「礼拝説教」カテゴリーアーカイブ

説教題:「弱さを誇る」

旧約聖書:エゼキエル書 8章1~4節
新約聖書:コリントの信徒への手紙二 12章1~10節
説教題:「弱さを誇る」  第二コリント書連続説教(23)
讃美歌(説教後):讃美歌21-451番
(説教者:武田英夫牧師)

パウロは、自分の論敵が、神の居られる天を見たという自慢をしていたことに対抗して、自分も14年前に第三の天、すなわち天国にまで引き上げられ、神の言葉を耳にしたことがあると言って、あたかも他人のことのように話し始めています。

そのように話すのは、決して自分の自慢のためではなく、むしろそのように素晴らしい経験をした者であるにも拘らず、自分には一つの「とげ」が与えられていると言う自分の弱さを述べるための前置きとしてでした。

パウロの「とげ」とは諸説があって確定はできませんが、目の病気説やてんかん説などがあり、身体上の強い苦痛を伴うものであったようです。

パウロはそのとげを取り除いて下さいと何度も神に祈り願っても、その通りには成りませんでした。だが、それは祈りが聞かれなかったのではないのです。神からの応答は「私の恵みは あなたに十分である。力は弱さの中に十分に発揮されるのだ」というものでした。

神さまは人間の願いを忠実に実行する手足ではなく、人間をよく知った上で、最善を与えてくださるお方です。

重い障害を持ちながらも伝道に励んでおられる方々が居られます。その方々は、「神は何もしてくださらない」というのではなく、その弱さを神さまから与えられた賜物とさえ受け取って、その境遇の中での最善を尽くして居られます。主イエスさまが「悲しむ人々は幸いである。その人達は慰められる」と言っておられることを信じて行きましょう。

説教題:「聖霊と永遠の命」

旧約聖書:詩編30編2~6節
新約聖書:使徒言行録2章1~13節
説教題:「聖霊と永遠の命」
讃美歌(説教後):讃美歌21-120番
(説教者:武田英夫牧師)

私たちの教会では、最近は聖霊降臨日(ペンテコステ)の前後に逝去者記念礼拝を行うことにしています。今年は、丁度この日に記念礼拝をすることができました。ペンテコステとは主イエスさまが十字架につけられた過越祭の日から50日目にあたる五旬祭のことです。この日、一堂に集まっていた信者の群れに聖霊が降りました。

聖霊は天地が創造された時から、神の霊として居て下さったのですが、特に十字架の死から御復活なさった主イエスさまの代わりとして私達のそばにいてくださるお方なのです。その聖霊に満たされた信者達はガリラヤの人たちなのに、他国の言葉で神さまの偉大な業について語りだしたのでした。

エフェソの信徒への手紙1章14節には「聖霊は私たちが御国を受け継ぐための保証である」と記されています。御國を受け継ぐとは、永遠の命を与えられて、神と共に住むということですから、私達に聖霊が宿っていることは永遠の命の保証が与えられているということです。

私たち一人ひとりに聖霊が豊かに注がれ、主にあって先に召された信仰の先輩達と共に、神さまの前に立ち、主に贖われた者の感謝と喜びの食卓に共に与ることができるようにと祈るものでありたいと思います。

説教題:「イエスさまと共に歩む」

旧約聖書:ヨブ記 19章25~27節
新約聖書:ルカによる福音書 24章13~32節
説教題:「イエスさまと共に歩む」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-333番
(説教者:武田英夫牧師)

その朝に主イエスさまがご復活された日の午後、まだ主の復活を信じていない二人の弟子達がエルサレムからエマオに向かって歩いていました。もう頼るべきお方が居られなくなったといって、絶望しきっていたことでしょう。

二人は三日前の主イエスの十字架について話し合っていました。そこに後ろから近づいてこられたのはその御復活のイエスさまでした。しかし二人の弟子達はそのことに全く気付きません。

16節には「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と記されています。主イエスが「やり取りしているその話は何のことですか」と聞かれますと、弟子達は当の主イエスに向かい「あなただけはその大事件のことをご存知なかったのですか」と答えました。

エマオで一緒にお泊りになられた主イエスさまが夕食の時に、パンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになられた(30節)時、弟子達はやっと目が開かれて、その方が主イエスさまであると気付かされました。「イエスは今も生きておられる」(23節)と証言されています。主イエスはいつも私たちと共に歩んで下さるお方です。

本日、洗礼を受けられた姉妹も共に与ることができる聖餐は、常に私たち全ての信徒にとり、主イエスの十字架を思うための記念なのです。

説教題:「私たちの本国は天にあります」

旧約聖書:詩編 46章2~4節
新約聖書:フィリピの信徒への手紙 3章20~21節
説教題:「私たちの本国は天にあります」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-507番
(説教者:武田英夫牧師)

