しっかりと見つめるのでなければなりません。ここで、主イエスは、まさに私たちのために私たちのすべてを背負い、担い尽くしています。つまり私たちは、決して、キリストから離れた所で、祈るのではないのです。それどころか、キリストから離れた所で、日々の暮らしているわけでもないのです。人類は皆、その人間本性において、既にキリストに完全に背負われて、祈りをささげ、キリストの身体として、十字架において担われて、しかも霊のすべてを神の御手に委ねて、暮らしているのであります。問答124で「自分自身の意志を自ら放棄して、一切の異議を唱えることなく、ただあなたの善き御心にのみ服従させてください」と祈るよう、教えられていますが、実は「服従する」ということは、その本当の意味から言えば、完全にキリストにお任せできるようになった、すべてを委ねしてよい、ということであります。何もせずに、何かをした所で実際は何もできないのですが、キリストに背負われ担われて復活して天に昇るのですから、その他に何もないことが既に分かっているのですから、身軽になって、安心して、何もかも、お任せすればよいのであります。忘れてならないこと、最も大切で、恵み溢れることは、私たちは既に「キリストの身体」として、キリストに背負われ担われている、という事実と現実です。だから、キリストと共に一つとなって「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、生涯を送るだけでよいのであります。

 

4.「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

マタイによる福音書では、これもまた大変意味深い、主イエスとペトロとの問答が紹介されます。「マタイ16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者神のことを思わず、人間のことを思っている。』16:24 それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』」(マタイ16:21~25)。

言うまでもなく、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、労苦や苦悩を覚悟して、また殺されることを覚悟して、従いなさい、と命じたわけではありません。難行苦行を耐え忍び、死をも覚悟して、従うことが、信仰の道である、と教えているのでもありません。確かに「自分の十字架」とありますから、「キリストの十字架」をまねて、自分もキリストのように「自分の十字架」を背負うべき、と理解してしまうのではないかと思います。しかし、どう考えても、イエスさまは、私たちが十字架を背負うことを求めておられるようには、到底、思えないのです。なぜなら、私たちが十字架を背負うことなど、決してできない、ということを、主イエスは既によくご存知だったからです。その証拠にペトロに、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われています。私たちのできることは、結局、躓き続けながら、生きることではないかと思います。では、「自分の十字架を背負う」とは、どういうことでしょうか。ハイデルベルク信仰問答の問答43は、「キリストによる十字架での犠牲奉献と死によって、私たちはどのような恩恵を受けるか。」と問い、「主キリストの御力によって、私たちの古い人間性は主と共に十字架につけられ滅ぼされ葬られるのです。その結果私たちの内にある肉の邪悪な欲望はもはや私たちを支配することはありませんそれによって私たちは感謝の献げ物として自分自身を主にお献げするようになるのです。」と答えています。簡潔に言えば、ひたすら主の十字架に感謝する、ということではないでしょうか。つまり、私たちにとって、自分の十字架を背負うとは、まさに、主キリストの十字架に心から感謝をささげて生きる、ということであります。それはまさに、自分をキリストに委ねて、自分は既にキリストの十字架において担われており、そのキリストの十字架の恵みを、心からの感謝と喜びをもって背負う、ということになるのではないでしょうか。それは、十字架のキリストの心と身体に与ることを意味します。キリストのお身体のうちに、一体の身体として共に担われ背負われて、新たに生まれ変わることでもあります。それは、まさにキリストの身体である教会として、教会に生きることではないでしょうか。主の祈りの最初で「我らの父よ」と祈ることのできる、その大きな意義は、ここにあります。「主の祈り」の本当の力と恵みは、十字架と復活の主キリストに担われ背負われた「キリストの身体」として、主のもとで共に祈る所にあるのではないでしょうか。

 

2021年4月11日「み国を来たらせたまえ」 磯部理一郎 牧師

2021.4.11 小金井西ノ台教会 復活後第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答123

主の祈り(4)

 

 

問123 (司式者)

「第二の祈願は、何か。」

答え  (会衆)

「『み国を来らせたまえ』です。それはすなわち、

あなたがすべてにおいてすべてとなり給う、来たるべきあなたの御国の完成に至るまで、

どうか、御言葉と御霊とを通して、私たちを統べ治め、

私たちが時と共に益々あなたに自らを服従させて、あなたの教会を守り増し加え、

そして、あなたに抗(あらが)って立つ悪魔の働きとそのあらゆる力と、

あなたの聖なるみことばに背く邪悪な企てとを、ことごとく打ち滅ぼしてください

(という祈願です)。」

 

2021.4.11 小金井西ノ台教会 復活後第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答123主の祈り(4)

ハイデルベルク信仰問答講解説教62

説教「み国を来たらせたまえ」

聖書 ヨハネによる福音書18章36~37節

ペトロの手紙二3章8~13節

 

はじめに、神が神とされるように、

本日の説教は、「主の祈り」の第二の祈り「み国を来たらせたまえ」となります。主の祈りの骨子は、神に祈り求める祈願、嘆願です。そこで主イエスは弟子たちに、神に何を祈り求めるべきか、教えられました。それが「主の祈り」です。主イエス自ら弟子たちに教えられたこの「主の祈り」は、6つの嘆願の祈りから、成り立っています。前半は「神」についての嘆願で、後半は「人間」についての嘆願という形式になっています。前半の「神」ついて嘆願は、第一に「御名を崇めさせたまえ」、第二に「み国を来たらせたまえ」、第三に「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」です。これら神についての嘆願は、最初に神の「御名」、次いで神の「み国」、最後に神の「御心」について、祈り求められます。すべて神さまのことを中心に覚え、神さまのために嘆願する祈りです。祈りで最も大切なことは何か。それは、神さまのことに心を向け、神さまが祈りの中心になることです。そうでないと、祈りそれ自体が祈りでなってしまうからです。私たちは、いつもは「自分」のことを中心に考えて、必要なものや自分の希望することを願い求めます。しかし、それでは、本質から「神」に祈るのではなく、自分の欲求を述べるにとどまってしまいます。「主の祈り」では、最初に神の御名が崇められますように、と神さまのことを中心に覚えて、祈り求めています。私たちが祈り求めるもの、それは、まず神さまが私たちの中心におられ、中心となることです。神の御名が崇められますように、と祈ることで、私たちは、神に対して神の御前で、自己放棄を宣言して、神が自分の中心にあることを意志表明するのです。自分の欲求に耳を傾けるのではなくて、神さまの御名の栄光のために、祈りはあります。そのためには、祈る自分が、まず神を中心に、神を「主」とする者となる、のでなければなりません。そして最終的には、自分と神との関係では、自分は捨てて、神が自分を完全に支配する「主」となり、神を主なる神として、お迎えするのであります。まずわたし自身の中で、神が神となる、のです。自分が神のように中心にあり続けるのではなくて、徹底的に神が「わたしの主なる神となる」ように祈り求めること、それが祈りの本質です。自分はその神を主として徹底して付き従う者にならせてください、と願い求めるのであります。それによってはじめて、本当の意味で、神を主として正しく拝むことができるようになり、みことばは「神のことば」となり、正しく聞き分ける環境が整えられるのです。実際は少しずつゆっくりではありますが、段々と神の御心がリアルに分かるようになります。神の御心が分かるようになればなるほど、いよいよ神の御名を崇められる感謝と喜びも深まり、益々神のみわざが神のご主権をもって行われて、神のご支配が確かに打ち立てられる現実に、内面からのまた言動においても、いよいよ生き生きと生きることができるようになります。

 

1.「み国を来たらせたまえ」の「み国」とは

今日の第二の祈りは「御国を来たらせたまえ」という嘆願です。マタイによる福音書6章10節もルカによる福音書11章2節も全くの同一文で「6:10 御国が来ますように(evlqe,tw h` basilei,a sou)。」と記しています。直訳すれば「あなたの御国が来ますように」となります。この「御国」と訳されたギリシャ語原典の字は「バシレイア」という言葉で、本来の意味は「支配」或いは「統治」を意味する字です。したがって「あなたの御国が来ますように」とは、神が私たちの心や身体の内に、そして私たちの交わりのうちに、神が全権をもって完全に支配権を打ち立て、ご支配し統治してください、ということを意味します。ただ神お独りが、唯一真の神が「わたしの主」となって、わたしの心と身体の全身を、そして人生のすべてをご支配くださり、永遠の命の祝福と愛と憐れみと正義と公正とをもって統べ治めてください、と嘆願するのであります。それが、あなたの御国が来る、という現実です。何か私たちの思い描く理想郷や希望が叶う極楽浄土のようなものを願い求めることではないのです。わたしたち人間の理想や希望を、ましてや欲しいものを願い求める祈りではないのです。祈りにおいて願い求めることは、まず神がわたしの神となりわたしの主となってくださって、わたしの人生のすべてを、そしてこの世界の隅々に至るまで、完全な神のご支配を打ち立てて、統べ治められることであります。マタイは、この神によるご支配と統治の場を「天国」と呼びました。

ハイデルベルク信仰問答123は「第二の祈願は、何か。」と問いまして、「『み国を来たらせたまえ』です。それはすなわち、あなたがすべてにおいてすべてとなり給う、来たるべきあなたの御国の完成の至るまで、どうか、みことばと御霊を通して私たちを統べ治め、私たちが時と共に益々あなたに自らを服従させあなたの教会を守り増し加え、あなたに抗(あらが)って立つ悪魔の働きとそのあらゆる力と、あなたの聖なるみことばに背く邪悪な企てを、ことごとく打ち滅ぼしてください(という祈願です)。」と告白します。ハイデルベルク信仰問答が、とても意味深いことは、この第二の祈りにおいて、「みことばと御霊を通して私たちを統べ治めてくださいますように、そして時と共に益々あなたに自らを服従させてください」と真っ先に祈り求めていることです。何よりも最も大切こととして、わたしたち自身の内面から、深くそして隅々に至るまで、聖書のみことばと聖霊の働きを通して、確実に、神によって統べ治められてゆくことを祈り求めていることです。そしてさらに、問答123は、さらに徹底して、私たち自身が自らをあなたに服従させてください、と祈ります。私たちの理想や希望が叶うとか、叶わないとかいうのではなくて、まず何よりもいの一番に、日々益々もって、わたし自身が自らをあなたに服従させることを心の底から祈り求め、しかもそのためには、どうか、みことばの解き明かしを通して聖霊が働いてください、と祈るのです。ここに宗教改革の精神を根本に据えた、聖書の信仰と信仰義認をうかがわせる福音主義教会の祈りを見ることができます。何よりも、このわたしが神に従う者とならせてください、と祈り求め、そのためには、どうしても聖書のみことばの解き明かしと聖霊の力が必要なのです、という祈っています。あなたの御国が来ますように、と神の国の到来を祈る、その御国が真っ先に到来する場所は、他でもない、このわたしの心と身体において、そしてこの私の信仰において、神のご支配が打ち立てられることを、最も熱心に嘆願する祈りであります。

 

2.三つの祈りの主題 ―神に自分を服従させること・教会を守ること・悪魔に勝利すること―

次いで問答123は「御国を来たらせたまえ」という祈りにおいて三つのことを特に覚えて祈り求めます。一つは、今話しましたように、私たち自身がまず自らをいよいよ神に服従させること、そしてそのためには、主が、みことばと聖霊を通して、わたしたちの魂と信仰のうちに、神のご支配と統治とを確立してください、と祈り求めることでした。二つ目は「教会」のための祈りです。問答は「あなたの教会を守り増し加える」ようにと嘆願します。人間の食物や人間の生活のことを祈る前に、教会が守られ、益々増し加えられることを、神のご支配の次に願い求めています。そして三つ目に「あなたに抗(あらが)って立つ悪魔の働きそのあらゆる力と、あなたの聖なるみことばに背く邪悪な企てを、ことごとく打ち滅ぼしてください」と祈ります。このように「御国を来たらせたまえ」という第二の祈りを、より丁寧に見てまいりますと、そこには、ある決定的な「信仰の秩序」が見えてきます。第一の秩序は、神がわたしたちを支配し、私たち自身から自らを神に完全服従させること、第二は、教会を守り、教会を成長させること、そして第三に、悪魔とその支配に勝利することです。そうでないと、神がすべてにおいてすべてとなり給う御国は来ないのだ、ということになりそうです。ペトロは、その手紙二3章9節で「3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」と諭しています。いわば、神が私たちに一番求めておられることは信仰である、ということがよく分かるのではないでしょうか。万物が完全に神を「主なる神」として服従すること、そしてその結果、信仰の交わりであり、信仰による共同体として、教会が生まれ立てられて、教会を守り、教会を増し加えることが求められます。そして信仰が、悪魔の働きに勝利することこそ、神が最も私たちに求めておられることではないでしょうか。言わば、私たちはみことばと聖霊の働きに導かれつつ、信仰において勝利するとき、本当の意味で、私たちはの平和と安息は保障され確保されるのであります。信仰とその勝利は、みことばと聖霊を通して働く、神のご支配の賜物であり勝利の恵みであります

 

3.教会とわたしたち

神の国とは「神の支配」を意味し、神の国の完成は、私たち人類を初めとする万物が、神を「主」として、服従することから始まります。言い換えれば、神がすべてにおいてすべての神となられ、神の愛と憐れみ、正義と公正、そして永遠の命と無限の祝福がすべてにおいて溢れて充満することを意味します。ハイデルベルク信仰問答123は、まずこの豊かで力強い命に溢れた神の国の到来を祈り求めるのですが、そのためには、まず私たち自身から、みことばと聖霊を通して、造り変えられて、神のものとされることが大切です。自らを益々神に服従させることです。しかもその服従の一番の目的と方向性は、問答123によれば「あなたの教会を守り増し加える」働きに向けられています。この教会に向かう服従の信仰から、私たちは、もう一つ、御国の到来をめぐる重要な神のご計画に触れることになります。それは、この世を生きる目的は、具体的に言えば、教会をつくり、教会を立て、教会を形成することに方向づけられている、ということです。言い換えれば、どうすれば、教会を守り、増し加えられるようになるのか、神の教会を形成することに向かって、私たち自身がみことばを通して絶えず造り変えられ、聖霊を通して自らを服従させるのであります。ハイデルベルク信仰問答は、このように非常にはっきりと、教会を立ててゆくための信仰告白となっています。つまり宗教改革の本質は、真の教会を立てるための闘いであった、ということが、こうした告白からよく分かるのではないでしょうか。

言うまでもないことですが、私たちは今、宗教改革の信仰告白を「現代」という時代において読み、受け取ろうとしています。宗教改革から現代に至るまでには、多くの時代の変遷がありました。私たちは宗教改革時代を生きる者ではありません。私たちはあくまでも現代という時代に生き、現代からハイデルベルク信仰問答を読み、何らかの形で受け取り、継承しようとする者です。宗教改革の教会は、現代に至るまで大きく揺れ動き、時代の嵐の中で翻弄され、ある意味では痛み傷つき、満身創痍で今日という岸辺に辿り着いた、と申し上げてよいでありましょう。宗教改革の時代が終わると、メランヒトンやカルヴァンの教理を初め、数々の信仰告白が生み出されて、プロテスタント正統主義の時代を迎え、敬虔主義や啓蒙主義などの時代を経て、しかも近代国家の成立や世界大戦を経験し、教会はいわば満身創痍の姿で、今日を迎えました。分けてもその決定的な問題として、信仰は、その本質とそのあり方において、「教会」の公同的な信仰から、「わたし」の個人的信仰へと大きく転換し、救いの概念も大きくヒューマニズムに依存するようになりました。熊野先生の言葉で言えば、「自我の原理」による支配です。わたしたちは「自分」のために信仰をもち、「自分」のために教会生活を守るようになりました。時には、自分の利害と教会の目的とが互いに矛盾し互いに背反し合うことも起こります。個人主義的な「わたし」という次元と、公同の「教会」という次元で、一致や調和が非常に難しい選択となりました。

そこで改めて、ハイデルベルク信仰問答123は、聖霊の働きとみことばの導きの中で、私たち自身が自らを益々神に服従させて、教会を守ること、教会を増し加えるように、祈り求めなさい、と現代に訴え、私たち現代人に教えます。誤解しないようにしていただきたいのですが、問答は、ただ形式的にまた権威主義的に命令し、自分を殺して教会に仕えよ、と言っているわけではありません。大切な点は、あくまでも「みことばと聖霊を通して、時と共に益々」と告白している所にあります。わたしたち自身もそして教会も、すべては「みことば」と「聖霊」の導きの中にあるのだ、ということになるのではないでしょうか。したがって現代こそ、益々もって「みことば」と「聖霊の働き」に集中しなければならない時代なのです。みことばをいよいよ深く厳密に聞き分けるべき時代なのです。どう聞き分けるべきなのか、そこには、謙遜かつ慎重にそして根気強い祈りが求められます。

改革長老教会の特徴を、信仰告白の視点から申しますと、それは、其々の時代に応じた相応しい信仰告白を生み出してきた、ということにあります。言い換えますと、信仰告白を「未来」に向けて閉じてしまうのではなくて、信仰告白を未来に向かって、つまり「終末」に向かってその扉を開き続けている、ということにあります。ルター派はその可能性を閉じてしまいましたが、改革長老教会は、「終末」に向かうために、必要な信仰告白を未来に向けてまた現代のために、さらに新しく生み出すことを容認したのです。ここには、とても大きな意味があります。時代に応じて、言い換えれば、終末に向かうべき其々の時代の中で、みことばをより深く確かに聴き分け、聖霊の導きをいよいよ豊かにいただき、自分たちの信仰を吟味し続けるのであります。そうした神の照明に照らされる中でこそ、進むべき道筋は明らかになります。それこそ、「あなたに抗(あらが)って立つ悪魔の働きとそのあらゆる力と、あなたの聖なるみことばに背く邪悪な企てを、ことごとく打ち滅ぼしてください」という祈りは、まさにこのみことばと聖霊による導きそのものにあります。