パウロは大変誇らしげに「私たちの本国は天にある」(20節a)と言っております。この「本国」は別の訳では「国籍」となっています。それは、天の故郷とも言えます。天とは人間の力の及ばないところ、人間の限界を超えたところを指します。

いま神の右に座っておられる主イエス・キリストが、この世の私たちの許に降って来られる時があるというのです。このことを「使徒信条」も「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審き給わん」と延べています。

「審く」とは神さまによる最後の審判のことで恐ろしいと思われるかもしれませんが、恐れるのは神を信じようとしない人であり、主イエスさまを信じる者にとっては何ら恐ろしいことではなく、むしろ待ち望まれる日です。

20節bにも「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」とあります。さらに21節には「キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです」と続きます。

終りの日に私たちがキリストと同じ栄光の体に変えられ復活させられるとは何と嬉しい預言でしょうか。パウロはそのように約束をして下さる神さまがいつも共にいて下さることを誇っているのです。

説教題:「神に対して生きるために」

旧約聖書:詩編 53編1~7節
新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 2章16~21節
説教題:「神に対して生きるために」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-513番
(説教者:武田英夫牧師)

キリストの十字架の死は、神の体当たりの愛であるといえます。まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストが、ただ一回、過去、現在、未来をふくめた、すべての人間のために、十字架上の死を身に受けて下さったということです。

これにまさる救いがどこにあるでしょうか。パウロは、「わたしは神の恵みを無駄にしない」と言っています。

これは、このような神の恵みに対する絶対的な信頼を示す言葉なのです。キリストの十字架の前に、罪の故に、私たちは完全な自己否定を経験をいたします。

私たちは神に対して生きるために、キリストと共に十字架につけられなければならない者です。罪の悔い改めをしなければならない者です。しかし、そのことによって、本当の肯定を神から与えられるのです。惨めな姿であっても、ありのままのその姿で、最大限の肯定をもって神に受け入れられたのです。

十字架のもとにある完全な自己否定は、そのキリストの復活ということによって、大いなる肯定につなげられ、キリストと共に生きること、キリストに従うこと、神に対して生きることが、新しい命として与えられているのです。

キリストの前に常に悔い改め、感謝し、喜びをもって歩むことが出来ますように。

説教題:「新しく創造された者」

旧約聖書:イザヤ書 52章3~10節
新約聖書:コリントの信徒への手紙二 5章16~21節
説教題:「新しく創造された者」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-514番
(説教者:武田英夫牧師)

人は皆、天地の初めに宇宙の万物と共に神によって創造されました。しかし、人は神の戒めを完全に守ることはできなかったために、神から離れる者になりました。そのために神さまは御独り子、イエス様をこの地に生まれさせてくださいました。そして神さまは主イエスによる十字架と復活とを信じるものが一人も滅びないで救われることを約束してくださいました。

パウロは今、「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです」と述べています。つまり、洗礼を受け神さまに従ってゆく約束をした人には、その天地創造に匹敵する新しい創造がなされたのだというのです。

パウロは「神と和解させていただきなさい」と述べています。それは神さまとの正常な関係にない、神様との敵対関係の状態を解消し、神さまに従ってゆく者になりなさいということです。それはキリストと結ばれることによって実現すると教えられます。

キリストと結ばれるとは、神さまの愛の対象として造られた私たちが、その愛を受け入れて、日々神さまと出会う者になることです。そのとき、「古いものは過ぎ去り、新しい者が生じた」と言われるのです。

このような神との和解は決して私たちの努力の結果与えられるものではありません。主イエスの十字架という、驚くべき御業の結果なのです。

説教題:「内なる人は日々新たに」

旧約聖書:詩編 116章1~16節
新約聖書:第二コリント書 4章12~18節
説教題:「内なる人は日々新たに」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-403番
(説教者:武田英夫牧師)

第二コリント書4章16節に「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます」とあります。これは単に色々なことに決して落胆しないというのではありません。

ここでの「外なる人」とは外見とか自分に今起きている事柄だけではなく、信仰から離れたことの全体に関わる人を指し、一方「内なる人」とは神さまから信仰面での導きを受けている人を指します。そこで、信仰以外の面で、どのように弱り衰えていくように見える人でも、信仰上では神に導かれている人である私たちは、決して落胆しないと言っているのです。

パウロのような伝道者の生活では外なる人としても多くの困難があったのですが、それが如何に大変であったとしても、新しい希望を持って自分の伝道者としての義務を全うするのだという決意を述べているのです。