 

4.祈りと終末

この問答の文章構成で、ドイツ語原典から日本語に翻訳する段階で難しいのは「語順」をいかに生かすか、にありました。日本語には「前置詞」用法がありませんので、文末末尾の前置詞句を翻訳ではそのまま末尾にもって来れませんので、どうしても前に出して文頭に持って来る場合が多くなります。「あなたの御国の完成まで」という文末の前置詞bisで導かれる前置詞句です。ドイツ語原典は文全体の末尾にあり、文全体を時間的に制約する副詞的な働きで、文全体を修飾しています。この文末末尾の大きな前置詞句を、日本語訳では仕方なく文頭にもって来て「あなたがすべてにおいてすべてとなり給う、来るべきあなたの御国の完成に至るまで」と訳しました。詳細は、末尾の前置詞句「到来すべきあなたの御国の完成までは」という句を受けて、さらにまた , darin(その中で)に導かれるもう一つの節、即ち「(あなたが到来すべき御国の完成まで)、それにおいてこそ、あなたはすべてにおいてすべてとなります」と後に続きます。その結果、この長い前置詞句を、付属する節も含めて丸ごと、文頭で文全体を制約するようにもって来ると、という訳になりました。これに対して、竹森先生は、どちらかと言えば、前置詞句であるbis die Vollkommenheit~(~完成まで)という言葉を中心に意訳されて、「かくて、あなたが、すべてのすべてとなる、み国の完成をきたらせて下さい」とお訳しになっています。つまり「あなたの御国の完成まで」という前置詞句が、文全体を覆って制約しているため、本文全体の「締めくくり」となるように、敢えて「み国の完成をきたらせて下さい」とお訳しなったのではないか、と思われます。むしろ、こちらの方が、直訳するより、本来の意志や意味をよく伝えているのではないかと思います。

なぜこのように翻訳について、わざわざ触れるのかと言いますと、その理由は、いずれにしても、この祈りの本文全体が、この時を示す前置詞句によって、枠づけされている、ということに注目したいからです。祈りの内容が、一定の時間的条件のもとに、制約されるのです。「御国の完成まで」という時間的制約のもとに、祈りの内容と本質は性格づけられます。ここに、祈りの本質があることに、気づかされます。つまり私たちが祈る「祈り」とは、本質的に「終末論」的なのです。終末論的制約というと、分かりづらいかも知れませんが、私たちは今、時や場の時空による制約の中で、また物理的な条件に支配されて生きています。しかし同時にまた、そうした時空や物理的な制約を完全に超えた永遠の完成を前提としている、ということです。その永遠の完成を大前提として信頼できる唯一の場こそ、祈りの場である、ということになるのではないかと思います。つまりこの祈りにおいて、一方で物理的時間的な現実と向かい合い、他方で時空を超えた永遠と向かい合い、そしてそのどちらか片方にではなく、そのいずれにおいても、したがって両方においてしかも同時に、私たちは身をおくのです。天と地の其々の本質を同時に生きています。矛盾し緊張する両者の中を、そしてその間を同時に生きるのです。単なる現世現実主義でもなければ、単なる理想空想主義でもない。質的に根本から相反し緊張し合う狭間に、この世とあの世の終末論的現実に生きている、それが、私たちの本当の「生のリアル」であります。そうした条件的制約や緊張の中で「祈る」すなわち信仰者としての生を生きるのであります。

終末論eschatologyとは、ギリシャ語のeschaton「終焉」「終わり」とlogos「教説」から成る複合語です。ただ、とても大事な点は「終わり」において「永遠」を知る、「永遠の完成」において「終わり」を知るのです。「祈り」において、「終わり」とそして全く異質である「永遠の完成」を同時に知り、また同時にその緊張する中を生き、体験することになります。つまりわたしという中で、祈りを通して、終わりと永遠とがそれぞれに生起している、という体験であります。緊張し合う「古い人間性」と「新しい人間性」が同時に生き死にをする体験です。一方で何かが完全に終わり、他方で何かが完全に永遠となるのです。「御国の完成の到来まで」、唯一キリスト者として通用する行為が「祈り」なのです。どんな実践や行動よりも、「祈り」においてこそ、「終末」を先取りして、現代を乗り越え、神の国を生きることができる、ということになるのではないでしょうか。祈りにおいてこど、永遠の御国は、現代のただ中に、このわたしのただ中に、その真相を明らかにするのであります。私たちは、この「主の祈り」においてこそ、この世と時間の枠組みの中にある制約を乗り越えて、永遠の完成である神の国へと超越することができる、と言ってもよいのではないでしょうか。垂直的に言い表せば、祈りにおいて、天地は一体に直結され、水平的に言い表せば、祈りにおいて、過去・現在・未来という時間経過は永遠と一体に直結されるのであります。その不思議な隠された神秘を、私たちは祈りにおいて、リアルに体験し知るのであります。

 

5.主キリストによる「主の祈り」

このように、主の祈りは「終末の完成」を先取りし、この世の時の枠を越え、永遠の神のみ国に生きる道を示します。私たちは、この主の祈りを通して、天と地の間を行き来することになります。しかしそれだけではなく、前にも触れましたように、主の祈りは、私たちが祈る祈りである前に、魂と肉体をマリアより受け継ぎ、私たちの人間性を完全に背負って仲保者として祈る、受肉者キリストの祈りでもあります。キリストの霊と身体のうちに、キリストと共に一体となって、キリストの祈りをわたしたちは祈っているのです。主の祈りを始めるときに、「われらの父よ」と神を呼び求めて祈ることからもよく分かります。時代の嵐の中で満身創痍となった教会は、その傷と痛みを十字架において満身創痍となったキリストの身体のうちに見出すのであります。時代の中で変わる地上の教会を、三日目に復活を遂げ、天に昇り、永遠に天の父の右ににあって、完全勝利を成し遂げられたキリストは、今もご自身の身体として、その身体のうちに私たちのすべてを背負って、歴史を旅しておられるのであります。

2021年4月4日 復活日礼拝「三日目に死人のうちよりよみがえり」 磯部理一郎先生 牧師

2021.4.4. 小金井西ノ台教会 復活礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答45

「第二部 人間の救いについて ―子なる神について⑺復活―」

 

 

問45 (司式者)

「キリストの『よみがへり』は、どのような恩恵を私たちにもたらすか。」

答え (会衆)

「第一に、キリストは、復活によって、死に打ち勝ちました。その結果、

ご自身の死を通して獲得した(神の)義に私たちを共にあずからせるのです。

第二に、その御力を通して、私たちもまた、今こそ新しい命によみがえるのです。

第三に、キリストの復活は、祝福あふれる私たち自身の復活の確かな保証なのです。」

 

2021.4.4 小金井西ノ台教会 復活日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教61問答45(復活)

聖書 ルカによる福音書24章1~12節(新159頁)

ペトロの手紙一1章3~9節(新428頁)

説教「三日目に死人のうちよりよみがえり」

 

はじめに、わが死は十字架における主の「死」のもとにあり

唐突ながら、加齢のせいか、最近よく朝起きると、自分の「死」について考えることが多くなりました。どのようにして、死を迎えたらよいか、死の準備に、思いをいたすことが、毎日のようにあります。そして死を思い、死について考える度に、主イエスの十字架の死のことを想い起します。永遠の神の御子が、わたしのために、わたしの罪と死を背負って、十字架の上で死なれた、という十字架におけるキリストの「贖罪の死」に、いよいよ思いは深く導かれてまいります。そして十字架のもとに、自分の魂が導かれてまいりますと、わたしの死を主が背負われ担われたという大きな事実を、幾度も思い知らされるのであります。心が十字架に導かれますと、十字架において、既に主イエスと共に持ち去られてしまった「わたしの死」に気付かされます。そう、わたしの死と裁きは、滅びと地獄の運命は、すでに「キリストの十字架における贖罪の死」のもとに、背負われ担われて、持ち去られてしまっている。そして既にそこでは、「罪の償い」と「完全な従順」を十字架の死に至るまでに貫き通してくださった主イエスのおかげで、新しい「神の義」による命の祝福が始められており、死から復活の身体が準備さている、とそう思うのです。それが、十字架における、わたしの死の実態なのだ、と。つまり、キリストの十字架において、「わたしの死」は、既にキリストによってキリストと共に持ち去られたのだから、死の支配の実態を具現化した死体が存在しないのだ。それはまさに聖書の証言する「空虚な墓」のように、死の支配は完全に失われてしまっている、と思わされるのです。なぜなら、死とは、罪による堕落の当然なる結果ですが、それ以上に、死の滅びは、罪に対する神の裁きの結果でもあります。死の苦しみの恐るべき点とは、罪に対する「神の怒り」であり「神の呪い」にあります。罪による堕落も、神の裁きも、そして罪ゆえの神の怒りも呪いも、すべて、キリストが十字架の上で背負い尽くして、私たちのために持ち去られてしまったのです。であるとすれば、罪も死も、そして神の怒りも呪いも、最早、恐れる必要はなくなったのだ、と言わなければなりません。わたしは、ただキリストの十字架のもとに、おればよいのです。わたしの死は、キリストの十字架のもとに既に持ち去れており、既にキリストと共に死んだのだ、といよいよ深く思いをいたします。

 

1.空虚な墓

聖書は「復活」の出来事を証言します。その意味深い点は、主の復活の出来事を「空虚な墓」という現実をもって証言しようとする所です。最初にマルコは「16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:1~8)と証言します。次いで、マタイも「28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、28:6 あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」」(マタイ28:5~7)と告げます。そしてルカもまた「24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、24:3 中に入っても主イエスの遺体が見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。24:6 あの方はここにはおられない復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24:2~7)と伝えています。

共観福音書に依れば、まさに主イエスの死体は存在しない、死体は無くなってしまった、そうした「空虚な墓」を復活証言の原点にして展開します。ルカは「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」(ルカ24:5)とまで語り、明確に、死の支配や死の世界を具現する「死体」は、既に「空虚」となったのだ、と伝えて、新しい意識の覚醒へと導こうとします。したがって、どうして、生きておられる方を、すなわち「命」を、最早「空虚な墓」となった「死体」の中に捜し求める必要があるのか、「死の世界」にではなく、「永遠の命」の勝利のうちに、捜し求めるべきではないか、というメッセージが暗示されます。十字架におけるキリストの贖罪の死を通して、神の裁きは完了して、否、それ以上に、罪の償いは満たされ、完全永遠なる神への従順は尽くされ、新たに獲得された神の義の勝利のもとに、したがって新しい命の祝福あふれる世界に、万物は誘われ導かれている。それゆえ、心を向け、目を向けるべき世界は、「命の勝利」の世界ではないか、と告げます。つまり、「死」が「身体」を支配する「死体」の世界は、最早、十字架におけるキリストの死において、その実体性を喪失してしまった、という決定的な事実を世界に突きつけ、世に宣言したのです。したがって「死者」を葬る墓の中には、死が身体を支配する「死体」を捜し求めるのではなくて、キリストの死のただ中には、「神の義」の勝利は、安息日のもとに夕暮れと闇夜の中に、すでに内包され隠されていたのではないでしょうか。死んで陰府にくだるという闇に包まれつつも、キリストは十字架の死の贖罪において神の義を獲得して、死に勝利したのです。そして世界には、死んで三日目の朝、キリストにより十字架において完全に死に対して勝利した「神の義」は、キリストにおいて「復活」という新しい人間性の姿をまとって、永遠の命に溢れた「復活体」という新しい身体で具現化され、世に啓示されたのであります。

「死体」のない「空虚な墓」とは、受肉して私たちの人間性を担われた仲保者キリストの完全勝利の宣言であり、「不義」から生じた死に対する「義」の勝利を明らかにする証言であります。その意味から言えば、復活は既に「十字架の死」の内に深く形づくられていたのではないでしょうか。十字架の死の中に復活の本質である神の義は既に実現していた、と言ってもよいのではないでしょうか。「復活の身体」のキリストと、ガリラヤで或いはエルサレムで出会うというメッセージは、まだ目に見ぬ「復活体」のキリストをとてもよく暗示しているように思われます。それはまさに、永遠の義と命の祝福が身体を支配する、勝利の「復活の身体」におけるキリストに、心を向けよ、というのが、この「空虚の墓」が語るメッセージであります。十字架における贖罪の死を成し遂げられた「キリストの身体」、そして神の義と従順を貫き不義による先に勝利した「キリストの身体」は、同じ一つの「キリストの身体」であります。唐突ながら、自分の死に思いを向けるわたしの日常背生活についてお話しましたが、まさに聖書が証言するように、「死体」の世界に心を向けても、そこは、最早「空虚な墓」であって、本当のキリストの身体もなければ、私たちの身体も人間本性の存在しない場所なのです。私たちの人間性と本当の身体は、キリストと共に、十字架と復活のキリストお身体のうちに、永遠の神の義と命のもとに、奪い去られ、移し変えられ、生まれ変わったのであります。

 

2.「身体」による十字架の死とよりがえり

そこで、改めて、主キリストのご復活の勝利を、心よりお喜び申し上げます。イースター、まことにおめでとうございます。主のご復活をお迎えするとき、どうしても忘れてはならないこと、それは、主のご復活は、主の十字架での死と葬りからのご復活である、ということです。しかもその十字架の死と葬りからの主のご復活は、クリスマスの受肉、十字架の死と葬り、陰府への降下、そして復活という一連の出来事は、一串に串刺しするように連続する「主の御身体」における、私たちの人間性を根元から救うための救いである、ということです。主の十字架における死と葬りそして三日目の復活は、神の永遠の御子の受肉した「受肉のお身体」をもって、貫かれ、成し遂げられた出来事です。この十字架と復活とを共に貫き、さらに先取りして言えば、「天に昇り、神の右に座し給う」という一連のみわざは、すべて、同じ「主の身体と魂」によって一貫して串刺しにされるように、貫かれており、そこには常に「キリストのお身体」があるのです。この事実をしっかり覚えておく必要があます。つまり主の復活は単なる「甦り」でも、死なない永遠の命でもないのです。魂が天国に昇って逝った、というのではないのです。人間の死んだ「身体」が、同じ「身体」で勝利救われる「復活の身体」である、ということです。クリスマスの時に受肉したそのお身体をもって、十字架を担い、十字架の裁きのうちに死んで、葬られ、その全く同じ一つの身体をもって、甦り、天に昇られた、というその身体をしっかりと覚えるのでなければ、本当の意味で、主のご復活を祝うことはできない、と思います。

そのキリストのご受難のお身体から、しかも十字架において、槍で刺し貫かれた傷跡と釘打たれた釘跡が痛ましくも残る、そのお身体で、主はご復活を遂げられたのであります。そのお身体には、わたしたちの身体も魂も、そしてわたしたちの死の裁きも償いも皆すべて背負われ担われて、十字架に死んで三日目に復活した「お身体」であります。ハイデルベルク信仰問答を告白する信仰共同体は、決してそのキリストの身体から離れず、その身体と一体となって、今ここで信仰を言い表わしているのではないでしょうか。端的にかつ率直に表現すれば、主イエスの十字架と復活の、そのお身体において、そのお身体と一体となって、そのお身体をわが死とわが復活の身体として、キリストの復活を祝い、キリストの復活を告白して、神に栄光と讃美をささげるのであります。主のご復活が、私たち自身の意味ある勝利となるのは、まさにその「お身体」においてであり、私たちが、キリストのお身体に一体に結ばれているからからであります。

 

3.不従順の罪を満たすキリストの従順と償い

ハイデルベルク信仰問答は、問答45で「キリストの『よみがへり』は、どのような恩恵を私たちにもたらすか。」と、主のご復活の意義について問い、その答えでは「第一に、キリストは、復活によって、死に打ち勝ちました。その結果、ご自身の死を通して獲得した(神の)義に私たちを共にあずからせるのです。第二に、その御力を通して、私たちもまた、今こそ新しい命によみがえるのです。第三に、キリストの復活は、祝福あふれる私たち自身の復活の確かな保証なのです。」と、三つの意義について答えています。まず、第一の意義として「死に打ち勝ちました」と言い表します。

「死に打ち勝つ」とは、どういうことでしょうか。パウロは「15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よお前の勝利はどこにあるのか死よお前のとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり罪の力は律法です。15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Ⅰコリント15:52~57)と告げています。ここで注目すべき点は、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と明記する点です。つまり死とは、死のとげである「罪」が律法に基づいて断罪されて、神の裁きの結果として、ついに「死」を迎える、ということになります。罪という堕落と崩壊ゆえに滅びに至るばかりではなく、最終的に罪に対してトドメを刺すのは、律法に基づいて断罪される「神の裁き」である、ということになります。