私達にとって、信仰と関わりない面での困難は幾らでもあります。神さまを信じている人も信じていない人と同じように色々な困難に出会うとしたら、一体何のために信仰しているのかと言う疑問を持つ時もあるでしょう。でも、内なる人の信仰があれば、そのような積み重ねによって内なる人としての信仰が日々に新たにされ、強められて行きます。それが、過ぎ去り行く見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ人の信仰なのです。

説教題:「全能の神さま」(家族礼拝)

旧約聖書:創世記 1章1~5節
新約聖書:ヨハネ福音書 1章1~5節
説教題:「全能の神さま」 (家族礼拝)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-6番
(説教者:武田英夫牧師)

「全能の神」というときの全能とは何でもできるということです。「どんなことでもできる神さまに、何でも祈りなさい」と言われますが、しかし早まってはなりません。

私たちの祈ることは何でもそのままに叶えられるということではありません。何故なら人は自分勝手な願い求めをすることが多いからです。ですから、私たちは祈るとき「み心ならば」と神に願うように教えられています。でも私たちが祈る時、神さまが私たちの祈り求めに耳を傾け聞いていてくださることは確かなことです。

では、神の全能はどこに現わされるのでしょうか。その第一は創世記に記されていた全世界の創造でした。どのような物もそれを造った人が居るように、光も太陽や月も地球も動植物もそして人も、神さまが、イエスとして生まれられる前のキリストと共にお造りになられました。私たち自身も親だけではなく神様の御心によって造られた者であることを忘れてはなりません。

神の全能の第二は主イエスによる愛の業に現わされています。神に背いてばかりいる人間の罪を赦してくださるために主イエスさまは十字架にかかって下さったのです。主イエスは人間の最も低いところにまで降りて来られたのです。

説教題:「主イエスの十字架のみを誇る」(ガラテヤ書 連続講解 第17回)

旧約聖書:エレミヤ書 4章1~2節
新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 6章11~18節
説教題:「主イエスの十字架のみを誇る」(ガラテヤ書 連続講解 第17回)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-297番
(説教者:武田英夫牧師)

今日の御言葉は「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と告げます。わたしたちにはこの世の中にあって、誇りたいものが多くあります。自分が達成した成果を、そのために大変苦労し、努力したことと共に、他の人たちに認めてもらいたいのが、ごく一般的な私たちです。

しかし、そのような、あの事この事にもまして、主イエスの十字架ははるかに素晴らしいのです。従って、私たちが誇りたいこの世の中のあれこれは「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」と述べて、あらゆることが誇りではなくなると言います。これと同じ趣旨はフィリピの信徒への手紙3章8節にも「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています」と述べられています。

パウロが6章11節に、このガラテヤの信徒への手紙を終えるに当たって「この通り、私は今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」と述べているのは、このガラテヤ書6章10節までのことの総まとめとしての強調なのです。ガラテヤの信徒への手紙での中心課題は「割礼」でしたが、パウロが「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです」と述べているように、聖霊に導かれて洗礼を受けた人は、新しく信仰者としての命を与えられ、聖霊に導かれた人生を歩む者とされているのです。感謝しましょう。

説教題:「皆、キリストを着ている」(ガラテヤ書 連続講解 第9回)

旧約聖書:詩編 93章1~5節
新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 3章23~29節
説教題:「皆、キリストを着ている」(ガラテヤ書 連続講解 第9回)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-438番
(説教者:武田英夫牧師)

本日のテキストの中、27節に「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ている」とあります。

「キリストを着る」とは、自分の罪を自覚し、とても神さまの前には出られないと思っているような人にも、主イエスキリストという衣服を着せていただき、それで着飾って神の前に出られるようになるということです。

このことに相応しい主イエスの譬え話がマタイ22:9~14にあります。ある王が王子のための婚宴を催したが、欠席者ばかりであったので、王は、僕に誰でもよいから連れて来なさいと命じました。そこで多くの人が招かれましたが、一人だけ礼服を着ないで来ていた人を王は怒って、その無礼者は外に放り出せと言ったというお話です。

これは皆が同じように祝宴に招かれているのに、一人だけはその祝宴に相応しくない姿であったということです。私たちも、自らは神さまの前には相応しくない者であるのに、キリストという礼服を着せられた者として、神の前に出てゆくことが許されているのです。キリストを着るということは、主イエス・キリストによる福音を受け入れたことであり、それまでは律法が私たちをキリストに導く養育係になってくれたのです。

養育係は幼い子供を危険等から守るための付き添いの役割です。主キリストが来てくださった時までは立派に養育係としての役割を果たしてくれた律法は、今や新しく現れたキリストの福音に取って代わられたことになるのです。