しかしながら、キリストの十字架における罪の償いとその代価の支払いによって、罪は律法のもとで、既に完全に償い尽くされており、しかもキリストのよる罪の償いは、さらに完全な神への「従順」によって、神の完全な「義」を実現しているので、最早、キリストの人間性を通して、私たちの人間性のうちにある罪は完全に償われ、それどころか、十字架の死に至るまでの、徹底した神への従順が貫かれたことで、完全な義が果たされたので、最早、神の裁きは十分に満たされた、ということになります。それゆえ、罪に対する裁きは、キリストの十字架において、既に完了したので、つまり死はキリストの十字架において既に完了してしまったので、死が生み出し死によってもたらされる死体の世界は消滅したのであります。パウロはさらに、キリストの十字架で成し遂げたみわざについてこう証言しています。「2:6 キリストは、神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり人間と同じ者になられました人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6~9)。ここで非常に注目すべき点は、「僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」という2章7,8節の証言にあります。ハイデルベルク信仰問答9は「神の律法を守れるように、神は人間を創造されました。しかし悪魔の唆(そそのか)しにより人間は身勝手に不従順を犯したため、神の賜物を奪われてしまいました。」と、人間の不従順について告白懺悔しています。御子は「人間の不従順」のために、御子の「従順」を神に支払ったのです。キリストの「従順」は、言うまでもなく、「人間の不従順」を満たすために代価として支払うべき「償いの従順」として、成し遂げられました。しかも唯一真の永遠の神の御子であるキリストが、人間の不従順を贖罪するために、完全で永遠の「従順」を支払うのであります。しかも、その支払いは、「十字架の死」に至るまで、極め尽くされた従順の死でありました。「このためゆえに、「神はキリストを高く上げ、あらゆるなにまさるなを与えになりました」。そしてさらに重要な点は、その完全で永遠なる従順を、しかも十字架の死に至るまでの従順を、「僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、に至るまで」支払い尽くしたことです。死を永遠の定めとする人間として支払われたのです。ここに、キリストの十字架の死における義は、私たち人間の、人間本性の本質と根源から、身も魂も、キリストにおいて背負われ担われて、永遠で完全の従順へ導かれる根拠があります。誰も、罪に定め、死をもって裁く者も、またその根拠を失ったのです。その現実こそが、まさに「空虚な墓」であります。キリストの十字架における従順により、「神の義」という新しい命のうちに飲み込まれ、死はその存在を完全に奪われててしまったのであります。したがって、復活の原点は、主キリストの十字架における「贖罪の死」にあり、その十字架の贖罪ゆえに、死の原因である罪もそして神の裁きである完全な死と滅びも、十字架において完全消滅し、神の義による新しい命が芽生え、勝利に至ったということになります。問答45で申しますと、「第一に、キリストは、復活によって死に打ち勝ちました。その結果、ご自身の死を通して獲得した(神の)義に私たちを共にあずからせる」のであります。このキリストの十字架における贖罪に連続直結するようにして、第二に復活の意義として、「今こそ新しい命によみがえる」と告白します。罪に対する勝利の結果、永遠の命の祝福に満たされ、復活に至るのであります。そしてまさにキリストの復活こそが、私たちの復活の根拠となり、証拠となるのです。それは、言うまでもなく、永遠の神の御子が、受肉して、私たち人間と全く同じ人間性を身に纏い、私たちの人間性をそっくりそのままその身に引き受けて背負い、完全な贖罪と復活を果たしてくださったからであります。私たちの死に対する勝利と復活の希望は、まさにキリストのお身体のうちにある、そこに、たちの復活の拠り所があり、保証も根拠もあります。しかも私たちは、そのキリストの身体と一体に結ばれ、養われます。いわば罪ゆえに、死して滅びるべき身体は、永遠の命によみがえる復活の身体となって、新たに創造され出現したのであります。

 

最後に重ねて、十字架と復活の「キリストの身体に与る」意義を覚えて

先週の主のご受難に続き、本日は、その三日目のご復活について、お話をいたしました。大事なことが三つあります。一つは、徹底して十字架の贖罪を正しく知り、十字架による贖罪を自分自身のうちに経験することです。自分の罪を認め、神の怒りと呪いの前に立ち、キリストの十字架上での贖罪を覚え、感謝することです。二つ目は、決して主のご復活は十字架の死と切り離すことができず、むしろ復活は十字架の死の中に芽生えた、ということをしっかりお覚えいただきたいのです。それゆえ、とことん十字架の死の意味を覚え、主の十字架での死をいよいよ深く「共体験する」ことに、復活の芽が生じるのです。そして三つ目は、十字架での贖罪の死も勝利の復活も共に、「キリストの身体」において実現貫徹されいる、という救いの本質であります。したがって、「キリストの身体」のうちに、わたしたちの死の身体も生の身体も共にある、ということであります。そのためには、みことばによる啓示を通して、神の救いの真理、福音の真理を正しく認識すると同時に、もう一つ、決定的に大事なことは、キリストの身体のうち深くに、一体の身体として、私たちの身も魂も飲み込まれるように入れられる、ということです。つまりキリストの身体のうちに、わたしたちの死も命もあるのですから、キリストの身体のうちにいよいよ生まれ、養われ、生きることが大切です。それゆえ、キリストの身体のうちに奥深く生きるための場こそ、キリストの身体に与り続けるという教会の生活に生きること、すなわち信仰をもってみことばを聴き聖餐に与って、正しく礼拝を守り、キリストの身体として豊かに養われることであります。

 

2021年3月28日「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」 磯部理一郎 牧師

 

2021.3.28. 小金井西ノ台教会 棕櫚の主日(受難週)礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答40~44

「第二部 人間の救いについて ―子なる神について⑹死、葬り、そして陰府への降下― 」

 

 

問40 (司式者)

「なぜ、キリストは『死んで』苦しみを受けねばならなかったのか。」

答え (会衆)

「神は義(ただ)しく真実であるがゆえに、御子の死によるほかに

私たちの罪の代価を支払う償いの方法はなかったのです。」

 

 

問41 (司式者)

「なぜ、キリストは『葬られ』たのか。」

答え (会衆)

「それによって、主がほんとうに死なれたことを示すためです。」

 

 

問42 (司式者)

「キリストが私たちのためにすでに死んだのに、どうして、私たちもまた死なねばならないのか。」

答え (会衆)

「私たちの死は、私たちの罪の代価を支払うための償いの死ではありません。

私たちの死は、罪に対する決別の死であり、永遠の命に至る入り口にすぎないのです。」

 

 

問43 (司式者)

「キリストによる十字架での犠牲奉献と死によって、私たちはどのような恩恵を受けるか。」

答え (会衆)

「主キリストの御力によって、私たちの古い人間性は、主と共に十字架につけられ、

滅ぼされ葬られるのです。

その結果、私たちの内にある肉の邪悪な欲望はもはや私たちを支配することはありません

それによって私たちは、感謝の献げ物として自分自身を主にお献げするようになるのです。」

 

 

問44 (司式者)

「『陰府にくだり』と続けて言われるのは、なぜか。」

答え (会衆)

「わたしは、この上なき試練の中にあってこそ、こう断言します。

わたしの主キリストはわたしのために魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれ

その言い難き苦痛と恐れを通してわたしを地獄の拷問と苦痛から

代価を支払って贖ってくださったのです。」

 

2021.3.28 小金井西ノ台教会 受難節第6(棕櫚)主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答40~44

ハイデルベルク信仰問答講解説教60

説教「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」

聖書 イザヤ書53章1~12節

ルカによる福音書23章26~56節

 

はじめに、受難週を迎えて

教会暦に従いますと、本日は「棕櫚の主日」を迎え、受難週に入ります。したがってこの金曜日は、主イエス・キリストが十字架につけられ、死んで葬られた、「聖金曜日」となります。今はどうか分かりませんが、かつて富士見町教会では受難週に入りますと、受難週祈祷会が月曜から金曜日まで設けられておりました。島村亀鶴牧師は、特に「十字架の七言」を主題にして、十字架上で死を迎える主イエスの七つの言葉を一つ一つ取り上げて、説教され、そして聖餐に与る、という受難週でした。そこではいつも長老の皆さんと共に、とても厳かでそして心に浸みる深い祈りが続いていました。身が引き締まるその緊張を、40年以上が過ぎた今でも、決して忘れることができない体験として、鮮やかにこの身体と魂に刻まれたように残されています。ましてや「ハイデルベルク信仰問答」は、1563年に成立し、既に450余りを経た今でも「十字架の信仰」をとても鮮やかに、そして生き生きと、豊かに湛えています。本日は、教会暦に従い、「受難週」を深く覚えて、ハイデルベルク信仰問答は、問答40~44に告白される、主イエス・キリストの十字架の死と葬りについて、共に解き明かしを受けたいと存じます。

 

1.キリストの死と苦しみは、わたしたちの贖罪のためであった

問答40~44によれば、キリストの苦しみと死の意味について、告白しています。問答40は「なぜ、キリストは『死んで苦しみを受けねばならなかったのか。」と、キリストの死と苦しみの意味を問いまして、答えでは「御子の死によるほかに私たちの罪の代価を支払う償いの方法はなかった」と告白しています。つまり、キリストの死は、私たちの罪を償うため、であった。キリストは、私たちの贖罪のために、苦しみ死んだ、という一点に集中して、告白しています。また問答の44でも、『陰府にくだる』意味を問い、答えでは「わたしの主キリストはわたしのために魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれその言い難き苦痛と恐れを通してわたしを地獄の拷問と苦痛から代価を支払って贖ってくださった」と告白して、キリストが陰府にくだられた目的は、地獄の拷問と苦痛から、代価を支払って、私たちを贖うためであった、と告げます。言い換えれば、キリストが死んで葬られ、陰府にくだられたのはすべて、私たちの罪と滅びから、或いは地獄での拷問から、贖い救い出すための犠牲であり、そして私たち人間の罪を償う贖罪のためには、神に対して義を確立するためには、どうしても支払わなければならない命の代価であった、と教えます。つまり、キリスト教の救いの根幹は「キリストの十字架の死」であり、その十字架の苦しみと死の意味と目的は、わたしたちの罪のための「贖罪」にある、しかも、それは神に対して「義」を立てるためにあった、という根本理解が示されています。言い換えれば、キリストの十字架における贖罪こそが、私たち人類の唯一の救いであり、神の義を立てなおすという万物創造の完成となる、ということになります。その贖罪が実際に歴史において、実際のキリストの十字架の死という出来事として引き起こされ、人類はその歴史の中心に十字架のキリストを経験し持った、ということになります。

今週は、「キリストの十字架における死」を覚える受難週となりますが、キリストの十字架における死という出来事は、キリスト教信仰の根幹であります。キリストの十字架での死の意味を正しく知ることは、実は復活を正しく知る起爆剤でもあります。十字架の死と復活は、別々の出来事のように見えますが、実は連続する一つの出来事として捉えた方が正しいのではないかとよく思うのです。なぜなら、キリストの十字架の死において、神の永遠の御子による完全な贖罪を体験することで、その贖罪それ自体が、永遠の命という神の祝福に溢れた新しい人間性の復活の根源であるからです。言い換えますと、「贖い」ということ、キリストの支払う命の代価によって、罪と死から贖われる、ということがきちんと分かれば、そこにはもう復活の新しい命が見えて来るのです。それゆえ、正しくキリストの十字架を知り体験することを抜きにして、キリスト教信仰入信の道はないのです。いくらクリスチャンホームで育ち、教会生活を長くしている、と言いましても、真実な意味で、キリストの十字架に死を本当知り体験するのでなければ、真実な意味での信仰のないクリスチャンで終わります。十字架の死のないキリスト教はありえないからです。キリスト教の文化や社会や習慣を突き抜けて、キリスト教の本質を知り体験する場、それがキリストの十字架における死を正しく知り、経験する場であります。そしてその十字架の死を体験するとは、その根本と本質において、「贖罪の体験」であります。十字架と復活とは一対の連続した救いのみわざですから、贖罪の本質が分かれば、その結果として、復活もいよいよ当然のことながら分かるようになるのです。十字架は信じられるが、復活は分からないなどということは、絶対にありえないことなのです。それは、どこかで、キリストの十字架の死による贖罪ということが体験しきれていないのではない、と思います。キリストの十字架における死は、「私たちの罪の代価を支払う償いの方法」であり、「主キリストは、わたしのために、魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれ、その言い難き苦痛と恐れを通してわたしを地獄の拷問と苦痛から、代価を支払って贖ってくださった」のです。キリストの十字架の死、キリストの死の葬り、そしてキリストの陰府への降下は、すべて私たちを「贖う」ため、すなわちご自身の命と尊厳という代価を支払って、神の義のもとに買い戻すための苦難であります。こうした贖い、贖罪の経験を深くすることで、またいよいよ正しく知ることで、私たちは「救い」の本当の力と意味を知るのです。すなわち復活という本当の勝利を知るのであります。教会生活で決定的重要なこと、それは、永遠の神の御子キリストの十字架における死の贖罪を正しく知り経験すること、そしてその贖罪、即ち罪による死と滅びから神の義と命の祝福へと贖われることを知り経験すると、もうそこは、新しい永遠の命に溢れた復活の世界が開けて来ます。しかもさらに大切なことは、それは、キリストの身体を通して実現する贖いであり復活であります。このキリストの身体を通して実現する贖いと復活の場こそ、天上と直結する地上の教会であります。したがって正しい信仰体験に続いて、次に重要なことは、この身体における、キリストの身体を通して身に着ける信仰と生きた体験であります。いずれにしても、根幹であるキリストの十字架における死の贖罪をキリストの身体として知り体験することに尽きると言えましょう。

 

2.贖罪の前提となる私たち人間の「罪」と「神の怒り」

私たち人類を「贖罪する」ために、キリストは苦しみ死んだのですから、すなわち、その死と苦しみの根本原因は、私たち人類がその人間性の本質において受け継いだ「罪」にあるのですから、罪の問題を解決することが、救いの大前提となります。「罪」という現実を背負う人間の悲惨から、人間をどう救うか、という問題です。罪についてパウロはローマ書1章で真っ先にこう説きます。「1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。1:20 世界が造られたときから目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。1:25 神の真理を偽りに替え造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」(ローマ1:18~25)と、罪はどこにあるか、明らかにします。簡潔に言い換えますと、神は、私たち人間の犯した「罪」に対して、天からの「怒り」をもって、臨んでおられるのです。その人間の罪とは、神を無視して、自分の欲望のために、偶像を神と取り替えて、神に仕えず神ではない偶像に仕えた、それが罪の本質だ、と言っています。キリスト教の教理では、「原罪」The Original Sinとか「堕落」The Fallと呼んでいますが、人間の根源的な過ちであり誤りは、神に背き神から離反している、という人間の根源的な神に対する在り方にあります。造り主である神を褒め讃えず、自我とその欲求を拝んでいる。すなわち自分の欲望を神々見立てて偶像を拝み仕え、真の神は否定して背くという背神にあります。

 

3.一神教を知らない多神教(偶像崇拝)の日本の宗教文化

多神教の日本、八百万の神々を偶像として拝み仕える、という伝統的宗教文化の中にある、日本人の意識からすれば、一神教の神に対する背神の罪を問われて、それが罪である、と言われても、納得しづらいのではないでしょうか。何を言っているのか、ピンと来ないのです。一方から言えば、それは「神」を知らない民族だからだ、というでありましょうし、また他方から言えば、それこそ幅広く、とても寛容でおおらかな宗教文化でよいことではないか、ということになります。どんな神々を、何をいくつ、どのように信じようと、信じる者の自由ではないか、憲法でも信教の自由が認められている、ということになりそうです。したがって「罪」を根本から意識し、罪の本質を認識する所から、宗教や哲学をつくりあげ、文化や社会を構築する、という方向には決してゆきません。そうした意味で、正しく罪を知って認める、ましてや神に対する罪を認めるなどということは、日本人にはとても難しいことです。その結果、十字架の痛みを深く覚える要因となる土壌や受け皿がない状態の中で、罪や裁きを問題にされることに、抵抗とある意味で嫌悪感さえ感じる場合もあるようです。罪をどう認め、罪を正しく認識したうえで、さてその罪をどう償うのか、という所まで思いが届かないのです。したがって十字架や信仰の意味も希薄となり、結果として「信仰」によるキリスト教ではなくて、つまり本当の意味で「十字架のキリスト」を着るのではなくて、日本の文化や社会慣習に基づいて、日本の宗教文化を基礎にして形でキリスト教を身に着けるという次元に止まってしまう場合もあるようです。「日本教キリスト派」と括られる結果となります。信仰の次元よりも文化社会の次元で、つまりキリストの十字架の死における贖罪をいよいよ深く信仰体験することよりも、教育施設や慈善事業による社会文化活動を価値評価するにとどまる、そして教会さえも、親しい仲間のサークル活動に変質してしまい、説教や聖書のお話さえも、サークル活動の一環に過ぎない、ということになります。日本の土壌に、キリスト教信仰を根づかせることの困難を覚えます。ある方は、土着をin-culturationと言い表しましたが、日本の宗教文化の中に、キリスト教信仰を入れ込むことはそう簡単ではないようです。

文化や社会に根差すキリスト教の意義は、無論、否定するのではありません。魂には肉体が必要であるように、キリスト教信仰も、身体のように、信仰を具現化し展開する場である文化や社会は、絶対に必要とすることは論を待ちません。中世のヨーロッパにおいて、教会を「コルプス・ミスティークム」と呼ばれました。永遠の神の御子である超越のキリストが地上に降り受肉して、その受肉した身体から、キリストの受肉の身体として教会は誕生し地上に現存するからです。そして中世の文化や社会に対しては、「コルプス・クリスティアーヌム」と規定しました。いわば、教会は、目に見えないキリストの身体である「神秘体」であるのに対して、中世ヨーロッパ社会は、目に見えるキリストの肉体である、と考えたのです。まさに、心と身体が一体の身体として存在することを社会の基礎概念としたわけです。社会や文化は教会の身体でありました。しかし近代現代に入ると、魂と身体は分裂してしまい、身体を失った魂は行き場を失い、また身体が魂を失えば、病んだ化け物に豹変します。キリストの十字架による贖罪の信仰と罪の意識を核にしたキリスト教信仰、そして社会や文化としてのキリスト教という二重構造を意識して、改めて、御子を受肉させて「十字架刑」にして処罰するほど、償いの代償を必要とする「罪」の深さを覚えたいと思います。

 

4.「キリストの十字架」は、贖罪の出来事として引き起こされた

仏教の世界では、人間の根本問題を「四苦八苦」と表して「苦」と捉えます。人生の本質は苦にある、その「苦」から自己を解脱解放する所に、救いを見出そうとします。「苦」には、前生における原因があってその結果として今の人生苦がある、と考えます。そうした因果関係の縁を断ち切って、解脱して、苦から解放され、人間本来の姿である仏として成仏する、ということになるでありましょうか。そのためには「色即是空」と言って、あらゆる分別や価値観を捨て去ることを教えられ、心身の修行をすることになります。わたくしも思春期の頃、そう教えられて、参禅いたしました。仏教と言いまして、東西のいろいろな思想が海を越え大陸を超えて流れ込んでおり、一筋縄では行きません。浄土や地獄と言った宗教概念は、聖書から入り込んだ概念のようです。日本の仏教には、いろいろな神々の概念が雪崩のように入り込んでいます。

確かに世界でも、親鸞の思想は非常に高く評価されるようです。確かにキリスト教のような慈悲による極楽浄土や念仏の恵みを教えます。しかし決定的に、しかも本質的に異質で異なる点が一つあります。それは、そこには「贖罪」の出来事が存在しない、ということです。そこには、完全に贖罪を果たしてくださる「キリスト」もいなければ、キリストの「十字架の死」も「復活の命」も全く存在しない世界です。まさに贖罪の出来事であるキリストの十字架も復活もないという点で、明らかに「空」であり「幻想」であり「観念」の世界です。罪を償うキリストとその十字架の出来事は、実際にそこにないのです。それでは、いったい誰が実際に罪と死と滅びの淵から贖いでしてくれるのでしょうか。

改めて、人間の「罪」を見つめ直しますと、残念ながら、人間は、確かに時には「天使」に見えることもありますが、概して「悪魔」のようでもあります。親が子を殺すという厳然とした罪は、平和で豊かな日本の中でも、毎日のように繰り返されます。子も親を殺します。最も命と血の絆の深い親子や兄弟、夫婦や家族が互いに深く傷つけ合い、ついには殺し合う世界は、「愛」を切実に希求する家庭内で、深刻にも現実として繰り返されているのです。前に紹介しましたが、人殺しの現場となる殺人事件の大半は、家庭や家族の中で引き起こされています。いじめの中で、毎年多くのこどもが殺し殺されています。ましてや互いに恨みも怨念もないはずの人類同士が、隣国同士が、正義と防衛という名目のもとに、大量殺戮を幾度となく繰り返してきました。人類の歴史は戦争の歴史でもあります。アジアの侵略戦争も、原爆投下によるこの上ない悲惨も、すべて人類の意志に基づく人殺しであります。奇妙なことに、大量殺人の戦果を挙げた人殺しを英雄や偉人として褒め称える、それが世界史の現実であります。いわば、殺し合いの中から、文明は生まれ人類は生きて来たように見えて来ます。そこにどうしても解決できない人間の「罪」の現実を見るのです。そして最も悲しい罪の現実は、原爆投下を決行した国が、キリストの十字架の痛みを知るはずのアメリカであった、ということであります。あるいはそれ以上に、世界大戦を繰り返したのは、欧米のキリスト教国同士であったという、どうしようもない絶望と暗闇の淵に落とされます。キリスト教という宗教をもってしても、人類世界全体の罪を解決することはできないのです。それほど人間の「罪」は厳然として深くあるのです。こうした人間の罪の現実と破れの悲惨を、どのように表現すればよいか、わたくしには言葉がありません。人類がどのように進化して、どれほど進んだ科学技術を獲得しても、罪を現実に解決することはできないのではないか、と思います。それどころか、いよいよ人間の価値評価や実際の格差は広がり、人間本来の正義や公正を失うばかりではないかと危惧します。人殺しも差別も格差も無くすことはできないのではないか。だからと言って、絶望の中に希望を捨て、全てを諦めて、宗教の世界に逃げ込む、というのではありません。だからこそ、本当の希望をもってこの世と向き合うことが大切なのです。だからこそ、神は人を憐れみ、人を愛し、ご自身の命を引き換えにして、人を救う道を開くのであります。それが、キリストの十字架と復活による神の愛であり神の救いであります。人間は罪を犯し続けるでありましょう。仮に信仰を持ち、キリスト者とされても、必ず罪を犯すでありましょう。ドイツは、聖書原理と信仰義認を説いて、宗教改革を実現したルターの国であります。かつてのキリスト教国が、多くの人々を殺したように、であります。したがって文化や社会としてのキリスト教ではなく、キリスト教文化や社会の次元で、罪の本質は届かない課題であります。本質的に実存から信仰の問題として、もう一度、深く踏み込んで、真剣に向きあうことになります。問題はその「罪」とどう向き合い、どのようにして希望を持ち、乗り越えてゆくか、という所にあります。大切なことは、人間の罪の現実と真摯に向き合い、その罪に敗北して絶望することなく、希望をもってどのように乗り越えてゆくか、ということにあります。

 

5.神の御子よる十字架の死における贖罪

しかし残念ながら、私たちは、自分の力で、「罪」を根元から解決することはできません。人間の限界と絶望を受け入れざるを得ないのです。まさに敗北の告白です。二十歳で洗礼を受け、キリスト者とされ、牧師という務めを与えられても、わたしは自分の力で罪を解決することはできないのです。わたしたちがキリスト教の信者になることで、罪を根元から解決することは、人間にはできないことです。それどころか、信仰を持ち、洗礼を受けても、実際はいよいよ深く手に負えない罪と向き合うことになり、いよいよ無力を実感し、益々人間の限界と破れの中に堕ちてゆきます。罪の解決については絶望です。わたしもそしてすべての人々も、例外なく、全くの無力の中で、自分の死と終わりを迎えるのです。そういう意味からすれば、知識の行き着く所は完全な終わりであり、全くの空しい無であります。人は、ついに終わりと空しい無を知って、死ぬのであります。これは誰も否定することのできない事実です。人間が自分の力で知り確認し得る事実はここまでです。

あとに残された方法は唯一つです。それは人間の力に絶望しつつ、人間以外の力を受け入れ認めることです。言い換えれば、「神」に対して心を開くことができるかどうか、しかも「贖罪の神」に対してです。神の贖罪による愛と憐れみに出会い、本当の希望に目覚めて、神の愛に対する信頼のもとに身を委ねることができるかどうか、であります。すなわち、世界でたった一つの出来事、主イエス・キリストの十字架による贖罪を受け入れるかどうか、という一点にかかるのです。先ほど、キリスト教文化や社会習慣の次元では決して届かない課題である、と申しました。極論すれば、クリスチャン家庭であっても、教会員であっても、その社会性や文化習慣の次元をさらに深く踏み込んで、「贖罪の啓示」そのものに触れる「信仰」の次元で、すなわち超越の次元で「罪」と向き合い、贖罪の神と出会うことが、ここでは深刻に問われます。確かに、クリスチャンとして教会員として教会生活を守るということは、決定な重要な意味を持ちます。いわば、そこにすべての「出発点」はある、と言ってもよいでありましょう。まずは地上から神に心を向け、神の贖罪に触れる、という出発点に堅く立つことです。しかし問題は信仰の出発点に立つだけでなく、本当に信仰という道を踏み出し信仰という地上と人間の力を超えた「天」との関わりに生きる、そして生きた永遠の神との交わりを実際に始めるのでなければなりません。言い換えれば、常に神の存在と力を認め、神の啓示を受け入れ、そして命の事実として新たに生まれ変われるかどうか、その一点にかかるのです。そこにこそ信仰の出発点があるからです。キリスト教文化や社会の営みでは、その信仰の質的な出発点には触れることができずに、入り口の前で門の前を素通りしてしまうことになるからです。そして余りにも多くの人々が、その文化と社会の次元でとどまり、信仰を通して神と出会い、神と触れ、そして神のみわざによって生きるという本当の希望の出発点を素通りしてしまっているのではないかと思います。ヒューマニズムから信仰への転換が求められます。

 

6.十字架のことばを通して、神の怒りと贖罪のキリストに出会う

この「神の啓示」を、カール・バルトは、聖書のみことばの証言の中に、そして証言そのものであるキリストの十字架に見出しました。ルターやカルヴァンのように、神のことばに、神の啓示を見出し、生ける神の出来事と触れ、神と出会うことを明らかにしました。パウロは、ローマ書1章18節のみことばにしたがって、神の啓示であるキリストの十字架の苦しみと死において、そこで、私たちはまず「神の怒り」に出会う、と言います。私たち人間は、まずこの「唯一真の神」と向き合い、その「神」からの激しい怒りを受ける存在として、神の御前に立ちます。誰かが罪を身代わりに背負ったという曖昧な話ではありません。罪に対する神の激しい怒りと呪いの前で、神の御子が、私たちのために、深い愛と憐れみから、その怒りを背負うのです。したがって十字架の場は、一方で、罪に対する激しい怒りと呪いをもって迫る神と出会いますが、他方で、何よりも優れて、それこそ十字架において肉を裂き血を流し、私たちのために、罪の裁きを背負い、罪を償う神の永遠の御子と出会います。すなわち、わたしの罪に対して愛と憐れみをもって迫る神の御子と出会うのです。妙な言い方ですが、十字架において、私たちは神の怒りと呪いと出会う、同時にまた御子キリストの十字架の死と出会うのです。そして御子の十字架での死による贖罪を通して、唯一真の神である父・子聖・霊の神、三位一体の神を知り、真実な意味で、地上を超える永遠の神の世界へと初めて突き抜けるのであります。

それゆえ、自我欲求を中心にさまざまな神々を造り偶像化する自我の原理をそのままに残して生きる生活から、真の神に向かってすべてを方向転換するのであります。神のみことばを通して啓示される、神の御子イエス・キリストの十字架を知り、神の怒りの前で地上の罪を深く悔い、十字架における御子の愛と憐れみを心から受け入れて、十字架の血潮によって罪赦されて、「神」のもとに救い獲られるのであります。生きるべき命の質を地上の命においたままではなく、信仰によって命の質を神へと向かく命の質へと変えるのであります。罪と欲望に支配される地上の命とは質的に異なる、「神」の力と恵みによる「新しい生」を、歩み始めるのであります。信仰において、キリストの十字架のみことばを通して、私たちはまず、「罪」に支配された自分に注がれる神の激しい怒りと常に向き合うことになります。しかしそれでも、十字架のキリストに支えられ、信仰の門口にしっかり立ち、真摯にそして誠実に、直接「神の怒り」を受ける場に立つ経験をいたします。そこでは何一つこの世のものは通用しません。これまで生きてきた業績も名声も、弁明も弁解も、何を言おうと、神の怒りは激しさを増すばかりです。しかし反対に、みことばを通して啓示される、十字架上のキリストのお姿が見え始めて来ると、そこでは、激しい神の怒りと呪いを一身に受けているのはわたしではなくて、キリストご自身が痛み苦しんでおられ、ご自身のお身体の肉を裂き血を流して、私たちの罪を償うために「贖罪の死」に向かおうとするお姿が見えて来ます。キリストがわたしのために苦しみ死んで、命の代価を支払って、罪の償いを尽くしておられるのです。神の怒りのすべてを完全にご自身のお身体と魂において担い続けるのです。主イエス・キリストという永遠の神の御子が、わたしのために十字架の上におられる、ということを初めて体験するのです。それはただ神がおられるのではなくて、神の怒りと裁きをひたすらお受けくださり、私たちの罪を完全に償い尽くそうとされる、神の御子イエス・キリストが十字架の上に、おられるのです。

しかもこのキリストの十字架は、世界史の中に生起した史実であり、実際に神によって引き起こされた神の出来事であり、人類の歴史の中で生起した事実であります。聖書の証言者によって、この歴史の出来事となった十字架が鮮やかに示されます。「十字架」とは、「神の呪い」であり「神の怒り」の場であり、その象徴であります。この十字架について、カール・バルトは「神の告発は存続し、判決は執行され、神の怒りは爆発し、燃え、罪人を焼き尽くす」(『カール・バルト著作集』9、1971、398頁)と語り、十字架は、人類に対する徹底した神の怒りの場であることを説きます。しかしさらに大事なことは、この十字架においてこそ、「神の義が回復される」と説く点にあります。本当の不完全な人間による正しさや正常性ではなくて、神の完全な義と本来あるべき創造の原点が回復される場が現れたのです。私たちがこの世において幾度も絶望し続けて来た正義と公正、本来あるべきすべての形や状態が今この十字架を通して神の御子によって回復されようとしている事実と出会うのであります。それは、まさにこの世の人間に対する絶望であり、永遠の神に対する信頼と希望であります。嘘ではない、完全な真実が「十字架の死の苦しみ」を通して、そこに実現しているからです。この神の正義や愛が私たちの希望の基となるのです。新しい人類の拠り所となり、立つべき出発点となるのです。

 

7.十字架と復活の「信仰」から、十字架と復活の「受肉の身体」に

十字架におけるキリストの贖罪の死は、この世界史の史実として人類のただ中に生起し実現した神の義と希望であります。それは私たちの「生きる基」となり「未来の希望」となります。まさにこの命の義と希望は、この世における私たちのわざでは実現することはできない、キリスト教という文化や社会の次元にとどまるものでもなくて、ただ神の独り子である主イエス・キリストによって、そのみことばを通して啓示される、天からの恵みとして、しかお無償で私たちのために与えられた神の義であり、希望であります。この信仰の経験は「神の恵み」の経験として与えられ、また十字架におけるキリストの贖罪として経験され、そこで初めて唯一真の神の正義と愛に出会い、真実の希望を知り、真の生を生きる根拠となるのであります。このように実際にわたしたちの歴史の中で、主キリストは十字架という「神の呪い」の中でご自身の肉を裂き血を流して、人類への神の怒りと裁きを完全に担い背負われて、贖罪の死を遂げられました。問答41に「それによって、主がほんとうに死なれた」とありますように、「それによって」すなわち「神の怒り」「神の呪い」を、私たちのために完全に引き受け担うという贖罪のために、実際に事実として死んだのだ、ということを示しています。この十字架のことばにおいて、つまり十字架のみことばを通して、私たちは決定的な体験を経験します。それは問答44の示す通り、「わたしの主キリストは、わたしのために魂の底から十字架に至るまで絶えず痛み苦しまれ、その言い難き苦痛と恐れを通して、わたしを地獄の拷問と苦痛から代価を支払って贖ってくださったのです。」という体験をもって、神を鮮明に認識するに至るのであります。

しかしこの告白には大きな前提があります。この信仰告白を可能にし実現している大前提です。みことばを通して啓示される「罪の自覚」や「贖罪の信仰」は、確かに決定的な意味を持ちますが、しかし、そうした自覚的な「信仰」以上に忘れべからざる、遥かに大切なことは、その大前提となる肉を裂き血を流して贖罪の死を遂げられた「キリストの身体」そのものの存在です。御子が受肉した身体であり、十字架において贖罪の死を遂げたお身体であり、そして三日目に復活して天に昇られた御身体が、ここにある、という大きな事実であり現実を忘れてはなりません。そのお身体においてこそ、新しい生と世界は現存しているからです。信仰という認識や信頼、そして意識や自覚では、まだだめなのです。「キリストの贖罪」という認識や信頼を保証する根拠とその大前提は、まさに贖罪そのものを成し遂げた「受肉のキリスト」にあります。もう少し厳密に言えば、そのキリストの痛み苦しんで実現したキリストの身体が、しかも死の贖罪を完了して、三日目に「復活」という新しい命の祝福を獲得し、天に昇られた「キリストという受肉の身体」があるのです。その十字架と復活を貫かれたキリストの身体に私たちは結ばれて、贖罪の死を経験し、主の復活の身体と一体の身体として新たに永遠の命に生まれ変わり養われて、復活の命を生きている、という大前提です。ただ贖罪という観念や思想がそこにある、というのではないのです。そこには、現実にお身体をもって肉を裂き血を流して、私たちの罪を償い尽くして、苦しみのうちに贖罪の死を遂げた、キリストとその御身体がある、ということなのです。永遠の御子キリストは、その身体において、私たちは神に義と認め、新しい命の祝福をもって復活へと招くのです。「キリストのお身体」がここにある、という現実において、この救いははじめて実際の「力」を持つのです。そのお身体に、私たちは今、聖霊とみことばの働きを通して、そして洗礼と聖餐に与ることで、キリストの身体として一体に結ばれています。キリスト教信仰や教会において、そしてキリスト教社会や文化において、もっとも重要なことは、このキリストの身体をもって、キリストの十字架における贖罪とキリストの復活における新しい生を得ている、という所にあります。ユダヤ教やイスラム教も含めて、ほかの諸宗教と、キリスト教はどこが違うのか、その究極を言えば、それは、キリストの十字架と復活の身体がある、という点に尽きるのではないかと思います。そして私たち自身が、そのキリストの十字架と復活の身体とされている、という所にこそ、救いの現実と確かさがあるのです。